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2012年4月

2012年4月30日 (月)

格安のリターンとリスク(2)

 ウィルスソフトも最近ではマイクロソフトやジャストシステムから無料で利用できるものが提供されている。数多くのPCを利用していることもあって、最近はマイクロソフトのものを利用しているが、自分の利用範囲ではこれで問題はない。ちなみにこれまでウィルスに感染したことはない。
 いずれにせよ自分のことならば、かなりの程度自分で考えて対処できるし、判断があやまりであった際の責任も負うことができる。ただ、これが他人のこととなると、同じ判断はできない。よりリスクの低い選択を勧めるであろう。原子力発電所の場合も、以前から活断層の問題点が指摘されてきた。日本における事前のアセスメントのほとんどは開発を正当化するためのものであり、安全性を確保する観点はほとんどなかった。道路や空港を整備する際には安全性だけでなく、利用人数なども水増しされて計画が立案され、完成後その対費用効果に疑問が出ることとなる。おそらく、そのような判断をした人に問いだだしても、「自分だけではない、誰だってそう考えるのではないか」と答えるであろう。そうしないと(活断層についてはないこととし、安全性の欠如には目をつむる)事業を進めることはできないのだから。ただ、それで事故が発生した場合は、「そんなことが起こるとは思わなかった」と答えるだろう。このような思考停止が社会のあらゆるところで起こっている。
  「安全の確保を前提として再稼働を行ってほしい」とは経済界と原発を抱える自治体からのコメントとしてよくみられるものである。経済界には電力会社も含まれており、経済団体として様々な安全性を評価できる組織を設立すべきである。その努力はないままに、安全であろうとなかろうと政府の側から「安全である」と言ってほしいのである。そうすればとりあえず自らが責任を問われることはない。ただ、今回の東日本大震災の状況を見れば、自らを含め社会全体に大変なマイナスをもたらしたのである。とりわけ地震が多く、国土の狭い日本では、安全性を確保しないままの原発の推進は明確に誤っていたのである。その反省に立った選択が経済界に求められているが、今のところそのような動きはほとんでみられない。この点が現在の日本の最も深刻な問題である。

格安のリターンとリスク(1)

 3月末に出張で東京へ行った。実費が支給されるが、飛行機はいつの時点で切符を買うかであまりにも金額が違う。かなり早い段階から決まっていればよいが、そうでない場合もある。今回は1ヶ月前に決まったが、時間の余裕がないのでいつの時点で購入するかで悩むことを避けるためJRで行くことにした。ただ、時間の有効利用を考えて寝台特急としたが、飛行機か新幹線以外は理由が必要とのことで事前に申請した。また寝台は選択肢が複数あり運賃も違うので、安価なものを選び事前に領収書のコピーも送った。
 同時期に子どもも私用で東京へ行くということであったが、これも直前まで決まらず、夜行バスとなった。ただ、これを選ぶ際に通常の半額程度のバスが複数運行していることを知った。通常の便は横3列で独立した座席であるが、格安バスは通常の観光バスと同様の横4列のようであった。本人は初めての夜行バスであり、通常のものを選んだが、直前でもあり、残りはわずかであった。これがなければ格安を選ぶが、寝台を選ぶかであった。
 自分の方が1日早く寝台で出発したが、山陰線の途中で原因不明の停車があって、20分ほど停車し、到着時間も若干遅れた。以前寝台を利用した際は進行方向に対して90度(横向き)であったが、今回は進行方向に寝る形であった。そこそこ睡眠をとることができたが、やはり飛行機の方が楽か。
 以前、耐震偽装の問題があった。格安でマンションを購入でき、とりあえず利用する20年程度の間に地震がなければ、欠陥が表面化することはない。うまくやったことになろうが、現在では地震が発生する可能性は以前より高いと受け止められている。問題はリスクを自分でどのように評価するかであろう。

2012年4月22日 (日)

益田氏系図(3)

  次に国兼の後継者とされる「兼真」についても記述の変化がみられる。名前も「兼実」、さらには鈴木氏本のみにみえる「季兼」もある。そして肩書きが、竜雲寺本・鈴木氏本・群書類従本では「案(安)主大夫」であるのに対して、譜録以降「按察使大夫」という表記に変わる。前者が国衙に関する役職名であるのに対して後者は中央政府における官職名である。国兼の官職名と同様の意図に基づく変更であろう。
 そして最大の問題が、前にも述べたが、『源平盛衰記』などで一ノ谷合戦に参加した武士としてみえる「安主大夫」と一致することであろう。さらに、国兼が12世紀半ばの人物ならばその子兼真(兼実、季兼)の活動時期は12世紀後半で、その後継者とされる兼栄-兼高父子と重なってしまうのである。13世紀前半の惣領兼時は国兼から自分に至るまで六代であると述べており、これらを整合的に解釈すると、6代はすべてが親から子への相続ではなく、兄弟間で惣領が交代したと考えなければならない。それが兼真と兼栄の間であろう。益田氏系図一本には、兼栄について長寛2年正月27日に高津本郷下司職に補任されたことを記している。すると、兼栄は本来、益田氏庶子で高津郷を支配していた一族ということになる。承久の乱後に惣領兼季が掃部助仲弘と飯田郷の支配を争っているが、兼栄-兼高-兼季の3代知行は間違いないとして勝訴している。長野庄内の高津郷もまたこの飯田郷とともに兼栄の代に獲得したものであった。
 12世紀末の兼栄-兼高領と13世紀初めの兼季領は石見国全体に及んでいる。石見国久利郷などを支配する久利氏と出雲国の在庁官人筆頭朝山氏の事例からすると、益田氏一族で所領の分割相続が進んでいたことが推定できるが、実際には兼栄-兼高父子と兼季はともに一人で広大な所領を支配しているのである。その原因として、益田氏一族の中にも平家方となって没落したものがおり、兼栄-兼高父子は頼朝方となることにより、一族領の大半を恩賞として与えられたとしか考えることができない。

益田氏系図(2)

 この1月間更新していないが、環境の変化により考える余裕も書く時間もなかったためである。余裕は依然としてないが、少しずつ書き始めたい。
 益田氏系図の中で、始祖とされる国兼がどのように記されているかを最初に述べる。多くの系図に永久年間に石見国に国司として下向したとされており、これまではこれを前提に述べられてきたが、実は譜録成立以前の系図には記されていない。最も初期の形を残す竜雲寺本には、「権太夫」と記すのみ。次いで古い鈴木氏本にもそれに「号御神本」を加えるのみ。そして群書類従本には、「越中守」と「建仁2年3月21日」に石見国守護として下向したとするのである。国司ではなく守護としたのは鎌倉幕府との関係を重視したのだろう。
 ところが、こうすると国兼の2代・3代後になる兼栄・兼高父子の活動年代=治承・寿永年間が逆転するという矛盾が生じるのである。それをなくすために永久年中下向という記述が記されたのであり、本来存在したものではない。当初の権太夫に「越中守」が加えられたのは南北朝期に惣領となった兼見との関係であろう(この点については後述)。そしてさらに権威付けをはかるため「従二位・大納言」が加わったのであろう。それを踏まえずに、永久年中に国兼が下向したのは益田か国府のあった伊甘郷かと議論しても始まらない。国兼は石見国司藤原国保とその後任の源季兼との関係から12世紀中頃の人物と思われる。

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