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2011年9月

2011年9月29日 (木)

佐波氏と尼子氏

 尼子氏は京極氏の家臣を富田衆に組み入れるとともに、出雲国東部の国人をその権力基盤として成立した。これに対して、出雲国西部の国人は程度の差はあれ尼子氏から圧迫された状況に置かれた。雲南を本拠とする三沢氏の場合、尼子氏による圧迫の状況が最もよくわかるが、それほど史料を残さなかった他氏についても同様であったろう。
 宍道氏の場合は、婚姻関係により結びついた庶子を通じてその家を乗っ取った形となった。惣領が主に京都にいたこともあり、塩冶興久の乱までは問題は発生していなかったようにみられる。石見国の佐波氏の場合も、庶子赤穴氏を通じてこれをコントロールしようとしたが、かえって佐波氏の反発を招いた。尼子氏政権成立時には佐波氏と密接な関係がみられたにもかかわらず。
 永正15年に尼子氏は赤穴光清に父駿河守からの相続を安堵しているが、これを機に駿河守は郡連から久清と名前を変更している。尼子氏から「久」の諱を与えられ、強力にその権力に組み込まれたのである。惣領佐波氏からすればとうてい承伏できない事態であったであろう。赤穴氏からすると佐波氏との間には所領問題があり、尼子氏と結ぶことにより事態の打開を図ったのであり、実際に大永2年には佐波氏領であった来島庄内の所領を得ているが、佐波氏の反発は必定であった。それが毛利氏と時を同じくしての大内氏方への転換であり、尼子氏はこれを攻撃して、一旦は尼子氏方に戻しているが、問題の根本的解決にはならなかった。この後も天文10年の尼子氏の吉田攻めの失敗直後の動きや弘治年間の毛利氏との結びつきなど、機会をとらえて佐波氏は尼子氏からの独立を図っており、尼子氏政権にとっては大きなアキレス腱となった。宍道氏惣領と異なり、佐波氏惣領は石見国・出雲国の所領支配を実際に行っており、三沢氏と同様強固な家臣団が存在したこともあり、そのコントロールは困難だった。

2011年9月24日 (土)

まもなく3年

 ブログを開設してから10月で満3年となるが、その直前でアクセス4万となった。平均すると20人前後の人が閲覧している。4月に地震関係記事をアップした際には、90人近くとなったが、すぐに元の状況となった。つねにネタ切れと背中合わせである。最近は、これまで研究に使われてこなかった棟札と、新たに収集した岸本左一郎の棋譜でなんとか書いている状況である。
 PCの話題は最近はアップしていない。さすがに収集しすぎて、ほとんど使用しないものが出ており、今後は、新たな機種が出た際に考えたいが、それにしてもAMDのブルドーザーの出荷は遅れに遅れている。10月中旬にようやく発売されるよう。
 ラグビーのワールドカップも、それほど見ていないが、トンガ戦の敗北には失望し、脱力感を感じた人が多かったようだ。実は自分はまだみていないが、客観的には次のカナダ戦を含め、勝利の確率は4割程度であったろう。3大会前もパシフィックリムで優勝したが、本番ではサモアに完敗した(これが一度代表となった選手は他国で代表になれないとの規約改正につながった)。オールブラックスメンバーであったジョセフとバチョップがいたにもかかわらず、である。日本が常にベストに近いメンバーで戦うのに対して、今年のパシフィックネイションズカップを含め、トンガは欧州勢を欠いた布陣であった。日本がライバル国のベストメンバーと対戦できるのはワールドカップのみである。それでも初戦ならば、トンガの連携の問題もあったろうが、さすがに3戦目となると機能してきたのだろう。一方、日本の場合、指導者が同じこともあって前大会以降の新戦力(外国出身者を含め)が少なかった気がする(これはオールブラックスについても同様)。
 とはいえ、最終のカナダ戦も4割の勝算はあるので、期待したい。こうすれば勝てたのにとの意見もあるが、全体的にはプロ化によりフィットネスを含め外国のレベルはかなり上昇してはいる。
 

金屋子神社の棟札から(3)

 記録によると、彼は84才で死ぬまで金屋子神像を持って50年間各地を巡り、死後は故郷中来島灰屋助定に葬られた。その活動は金屋子神像とともに三男(2代目)八郎右衛門(43年間巡り、仁多郡上阿井村福原で病死)と孫(3代目)八郎右衛門に継承された。3代目は上来島杉戸に居住し、金屋子神像は杉戸金屋子神社に奉納された。その金屋子神社が柱根が朽ち、再建の必要が生じたため、地頭赤穴氏と上来島村の鉄山師による再建が計画された。ただ、大規模なものであり、各地の鉄山師にも奉加帳が回されたのである。
 奉加者については、最初の3名のみ写されているが以下の通りで、銀を寄付している。 奥畑、茂ヵ谷鑪については、来島庄内に確認できる。   
  一、銀壱封 大山鍛冶屋虎之助
  一、仝上  奥畑鍛冶屋勇兵衛
  一、仝上  茂加谷鍛冶屋幸十
 初代八郎右衛門の活動時期について具体的年代が記されていないのが惜しまれる。初代、2代の活動年数に、神社の再建が必要となったことを勘案すると、15世紀半ばを中心とする時期であろう。杉戸金屋子神社への信仰は、天正7年3月に備後国三原の貝正近の太刀奉納文からも伺われる。近は父廣が幼年時に病死したのを受けて鍛冶となったが、思うところあって杉戸金屋子神社に17日間断食して祈願している。その結果、神徳により祖先の跡を相続したとして、解願のため、自らの作である太刀一腰を奉納している。
  以上の史料は明治35年に県が各神社から提出させた由緒書に引用されているが、これにもとづく現在の保存状況の調査が望まれる。

金屋子神社の棟札から(2)

 当時の来島庄は複数の所領に分かれ、惣領佐波氏と庶子赤穴氏で分割して支配していた可能性があるが、由木八幡宮の天文9年棟札では、佐波氏惣領隆連が客人殿の新築を行っている。奉行人三善森長門守正重は、大永年間から天文年間にかけての関係資料が林家文書(山口県史)にある。佐波氏庶子で家臣でもある森氏の惣領で、雲南から石見国東部にかけて所領を与えられていた。
  話を戻すと、杉戸金屋子神社には天文20年2月の金屋子神奉加帳写も残されていた。『金屋子神信仰の基礎的研究』には江戸後期の勧進帳が掲載されていたが、同様の性格のものであろう。この奉加帳の趣意書と同社の万治3年の記録を合わせると以下のとおりである。
 杉戸金屋子神社は西比田から勧請されたものであった。中来島灰屋助定鈩の村下八郎右衛門は、諸国の鉄山を巡る中で、「鈩ノ差吹」を歎き、その改良をせんと28才の時に杉戸金屋子神社に37日間祈願し籠もった。そしてその験ありてか、34才で「鈩吹踏ノ天秤」を発明し、この技術が八郎右衛門によって各地に伝えられると鉄生産は飛躍的に増大した。まさに銀における灰吹法の導入に相当する発明であった。奉加帳には以下のように記す。
 此八郎右衛門當時鈩方ニ御用エノ天秤ト申ス工夫致シ、當国者不及申、隣国其外国々エ右金屋子神ノ御供致シ踏吹相教エ、夥敷銑涌出シ、其節迄ハ差吹ニシテ誠ニ纔敷事ノ由、右踏吹相用後候故、鉄山大ニ繁昌、鉄砂方モ夫レニ準ジ一同悦事無限、是八郎右衛門工夫不成有而巳、全金屋子神ノ御神徳ナリ、

金屋子神社の棟札から(1)

 金屋子神社(上来島杉戸)に関する中世の棟札を確認したので、『金屋子神信仰の基礎的研究』という題名の本をみてみたが、中世の問題には言及されていなかった。中世史の関係者もいたので、史料が確認されていないのだろう。関係する『赤来町史』をみたが、神社について簡単に触れてあるのみであった(『島根県の地名』では棟札以外の点には簡単に触れている)。
   于時天文弐拾年辛亥神在月拾五日
 奉再建立上来島村杉戸金屋子大明神社壱宇
  大檀那三善光清朝臣、御武運長久祈攸
  鑢鞴鍛煉成就、悪魔退散
  社司万大夫朝成、施主鑪鍛冶鉄穴上来島村中
 「悪魔退散」とは一般の棟札ではみられない表現であるが、同社の文禄2年の上葺の棟札にもみえている。上来島村杉戸は来島庄南部で、赤穴庄に隣接する地域である。来島庄北部の由木八幡宮に関する史料もあり、大永2年の御神体背面銘写によると、赤穴駿河守久清(郡連から尼子氏の支配下に入ると改名)が造立している。同年に久清は大呂村八幡宮の造営も行っている。前にも述べたが、大永2年と3年に尼子氏は石見国へ大規模な軍事行動を展開する。

2011年9月23日 (金)

佐世清宗について

 佐世清宗は天文22年初めの連歌師宗養の記録で初めて登場する。そして天文23年から永禄年間には奉行人奉書の連署者として登場する。天文22年段階ですでに「伊豆守」に任官していることは、彼が政権内部で重要な位置を占めていたことを示している。初登場にしてすでに有力家臣であった。そのことは奉行人としての初見史料である天文24年8月の連署書状で立原幸隆の後に署判していることが裏付けている。尼子氏奉行人の署判順は必ずしも固定的ではないが、佐世清宗の場合、その大半において最後に署判を加えているのである。
 とはいえ、天文24年8月以降永禄3年末の晴久の死までは登場する史料は少なく、義久の代となった永禄4年以降、急激に増加する。一部の例外を除けば最後に署判を加えているのである。そして永禄6年5月の文書を最後に奉行人奉書の署判者としてはみえなくなる。永禄7年の初めから尼子氏家臣で富田城から退くものが続出するが、佐世氏も早い段階で毛利氏方に下ったのであろう。軍記物には永禄8年4月の毛利氏による富田城攻撃の際の尼子方武将の配置が記され、そこに「佐世伊豆守」の名が記されるが、すでに死亡していた亀井安綱(亀井氏そのものもこの時点では富田城から退いていた可能性が高い)や、毛利方に下っている武将の名が記されており、それをそのまま事実とすることはできない。早い段階で退いたためか、「富田下城衆書立」には佐世氏は一人も記されていない。
 佐世清宗は謎多き人物であるが、天文23年の新宮党討滅事件への関与を含めて、尼子氏滅亡において重要な役割を果たした人物であったことは間違いない。

宍道氏系図(再の2)

  前置きが長くなったが、「尼子氏と宍道氏の結婚」で、尼子氏が宍道氏庶子と婚姻関係を結び、それを京都にいた宍道氏惣領に代えて、新たな惣領としたことを述べた。この点が、宍道氏の系図を一見複雑にしたのである。本来の惣領家の系譜と同時並行的に存在した庶子家の系譜が混在する形で、新たな系譜が作られたのである。新たな惣領家がもとから惣領であったように系図を改変することはよくあることである。
 佐々木寅介氏所蔵の「宍道之系」は、佐々木氏旧蔵大西家文書のものと同系統の本であるが、大西家文には慶信と慶勝の間に「慶晴」が入っている点が大きな違いで、あとは注記の細部の違いである。その他の系図では、『宍道町史』に収録されている毛利家文庫・諸臣「尼子・宍道・加地」には慶晴が記されるが、毛利家文庫・諸臣「宍道系図」と『萩藩譜録』宍道広慶文書(これがHP日本氏族大観の宍道氏系図の典拠である宍道式部家譜録であろう)には慶晴は存在しない。ただ、譜録は慶勝を久慶と経慶の間に記す。「棟札と矛盾が少ないのは後者(譜録)」と述べたが、結婚相手である尼子氏の系図の記載を参照すれば、「慶勝-久慶-経慶」の順番にならざるを得ないので、訂正する。永正15年の棟札にみえる慶勝が尼子経久と同世代であり、久慶は経久の子国久と、経慶は経久の孫晴久と同世代となろう。ただ、経慶は晴久より10才程度年上であり、経慶の子隆慶は、晴久の子義久よりも13才年上である。
 尼子氏と宍道氏との関係は、戦国期に限らず、隆慶の孫就兼の子就易が尼子家へ養子に入って継承し、次いで同じく隆慶の孫元兼の子廣高が養子に入ってその跡を継承している。

2011年9月22日 (木)

宍道氏系図(再の1)

 『宍道町史』に収録されている宍道氏系図のひとつに、大西氏所蔵の系図がある。大西氏は尼子氏と関係を持ち、過去帳も知られており、『出雲尼子史料集』にも収録されている。ところが、過去帳については、佐々木寅介氏所蔵のものもあり、大西氏本はこれを写したものである可能性が高い。両者の記述はほぼ同様であるが、一部写し洩れがあったことについては、「尼子氏過去帳から」で述べた通りである。その際に感じたことは、なぜ佐々木氏本でなく大西本なのかということであった。今回の宍道氏系図についても、大西氏本は佐々木氏本に基づくと思われるのに、なぜ佐々木氏本でないのかと感じる。
 佐々木寅介氏所蔵文書についても述べたが、史料編纂所架蔵の影写本に基づくのは良いが、島根県立図書館架蔵の謄写本については、まったく参照されていない。影写本にない裏書きが記されていたり、数多くの関連資料を収録しているにもかかわらずである。『佐々木文書』では、裏書きを旧島根県史に基づき収録しているが、県史に洩れているものが1点あったことについては「応仁・文明の乱と尼子氏」で述べた。 
  宍道氏系図についても、尼子氏と宍道氏の密接な関係と因縁からして、尼子氏には宍道氏に関する正確な情報があったはずであり、様々な要因から編集された宍道氏の系図の中では、信憑性が高いと考えられる。大西氏本を載せるには十分な根拠が必要であり、それがないなら、両方掲載するか、一方なら佐々木氏本というのが妥当と考えるが、どうであろうか。『佐々木家文書』『宍道町史』『出雲尼子史料集』ともに、佐々木家文書謄写本をまったく参照せずに編集されているのである。参照しておれば、異なる分析が可能であったろう。

2011年9月18日 (日)

秀綱以後の亀井氏(4)

 横田庄は、三沢氏惣領が大内氏方となったことにより、横田庄全体が尼子氏の支配となり、晴久被官衆に配分されている。亀井氏が支配していた竹崎は河本氏に与えられている。
 次いで亀井氏が史料に登場するのは天文20年で、この年、尼子氏は美作国に出兵するとともに再び本願寺と連絡を取っている。富田衆は尼子国久嫡子誠久と庶子敬久を筆頭とする2グループに分かれており、敬久のグループに、誠久二男甚四郎に次いで「亀井孫五郎」と森脇久貞がみえる。森脇久貞は天文16年以降、尼子氏奉行人として登場する。これに対して、亀井孫五郎は任官しておらず、若年であったことになる。次いで、天文24年の保知石神社棟札に芦渡地頭の一人として「亀井孫五郎久清」が記され、永禄2年には任官して「亀井藤兵衛尉久清」となっている。ここから久清が亀井藤左衛門尉国綱の子であることがわかる。国綱の終見史料と久清の初見史料との間に8年あるのは、国綱が死亡した段階で久清が幼少であったのだろう。そして永禄5年6月には波根氏宛の尼子氏奉行人奉書の連署者として亀井久清がみえるが、以後の奉行人奉書にはみえない。所領が出雲国西部にあったこともあり、早い段階で毛利氏方に転じた可能性が高い。なお、晴久の治世後半の富田衆筆頭としてみえるのは多賀対馬守久幸である。
 以上、尼子氏政権での亀井氏についてみてきたが、晴久の代となって政権内部での地位が著しく低下したことが考えられる。

秀綱以後の亀井氏(3)

 竹生島奉加帳では、湯原幸清と河本久信の肩にそれぞれ「任遠江守」と「任和泉守」と記されるが、亀井安綱については変化がない。前二者が詮久の家臣として任官したのに対して、本来経久の家臣であった安綱との扱いの違いであろう。
 太郎左衛門尉安綱は天文10年8月14日の稲頼庄二部八幡宮棟札を最後に史料から姿を消し、天文11年には藤左衛門尉国綱が竹生島や浅井氏との連絡にあたっているが、これは安綱の役割を継承したものであろう。そして国綱も天文12年3月と6月の尼子晴久袖判尼子氏奉行人連署下知状の署判者としてみえるのを最後に姿を消す(年未詳10月21日亀井国綱書状は天文10年に比定できる)。最後に署判している点から、国綱は奉行人の中では最も高い地位にあった。2番目には尼子国久の妻の兄弟となる多胡辰敬、3番目には立原幸隆がみえる。天文12年3月以前には主に立原幸隆が、詮久(晴久)の意向を報じる書状を出しており、実質的な晴久側近の筆頭であった。詮久時代の富田衆筆頭であった河本久信は尼子氏過去帳により天文11年4月21日に死亡したことが確認できる。また、湯原幸清は敗走する大内方を追撃する形で石見国西部にまで軍事展開し、その後も川副久盛とともに、吉川氏との連絡にあたっている。そして天文15年4月段階では、大内氏に与同して没落した牛尾氏惣領家を継承していることがわかる。

秀綱以後の亀井氏(2)

 一方、天文5年の岩屋寺二王堂造営の勧進に対して、亀井宗四郎が米10俵を寄せている。次いで天文6年12月に尼子氏と本願寺が連絡を取っているが、安綱はここにはみえず、代わりに経久取次としては鳥屋(七郎右衛門)がみえる。これに対して晴久の取次としてみえる河本右京進(久信)が晴久家臣の筆頭であった。次いで亀井宗四郎がみえるが、「民部少一仁」と付記してあり、これも詮久の家臣であった。この後に湯原がみえるが、河本から亀井と湯原には返事は無用としている。
 さらに天文7年11月にも「亀井」がみえるが、ここでは河本と湯原(次郎右衛門尉幸清)の次にその名が記され、送物も湯原とは差がある。これも宗四郎であろう。ところが、同8年12月には「亀井太郎左衛門安綱」が、河本の次でみえ、続く湯原と贈物は同じである。宗四郎と安綱の位置には違いがある。また天文8年の岩屋寺造営記録によると、本堂逗子の仏壇制作に対して亀井太郎左衛門尉安綱が米10俵を寄せているが、それとともに仏壇の材木は「亀井太郎左衛門尉抱之時寄進」として、この段階では後継者に代わっている。
 亀井氏が岩屋寺寄進の勧進に応じているのは秀綱の時代に横田庄竹崎を得ていたからである。一連の史料から「尼子史料集」では宗四郎が任官して太郎左衛門尉となったと解釈している。ただ「宗四郎」が任官すれば「四郎左衛門尉」であり、両者は別人とすべきである(このあたりの感覚に違和感を覚える)。これに対して宗四郎が父秀綱の跡をうけて「藤兵衛尉」となることは可能である。
 太郎左衛門尉安綱と藤兵衛尉国綱の関係は前者が秀綱嫡子であり、その弟が後者であろう。父秀綱の横田庄内の所領は惣領安綱と庶子国綱で分割され、両者が岩屋寺造営の勧進に応じているのだろう。

秀綱以後の亀井氏(1)

 尼子氏家臣亀井氏については経久の近臣亀井秀綱の名が知られ、経久の意向を伝える書状や神社造営の棟札が残されているが、秀綱以後の亀井氏の動向については史料が少なく、不明確であった。今回、棟札について新たなデータを得たので、それを踏まえてみていく。
 秀綱の活動が確認できるのは享禄3年の塩冶興久の乱までである。一方、秀綱と同時代に亀井上総守重綱がみられる。彼の存在については『雲陽誌』にも述べられているが、棟札を確認したことによりその理解は深まった。彼が稲頼庄三部の宇佐八幡宮(永正16年)と常楽寺内山王社(大永2年)の上葺と造営を行っているのに対して、隣接する稲頼庄二部の八幡宮(天文10年)の造営に亀井太郎左衛門尉安綱が関わっていることから、安綱を重綱の子と記したが、安綱の花押からすると、彼が亀井能登守秀綱の嫡子であろう。
 これに対して、重綱は軍記物で塩冶興久の側近として登場する秀綱の弟「亀井新次郎」に比定できる。塩冶に派遣されるとともに、近隣の尼子氏領(稲頼庄、常楽寺)を与えられていたのである。そして重綱が興久の乱で死亡すると、その跡は兄秀綱の嫡子太郎左衛門尉に与えられたのであろう。
 天文9年の竹生島奉加帳には、亀井太郎左衛門尉安綱ととも、藤左衛門尉国綱が登場する。亀井秀綱が能登守に任官する以前の称号は。「藤兵衛尉」であり、宗四郎→藤左衛門尉なら問題はない(以前、宗四郎ではありえないとしたが訂正)。安綱は天文2年に尼子経久が日御崎神社に伯耆国犬田内田地を寄進した際に、添え状を出している。また、天文5年12月には近江国浅井氏に書状を送っており、安綱は経久の家臣であった。

2011年9月13日 (火)

亀井氏領について

 今回、出雲大社領出西郷で尼子氏重臣亀井氏関係の棟札を確認した。『郷土史の研究』(1928年、出西小学校刊)に掲載されていたが、写す際の誤りを訂正したものを以下に記す。
(梵字)奉修造雲州神門郡出西郷八幡宮棟上酉時、遷宮丑時、地頭亀井藤左衛門尉国綱、代官末次対馬守、仝松浦四郎右衛門、別当公文岡田神六兵衛重久、多々納源兵衛眞久、本願永椉、大工神門與三左衛門藤原国久、天文九年庚子十一月三日、導師鰐淵寺敬白
 地頭亀井藤左衛門尉国綱は前にも述べたように亀井能登守(藤兵衛尉)秀綱の子であろう。天文9年8月の竹生島奉加帳では亀井太郎左衛門尉安綱が連絡役となっているが、吉田攻め後の天文11年4月段階では亀井藤左衛門尉国綱が竹生島との連絡にあたっている。
 亀井太郎左衛門尉が天文10年8月の神西庄二部八幡宮の棟札に大檀那尼子詮久とともにみえることは前にも述べたが、以後の史料には登場しない。国綱は天文12年6月の鰐淵寺領書立の連署者(晴久奉行人)の一人までみえるが、以後は登場しない。花押をみると、安綱(天文2年日御碕神社文書)、国綱(天文11年竹生島宝厳寺文書)ともに秀綱と共通するが、安綱の方がより近い。安綱を亀井上総守重綱の子としたが、秀綱の子と訂正する。
  他の亀井氏領については、大原郡三代庄長安寺の大永5年の棟札に亀井能登守がみえる。弘治3年の上葺は晴久が大檀那となっている。また不明確な部分を残すが、享禄2年11月の飯石郡反部釼大明神御寶殿の建立者として「能登守」がみえ、これを尼子経久による修造と記すものもある。
  (追加)亀井国綱の代官としてみえた末次対馬守は島根郡末次郷の領主であるが、尼子氏直臣ではなく、亀井氏家臣という位置づけである。大永5年には大庭宮目銭の算用を秋上高国が末次孫兵衛宛に報告し、それに亀井能登守秀綱が花押を添えている。この時点で亀井氏の被官となっていたのだろう。もう一人の松浦四郎右衛門については一族の松浦助次郎が竹生島奉加帳に富田衆の一人としてみえる。松浦氏の庶子が亀井氏家臣となっていたのだろう。忌部郷など意宇郡内に所領を得ていた。

左一郎と因碩の対局

 この点については以前ネット上でその棋譜を確認したが、その後そのサイトが閉鎖されたこともあって確認できなくなった。最近別の形で復活したようだが、現時点では以前ほどの棋譜は掲載されていない。他の棋譜のデータベースをみても、因碩戦は掲載されていない。そこで、福井正明氏による『幻庵因碩打碁集』を入手してみた。アマゾンでは中古でも販売されており、手数料込みでも二千円弱で購入できたのはラッキーであった。中国地方の図書館で検索すると岡山県立図書館のみが所蔵していたが、岡山へ行く時間と費用を考えれば、なおさらである。
 その結果、弘化3年11月に岡山での対局として、棋譜が記載されていた。因碩は8月初めまでに秀策との5局を大坂で打っていた。左一郎は11月中旬には周防国小郡で堀部弟策と対局している。因碩との一局が小郡の先か後かについては、不明である。最後まで打っているので、2~3日はかかったと思われる。解説をみる限り因碩が晩年にまとめた『囲碁妙伝』に収録されていたようであるが、64手までを示して持碁と記す。
  左一郎の2度目の上京は弘化元年5月の伊藤徳兵衛との棋譜が最後である。翌2年に父が死亡しており、石見国に帰国したのであろう。同2年10月の尾道での秀策との対局は父を失って後のものであろう。2度目の上京時にはやや押され気味ながら秀策との白番でも二度勝利していたが、尾道での対局の時点では黒番1目負け、そして弘化3年には秀策が因碩に黒番で3勝しているのに対して、左一郎は2子で持碁と、両者の間には差がみられた。

2011年9月11日 (日)

宝坂神社棟札について(2)

 尼子氏有力家臣をみると、天文20年段階で「多賀与三左衛門尉」(8月)・「立原次郎右衛門尉」(10月)・「本田四郎右衛門尉」(3月)であったのが、「多賀対馬守」(天文21年2月)・「立原備前守」(22年12月)・「本田豊前守」(同)となっている。晴久を補佐する尼子国久も天文21年9月段階で「紀伊守」となっていることが確認できる。
  天文20年末から21年初めにかけての時点で尼子氏有力家臣の多くが、同時に任官したのであろう。それに対して、国久の子敬久はすでに天文20年8月段階で「左衛門大夫」となっており、先行して任官している。国久の後押しがあったのだろうが、これが国久嫡孫「孫四郎(氏久)」の疑念を招くことになる。
 一方、国久嫡子誠久については、天文23年11月の新宮党討滅の時点でも「式部少輔」であった。晴久の修理大夫任官時点で同時に任官する予定であったかどうか謎である。晴久の家臣としての位置づけを明確にするなら変更なしも想定できるが、嫡子孫四郎が父誠久の官職を継承するためには、別のポストが必要であった。以上を踏まえると、尼子氏有力家臣と同様に受領に任官する予定であったと考えるのが妥当か。
  話が横道にそれたが、「天文三年甲寅」については写が間違ったのではなく、棟札そのものが誤ったものであろう。次いで述べられる「勝部筑前守御新造」というのは、今回=天文23年ではなく、奉行人勝部氏が造営の中心であった14世紀末から15世紀初めのことを述べているのであろう。
  なお、天文23年11月26日の須佐神社柱銘には大宅常光が奉行としてみえるが、大檀那がみえないのは、新宮党討滅事件の影響であろう。

宝坂神社棟札について(1)

 中世の須佐郷の東部朝原にある宝(法)坂神社については、中世の棟札そのものは残っていないが、寛文10年の棟札に、前回の遷宮として以下のように記している(昭和3年いづものくに宝坂神社由緒書)。
 當社御造営者大宅朝臣高橋備(越)中守常光、天文三年甲寅釿始、同十一月三日御遷宮後、勝部筑前守御新造以来百五十年及数度有上葺在之、雖然寛文十年十月三日釿始同廿五日奉移権殿、十一月八日柱立同十二月八日御奉御造立降坂大明神御宝前(以下略)
  大宅越中守常光を「備中守」としたり、法坂を「隆坂」とするなど、写特有の問題があるが、何より問題なのは「天文3年」と「甲寅」が一致せず、「勝部筑前守御新造以来百五十年」と「寛文十年」の齟齬もある。寛文10年(1670)の150年前は永正17年(1520)となるのである。
 年号と干支のズレは干支に合わせて天文23年甲寅とすべきとの意見があるが、妥当な見解だろう。天文3年段階で大宅氏が出雲国内に所領を得ているという点とともに、その時点で「越中守」となっている点にも問題がある。天文3年の時点では、翌4年に須佐神社の造営を行っている佐波氏が朝原の地を支配していた可能性が高い。天文13年に須佐神社鳥居の造営を行った時点では「大宅朝臣常光」と記している。
 年未詳5月1日の尼子晴久書状(尼子氏史料集は寄進状と誤っている)では、「本城兵部太輔」宛で、須佐大明神へ刀と神馬を施入したことに対して神主から樽が送られてきたことへの礼を神主に伝えてほしいと述べている。晴久の花押の形と書かれた内容からすると、晴久が守護に補任された翌年=天文22年のものであろう。これまた尼子氏史料集では、下限を天文21年としているが、同年12月に晴久が修理大夫に補任されたのは事実ではなく、補任は天文23年末から24年初めのことである。

2011年9月 7日 (水)

朝山郷内粟津村について(2)

  この片寄氏と粟津村については、平野大山神社(粟津村西部の堀江に所在)の棟札写が残されている。延徳4年(1492)10月には片寄筑前守藤原信清とその子彦五郎が大檀那として神社の造営を行っている。神主は稲田藤原忠秀とその子余市左衛門である。次いで天文18年11月には尼子氏の有力家臣立原次郎左衛門尉(幸隆)が大檀那として「大土八幡宮」の造営が行われている。片寄氏が幕府御料所朝山郷という体制下で粟津を支配し、それは朝山郷が実質的に尼子氏領となった天文9年3月までは継続していた。それが、何らかの理由で立原氏が実質的な支配者となった。その要因としては、片寄氏が出雲国に侵攻してきた大内氏と結んだことによりその所領が没収され、立原氏に与えられてことが考えられる。
 出雲国が毛利氏の支配下に入った天正14年4月には、小早川隆景が大檀那となり、山県氏が奉行となって造営が行われている。そして同時期と思われる10月15日国司右京亮元相・児玉小次郎元安連署書状では、粟津神主に直江郷神主を申し付けたことが、鰐淵寺に伝えられている。これ以後直江八幡宮神主稲田氏は、粟津神主稲田氏と同族となったのである。
 粟津神主稲田氏の記録によると、稲田氏は日御崎社との関係が深く、15世紀初めの愛寿丸と田儀又法師の対立に際して愛寿丸を支持している。このことが粟津村関係資料が日御碕社と直江村神主稲田氏に粟津村関係文書が残った理由であった。

朝山郷内粟津村について(1)

 粟津村は朝山郷の北端に位置し、斐伊川をはさんだ対岸は大社領高浜郷である。「津」という字からも水運との関係が伺われる。南北朝期の貞治3年9月に畿内で活動している「朝山一族粟津師綱」はこの地を苗字の地としたのであろう。しかし、朝山氏惣領がその活動の拠点を畿内に移すと、守護京極氏により朝山郷そのものは幕府御料所とされた。
 粟津村の初見史料は明徳3年で、塩冶氏一族の大熊貞季が御崎神田を御崎社検校に寄進している。
 粟津村の関係文書が日御碕神社に残されているのはこのためであるが、一方、直江村八幡宮神主稲田家の文書にも粟津村関係文書が残されている。天文9年3月には片寄久永と久盛が連署で粟津村内一段を日御崎社に寄進している。それによると、粟津村は片寄氏の代々相伝の所領であり、そこには御崎社の神領があったが、何らかの理由で中絶してしまった。それを再度寄進したのである。ところがこの寄進状は日御碕社ではなく、鰐淵寺に関係する直江八幡宮神主稲田家に伝わっているのである。
 天文24年6月に尼子晴久が粟津村内の地を片寄父子売券に任せて日御崎社検校に安堵している。これも本来の所領(本名)が抜地となって退転したため、尼子氏がその所領を自らのものとして、近年のように役を勤めることを約している。ここに出てくる「片寄父子売券」とは、前述の寄進状ではありえず、片寄氏が粟津村内の別の所領を日御崎社に売却していたのであろう。それにもかかわらず、片寄氏以外の別の領主によって支配されていたのである。

2011年9月 5日 (月)

平田屋佐渡守について

 出雲国平田町の出身の商人で、毛利氏に仕えて城下町広島の建設に中心的役割を果たして広島町人頭となった平田屋佐渡守についてはよく知られている。出雲国西部の中心都市杵築大社とも深い関わりを持ち、その御供宿の経営者となるとともに、「杵築御蔵本」の一員であった。ただ、平田佐渡守の実名については管見の限りでは不明のようである。この佐渡守について、新たな関連資料を確認したので、以下で紹介する。
 佐渡守が平田町に本拠を置いていたことは、天正十六年9月吉祥日の平田保熊野権現棟札により確認できる(既知)。
   奉造供雲州楯縫郡平田保熊野権現宮
   當社御地頭吉川殿 辛酉御歳  代官平田屋佐渡守
                      本願兩目代小村久右衛門尉、杉原内蔵丞
                                河瀬左衛門尉
    天正十六年戊子九月吉祥日
平田保が吉川氏領となり、平田佐渡守がその代官となっていることがわかる。それとは別に平田町の両目代小村氏と杉原氏の存在についても確認できる。同年の平田保王子権現の棟札も残されている。以下のように熊野権現の棟札と共通する点が多いが、佐渡守の子として宗次郎と長松丸がいたこともわかる(新、王子以外は熊野と一緒?)。
 奉造供州楯縫郡平田保王子権現宮
  當社御地頭吉川殿 辛酉御歳 代官平田屋佐渡守、
  同息宗次郎同息長松丸、神主河瀬左衛門、
  本願兩目代小村久右衛門、杉原内蔵丞、
  大工助左衛門宗次、鍛冶内藤
 于天正十六年戊子九月吉祥日、筆者沙門敬白
 平田佐渡守がかかわる棟札としては、天正十八年十一月五日の大原郡幡屋村八幡宮の棟札がある。そこでは、吉川氏ではなく宍道氏(政慶)の代官としてみえ、実名が家秀であったことがわかる。その経済力を背景に出雲国内の所領の代官を複数務めていたことがわかる(新)。
雲州大原郡幡屋八幡宮造営
 (「古来霊社地‥‥作如意吉祥」中略)
  大壇門宍道備前守政慶、
  代官平田屋佐渡守家秀、本願苅田十兵衛丞忠幸、
  大工松浦新兵衛幸次、神主斎藤民部
 天正十八稔庚寅十一月初五日

2011年9月 3日 (土)

棋譜からわかる左一郎の動静(3)

  今回は上手である7段秀策、7段伊藤松和、7段大田雄蔵、7段坂口仙得、8段秀和との黒番15局と二子1局(対秀和)では、秀策に2勝1敗、大田雄蔵に1敗、秀和に6勝2敗(黒番)、松和に3勝、仙得に1勝と、12勝4敗の成績をおさめている。互先であった鶴岡三郎助には黒番で9目勝、下手であった佐瀬秀石、村瀬弥吉(秀甫)、小沢金太郎、鈴木善之助との白番9局では弥吉との持碁1局を除き勝利している。確認できた棋譜では20勝4敗1持碁と優秀な結果を残して、5段さらには6段を認められている(この外に秀策と秀和と1局ずつの打掛がある)。
 以上のような成績にかかわらず、左一郎本人はこの時点では石見国での囲碁の指導を自らの使命としていたのだろう。これ以後の棋譜は確認されていない。左一郎は安政2年正月には江戸からの帰途京都に寄り、その後尾道には寄らずに石見国へ帰った。
 嘉永3年に秀策が石見国を訪問した際に、左一郎は秀策と対局をしているが、安政4年5月の秀策の出雲国入りの際には別行動で、外に指導に出かけていたようである。同年8月29日の秀策書状は、京都に行った秀策が尾道の支持者へ送ったものだが、その当時左一郎が尾道に指導に来ていたことがわかる。またその書状の中で秀策は、京都での指導碁4局の棋譜を送るが、不出来なので左一郎には見せないよう依頼している。秀策からすると左一郎の棋力は無視できないレベルとなっていたので、このような発言となったのだろう。

2011年9月 2日 (金)

棋譜からわかる左一郎の動静(2)

 次いで弘化2年(1846)10月の尾道での秀策との1局(黒番1目負)、同3年11月の周防国小郡での堀部弟策との1局(白番2目目)がある。そして、以前ネット上で確認した記憶があるとしか現時点ではいえないが、同11月には幻庵因碩との持碁の1局があった(岡山での対局であったことを確認)。
  そして嘉永元年(1848)には大坂で『活碁新評』を出版し、弟子岩田秀苗(右一郎)を伴っての上京があった。正確にはこれが3度目となる。その3年前=弘化2年に亡くなった父美濃屋丈助は最初の天保8年~11年の上京時には左一郎とともに江戸で生活しており、本因坊家の関係者との交流もあり、挨拶と右一郎の本因坊家入門を兼ねてのものであった。
 嘉永3年(1850)には尾道で5局(1局打掛)、石見国大浦で2局(打掛1局)、秀策との棋譜が残されている(黒番4局、白番1局ですべて秀策の勝ち)。尾道慈観寺の5月25日の黒番で7目負けとなり、「常先」へと打ち込まれてしまった。両者の間には明確な差がついたのである。この後が、嘉永5年9月から嘉永7年10月まで、最後の江戸修行となる

棋譜からわかる左一郎の動静(1)

 1998年11月に確認した左一郎の棋譜は43であったが、29増えて今回は72となった。天保11年(1840)に石見国へ帰ってから同14年の2回目の上京の間に、天保12年4月と9月の中川順節五段との2局がある。順節は大坂を拠点としており、4月の「尾州御屋鋪」とは大坂の尾張藩蔵屋敷とすべきで、9月の陸原左一郎宅も同様であろう。一定期間大坂に滞在していたのである。順節とは黒番で中押し勝ちで、白番では敗れている。
 同13年4月には天王寺屋忠次郎宅で勝田栄輔との6局の棋譜が知られるが、天王寺屋宅とは弘化3年7月(1846)には、幻庵と秀策が有名な耳赤の一局を打った場所であり、これも大坂である。栄輔は江戸在住の幕臣で五段であったが、四段であった左一郎の黒番4局で2勝2敗、白番2局で1勝1敗であった。
 そして、同年8月以降は2度目の江戸での修行となり、秀策との棋譜が残されている。秀策が同年10月に四段格から四段に進んでいる。翌年2月までの13局で、黒番5局で2勝3敗、白番8局で2勝6敗である。互先であるので、今後黒番3局が確認される可能性があるが、やや秀策に押されており、このため五段を認めらるには至らず五段格で石見国に帰国したのだろう。

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