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2011年12月

2011年12月29日 (木)

高橋氏について(2)

 赤穴氏と高橋氏の関係については、岸田氏が言及され、赤穴氏が高橋氏に一騎役を勤めていたと述べられていたが、今ひとつ理解できなかった。とりあえず、永正13年5月3日の高橋興光書状(赤穴駿河守宛)の訳文を作成してみた。
 福田村の事は、以前理由があって当方(高橋氏)に権益を約束した。さらにその以前にも、家(赤穴氏)中の対立の際に、福田村の在所を一騎役として高橋氏に与えていた。それについては一旦興光の代に返した。今度、森山・口羽について申し訳ないこととなったが、それにもかかわらずこれまで以上に味方していただいたので、福田村の一騎役をないことにします。本当に今回の懇意は末代まで忘れません。この筋目をもって相変わらず扶持いただき、奉公するのが本望です。
 ということで、①赤穴氏(高橋氏との説もあるが)の内部対立(15世紀中頃に赤穴氏の一族で福田村を支配していた千束氏が高橋氏の協力を得て、佐波氏惣領と戦うが、敗北、その戦後処理から千束氏領は佐波氏惣領方となった赤穴氏が3分2、千束氏が3分1となった)から福田村の権益の一部を一騎役として高橋氏に与えていたが、②興光の代に赤穴氏に返した。③その後福田村について、再度一騎役として与えることを赤穴氏が約束したが、④今回、森山と口羽について申し訳ないことがあったにもかかわらず、味方をしていただいたので、一騎役の約束はなしにしたと解釈できるのではないか。
 尼子経久から赤穴氏への享禄4年の書状によると、先年、尼子氏が高橋氏を退治した際に、森山・山中・河淵の支配権を握ったとある。これを享禄2年に毛利氏が退治した際と解釈する説があるが、とても筋が通らない。
 大永5年段階では高橋氏は大内氏方として活動しているので、その直後の大永6から7年の尼子氏による大規模軍事活動の結果、高橋氏(とくに弘厚)は、尼子方となり、所領の一部を尼子方に献上する形となった。それが去年=享禄3年に尼子氏の支配を離れたのは、毛利氏が高橋氏を滅ぼしたことと、塩冶興久の乱により、尼子氏(経久も興久も)がそれに対応できなかったからであろう。
 塩冶興久の乱は享禄3年段階では塩冶方が勝っているとの観測があったが、享禄4年4月段階で、山内氏のもとへ逃れる興久を追撃する中、尼子経久が赤穴氏に森山などを与えるので、城を攻略せよと命じている。そして、11月段階で確保したことをうけて赤穴氏に与えている。当然、確保するには毛利氏との調整が必要となるが、享禄4年7月段階で、尼子詮久と毛利元就の間では兄弟として協力するとの契約が成立していた。

2011年12月25日 (日)

PCの近況2011年末

 PCの近況について触れる。もう十分すぎるほどPCはあるが、TV機能が必要であるとして、デスクパワーの一体型を3万円弱で入手した。地デジカードが附属しないのが難であったが、丁度現在使用していないカードがあり、それを刺せば使用できた。ネットで調べると案外分解が容易ということなので、CPU交換を行った。実際に裏のねじ6本を外せば、内部に簡単にアクセスできた。こうしないとメモリーもHDDも交換できない。
 一体型本来のCPUはP8700で、25Wでキャッシュ3Mのタイプ。T9900(3.06、35Wでキャッシュ6M、DELLのE5500、WXGA+で使用)への交換も考えたが、発熱によりファンが回り続けるという状態も予想されるため、省電力のタイプとした。P9700は省電力タイプでは最高性能(2.8)だが、28Wであり、一体型のモニターがWXGA+なので、25WのP9600に交換した。P9700はLIFEBOOKのE8270(WSXGA+)で使用している。P9600のクロックは2.66でP8700(2.53)の一つ上でしかないが、キャッシュが倍の6Mである。とりあえずはこれで使ってみる。P8700はP9600で使っていたLIFEBOOKのE8280に入れた。確か入手した段階ではP8700であったはずで、何の問題もなく起動した。P9600はES版であるが、これも何の問題もなく起動した。分解した際に、FANを掃除し、CPUの温度上昇防止のクリーム?も再塗布した。
  これとは別に、LIFEBOOK・S8360のモニター13.3インチ、セレロンタイプを8千円で入手し、超省電力タイプ(10W)のSU9600も手に入れた。SU9600は、S8360のT8100と交換し、T8100をセレロンタイプに入れた.14.1インチタイプはLED液晶で省電力ということだが、13.3インチは普通のタイプである。附属していたバッテリーはそこそこ使えて、元は十分とれた気がするが、あとは使うこと。

2011年12月18日 (日)

南北朝期の出雲大社三月会関係文書

 出雲大社三月会の頭役負担については、文永8年(1271)に幕府により国内の庄園・公領を20番に編成して行うこととなり、内実は不明だが戦国期にいたるまでその編成が生きていたことが確認できる。
 貞和3年(1347)3月19日の室町幕府御教書によると、負担を回避する主張がなされていたことがわかる。須佐郷は石清水八幡宮領であるとして、生馬郷は塔婆料だとして負担を納めていない。須佐郷は鎌倉時代には得宗領であったが、その地頭職が後醍醐により石清水八幡宮に寄進された。生馬郷は鎌倉後期には守護領となっているが、その1町が鰐淵寺北院三重塔修理料田に寄進されている。この2ヶ所について幕府が守護に早急に勤めさせるよう命じている。
 次いで安来庄を支配する鴨社雑掌が愁訴しているが、幕府は、これも同様謂われがないとしている。結番帳では須佐郷と生馬郷が14番であるのに対して、安来庄は15番で、貞和4年(1348)の三月会の負担免除を求めていたのであろう。
 この関連史料として年未詳2月3日沙弥覚照書状と、6月16日朝山義景書状がある。前者は負担する側が国造に出したもので、出雲佐々木氏富田氏の一族である覚照が、美保郷内の自分の知行分については当年沙汰するが、美保郷内南浦、片細(片江)、七類は自分の所領ではないので、直接催促することを求めている。そして長田西郷の自分の知行分についても沙汰するが、詳細は代官から述べるとしている。美保郷は13番で、長田西郷は14番に属するので、当年度だけでなく次年度についても予告がなされていたのであろうか。そうした場合、この書状は貞和2年(1346)のものとなる。
 朝山義景書状は、国衙側の代表者として、三月会の祭礼を無沙汰している所々について遵行することを伝えている。宛所を欠くが、国造宛であろう。そこでは安田庄と長田西郷がみえている。安田庄は15番、長田西郷は14番である。覚照は沙汰するとしていたが、長田郷内の他の所領が無沙汰したのだろう。安田庄の無沙汰が問題となっているので、貞和4年のもので、その時点で過去の無沙汰も解決していなかったのであろう。
 沙弥覚照書状と朝山義景書状は『新修島根県史』段階では南北朝末のものとされていた。それを筆者が、沙弥覚照(羽田井高泰、美作国守護富田秀貞の守護代)と朝山義景の活動年代から14世紀半ばのものとし、それが南北朝遺文や大社町史で反映されるようになったが、さらに精度を高めれば、沙弥覚照書状は貞和2年、朝山義景書状は貞和4年のものとなる。

2011年12月 1日 (木)

高橋氏の滅亡

 塩冶興久の乱の起こる前年享禄2年には、尼子氏は備後国多賀山氏を攻め、7月末の落城寸前のところで大雨により退却した。この年5月、一方では安芸国北部から石見国東南部にかけて所領を有する高橋氏(弘厚)に対する毛利氏と大内氏家臣弘中氏による攻撃が始まっていた。高橋氏が出雲国の尼子氏と結んだというのが討伐の理由であった。安芸国上下庄松尾城を陥落させ、次いで石見国阿須那藤根城を攻略し、高橋大九郎興光を切腹させた。問題は高橋氏滅亡の時期である。岸田裕之氏は享禄2年5月3日に毛利元就が家臣粟屋氏に感状を与えていることと同年7月21日に大内義隆が周布氏に豊前国内の高橋興光領を与えていることから、享禄2年と評価されたが、高橋氏が尼子氏方となった段階で豊前国内の所領の没収はあり得ることであり、この時点で滅亡していたとは言えない。強大な勢力を持つ高橋氏であり討伐は容易ではなかったと思われる。大内義隆が毛利元就に上下庄を与えた享禄3年7月までには弘厚は滅亡していたこととなる(同年5月28日陶興房書状でも様子を毛利側に聞いている)。
 上下庄攻略は弘中氏ら西条衆と和智氏の協力を得たが、阿須那攻略は、毛利氏と宍戸氏の武略で行ったとする。高橋氏は塩冶氏に救援を依頼したが、享禄3年3月末以降、出雲国では塩冶興久の乱が発生し、興久方も経久方も救援は困難であった。特に高橋氏が期待したのは塩冶方であったが、毛利氏の進言を受けて大内氏が経久方を支持したため、興久方の試みは失敗してしまう。
 前にも述べたように、享禄3年には尼子氏による3度目の大規模軍事行動が計画されており、それに叛旗を翻す興久に対しては、大内氏や毛利氏方からの支持が期待され、事前の交渉も行われていたであろう。興久に対して都治氏跡の継承を求めた福屋氏と河上氏にも、興久勝利との予想があったと思われる。それに対して、毛利氏が経久方を支持することにより、ただでさえ困難な塩冶氏による高橋氏救援は不可能になった。
 以上、高橋氏の滅亡について述べたが、最終的に阿須那藤根庄が落城し高橋氏が滅んだのは享禄3年の興久の乱開始以後のことであった可能性が高い。そして、毛利氏による高橋氏攻撃と塩冶興久の乱の間には関係があったと思われる。前に述べた新宮党討滅が毛利氏による石見国中西部への軍事行動を可能としたように、塩冶興久の乱が毛利氏による高橋氏討滅を可能としたのである。2つの事件ともに、尼子氏内部の積極的な意思により引き起こされたものではない。

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