koewokiku(HPへ)

« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2012年1月

2012年1月29日 (日)

ノートPCでのCPU換装(続)

 一両日中にアクセスは5万回を突破しそうである。昨年9月以来、久しぶりにHPを更新したが、ブログの50弱の記事をアップしたがなお、100以上が未登録なので、早急に対応したい。
 Latitude D630を終了2時間前にはじめて入札したら、そのまま落札してしまった。Precision M2300を保有しているが、部品の多くを共有している。違いは指紋認証の有無、ビデオボードと液晶、さらには天板ぐらいか。ビデオはチップセット965GMに内蔵するタイプで液晶はWXGAが標準だが、今回のものはNvideaの独立ボードにWXGA+の液晶。バッテリーの持ちがよいのは標準タイプでそちらが好都合であったが、1回での落札は難しいと思いつつ、入札してしまった。
 M2300にはさらに高機能のビデオボードが搭載され、液晶がノングレアでありながらグレアとの中間的なタイプで、M6300のものと同様であろうか。バッテリーの持ちは良くないが、せいぜい活用しよう。DellであるのでBIOSは最新のものに変更できた。これならSU9600を正常に認識するかもしれないが、バッテリーの持ちは短く、ちぐはぐな選択となった。
 バッテリーの持ち重視なら、Windows7をサポートしているGM45のタイプがよく、LifeBook S8390、s8380あたりが候補となるか。そうすれば、SL9600、SU9600を換装できる。ただ、S8360にT8100を搭載したノーマル液晶(13.3)のものは、やはりバッテリーの持ちはよくないようで、3時間~4時間程度であろうか。これに対して、S8350にL7500を搭載したものは液晶がLEDタイプ(14.1)で省電力なので5時間程度は持ちそう。
 以前も述べたが、一体型のK5270では、チップがGL40で、core2duoは動作しなかったが、LIFEBookは960GLでありながらcore2duoが動作した。以前ネットで検索した際にはCeleronタイプのチップセットは、独立タイプのビデオボードが搭載できないのが違いとあった。GL40でも1066で動作するはずである。ただ、FMVはbiosが提供されないのが難である。一体型でcore2duoが動作しなかったのはそのためであろう。ただし、ペンティアムデュアルコアなどは動作した。

2012年1月25日 (水)

平安末期から鎌倉初期の出雲国武士団

 出雲国の武士で一の谷合戦に参加したとされるのは、以下の通り。
 塩冶大夫、多久七郎、朝山、木次、三代、横田兵衛惟行、富田押領使。
これについては、西田氏により斐伊川沿いの人々が中心との評価がなされている。ただ、出雲国東部の能義郡富田押領使が含まれていることを踏まえると、逆に国衙周辺の武士がいないとの評価もできる。
 出雲国西部にも石清水八幡宮が勧請されていたことを確認したが、西部の人々は国衙の有力在庁であるとともに、中央の勢力とも結んでいた。これに対して、12世紀中頃の在庁筆頭孝盛と12世紀末の筆頭助盛は国衙周辺の国衙領を支配していたと思われる。
 勝部宿祢元宗系の人々については『大伴氏系図』の中にみえるが、勝部宿祢一族の筆頭である助盛や塩冶政光はみえない。後の長田西郷の長田氏についても系図にみえるが、東長田郷長田氏はみえない。以上の点から、系図の正確性に問題があるのではなく、系図に孝盛-助盛系の人々を載せないことにより、元宗系が当初から勝部宿祢一族の惣領であるようにみせたのである。
 孝盛と助盛の間には継続性があり、勝部宿祢一族惣領は平氏政権の成立と源平合戦により没落することはなく、平家との関わりは弱かったと思われる(伯耆国の人々とともに、一旦は一の谷に出兵したが、伯耆国での後白河院子と紀氏の動きに対応するため合戦の直前に帰国か)。
 鎌倉初期の元宗系の惣領は惟元-惟綱であったが、承久の乱への関わりから失脚した。勝部宿祢一族惣領助盛系の人々も乱への関わりから多くが失脚し、元宗系の元綱-昌綱が勝部宿祢一族の惣領となった。助盛系の人々の中にも東長田郷長田氏のように生き延びた人がいたが、少数で例外的であった。
 以上をまとめると、源平合戦への出雲国武士の関わりは大きかったが、国衙周辺の武士は結果として積極的にはかかわらず、その勢力を維持した。参加した武士の内、庄園系の武士は没落したが、出雲国西部の国衙在庁系の武士はその影響を最小限に留めることができた。
 これに対して承久の乱は国内の武士をあげての後鳥羽方への参加となり、中心であった助盛系は大打撃を受けた。元宗系では失脚するものもあったが、一族の別の人物に交替する形で勢力を維持した例が多く、勝部宿祢一族の新たな惣領となった。従来は、平安末期段階から元宗系の朝山氏が勝部宿祢一族惣領であると考えていたが、今回、以上のように考えを改めた(後に一部修正)。

2012年1月23日 (月)

神宮寺について(10)

 錦織恭道師は戦前の差別撤廃運動に尽力された方で、『水平小言』を作成し、周囲の意識の改善を図った人だが、このような文脈で再会するとは意外であった。ただ、その恭道師が作成した記録が神光寺住職にも寄贈され、袈裟に関する豊かな情報を伝えてくれる。
 出雲大社が唯一神道に転じた後の、大社と雲樹寺の連絡を知ることのできる史料が、寺社係が写した形で残っている。書簡であり年号はないが、本文中で約50年前に唯一神道になったと述べているので1720年前後のものであろう。
   雲樹寺側は神宮寺修復を大社に願い出ている。唯一神道となった後に社外に出された神宮寺はまもなく大破したようで、そのために三光国師の尊像は神光寺に移された。雲樹寺側としては、この点を50年近くたった段階で知ったようだが、互いに神宮寺と大社大明神を勧請し合う関係からして善処を求めている。雲樹寺が臨済宗であるのに対して、神宮寺の遺品を曹洞宗寺院である神光寺に移したことについても、雲樹寺側は不満であった。何度か連絡したが、大社側からの満足のいく回答が得られなかったため、僧全棟を大社まで派遣した。
 これに対する北嶋家側の反応は鈍く、両国造ともに困窮しており三光庵の取り立ては困難であると述べるのみであった。大社に赴いた使僧は結局北嶋家当主は不在で会えず、家臣と話し合いを持ったのみであったが、雲樹寺側からもここ2・3代三光国師像のことで問い合わせはないといったり、臨済宗と曹洞宗といっても同じ禅宗ではないかといいわけがましく述べて、その場を納めようとしている。その中で注目すべきは、
 以前は御祭礼の時鰐淵寺より大般若宮内へ入候処、唯一之節より其儀は無くなった
と述べている点である。唯一以前の寛永9年10月21日北嶋広孝覚書案(北嶋家文書)にも以下のように記す。
正月者廿日之経とて、大社神宮寺・鰐淵寺一山下山候而、一頭国造よりのぎしき北嶋かとくに付而、鰐淵寺のひほう大しゆ舞とて、于今神事令執行候、是壱つ、そうあいの四ヶ寺年頭に北嶋へ出仕をとげ、その後千家へ罷出候。
 正月二〇日に鰐淵寺の僧が来たことについては、慶長3年の杵築大社年中行事次第(佐草家文書)にもみえている。
 
 

神宮寺について(9)

 出雲大社における三光国師関係資料の現状はよくわからないが、国造清孝に与えた袈裟は北嶋家に残されているようである。その背景は不明だが、設立された神宮寺も北嶋家の管轄に入っていた。以後、何度となく禅宗関係者が訪れて袈裟を見、追加する形で仏具を施入している。貞治7年正月には「雲州明然」と裏書きした九条袈裟が、嘉慶元年12月には月峰明圓が坐具を、さらに長禄2年3月には心海が坐具を施入している。そして毛利氏による富田城攻めが開始される前年の永禄4年11月には、富田洞光寺の叟竹堂利賢が九条袈裟を奉納している。
 江戸時代には安永3年9月に雲樹寺寛海和尚と康国寺拙庵の案内で、豊前小倉開善寺隠居蘭山和尚、肥後熊本見性寺隠居大室和尚ら15人が拝観している。 康国寺拙庵は寛政2年には袈裟と三光国師の尊像の保存のため寺院の再興を呼びかけている。寛文年間に出雲大社が唯一神道に改めた際に、出雲大社内の仏閣・仏像・経巻はすべて除かれたが、尊像と袈裟は留め置かれたとする。しかし、その後尊像は永禄4年の洞光寺利賢の袈裟とともに西蓮寺に移されたが、その状況は破損もみられ、拝観する度に涙が出ると述べている。
 天保2年に袈裟の拝観に訪れた丹波国法常皇寺賜紫大観は、袈裟の保存状況を憂いて保管用の袈裟箱を寄納し、昭和8年4月18日に臨済宗妙心寺の清竹軒管長が雲州平田大林寺戒會に訪れた際に、随行の三河萬福寺香村宜圓、山城松花堂堀尾海應両師と出雲大社を訪れ、袈裟の拝観を希望したが、生憎、当主北嶋男爵が不在のため、拝観できなかった。案内をしたのは地元の臨済宗妙心寺派の光福寺住職錦織恭道師だった。清竹軒管長は所用のため帰山したが、翌19日に恭道師は桐泉寺曽田圓翁師と再度北嶋邸を訪ね、拝観ならびに写真撮影を許され、記録を残している。

2012年1月22日 (日)

尼子氏による寺社支配(4)

 享禄2~3年と天文6~7年に尼子氏の寺社支配に大きな動きをあったとの見通しを示したが、それぞれについて補足する。
 尼子経久女子と北嶋雅孝に嫁いで「御上」と呼ばれたことは知られている。戦国末の「火継旧記」によると、経久の孫となる男子が誕生したが17才で死亡している。大永4年(1524)に雅孝が御上に国造の譲状を作成しているのはそのためであろう。となると、両者の結婚は、尼子氏が塩冶氏を攻撃した永正2年(1505)の直後には実現したこととなる。雅孝は3年前の文亀2年(1502)に相続したところであった。千家豊俊については、系図では妻が古志氏であったとするものがあるが、母が古志氏(古志宗信の兄弟)出身であったことが確認できる。明応4年に父高俊が譲状を作成しているが、実際の継承時期は不明である。ただ、永正2年段階で19歳であり、雅孝と同時期に尼子経久女子と結婚したのであろう。その豊俊と尼子氏女子には男子が生まれなかったため、甥の高勝が相続し、享禄2年9月22日に尼子経久が豊俊の譲りとして安堵している。享禄2年までに豊俊が死亡したのだろう。ただ、同年5月5日の千家高勝旧記写からみると、すでに相続してい高勝に対して、この時点で尼子氏が安堵したのである。尼子氏が千家国造の相続について安堵したのはこれが初めてである。経久が北嶋家でみせたような強引な継承を行う可能性もあったが、反発の強さから(あるいは女子も死亡していたか)断念した。ただ、出雲大社側からの警戒心はあったであろう。これまた塩冶興久の乱の原因の一つとなった。
 次ぎに、天文6年~7年にかけては尼子経久から詮久への代替わりの時期であった。その意味で新たな対応が出てくることは当然であるが、問題はその具体的内容が妥当であったかであろう。天文6年には詮久が本願道清(岩屋寺の造営にもかかわる)を起用して出雲大社の柱立が行われたが、本願の死亡で中止となり、天文9年10月の柱立ても尼子氏の吉田攻めの影響か中止となっている。それが実現したのは天文15年からの3度目の造営であり、天文19年に遷宮が完了している。その一方では天文8年には一切経堂の造営が始まり、翌9年に完成した。遷宮の前年に国造雅孝が死亡し、北嶋国造の相続争いが起きている。後継者となった幸孝(後の史料には尼子常久女子を妻とするとあるが、経久でも、誠久の子常久でも年齢が合わない)に対して一族の久孝が宍道安房守の支持を受けて抵抗している。
 天文6年で忘れてはならない点は、この年に尼子氏の行う読経において清水寺左座の綸旨が出されていることである。詮久の代替わりにより初めて詮久主催の千部経読経がなされた際に、清水寺左座に対して鰐淵寺が異論を唱え、その結果として清水寺が綸旨を与えられたのであろう。
 次いで経久の死亡と晴久への改名後の天文14年にも富田で千部経読経がなされ、再び鰐淵寺側が異論を唱えた。今回は晴久が判断を求められたが、国外への出陣が迫っていたため、臨時の形(清水寺は左の後座、鰐淵寺は右の後座。鰐淵寺は乱座であったと主張するが事実ではなかろう)で行われた。その後問題は表面化しなかったが、天文24年に鰐淵寺側が尼子氏の動揺を見越しつつ、周到な準備をして再度異論を述べたことについてはすでにみたとおりである。尼子氏は清水寺左座の裁定を行ったが、朝廷の綸旨をたてになおも主張したのであった。

在庁助盛について(3)

 在庁官人のうち、中原氏については秋鹿郡2ヶ所(秋鹿郷・伊野郷)の郷司であったことが確認できる。藤原氏については出雲郡内漆治郷司であったことが確認できるが、南北朝期に活動が確認できる小境氏も「伊藤」を名乗り藤原姓である。中原頼辰は国造家との間に婚姻関係を結び、その子孝高は建暦3年(1213)には出雲大社神主ともなっている。
データが少ないが朝臣系の中原・藤原氏は出雲国北部と西部の郷司であったと思われる。
 一方、宿祢系出雲氏は須佐郷・山代郷司であることが確認でき、これに出雲大社並びに国造領を合わせると、出雲国東部と西部の両方で所領を支配していた。在庁官人筆頭の勝部氏は、これまでみてきたように、①孝盛-助盛系(出雲郷・竹矢郷・東長田郷・塩冶郷)
と②元宗系(朝山郷、多祢郷、万田庄、法吉郷、長田西郷、湯郷、佐世郷、佐陀社)とさらには③仁多系(横田庄、三処郷、阿井郷)などに分けることが出来る。ただし、③の個々はは①と②の中に含まれる可能性もある。
 これに対して、富田押領使に代表される東部の武士がどのような系統に属したかは史料を欠くため不明であるが、早くから庄園立庄の主体となり中央の勢力と直接結んだこともあって、源平合戦の結果、所帯を没収され、東国御家人が地頭に補任された。具体的には富田庄、吉田庄、宇賀庄(以上能義郡)、加賀庄(島根郡)、大東庄(大原郡)等で、佐々木氏、土屋氏などの頼朝の挙兵に早い段階から参加した東国御家人である。大原郡の地頭としてみられる神保氏も千葉氏一族の神保氏なので、これに含まれる可能性がある。
 次いで承久の乱では、出雲国内の武士の多くは後鳥羽方として動員され、ほとんどが所領を没収された。勝部氏では①③系は一部を除いて没落したのに対して、②系では本人は没落したが一族のものが継承を認められた例がある程度あった。出雲氏についても、出雲大社領(本家が土御門で乱へ関わらず)こそ影響は最小であったが、それ以外の多くは没落した。国造の地位を争った内蔵孝元は出雲氏一族で、乱後にも出雲大社神主となっているが、一方では、内蔵氏領で孝元解任後は内蔵孝幸に継承された国富郷も乱後は東国御家人が地頭となっている。 

2012年1月20日 (金)

在庁筆頭助盛について(2)

 それでは勝部孝盛-助盛流はどの所領を支配していたのだろうか。そこで公領最大の出雲郷が想定される。建長元年の出雲大社遷宮時の流鏑馬5番は「平田保 合出雲郷・馬来郷・竹矢郷」が勤仕している。平田保・出雲郷・馬来郷は承久の乱後は多胡氏が地頭となっているが、文永8年結番帳では地頭が一族内の個々に違うので別々の番となっている。北条氏領の場合は、竹矢郷に対して須佐郷は15番であるが、文永8年は地頭が同一人物なので同じ番である。そうしてみると、平田保・出雲郷・馬来郷・竹矢郷は、その時点の地頭ではなく、過去の前例に基づきながら組み合わせたものである。文永8年とは異なり各番の所領面積の合計もばらばらでありる。平田保外4郷は同じ一族=勝部孝盛-助盛流が支配していたのだろう。同様のことは勝部宿祢一族について9番・10番にも該当しているし、他の事例を検討する材料とも成る。この一族の所領は、平田保・出雲郷・馬来郷は多胡氏領となった。その意味で、多胡氏のその時点での勢力についても検討すべきである。これに対して、平浜別宮に隣接する竹矢郷については、北条氏領となり、平浜別宮も守護佐々木義清領となった。
 残る富田押領使と能義郡の宇賀庄・吉田庄を支配した一族については、今後の検討課題である。この一族については、平家との関係から積極的に一の谷合戦に参陣し、敗北により所帯を没収され、その跡に東国御家人が入ってきた。八幡宮を勧請した元宗流勝部氏も参陣したが、一族による郷司の継承は認められた。それに対して承久の乱では、多くの有力武士が所帯を奪われ、出雲国内の4分の3以上は東国御家人が地頭となった。

在庁筆頭助盛について

  建久2年(1191)7月日出雲国在庁官人等解には12人が署判を加えている。宝治元年10月日杵築大神官等解で末尾に国造兼大社司惣検校出雲宿祢義孝が署判しているように、後で署判を加えている人々が上位者となる。建久2年の時点の出雲国在庁官人筆頭は勝部助盛(資盛、名前については建久5年の解の裏書きの方が正確である。ただし、建久5年解そのものは文書としては要検討)で、それに続いて中原頼辰・時光、藤原孝政、出雲季盛までが庁事と呼ばれ、各家の代表者である。それに続く藤原孝兼、勝部助光(明元ヵ)・政光・某(孝光)、出雲忠康・某、勝部惟元が在庁となる。朝山郷司である勝部惟元は、父守安の兄弟である明元・孝光より順位は低くなっている。
 これを久安元年(1145)の正遷宮の史料と比較すると、庁事が順に孝盛・兼時・忠政・兼政・元宗、在庁が季宗・助真・兼吉となる。庁事について名前を勘案すると、勝部孝盛・中原兼時・出雲忠政・藤原兼政・勝部元宗となろう。勝部・中原・出雲・藤原の4氏の代表者が庁事となっているが、勝部宿祢から2名入っている。勝部孝盛と助盛は親子であり、承久の乱後の出雲国在庁官人の中心となった朝山氏は勝部元宗流である。承久の乱までの筆頭であった勝部孝盛-助盛系は出雲国知行国主源有雅が後鳥羽院の側近であったこともあり、承久の乱で没落し、勝部元宗流が新たな惣領になった。これに対して、久安元年と建久2年を比較すると、平氏政権の成立は出雲国在庁官人の勢力に大きな変化はもたらさなかったと思われる。ただ、石清水八幡宮の勧請に熱心であった元宗系勝部氏は、一の谷合戦に朝山・木次・三代が一統が参加していた。塩冶政光と横田兵衛尉惟之は勝部宿祢一族だが、非元宗流であった。結果として元宗流以外の人々については系図などに記載されなかった。大伴氏系図は信頼性の高い系図であるが、仁多郡の一族の記述は早い段階で終わっており、横田兵衛尉やその一族三処氏については記さず、勝部孝盛や政光についても記さない。勝部宿祢一族である長田西郷地頭は元宗流だが、系図に登場しない長田東郷地頭は非元宗流なのであろう。

2012年1月19日 (木)

勝部宿祢領について

 一定の規模を持った4ヶ所=横田、安田、赤穴、平浜のうち、赤穴と平浜は地頭ないしは惣検校が紀氏であったことが確認できる。安田庄については全く史料がなく判断できないが、横田庄については、勝部宿祢一族との関わりを想定できる。それは一の谷合戦に参加したとされる横田兵衛尉惟行(之)と、その跡を継承した三処左衛門尉長綱である。
 大伴氏系図では、勝部宿祢一族に仁田(仁多氏)がおり、鎌倉幕府のもとで地頭とはなっていないが、東国御家人大中臣氏と婚姻関係を結び、その活動は南北朝期まで確認でき(三刀屋文書)、伝承では佐陀庄島根郡を支配したとされる仁田(新田)右馬助も存在する。「惟」「綱」の字も朝山惟元、惟綱などとの共通点を指摘できる。
 近年の横田庄研究論文で、北条時輔の母妙音が、弘安4年(1281)の横田八幡宮造営の棟札には願主として「地頭平氏三所比丘尼妙音」とみえることから、妙音が三所(処)氏の出身であるとの指摘がなされた(「横田庄と女性」の項)。これに対して、これは妙音が横田庄だけでなく三処郷の地頭ともなったが、三処郷に居住していたことを示すとの説を提示した。その当時は横田庄50町に対して三処郷は9町5反300歩と小さな所領と理解していたが、実際は仁多郡三所(処)から能義郡西比田に及ぶ広大な所領であり、戦国期の三沢氏領の中でも重要な位置を占めている。
 三処郷が実質的に得宗領となったことは、後醍醐が横田庄地頭職を石清水八幡宮に寄進し、三処郷地頭職を鰐淵寺に寄進していることからも確認できる。また、建長元年の出雲大社遷宮の際には、流鏑馬の十番として「三処郷、合阿井郷、石坂郷」とみえ、石坂郷も勝部宿祢領であったことはすでに述べた通りである(大伴氏系図)。そうすると、九番の「湯・拝志両郷、合佐世郷」がやはり本来は勝部宿祢の所領であった(この後、佐々木泰清の子頼清が養子に入り、所領を継承)のと同様、「阿井郷」も勝部宿祢領である可能性が高い。

2012年1月18日 (水)

大田別宮について

  出雲国の八所八幡宮のうち、その所在が明確でないのが大田別宮である。『島根県の地名』では南北朝期の「三刀屋大田庄」との表現に着目して、雲南市殿河内に比定されている。これに対して、新たな比定地を提唱したい。それは塩冶郷内上郷の上郷神社の棟札の記録に、保延年間(1135~41)、文治年間(1185~89)の棟札が有り、そこには「大田別宮」と記されているのである。『上津村誌』(1956)にその引用がされており、判読不能な箇所も有り、検討が必要であるが、この地に「大田別宮」と呼ばれた八幡宮があったことが記されている。
 石清水八幡宮の12世紀の史料では、一定の規模を持った横田、安田、赤穴、平浜を記した後に、5町程度の小規模な日蔵(日倉)、新松、白上、大田を記す。日倉別宮は多祢郷の一角を占めているが、多祢郷を支配したのは勝部宿祢一族で朝山氏に次ぐ勢力を持った多祢氏である。新松は朝山郷の一角であり、朝山氏が支配した。また、鎌倉期の朝山氏が平安末期に本拠としたのは白上のある佐世郷であった。そうすると、大田別宮も勝部宿祢一族の所領の一角を占めた可能性が大きい。その意味で大田別宮を勝部宿祢一族の所領であった塩冶郷内上郷に比定するのは有力な説となりうる。
 三刀屋郷については承久の乱以降、新補地頭諏訪部氏が支配したこと以外は不明であるが、日倉別宮との距離が1km程度と近すぎるが、どうであろうか。それに対して、文永8年関東下知状(結番帳)では、大田別宮は二番の相撲頭に賀茂庄、大竹寺、新松八幡とともに記されている。三刀屋郷内大田は賀茂、大竹に比較的近いということで比定されたのであろうが、大原郡(賀茂、大竹)でもなければ、神門郡(新松)でもない。賀茂、大竹の斐伊川を挟んだ対岸の地が塩冶郷内上郷であり、その西方に新松八幡宮がある。そして両者は同じ神門郷内である。
 以上のように、大田別宮を塩冶郷内上郷に比定すれば、八所八幡宮のうち小規模な4ヶ所はいずれも勝部宿祢一族の支配する出雲国西部の所領の一角にあったと考えることができる。そして文永8年結番帳の表記順にも適い、棟札の記載とも合致するので、ほぼ断定してよいと思われる。逆になぜこのような有力な比定がこれまでなされなかったのが不思議である。元暦2年にはこれに加えて意宇郡岩坂保がみえるが、岩坂保も勝部宿祢一族の所領であった。

2012年1月15日 (日)

神宮寺について(8)

 この直勝は千家家譜では国造高勝の後継国造としているが、その期間は天文12年の前半のみとなっており、不明な点が多い人物である。6月15日譲状には「歓楽相続候」として、所領の売却により散財に及んだのであろうか、自らの死亡後の塩童丸名代国造を指名している。この史料は本当に不可思議なものであり、6月26日には尼子晴久が父直勝が退転(家譜では死亡と解釈するが、そのような意味はない)した時点でなお西塩童は幼少(15才未満)であったので、東彦十郎(慶勝)が社役を行い、その後塩童が国造となることを安堵し、新たに塩冶に入って、出雲国西部の問題については、晴久の命令の添状を出すこととなった尼子国久とその嫡子誠久がこれを確認している。
 15日と26日の文書を無理なく解釈すれば、直勝がその責任を追及される中で退転したが、その直前に相続について確認しており、その確認内容を、退転先から求められるまま提出したものと考えられる。そして28日には晴久が、百御料人宛であろう、東彦十郎との結婚により、豊俊・高勝相続の如く、千家家督を安堵することを伝えており、尼子氏の立場からは直勝を正統な後継者とは認めていないことがわかる。
 話を前に戻すと、天文9年8月1日には国造北島雅孝が、千家村公文分内経田を、秋上周防守が26年間買得していることを承知しており、同じく権利を持つ神宮寺に問題があれば、一円に与えるとして、懈怠なく知行することを認めている。大社神宮寺については、北島氏が優先的支配権を持っており、前述のように1月3日には御参することとなっていた。この時期の神宮寺の行動に問題が出ていたのであろうか。
 天文11年3月8日には、神宮寺周詮が千家内(千家村であろう)きつき大社経田坪付を原二郎三郎宛に提出している。これも売却の関係であろう。そして天文13年12月5日には、神宮寺周詮が権検校西塩童丸と連名で、新たな国造慶勝に目井浦を売却している。
 以上、大内氏による出雲攻め前後の大社関係史料、とりわけ千家国造に関するものをみてきた。意図して廃棄された史料も多く、その理解は大変困難であるが、とりあえずつなげてみた。

神宮寺について(7)

 天文11年8月に尼子晴久が西与四郎に対してめいの浦を新寄進として還付している。売却されたことにより、正月2日の祭礼の執行に支障が出たため、西氏ないしは出雲大社側から訴えがあったのだろう。ところが、その後大内氏による出雲攻めという状況の中で、問題は解決していなかった。
 天文12年と推定される5月24日尼子晴久書状によると、めいの浦の売却先は日御崎社であった。そこで、晴久は国造千家方へ問い合わせたところ、めいの浦は大社側として必要な所領だということで、前年のように西氏に新寄進するとともに、代わりの所領を渡すこととした。ところがその所領を西氏が日御崎側に渡していなかったのである。
 そこで晴久は、無沙汰を続けるなら、千家方でその所領相当分を差し押さえて、日御崎側に返弁するよう命じている。そうした中、9月10日には古志宗信が千家方による問題解決に対する西塩童からのお詫びとお礼として西氏抱浄楽寺御神田を千家方に進上することを伝えている。西塩童は、国造高勝の子百御両人と西直勝(これが与四郎か)の子で、成人した際には国造相続予定であったが、当面は直勝が社頭の取り次ぎを行っていた。古志宗信は高勝の前任国造豊俊の母が古志氏出身(宗信の兄弟なら、宗信の年齢は高くなる)であった関係で、国造家との関わりがあった。
 尼子氏の文書をみると、享禄2年9月に豊俊から新十郎(高勝であろう)への相続を経久が安堵している。経久女子は千家・北島(雅孝)両国造と結婚しているが、千家方とは豊俊であろう。享禄2年段階で豊俊は42才であるが、それ以前に、経久女子との間に後継者が生まれないままに死亡したのであろう。そこで甥で享禄2年段階で28才の高勝が相続した。
 高勝は38才である天文8年12月の仮殿遷宮までは確認できるが、その後まもなく死亡したのだろう。そして高勝子百御両人の子塩童丸が後継者となったが、幼少であるため、父である西直勝が代行する形となった。ところが、この状況で問題が多発している。西(直勝か)氏が祭礼の所領を日御崎社に売却したこともその一つである。同様に神宮寺住持(周詮)も寺領と大社経田を売却していたことは、天文13年8月に後任として雲樹寺から派遣された善讃が述べていたとおりである。

神宮寺について(6)

 大社の神宮寺と三光像について補足する。『大社町史』通史編下では以下のように記すが、最後の「禅宗の出雲大社への接近」という評価は、それに続いて述べられている「出雲大社をはじめ神社側から仏教側への接近」と対の表現であるが、的確なものであろうか。
 出雲雲樹寺開山三光国師狐峰覚明は、康永2年(1343年)出雲大社の神前に、9条と25条の袈裟二領を奉納したという。(狐峰和尚行実)今も北島国造家に伝わる袈裟がそれであるといわれている。これは禅宗の出雲大社への接近とみなしていいだろう。
 大社町総合年表にも以下のように記す。
 ◇興国4年(1343年)、三光国師、山根南に神宮寺を建立、開山堂を三光殿と称す。
 ◇寛文2年(1662年)、北島邸内にあった、曹洞宗神宮寺廃止となる。
 神宮寺は曹洞宗の寺院とされている(15世紀後半に改宗とある)が、その廃絶後、本尊などを継承した西蓮寺が曹洞宗であるからであろう。ただ、雲樹寺は臨済宗寺院であり、問題を残している。経済的基盤も不十分なまま廃絶したのであろう。そして15世紀末に山根に開かれたていた曹洞宗西蓮寺に「三光さん(国師像)」など関係するものが移された。この点については大社の曹洞宗寺院で西蓮寺の本寺にあたる神光寺に残る記録(寛政9年3月康国寺隠居拙庵による。康国寺は出雲市国富の臨済宗寺院で、三光国師が開基)に記されている。その西蓮寺もその後の焼失、明治初年の廃仏毀釈による破壊などをへて現在は杵築北の地に連歌庵として再建されている。西蓮寺、連歌庵とともに「三光殿」と呼ばれているが、「三光殿」の意味について理解している人はほとんどなかろう。

2012年1月11日 (水)

尼子氏による寺社支配(3)

 天文6年3月6日には鳥屋秀重が伊弉諾社への毎月御供について述べるとともに、宮山を神宮寺が成敗することと、御神田の売買を禁止するとの経久の命令を伊弉諾社神宮寺と浄音寺に伝えている。ここにみえる鳥屋氏は出雲大社領鳥屋郷(出雲郡)出身であり、天文7年6月に本願寺側が書状を遣わした尼子氏家臣として河本氏とともにみえ、重要な位置を占めていた。これも尼子氏による出雲大社への支配の深まりを示すものであろう。
 同時期のものとして年未詳5月10日尼子経久書状も注目される。千家・北島氏より申し出のあった御供宿銭については昨年決着しているので、改めてはいけないと、目賀田三郎右衛門に伝えている。目賀田三郎右衛門も経久側近として杵築に派遣されていた人物で、晴久の時代にも同様の役割を果たしている。一方、天文7年5月13日には詮久が富氏に対して、富郷内名田を百姓が地頭(富氏と尼子氏家臣であろう)に無断で売却した際には、田地を闕所とすることを伝えている。
 話を佐陀神社に戻すと、年未詳8月30日佐陀八人社家中誓状写も注目される。「貞和6年」との付け年号が記される写もあるが、文書の形式並びに宛所(吉岡雲十郎)は天文6年の付け年号のある8月25日幡垣主目誓状写と共通であり、同時期(天文年間前半)のものであろう。
 また、朝山日乗の存在が注目される。日乗は佐陀神主家の一族でありながら兄とともに備後国へ派遣されたが、大内氏方の攻撃を受けて兄は死亡し、日乗は美作国へ逃れたという。時期的には天文年間前半で、その後出家し上洛して内裏再建や信長と朝廷・幕府との連絡において活躍したことはよく知られているが、ここで注目すべきは、神魂神社神主家の一族が尼子氏家臣団に編入されたこととの共通点である。
 さらに、天文11年9月3日尼子晴久袖判福頼勘兵衛奉書により、佐陀神社権神主の知行が安堵されている。福頼氏は富田庄内福頼を本拠とする尼子氏直臣富田衆であるが、佐陀神社領島根郡分を支配を委ねられており、島根郡分は佐陀庄福頼分とも表記される。また、年未詳8月22日尼子晴久書下も注目される。偽文書との意見もあるが、本来の書状形式(付け年号があったか)の失われた文書を復元する際に、形式を誤ったもので、内容そのものは事実に基づくものである可能性が高い。佐陀大社の御座替について、先年の経久一通に任せて郡内神社に負担することを命じている。これらの史料は尼子氏による佐陀神社支配の深まりをみることができるが、支配の深まりに対しては反発も予想される。
 以上、佐陀神社と尼子氏の関係資料をみたが、佐陀神社が戦乱の中で関係文書を失ったことで事実の解明には大きな困難があるが、享禄年間と天文年間前半の尼子氏による支配の強化が行われたのは事実であり、支配の深まりがみられた。しかし出雲大社と同様、尼子氏の支配に対する反発も強まり、塩冶興久の乱や大内氏や毛利氏による尼子氏攻撃の際には反尼子氏となった関係者は少なくなかったのではないか。

尼子氏による寺社支配(2)

 享禄2年6月28日に尼子経久が佐陀神社へ社参したことは「成相寺条数」(成相寺文書)にもみえている。次いで天文7年(1538)6月24日には御屋形(詮久)が社参したことが記されている。その前年の12月には応永3年2月9日成相寺置文に対して、尼子経久が披見したとして裏書安堵を行っている。これが塩冶興久のいう「代々置文」のであろう。これを成相寺が提出し、経久が安堵し、その半年後に後継者となった詮久が社参しているのである。
 「成相寺条数」は年月日を欠くが、佐陀神社における社僧側の取り分について要求したものである。最初に五ヶ夜田について、正月元日から5日まで社僧が佐陀神社経所で祈祷を行い賄いを受けていたが、天文21年(1552)以来、道珍本願が神社側の収入としてしまったとして、返付を求めている。「予州様」・「御屋形様」の表現から尼子氏の時代に出されたもので、その記載は信頼できるものである。
 享禄年間の尼子経久による佐陀神社への働きかけがあったことと、天文6~7年にも尼子氏からの新たな動きがあったことは確かであろう。塩冶興久の乱後しばらく尼子氏が国内の勢力に対して融和政策を行ったことはすでに述べたとおりである。それが経久から詮久へバトンタッチする段階で、新たな動きがみられたのである。この時期、出雲大社に対しても天文6年12月29日に鳥屋清誠と誠幸の連署で、三月会の名代に関する大社側の申し入れに答えて、近年の如く御日参銭の負担をすることを述べている。この点については北島氏の御前に祗候する大熊右京進からも申し上げるとも、補足している。この大熊右京進は北島氏の家臣で後に尼子国久が塩冶を支配した際に家臣に組み込んだと評価されるが、そうではなく尼子氏家臣として経久女子と結婚した北島国造に祗候していたのであろう。そうした経緯から経久女子の兄弟である国久の家老となるとともに、国久領千酌(島根郡、経久から継承)の代官をも務めている。

尼子氏による寺社支配(1)

 佐陀神社については、『八束郡誌』に注目すべき記述があるが、今のところそれを直接裏付ける史料を確認できていない。注目すべきとは、尼子経久が享禄2年(1529)6月に社参し、社頭には護摩堂、阿弥陀堂、釈迦堂が建てられ、次いで十郡で行ってきた御座替祭に対して先規により勤仕するよう命じたとの記述である。後者については関係する文書が残されているが、「貞和五年」との付け年号のある写本の存在とその内容から偽文書との評価がある。ただ、付け年号は後世に記されたものであり、また、個々の表現に問題がないわけではないが、失われた文書の内容を復元したものと考えれば、一概に偽文書と断言できない面もある。
 7月20日付けで尼子経久が吉岡宗左衛門尉に秋鹿・島根両郡頭領であることを了解したとして、佐陀明神の祭礼を先例に基づいて行うことを命じている。そして同日付で、吉岡宗左衛門尉通照が佐陀神主家の人々に、御座替神事について尼子経久から十郡へ命令が出たことを伝えるとともに、尼子氏に要望を出せば国中へ伝えられ神事の沙汰がなされることを述べている。『八束郡誌』はこれを享禄年間のものとしている。
 享禄3年には尼子経久が3度目の出雲大社での万部経読経を行っており、この時期に佐陀神社への働きかけがなされることは十分ありうるのである。享禄3年4月5日には尼子経久へ叛旗を翻した塩冶興久が成相寺に対して、先年より代々置文の旨に任せて抱えてきたが、近年新儀の命令があったことは謂われがないので同意しないようにと命じている。
この新儀は尼子経久からの命令であったと思われる。本来塩冶氏との関わりが深かった成相寺や佐陀神社を尼子氏の支配下に置こうとしたのではないか。軍記物には塩冶氏家臣の籠城する佐陀城を尼子氏が攻撃して落城させている。

2012年1月 9日 (月)

神宮寺について(5)

 これによると出雲大社における神宮寺建立は康永2年となるが、神宮寺そのものはそれ以前からあり、禅宗雲樹寺との関係を強めた可能性もある。大社と雲樹寺の関係を示す史料はこれ以外は未確認であったが、島根県庁寺社係が作成した雲樹寺文書のメモには、戦国期における大社と雲樹寺の関係を示すものが含まれる(「杵築神宮寺ノ儀ニ付往復等ノ書也 数十通入」)。原本は近世以降の神仏分離の流れの中で廃棄された可能性が高いが、その内容には注目すべき点が多い。
 天文13年8月15日杵築神宮寺住持善讃書状写では、神宮寺前住持が神宮寺領と経田を売却し、それが尼子氏から闕所とされたのに対して、雲樹寺善瑞の尽力により新寄進されたことのお礼を述べている。8月27日善瑞書状写では、弟子善讃を千家・北島両国造と尼子氏の安堵状により杵築神宮寺住持職に補任したことを述べている。神宮寺前住持が寺領と経田を売却し、寺から退転する状況となり、本寺である雲樹寺から新たな住持善讃を派遣したことがわかる。おそらくは、大内氏の出雲国攻撃の際に、大内氏方となり、大内氏敗退時に退転してしまったのだろう。一方、雲樹寺善瑞は中興の祖とされる僧だが、出雲大社神宮寺と雲樹寺の関係が戦国期にも継続していたことがわかる。
 以上の点から、尼子経久による出雲大社遷宮以前から、出雲大社にも狭義の神宮寺が存在していたことが確認できた。鰐淵寺は大社社僧として重要な役割を果たしているが、神宮寺は別に存在したのである。ここでとりあげなかった日御崎神社、美保神社、伊弉諾社(真名井神社)、出雲国惣社(六所神社)といった有力神社にも狭義の神宮寺が存在したことは確認できる。

神宮寺について(4)

 出雲大社の神宮寺に関する史料は戦国期に限られる。天文9年(1540)8月1日国造北島雅孝安堵状では、秋上周防守が先に買得した千家村公文分の内の経田を安堵し、神宮寺が懈怠した場合は一円を与えると伝えている。この神宮寺は出雲大社の神宮寺であろう。次いで、天文15年9月26日秋上重孝外一二名連署状で、杵築町の代表者が三沢本郷の檀所をめぐる坪内・吉田両氏の御供宿相論について、合戦の時期であるとして坪内宗五郎に当座の堪忍を要請しているが、その中に神宮寺がみえている。
 慶長3年(1598)の杵築大社北島方年中行事次第 (佐草家文書)によると、1月3日に「神宮寺之三光さまへ御参候時」との記述がある。関係史料が「崛狗九条袈裟裏書」(北島家所蔵)である。僧浄賢が大社神夢として三光国師孤峰覚明に伝えたことを受けて、覚明は比丘尼に袈裟の作成を依頼し、康永2年(1343)3月15日に国造清孝に授与し、それが御宝殿に納められたことを記す。
 この点について『孤峰和尚行実』(『群書類従』所収、『旧島根県史編纂史料・中世筆写編2』所収雲樹寺史料)では、ある僧が康永元年春に大社に参詣した際に「雲樹長老に託して衣と器を受けたい」との託宣を聴き、それを覚明に伝え、覚明が伯耆国の尼寺に作らせた袈裟等を大社に赴き授けたことを記す。
 これに関連して正徳2年(1712)三光国師碑銘(雲樹寺)では、僧(覚明弟子覚仲)と尼寺(伯州四日市法華尼寺)の名を具体的に記すとともに、以後、雲樹寺は出雲大社のお祭神素戔嗚尊を鎮守の神とし、出雲大社は神宮寺を建立して三光国師の木像を置いたことが記されている。1月3日の三光さまへ御参とはこのことであった。

神宮寺について(3)

 出雲国において、出雲大社に次ぐ勢力を持った神社は佐陀神社であったが、出雲大社にとっての鰐淵寺(後述)と同じ性格を有した寺院であるとされるのが成相寺である。同寺は佐陀奥院と言われた真言宗寺院で、佐陀神社の社僧を勤めていたことから神宮寺ともいわれるが、佐陀神社にはこれとは別に狭義の神宮寺が存在したことが確認できる。一方、成相寺にとっても一体の神社として熊野権現があった。佐陀神社と神宮寺、さらには成相寺との関係はどのようなものであろうか。
 嘉元4年(1306)6月の昭慶門院領目録に、室町院領として佐陀神宮寺がみえている。室町院領は大覚寺統(亀山上皇)と持明院統(伏見上皇)で折半され、亀山上皇分はその女子昭慶門院に譲られた。庄園としての佐陀神宮寺はそれ以前の史料では「佐陀社」と呼ばれていたが、「佐陀神宮寺」と呼ばれるほどに神宮寺が佐陀社と一体となって支配にあたっていたのだろう。その内部は12(井本家記録写)とも7(朝山皓氏による)ともいわれる坊からなり、神官と社僧併せて224人からなっていたという。
 明応4年(1495)成立の佐陀神社縁起では、神宮寺について以下のように記している。
 中正殿 本地阿弥陀如来・薬師如来、神宮寺薬堂是也
 北社  本地観音地蔵、神宮寺ハ今ノ経所是也
 南社  本地阿弥陀如来、神宮寺ハ今の栗林ノ常楽寺是也。
3つの社殿に対応する形で、薬堂(本庄坊ヵ)・経所(神宮寺ヵ)・栗林の常楽寺が神宮寺として位置づけられている。本来(狭義)の神宮寺は宮内村内にあり、寛文6年(1666)までは検地帳にも「壱反九畝廿壱歩 神宮寺」とみえているが、寛文7年の出雲大社遷宮で神仏分離が行われると、佐陀神社にも変化があらわれる。寛文8年に佐陀神社神官が上洛した際に持参した佐陀神社縁起からは、上記の仏と神宮寺は消えている。また、延宝3年(1675)には神宮寺の土地が没収され修理免とされている。また延宝年間には薬師堂(本庄坊)を佐太社頭より移して名分村の現在の境内に移築する際に寺号を薬師院と改める。
同時に佐陀社内の薬師・日光・月光・持国天・毘沙門天の五仏も移された。
 佐陀宮内村の南側の栗林にあった常楽寺は、「神宮寺常楽寺」、「佐陀神宮寺常楽寺」などど記されるが、広義の神宮寺だった。佐陀奥院とされる成相寺は、承久の乱までは所領としての成相寺内の大半を支配していたが、乱により東国御家人椎名氏が地頭として入部したことにより、打撃を受け、南北朝期には一旦寺院が断絶するに至った。それが、伊予国河野氏領をへて成相寺が守護京極氏領になると、所領の寄進を受けて再興され、戦国期には佐陀神社の関係寺院としては最も有力な存在となり、常楽寺・願力坊(秋鹿郡)・報恩寺(島根郡)もその支配するところとなった。丁度、平浜八幡宮における宝光寺のような存在となったのである。

2012年1月 8日 (日)

CPUの換装とバッテリー利用

 時代は第2世代core iであろうが、メモリーが十分なら、core2duoでも十分。以前からSL9600(17W版)を入手して換装しようと思っていたが、いつの間にオークションではみかけなくなり、やむをえずSU9600(10W版)を入手してLIFEBOOKのS8360を換装していた。動作には問題ないが、起動するさいにBIOSに情報がないので、更新をうながすメッセージが表示される。
今回入手できたSL9600はGM45対応で、出品者からは965GMでも動作するかもということであったが、前者は1066、後者は800のタイプなので、965GMでは本来の性能はみこめないであろう。また、LIFEBOOKはBIOSの更新がないので、965GMでは無理であろう。デルは新BIOSを提供するが、それでも前述の問題がある。
 ということで、LIFEBOOK(E8270)かデル(E5500)のどちらにしようか迷ったが、画面がWSXGA+と広いE8270に換装した。それまで使っていた25W版では最高性能のP9700(実際は28W)をどこで使うかが問題となった。SLはスモールタイプで、ゲタをはかせてソケットに入れる関係で、本来のCPUより厚みがあり、薄型PCへの搭載には難があるかもしれない。
 E8270はバッテリーが小さいため、バッテリー駆動の時間は期待できない。そうしていたら、H8260用(2.5倍容量の大きなバッテリー)がE8270でも使用できることがわかったので、バッテリーも換装した。P9700の時は思ったほどバッテリー時間が伸びなかったが、SL9600では、残量90%で6Hとの表示で、標準バッテリーを併せれば十分な時間の利用が可能となった。現在、データ収集はSシリーズで行っている。バッテリーとともに複数台所有しているので、替えバッテリーがあれば図書館で7~8H程度の利用が可能だが、画面が広いE8270でも可能となった。ただしキーボードはsシリーズがよい。
 これ以外にも日立のビジネス機(LL1)とパナソニック(CF-7Y)もバッテリーを複数所持しており、以前はパナソニックが定番だと思っていたが、自分にはSシリーズのキーボードの方がしっくりくる。LIFEBOOKの最上級機種Hシリーズとともに、入力しやすい。難点を言えば画面が狭い(WXGA)ことで、パナソニックはSXGA+であったが、入力のしやすさが最優先である。Sシリーズは裏の蓋をあければCPU交換も簡単(当然対応している場合のみ)で、17W(s8350)と10W(s8360)に換装している。

2012年1月 6日 (金)

神宮寺について(2)

 次に、神魂神社について確認する。ここでも浄音寺が神宮寺であるとの理解が行われているが、天正11年の焼失をうけて再建された神魂神社棟札には、末社として「神宮寺」がみえており、神宮寺は浄音寺とは別に神魂神社の境内にあったことがわかる。そして年未詳2月秋上中務覚書によると、出雲大社の遷宮で寺院施設が撤去されたのを受けて、神魂神社でも寛文8年には神宮寺と鐘撞堂が浄音寺に移されている。その後、浄音寺そのものも天和2年には退転し、仏像などは隣接する宝厳寺に移された。浄音寺は南北朝期の千家・北島両家の対立の中、北島家方として功績を上げて死亡した秋上氏一族の権二郎の弔うために建立された真言宗寺院である。
 そして平安期成立の真言宗寺院とされる宝厳寺は、戦国時代の一時期には竹矢郷安国寺の支配下に組み込まれたことがあったが、天文11年の大内氏による出雲国攻めの際に、浄音寺が富田城に籠城したのに対して、安国寺は籠城しなかったため、宝厳寺は浄音寺に与えられた。その宝厳寺が明治6年に廃寺となると、仏像などは地元民によって観音堂に保管されたが、大正11年に兵庫県西瀧寺をこの地に移転して、元の松鐘山浄音寺の号が付けられた。その本尊木造十一面観音立像は文永年間の作とされるが、本来はその当時にあった神納山神宮寺の本尊であった。神宮寺の山号神納山は、大庭と日吉の境目にあった神納山に神魂神社の前身となる宗教施設があったことによる。その時点では、国造は熊野神社の祭祀を行っており、国衙と熊野神社の中間に位置したのが神納山であった。
 以上のように(なおも他社の例を検討するが)、神社に対して神宮寺が建立され、その後の神宮寺の状況にもよるが、神宮寺単独ではなく、その他の関係寺院とともに社僧として神社の祭礼に関わっていくことが多い。神宮寺には狭義の神宮寺と広義の神宮寺があり、前者が存続する以上は、他の寺院が神宮寺とされることはないことを確認したい。

神宮寺について(1)

 出雲国の中世文書は神社関係が多く残っている。ただ、中世の神社は神仏習合により寺院と一体となっていた例が多かったにもかかわらず、神宮寺などの関係文書はほとんど残っていない。これは17世紀半ば以降、出雲国では神仏分離の動きが進み、関係資料を意図的に廃棄したり、関係部分を書き換えたりしたためである。そして、出雲大社では、尼子経久が境内に三重塔などの仏教施設を建立するまでは、神宮寺はなかったとの説もあるほどである。そこで、有力神社の神宮寺について確認してみたい。以前、『竹矢郷土史』の中でもこの問題に触れたことがあるが、明確に誤った説が最新の論文でも全く検討せずに採用されている状況があるからである。
 国衙のあった大草郷とその周辺地域を出雲国府中と呼ぶが、出雲国の政治・経済の中心であり、有力な神社と寺院が存在した。平浜八幡宮は、出雲国内の八所八幡宮の中心であるだけでなく、国衙との関係を持ち、出雲府中域に属する大草郷、竹矢郷、出雲郷内などに神田があった。この八幡宮の神宮寺は迎接寺であり、これ以外に長寿寺・長禅寺・観音寺・宝光寺・能満寺・菩提寺が別當寺として深い関わりを持ったとされる(『八束郡誌』など)。このうち、長寿寺と長禅寺については後世に関係文書が流入したもので、平浜八幡宮との関係を確認できない。
 残りの五寺についても天文16年7月の尼子氏奉行人連署禁制で「八幡庄下見村五ヶ寺」と呼ばれているが、これとは別に弘治元年11月の尼子晴久書下で、平浜別宮神宮寺検校(住持ヵ)職とその田畠について、菩提寺から相論があったが、神宮寺に還附するとしている。これを受けて永禄7年10月には尼子義久書下により、神宮寺住持職が晴久判形に任せて神宮寺栄重に安堵されている。この史料からすると、宝光寺(ないしは迎接寺)と神宮寺は別の寺院とすべきである。
 享保12年6月の八幡村迎接寺覚書には、迎接寺とともに神宮寺・宝光寺・観音寺・菩提寺を記して5ヶ寺が八幡宮社役を勤めてきたとするが、その一方で迎接寺以外の4ヶ寺は寺跡や堂・本尊等が残っていると記し、その時点では衰退していたことがわかる。能満寺がみえないが、永禄12年に推定できる尼子勝久袖判尼子氏奉行人連署安堵状では、浄音寺竜尊に安堵されている所領の中に八幡之内能満寺観音分領が含まれている。

2012年1月 2日 (月)

ブロードバンドルーター更新

 これまでコレガのブロードバンドルーターを利用していたが、インターネットへの接続ができなくなるケースが増えたため、更新をすることとした。十分検討したわけではなかったが、安定性からNECのAterm8700(bgnとagの同時利用が可能)と子機のセットを購入した。インターネットの接続は問題なかったが、それまで使用してきたブラザーのA3複合機とPCの接続がうまくいかなかった。
 とりあえず、ネットで検索すると、質問者があり、何人かのアドバイスを受けて再チャレンジした結果、NECとブラザーの組み合わせて利用は可能であることがわかったが、再チャレンジの具体的方法については明確に記してなく、アドバイスを参考にやってみたがうまくいかない。一応、PCがルーターを認識し、次いで複合機もルーターにつながった(認識した)ので、理屈上では動くはずが動かないのである。簡単に更新できると思っており、すぐに使用が可能となると思っていたので、ショックであった。NECには「らくらく設定」のボタンがあるが、ブラザーの機種には対応していないことを購入前に確認していなかったのが問題点であった。コレガはボタン一つで設定が可能だった。
 他の仕事もしなければならないし、インターネットは他の家族も利用するので、いつまでも利用不可のままにしておく時間的余裕はなかった。そのため、同じ日の閉店(20時)間際の電気店で、ブラザーのプリンターはAOSSボタンで自動的に認識するバッファローのルータを購入することとした。ところが、購入できるはずの該当機種のカードをレジで出したにもかかわらず、確認したところ在庫がないということで、急ぐなら、同程度の性能としてAterm8700があるがといわれてしまい、苦笑いである。取り寄せでは時間がかかるし、とりあえずその日は購入を断念し、コレガのルーターを復活させた。ただし、ネットの接続が断たれる状況がみられた。
 ということで、2日後の夕方に21時まで営業している別の店でバッファローの機種(bgnのみ対応)を購入して設定したところ、ブラザーの複合機の利用が可能となり、ネットの接続が途切れる症状もなくなった。NECについては、せっかくなのでバッファローと切替機で切り替えて使えるようにした。そしてある時、デスクトップPCをバッファローからNECとの接続に切り替えたところ、なぜかブラザーの複合機とつながっているのではないか。ノートPCでもNECに切り替えると同様であり、狐につつまれたような感じがした。
 ということで、ネットで調べたように、らくらく設定には対応していないが、Atermでもブラザーの複合機を使用することは可能であることを確認できた。バッファローはあるが、両対応で子機も付属するNECをメイン、バッファローを従で使用することとした。
念のため、利用方法を記すと、PCとプリンターをそれぞれルーターに接続した上で、ブラザーのドライバーなどのインストールを行うという順番になる。その途中で、PC側がプリンターを自動認識しようとするが、結局何も確認できないと出るので、複合機のIPアドレスをマニュアルで確認し、手動でアドレスを入力してインストールを行う。そして再起動すると、ブラザーの複合機が利用可能となる。そうなると、バッファローは不要となるが、とりあえずUSBでHDDやプリンターを共有できる機能があるので活用したい。 NECを選んだ理由は、プラズマテレビとケーブルビジョンのSTBをネットワークにつないで、それまでできなかったSTB経由のBSとCS放送の録画が可能になると思ったからである。STBはパイオニア製であり、システムのバージョンアップにより、ネットワーク上での録画が可能となったようである。ただ、ケーブルビジョンのサービスが対応していないので、録画は不可能であった。近隣のケーブルビジョンでは、HDDとブルーレイを内蔵したSTBのレンタルサービスを行っているが、松江市のケーブルテレビは未だ行っていない。そのため、BS・CS・地デジ3波対応のパラボラアンテナを設置するとともに、WOWWOWは2台目の契約を行い、録画が可能とした。それまでスカパーのJスポーツをアナログで契約していたのを、BSデジタルに変更した。できないのはSTB経由でのみ提供されるCATVのみである。

« 2011年12月 | トップページ | 2012年2月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ