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2011年10月

2011年10月23日 (日)

益田氏一族と女性(2)

 益田兼時は東国御家人小笠原長経女子と結婚し、その嫡子兼長は三隅兼信女子(阿忍)と結婚し、庶子兼久(松房)は、父から長野庄内飯田郷と邇摩郡宅野別府を譲られるとともに周布兼定の継子幸寿と結婚した。文永10年までに兄兼長が死亡すると、兼長に男子がなかったこともあり、益田氏惣領となった。兼長後家阿忍には伊甘郷と益田庄内弥富名が配分された。これ以外が兼久領となったとすると、益田庄内益田本郷、東山道、北山道、長野庄内得屋郷・飯田郷、上津毛・疋見別府、小石見郷、宅野別府となる(周布氏系図一本による)。
 この兼久の子については、系図の記載は限られている。嫡子兼胤(弼)は兼長と阿忍の間に生まれた女子と結婚し、その子兼弘が益田氏惣領の後継者とされた。七郎兼村は兼久の5男で兼弼同母弟であったが、末元兼義(兼直子)女子と結婚してその養子となった。となると、兼弼と兼村の間に3人の男子があったことになる。系図では五郎兼頼、六郎兼宗の名がみえるが、その相続した所領は不明である。また、幸寿から安富別府を譲られたとされる「彦三郎兼幸」がいるが、要検討である。
 一般的には龍雲寺蔵三隅氏系図により、兼久嫡子兼弼が妻となる女性を女捕りしたことにより益田氏領の没収となったとされるが、兼久段階で所領の多くを没収され、その結果、兼弼嫡子兼弘が益田庄内東山道を相続して「山道孫太郎入道」となった可能性もある。建武2年に後醍醐から本領安堵された益田本郷、小石見郷、上津毛・疋見別府は幕府滅亡により取り戻したものであったが、得屋郷、飯田郷、宅野別府も失った可能性が高く、そうすると残るのは東・北山道郷のみとなる。兼久子兼村が末元氏の養子となり、阿忍から伊甘郷並びに弥富名が兼弘ならびにその兄弟に譲られたのはそのためであろう。

益田氏一族と女性(1)

 東国御家人中心の鎌倉幕府のもとで生き抜いた益田氏一族は、一族間の結婚により一族間のつながりを強めていた。
 初代国兼については「母大江氏」とのみ知られる。次いで、源平争乱時の兼高は、「母石州人」と記されている。周布氏系図一本には兼高父兼栄が長寛2年(1164)に「高津本郷下司」に補任されたと記す。郷と下司という表記の問題はあるが、その年齢ならびに、兼栄が本来御神本氏一族の庶子であったことを窺わせる記述として注目される。
 文書によりその存在が確認できるのは、兼季の妻で嫡子兼時・庶子周布兼定の母である聖阿弥陀仏である。兼季の代(正治年間)に三隅兼信と福屋兼廣に所領が分割された。同時期に周布兼定には祖父兼高(恒)から大家庄内福光村が譲られたとされる。この3人は12世紀末の誕生であろうか。この3人の相続が幕府から安堵された貞応2年に兼高は死亡したと思われる。
 延応元年(1239)、周布兼定は40才前後で死亡するが、その直前に所領は弟兼正(政)と兼定妻慶阿弥陀仏の連れ子であった幸寿に譲られた。兼正は兼時・兼定と母が異なったこともあり、聖阿弥陀仏は兼正と慶阿弥陀仏に迫り、兼時庶子松房丸を兼定の養子とし、将来的にその所領を相続させようとしたが、あまりに強引であったとして、結果的に幕府は兼正と幸寿の相続を認めた。兼定の妻で幸寿の母であった慶阿弥陀仏は正元元年(1259)に死亡している。益田氏惣領兼時は建長元年の資料(吾妻鏡)に「益田権介跡」とあり、この年までには死亡していた。三隅兼信はそれに先立つ寛元4年(1246)に死亡している。
 益田兼季にはこの外に兼直と兼忠がおり、兼直は兼時・兼定の同母弟であり、兼忠は兼正の同母兄であった。兼忠は父兼季が死亡した貞応3年には所領を譲られており、兼正との間には一定の年齢差があった。兼直は三隅兼信女子と結婚して養子となり、兼信領末元別府(具体的比定地は不明だが、周布郷の西側に隣接していた)を譲られた。これに対して兼正は貞応3年段階では所領を譲られる年齢には達していなかったと思われるが、兼季の意向により、男子のいない兼定の後継者と位置づけられていたのだろう。

因果はめぐる?(4)

 同じ事はマーテンズとブラウンについても言えるかもしれない。マーテンズは有効なキックでゲームコントロールが巧みであった。ブラウンはランやデフェンスに優れていたが、結局はカンタベリーのマーシャル、マーテンズのコンビが優先され、オタゴのケラハー、ブラウンは控えであった。年齢の若かったケラハーはSHの定位置を獲得したが、ブラウンは新天地日本での活躍にかけ、その結果を出した。
 SOはスペンサーを経てカーターへと継承されたが、スペンサーはひらめき型、カーターは万能型であるが、結果、ともにワールドカップ優勝の結果は得られなかった。カーターの負傷離脱により登場したスレイドは、SHから得たボールをパスしていた場面しか印象にないが、やや緩慢であった。このスレイドも離脱し、バックアップメンバーから急遽招集されたクルーデンは、無難にこなしているようにみえる。日本の関係者からは今こそブラウンとの声もあった。36才にはなり、日本では現役を引退したが、今年のスーパー14にもハイランダースから出場していた。
 ABのSOはボティカ、ブラウン、スペンサー、カーターのようなランとパスが巧みな選手より、フォックス、マーテンズ、クルーデンのような堅実なタイプの方がフィットするのであろうか。それも本日の決勝の結果次第である。

因果はめぐる?(3)

 AB唯一の優勝チーム(1987年大会)は若手中心であった。主力の南アフリカ・ツアーへの無断参加が理由であった。キャプテンのFWダルトンもその一人で、メンバーにはなんとか選ばれたが、実際の試合には出ず、SHのカークがゲームキャプテンであった。
 当時のラグビーマガジンではキャンピージのオーストラリア、フランコのいるフランスが優勝候補ではなかったか。ABについては、「FLにマイケル・ジョーンズが入ればさらに大型化する」と書いてあったのに、実際にはジョーンズは185cmで90kg台の小柄で運動量抜群の選手だった。
  FBも「名手クローリー」とあったが、実際には若手のギャラハーがほとんどのゲームで先発した。第2回大会の主力となるべきギャラハーは祖父の出身国スコットランド?のチームから誘われ、断るために法外な報酬を要求したら相手が受け入れたため、ABを去った。そしてなぜか新天地ではこれといった活躍がなくベンチを温めた。一方、クローリーは今大会のカナダ代表監督で、次回のAB監督の候補にもその名があがる。
 SOについてもフォックスとボティカの2人がいた。ランとパスに優れ、1986年にはNZの最優秀選手にも選ばれていたボティカだったが、センターとして起用されることはあったが、SOはペナルティ・キックが正確なフォックスであった。「今のABにはフォックスの方がフィットする」との監督の言が印象的であった。

2011年10月20日 (木)

井尻氏と福屋氏(2)

 井尻兼家は「九郎太郎」という通称とその嫡子兼忠が福屋兼親女子と結婚している点からすると、福光兼継と同様、福屋兼仲の子であったとすべきである。問題は大家西郷内井尻・横道・井田などが誰の所領であったかである。兄弟である良円の津淵と同様、父兼仲ではなく、その母親から譲られたものと考える。その母親については、周布氏関係系図に登場しないので、やはり非益田氏系御神本氏としておく。益田氏内部のみならず、より広い御神本氏内部でも婚姻関係が結ばれていたのである。
  福屋氏の分割相続については、文書ならびに系図の情報が少ないことから明確では無かったが、今回確認された周布氏関係系図に含まれる福屋氏系図(福光兼継が福屋氏の出身であったことにより収録)によると、兼廣の子として男子3人と女子2人を記す。従来の福屋氏系図では嫡子兼仲以外は、藤次、藤五とのみ記されていたが、藤次兼統には「日和」、藤五兼世には「阿部」と注記されており、福屋氏初代兼廣から日和郷(邑智郡)と阿部郷(那賀郡内であろうが、具体的比定地は不明)をそれぞれ譲られている。次いで兼仲が、福屋郷を嫡子兼親に譲り、庶子兼継は周布兼政女子と結婚して福光を相続し、兼綱と兼保は母親から大家西郷内横道と井田を相続した。そして女子については系図には具体的記載は無いが、永安兼祐と結婚した良円は、父から福屋郷内くらみつ名を、母から大家西郷内津淵を相続した。
 大家西郷の中心である井尻については、兼仲の子兼家が相続したが、その後井尻村が周布氏領となったこともあり、福屋氏の系図には記載されなくなった。福屋氏系図の中では詳細な周布氏関係系図でも兼家を周布氏系図の中に記したため、福屋氏系図からは除かれた。

井尻氏と福屋氏(1)

 大家西郷の中心的部分である井尻村を支配した井尻氏については、井上氏が福屋氏の一族とされたのに対し、当方では乙吉氏と同様、非益田氏系御神本氏であるとの説を提示した。鎌倉初期の益田兼高以前に分かれた一族であるとしたのである。
 井上氏がその根拠とされたのは、福屋兼仲の子に大家西郷内横道と井田を苗字とする子がいることによる。これに対して、当方では、大家西郷内の所領は福屋兼仲と結婚した非益田氏系御神本氏女子がその子に譲ったと考えたのである。未だそのことを記した系図を見てはいないが、永安兼祐の妻良円も福屋兼仲の子であるとされ、石見吉川氏領としてみえる、福屋くらみつ名と大家西郷津淵村は、良円が父兼仲と母からそれぞれ譲られたものであると考えた。
 今回確認した、周布氏関係系図には、周布兼政(正)が弘安10年に所領の譲与を行った中に、子兼家に井尻村を譲った旨記されている。問題は周布兼政の所領には井尻村がみえないことと、兼家が福屋兼仲の子で周布兼政女子と結婚した福光兼継(三郎太郎)と同様、「九郎太郎」という兼政の子とは考えられない通称を名乗ることである。
 福光兼継の場合、男子が無かったこともあり、その女子の養子として兄福屋兼親の子兼秀を迎えている。同様に、井尻兼家の嫡子四郎太郎兼忠(当初は兼有)は福屋兼親女子と結婚し、その間に生まれた八郎太郎兼基が嫡子となっている。戦国期まで生き延びた福光氏に対して、井尻氏は南北朝後期には所領を周布氏に譲り渡し、その後の動向は不明である。史料が無い中で、井尻兼家を周布兼政の子と記したのではないか。

2011年10月19日 (水)

益田庄宇地村地頭について(6)

 兼胤の子については既に述べたが、兼胤は女取の罪により益田庄内益田本郷など多くの所領を没収され、嫡子兼弘と波田兼国が東山道郷、大草兼利、遠田兼種、女子らが北山道郷ならびに阿忍領弥富名を継承した。兼弘は一旦阿忍から譲られた伊甘郷を悔い返されたが、最終的には伊甘郷と弥富名も兼弘子孫が継承している。
 鎌倉幕府滅亡により、益田兼弘嫡子兼世は益田本郷、小石見郷、疋見・都毛別府を回復した。これに対して庶子兼方は伊甘郷を支配したと考えられる。兼方の子が兼見であった。兼見はその初期の軍忠状からすると兼方の庶子と考えられるが、南北朝の動乱の中で、最終的には兼世の後継者に代わって益田氏惣領となった。
 話を戻すと、周布氏系図に付属する丸毛氏系図には、丸毛兼信の庶子兼直(一本では兼貞)を宇地地頭とし、それは波田氏から譲られたと記す。兼直の子が南北朝の動乱期に活動が確認できる丸毛兼幸で、その母は波田兼国女子である。そうすると、兼胤領宇地村は子である波田兼国と女子に分割して譲られたことになる。丸毛兼直は丸毛郷一分地頭で所領が少なかったため、このような処置が取られたのだろうが、その子兼幸が祖母連阿から安富郷を譲られたこともあり、最終的に嫡子兼弘(道忍)の調停で宇地村は女子是阿の系統に相続されたのであろう。

益田庄宇地村地頭について(5)

 益田庄宇地村については、北山道郷内に属し、益田兼胤からその子是阿に譲られたとの説を示した。益田氏系図の中には、兼胤女子が宇地村地頭であったことを記すものが複数点みられる。兼胤の子には、この外に遠田兼種(阿忍から弥富名を譲られる)、大草兼利、波田兼国、某兼和がいる。
 周布氏系図一本によると、兼季段階では益田庄は益田郷、納田郷、弥富名、井村郷と表記されているが、嫡子兼時の段階では益田郷と弥富名が、益田郷、弥富名、東山道郷、北山道郷と表記されている。水系からすると益田郷から東山道郷が独立し、弥富名から北山道郷が独立した可能性が高い。宇地村が弥富名内か北山道郷内か、判断に苦しんだが、以上のように考えると、ともに間違いではなかったことになる。
 兼時領は、庶子兼久が飯田郷と宅野別府を譲られ、その他の多くは嫡子兼長が継承した。ただ、文永10年までに兼長が死亡した段階で男子がいなかったため、益田氏惣領は弟兼久が継承し、阿忍には伊甘郷と弥富名が譲られた。
 兼久の子については、不明な点が多い。嫡子兼胤は阿忍女子と結婚しているが、その他に系図には兼村、兼宗、兼頼、兼和が記される。兼村は末元兼清女子と結婚し、末元別府を相続した。末元別府は三隅兼信に譲られたが、兼信女子と結婚した益田兼季三男兼直が相続して末元氏が成立した。兼直の嫡子が兼清であった。兼宗と兼和の所領については、明らかではない。系図の中には4人を嫡子兼胤の子として記すものもある。

2011年10月17日 (月)

益田氏と小笠原氏

 この問題については、石見(阿波)小笠原氏と益田兼時女子との結婚が知られているが、益田氏系図間の記載の違いや石見小笠原氏系図の評価の難しさから、今ひとつはっきりしていなかった。このブログでは、益田氏の庶子丸毛氏に信濃小笠原氏から養子として入った六郎兼頼と、その弟で津毛を支配した二郎経氏について述べた。
 周布氏系図一本には、益田兼時が小笠原長経女子と結婚したことを記す。兼時嫡子兼長は当初は兼経と称したとされる。曾祖父益田兼高が、源義経との関係であろうが、一時期「兼経(恒)」と称していたことと関係があるとも思われたが、祖父にあたる小笠原長経との関係で、兼長(経)と名乗った可能性もある。
 益田氏系図だと、これに続くのは、益田兼時女子が小笠原長経の孫にあたる四郎長親(一本では正長)と結婚したとの記事であろうが、「龍雲寺蔵三隅氏系図」では兼時女子に「河本」との注記が有り、この女子が河本郷一分地頭職を譲られるとともに、小笠原長親と結婚したのだろう。また同系図には、独特の情報として、兼長が小笠原氏から養子として次郎法師丸を迎えたことが記されている。これとは別に周布氏系図に付属する丸毛氏系図一本によると、兼頼を「五郎」とした上で、益田兼久の養子を経て、最終的には丸毛兼忠の養子となったことを記している。
 兼久は兼長の弟で松房丸といい、周布氏系図によると宅野別府と長野庄内飯田郷を譲られるとともに、周布兼定の養女で長野庄内安富郷を譲られた幸壽と結婚していた。それが三隅兼信女子阿忍と結婚していた兄兼長が早世したことにより、益田本郷などを得て益田氏惣領となった。小笠原長経女子を母とする兼久は兄の養子となっていた次郎法師丸を自らの養子に迎え、それが嫡子兼胤が所領の大半を没収されたことにより最終的には丸毛氏を継承した形になったのであろう。

2011年10月 9日 (日)

因果はめぐる(2)

 最後の試合は、これまでの対戦結果からするとオールブラックスが負ける要素は少ない。アルゼンチンとしては4年前のフランス戦のようにFW戦で優位に立つ必要がある。ただ、前回の躍進の立役者であったSOエルナンデスは怪我からの回復が遅れ、今回の代表には選ばれていない。一方のカーターも怪我からスコッドからはずれた。アルゼンチンがロースコアーの接戦に持ち込めれば、おもしろい試合になるだろうが、そうでなければ大差の試合になる。
 4年前のフランス大会のオールブラックスは、予選リーグでとにかく力強さに欠け、あっけなくトライを許していた。メンバーの固定化ができなかったからであろうが、明らかに首脳陣のミスであった。それなのに、首脳陣が変わらなかったというのが、今回も最大の弱みであろう。ヘンリー、スミス、ハンセンの3人とも優れた指導者ではあるが、以前にも述べたようにヘンリー監督は第4回大会で実現すべきであった(その時の監督が第2回大会の監督であるべきだったハート)。スミスは第5回大会の監督になるべきであったが、成績低迷で途中でミッチェルに交替した。ハンセンについては、ヘンリーの途中辞任をうけてアシスタントコーチから昇格し、第5回大会でウェールズを率いた。以上のように、3人ともそのピークを過ぎた指導者であることが懸念される。現実には、ヘンリーの後継者がハンセンになりそうなので、ディーンズはワラビーズの監督になったそうだが。
 なにより、マコウ、カーターも第6回大会がピークであった。この大会で優勝できなかったのは大変痛かった。この時に規定を変更してまでヘンリーを監督にしたのだが、ここでもディーンズ監督の方か良かった気がする。今回は両選手が怪我により活躍できない状況で、新たなヒーロが登場すれば優勝も可能であろうが‥‥。以上、勝手なことを述べたが、それも準々決勝の残り2試合前の今だから言えること。オールブラックスとオーストラリアが勝利すれば、まさに因縁の4チームが勢揃いすることになる。

因果はめぐる(1)

 ラグビーW杯も準々決勝2試合が終わり、いよいよ佳境に入ってきた。日本戦はフランス、ニュージーランド戦しかみていないが、これからが本番。ということで、北半球勢の2試合を見た。力は拮抗しており、かつお互いのことも知り尽くしており、どちらが主導権を握れるかであった。
 第1試合は、オールブラックス監督の有力候補であったガットランド率いるウェールズが、集散の早さでアイルランドを破った。対南ア戦の後半戦ではいま一つ突破力に欠けたと思えたが、審判の判定に泣いた面もあったようだ。第2試合はこれまた前回大会でニュージーランドを破ったフランスが逃げ切って勝利した。試合毎に波の大きいフランスであるが、ニュージーランド戦の後半をみれば、あなどれない面があった。FW8人の体重は850キロと日本よりも軽いぐらいであるが、その強さには定評がある。ただ、大事な局面ではその軽さが出てしまうこともある。イングランドは、優勝した2大会前のチームを除けばトライを取る力に欠けている(シックスネーションズはほとんどみていないので素人考えだが)。
 第3試合は、オーストラリア、南アとも本調子ではないが、FW戦の接点での攻防でよほど劣勢にならない限り、オーストラリアが優勢ではないか。なにより、これまたオールブラックス監督の最有力候補であったロビー・ディーンズが率いている。南アフリカはこれまた波が大きい。

2011年10月 7日 (金)

竹島問題について(補足)

 前回は1906年段階で、竹島編入への強い抵抗があることと具体的資料を根拠に韓国側が竹島を石島として認識していたことを述べ、日本側による「無主地先占」の編入が成り立つかとされた池内氏の見解について?であるとした。
 大韓帝国勅令41号の「石島」=「独島」説が根拠に乏しいとの池内氏の説に関して、朴炳渉氏「韓末期の竹島=独島漁業と石島」を読んだ。朴氏の主張は本ブログの「資料の声を聴く」という観点からすると、論証が不十分であると思った。池内氏の論文そのものは未見であるが、朴氏の引用された資料から確実にわかるのは、以下の状況である。
 まず、資料の大半が日本側の記したものである点が、事態の本質を示している。19世紀末から隠岐島や山陰地方でリャンコ島周辺での漁業に注目する人々が現れ、彼らはその拠点を隠岐島ではなく、リャンコ島により近い鬱陵島に置いた。朴氏が「鬱陵島からリャンコ島へ出漁することから、リャンコ島が鬱陵島の属島であった」とされる見解は論理の大きな飛躍がある。
 次いで、この隠岐らの人々の活動が、鬱陵島の人々のリャンコ島への関心を高めた(お互いにまったく知らなかったわけではないので、ある意味ではよび覚ましたといってもよいか)。1906年段階でのリャンコ島を島根県に編入したことに対する強い抵抗と、リャンコ島に関する認識があったのはそのためであろう。
 本ブログは両国の「固有の領土論」には根拠がない(Aのものでないので、Bのものという論証では不十分)という立場に立っており、隠岐島や鬱陵島で漁業に従事する人々がリャンコ島の存在を以前から認識していたことはあったが、その経済的価値からその正確な情報が国レベルで共有されることはなかった。両国とも極めて不十分な情報しか持ち得ていなかったことは残された資料から明確である。朴氏の論文でも「干山島」を探したが発見できなかったので「石島」との表記がなされたとあるが、これも「干山島」に関する情報の質の低さを示している。
  池内氏が「独島」ではなく、「石島」の表現を使われたかどうかは、論文そのものではなく、研究会のレポートでありはっきりしないが、朴氏の資料からは「独島」への認識の高まりは窺えても、勅令以外で「石島」という表記をしたものは確認できなかった。
  リャンコ島について、日本側資料が多いのは、朝鮮による鬱陵島への渡航禁止もあるが、基本的には隠岐島から鬱陵島をめざす人々の数に比べて、鬱陵島から隠岐をめざす人々の数が少なかったことによる。鬱陵島により近いリャンコ島であるが、居住に適さず、漁場としての価値もさほど高くなかったので、近代以前は、隠岐島と鬱陵島の間を航行する人々以外の関心はひかなかった。

2011年10月 4日 (火)

三沢氏と三刀屋氏(4)

 享禄3年の棟札には為弼とともに、三条三良右衛門と平朝臣友弼入道がみえ、三刀屋郷は分割支配されていた可能性が高い。平友弼については不明な点が多いが、「弼」の字からは三刀屋氏と婚姻関係を結んでいた一族であろう。天文4年の萱原神社棟札には為弼とともに、平朝臣某と源扶安がみえ、同23年の棟札には、地頭大檀那平朝臣幸弼とし、それに続いて源為弼を記す。平朝臣は三刀屋郷内萱原の地頭として、享禄3年の三刀屋天満宮の棟札に登場していたのであろう。天文9年の竹生嶋奉加帳には「三刀屋新四郎殿」の直前に「宇津木殿」がみえる。宇津木氏は平氏で、尼子氏領となっていた井尻郷内の領主であったが、この位置に記されているのは、飯石郡内に所領を持つ国人である。
 為弼は、新四郎が三刀屋氏惣領となったが、その後見人として実際には惣領の位置を占めたのだろう。天文24年には「新四郎」が父対馬守一跡と当知行地を安堵されている。これは天文9年の「新四郎」と同一人物ではなく、親子と考えられる。為弼子新四郎(後に対馬守となる)が何らかの理由で為弼より先に死亡し、孫の新四郎がその跡を継承するとともに、尼子氏から諱を得て「久扶」となったのであろう。
  塩冶氏と三沢氏の関係からスタートして三刀屋氏の問題に発展したが、これまで京極氏とその後継者尼子氏に対して、赤穴氏とともに従属性が高いとされた三刀屋氏についても、尼子氏との関係や尼子氏の介入による惣領家の交代があったことになる。三沢氏惣領為忠はその兄弟が上郷(塩冶)氏に嫁ぎ、自らの子を三刀屋氏に養子に入れて、国人間の関係を強化したが、そこに尼子氏が介入したことになる。尼子氏の国人支配はルーズで不十分というのが従来からのイメージであるが、ここ最近みた史料からは、逆に尼子氏が国人の支配に強力に介入したがために、結果として国人層にとっては尼子氏とその家臣の介入を覆すには尼子氏の滅亡しかないという状況が生まれた。

三沢氏と三刀屋氏(3)

 享禄3年の三刀屋対馬守宛の書状の中で、尼子経久は対馬守からの訴えを受けて新領地を与えたことと、対馬守一期の後は新四郎殿に所領を渡すべきことを述べている。ここからは対馬守と新四郎は親子ではないという可能性が感じ取られる。興久の乱において三刀屋対馬守と三刀屋(三沢)紀伊守はともに尼子経久方であった。対馬守も所領を得たが、その後は新たな三刀屋氏惣領となった新四郎に所領を渡すことになったのであろう。新四郎は紀伊守の子ないしは、その女子と結婚していた人物ではないか。そのことが、三刀屋氏一族や被官で新四郎に従わないものがいるという状況を生んだと思われる。
 「三沢氏先祖次第」では、為忠の子を「左京亮」・「三刀屋紀伊守」・「比田九郎左衛門尉(為理)」・「横田信濃守(為国)」・「三郎左衛門尉(為幸)」の順に記している。この三沢氏惣領左京亮については不明確であるが、天文9年段階の惣領「三郎四郎」は左京亮の子であろう。為理は元亀3年(1501)には西比田の地頭となっており、成人年齢に達していた。次いで永正7年(1510)には三成、翌8年には三沢郷の地頭であることが確認できる。一方、永正6年には為忠が子為国らを伴い、横田庄に隠居している。この時点で、三沢氏が三沢郷から横田庄へ本拠を移したとされるが、実際は隠居であった。この時点までに惣領左京亮が死亡し、弟為理が惣領となった。紀伊守についても為理と年齢の違いは少なく、すでに三刀屋氏へ養子に入っていたと思われる。また、この縁組は尼子氏とは無関係で、三刀屋氏と三沢氏の関係を強化するものであった。
 享禄3年の三刀屋天満宮の棟札と天文4年の萱原神社(当時の名称は不明)の棟札にはいずれも「地頭源朝臣為弼」とあり、天文9年(1540)の三刀屋氏惣領「新四郎」と庶子と思われる「三刀屋修理亮」・「同六郎左衛門尉」との関係が問題となる。

三沢氏と三刀屋氏(2)

 「為」を名前に付けるという点では天文年間の三刀屋為弼も同様である。これが三沢氏から三刀屋氏へ養子に入った人物で、天文年間直前の塩冶興久の乱の時点では「三沢紀伊守」とみえる。
 この前後の三刀屋氏の動向についても不明確な点が多い。残された系図は文書に登場する人物が親から子へ順に相続したかのように記すが、問題が多い。明応9年の「刑部丞忠扶」の後継者が大永2年に尼子経久から初めて所領安堵を受けた「対馬守」であろう。尼子氏の2度目の軍事行動後の大永8年(1528)には、「対馬守」に対して、父(忠扶)の譲状にかませて所領を安堵するとともに、過去の文書への證判を求めた「対馬守」と「新四郎」に対して、尼子経久がこれを安堵している。
 これに対して、塩冶興久の乱にかかわる享禄3年(1530)の尼子氏からの文書は、「対馬守」・「新四郎」とともに「三沢紀伊守」に対して出されている。そして「新四郎」宛の文書では、三刀屋氏一族や三刀屋・熊谷被官衆が新四郎の命に従わないという訴えに対して、経久が場合によっては厳しく成敗すべしとするとともに、新四郎を支持することを伝えている。一族内部で興久の乱への対応が分かれたのであろう。一方、「三沢紀伊守」には朝山郷内稗原が与えられている。紀伊守は三沢為忠の子で三刀屋氏に養子に入ったとされる人物(「三沢氏先祖次第」では三刀屋紀伊守とする)で、興久の乱における対三沢氏、対三刀屋氏に於いて重要な役割を持っていた。従来、三沢氏は興久方であったとされるが、明確なのは横田三沢氏が興久方で、三沢(三刀屋)紀伊守は経久方であったことである。この段階で「紀伊守」に任官している点からすると、一定程度の年齢に達していたことになる。

三沢氏と三刀屋氏(1)

 興久後の塩冶氏の項で、天正3年と天正10年の棟札に塩冶豊後守為治とその子為豊がみえることを述べた。「為」をその名につけているのが特色だが、必要があって三沢氏家臣団に関する論文をみていたら、天正2年と4年に「上郷豊後守為治」がみえていた。塩冶豊後守為治と上郷豊後守為治は同一人物であろう。
 同論文では15世紀末から16世紀初めにかけての惣領為忠の弟が上郷氏に入ったとの『横田町誌』の記述が紹介されている。これそのものについては確認していないが、「三沢殿御先祖次第」(惣光寺文書)には、為忠の兄弟の中で、古志殿、多久和殿、忍(多ヵ)賀殿とともに上郷殿に嫁いだ女性が記されている。三沢氏女子を母とする子で「為」を名乗る人物があったのだろう。ちなみに、為忠女子は備後国宮氏、牛尾氏、馬木出羽守、中湯野殿に嫁いでいる。
 馬木出羽守の妻には「宗右衛門殿御袋」とあるが、天文5年(1536)の岩屋寺仁王堂勧進に応じた詮久(晴久)側近の中に馬木出羽守とその息宗三郎がみえている。宗三郎が後に任官して宗右衛門(尉)となるのだろう。宗右衛門は弘治2年10月の東比田村山王社棟札に道場大檀那としてみえる。一方、同時期(天文24年と弘治4年)には尼子氏奉行人奉書の署判者として馬木四郎右衛門尉真綱がみえるが、久綱の兄弟であろう。なお、この馬木氏は源氏ではなく橘姓である。
 永正11年(1514)10月に三沢氏は尼子経久の攻撃を受けているが、翌12年2月には馬来(馬木)で佐波氏名代赤穴郡連と経久の使者伊快の間で交渉が行われており、この時点までには三沢氏が尼子氏に降伏したと思われる。尼子経久の母は馬木氏女子であった。三沢為忠女子と馬木出羽守の結婚もこれ以降のことで、天文5年の宗三郎(久綱)は元服して間もない時期であろう。

2011年10月 2日 (日)

岡山県立図書館

 因碩の本については中古本を購入したが、近くへ行く用事があったので、岡山県立図書館に行ってみた。近年出版された棋士の打碁集や本因坊家の全集の改訂版なども所蔵していた。高尾紳路編の藤沢秀行氏のものもあり、なお驚いたのは精読した跡がその他の本を含めて見られたこと。貸し出し数の多さが伺われた。
 『本因坊秀甫全集』については、以前、岸本・岩田など島根県関係のものを複写していたが、福井正明氏による増補・改訂版(全七巻)をみた。全集は中国でも一冊本で出版されているようだが、増補された約100局については収録されていない。棋譜については、著作権があるかどうかについて議論があるようである。左一郎との対局については既知の4局分のみであったが、解説では弥吉常先で打ち分けであったことが付記されていた(この点については、すでに紹介済みの成田山仏教図書館所蔵資料に記されている)。
 歴史学の雑誌についても、全国的な主なものとともに、広島の学会誌も置かれており、その中から安芸・吉川氏関係のものを複写した。棟札に登場する山縣氏など関係者について確認するためである。複写については、多くの場合と同様、申請用紙に記入して自分で複写し、それを担当者が確認するというものであった。
 これで中国五県の県立図書館は、一度は行ったことになる。財政難の中、岡山のように明確な実績がないと予算の確保は難しいようだが、予算が減ると利用促進も困難となり悪循環に陥る。各県知事並びに財政担当者の文化的識見が求められよう。高校で日本史を必修とする(当然マイナスもあり、知事交代で変わる可能性もあり)一方で、文書館の職員を半分近くに削減した某県知事を含め、松下政経塾の関係者で、評価すべき人はいまのところいない。

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