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2012年2月

2012年2月26日 (日)

タッピング無効

 FMVS8390を利用し始めて困ったことは、タッチパッドに触れるとカーソルが飛ぶ現象である。それではいつものように設定で「タップ」無効にしようと思うが、そんなタブはない。ドライバーがwindows7で、出しなのものなので、アルプス(この時点で確認した)の新しいドライバーに更新してみるが(この機種用はアップされていない)、やはりタブがない。ネットで同様の例を探したところ、レノボや東芝ではアルプスのドライバーの少し古いのを宛てて解決した例があったので、他社ドライバーも試した。ついでにデルのドライバーも。だが「タップ無効」のタブは現れず、このモデルはハードで対応してないような気がしてきた。
 一方では「そんな馬鹿な!、このPCは、知る人ぞ知る、入力のしやすいPCである。」「そのPCでタップが無効にならなければ、高速道路が大渋滞、それも永遠にということだ」と思うが、これまで使用したs8350や8360とくらべてストロークがやや大きい気はする。
 わらにもすがる感じで、一つ前でハードウェ的には同じはずのs8380のドライバーをみてみると、こちらはシナプスのドライバーとなっていた。タッチパッドはハードが変更されたようである。また、「アルプス シナプス」(実際はアルファベッド)で検索すると、奇特な(?)人がおり、アルプスのタッチパッドにシナプスのドライバーを入れるという無茶なことをしており、結果は、細かな機能以外は問題なく使用できるとの報告であった。
 となれば残るは、s8380用(windows7)のシナプスドライバーを入れるしかないということで、実行した。すると、他社用のアルプス用ドライバーを入れた際には再起動時に文句が出たが、何の警告もない。そして設定をみると、タップを有効にするところがあり、チェックを外したところ、見事にタップが無効になり、深刻な問題は解消した。とはいえ、この問題で3時間もの時間を使ってしまったのは悔いが残る。
 あくまでも自己責任での対応となるが、このようにすれば、s8390の使用環境は快適なものとなる。最後の確認ということで、PCWIZARD2012で確認すると、さっきまでは「アルプス」であったのが、いつのまにか「シナプス」に変わっている。ハードの差はほとんどなく、ドライバー次第なのだろうか。
 念には念をということで、添付されたドラーバーDISKの中身をみてみると、なんとXP、VISTA、7ともにシナプスのドライバーではないか。このPCは最近オークションで手に入れ、最初に使用した際には何の問題もなかった気がするのだが、7のSP1を含め最新の状態にアップした中で、アルプスに変わってしまったのだろうか。最後にとんでもない落ちがついた。ちなみにDELLのE6400の方はアルプスであった。それでDELLも試したのだが。

2012年2月25日 (土)

尼子晴久の守護補任と寺社造営

 塩冶興久の乱の原因で、尼子氏の寺社造営についてみたが、これが一番集中しているのは、尼子晴久の守護補任から修理大夫補任にかけての時期、天文21年から24年にかけてである。伯耆国の2例を加えると23例もの造営が確認できる。その内約半数の11が尼子晴久ならびに新宮党(国久、誠久、敬久)が願主となっている。そしてその間に尼子晴久による新宮党討滅が行われた。大原郡久野郷鎌倉大明神については、大中臣が16世紀初めまで地頭として支配していたが、この段階で、母親が尼子氏出身である馬田氏のもとで代官を務める形となっている。
 佐々木文書では天文21年11月となっている修理大夫補任は天文24年初めのことであろう。以下では順番に記す。(?)とは願主が不明の意である。☆は出雲尼子氏史料集に掲載済みのもの。*棟札は残らず年月日のみわかるもの。
 天文21年4月  島根郡母里庄・西母里八幡宮(吉田兵庫助経永)
 天文21年4月  島根郡千酌・爾佐神社(尼子紀州国久)
 天文21年6月  仁多郡横田庄・岩屋寺本堂上葺(尼子民部少輔晴久)
 天文21年    大原郡近松庄・三所大明神(土屋大和守)
 天文22年3月  島根郡千酌・日御崎神社(尼子紀州国久)
 天文22年3月  飯石郡多祢(掛合)郷乙加宮・大歳大明神(尼子誠久ヵ)
  天文22年3月  神門郡常楽寺・山王神社(西谷才寿丸)
 天文22年6月  (大根島)波入・揖屋三所大明神(?)
 天文22年8月  出東郡建部郷・諏訪神社(米原平内兵衛)
☆天文22年9月  伯耆国船上山智積院(佐々木民部少輔晴久)
 天文22年9月  仁多郡横田庄・尾園八幡宮(多賀山通続)
☆天文22年11月 飯石郡多祢郷宮内村・日倉別宮(尼子誠久・敬久)
 天文22年    島根郡加賀庄円福寺・熊崎天王(佐々木戸部晴久外)
 天文23年4月  飯石郡三刀屋郷萱原神社(平?朝臣幸弼)
 天文23年6月  神門郡神西(稲頼)庄田儀・雷公大明神(尼子晴久)
*天文23年8月  能義郡安来町・賀茂糺神社(?)
☆天文23年8月  能義郡比田庄岩舟蔵王権現(尼子民部少輔晴久)
 天文23年    島根郡加賀庄円福寺・北八幡宮(尼子民部少輔晴久、誠久外)
☆天文24年9月  神門郡古志郷・比布智神社(古志宗信)
☆天文24年10月 伯耆国大山寺洞明院(佐々木修理太夫源晴久)
 天文24年11月 大原郡久野郷・鎌倉大明神(馬田慶信)
 天文24年11月 飯石郡須佐郷・十三社大明神(尼子修理太夫晴久)
 天文24年11月 神門郡神西(稲頼)庄久村・国村神社(平通盛朝臣)

神宮寺について(11)

 佐草自清の記録により、神宮寺が出雲大社の東側、現在の北島国造館の場所にあったことは確実である。関連して、大日堂と本願屋敷があった。これについては、寛文7年の遷宮時に作成された絵図があり、その写とされるものには地名と施設名が記されており、当初はそれに基づく梶谷実氏の論文「慶長絵図の考察-紙本著彩杵築大社神郷絵図」(『大社町史研究紀要』1)に依拠した『名草神社三重塔と出雲大社』を参照していたが、それ以後、千家和比古氏「出雲大社の、いわゆる神仏習合を伝える絵図の検討」(『古代文化研究』4号、1996年3月)の存在を知った。あわせて梶谷氏論文も確認したが、絵図の写に記された地名・施設名については、個々について検討しないと利用できないことを知った。都市杵築についての長谷川博史氏の論文でも杵築の地図が絵図写に基づき作成されている。発表は1998年、論文集刊行は2000年で、千家氏論文がすでに発表されているが、情報が反映されていない。
 具体的には、朱塗りの本殿の東側に描かれるこれまた朱塗りの寺院について、絵図写には真言宗「大願寺」との注記があったが、『杵築古事記』(明治期の成立で要検討)によると、遷宮の少し前に焼かれている。そして遷宮に関する記録には「大願寺」については何も記されていないのである。そして千家氏論文の注で掲載されている富永家「深秘録」の図をみると、現北島国造館の西側の部分には、南から北へ「神宮寺」・「本願」・「大日堂」の順番に記されている。
 神宮寺が14世紀半ばの建立であるのに対して、大永年間に尼子経久により大日堂が建立された。この大日堂については千家氏の遷宮寺の日記には、神宮寺抱えと記されている。そして天文年間に富田洞光寺の末寺として本願(清光院)が開基されている。そして、本来は神宮寺の背後にあった「聖殿(宮)」を、出雲大社造営を担う本願(これは職名)が、境内の中に移したことも記されている。この「聖殿」が「三光殿」を示していよう。
 こうした本願の動きも、尼子経久による強引さとともに、両国造家にとっては不満の原因となったのではないか。神仏習合そのものを大社側が拒絶したのではなく、あまりにも強引な介入(北島国造は「国守の命には背き難い」ためと述べている)への反発が、幕府・松江藩の意向とあいまって、最終的な唯一神道という選択となったようにみうけられる。

2012年2月19日 (日)

cpu換装

 su9600はこれまで965GMのlifebook s8360に換装していたが、biosの問題で、起動時に必ず警告の表示が出た。そのまま継続すれば使えるが、省電力の活用には課題かあった。そこで、GM45に換装してみた。lifebook E8280はまったく認識せず、起動もしなかった。それに対してDell E5500は普通に起動した。BIOSを更新しているためか、それ以外の要因かは不明。sl9600はlifebook e8270で問題なく動いている。DELLで省電力といえば、E6400あたりにSU9600を換装できればよいか。sl9600ならlifebook s8380ないしはs8390で使うことは可能か。windows8の話題もちらほらあるが、GM45なら問題はないだろう。
追加 sl9600は予想どおりs8390で使用できたが、su9600は起動せず。E6400がまもなく到着するので、そちらにsu9600を組込んで、省電力ノートPCが完成するか。両者の最大の違いは、biosのアップが可能かどうか。FMVでもLookシリーズなら、su9600が動作しようが、なんと保守的な富士通さんか。それにしてもS8390 は14.1インチでWXGAなのがおしい。これがWXGA+ならとも思う。
追加 e6400が到着したが、su9600は惜しくも動作せず。e5500がOKだったのにとは思うがどうしようもない。購入時のP8400からP8700に変更したというこいとで自己満足。結局、su9600は元のさや(s8360)に収まった。

2012年2月18日 (土)

塩冶興久の乱の原因(2)

 永正5年に宣言し、同7年に柱立が開始された出雲大社造営は永正15に完成し、翌16年の遷宮で終了した。時間がかかったとの見解も可能であるが、この間、永正10年に嫡子政久が戦死したことも大きく影響したであろう。それと平行して出雲国南部と西端の国人の掌握が完了した。
 大永年間から国外への軍事活動が本格化するが、そうした中で行われたのが出雲大社のある杵築における三万部経読経である。具体的内容がわかるのは大永2年と享禄3年の2回についてであるが、清水寺との相論の中で、鰐淵寺側は「三万部者三ヶ度仁万部宛執行者也」と述べており、2回目は大永6年春に行われたと思われる。
 経久は法華経の信仰により大敵を誅伐し、獲得した所領や経典を諸国の堂舎へ寄進したことも記されている。実際に読経の直後に大規模な軍事的活動が展開され、最後となった享禄3年も同様の予定であったと考えられる。そうした中で塩冶興久の乱が起きたのである。この軍事活動にストップをかけるために乱が起きたのは確かであり、興久を中心に経久とは異なる方針で尼子氏政権を運営しようとの立場の人々が集結したのであろう。
 享禄2年から3年にかけて寺社に対する尼子氏の支配が強化されようとしていたことはすでに述べた。1回目の読経の前後には以下のように神社造営が行われている。
 大永2年10月飯石郡大呂村須佐八幡宮(赤穴久清)、神門郡塩冶郷塩冶神社(塩冶興久)、11月神門郡常楽寺山王社(亀井重綱)、12月大原郡大東庄下分稲荷社(馬田氏)、同3年9月保知石大明神(古志為信)、同年仁多郡竹崎村黒鳥神社(三沢為忠・為国)、同4年大原郡大東庄針江之村八幡宮(吉田氏)。
2回目の大永6年の前後にも以下の様な造営が行われている。
 大永5年8月神門郡三部祇園神社(亀井氏?)、同年大原郡神原村長谷寺(上葺、亀井能登守)、同郡福田庄砂子原日和大明神、大永6年11月大原郡金坂村大月大明神(金坂氏)、同6年能義郡梶福留八幡宮大永7年能義郡市中屋八幡宮、同年島根郡手結村津上神社
最後の享禄3年の前後も以下の通り。
 享禄2年10月神門郡窪田村妙見社(?)、12月飯石郡反部村剱大明神(尼子経久?)、享禄3年6月神門郡乙立村笈権現(?)、10月神門郡窪田村御先神社(?)、11月三刀屋天満宮(三刀屋為弼)、同年12月仁多郡横田庄尾園村本宮八幡宮(三沢為国)、享禄4年3月神門郡三部波加佐神社(?)、4月大原郡加茂村速玉大明神(源久隆)。
以上のように万部経読経と寺社建立、さらには国外への軍事活動が連動して行われているが、一方では大変な負担をもたらしたのも確かである。
 このような方針へのアンチテーゼとして塩冶興久の乱が発生し、出雲国西部の国人のみならず、宍道氏や多賀氏など尼子氏と深い関わりをもつ国人もこれに与同した。これが失敗したのは両者の共倒れを期待した大内氏が劣勢の経久側を支持したからである。

塩冶興久の乱の原因(1)

 塩冶興久の乱に関する長谷川氏の見解は以下の通り。
①尼子氏権力の出雲国西部や南部への浸透に対する根強い反発が存在し、そのような諸勢力が一致して興久を支持して引き起こされたものである可能性が強い。
②乱は出雲国西部や山間地域の主要勢力に支持された塩冶氏と、出雲国東部における基盤を固めてきた尼子氏との間の全面戦争に他ならない。
以上の点については特に異論はないが、問題は何故この時点に起きたかという点と、興久がなぜ反経久の立場を取ったかという点である。まさに尼子氏権力を浸透させるために塩冶に入ったのが興久であったのに。
 後者について長谷川氏の説は興久は経久の子である側面と塩冶氏当主であるとの2面性を有するが、後者の立場が勝ったというもののようである。ただ、なぜこの時期なのかについては言及がない。長谷川氏は別の箇所では永正5年に守護京極政経が死亡したことは尼子経久が守護権を継承しうる可能性を高めたが、仮に経久が京極氏の「守護権」を継承したとしても、出雲国においてそれを現実に公使できる領域は非常に限られていたと評価された。ただ、この評価は経久が永正5年に出雲大社造営を宣言し、翌6年には鰐淵寺に掟を制定することができたという事実と大きく矛盾するものである。また、長谷川氏は塩冶氏掌握が尼子氏による他国への侵略を可能としたとされるが、どの時点をもって塩冶氏を掌握したのかについては「少なくとも永正十五年以前」と述べられるのみで、何を以て掌握と考えるのかも不明である。
 これに対して軍記物は塩冶興久の所領加増要求を経久と側近亀井秀綱が拒否したことが原因とする。『出雲塩冶誌』中世編を執筆した段階では、度重なる軍事的動員が西部と南部の武士にとって過重な負担であり、これを塩冶興久の乱の原因とした。

2012年2月11日 (土)

大社本願と神宮寺(2)

 清光院とともに、神宮寺が大社本願との関係を有している。神宮寺についても中世史研究では、所在した場所と開基年代について不明とされていた。井上寛司氏は、尼子経久による永正年間以降の仏教施設建造と時を同じくして、史料上の初見をそれほどさかのぼらない時期に神宮寺が建立されたとされる。
 これに対して、能義郡の臨済宗寺院雲樹寺の寺伝によると、康永2年3月に孤峰覚明が袈裟を大社に寄進したことを契機に、出雲大社には神宮寺が置かれ、雲樹寺の境内には三鎮守の一つとして素戔嗚尊を祭る杵築大明神が勧請された。これからすると、南北朝期に神宮寺が開基されたことになる。『日記』寛文4年2月21日条に、神宮寺が取り壊され、神宮寺住僧寧首座が中村海蔵院を借り、三光国師に関係するものものとともに移ったことが記されているが、そこでは300年来の寺地が今回改まったとしている。ここからしても14世紀半ば以降、この地に神宮寺があったことが確認できる。
 雲樹寺文書の中に残されていた杵築の神宮寺に関する文書については、「神宮寺について(5)」で紹介した。天文13年8月15日杵築神宮寺住持善讃書状写と8月27日善瑞書状写がある。神宮寺前住持が寺領と経田を売却したことを承け、本寺である雲樹寺の住持善瑞が新たな住持として弟子善讃を派遣している。このことも、雲樹寺との関係で神宮寺が開基されたことを裏付けている。この点と同年に洞光寺竹賢和尚により清光院が開基されたことにも関係がありそうである。ところが元亀3年(1572)8月19日には神宮寺文養に対して清光院とその燈明田が安堵されている。これ以前に文養が神宮寺住職となり、さらには清光院を兼ねることとなった。善讃と文養の関係は不明である。また、文養は周透の弟子になってその地位を継承しているが、周透と神宮寺の関係も史料を欠いている。ただ、天文12年(1543)には善讃の前任者「神宮寺周詮」がみえ、天文21年(1552)9月26日には聖財院文友と周善が佐草氏へ書状を出しているが(佐草家文書)、後者の周善について『大社町史』や『佐草家文書』では「神宮寺周善」と理解している。天文15年(1546)9月26日の杵築住人連署状(坪内家文書)の署判者として「神宮寺」がみえる。その花押は周善と似てはいるが、同一とまでは断定できない。なぜに「神宮寺周善」とされたのかは不明である。ただ、神宮寺の住職として「周」の字をその名に持つ人々が以前から存在するのは確かである。

大社本願と神宮寺(1)

 この問題については山崎裕二氏の研究があるが、その時点で使用されていない史料もあり、再検討したい。
 史料としては「出雲大社本願始リ以来之次第」(以下では「次第」)がある。寛文2年に本願と大社が裁判を行った際に大社側の佐草自清が作成したものである。2代目周透に関連して、天文年中に富田城下洞光寺の末寺として清光院が開基されたこととともに、「只今之本願」も清光院に居住していると記す。只今の本願とは裁判に訴えた文養であり、彼が清光院に居住していたことがわかる。また2代目周透も清光院に住んでいたことになる。
 清光院については杵築にあったが、天正年間に富田へ移り、さらに松江開府時に松江に移ったとされる(『雲陽誌』)が、細部については不明な点が多い。堀尾氏時代の松江城下絵図には現在の位置に記されており、大社本願文養は寛文2年時には松江城下にいたことになる。これとは別に寛文2年(1662)の時点で杵築には本願屋敷があり、本来、天文13年(1544)に富田城下洞光寺住僧竹堂利賢和尚が開基した寺であったとする(『大社御造営日記』、以下では『日記』)。
 本願屋敷の前身である寺院こそが清光院であろう。それが天正年間に富田へ移転するとその跡が本願屋敷と呼ばれるようになったのであろう。天正末年には本願が文養から正巴に交替しているが、前任者の周透の代に清光院のみならず、神宮寺の住職を兼ねた。それが、後継問題が発生し、正巴は神宮寺と本願職を相続したが、清光院燈明領は対立する宣養に分けられた。山崎氏は正巴とその弟子樹蔵主を神宮寺系、宣養とその弟子文養を清光院系とされたが、正巴と弟子の樹蔵主は本願職を相続し、松江の清光院に居住したはずである。これに対して宣養と文養は国造が寄進した燈明領を与えられたのみで、これを清光院系と呼ぶのは不適当である。宣養は杵築に居住していたであろう。

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