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2011年7月

2011年7月30日 (土)

塩冶興久と八所八幡

  出雲国では各地に石清水八幡宮が勧請されるとともに、石清水八幡宮の庄園が成立した。それがいつしか八所八幡宮と呼ばれた。この八所八幡と塩冶興久との関係はというと、明治10年代に白神八幡が報告した「宝物文書目録」の中に「年号不記二月日佐世検校宛」の「尼子経久三男塩谷興久自書、源頼朝建立八所八幡ノ順序明記」がある。興久といえば、享禄3年(1530)3月8日に父経久に叛旗を翻すと同時に出雲大社の柱立をおこなったことが知られる。出雲国の新たな支配者であることを示す意図があったのだろう。
 また、「都治根元」には、大原郡に在陣中の興久に都治氏再興を訴えたことが記されていた。これに毛利氏の出雲国攻めの際に、多賀山通定(実際に行ったのが多賀氏であった可能性も否定できない)が出雲八所八幡の由緒や出雲大社の祭神などについて、元就に説明したことを併せて考えると、新たな支配者たらんとして大原郡掌握のため在陣中の興久が白神(佐世)八幡宮に対して働きかけることは十分ありうるのではないか。大原郡は富田城のある能義郡とも境を接し、尼子氏と富田衆の所領も多く存在しており、島根郡とともに、天王山とでもいうべき地域であった。実際に興久は島根郡の成相寺に、富田側からの「近年新儀申由候」に対して「不謂次第候、不可有承引候者也」と享禄3年4月5日に書状で伝えている(成相寺文書)。成相寺は所領が京極氏の御料所となり、寺も祈願寺とされていたのである。

日倉神社棟札について(3)

 なぜこのようなことを記すかというと、乙加宮内の大歳神社の棟札の内容の一部も報告されているが、「天文二十二年丑三月大檀那巳己歳、代官壬申歳(以下不詳)」となっている。天文22年は癸丑の年であるが、大檀那は永正6年(1509)=己巳の生まれで、代官は永正9年生まれとなる。大檀那として考えられるのは誠久と敬久であるが、年齢的に該当するのは兄である誠久であろう。
 「尼子国久について」で、宍道氏と結婚した国久の娘は国久が「吉田孫四郎」としてみえる永正7年段階で誕生していた可能性が高いと述べたが、国久の長子誠久が永正6年出生という可能性も高い。そうすると永正11年(1514)生まれの晴久(詮久)の5才上となる。代官については、日倉神社の棟札にみえた代官源秀家であろう。源姓で「秀」が付く人物としては、天文7年(1538)の布部二所神社棟札に宇山久秀の奉行としてみえる「河本与四郎源秀明」がいる。
 ちなみに日倉神社の棟札で中世関係のものはもう一点報告されている。それは天正8年(1580)4月18日のもので、「大檀那藤原朝臣通定」とあり、この時点では備後多賀山氏の支配するところだった(これについては藤岡大拙氏「掛合多賀氏について」の中で野津左馬之助稿「村社日倉神社由緒書」から引用されている。それによると4月28日。島根県史編纂をした野津氏は『飯石郡誌』の著者でもあった)。通定は天正11年には掛合狭長神社の造営の大檀那としてもみえている。これらの点からすると、日倉神社の天文22年の棟札の存在が知られていなかったのは不思議ではあるが、とりあえず報告した。

日倉神社棟札について(2)

  日倉神社のある宮内の地は雲南市三刀屋町乙加宮に属し、中世多祢郷の最北端に位置した。雲南市成立以前は、中世の多祢郷の主要部分が掛合町に属したのに対して、三刀屋町に属していた。乙加宮では日倉神社と禅定寺が地域社会の信仰の中心であったが、神仏習合のもと、禅定寺の僧侶が本願となっている。
 大檀那として誠久と敬久の名前を記すが、乙加宮というより多祢郷の主要部分をこの両名で分有していたのではないか。多祢郷は多賀氏が支配していたが、多賀氏惣領は尼子興久の乱で興久に与同したため、興久が敗北すると出雲国内から脱出し、最終的には大内氏のもとに逃れた。誠久の妻が多賀氏惣領の娘であったこともあり、その所領は誠久が得たとする。ところが、新宮党の二頭政治のもと、誠久の弟敬久にも所領が分割されたのである。新宮党党滅事件のきっかけをつくった誠久の嫡子氏久からすれば、大いに不満となったであろう。氏久にとって多賀氏は母の実家であるが、敬久は多賀氏との間に何の関係もないのである。
 代官としてみえる源秀家は富田衆であろうが、その苗字については手がかりがない。神主として6名の名がみえるのは、当時の日倉神社の存在の大きさを示すのであろう。乙加宮の中心としたが、この時点では多祢郷全体の中心として位置づけられたのではないか。
日倉神社は本来掛合の地の日倉山に日倉城とともにあったのが、この地に移されたものである。大勧進についてはその名を記さず、出生年のみ記している。このような記載が一般的だったのか、単に判読不能であったかは不明である。壬申=永正9年(1512)の生まれで、当時42才となる。

日倉神社棟札について(1)

 この棟札については、尼子国久の子誠久と敬久の二頭政治を示すものとして評価してきたが、その全貌については把握していなかった。『出雲尼子史料集』では天文22年の項で『雲陽誌』を引用しているのみで、そこには「源誠久」の名のみを記す。「敬久」の名を併せて記すのは『三刀屋町誌』の引用のみであるが、それも両者の名前と年月日しか記していない。
 明治10年代の『社寺宝物文書目録』の飯石郡の冊子に、この棟札の詳細な引用がなされている。日倉神社神主と戸長名で県に報告しているのである。この資料は全県下のものが残っているが、大正年間の『旧島根県史』をはじめとする歴史研究で使用されたことはない。中世についてもこれまで知られていない棟札が戦国期を中心にかなりあるが、近世については膨大としかいいようのないほどで、これをデータベース化すれば、地域社会の変遷・変化についての情報を入手できる。江戸時代にも同種の報告資料は存在したが、その残り方には地域で差がある。両者を併せれば、さらにデータは質・量ともに改善する。
  日倉神社の棟札は最初に「年月日不詳」(『三刀屋町誌』の引用部分で補う)とあるように、明治初年の時点で年月日の判読はすでに困難になっていたが、以下のように具体的に記している。

奉造立八幡宮雲州飯石郡多根郷内宮内村日倉別宮御造営成就砌
 大檀那源誠久、同敬久、大勧進壬申御歳、御代官源秀家、神主平朝臣清重、同左衛門四郎并左京太夫并橘久氏并藤原定通并式部大夫清重、本願天台僧禅定寺当住慶圓律師
   天文二十二年癸丑十一月十八日

2011年7月29日 (金)

興久の乱後の塩冶氏

 塩冶興久の乱後、その子清久、ついで大内氏の出雲国攻めが失敗した後は兄新宮国久が塩冶の地を支配したことが知られる。これに対して、従来の塩冶氏の動向については上郷氏を除けばあきらかではなかった。すなわち、庶子である上郷氏については、興久の乱の時点で、尼子経久が上郷五郎右衛門尉を山口の大内氏のもとへ派遣し、自らへの支持を求めたことが知られる。これとは別に雲樹寺関係者も派遣されていたことについてはすでに述べた。
 次いで、『雲陽誌』には弘治2年(1556)に上郷小法師丸が上郷の杉村神社を造営したことが記されている。系図によると永正5年(1508)に死亡した塩冶政通の子に宗清(与五郎)と誠勝(小法師丸)がいる。宗清の孫高忠に「山口逗留」とあるのが、大内氏への派遣を示すのだろう。高忠の子で「横田逗留」とある泰敏は、天文8年(1539)の岩屋寺快円覚書に仁王像の檀那として、「佐々木民部少輔并塩冶兵庫助泰敏」とみえる。この系統が尼子氏との深い関係を持って存続したことがわかる。これに対して上郷小法師丸は誠勝の系統で、上郷を支配したのだろう。
 前置きが長くなったが、明治10年代に県に報告した「社寺宝物文書目録」の神門郡分をみると、弘治2年11月の上島村杉村神社棟札が収録されている。ただし、神主と本願名はあっても大檀那の名前については欠落している。この段階では読み取れなくなっていたのだろうか。そして同目録の大石村阿須利神社の項には、天正3年(1575)の棟札に「大檀主塩冶佐々木豊前守為治」とその「息為豊」がみえ、次いで天正10年(1582)の棟札には、「大檀越源朝臣塩冶兵部丞為豊、塩冶豊前守為治、同甚次郎為盛・上郷和泉守入道寿慶、上郷源右衛門源朝臣泰宗」と、塩冶氏と庶子上郷氏の関係者がみえている。
 「上郷泰宗」は前述の「上郷泰敏」との関係をうかがわせる。また中野村大歳神社には、元亀4年(1573)3月に神主職を補任した為治の文書があることが記されている。大石村は大津と石塚が合併して生まれた地域で中世の塩冶郷内である。その北側に隣接するのが中野村であり、毛利氏の下でも塩冶政通の子孫である塩冶氏とその一族である上郷氏が斐伊川沿の中野村から上島村にかけての地域を支配していたことがわかる。

2011年7月24日 (日)

三沢為理について

 15世紀後半の三沢氏惣領為忠には嫡子左京亮(覚照)、三刀屋氏に養子に入った紀伊守、比田九郎左衛門尉為理、横田信濃守為国、三郎左衛門尉為幸、上総守為廣、高田寺へ入った為盛、兄為国の代官を務めている為隆、大蔵左衛門尉為久などがいた。これは長州藩家臣となった三沢氏の系図とも一致し、そこでは嫡子左京亮に相当する人物として為永(彦四郎、覚勝)が記されている。
 一方、三沢氏の系図の中で、「(比田)為理」を「(横田)為国」の前の惣領であるとするものがある。為国を惣領とするのは、これに代わって横田三沢氏の惣領となる為幸とその子為清(才童子丸)へのつがなりをスムーズにするためであろう。為清はさらに三沢氏全体の惣領にもなるのである。それに対して、為理はどのような理由であろうと思っていたが、彼が三沢氏惣領であったことを示す史料に遭遇したのである。
 それは以前も引用した三沢大森神社の棟札であるが、近世の写本にはなかった永正8年の棟札が明治10年代の島根県への報告書には収録されていたのである(社寺宝物文書目録 仁多郡 明治12~17年)。為理は永正7年の三成八幡宮の棟札にも旦那としてみえる。これに対して永正17年の馬場八幡宮の棟札には為忠息次郎四郎為国が願主としてみえる。為理と系図で嫡子とされる為永との関係は不明確であるが、為永が早世なりしたために、為理が継承したのであろうか。天文9年の竹生島奉加帳に三沢氏惣領としてみえる「三沢三郎四郎」(後の左京亮)は、「三郎四郎」との呼称からすると為永の子ということになるが、為理との関係(女子との結婚)はどうであろうか。系図では為理は天文9年に死亡したとされる。また、為理と比田との関係は、文亀3年(1503)の西比田岩船権現社の棟札の願主としてみえることから確認できる。

2011年7月21日 (木)

美保郷内南浦について

 「中世の美保郷について」の中で南浦は「北浦に対する地名であり、実際の地形からすると現在の下宇部尾ではないか。美保郷は、美保関・福浦・諸喰の東部(塩冶氏)と片江・七類・北浦・南浦の西部(南浦氏)に分割して譲られたと思われる。」と述べたが、訂正の必要が生じた。
  それは、天正10年(1582)の「島根郡美保郷南浦美保大明神」棟札を確認したことによる。天正19年(1591)の美保横田両大明神棟札とともに、森山字南甫の横田神社に残されていた(『明治17年社寺宝物文書目録 島根県島根郡』上)。
 『八束郡誌』は、横田城(尼子勝久による再興戦時に、尼子氏家臣であり神魂神社神主の一族であった秋上氏が拠点としたが、間もなく毛利氏方となる)に隣接する横田谷にあった横田神社の内殿が、天正9年に古関の美保神社に合祭されたこと、次いで天正19年には南甫の地に横田神社を建立し、これに美保神社の社殿を移して合祭したと記す。
 棟札に基づくと、天正10年段階で南甫(地頭は吉川元春の子仁保元棟、山陰の重要な港湾を支配していたとされる)に「美保神社」があり、天正19年の時点でこれに横田神社を併せたと解釈できる。現在の美保神社の地(松江市美保関)に対して、森山の場所は「古関」と呼ばれ、そこにも同名の「美保神社」があった。これが横田神社と併せて「美保横田両大明神」と呼ばれ、明治以降は式内社「横田神社」の名で呼ばれているのである。
 以上、名称がやや煩雑であるが、美保郷内南浦は現在の森山字南甫(隣接して市場の地名も残る)を中心とする地域であり、森山村の西端に位置した下宇部尾(南浦に含まれた可能性が大きい)を中心とする地域ではない。

2011年7月16日 (土)

周布氏の世代交代(4)

 康応元年には度重なる洪水を受けて、周布郷の公田を10町に軽減することも認められている。これは益田氏と大内氏の対立が解決しない中で周布氏懐柔のため出されたものである。兼仲は応永癸未=10年(1403)に死亡し、法名は月山厳道賢大居士である。ただ、情報は混乱しており、応永9年とし法名も昭臨院殿月潭道雪居士とするものも尊勝寺記録に記されている。
 8代目兼宗(観心)は、父兼仲の死により応永9年6月に守護山名氏から、9月には将軍義満から所領を安堵されているので、父兼仲の死は応永9年であろう。ただ兼仲から兼宗への譲状はなく、安堵状にも譲り状への言及はない。また兼宗自身の位牌のデータはない。兼宗は永享5年(1433)10月には所領を孫賀幸丸=和兼嫡子に譲っている。ここで周布氏の所領相続は分割相続から単独相続に変化したことがわかる。
 9代目因幡守和兼は永享11年(1439)には将軍義教の安堵を受け、長禄3年(1459)には所領を千寿法師に譲っている。和兼は延徳元年(1489)に死亡し、法名は月堂心大居士である。10代目左近将監元兼は文明末年頃より父和兼に代わって文書に登場し、永正丙寅3年(1506)9月27日に死亡した。法名は月覧心大居士である。11代目次郎興兼は永正年間から文書に登場し、享禄元年(1528)に死亡しているが、法名については不明である。12代目彦次郎武兼は、大永3年8月には大内義興から加冠を受け、天文7年には大内義隆から左近将監に推挙されている。永禄5年4月11日に死亡した。法名は梅甫俊芳(大)居士である。13代目彦次郎元兼(千寿丸、兵庫頭)は天文17年から文書に登場し、弘治3年には元服し、毛利隆元から加冠を受けているが、彼以降は周布氏系図に死亡年代が記されている。

周布氏の世代交代(3)

 周布郷内庶子が惣領の催促に従わないという事態は兼仲の相続時にも続いており、康応元年にも大内氏から従わない庶子の所帯を没収し、惣領に付けるとの命令が出されている。
 この3度目の命令を公田の低減化と併せて康暦2年(1380)、至徳2年(1385)の命令と異なり、実際に所帯を没収するとの恫喝を含むものとの、岸田裕之氏の理解があるが、論拠に乏しく強引なものである。
 周布氏一族では分割相続が続けられてきたが、その中で、兼氏は本来庶子でありながら嫡子兼長の地位を奪う形で継承した。次の兼仲も、兄2人の関係者が存在する中で、惣領の地位を譲られており、周布郷内の所領の細分化はかなり進んでいた。その一方で、益田氏と大内氏の対立もみられたのである。
 以前、益田氏と大内氏の項で以下のように述べた。
さらに年次が明確なものに、年未詳8月15日周布入道宛書状と同日周布弾正少弼書状がある。周布入道宛書状には益田退治と御子息(兼仲)出陣について触れている。兼仲宛書状には、平井道助とともに、兵部少輔(陶弘宣)と豊後守(杉重連)が登場する。(中略)年未詳8月15日の2通の大内義弘書状(周布氏宛)とそれに関連して益田攻撃を述べる周布氏史料[8月27日大内義弘書状(其境、此方勢既益田辺取寄、右田罷越候へ々、周布入道)、9月2日大内義弘書状(森兵庫助、益田之境辺可罷出候由、右田より申候、周布入道)]は、明徳年間のもの、それも明徳4年の可能性が高いといえるであろう
 しかし、周布入道兼氏が康応元年8月27日に死亡したことが明らかとなったので、これらの史料は嘉慶2年以前のものとなる。その内容からすると、益田氏と大内氏・永安氏の対立がみられた嘉慶元年か2年のものであろう。

周布氏の世代交代(2)

 6代左近将監(因幡守)兼氏(士心)は観応の擾乱では反幕府方となり足利直冬との関係を強めたが、大内氏が幕府方に帰参する際に、これに従い、所領を安堵された。この兼氏の代に周布氏の所領は増加している。観応2年11月3日に足利直冬から周布郷惣領地頭職を安堵されているが、これは兼長の死亡によるものであろう。当然、幕府からは文和元年(1352)には兼長の後継者として兼氏に対する軍勢催促状が出されている。康応元年(1389)8月27日に死亡し、法名は因幡勇道大居士である。
 萩閥周布氏系図によると、その嫡子氏連は早世し、兼仲(弾正少弼)が継承したとする。応安5年(1372)には、兼氏が左近将監氏連と修理亮兼義を伴い、九州での合戦について軍忠状を提出し、今川了俊の證判を得ている。兼氏は南朝方の中心三隅兼連(信性)の曾孫千福と結婚しており、その関係で嫡子は氏連と名乗ったのであろう。康暦2年と至徳2年には周布郷内一分地頭が惣領の催促に応じないという問題が発生している
 7代目兼仲は永徳3年(1383)に父兼氏から所領を譲られるとともに、弾正少弼に任官し、父の死により康応元年11月に大内氏から安堵を受けている。萩閥系図によると兼仲(延命丸)は兼氏の三男で、一旦田村(来原)盛泰の養子となっていたが、兄2人(氏連・兼義)が死亡したのであろうか、周布氏惣領を継承した。その関係で、兼仲は養家来原氏領も獲得している。ただし、兼氏から兼仲への周布郷譲状はなお分割相続であり、兄弟に分け与えた所領に兼仲が違乱をなすこと、兄弟による兼仲領への違乱を共に禁じている。

周布氏の世代交代(1)

 益田氏の世代交代として周布氏についてもみたが、周布郷内大麻山尊勝寺の記録に、周布氏当主の位牌のデータがあり、死没年代が分かるので、文書と対比してみたい。
 初代「兼定には男子がなかったためが、延応元年(1239)7月30日に所領を舎弟兼政に譲り、9月24日以前に死亡している」と述べたが、兼定は同年8月に死亡し、法名は「天質道冥大居士」であった。2代目「周布兼政は長寿であったようで、相続から45年後の弘安10年(1287)9月に所領を嫡子時兼に譲っている」としたが、兼政(道心)は翌正応元年(1288)に死亡し、法名は「智光心大居士」で、その位牌は内村正福寺にありとする。 
  3代目時兼については、文書が残っていないが、永仁甲午=2年(1294)に「早世」し、法名は「月海珠大居士」であった。その子4代兼定(西信)は、元亨3年(1323)6月7日に所領を嫡子彦次郎兼宗に譲っているが、3ヶ月後の9月4日に死亡した。法名は「月舩西心大居士」である。その後、兼宗と兄兼光の間で相続をめぐる対立が発生している。
 5代兼宗(蓮心)については、元徳3年(1331)7月には周布郷を悦喜丸(兼長)に譲り、南北朝初期に南朝方として活動している文書(~延元元年=1336)はあっても、位牌の記録がない。兄兼光との対立がこのような早い時期の譲与につながったのであろう。その嫡子で結果として惣領の座を異母兄兼氏(孫法師丸)に譲った兼長は、康永4年(1345)8月に周布郷に関する紛失状を提出し、益田氏惣領兼世が挙状を提出しているが、観応元年(1350)12月17日に死亡している。法名は月叟竒心大居士。兼氏が父兼宗の立場を継承して南朝方となったのに対して、兼長は益田氏惣領とともに幕府方であった。

2011年7月15日 (金)

尼子氏と雲樹寺

 現在知られていない雲樹寺文書に「杵築神宮寺ノ儀ニ付往復等ノ書也 数十通入」がある。県の社寺係が筆写した史料に含まれている。雲樹寺と出雲大社の神宮寺の関係を知る上でも興味深いが、ここでは、永禄6年8月23日に雲樹寺側が尼子氏に提出した「守護方江奉公申候事」について採りあげたい。出雲尼子氏史料集にも未収録のものである。この時期、尼子氏は毛利氏に攻められ、富田城に籠城中であり、雲樹寺の関係者も富田城内にいた可能性が大きい。大内氏敗退後の天文13年には雲樹寺善瑞の弟子善讃が出雲大社神宮寺の僧として入っている。
 雲樹寺側は塩冶興久の乱時に5度に亘って大内氏への使者として派遣されたことを記す。この乱では塩冶氏一族上郷氏が大内氏に派遣されたことが毛利氏の史料により確認できるが、雲樹寺もまた派遣されていたのである。次いで、晴久の代に大内義長へお礼の使者として派遣されたことを記す。義長は、大内義隆を滅ぼした陶晴隆が傀儡として擁立した人物で、大友氏に嫁いだ大内氏関係者が生んだ子であった。それまでの晴英から天文22年1月の段階で、将軍義藤の諱をうけて「義長」に改名し、弘治3年4月に毛利氏の攻撃を受け自害している。この時期、晴久は何について大内義長に礼を伝えたのであろうか。
 そこで思い出されるのは天文23年11月の新宮党討滅事件である。この事件の背景の一つとして毛利氏側による謀略説がある。毛利氏が新宮党と結んで晴久に取って代わろうとしたのである。これに対して、大内義長側から、毛利氏と新宮党に関する情報が寄せられた可能性はないであろうか。大内氏側からすれば、尼子氏と結んで毛利氏を挟撃することもあろうが、それ以前に、毛利氏と尼子氏の結びつきを恐れたのではないか。そのためにあえて毛利氏と新宮党の関係を示す情報を流して両者の結合を阻止する可能性も否定できないのである。

2011年7月12日 (火)

無線LAN

 最近インターネットのスピードが速くなった。有線、無線ともにである。最近は主にUSENでスピードを計測するが、ドラフトNなら有線の9割以上、Gでも6割強のスピードが出る。一方、VISTAのSP1とSP2のスタンドアロン版のダウンロードを行ったが、こちらは有線だと30秒強で終了するが、Nでは2倍、Gだと6倍程度時間がかかる。ファイルサイズが大きくなると、有線と無線の差がおおきくなるのであろう。
 ということで事情が許せばやはり有線が好ましい。小型ノートなど可搬タイプはスピードの速いドラフトNをサポートしたものが望ましい。あと、OSの違いも大きい。XPとVISTA・7系で倍半分の差がある。無線ならOSは7ないしはVISTAがよい。以前、ウィンドウズ98・Me系と2000系でスピードに差があったのと同様である。
  無線LANが装備されていない場合でもアンテナが装備されており、LANカードの増設と新設がしやすくなっているものがあるが、多くはアンテナ線が未装備である。また、レボノやHPなどのようにLANカードがそのメーカー品(本来の製造者はインテルなど)でないと認識されないものもある。
 M6300のLANカードを本来装備されていた3945ABGから、ジャンクで部品取りに購入したM2300の4965AGNに交換したが、測定スピードはてきめんに速くなった。まあ3945ABGでも十分早いのだが。

2011年7月 9日 (土)

ノートPCのキーボード

 液晶とともにノートPCのキーボードも選べないので、特にノートを選ぶ際は重要である。そして液晶と同様、新しい機種が必ずしも良いわけではない。Dellの個人用PCはHPと同様にリターンキーの右側にキーが配置され、使い勝手は悪くなった。ビジネス用のLatitudeについても、筐体を含めて、以前のタイプ(965まで)のほうが現在のもの(GM45以降のもの)よりいい。コストの問題や日本市場の地位低下が関係している。
 LatitudeD630やPrecisionM2300(液晶14.1インチ)とD830やM4300(15.6インチ)のキーボードはよく似てはいるが、よくみると後者の方がキーボードの断面の傾斜が緩く、タッチ面積がやや狭くなっている。より大きいM6300(17インチ)と同じである。好みの問題であるが、キータッチを含めて後者の方がしっくりくる。前者の方が筐体の薄さを求めたためであろうが、キーピッチは同じであるが、後者の方がキーのストロークが大きくとってある。
 ノートPCの筐体の容積とCPUの選択も微妙である。CPUの性能が良いと発熱量が大きくなる。建前上では10W、17W、25W、35Wと分かれているが、35Wのタイプでも最上位のCPUは発熱が大きい。特別のことをしないなら、中以下のCPUで使うのが望ましい。ただ、機種により発熱量は大きくPC底面は高温になっていても、キーボードやタッチパッドにはその熱が伝わりにくいものもある。
  パナソニックは1台(sxga+)しか使ったことはないがよい。IBM(レノボ)もR61eのみだが、こちらは今一歩。DellはE5500は今一歩で、以前のM6300、D830、M2300はまずまず。HP(6730b)は使いづらい。Asusのベアボーン(epson、hitach)は案外といい。富士通(s83XX、H82XX、C82XX)はよく、(E82XX)は何とか許せるという状況か。メーカーでも機種により違うのであしからず。

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