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2011年8月

2011年8月29日 (月)

中世の須佐郷(2)

 永正13年と天文2年にも勝部氏により□殿の上葺きと舞殿の建立が行われているが、天文4年に至って佐波誠連が願主として登場する。佐波氏は幕府奉公衆で石見国佐波郷を本拠としたが、出雲国守護のもとで、出雲国内にも複数の所領を得ていた。この前年には須佐郷東部・朝原村の法坂大明神(現宝坂神社)の造営が、大宅常光(1486年生)により行われている(寛永10年棟札に前回の造営として記す)。大宅氏は高橋氏の庶子として石見国出羽郷内本城を拠点としていた。また、大永2年には須佐郷内西部の大呂村の八幡宮の造営を地頭赤穴久清(佐波氏の庶子)が大檀那として行っている(これについては棟札そのものは残っていない)。
 戦国大名尼子氏は永正末年までに出雲国西部を軍事的に制圧し、須佐郷内高櫓城を掌握したとされる。尼子氏のもとで須佐郷は分割され、有力家臣である佐波氏、赤穴氏、大宅氏に与えられ、彼らの手で郷内の神社の造営が行われたのであろう。須佐郷内反辺と角井についても、尼子氏ないしは側近亀井能登守の所領となっていた可能性が大きい(神社棟札の記述の断片のみ残る)。
 これが天文13年には大宅常光が須佐神社大鳥居の造営を行い、大呂村の八幡宮も弘治2年には大宅常光が造営を行っている。これには天文11年の大内氏の出雲国攻めで、佐波氏惣領が大内氏方となり、大内氏敗北後は山口へ逃れたことが影響していよう。大永2年には庶子赤穴氏が支配していた大呂村も佐波氏と赤穴氏との関係で、一旦佐波氏領となり、それが須佐郷中心部とともに没収され、大宅常光に与えられたのだろう。
 この体制は、永禄5年に石見銀山に派遣されていた大宅常光が毛利氏方となり、同9年に尼子氏が毛利氏に降伏したことにより一変する。大宅常光自身も毛利氏により永禄5年11月には誅殺され、須佐郷は熊谷氏(須佐、反辺、大呂などの中心部)と毛利氏方となっていた佐波氏惣領(角井、八神、波多などの南部と東部)に与えられた。

中世の須佐郷(1)

 須佐郷と須佐神社は出雲大社並びに国造出雲氏と深いかわかりのある地である。この須佐郷については『島根県の地名』の「飯石郡須佐郷」の項で述べたことがあるが、その時点では認識していなかった棟札のデータが残っており、その内容を踏まえて再度述べてみたい(須佐大明神の棟札からを増補し、一部修正したものである)。
 須佐郷は文永8年の出雲大社頭役結番帳では30町3反小の田数であるが、山間部でもありその領域は広大で、現在の出雲市佐田町内の反辺、宮内、原田、朝原と雲南市内入間、波多、穴見、さらには飯南町志津見、八神、獅子、角井に相当する。鎌倉初期には出雲忠康が郷司であったが、承久の乱の結果、北条得宗家が地頭となった。
 須佐神社棟札によると寛元元年(1243)に将軍頼経の名で本殿の造営が行われ、永仁六年(1298)にも久明親王により新築がなされている。時期的には問題はないが、北条時宗の弟時輔の母尼妙音が地頭であった横田庄の八幡宮の場合、弘安4年(1281)に妙音が御願主として造営が行われているので、北条得宗による可能性が大きい。
 ともあれ幕府滅亡により状況は一変する。須佐郷地頭職は没収され、室町幕府により石清水八幡宮に寄進された。国衙領としての支配も南北朝の動乱の中で、しだいに守護により吸収されていったと思われる。
 神社本殿の造営は、その後も応永21年、永正8年に行われたが、願主は須佐郷公文勝部氏一族により担われている。勝部氏とは鎌倉期の出雲国衙の在庁官人筆頭であった朝山氏の一族である。国衙のもとで須佐郷の支配にあたっていたのだろう。飯石郡内では朝山氏に次ぐ多祢氏が多祢郷を支配していたが、両者とも14世紀末までに本領である朝山郷、多祢郷を失っている。永正8年の棟札によると、永仁6年の新築以降は屋根の上葺が行われたのみで、本殿の大破が進んだので、勝部泰久とその一族が私財を投じて造営を行ったという。

2011年8月28日 (日)

左一郎の棋譜と棋書

 荒木氏所蔵本には『活碁新評』が2種類3冊、『常用妙手』が1冊あるが、『囲碁定石集』上下2冊は含まれない。『新評』は出版された上下2冊本とともに、写本の1冊本があった。写本の表紙には「桂花園蔵」と記される。巻末には「嘉永元年九月 岸本左一郎直樹しるす」とした上で、朱筆で左一郎による後書きと篠崎小竹の序文は省略したことを記す。また、2巻本では碁罫紙に問題を記した裏に解答・解説が文章で述べられるが、写本では碁罫紙に手順を記し、碁罫紙の上部に解説を記している。
 『常用妙手』については、以前、三原市立図書館で「桑堂所持」と表紙に記した写本をみたが、今回は印刷本である。関係する表記がないので出版本ではないが、前半に問題を碁罫紙に記し、後半には碁罫紙とその上の覧に番号と解説が記されている。 最初は同じ内容の本が2冊綴られていると思ったが、そうではなかった。写本と同様左一郎の序文が記されている。
 棋書としては左一郎の弟子岩田秀一郎の編集になる『囲棋常用手談』がある。『常用妙手』との比較はしていないが、80題の手筋の問題を収録している。問題と解説文のみで岩田による序文はないが、巻末には明治十五年十月二十九日と三十日の2日間で掘九郎兵衛が写したことが記されている。
  棋譜集としては「秀策天保録、左一郎嘉永録」がある。前者は左一郎が2度目の上京をしていた天保14年から15年にかけての秀策の棋譜で、左一郎相手の棋譜も含まれる。後者は左一郎3度目の上京中の嘉永5年から7年の棋譜で、秀和、秀策、伊藤松和、坂口仙得、鶴岡三郎助、大田雄蔵との対局分が収録されている。左一郎によるまとめられた棋譜集であろう。あと一冊「囲棋十一局」と題する、左一郎の嘉永6~7年の棋譜集がある。伊藤松和、秀策、秀和、佐瀬秀石、小沢金太郎、鈴木善之助、村瀬弥吉との対局分が収録されており、一部は前の棋譜集と重なる。碁罫紙はつかわず、手順のみ文字で記している。「群雄技蹟」を加えれば3冊となる。

岸本左一郎の手紙(2)

 手紙の冒頭には勝負付が記されている。嘉永6年7月後半から9月初めにかけて、八段本因坊秀和(2)、七段伊藤松和(1)、四段佐瀬秀石(1)、四段鈴木善之助(1)、三段小沢金太郎(3)、三段村瀬弥吉(後の秀甫、8)、初段葛野忠右衛門(2)、初段葛野良三郎(2)と対局したことを記す。括弧内の数字は対局数である。弥吉戦が4勝4敗で、秀和との1局が打掛となっている以外は勝利している。20戦15勝4敗、打掛1。
 次いで、9月12日付手紙で、この囲碁勝負の結果が大変よく、囲碁の家元4家の評定により五段の免許を得たとする。そして「石橋久右衛門」に対して、このことをお世話になった尾公様(尾張藩主か)、取手様にも伝えてほしいと記している。
 さらには11月25日付手紙では、吉見猶左衛門と石橋久右衛門に宛てて、御城碁と御好みの棋譜を謹呈するので御覧あれとする。そして、秀策と松和両先生に2番ずつ勝利したことを記している。秀策については嘉永5年10月と嘉永6年10月の2局が知られ、松和とは嘉永6年8月21日から10月1日にかけて2度対局し、勝利を収めている。伊藤松和との棋譜も今回確認した。吉見、石橋氏は左一郎の支援者であろう。尾張藩との関係については2度目の上京の途中か、天保13年4月晦日に尾州御屋鋪で中川順節と対局した棋譜が「群雄技蹟 完」に収録されている。中川順節は左一郎が亡くなった際に秀甫とともに石見国を訪れ対局している。なお今回確認した棋譜のリストについてはHPの方に掲載する予定である。

岸本左一郎の手紙(1)

 囲碁資料収集家として著名な荒木直躬氏所蔵資料は、現在、成田山仏教図書館に寄贈されている。その中に含まれる岸本左一郎関係資料について紹介する。
 荒木氏は千葉大医学部教授さらには学長を歴任され、1962年に亡くなられている。自らが編者となって秀策・秀和・秀甫などの打碁全集を刊行している。『棋道』1962年11月号の座談会「碁聖秀策を偲ぶ」によると、鳥取市で発見された棋譜の写本「囲碁手談」に新たな本因坊秀甫の棋譜が含まれていると知り、入院中ながら熱心な催促をしていた最中の1月30日に亡くなったとある。その棋譜は関係者の努力で「本因坊秀甫全集」、さらには福井正明氏編「本因坊秀策全集」に収録された。
 「囲碁手談」については、『棋道』同号に掲載されている関山利一氏「秀策秘譜本の研究」からその概要を知ることができる。しかし、分析・整理をしていた関山9段(初代本因坊)が亡くなったこともあって、本そのものは所在不明となっている。
  前置きが長くなったが、荒木氏所蔵資料であり、その意味では以前から知られていたものであるが、一般には知られていない左一郎の棋譜と手紙が含まれている。
 手紙は「群雄技蹟 完」という写本の巻末に貼り付けられている。写本は弘化2年6月17日の「大田雄蔵-井上因碩」戦等2局を除けば、秀策と左一郎の関係棋譜が収録されている。秀策については関山仙大夫との対局が中心で、左一郎については2度目の上京となった天保13~15年のものが中心である。ただ、嘉永6年8月22日の「村瀬弥吉-左一郎」戦は「岸本蔵」と記された碁罫紙に書かれたものが貼り付けられた形となっている。同館には、未見であるが「金門闘奇 乾1冊 井上因碩・土屋秀和対局譜/嘉永6年御城碁秀和・松和対局譜 写本−甲寅正月上院岸本左一郎以所贈印本写之−」も所蔵されている。左一郎が嘉永7年正月に棋譜を写して送ったものであり、「群雄技蹟 完」についても同様のもので、手紙も左一郎自身が写して貼り付けたものであろう。

2011年8月23日 (火)

戦国期の三刀屋氏領

 三刀屋氏については古文書の写しが残されているが、その所領については不明な点が多い。尼子氏のもとでは、飯石郡三刀屋郷とそれに隣接する熊谷郷の支配を安堵され、次いで塩冶興久の乱で朝山郷内稗原、仙道朝山多賀美作守跡と飯石郡内・大原郡内の所領を得ている。ただ、熊谷郷については一部が尼子氏ないしはその家臣領となったようで、尼子氏方から毛利氏方へ転ずる段階で、毛利氏に熊谷郷について愁訴し、それを認められている。
 毛利氏の下では以上に加えて、熊野氏跡(熊野郷)を与えられるとともに、楯縫郡に属した久木についても権益を有している。これに加えて天正8年12月の筑陽神社棟札により三刀屋氏が意東庄を支配していたことがわかる。一方、その系図には戦国期以前に意宇郡来海庄と楯縫郡宇賀郷関係の文書を有していたことも記されるが、確認はできない。
  今回、元亀3年忌部郷内大宮神社の棟札と天正6年2月楯縫郡佐香郷内佐香社の棟札を確認し、三刀屋弾正忠久扶が忌部郷と佐香郷についても毛利氏から与えられていたことを確認した。忌部神社根元録に三刀屋氏が何度か登場するのはそのためであろう。
 三沢郷と横田庄内に多くの棟札が残る三沢氏に対して、これまでやや影の薄い存在であった三刀屋氏であるが、その文書の一部のみが今に伝わっていることが明確となった。毛利氏がいち早く味方となった出雲国人に対して、恩賞として多くの所領を与えたことを物語るものである。毛利氏の次なる課題は、転封による所領の再編成であった。

2011年8月14日 (日)

尼子氏の大永3年石見国攻め

 このことについては、都治根元との関係で述べた。周布氏領内大麻山尊勝寺の記録によると、大永3年の戦闘で全山焼失したとする。戦闘の激しさを物語るものであろうが、人によっては記録類にありがちな誇張とすることもあるかもしれない。
 これに関して天文6年の周布郷内村八幡宮の棟札が残されている。以下のように、尼子方の軍事活動の凄さを端的に示した表現がなされており、尊勝寺の記録を裏付けるものである。当然、攻めた尼子方も大変な被害を出したはずであり、これが塩冶興久の乱につながるのではないか。
  去大永三癸未八月下旬頃、雲州尼子伊豫守経久之武士発向此国、當郷内神社仏寺不嫌霊地悉破却畢、
 これを受けて内村信濃守兼康が、大永3年(1523)から14年後の天文6年(1537)になってようやく八幡宮の再建を完了したのである。この後まもなく、石見国をめぐる尼子氏と大内氏の対立が再燃するが、その間隙を縫うかのような造営であった。
 この棟札は島根県に提出した神社由緒書に収録されている。最も詳細な明治35年のものは、出雲部については仁多郡以外の9郡について残っているが、石見部はごく一部の郡のみで、那賀郡については明治41年のものが残されている。ただ、その簿冊の厚さは出雲部のものと比べると薄い(出雲部も能義郡は薄い)。宝物文書目録の記載を具体的に裏付けるものを期待したのだが‥‥。ちなみに内村兼康についても系図には記載がなく、新たに確認した。
付記 内村兼康については、周布氏関係系図(これについては後日、論文にまとめて紹介する)に内村氏系図が含まれていたことを確認した。それによると、完成直前の天文五年十月九日に兼康(安)は死亡している。

神西氏と尼子氏

 国人神西氏が本拠とした神西新庄の一部に守護の支配が及んだことについてはすでに述べたとおりである。口田儀の多伎芸神社以外の棟札を確認したので、その紹介をしつつ、神西氏と尼子氏の関係について述べていく。
 神西氏は軍記物では尼子氏との密接な関係が記される。ところが、『多岐町誌』の中で、天文初年の時点で、神西氏惣領がその地位を庶子に譲らざるを得ない状態が生まれていたことが紹介された。これについて『出雲塩冶誌』では塩冶興久の乱との関係を指摘した。
 神西氏の本領である神西新庄は戦国期には、東から稲頼庄、多岐郷、田儀の3ヶ所に分かれていた。神西氏と一族の多岐氏、田儀氏が天文9年の竹生島奉加帳にみえていたが、一方では尼子氏の支配も及んでいた。稲頼庄内三部の宇佐八幡宮では永正16年11月に地頭亀井上総守により上葺きが行われている。上総守については、これまで知られていなかったが、大永2年11月には隣接する所領である常楽寺内山王社の造営を行っている「亀井上総守重綱」と同一人物であろう。社伝によると薦田山中腹に新たな社地を造成し、移転・新築を行うとともに、7ヶ所の料田を寄進したという。この年、尼子経久は杵築大社で万部経の読経を行い、翌大永3年には石見国と安芸国への大規模な軍事活動を展開しているが、それと連動したものであったであう。 
 大永2年には経久の子塩冶興久も塩冶神社の再興を行っている。同じく、大原郡針江村の稲荷神社でも地頭馬田氏による再興が行われている。また、赤穴久清も大永2年に飯石郡由木八幡宮と大呂村須佐八幡宮の造営を行っている。これらは偶然ではなかろう。
  話を神西庄に戻すと、稲頼庄内二部の八幡宮でも天文10年には尼子詮久と亀井太郎左衛門尉(安綱、重綱の子であろう)の名で造営が行われている。
 以上のように、神西氏の領主制の展開は、戦国大名尼子氏とその家臣亀井氏により大きな制約を受けていたのであり、この点が神西氏惣領が塩冶興久の乱で興久方についた原因であったろう。神西新庄は出雲国西端の所領でもあり、尼子氏にとっては掌握する必要性が高かった。

尼子氏と宍道氏との結婚

 この点については尼子氏と宍道氏の両方の系図に記され、事実であろうが、問題はその具体的状況である。確認できるのは、宍道隆慶の父経慶が28歳で早世したことであり、その背景には晴久との対立があったことであるが、その死亡時期からすると塩冶興久の乱への与同が有力であるとした。
 今回、下庄原佐支多神社の永正15年(1518)3月13日の棟札で、「源慶勝」なる人物を確認した。宍道氏系図では、経慶の父として「久慶」、祖父として「慶勝」を記すものと、慶勝を久慶の子で、経慶の父とし、慶勝が尼子経久女子と結婚したとする一本がある。この棟札と矛盾が少ないのは後者である。「尼子国久の役割」で、尼子経久娘と久慶(慶勝)の結婚を文亀2年(1502)以前と推定したが、これとも時期的に矛盾しない。庄原は幕府御料所福頼庄の一部であったが、この時点では宍道氏が支配していたことになる。これが、京極氏との関係か尼子氏との関係によるのかは不明である。宍道氏は隣接する楯縫郡多久郷内沖洲についても五郎久俊が支配していた。この人物も「久」の字から尼子経久との関係がうかがわれる。享禄3年2月と同5年3月に沖洲八幡宮神主に安堵状を出しており、久俊は興久の乱で経久方となってその地位を保持している。
 これに対して佐支多神社の天文7年の棟札によると塩冶氏のもとで、後に富田衆として登場する里田氏が代官を務めている。塩冶興久の乱の結果、宍道氏から塩冶氏に交代した形となっている。この塩冶氏が天文7年から政治の表舞台に登場した興久の子清久なのかは棟札の判読できる部分が少なく断定できない。
  尼子氏は宍道氏の庶子と婚姻関係を結び、それに宍道氏領を継承させて自らの勢力を拡大した。

2011年8月10日 (水)

日倉神社棟札について(4)

 明治35年神社由緒書の飯石郡の綴りにより、棟札のより正確な形が確認できたので、重複する部分を含めて掲載する。天文20年3月から造営の準備が始まり、棟札の日付の前日に棟上げと遷宮が行われた。また、天正8年については上葺であったことも確認できた。
          大檀那源誠久、同敬久、大勧進壬申御歳、御代官源秀家
奉造立八幡宮雲州飯石郡多根郷宮内村日倉別宮御造営成就砌
          神主平朝臣清重、同左衛門四良并左京太夫并橘久氏并藤原定通并式部大夫清重、
本願天台僧禅定寺当住慶圓律師
          鍛冶大工成相四良兵衛藤原重則大工吉木
     源五郎原(源ヵ)久康、頭量(棟梁)中島藤原忠次、小工名等
天文廿年三月一日木切初、番匠以下一千五百八人手間也
天文廿一年壬子睦月釿初
天文廿二年七月十六日始ニ同霜月造
御棟上天文廿二年十一月十七日庚申ノ日巳剋成就
御遷宮同日丑剋宮渡成就
天文廿二年癸丑十一月十八日所願成就満足敬白

須佐大明神の棟札から(2)

 棟札によると応永21年(1414)に造営が行われている。その中心となったのは奉行としてみえる「勝部行久」である。勝部氏は出雲国衙の中心であった朝山氏の一族で、須佐を苗字としているが、新たに地頭となったというよりも、国衙と石清水八幡宮の支配下で代官として実質的な支配にあたっていたのであろう。永正8年(本殿)、同13年(不明)と天文2年(舞殿)の造営でも中心的役割を果たしている。またその後の佐波氏、大宅氏のもとでも奉行の地位を維持している。
 これが天文4年の造営(本殿)では、初めて願主として佐波誠連が登場する。佐波氏は以後戦国末期まで須佐郷の支配が確認できるが、15世紀初めにはこの地域へ勢力を拡大していた可能性が高い。佐波氏の庶子である赤穴駿河守久清も、大永2年には須佐郷内大呂にあった須佐八幡宮の造営を行っている。併せて同(文永とあるが大永の誤りであろう)2年には赤穴庄の北側に位置する来島郷内由木八幡宮の造営を行っているが、天文9年には佐波氏惣領隆連が造営を行っている。来島郷は京極氏のもとで佐波氏が支配してきた所領であり、一旦赤穴氏に与えられたものが、佐波氏と尼子氏の関係回復の中で、佐波氏の支配が復活したのであろう。
 しかし、佐波氏惣領は大内氏の出雲国攻めに与同し、敗退する大内氏と共に山口に逃れた。その結果、須佐郷は高橋氏の一族で石見国邑智郡内を支配する大宅常光に与えたれた。

須佐大明神の棟札から(1)

 現在の出雲市の西南部にある須佐神社は、出雲大社との関係を有する点と、戦国時代には出雲国西部の軍事的要衝であった点で注目される。ここでは後者についてみていく。
 須佐神社の棟札については岸田裕之氏の報告があるが、今回、明治35年に神社側が県に提出した宝物什器目録の中に、これまで紹介されたことのないものが含まれていたことを確認したので、これに明治10年代の神社宝物古文書目録の内容をあわせて、何がわかるかについて述べる。
 須佐神社のある須佐郷は、鎌倉初期には出雲大社国造であった出雲氏一族が郷司として支配していた。しかし、承久の乱後でその跡は没収され、新たに東国御家人が新恩地頭として入部した。文永8年の地頭は北条時宗であった。時宗は竹矢郷、斐伊川東岸の神立の地頭でもあった。戦国期の棟札では寛元元年(1243)に「関東御再興」が行われ、次いで55年後の永仁6年(1298)にも新築がなされたことが記されている。となると、次の造営は14世紀半ばの観応年間あたりとなるが、鎌倉幕府の滅亡と地頭職の石清水八幡宮への寄進という政治的変動により、困難な状況となった。貞和3年(1347)には、須佐郷が出雲大社三月会の頭役負担を行わないことが問題となっている。それ以上に近隣の武士による押領も発生したであろう。

2011年8月 8日 (月)

新宮党の所領について(2)

 今回、新たに島根郡加賀庄と千酌・笠浦を加えることができた。蓮華王院領加賀庄は鎌倉期には土屋氏が地頭であったが、その後庄内は分割され、加賀、三津、野波、柏尾、延福寺等が独立した所領としてみえ、土屋氏とともに京極氏の一族である宍道氏や延福寺氏等が支配していた。千酌・笠浦は皇室領として永正年間には尼子経久が代官として年貢を納入していた。笠浦は千酌郷内であるが、永正年間の段階でも千酌とは独立した所領して扱われている。
 加賀庄内延福寺内の西谷八幡宮(北講武)と熊崎天王(南講武)の天文末年の棟札の写しが残されている。天文22年には熊崎天王が造営され、23年には西谷八幡宮が造営されている。いずれも大檀那は尼子民部少輔晴久であるが、以前から両社とも造営の際には加賀庄内の地頭が費用を負担していた。熊崎天王は26貫文、西谷八幡宮は6貫500文であり、熊崎天王の方が規模が大きかった。
 熊崎天王分の内訳は、六貫文(宍道分)・四貫文(三津分)・四貫文(二階分)二貫文(柏尾分)・二貫文(熊野分)・二貫文(野波分)・二貫文(黒田分)・二貫文(末廣分)・二貫文(同公文分)となっており、宍道氏の存在の大きさが分かる。ただ、宍道氏も興久の乱と大内氏への与同によりその跡は没収され、尼子晴久と家臣領となった。
 天文23年の西谷八幡宮造営の際には、地頭として、尼子式部少輔殿、朝山殿、隠岐殿、熊野備前守殿、野波殿、雑賀殿、高尾殿がみえ、加賀庄内に、富田衆である雑賀氏、高尾氏とともに尼子誠久領もあったのである。
 天文21年には千酌の爾佐神社の造営が行われ、翌22年には笠浦の日御崎神社の造営が、いずれも地頭尼子紀州=国久の名によって行われている(明治35年神社由緒書)。いずれの場合も代官は大熊右京進であるが、塩冶にいたこともあり、下代として岡又右衛門がみえている。岡氏は天正3年の爾佐神社棟札では神主としてみえ、現地の有力者であろう。
 棟札については、なお調査中であり、今後、新宮党に関するものが確認できるかもしれないが、現時点のものをまとめた。1年ほど前に近世の神社差出帳から西谷八幡宮と熊崎天王に関するデータを発見したが、今回は明治35年に神社が県に提出した由緒書の中から千酌と笠浦のデータを発見するとともに、西谷八幡宮についてより詳細なデータを得ることができた。

新宮党の所領について(1)

 尼子国久は当初吉田家に養子に入り能義郡吉田庄を支配したが、大内氏敗退後の天文12年には塩冶郷を獲得した。塩冶郷は興久の乱後もその子清久が地頭であったが、実質的には代官となった富田衆が支配していたいたと思われる。清久が大内氏方となったため、国久領となったが、国久の側近としては天文21年に杵築大社側との交渉に当たっている大熊右京進久家の名が知られる(佐草家文書)。
  新宮党領としては、これに天文24年2月に晴久が出雲大社、日御崎神社、揖屋神社に寄進している神門郡高浜郷本家分、意宇郡白石村、神門郡薗村、出東郡氷室を加えることができる。その他の史料で確認できるのは薗村のみであるが、新宮党の霊を慰めるための寄進であった。
 天文22年には、飯石郡多祢郷の主要部分を誠久と敬久の兄弟が支配していた(日倉神社棟札)。これは多賀氏が支配していた所領が塩冶興久の乱時に没収されたのを獲得したものである。両者の間には久豊がおり、天文7年には大原郡立原を支配していた(須美禰神社)。尼子氏の直轄領であったものを分与されたものであろう。前者は源秀家(河本氏ヵ)、後者は松尾重長が代官として見え、富田衆が代官を務めていた。

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