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2011年11月

2011年11月30日 (水)

文書の時期比定と評価(3)

 さきほど、立原幸隆の花押について述べたが、黒印状に押された幸隆の花押はⅠのタイプである。そこからすると、黒印状は永禄3年以前のものとなる。真鍋豊信は坪内氏関係の文書のみの署判者としてみえる。最も時期が早いのは、年未詳ながら関連文書との関係で天文16年に比定される4月29日真鍋豊信書状(坪内宗五郎宛)であり、出雲大社の室(宿泊施設)の相論について連絡している。次いで天文22年、弘治4年の文書が続き、最終が永禄5年8月21日の尼子氏奉行人連署下知状(坪内次郎右衛門尉宛)となる。花押の右端の部分に違いがあり、天文16年のもの、天文22年・弘治4年のもの、永禄5年のものの3グループとなる。問題の黒印状の花押は第2グループに属す。この検討結果も立原幸隆の花押による結果と矛盾しない。
 黒印状、牛尾久清書状には「御法度」の如く、「御法度」に任せとの表現があった。この御法度そのものは残っていないが、関係すると思われるのは永禄元年6月の杵築御法度である。天文21年に定められたものに、修正を加えたものである。これに対して黒印にみえる「御法度」とは出雲国や流通に関するものであろうが、杵築御法度と同時期に制定・修正された可能性が高い。
 以上の点を総合すると、黒印状は永禄初年(1か2)のものとみることができる。石見国の情勢は毛利氏との関係で緊張が高まりつつあったが、この時点では永禄4~5年とは状況が異なり、戦時ではなく平時の出雲国内の流通などについて定めたものであろう。
 以上のように、年次の比定を確実に行うことにより、その文書の評価の精度を高めることが可能となる。

文書の時期比定と評価(2)

 尼子氏家臣としてもっとも多くの花押を残すのが、立原幸隆である。その花押は大別すると二つに分かれる(Ⅰ・Ⅱ)。Ⅰで最も時期が新しいのは「永禄二年」と異筆で書き加えられた10月5日佐世伊豆守清宗・立原備前守幸隆連署書状(秋上家文書)である。一方Ⅱで最も古いのは「永禄四年」と異筆で書き加えられた2月13日佐世伊豆守清宗・立原備前守幸隆連署書状(日御碕神社文書)である。書き加えられた年号に矛盾はなく、永禄四年以降はすべてⅡとなる。
 永禄2年から4年の間の大きな変化としては、永禄3年12月の尼子晴久の死亡であろう。これが立原幸隆の花押変化の理由と考えられる。また、晴久の死後発給文書が急増するのが佐世清宗である。
 以上の前提のもと注目するのが、永禄4年から5年に比定される2月5日尼子氏奉行人連署米留印判状3通である。馬1匹の石見国への通行を認めるとともに、米・酒・塩・噌・鉄については御法度の如く作留めるが、その外の肴・絹についてはその限りではないとしている。流通に関する文書であるとともに、流通にかかわる人物(馬士)に対する文書である。文末には袖御判を成すとあるが、実際には「米留」と読める国印が押されている。宛所は「次郎五郎」・「彦六」・「助次郎」とあり、商人頭坪内氏のものにあった人々であり、従来は発給対象に含まれなかったが、その文書形式に配慮して、袖判の代わりに黒印が押されたのであろう。
 5年に比定する説(岸田裕之氏、佐伯徳哉氏)は、永禄4年10月9日牛尾久清書状(坪内孫次郎宛)と関連づけるものである。牛尾久清は当時石見国に派遣され、島津屋関所を守っており、御印判の旨に相違なく、紛れが生じた際には御法度に任せるとした上で、馬3匹分の通行を認めている。永禄5年説はこれを受けて印判状が出されたと解釈するが、それよりもすでに与えられている御印判の旨の通りに通行を認めると解釈するほうが妥当であろう。これが永禄4年説の根拠だろう(出雲尼子史料集)。何より黒印状は立原幸隆・真鍋豊信の連署となっている。

文書の時期比定と評価(1)

 戦国期の文書には無年号のものが多く、時期の比定が大きな課題となるが、必ずしも十分な作業を経ずに比定し、結果として誤った評価をしてしまう場合が、ままある。誰にもありうることであり、かつ、新たな史料の発掘により比定が変わることもある。このことについて、尼子氏とその家臣の発給文書を例に、以下に述べていく。
  無年号文書の比定には、関連文書の検討、発給者・受給者の通称・官職の変化、そして発給者については花押の変遷などが基礎的データとなる。このうち、最後の花押の問題については、あまり考慮されていないが、人物によってはそれが決め手となって、文書の内容を併せて時期の特定につながることがあることは、出雲国守護京極政経について述べたことがある。ただ、花押のみで判定するのではなく、関係する情報を総合して判断するのは当然のことである。
 須佐神社には①年未詳5月1日尼子晴久寄進状(本城兵部太輔宛)と②年未詳6月25日尼子晴久書状(須佐大宮神主宛)が残されている。①は須佐大明神に刀と神馬を社入したところ、神主から樽が送られてきたことを、須佐郷を支配する本城常光に伝えたもの。②では祈念の巻数が到来したことを感謝するとともに、神馬をまもなく引き進めることを伝えるとともに、池田治部丞が詳細を述べるとしている。池田氏は尼子氏直臣富田衆であり、天文9年竹生島奉加帳では「池田次郎四郎」がみえている。
 『出雲尼子史料集』では①を「民部少輔」との晴久の官職から、天文21年以前のものとして天文21年のところに、②を晴久の没年=永禄3年以前のものとして永禄3年のところに配置している。晴久が民部少輔から修理大夫に進むのは天文21年ではなく、天文24年初めのことである。また①の花押が天文21年の守護補任前後からみられるのに対して、②は経久の死後から晴久の守護就任前(天文20年)までの期間にみられるものである。
 花押だけでなく、②ではこれから神馬を進めることを述べているのに対して、①では神馬が社入されており、②の方が①より早い時期のものである。①の本城常光は天文23年11月須佐大宮柱銘では「大宅朝臣高橋越中守常光」とあり、天文23年以前のものとなる(恐らくは21年4月の守護補任直後)。

2011年11月28日 (月)

大内氏の邇摩分郡知行

 この点については井上寛司氏の研究があるが、細部については十分煮詰められていない点がみられるので、再検討してみたい。
 まず大内氏の邇摩郡分郡知行の開始時期について、井上氏は応永8年から10年とされ、応永の乱で追討された大内義弘の子盛見が幕府の任命した防長守護(弘茂と道通)を打ち破り、幕府から防長守護職を認めされたからだとされるが、具体的にそれを示す根拠となる事例はみられない。石見国守護山名氏にとっても大内氏の内紛に勝利したことで邇摩郡が大内氏の支配下に組み込まれるのは、認められないことであろう。また、井上氏が邇摩郡内仁摩・天河内両郷が大内氏の直轄領となったと指摘される点についても確認できない。周布氏と福屋氏の一族である福光兼継の孫兼信には「仁万地頭」との記載もある(周布家系図付属の福屋氏畧系)。
 確実なのは文安元年に御料所(大内氏直轄領)としてみえる井尻であるが、応永32年6月に大内盛見が右田三郎貞俊に井田村を宛行っていることを併せて考えると、この時点で井尻・井田両村を含む大家西郷全体が大内氏直轄領となり、併せて邇摩郡に関する守護の権限が分割されて大内氏に与えられたのではないか。応永13年に守護山名氏が邇摩郡井尻が桜井氏に押領されているとして、周布氏に代わりに福光上村を預けているのも、この時点では邇摩郡の守護権が分割されていなかったこと示している。
 永享12年の石州段銭注文では、守護山名氏関係者が作成したリストの中に邇摩郡は完全に欠落しており、この時点では守護権の分割がなされていることが確認できる。とりあえず、15世紀半ばまでに大家西郷が大内氏領となった点と、邇摩郡の守護権が大内氏に分与された点について認められる。
 問題はその背景であるが、i一次史料は十分残されていないが、都治氏に関して桜井庄地頭土屋(桜井)氏が行った押領事件が、応永末年頃に守護山名氏と有力国人の協力で解決されており、この功に応じる形で大内氏の権限拡大がなされたのではないか。都治根元などの関係資料には、土屋氏鎮圧により、波積は守護山名氏領となり、土屋氏が押領していた都治下村がさらに2分割され、都治氏と大内氏に与えられたことが記されている。土屋氏鎮圧に大内氏が重要な役割を果たしたのは確実である。この問題は石見国の守護領(山名氏領)とともに論じていく必要がある。
付記 その後の検討により、邇摩郡の分郡知行は応永の乱後、山名氏清の子氏利・時久兄弟が石見国守護になったことにより始まったことが判明。弟時久が邇摩郡分郡守護で、その他は兄氏利が守護であった。両者は「両守護」と呼ばれている。その後、安芸国人一揆鎮圧のため、安芸国へ出兵した氏利が応永13年正月までに戦死すると、時久も安芸国に出兵し、同年半ばにはこれまた兄である満氏に代わって安芸国守護に補任された。一方、石見国守護は山名氏一族の長老で大内弘世の前の守護であった義理が二度目の守護となり、いったん分郡守護は解消された。その後が、上に述べた大内氏による分郡守護となる。

2011年11月27日 (日)

永安氏の惣領

 永安氏についてはその残した文書についてすでにみたが、まとまった系図がほとんど残されていない。今回、周布氏系図に附属する三隅氏畧系を基本とし、文書で確認したい。
 広田七穂氏『西石見の豪族と山城』でも永安氏についてはA)益田氏系図(須佐益田家)とB)三隅氏系図(龍雲寺本)が引用されているが、いずれも15世紀の初めぐらいまでしか記されていない。これに対してC)三隅氏畧系では永安氏滅亡までの記載がある。
  Aでは以下の通りである。①兼祐②兼栄③兼員④兼秋⑤兼冬⑥兼雄。広田氏の指摘もあるように、⑤⑥は三隅氏一族井村氏の惣領であり、永安氏とは異なる。三隅氏畧系では④兼秋女子が井村兼冬に嫁すと記され、これが兼冬と兼雄が永安氏と混同された理由であろう。ただ、兼冬は14世紀前半で、兼秋は14世紀後半の人物で、これを事実とみるのは困難である。
 これに対してBでは、③までは同一で、④兼祐(兼秋)⑤直秋まで記す。Cは以下の通り。①兼祐②兼栄③兼員④兼秋⑤直利(初兼之)⑥兼範⑦兼貞⑧兼光⑨信直⑩興兼⑪隆信⑫信盛(初兼盛、又信時)。惣領以外はほとんど記しておらず、情報の乏しさがわかるが、④兼秋(周防守、祥永)⑤直利(左近将監、太郎)⑥兼範(周防守、太郎)については、益田氏と弥冨名の領有を争った人々と通称と官位名が一致している。
 応永25年10月29日には益田周兼が永安殿(兼範か兼貞であろう)に対して弥冨名中村の公田数を定めており、一旦は益田氏の支配下に入ったと思われる。一方、兼貞の子兼光は、は文明9年9月27日三隅氏老臣連署起請文の署判者としてみえ、惣領三隅氏の支配下に入っている。永享12年の石州段銭帳でも永安は三隅氏知行となっており、そのもとで永安氏が支配していたのだろう。一方、永安氏女子良海の子孫でもある吉川氏が、永享12年に将軍義教から安堵された所領にも永安別府半分がみえるが、実効性はなかったと思われる。
 康正2年には吉川之経が永安一方向分を向因幡守に安堵し、明応4年6月には吉川国経が向雅楽助に永安下分内向分を安堵している。この後明応8年には三隅氏が吉川氏に弥積(冨)半分と永安半分を吉川氏に打ち渡しているが、これで吉川氏の支配が安定したわけではなく、天文3年以前には吉川氏が毛利氏と大内氏に対して永安下分について訴えている。天文18年には大内氏により三隅氏の支配が認められているが、実際は上分は永安氏が、下分は三隅氏が支配していた。それが天文20年には永安治部少輔が永安下分の知行を懇望し、陶氏がこれを一旦は認めた。しかし下分は三隅氏領であることが判明し、さらに翌21年には大内氏によって三隅氏領が益田氏に与えられた。
 ⑧兼範の後継者は⑨信直であり、その名から三隅氏との関係が窺われる。次いで⑩興兼(明応6年7月2日某安堵状の宛所に永安次郎興兼あり。岡本家文書)をへて⑪隆信となる。隆信は三隅氏惣領興信の長子であったが、永安氏に養子として入り、次いで益田尹兼女子を妻としている。天文24年3月には毛利氏・吉見氏方との合戦に関する永安氏惣領隆信の注進に基づき、大内氏が永安式部少輔に感状を出しているが、式部少輔は隆信の子で、次の惣領である可能性が高い。この式部少輔の代に永安氏は滅亡したが、一旦益田氏のもとへ逃れたと言われ、そのためか永安氏の文書が、益田家文書として伝わった。

三隅氏の惣領(6)

 以上のような状況を一変させたのは出雲国尼子経久の石見国への進出であった。永正14年段階で大内義興が石見国守護に補任されたが、前守護代が尼子経久へ合力する事態が生じている。そして大永2年9月には最初の石見国への軍事活動が展開され、都治の今井城を攻めて都治氏を自害に追い込む。その当時都治氏と関係の深かった福屋氏からも家臣野田氏らが今井城に派遣されていた。野田氏らは一旦、都治氏遺児を伴い福屋氏のもとへ帰るが、尼子氏との交渉の結果、遺児も殺害された。
 次いで翌3年には福屋氏を攻撃するため、江川を越えて尼子氏の軍事行動が展開され、小石見郷や周布郷でも合戦が行われた。大内氏の救援により戦線は膠着し、尼子氏はまもなく退却したが、周辺地域の神社仏閣はことごとく焼失する事態となった。このような中では一族間の対立どころではなく、益田氏一族は一致して大内氏方として行動したと思われる。
 ただ、江川以東については尼子氏が強い影響力を持ち、享禄年間には、都治氏領について、福屋氏はその領有を塩冶興久に働きかけ、これを知った都治氏の惣領になる河上氏も都治領の都治氏遺児(大永2年以降誕生)による相続を求めた。興久は江川両岸の掌握を優先して、江川東岸を支配する河上氏の求めに応じ、後に都治隆行が都治領を相続した。
 永安下分は三隅氏が支配、上分は永安氏が支配していたが、天文21年6月の三隅分不知行目録には永安治部少輔が当知行する永安上分が記されており、三隅氏の立場からは上下とも自らの所領としていた(永享12年の段銭帳では永安は三隅氏知行とする)。実際に天文18年段階では永安別府は三隅氏の支配が認められており、これに吉川氏は不満を持っていた。前に述べたように、明応8年段階で吉川氏は三隅氏から永安半分を打ち渡されていたはずであった。天文3年以前の10月16日大内氏奉行人杉三河守興重・吉見三郎右衛門尉(天文3年9月には丹後守)連署奉書には、吉川方から毛利方へ申し入れがあり、それを永安氏に尋ねている。永安をめぐる問題であろう。
 天文20年には陶氏が永安治部少輔が永安下分の知行を所望し、陶氏がそれを認めたが、翌天文21年の時点では三隅氏領は大内氏から益田藤兼に与えられている。次いで天文23年には、三隅氏と永安氏は陶氏方として行動している。天文23年11月8日に毛利元就・隆元父子は、新宮党討滅とともに、永安について過半を討ち果たしたことを福屋上野守に返書しており、毛利氏方との戦闘であった。
 天文24年3月には大内氏奉行人が永安氏惣領隆信の注進に基づき永安式部少輔(兼政ヵ)に対して感状を与えている。天文24年にも福屋氏と永安氏との間で合戦があり、11月には勝利した福屋隆兼が上分を吉川元春に渡した。その後の永安氏は益田氏を頼るが、結局滅亡に追い込まれたとされる(続く)。

三隅氏の惣領(5)

 永正4年5月には、近年義絶状態にあったが大内氏の仲介で和解・合力することを興兼(信)が益田宗兼に約している。明応9年以降も対立は継続していた。今回は興兼に男子がないとして、宗兼二男熊次郎丸を養子として家督を譲ることを述べているが、ただ、今後実子が誕生した際には、熊次郎丸に所領1ヶ所を譲るとしている。次いで永正7年12月には益田氏の仲介で、三隅氏と福屋氏の間の和与が成立したとして、再度益田氏への協力を約している。実際には実子隆周と兼信・寿久が誕生し、隆周が家督を相続し、兼信は永安氏を相続した。兼信と寿久は母が京都人とされ、寿久は永正12年の誕生と記されている。永正8年には大内義興の上洛に三隅氏も参加したと思われ、京都人を母に持つ子の誕生の背景となったであろう。
 しかし、永正9年8月には、福屋慶兼が小石見郷の岡本次郎四郎に対して本地の安堵と扶持する旨の書下を与えており、三隅氏と福屋氏の間の対立は続いていた。次いで永正12年2月には三隅氏が益田氏領金山を攻撃して対立が再燃し、6月には三隅氏領古和に牢人が立て籠もる事態となっており、一族内に興兼に反対する勢力がみられるようになった。永正14年8月の福屋慶兼書状では、三隅家中で成立した中務少輔殿と長寿丸との契約に岡本次郎左衛門尉が協力したことにより、府中(伊甘郷)と小石見郷についても無事(平和)解決したことを喜ぶとともに、今後西方(三隅氏か)から働きかけがあっても同心しないよう求めている。三隅氏が周辺諸氏と対立する中、三隅氏領であった小石見郷に福屋氏の勢力が及びつつあった。
 永正15年には益田氏側が三隅洞明寺山城を攻撃しているが、4月26日には福屋慶兼が小石見郷の肥塚氏に同城攻撃の感状を与えており、小石見郷とその領主が福屋氏の支配に入るとともに、三隅氏攻撃に参加していることがわかる。

三隅氏の惣領(4)

 龍雲寺本をはじめとする三隅氏系図では「豊信-貞信」と記すが、文書では両者の間に
「長信」がおり、且つ前述のように貞信の父が長信であるとする。また、三隅氏畧系では「豊信-長信-貞信」として、長信を豊信の子とし、両者は法名も異なっている。ただ、長信の花押(文明9年)を豊信の花押(康正元年~応仁3年)を比較すると、同一といってよい状況であり、両者は同一人物である可能性が高い。益田氏との対立から協調へと転じる段階で、豊信から長信へ改名したのであろう。
 なお、豊信女子は周布元兼と結婚し、文明10年には嫡子興兼が誕生している。前年の文明9年12月に三隅長信と貞信父子は益田貞兼に起請文を書いて益田庄内の所領支配に協力することを約束し、同13年には貞信が益田貞兼に伊甘郷を初めとする所領への競望を行わないことを約している。この時期に豊信女子と周布元兼の結婚が実現したのだろう。
 貞信の嫡子が興信で、明応5年には疋見、丸毛、津毛の3ヶ所について益田宗兼の支配を認め、競望しないことを約束している。益田氏系図によると、宗兼女子が興信の妻となっている。これに先行する形で、明応3年12月には周布元兼が益田宗兼に新知行地を強敵(三隅氏か)が抱えているので、解決のため協力することを誓っている。次いで明応4年6月には小笠原長定・長隆父子が益田宗兼に、三隅氏から津毛郷が去り渡されたことについて、証人として違変があれば合力することを伝えている。長定の妻(長隆の母)は三隅興信の兄弟であり、貞信(中務少輔入道)女子であった。
 次いで明応8年3月には興信が、永安別府と弥積(冨)半分について、吉川氏に打渡している。明応6年段階では永安上下は永安氏が支配していたが、三隅氏と吉川氏の支配が認められたことになる。同年には吉川氏と福屋氏の間でも、益田氏と河上氏が仲介して交渉が成立している。その一方で益田氏と三隅氏の対立は解決しておらず、同年8月には周布元兼と庶子尭祥が三隅藤五郎興信から2・3の所領への攻撃があり、撃退したことを述べ、益田孫次郎宗兼と対三隅氏で合力することを約している。この間の戦闘により10月には三隅興信は一旦安芸国廿日市へ逃れるような事態となった(肥塚家文書)。今回の問題については明応9年12月に大内義興の仲介により解決し、翌年に大内義興が3ヶ所を益田宗兼に安堵している。

三隅氏の惣領(3)

 信世の後継者が氏世であり、次いで惣領となったのが信兼である。信兼には母が益田兼家女子と記されるが、氏世には室の記載がない。益田氏系図には兼家女子が三隅某に嫁したとのみ記す。三隅某=氏世の可能性も否定できないが、一方では、孫次郎氏世(法名道悦)と五郎太郎信兼(法名信慶)の名には共通点が少ない。そしてこの信兼の時代(永享元年~12年)には益田氏(兼尭)との間に所領をめぐる対立が発生し、これに大内氏内部の対立(持世と持盛)がからみ、いったんは持世が三隅城に逃れたが、まもなく惣領の地位を回復している(永享4年)。
 信兼は康正2年2月に死亡している。その跡は太郎泰信が一旦継承するが、美作国で戦死し、弟の豊信が継承した。享徳2年11月1日には某袖判宛行状(花押は信兼とは違う)により大工新左衛門に知行が安堵され、康正元年12月には豊信が小石見郷岡本氏に安堵状を与えている。享徳2年の袖判の主が泰信であり、次いで豊信へ継承し、その後信兼が死亡したことになる。
 豊信は、応仁の乱で東軍となり、大内氏との関係から西軍となっていた益田氏領を与えられてた。これに対して大内政弘は三隅氏領を没収し、益田兼尭に与えた。問題はどちらが優勢となるかであったが、益田氏は文明4年には東軍に転じて、同6年には益田氏への所領安堵について、三隅氏を含む国人に幕府から合力することが伝えられている。
  文明3年閏8月15日には、高橋命千代を東軍方とするように7名の石見国と安芸国の国人が名を連ねているが、その中に「三隅中務少輔長信」がみえる。中務少輔豊信の発給文書が確認できるのは応仁3年正月(岡本家文書)までであり、文明3年7月には三隅貞信が親である長信の横樹氏に対する安堵を再確認している(岡本家文書)。

三隅氏の惣領(2)

 3代目の信盛については、三隅氏畧系では初め兼盛、又信時とも号したとする。今回、周布氏系図所収周布家文書中に、延慶2年(1309)10月10日付けで信盛次女藤原氏が与えられた孫次郎信盛遺領配分状が残されており、信盛であったことは確認できた。次女は周布氏庶子であった三郎兼貞と結婚していたが、兼貞は兄で周布氏3代惣領であった時兼が早世したため、弥次郎兼信と名前を改め4代惣領となっている。また藤原氏領であった木束郷の一部も後には周布氏の支配するところとなっている。三隅氏3代信盛も早くに死亡し、その遺領が配分されたこととなる。それは益田兼長、周布時兼も同様であった。益田氏一族は鎌倉前期には益田右衛門尉兼季の弟(三隅左衛門尉兼信、福屋右兵衛尉兼廣)と子(左衛門尉兼時、周布右兵衛尉兼定)というように任官していたが、鎌倉後期の一族の惣領は任官していない。武士の任官には多大な費用が必要であったとされるが、東国武士中心の鎌倉幕府の下で、西国武士の地位が低下していることが窺われる。
 若くして三隅氏4代惣領となったのは次郎兼連(法名は信性)であった。2代目兼村は太郎であったが、3代目信盛は孫次郎であった。このあたりも太郎兼長から弟の次郎兼久に惣領が代わった益田氏との関係で微妙である。三隅氏庶子永安氏も次郎を通称としていく。
 兼連の弟兼冬の系統が井村氏で、兼冬の子が兼雄と兼信である。兼雄は南北朝動乱初期に小石見郷に立て籠もり、幕府方の攻撃を受けている。兼信は三隅兼連女子と結婚し、生まれた信世(法名道満)が三隅氏惣領家を継承している。兼連の後惣領は嫡子兼知と嫡孫直連が継承している。直連は益田兼見女子と結婚し、この間に生まれた直連女子が結婚した信世を惣領とした。このあたりは、龍雲寺本からはうかがうことはできない。

三隅氏の惣領(1)

 この問題については『三隅町誌』、広田八穂『西石見の豪族と山城』などで述べられ、「西国の山城」というHPでも現地の訪問記とともに参考文献の情報がまとめられている。ただ、福屋氏と同様、関係資料が散逸したため、不明な点が多い。その庶子永安氏についても併せて述べたい。
 三隅氏初代は益田兼高の子兼信である。ただ、弟の福屋兼廣と同様、惣領益田兼季との間には一世代分の年齢差があり、兼高の晩年に所領の配分を受けている。代々の惣領には複数の名前を持つものがあるが、初代兼信の「兼」(惣領益田氏は常にこの字を使う)と「信」という二つのアイデンティティの間で揺れ動いている。兼信もまた、いったんは惣領兼村に譲った所領を晩年の子乙法師丸(後の永安兼祐)に再分配している。永安氏はその歴史を三隅兼信以来とし、それ以前の益田氏にはさかのぼらせない。また、同じく兼信の子である女子は惣領益田兼長と結婚し、その古文書は益田氏惣領を考える重要な手がかりとなる。また、兼信女子と結婚して末元別府を相続したのが、益田兼季の子で惣領兼時の同母弟兼直であった。末元氏関係文書は周布家文書に残されているが、後述の三隅氏畧系の記述により、末元別府が本来は三隅氏領であったことがわかった。
 とりあえず、益田氏関係系図で最も信頼性の高い「三隅氏系図」(龍雲寺蔵)は以下のように記している。①兼信②兼村③信盛④兼連⑤兼知⑥直連⑦信世⑧氏世⑨信兼⑩太郎⑪豊信⑫貞信⑬興兼⑭隆兼⑮兼忠。親子のように記されるが、兄弟間の相続もあった。広田氏前掲書では古文書の情報を併せて、系図を再構成している。今回はこれに周布氏系図に附属する三隅氏畧系の情報を併せてみていくが、やはり古文書から得られる情報による検討が不可欠である。
 益田氏系図には庶子である三隅・福屋・周布氏の系図を含むものと含まないものがあるが、前者の場合も15世紀の途中ぐらいまでしか記さないものがほとんどで、三隅氏の場合は15世紀半ばの惣領⑨信兼までのものが多い。

福屋氏と新宮党討滅

 福屋氏については、天文22年9月と天文24年10月以前の2回、家臣団内部の対立がみられた。前者については、密接な婚姻関係のある小笠原氏との戦闘についての異論が重富氏から出されたとしたが、それ以上に大きいのは大内氏方の家臣で観測が流れていたように、福屋隆兼が出雲国の尼子氏と結ぶことへの抵抗であったろう。
 それに対して、大内氏、毛利氏からはそれを阻止するための様々な調略がなされたであろうことは想像に難くない。天文23年11月18日の毛利氏から福屋上野守への書状もその一端を物語るものである。これは福屋氏からの書状に対する返書であり、それ以前にも両者の間で何度かやりとりがあったであろう。
 書状では11月1~2日に発生した尼子晴久による新宮党討滅について事実のみを述べているが、それまでのやりとりで詳細な情報と観測が伝えられていたので、政治情勢に大きく影響するにもかかわらず、単に事実のみを記している。
 何が言いたいのかと言えば、この新宮党討滅が最終的に福屋氏が尼子氏と結ぶという選択を断念し、毛利氏と結ぶ決断をしたことにつながったことである。天文23年5月までに、毛利氏が陶氏と手を切り、これと対決する行動に転じたことにより、情勢は大きく変化した。その状況下で、福屋氏が尼子氏と結ぶという選択肢は、陶氏と毛利氏の対決により、より現実味を帯びたものになっていた。毛利氏にとって最も避けなければならなかったのは、福屋氏が尼子氏と結び、大内氏とともに挟撃してくることであった。その意味で、新宮党討滅事件の持つ意味は大変大きかった。大内氏方と対立してきた福屋氏にとっては、毛利氏と結ぶという選択肢しか残されていなかった。これは天文23年末のことであったろう。そして、毛利氏は吉見氏と結んで石見国に兵を進めることが容易になった。それが本格化したのは天文24年の初めからであった。

2011年11月23日 (水)

福屋氏と佐波氏

 福屋氏内部の問題としては、天文24年10月3日福屋隆兼感状(岡本大蔵丞宛)で、上野介と兵部大輔の雑意(悪計)の問題が述べられている。家来忩劇に発展したが、この時点までに千代延藤左衛門尉の働きで鎮圧された。
 兵部大輔については不明だが、上野介は天文23年11月8日毛利隆元・元就連署書状(個人蔵、出雲尼子史料集)の宛名としてみえる福屋上野守と同一人物であろう。毛利氏との連絡にあたっていた一族の有力者と思われる。ここでも福屋氏で意見の対立があり、一族が討伐される事態に発展した。そこには当然のことながら惣領隆兼の資質も深く関係したであろう。また、天文7年9月9日大内義隆感状(益永道祖寿宛、萩閥)では、石見国の福屋上野介が大内氏方の部將益成重友を長門嘉年城に攻めて敗北したことが述べられている。
 天文23年(天文24年前半の可能性が強い)の段階では、陶氏側が益田氏に石見国東部の温泉氏・佐波氏・小笠原氏と福屋氏の動向を伝えており、福屋氏が毛利氏方となったのに対して、東部の3氏は陶氏方として行動していた。それが、同年10月の厳島の戦いで陶氏が毛利氏に敗北すると、温泉氏と小笠原氏が尼子氏と結んだのに対して、佐波氏は毛利氏と結ぶこととなった。
 当時の実質的当主興連は天文5年の尼子氏の攻撃により山口に逃れ、惣領隆連も大内氏の出雲国攻めの失敗により山口に逃れていた。興連は天文16年までに出雲国への帰還が実現したが、その女子は山口時代に関係を深めた宍道隆慶と結婚していた。高橋氏の一族で出羽郷本城を本拠とした本庄(本城)常光は、佐波氏領であった須佐郷を尼子氏から与えられていた。
 以上のように石見国東部の国人でいち早く毛利氏と結んだのは佐波氏のみであったが、この点が毛利氏による石見国西部進出を容易にした(毛利氏は旧高橋氏領阿須那・口羽を支配し、天文23年10月段階で、出羽氏はすでに毛利氏方となっている)。

2011年11月22日 (火)

温泉氏と片山氏・横路氏連署状

 周布家文書に天文10年10月23日片山土佐守繁幸、横路帯刀左衛門吉路連署書状がある(萩閥百二十一ノ四-290)。宛名にみえる周布兵部少輔は周布氏庶子の兼諶で、片山・横路両氏が御判并御奉書に任せて福光郷内河下・湊両所50貫文の地を打渡したことを伝えるとともに、披露するよう依頼している。関係するものは、天文10年10月9日太宰大貳大内義隆書下(御判、萩閥169)とそれを承けた同年10月19日問田隆盛書下(御奉書、萩閥170)である。
 この片山・横路氏については、天文12年12月13日(温泉ヵ)定永書下(市山山根家文書、湯浅家所蔵)に関連して、同日に連署證文が出されている(文書そのものは伝わらず、山根氏由緒書による)。定永書下は、邇摩郡中郷村并於市町鋳物商賣之事を山根氏に安堵するとともに、山根経安から申し出のあった「当国鋳物司存知之旨」についても了解したことを伝えている。片山土佐守繁幸・横路宮松丸連署證状についても同内容のものと思われる。
 さらに、天文20年4月29日には温泉信濃守隆長が、当(温泉)津鋳物商賣頭領之儀を望んだ山根経安に対して、了解している(書下、河本山根家文書、志賀槙太郎氏所蔵)。そして翌30日には片山土佐守繁幸と横路孫三郎盛乗が、経安が真継宗弘から石見国鋳物師頭領に補任されたことを承けて、当(邇摩)郡鋳物師之事は存分に任せるよう伝えている(書下)。山根氏由緒書では、両者を温泉隆長の家臣としているが、2つの文書の表現の違いが気になるところである。ともあれ、片山・横路両氏は、温泉氏とともに、大内氏の下で、邇摩郡内の権限を安堵する立場にあったことは確かである。なお、付け加えると、横路氏は大家西郷内横道を苗字とする横道氏の一族である可能性が高い。

2011年11月16日 (水)

福屋氏による重富氏討滅

 福屋氏の滅亡に関して軍記物では重臣重富氏一族の討滅があげられる。重富氏については、天文4年に重富次郎兵衛尉兼里が、福屋正兼書下を受ける形で岡本左衛門尉に所領を打ち渡していることが確認できる。ところが、天文22年11月26日福屋隆兼感状(江田家文書、山口県史)によると、重富氏討滅は軍記物の説く永禄年間ではなく同年9月23日のことであることが判明する。この時点の福屋氏は、毛利氏、陶氏、尼子氏のいずれと結ぶかが大きな課題であり、結果としては毛利氏と結ぶ選択を行った。すなわち、同年12月から石見国西部の小笠原氏との合戦に踏み切るのである(これは尼子氏と結んだためと訂正する)。
 小笠原氏は陶氏滅亡までは陶氏方として行動していたが、その一方で当時は福屋氏との間に密接な婚姻関係を結んでいた。小笠原氏の系図では、小笠原長定女子(長隆兄弟)が福屋氏と結婚し、長隆の嫡子長徳も福屋氏女子と結婚しており、天文22年段階の惣領長雄は福屋氏女子を母としていたのである。
 周布家系図に附属する福屋氏系図では、隆兼の前の惣領兼正(正兼の前の惣領慶兼と同一人物であろう)の母が小笠原長定女子であるとする。となると、長雄の母は兼正女子の可能性が高くなる(福屋氏系図にも兼正女子が長徳妻とする)。こうしたことを考えると、福屋氏が毛利氏(尼子氏に訂正)と結んで小笠原氏攻撃に踏み切ることに対して、一族の中に反対の声があったことは確実であろう。そうした中で重富氏討滅が起きたのであり、福屋氏も難しい選択を迫られていた。その意味では翌年に起こった尼子氏の新宮党討滅事件と同様の背景を持っていたのである。

2011年11月14日 (月)

福屋氏の惣領(4)

 一次史料には文明11年に国兼とともに子と思われる豊兼がみえる。その後、国兼は孫太郎とともに明応7年までみえ、明応8年から文亀元年までは孫太郎のみとなる。この間の延徳4年には孫太郎が益田治部少輔に起請文を出しているが、その文書の裏には豊兼の花押が押されている。孫太郎=豊兼で、国兼の次の惣領であったろう。
 次いで年未詳6月2日是経書状(吉川家文書)に「今月(先月か)21日に福屋宮内少輔」が死亡した」ことがみえる。同文書には高橋大九郎が引退に追い込まれ、命千代が高橋氏に入って毛利被官になったことも記されている。大九郎とは永正12年の惣領高橋元光討死後に総領となった甥の興光である。大永5年まで高橋大九郎興光は大内氏方に転じた毛利元就と共同歩調をとっており、是経書状は大永6年以降のものとなる。引退したはずの興光はその後尼子氏と接近し、享禄2年には毛利氏により滅ぼされている。
 この福屋宮内少輔に対して、天文3年~16年にかけて福屋氏の惣領として確認できるのは「福屋宮内少輔正兼」であった。正兼の父宮内少輔が大永末年頃死亡し、正兼がその跡を継承したのだろう。一方、都治氏の来歴を記した史料には大永3年(史料では2年とするが3年の誤り)に尼子経久が「福屋宮内少輔慶兼」を攻めたことを記す。正兼の別名が慶兼であると記す系図もあるようだが、以下に示す史料から、慶兼は正兼の父であると考える。
 永正9年8月28日に「慶兼」が小石見郷内の岡本次郎四郎に対して本領を含めて扶持する内容の書下を発給している。従来「慶兼」を小石見郷を支配してきた三隅氏としているが、この当時の三隅氏は益田氏の本領でもある小石見郷・府中の支配を益田氏と争っていた。永正14年8月23日にも慶兼が岡本次郎左衛門尉に対して、三隅氏と小石見・府中両郷の情報を伝えるとともに、今後とも相談することを述べている。そして翌永正15年4月には益田氏らが三隅氏の洞明山城を攻撃しているが、慶兼が小石見郷の小領主肥塚氏に感状を与えている。本来、三隅氏の支配下にあった小石見郷内の領主が一時的にであれ三隅氏攻撃に参加しているのである。
 以上のことを踏まえれば、慶兼=福屋宮内少輔と考えてよかろう。ただ、まもなく宮内少輔慶兼は死亡し、小石見郷と三隅氏の関係が復活する。福屋氏による小石見郷の本格的支配は慶兼の後継者正兼時代の天文4年から、福屋隆兼が毛利氏に叛旗を翻して滅亡した永禄4年までであったが、その前段階が永正年間後半にもみられたのである。
 
 まとめると、国兼以後の惣領は慶兼(豊兼と同一人物か、ただし花押はかなり違う)、正兼をへて、最後の隆兼へいたるのである。

福屋氏の惣領(3)

 これに対して福屋氏はというと、⑧氏兼の嫡子⑨清兼が益田兼家の嫡子兼理女子と結婚している。清兼は年未詳6月26日付けの書状(益田家文書)で、益田氏に対して三隅氏との家督相論について苦言を呈する一方、同時に若輩である国兼の扶持を益田氏に依頼している。これに関連するのが、同じく年未詳の7月2日付益田左馬助兼尭請文である(同文書)。6月11日奉書により福屋弾正忠が生涯した(殺害されたのであろう)ことについて説明を求められたのに対する回答である。弾正忠が⑩教兼であろう。
 弾正忠が父安芸守と子太郎左衛門尉に対して等閑無しであったことを述べた後、安芸守も昨年来の病気により死亡したことを記している。安芸守が清兼で、太郎左衛門尉が国兼であろう。6月26日付書状の段階で弾正忠は死亡しており、そのことが孫国兼の扶持を益田氏に依頼した理由であったろう。ところがそれから間もなく清兼自身も病死したのである。問題は時期比定であるが、益田兼尭が「越中守」となるのが文明4年11月22日であり、三隅氏領が幕府(西軍)により没収され、又次郎貞兼に与えられるのが文明元年12月であるので、文明2年から4年までのものであろう。そうすると6月26日書状は文明元年から3年の間のものとなる。
 文明5年4月28日に吉川元経(経基)が福屋教兼と結婚していた兄弟の智光禅尼(系図による)に安芸国新庄国近名1段を売却している。智光禅尼は亡父教兼の菩提を弔うため、これを西禅寺に寄進した。教兼は父清兼に先立ち死亡したため、系図によっては惣領として記載されなかったのだろう。
 問題はその後で、国兼についてはよいが、その子弘行と孫兼正については、一次史料と一致しないのである。国兼が太郎左衛門尉であるのに対して弘行(初信盛)は左衛門次郎であり、一致しない。その子兼正(初兼教)についても一次史料では「慶兼」ないしは「正兼」となっている。

2011年11月13日 (日)

福屋氏の惣領(2)

 ⑧氏兼については、応永12年正月18日の石見国人5名連署書違(起請文、周布氏系図)がある。石見国西部の益田氏一族4家(益田兼家、三隅氏世、周布兼宗、福屋氏兼)と吉見頼弘が、石見国守護山名氏利の急死を受けて、団結を確認している。この時の状況については岸田裕之氏『大名領国の構成的展開』に詳しいが、周布氏系図附属の三隅氏畧系により、三隅氏世が益田兼家女子と結婚していることがわかる。益田氏系図では三隅之妻とのみ記している。
 この6年前の応永6年11月にも藤原義宗(福屋氏、後の惣領⑦兼光)、沙弥道賢(周布氏惣領兼仲、母は三隅氏)、沙弥道兼(益田氏惣領兼世)、沙弥道満(三隅氏惣領信世、その妻は益田兼見女子と惣領三隅直連の間に生まれている)の4人が書違を交わしている。この文書の存在と4名の関係についても、今回の周布氏系図で明らかとなった。
 益田兼見には吉見氏と結婚した女子もいた。吉見氏側系図では誰かを確認できないが、その時点の惣領の後継者(頼直ヵ)であろう。周布氏系図に附属する吉見氏系図では、蒙古襲来への対応で石見国へ下向したのは「頼挙(初頼忠)」で彼が後醍醐の求めに応じて船上山へ参陣し、長門探題を攻略したと記す。その子「義行(初頼行)」は建武3年の京都の合戦で討死し、その子が南北朝動乱期に史料に登場する「吉見七郎頼直」としている。  
 応永12年の書違で新たに加わった吉見頼弘は頼直の孫で、庶子上領氏女子を母とする。石見吉見氏としての活動が一次史料で初めて確認できる人物であるが、備後国から石見国邑智郡に所領を有する高橋貞光(『邑智町誌』に引用する高橋氏系図。吉見氏系図はその父師光とするが、時期的に合わない)女子と結婚して結びつきを持ち、頼弘の嫡子成頼は周布兼宗女子と結婚している。これまで吉見氏系図でのみ確認できたが、今回の周布氏系図にもその点が記されている。

2011年11月12日 (土)

福屋氏の惣領(1)

 益田氏から独立した三隅氏と福屋氏については、戦国期末にともに惣領家が滅亡して史料が失われた。家そのものは庶子が継承して毛利氏に仕えたが、その系譜についても不明確な点が多い。今回、周布氏が姻戚であるとして残した両氏の系図をみることにより、かなりの疑問が解消したが、逆に新たな疑問も生じてきた。その中から、福屋氏の系譜について考えたい。
 実際には親子のみならず、一族からの養子あるいは女子との結婚による相続もあったと思われるが、それにはふれずに、代々の惣領についてみていく。
 一般的に知られているものは以下の通り。
①兼廣②兼仲③兼親④兼行⑤兼景⑥兼香⑦兼光⑧氏兼⑨清兼⑩国兼⑪正兼⑫隆兼
これに対して、周布氏系図附属の福屋氏畧系は次の通りである。
①兼廣②兼仲③兼親④兼行⑤兼景⑥兼香⑦兼光⑧氏兼⑨清兼⑩教兼⑪弘行(初信盛)⑫兼正(初兼教)⑬隆兼(初隆久)
⑩代以降が異なるが、最後を隆兼とする点では一致している。前半部分については後でみることにして、この部分について一次史料と、福屋氏が婚姻関係を結んだ他の国人の系図で確認する。なお、福屋氏については、詳細なHP「福屋一族の軌跡」がある。

2011年11月 3日 (木)

益田一族の女子(3)

 一方、福屋氏については、すでに述べたように、2代目兼仲の子たちが一族との間に婚姻関係を結んでいる。兼仲女子良円は永安兼祐と結婚し、男子兼継は周布兼正女子と結婚して養子となり福光郷を継承した。大家西郷内井尻を支配した兼家も同様の経緯で福屋氏から養子に入った可能性が高い。次いで3代目兼親女子は井尻兼家嫡子兼有と結婚し、男子兼秀は福光兼継女子と結婚して養子となった。
 内村を譲られた兼次は甥の兼茂を養子としている。周布兼氏は三隅四郎次郎兼覧女子と結婚。その女子は市木郷を譲られて、永安良海の子吉川経兼と結婚。福屋氏一族の所領であった市木郷を一旦周布氏が得たが、結果的に吉川氏の支配するところとなったのはそのためである。
 兼氏の代に周布氏領は飛躍的に拡大した。兼氏の母は東国御家人越生氏女子であり、その縁で越生氏が得ていた有福(加志岐)と宇津(宇豆)郷を手に入れた。また兼氏の子兼仲は一旦、来原郷や白上郷を支配する田村氏に養子に入っていたが、兄氏連の戦死により兼氏の後継者となり、田村氏領も獲得した。田村氏は東国御家人であったようで、鎌倉初期に田村資盛が石見国来原別府や長野庄内白上郷を獲得する一方で、資盛の子有政は越生有平の養子となり、承久の乱の恩賞として石見国宇津(豆)を得ていた。その曾孫光氏が所領の交換により加志岐別府を得た。
 加志岐別府は本来国御家人伴氏(有福氏)の所領であったが、何らかの理由で没収され伊豆国御家人狩野貞親領となった。しかし伴氏との間に紛争が絶えず、そのため狩野氏は所領を交換したと思われる。新たに地頭となった越生氏は光氏の兄弟重氏が宇津郷地頭で、同じく兄弟の女子が周布氏惣領兼宗と結婚しており、狩野氏より強敵であった。宇津郷と加志岐別府、さらには白上郷はともに14世紀後半には周布氏の支配するところとなった。

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