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2012年7月

2012年7月22日 (日)

紛失状案文中の外題安堵について

 益田家文書中の紛失状案文8通(『大日本古文書』の番号だと1号の4から11まで)の中に、2カ所「外題安堵」が含まれていることについては、「益田祥兼紛失状案文」で述べたとおりである。この8通を久留島氏が2グループに分けて考えていること、併せて②の中に①を加えたとの久留島氏の説に対して、①が先に成立し、後に②が加えられたことも述べた。確かに紙の大きさ(縦の長さ)に差があり、2つに分かれるとの見解は妥当である。
 福田氏の説、そして以前の自説では11(藤原兼季解状案)の前の外題安堵を10(義経下文案)に対するものとしたが、10と外題安堵の間に紙の継目があり、両者の紙の大きさが違うことからして成り立たない。久留島氏は②の中に①を加えたと述べられたが、確かに9の範頼下文案に続いて外題安堵があったのを、両者を切り離した上で、紙の大きさの異なる10の義経下文案を間に入れてつないだ形である。こうすることによって、9の範頼下文案と10義経下文案の両方の外題安堵としようとしたのであろう。だからといって久留島氏のように②が先に成立していたところに①を加えたとはならず、①の方が古く先に作成されたが、この2通のみでは不十分であったため、②の6通が作成された。これは編年順であったろう。
 ところが、②には兼高が単独で所領を安堵された10が含まれておらず、外題安堵が兼高(経)に安堵した形となっていることに矛盾すると考えたのであろう。そこで①を加えて、貼紙に付した朱の番号のように、兼栄・兼高父子、兼高、兼季に分けて並べ変えた。この前段階では3の末尾に外題安堵があるのと同様に4の末尾に外題安堵があった。ところが、それを並べ換える際に、紙の切断と新たな紙継がなされた。
 ところが、11の外題安堵とした場合は、11が兼季解状案でありながら、外題安堵の内容は、兼季の父兼経(恒)の解に任せて兼経の知行を安堵しているという問題が出てくる。兼経が解状を提出し、その証拠として益田氏領を最も包括的に示す範頼下文にも外題安堵を記したということなら十分想定できる。紛失状案文そのものが失われてしまった原文書を記憶に基づき復元するというものなので、間違いを含むといえばそれまでだが、可能な限り性格に復元しようとしたものであろう。

2012年7月16日 (月)

益田家文書中の義経発給文書

 益田家文書中のいわゆる紛失状案文の中に、2通の義経を発給者として想定された文書がある。元暦元年5月日源義経下文案と元暦2年6月日源義経下文案である。紛失状案文全体について検討の余地ありとされた福田栄次郎氏は、田中稔氏の説に準じながらも、この2つの文書の間にある元暦元年11月25日源範頼下文案を併せて考えると、元暦元年5月、11月、元暦2年6月と短期間に石見国の管掌者が交代していることと、元暦2年5月の義経の鎌倉下向と頼朝との対立(いわゆる「腰越状問題」)からして、義経が石見国を管掌したとみるのは不自然である、と評価した。
 ところが、近年の研究では、義経と頼朝の対立時期について、元木泰雄氏や保立道久氏から疑問が出され、「腰越状」は『吾妻鏡』編纂者により偽作されたものとの説が有力になってきた。元木氏と保立氏の間にも対立の開始時期に差は若干の差が見られるが、より早い時期を想定する保立氏は元暦2年6月13日に頼朝が義経に与えていた所領を没収した(正確には義経が頼朝に代わって安堵していた所領を頼朝が直接安堵した)ことをもって両者の対立が生じたと考えている。そうすると、6月の義経下文は頼朝と義経の対立を考える重要な史料であることになる。この義経下文案では頼朝の意向を伝える形をとって兼高領を安堵する形をとっており、保立氏が対立が開始された6月13日以前のものとなる。
 元木氏は対立が決定的となるのは8月末の義経の伊予守補任であるとする。これにより検非違使・左衛門尉を解いて義経を鎌倉へ帰還させるはずが、後白河の意向で義経が兼任を続けたことにより、対立が深まったと。
 福田氏の疑問には根拠があるが、その一方で、元暦元年11月の下文が兼栄・兼高父子に所領を安堵したものであったのに対して、元暦2年3月の平家滅亡をうけてだされた下文は兼高のみに安堵しているのが特徴である。壇の浦合戦で平家を滅ぼした第一の功労者は義経であり、その義経が壇の浦合戦の勲功に応える形で安堵するのも当然のことと考えられる。久留島氏が5月27日大江広元奉書を元暦元年に比定されたのも、義経と頼朝の対立を勘案されたのであろう。この時期義経は鎌倉ないしその付近に滞在しており、大江広元奉書を受け取った後、京都に帰還したことになる。
  この兼高について、紛失状案文中の外題安堵では「兼経」と、そして建仁3年12月日藤原兼季解状案では「親父権介兼恒」と記している。これによれば兼高が「兼経(恒)」と改名し、それは建仁3年段階でも変わっていなかった。義経との関係で「兼経」と改名した可能性が高いが、義経没落後もそれを使い続けたことになる。
 紛失状案文は福田氏の指摘のように後に作成されたもので、その年代を比定することそのものが疑問だとの意見もあろうが、それを踏まえた上で比定することに意味があるとの立場で述べている。元暦元年5月日梶原景時下文案では、石見国に対し、出雲国謀叛輩岐須木次郎兄弟と横田兵衛尉等を打進めることを命じているが、以前は岐須木氏については「平家物語」の一ノ谷合戦に見えないとされていたが、古本をみることにより「木次氏」の参加が確認された。原本ないしはその正確な写しは失われていたが、ある程度の情報が残された中で、紛失状案文は作成されたと考えられる。

2012年7月11日 (水)

松田左近の墓

 松江市福原町と本庄町の境目に「松田左近の墓」がある。白髪(白鹿)城主松田氏の墓だというが情報に不明確な点があるので、整理してみる。松田左近は毛利氏の攻撃で白鹿城が落城した際に死亡したとされる。
 松田氏は安来莊地頭であったが、室町後期には美保関、法吉など島根郡にも勢力を拡大していた。元亀2年3月に尼子勝久から安堵された所領はやや割り引いて考えなければならない面もあるが、松田氏の勢力を考える参考となる。従来の研究では応仁・文明の乱で尼子氏に敗れ、その勢力下に入ったとされてきたが、先入観にとらわれた根拠なき説であり、残された古文書を見る限り、文明年間の松田氏を中心とする一揆を尼子氏は鎮圧できず、かえって松田氏の勢力と結ぶことによって、尼子氏が守護京極氏の支配を空洞化していった。
 「戦国期の松田氏」でみたように、史料で確認できるのは、大永年間の「宗政」、天文年間の「経通」、そして元亀年間の「誠保」である。軍記物では、毛利氏の出雲攻めに際し、松田兵部誠保が一旦は毛利氏方となったが、本庄常光殺害により尼子氏方に戻ったことが記され、次いで白鹿城攻防戦を記す。『雲陽軍事記』では城主松田兵部(左近の子で、母が尼子政久娘)は隠岐へ脱出したが、その他の一族は常福寺普門西堂(左近末弟)とともに自害したと記す。
 登場人物を後の肩書きで記すのは軍記物の常であるが、整理してみると、松田左近と弟西堂らが自害し、左近の子には兵部(後の肩書きで、当時は子どもか)誠保などのように脱出したものがあったのだろう。誠保の妻が尼子政久娘(晴久姉)するものがあるが、晴久と同時代なのが父左近で政久娘と結婚し、生まれたのが誠保以下の子達であったとすべきである。
 ということで、「松田左近」とは誠保の父であり、その妻(その墓は別の場所にある)・弟などとともに白鹿城が落城する際に自害したのに対して、その子は再起を期して家臣に伴われて脱出したのだろう。左近の名は不明だが、天文年間の松田経通本人かその兄弟であろう。

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