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2011年6月

2011年6月30日 (木)

H8260

 Life Book Hシリーズの最終版となったH8260を入手した。HシリーズはH8230を所有している。ひと言でいえば、薄い筐体で且つ独立したGPUを持つので、熱を持ちやすい。H8230と異なりファンの音はしないが、左側の排気口から熱い空気が排出される。このために最終版となったのであろう。高性能CPUと独立したGPUの組み合わせなら、17インチである程度の厚みのあるタイプが適正である。
 よくないことを述べたが、やはりHシリーズとEシリーズのキーボードは違っていた。H8230とH8260はほぼ同じ印象で、ストロークがやや大きいが、印象としてはEシリーズより入力しやすい。画面のWUXGAもノングレアタイプで見やすい。17インチには各メーカー設定があるが、15インチWUXGAでノングレアというタイプは少ない。ゲームはしないので、独立GPUなしのEシリーズのキーボードを、Hシリーズのものに換えてもらえらばよいが(おそらくコストが違うのであろう)。
 現在はデスクトップを使用することが多い。パワーがあり、液晶(UXGAだがピボット=回転タイプなので広く使える)、キーボードともに選べて良い。とはいえ、ノートパソコンも必須であり、メーカーさんにはビジネスタイプで(本当は家庭用でも)使用しやすいものを提供していただきたい。
 標準装備のT9300の上位タイプとなるT9500を搭載したLatitude D830についても、発熱はかなりある。場合によっては両者のCPUを交換しようと思ったが、とりあえずは中止して様子見か。T9500はPrecision M6300のX7900の交換用として入手したが、とりあえずはその必要性はなさそう。ただし、2年以上使っているので、そろそろ分解して中のホコリを掃除するとよいかもしれないが、なんせ、液晶をはずすタイプなので、なかなか踏み切れない。H8260は裏ブタを外せばすぐにCPUにアクセスできそうなタイプ。無線LANがドラフトnに対応していないので、可能ならば、Precision M2300のジャンク版から取り出した(この分解でひさしぶりに液晶を取り外した)n対応のものに交換してみたい。

2011年6月28日 (火)

中世前期の出東郡

  中世の出雲郡については、その名称と範囲が問題となる。「出東郡の成立」で述べたように、平安末までには斐伊川の流路変更に伴い、旧来の出雲郡西部が神門郡に編入され、北部と東部、さらには南部が新たに出東郡と呼ばれた。出雲国西部の郡では庄園の面積が4割弱を占めるのは多い方である。また、縮小したにしてもその面積は出雲国西部では最大であった。
 文永8年段階で国御家人が地頭なのは、福富保の福富太郎入道のみである。建久年間には在庁官人藤原孝政が漆治郷司であったが、承久の乱後は東国の有力御家人小山氏が地頭となっている。
 近衛家領福頼庄は、能義郡吉田庄と同様鎌倉初期から東国御家人領となった可能性が高い。平家とのかかわりから没官領となったのである。地頭としてみえる長野入道子は、畠山重忠の弟長野重清の末流であろうか。鎌倉初期に地頭職を得ているのは東国御家人の中でも有力なものに限られる。
 九条家との関わりの深い林木庄の地頭深栖氏は『吾妻鏡』の頼朝の時代にその名がみえ、永仁年間には深栖八郎蔵人源泰長が大和国御家人として活動していることが確認できる。「深栖蔵人入道跡」も泰長の一族であろう。これも九条家と関わりが深く、文永8年には守護佐々木泰清の長子義重が地頭としてみえる美談庄も同様であろう。氷室庄の信濃僧正は、幕府との関係者で地頭に補任されていたのだろう。斐伊川沿いの神立社は文永8年には北条時宗領となっている。阿吾社は郡内の出雲大社領と区別され、この時点では大社領ではなかったことになる。
 国衙領では、過去に朝山氏の一族が支配していた可能性が高い建部郷と、守護の地頭職寄進で室町院領となった志々塚保が注目される。福富氏も在庁官人藤原氏ないしは朝山氏の関係者であろうか。国富郷についても、承久の乱以前は内蔵氏が地頭であったが、乱後は東国御家人甲斐氏に交代している。
 全体としては、従来考えていた以上に鎌倉初期の東国御家人が地頭として入部していた。一方、出雲大社領については本家土御門上皇が承久の乱に消極的であったがゆえに、没収を免れた。
訂正:国富郷を楯縫郡から出雲郡に移す。

2011年6月26日 (日)

百姓の住宅の規模

 宇和島藩の北端に位置する藩境の村、松渓・白髭村(現野村町)の資料(火災報告書)によると、居家は33家、そのうち百姓27家、無縁6家である。本百姓と思われる百姓層は13.5~22.75坪、平均して17.3坪、借家層と思われる無縁層は6~8坪、平均して6.8坪である。
 布部村の普請願書の申請者をみると、中間層から下層と思われ(過去に家を失い、借家住まいをしていたものが手狭になり家を持つ場合や、庶子が分家する際の家が多い)、その平均は百姓の平均としてはどうかと思い、ネット上で検索したところ、ヒットしたのが前述のデータである。家族数や立地(農村と都市)の違いもあろうが、当地域の差別された人々の家の面積(これは農村ではなく、町に暮らす例である)は、百姓の平均ではなく、中~下層の百姓の平均とほぼ同じというふうに訂正したい。
 宇和島藩のデータでは、「隠居家は7軒で3~7坪、そのうち過半数の4軒が7坪である。隠居した老人夫婦の寝食に利用された小さな建物であった。無縁層の建物もこの隠居家とほぼ同じ規模で、隠居した親夫婦と共に当主の弟妹が移動し、その子供たちが成人して分家した家ではないかと思われる」と記されている、当地で分家するケースでは平均10坪程度である。

2011年6月24日 (金)

差別は忘却からはじまる

 表題は「奈良の被差別民衆史」で述べられた言葉である。以前、差別された人々の住居の問題について考えた。基本的には平人の住居との間に規模・構造上の差はないことをデータの上から検証できた。住居の平均規模はともに10坪代で、礎石のものと掘っ立てのものがみられたのである。そして、近世後期に差別された人々の住居が平人と差が無いとして規制する法が出されているが、これは差が詰まってきて出されたのではなく、それまでは問題にならなかったことが問題視されるようになったものであると結論付けた。差別された人々の住居は周辺の村々の合力により建てられたのであり、勝手に建てたものではないのである。
 ところが、この地域の同じ問題を扱った唯一といってもよい近年の論文(古い時期のものはあるが)では、一例を基に、差別された人々の家の規模は大変小さく、それも百姓の集落からかなり離れたところにあったことが述べられていた。以前読んだ際には気にとめていなかったが、よく考えるとその問題点に気づかされた。
 それは、火災の報告書から指摘されたものであった。桁行2間半、梁行1間半で1間四方の雪隠があるというもので、住居部分は3.75坪と確かに小さい。ただし問題なのはこれが本来の住居かということで「木小屋」と記されている。差別を受けた人々は、石見国の例では猟師とともに狩りを行っていた。また出雲国の例でも山林を利用してさまざまな活動を展開していたことがわかる。とすると、これは住居ではなくまさに山の活動のための木小屋であり、それがゆえに規模も小さく百姓の集落から離れていたのである。
 この論文には、差別された人々が経済的に低位であったとの前提があり、それが全体の分析に影響している。実はそれは、多数派の人々(平人ならびに藩の役人)の意識(「である」ではなく「べき」)もそうだったのである。そしてその意識を検証すると、その大半が根拠のない思い込みに基づくものであることが実証できる。その意味で「差別は忘却からはじまる」との指摘は正しい。本ブログの主たるテーマである、「資料の声を聴く」からすると、これまで指摘した他の論文と同様、基本的な部分に問題があると考える。そしてこの論文は間違いなくある一つの通説に基づいて構成されており、問題なのはその通説なのである。

2011年6月18日 (土)

ES版CPU

 オークションで出品されているCPUにはES版(エンジニアリング・サンプル)が多い。製品版に対する試作版というか、製品の直前版というものである。今回、あまり深く考えずにT9300のES版を入手した。価格は7千円強と格安のもの。ただし、T9500とともに、ES版にも初期のものと後期のもの(製品版とほぼ同じ)があり、チップセット965GMで使用する際はBIOSを最新にしておいた方がよいし、初期のものはGM45での動作は?ということである。その分初期の版は値段が安く、今回のものは初期のES版であった。
 とりあえず動作確認ということで、一番CPU換装が容易なdellのE5500(GM45)で試したが、OSの選択画面まではよいが、選択するとまもなく電源が切れてしまう。やっぱりとは思いながら、面倒くさいことになった。次善の策としてT8100を搭載するK5260(965GM)に換装することとした。T8100はT9300と同時期の発売で、クロックが低く、キャッシュメモリが少ないタイプである。ただし、BIOSの更新ファイルはアップされていない。965GMの初期タイプであるK5250 なら難しかったかもしれない。
 K5270で3度経験したので分解は容易で、30分で換装は終わった。電源を入れると何の問題もなく起動した。元のT8100の活用が課題であるが、とりあえず安堵した。vistaのベンチマークでは、CPUが5.1から5.4に上昇した。クロックが0.4G高く、キャッシュメモリも多いものに交換したのだから当然ではある。これとは別にT9500搭載のdell D830も入手したが、とりあえず入金・到着後に考えよう。
 (補足)別に製品版のT9300を入手したが、こちらはe5500で動作した。D830については、非常に状態がよいもので、唯一の難点は液晶がWXGAと狭いことであったが、高解像度のものはグレアタイプであるのに対して、これはノングレアであったのは幸いであった(よく確認したところグレアであった)。

2011年6月12日 (日)

ノートPCの液晶

 最近のノートではWXGA(1366×768)でグレアタイプが主流であるが、DVDやBD映像の鑑賞にも実は十分ではなく、いわんや文書の編集にはタテ方向が不足している。表計算ならよいかもしれないが、以前の16対10のWXGA(1280×800)の方かよい。特に縦書きの文書を編集する際にはタテ方向が必要となる。
 現実には、仕事場ではXGAを使っているので、できないことはないかもしれない。だが12インチのコンパクトPCならそれでも許せるが、15インチの図体でそれだけの情報量では‥‥。以前にも述べたように、インスピロン1545で懲りたため、以後はオークションでも、エンターキーの右側にキーがあるタイプとともに忌避してきた。ちなみに、現在入力しているのはノングレアのWUXGA(1920×1200)で右側にキーのないプレシジョン6300Mである。2年前にオークションで10万円ほどで入手したが、なかなか良いものである。現在新品でこの環境を得ようとすれば、マックブック・プロ17インチをアップルストアーで購入するしかない。最低でも20万円(これも以前と比べれば安いが)はするのである。
 次期Windowsの情報も出つつあるが、今後タッチパネルが中心となるなら、ノートPCも画面が回転できるようにすべきである(少なくとも15インチ以上は)。そうすることにより、解像度への不満が減少するのではないか。もう一つの解決法は、液晶を簡単に取り外せる構造にして外付け液晶を使うことだが、現在の外付け液晶は明るすぎるものが多く、コンパクトさにも欠けている。
 いずれの場合もコストと耐久性の問題はあろうが、それが特別ではなく普通となるなら解決できるであろう。同様に、自然エネルギーが中心となれば、現在の問題の多くは解決される。過去に原発に費やした研究開発費が自然エネルギーに投入されていたら、現在のようなことにはなかったであろう。当然、今のままで電気・エネルギーを使うという考え方(価値観)も変わらざるを得ないが。

2011年6月11日 (土)

歴史は繰り返す?(3)

 エルトゥールル号事件でも触れたが、あのときのマスメディアの動きは今と同じで、本質からまったく離れたものであった。競うように義援金を集めたかと思えば、これまた競うように政府を批判し、世論を扇動する。こうしたことの背景に、私たちの中にある同調傾向があり、それは言葉を変えれば「思考停止」に外ならないのである。
 「議論する」との言葉があるが、これは最も良い考えに到達するために言を戦わせることである。ところが、日本のどこを見渡しても「関係者が同調しまくり、異端者をろくな説明もなく切り捨てる」ような場しかないのである。また、議論のルールを踏まえない人が多い。かといって、日本以外ではできているのかと聞かれても、今問題なのは「日本でできているかどうかである」としか返事のしようはないのである。
 過去の歴史をみると、戦国期と江戸末期には様々な新たな可能性が生まれ、ヨーロッパのような下からの改革が実現してもよかったが、結果としては、上からの「改革」が行われてしまった。当然上からの「改革」中にもよかったこともあったが、決定的であったのは、支配者側がより強力な武力(軍事・警察力)を身につけたことであったろう。先ほど述べた日本人の同調性も、戦前までの強力な圧力(警察力)が影響している。今回の事態はそのような解決法(政府の強制力アップ)では間に合わないものであり、新たな対処が必要である。歴史はもう繰り返せないのである。

歴史は繰り返す?(2)

 さて、日本ではどのような主張であるかを吟味するよりも、誰が言っているかの方が、個々人が賛否を決定する上では大きい。どこに所在したかの論争が続く邪馬台国でも、女王卑弥呼が神の意向を述べている間はよかったが、卑弥呼が亡くなり、男王が統治するようになると、従わないものが増えて大乱が起き、結果、再び壱与という女性を王にしたとされるが、別に卑弥呼が述べたことと男王が述べたことに違いがあったからではなく、誰が言ったかが問題だった。
 都道府県知事で最も世論の支持が高い人にしても、意見をはっきり言っているが、きちんと根拠を踏まえて説明するということは一切しない人で、「有言実行」かもしれないが、実際にやっていることは改悪である。それをきちんと理解・評価せずに世論調査で「支持」すると答えた人がほとんどだろうが、深刻な問題である。
 ちなみに、現在、ある作家が授賞式で述べたことに対して様々な意見が出されているそうだが、アンケートに、「作家のコメントをすべて読んだか、そしてどれぐらいの時間をかけて理解したか」との問いを加えるべきである。少なくとも、反対の側から意見を述べる場合、作家のコメントと同程度の質と分量を以て応えなければならない。それを何ら根拠を示さず、一言で切り捨てる(問答無用)のは言語道断である。
付記 共感する場合も、同様の質問と、同様に全体的に論じることが望まれる。人を説得できるほどに。また、ここは共感できるが、別の部分には異議ありということもある。

歴史は繰り返す?(1)

 昨今の日本の状況は、すべてではないにしても多くの面で危機的状況にある。改革が必要だと云われる中打ち出された改革は、すべてがそれ以前のものを下回る「改悪」であったが、その総括・反省もないまま、新たな「改悪」が打ち出され、さらに状況は悪化する。「前例踏襲は後退だ」などというが、現実は「改革は後退だ」となっていることに気づくべきである。そろそろ一度は歩みを止めて、じっくりと何をすべきかを考えるべきだ。
 今回の地震・津波と原発事故は、敗戦に匹敵するほどの見直しのチャンスである。そして、もうひとつ付け加えると、国民全体が危機的状況にあるが、国民の中でも程度には差があり、社会的に弱い立場に置かれた人々こそ、深刻な状況にある。中には文句を山ほど述べて、国外に逃亡してしまえばよい人々もいるのである。
 いまこそ国民に信を問う選挙をとの主張は、既成政党のいずれもこの危機に対処できないという明白な事実を踏まえないものである。「A監督でだめだったから、B監督にしたが、やはりだめなのでA監督に」ではなく、「C監督」にすべきである。現在のこのような状況に対しては、政治家の責任が大きいが、それに意見を言うマスメディアと国民の側の責任も大きい。
 近年、日本の企業でも本当に深刻な危機に陥った場合は、外国人経営者の起用が行われ、なんとか危機的状況を脱した。別に外国人がよいというわけではなく、経営者個人の力量が問題だが、最近の経団連会長の意見を読むと、このポストこそ無国籍で選ぶべきであると思わされる。首相は日本国内の問題に対処した上で、外国と交渉していけばよいが、大企業は外国での売り上げが多いのだから、なおさら、日本人にこだわっていては質が低下する一方であろう。

中世の楯縫郡

 国衙領と国御家人が中心である。田数では8割以上が国衙領で、国御家人としては朝山氏とその一族(万田氏・玖潭氏)ならびに国衙在庁官人系の小境氏(藤原)と多久氏がみえる。承久の乱以前、平田保は朝山氏一族が郷司であり、佐香保についても同様で、承久の乱以前はすべて国御家人が支配していた可能性が高い。
 そこに、東国御家人狩野氏(為成)、平賀氏、多胡氏が地頭として入っている。すでに述べたように多胡氏は意宇郡出雲郡と仁多郡馬木郷の地頭でもあった。また、万田庄については鎌倉後期には六波羅探題領となっており、国御家人が幕府のもとで存続を図るのは困難な状況があった。南北朝動乱期、とりわけ出雲国内で足利直冬方が蜂起した際に、多久氏と小境氏が参加したのは状況の打開を図るためであったろう。玖潭社については、15世紀後半には「久多見保」と呼ばれ、幕府の管理のもと、奉公衆塩冶氏に与えられており、玖潭氏は没落した可能性が高い。小境氏は応仁・文明の乱で反京極氏方としての活動が確認でき、多久氏は尼子氏の直臣である富田衆の中に組み込まれている。
 中世前期の段階では、多久郷は出雲郡福頼庄の庄原付近にまで広がっており、その時点では斐伊川から東流する流れは細分化され、一つひとつは小さかった可能性が高いが、中世後期には一番北側の現在の流路が大きくなっていたと思われる。そのため、多久郷は分断され、宍道湖と斐伊川の結節点として平田の町が発展を遂げてくる。
訂正:国富郷は中世を通じて出雲(出東)郡に属した。

中世前期の飯石郡

 文永8年段階では未だ山間部の開発が進んでいないのか田数は55町余と10郡で最も少ないが、山間部でもあり多祢郷、須佐郷のように実際の領域は広大である。庄園4ヶ所中大田別宮を除く3ヶ所は平安末期以降の領主が健在で、出雲房についても同様の可能性がある。3ヶ所とも在地名を苗字とするが、赤穴氏は石清水八幡宮祀官紀氏の一族である。多祢郷の地頭でもある多祢氏は朝山氏一族のNo2の地位にあった。神門郡伊秩庄と来島庄地頭である来島氏とともに2度の戦乱の中でその地位を維持したことになる。
  須佐郷は鎌倉初期は出雲大社国造と同族の出雲氏が、国衙に隣接する山代郷とともに郷司をつとめていたが、ともに東国御家人に交代している。とりわけ須佐郷は、これまた国衙に隣接する竹矢郷とともに北条時宗領となっており、その重要性がうかがわれる。
 隣接する熊谷郷、三刀屋郷、飯石郷については東国御家人領となっているが、三刀屋郷の諏訪部氏は承久新恩地頭であり、他の2郷も同様であろう。飯石郷は平安末期の段階では飯石社として成勝寺領庄園の一つであったが、崇徳上皇が保元の乱で没落したことにより国衙領に戻されたのであろうか。

中世前期の仁多郡

 仁多郡は国衙の所在する意宇郡から離れ、備後国と境を接しているが、斐伊川により出雲郡・神戸郡とつながるためか、庄園は石清水八幡宮領横田庄のみである。文永8年段階で国御家人が地頭なのは、三処郷(三処氏)と比知新宮(阿井氏)であるが、阿井氏の苗字の地阿井郷は実質的に幕府領となっており、吉見氏出身で右大将家(頼朝)家法華堂の別当である尊範が地頭となっている。この体制が鎌倉初期以来か、承久の乱後かは不明である。
 三処氏は横田氏没落の跡を受ける形で横田庄下司となり、後に地頭となったが、地頭請の契約を履行しないとして石清水八幡宮から訴えられ、その問題を解決するために、地頭職を六波羅探題北条時輔に寄進し、三処氏一族が代官をつとめる形をとった。北条時輔が殺害されると三浦氏出身の母妙音が地頭となるが、実質的には幕府の管理下に入った。妙音は弘安年の横田八幡宮棟札には「三処比丘尼」と記しており、三処郷も三処氏の手を離れて妙音領となり、妙音は三処郷内に居住したと思われる。
 布施郷と布施社の地頭神保氏については大原郡で述べたように承久の乱後の新恩地頭である。三沢郷地頭飯島氏も同様である。仁多郡内の所領は横田庄と馬木郷を除けば10町前後かそれ以下の田数しかないが、山間部であるゆえにその領域は広大であった。以前は暫定的に仁多郡内とされてきた近衛家領福頼庄は大規模庄園で、出雲郡内庄原から学頭の地域に比定できる。
 残るは馬木郷地頭多胡氏であるが、国内最大の国衙領である意宇郡出雲郷と楯縫郡平田保の地頭でもあった。これが鎌倉初期以来か承久の乱後かは微妙だが、平田保を鎌倉初期には朝山氏一族平田氏が支配していたと考えられる(大伴系図)ことから、とりあえず承久の乱後としておく。
 さらに、朝山氏一族には郡である仁多を苗字とし、承久新恩地頭として入部してきた大原郡久野郷の中郡氏と婚姻関係を結び、観応2年9月には三刀屋氏・桑原氏(出雲郡建部郷)・若槻氏(出雲郡?)・片山氏(神門郡知伊社)とともに反幕府方としての活動が確認できる仁多氏(仁田彦四郎一族)がいる。平安末期の段階で郡内複数の所領を支配していた一族であろう。

2011年6月10日 (金)

中世前期の大原郡(2)

 元宗流の本拠佐世郷については、東国御家人ではなく一族内の人物が継承を認められたのだろう。そして、承久の乱の結果、佐世郷は同じく一族内の湯氏が継承を認められた。大西庄については承久の乱までは大西庄司が支配しており、承久の乱後、大西二郎女子が湯郷と拝志郷の地頭となっているので、同族の間でチェンジがなされたのであろう。
 大西庄跡に地頭として入部した飯沼氏(四郎子)は承久新恩地頭で、大東庄内の一分地頭としてみえる「飯沼四郎」も承久新恩地頭ということになる。さらに淀本庄地頭中沢氏と久野郷地頭中郡氏も承久新恩地頭であることが、系図と文書から確認できる。
 大東庄内1ヶ所と仁和寺庄、近松庄の地頭としてみえる神保氏は中郡氏と婚姻関係を結んでいるが、中郡氏の系図には「千庭神保」とみえており、下総国千葉氏の一族であった。ただ、頼朝の時代に上総介広常が処罰された際に連座・没落したようで、宝治3年(1249)には苗字の地神保郷は惣領千葉氏領となっている。そのため、神保氏は『吾妻鏡』には承久の乱・宇治川合戦の記事にしかみえない。乱で勲功をあげた「神保太郎」の後継者が大東庄内地頭「神保太郎跡」であろう。この外に仁多郡内布施郷、布施社の地頭も神保氏であるが、いずれも承久の乱の恩賞として得たものであろう。文永8年段階で唯一在地名を苗字とする遠所氏は国御家人であろう。
 以上をまとめると、鎌倉初期の大原郡には、一ノ谷合戦への参加者がいたこともあり、3分の1程度の所領において東国御家人が地頭に補任され、次いで承久の乱の結果により、大東庄遠所と佐世郷を除くすべての所領で東国御家人が地頭となった。

中世前期の大原郡(1)

 大原郡は庄園の比重が高い。最大の所領は大東庄であるが、実質的には5つの所領からなり、建長元年(1249)出雲大社造営所注進状では、それぞれが国衙領として扱われていた。これを庄園とすると8割以上、これを除いた場合でも6割が庄園である。
 天皇家領としては、八条院領大原庄と淀本(牛尾)庄がみえる。大原庄は平安末期の史料にのみみえるが、郡内最大の大東庄のことだと思われる。これ以外で荘園領主がわかるのは仁和寺領である仁和寺庄と広田庄である。淀新庄は南北朝期には禅林寺聖衆来迎院領としてみえるが、これは地頭職が没収され、それが寄進されたものである。
 「大東」に対応して「大西」があったはずであるが、文永8年段階では大西庄は大東庄の5分の1以下の面積でしかない。当初、「大東」と「大西」に分かれ、前者がそのまま大東庄となったのに対して、後者はその中心部分が下賀茂神社に寄進されて加茂庄となったため、大西庄そのものの規模は小さくなったのであろう。承久の乱後に日伊郷ならびに福武村地頭となった伊北氏が、猪布(飯野)庄=猪尾村について大西庄司跡であると干渉しているのは,猪尾村が本来大西庄に属していたからである。嘉暦2年には猪尾村東方分について、飯沼氏内部で問題が生じたが和与が成立しており、猪尾村も大西庄内として飯沼氏が支配していることがわかる。
 大原郡は国衙在庁官人筆頭となった元宗流勝部(朝山)氏が本拠としたところである。一ノ谷合戦に参加した武士の中で、朝山・木次氏・三代が一統としてみえていた(源平盛衰記)。そして加茂庄には鎌倉初期の一時期土屋宗遠が地頭に補任されていた。そうすると、加茂庄だけでなく、木次上村、三代庄、さらには土屋氏が地頭としてみえる大東庄内2ヶ所には鎌倉初期から地頭が補任されていた可能性が高い。

2011年6月 5日 (日)

中世前期の秋鹿郡

 島根郡と秋鹿郡にまたがる佐陀庄を両郡に半分ずつ属するとすると、面積では庄園が6割を占める。秋鹿郷と伊野郷については建久5年(1194)段階で中原賴辰と中原時光が郷司であった。それが承久の乱後に前者は土屋氏領となり、後者は持明院殿(後深草院か)が地頭となっている。後者は幕府の管理のもと持明院統に寄進されていたのであろうか。同様に持明院殿が地頭となっていた志々塚(上・下)については正安4年(1302)の室町院領目録では「武家所進地頭職」と付記されている。
 佐陀庄とともに大野庄は大野氏が地頭としてみえる。実際には大野庄東方分の一部は土屋三郎左衛門尉忠時の所領であった。大野氏は畿内を拠点として院へ仕える武士(紀氏)であり、院政期に大野庄の庄官として出雲国に来住し、幕府のもとでも地頭の地位を安堵された。成相寺の関係者は、承久の乱までは庄内を支配していたが、乱後地頭が入部して一変したと後に述べており、それを信じるなら、承久の乱までは地頭が補任されていなかったことになる。
 長江郷については文永年中に祇園社に料所として寄進されたが、弘安年間になり出雲国が亀山院の知行国となった。そのため、一旦は代所として土佐国の公領が寄進されたが、弘安4年(1281)には亀山院により祇園社の料所として再度寄進された。古曽石郷については、文永8年の地頭は武蔵国御家人中村氏であったが、正安4年(1302)の室町院領目録には「武家所進地頭職」の一つとしてみえる。また、島根郡の生馬郷とともに、元応元年(1319)には知行国主からの訴えを受けて、幕府から守護佐々木貞清に対して代官を進めて説明させよとの命令が出されている。佐々木氏が獲得した地頭職を院領に寄進したが、代官により実質的な支配を行っていたのであろう。岡本保も14世紀初めには大覚寺統の庄園としてみえ、南北朝期には出雲守であった塩冶高貞により国衙分が神門寺に寄進されている。

附論 土屋氏領について

  従来から、出雲国守護佐々木氏領とならび相模国御家人土屋氏が地頭となっている所領の多さが指摘されてきた。『出雲塩冶誌研究紀要』第2号の論文の中で、土屋氏とその所領についてまとめてみたが、現時点で読み返すと、問題となる点が多く、一から論じ直すこととする。すべては関係資料とりわけ信頼できる系譜資料がないことが大きいが、可能な限り分析したい。
 出雲土屋氏の多くは、建長2年(1250)の閑院殿造営注文にみえる「土屋入道跡」と「土屋弥次郎跡」の関係者であろう。前者は評定衆をつとめた土屋宗光(土屋入道)の子光時であり、後者は養子である弥次郎忠光である。加賀庄地頭「土屋右衛門尉子」は左衛門尉子の誤記であり、惣領光時の子であろう。本来加賀庄に属し、後に独立した持田庄と大野庄内の一部地頭であった土屋三郎左衛門尉忠時は光時の兄弟であろう。土屋六郎左衛門入道(大東庄・千酌郷地頭)-六郎(末次保地頭)は、宗光の庶子六郎光康とその子である。同じく大東庄内地頭である土屋弥次郎は土屋宗遠の養子弥次郎忠光の子であろう。これらの所領は鎌倉初期から土屋氏領となっており、宗遠養子で嫡子となった義清とその一族が和田義盛の乱で滅亡した後は、土屋氏一族の主要な所領となった。
 一方、秋鹿郷地頭としてみえる「土屋五郎」(忠泰)は、その父の代に承久の乱の恩賞として秋鹿郷を獲得したものであろう。建長4年4月に御格子番としてみえる「土屋太郎左衛門尉忠宗」の関係者であろうか(『吾妻鏡』)。残る忌部保地頭土屋四郎左衛門入道も光時、光康兄弟と同世代であり、その兄弟の可能性が高い。

中世前期の島根郡(2)

 佐陀庄地頭佐陀神主を含めて、承久の乱により地頭(庄官)は交代している可能性が高い。健保2年(1214)7月には勝部四郎丸が佐陀御領の下司に補任されている。これに対して文永8年の佐陀神主は朝山惟元の孫(子の長元が文永5年に死亡)である。惟元は建久年間の出雲国在庁官人解の署判としてみえ、その嫡子惟綱と庶子元綱は元久元年にそれぞれ右兵衛尉と右馬允に任官している。その意味で両者の兄弟である長元がこの時点で佐陀庄下司となることは物理的には不可能ではないが、嫡子惟綱や弟で石(岩)坂を苗字とする貞元らが承久の乱で没落している点からすると、承久の乱までの神主に代わって長元が佐陀神主に補任された可能性が高い。長田西郷地頭の長田四郎兵衛尉(昌元)についても、祖父資元は多祢を苗字としており、本来の地頭が承久の乱で没落し、資元系がこれに代わった可能性が高い。
 これに対して、文永8の年朝酌郷地頭は、苗字の部分が欠落し不明であったが、新たに確認された貞応2年(1223)の関東下知状写により、朝酌仲光からその子へと地頭職が受け継がれたことが判明した。長田氏と同様、朝酌氏も朝山氏一族である可能性が高いが、仲光子の継承が、父仲光からの相続か、没収による交替かは不明である。
 法吉郷、法吉社、比津村はまとまった所領で、文永8年の地頭はすべて相模国の渋谷権守三郎であるが、建久5年には朝山氏一族の勝部孝光が法吉郷司であり、承久の乱後に渋谷氏が入部したと考えられる。守護佐々木氏領となっている美保郷については、土屋氏領(特に加賀庄、持田庄)の多くと同様、鎌倉初期に東国御家人が地頭として入部した可能性が高い。

中世前期の島根郡(1)

 島根郡は庄園と公領(国衙領)の割合は半々である。庄園のうち、秋鹿郡と島根郡にまたがる佐陀庄は国御家人で朝山氏一族である佐陀氏が地頭となっており、長海新庄が徳大寺家一円地である。残りは東国御家人が地頭となっている。佐陀社については、康治2年(1143)以前に鳥羽院に寄進されて、安楽寿院領となっていた。
 長海本庄は上西門院領を経て宣陽門院領となったが、その地頭持明院少将入道基盛は将軍宗尊親王近習であり、当庄地頭職は実質的に幕府の管理することろだった。守護佐々木泰清が当庄で頓死したとされるのも、そのためであろう。平家との関わりの深い蓮華王院領である加賀庄と持田庄は相模国御家人土屋氏一族が地頭となっている。本来持田庄は加賀庄の一部としての位置づけであったが、両者は水系も異なり、実質的には独立した所領であった。
 鎌倉初期に大原郡の上賀茂社領福田庄地頭となっていた「宗遠」は土肥実平の弟土屋宗遠のことと思われ、土屋氏領の中には鎌倉初期に地頭として入部したものが多く含まれる。ただ、秋鹿郡秋鹿郷のように、鎌倉初期には在庁官人中原頼辰が郷司であり、承久の乱後に土屋氏が地頭となったものもある。奈胡氏が地頭となっている春日末社は、末次保と同様九条家領であり、摂関家の氏神春日大社が勧請されたことによるものであろう。
 国衙領には地頭が国御家人であるものと東国御家人に分かれる。長田西郷と東郷、ならびに枕木保の地頭長田氏は佐陀氏と同様、朝山氏一族である。ただ、大伴系図をみるかぎり、同じ一族であっても長田西郷長田氏は朝山氏に近い一族であるのに対して、東郷と枕木保の長田氏はより以前に分かれた一族であろう。

2011年6月 4日 (土)

中世前期の意宇郡(2)

 承久の乱以前において、国御家人が幕府からの荘園領主や知行国主への働きかけにより地頭となった例としては大庭・田尻保の国造孝綱と、出雲郡国富郷など国内数カ所の地頭となった内蔵孝元の例があるが、他の国御家人にも同様のことがあったであろう。
 それ以外の孝元領については不明だが、国富郷については承久の乱後は東国御家人甲斐氏が地頭となっている。孝元自身は建保4年(1216)以前に乱妨と年貢未進により地頭職を解任され、同族の孝幸が地頭となっていた。孝元が得た他の所領についても同様であったろう。
 孝元は承元2年(1208)に出雲大社権検校に補任されたが、国富郷地頭職を失った建保4年前後には同様に解任されたと思われる。それが天福元年(1233)に出雲大社神主真高が狼藉行為により失脚すると、一旦は幕府の推薦もあって神主に補任された。ただ、間もなく国造出雲義孝が神主に返り咲いた。承久の乱後も生き抜いた孝元ではあったが、承元2年に得た所領の地頭の地位を失っており、国造出雲氏への対抗馬としては不十分であった。
 文永8年に国御家人が地頭であった所領については、承久の乱で地頭本人は没落したが、一族での継承が認められたものであろう。湯郷・拝志郷は大原郡の佐世郷との関係がうかがわれる。すなわち、建長元年(1249)出雲大社造営所注進状でも流鏑馬十五番中の9番にも湯・拝志・佐世郷がひとくくりにまとめられており、13世紀末には守護佐々木泰清の子七郎頼清が3つの所領を継承している。湯郷・拝志郷地頭である大西二郎女子は、大原郡大西庄を支配していた大西氏の一族であろう。これに対して大原郡佐世郷地頭である湯左衛門四郎は湯郷を支配していた湯氏の一族である。両者とも朝山氏の一族であり、ともに惣領が所帯を没収され、同族からその跡を継承する人物が選ばれたのであろう。
 津田郷地頭は秋鹿郡秋鹿郷を支配した一族出身の女性であろう。建久5年(1194)段階の秋鹿郷司は有力在庁官人で国造孝綱の外戚であった中原頼辰だったが、文永8年には東国御家人土屋氏が地頭となっており、中原氏は承久の乱で伊野郷とともにその地位を失ったのであろう。津田郷についても中原氏が地頭であったが、本人は没落し、一族の女性(秋鹿二郎女子)が継承を認められたのだろう。
 佐々布郷・大守社の地頭佐々布氏も出雲国衙の有力在庁官人であろう。朝山(勝部)氏の一族ないしは、建久5年に隣接する漆治郷司であった藤原氏の一族であろう。

中世前期の意宇郡(1)

 出雲国衙が所在した意宇郡は、文永8年(1271)段階では国衙領が7割を占める。庄園6ヶ所は文永8年の時点ではすべて東国御家人が地頭となっている。このうち、乃木氏が地頭となっている日吉末社については、承久の乱以前に佐々木高綱が獲得した可能性が高い。逆に平浜別宮については下司秀信の存在が確認でき、承久の乱の結果、新守護佐々木義清が獲得したことになる。
 国衙領については、乃木氏領である乃木保と乃白郷は高綱が獲得したものであろう。国衙の所在した大草郷については、鎌倉初期に惣社神官と対立した地頭助光と代官家重の存在が確認できる。当該の関東下知状は、形式に問題があり、後に作成されたものであるが、一定の事実を反映して作成されたものであろう。文永8年の地頭「雅楽頭子」については幕府に仕える医家丹波氏の一族であり、大草郷は実質的に幕府が支配して御家人に与えていたものであろう。鎌倉初期の地頭助光と代官家重についても同様に考えられる。
 意宇郡西端の伊志見郷については、安貞2年(1228)、出雲大社仮殿造営の際に幕府が大社に寄進している。寄進したのは地頭職であると思われるが、その前提として、地頭職を幕府が支配していたことが必要である。また、家禄2年(1225)に守護佐々木義清が出雲国守になったことにより、実態を知ったこともあろう。
 その他の東国御家人領については、建久5年(1194)には出雲氏が郷司であった山代郷を除けば史料を欠くが、その多くが、承久の乱前までは国御家人が地頭であり、乱により東国御家人が新恩地頭となったと考えたい。竹矢郷は文永8年には北条時宗が地頭としてみえるが、同じく時宗が地頭である須佐郷については、建久5年には出雲氏が郷司であった。来海庄地頭別府氏(左衛門妻)と宍道郷地頭成田氏は同族で武蔵国御家人であるが、ともに能義郡内(中須郷・静雲寺と坂田郷)の地頭でもあった。ただし、忌部保地頭土屋氏については、島根郡で述べるように鎌倉初期に入部した可能性が高い。

中世後期の能義郡(3)

 中世後期の国人と所領支配の問題を考えるためには、国人が本領として安定的支配を認められているものと、幕府や守護から新恩として一時的に認められているものがあることに注目しなければならない。後者が結果として本領となることはあるかもしれないが(鎌倉時代の20年当知行法)、両者の区別は重要である。京極氏は出雲・隠岐国守護だけでなく、近江国・飛騨国・石見国の守護となったことがあったが、出雲・隠岐国守護は本領に准じた扱いを受けていたのである。
 中世の能義郡を特徴付けたのは、平家方の所領が没収され、鎌倉初期に大量の東国御家人が入部したことであろう。そして、その傾向は、承久の乱によりさらに強まった。その中には守護佐々木氏領である富田庄や、赤江郷、さらには鎌倉後期の井尻保のように鎌倉幕府が、関係者や御家人に支配を認めているものもあった。
 ついで南北朝期には伯耆国守護で一時出雲国守護もつとめた山名氏一族が宇賀庄を支配し、山名氏が明徳の乱などで勢力を削減されると、幕府が宇賀庄を支配し、一部は幕府太塔頭領とし、一部は出雲国人に支配を認めた。吉田庄についても本領として佐々木吉田氏が支配するのは一部となり、大部分は室町幕府の下で国人が支配を認められるようになった。
 天文9年の竹生島奉加帳にみえる富田衆の中で、能義郡と関係を持つのは、富田庄内の所領を苗字とする山佐氏、福頼氏、尼子経久が京極政経から与えられた今津を苗字とする今津氏である。これに京極氏・尼子氏とともに出雲国に入部し、富田衆となった可能性が強い河本氏、中井氏、山中氏も能義郡内を本拠とした可能性が強い。そして出雲州衆では吉田氏、母里氏、松田氏と宇津木氏である。
 奉加帳にはみえないが、有力な富田衆として活動した多胡氏は、奉加帳の山佐氏とともに文明2年以前に京極氏の成敗に反対する国人一揆に参加して知行を差し押さえられたこともあった。以前岡崎英雄氏が説かれたように、これらの人々が文明8年に起こった能義郡土一揆のメンバーであった可能性は高い。戦国大名尼子氏の経済的・軍事的基盤として能義郡内の所領と国人が重要な役割を果たしたことは間違いない。

中世後期の能義郡(2)

 その他郡内で動向がうかがわれるのが、文和3年に利弘庄半分が朝山氏に与えられている。本来の領主が反幕府方となり没収されたものであろう。朝山氏はその後幕府奉公衆となり出雲国内の所領に代えて畿内近国の所領を得ているが、年の譲状には朝山郷を初めとする出雲国内の所領の一つとして利弘庄もみえている。実際には幕府の管理の下で国人が支配していたのだろう。
 吉田庄を支配した佐々木吉田氏は南北朝期には守護京極高氏の守護代として吉田厳覚がみえたが、一族の一部を残して惣領家は近江国を中心に活動するようになり、吉田庄はこれまた幕府の管理のもと細分化されて国人に支配が認められたと思われる。
 郡内最大の公領であった母里郷についても、鎌倉末期には武家所進地頭職として庄園として寄進され、室町院領(持明院分)としてみえる。中分され守護佐々木氏の支配に入った所領が寄進されたものと思われる。そうした中、東母里庄には母里氏が、西母里庄には吉田庄を拠点としていた藤原姓吉田氏(この外に鎌倉時代以来の厳秀流佐々木・吉田氏と南北朝期以降の義清流佐々木・吉田氏がいた)が、現地で庄園の管理にあたりながら勢力を強めていた。
 鎌倉期に幕府領として大弐僧都が与えられていた赤江郷は、室町幕府領に継承されて、15世紀後半には奉公衆となった塩冶政通が支配を認められていたが、京極氏とともに出雲国内に入って勢力を強めつつあった多賀氏がこれを押領している。
 史料は限られるが、鎌倉期の能義郡内国人で南北朝・室町期以降も勢力を維持した国人は松田氏を除けば数えるほどである。応仁・文明の乱時に島根郡生馬郷が敵方になったとして松井氏から没収され、守護京極氏から守護代尼子氏に与えられている。松井氏は鎌倉期に能義郡松井庄を支配していた相馬氏の子孫であると思われ、京極氏の下で生馬郷の支配を認められていたのであろう。生馬郷(地頭職)は14世紀初めには守護佐々木氏領となっていたのであり、それを守護京極氏が闕所地として獲得し、国人に支配させていたのであろう。

中世後期の能義郡(1)

 南北朝の動乱を経て、能義郡内の所領の支配者には変化がみられた。富田庄がいつの時点から守護所の所在地となったかは明確ではないか、伯耆国山名氏の勢力が出雲国に及んだことと関係があろう。富田庄に関しては「観応元年」に「富田関所」とみえており、軍事的な要地であった。
 富田庄は、出雲佐々木氏で南北朝期には美作国守護に補任された一族が支配していたが、山名氏や足利直冬と結んで反幕府方となる中、文和3年には幕府により没収されて新守護京極氏に与えられた。安来庄も同様に京極氏に与えられたが、山名氏が幕府に帰参する中、松田氏がその支配権を回復している。
 安田庄は14世紀初めに江戸氏が没収されたが、幕府の滅亡により復活した。しかしその後は15世紀初めに安来庄地頭松田氏が所領の押領を訴えられており、15世紀半ばには幕府御料所として奉公衆杉原氏が段銭を納めている。そして応仁・文明の乱後は守護代から戦国大名化する尼子氏の支配下に入ったと思われる。
 郡内最大の庄園である宇賀庄も鎌倉幕府滅亡により没収され、明徳の乱の直前には出雲国守護となった山名義幸・弟満幸兄弟の従兄弟にあたる山名氏之が地頭であった。明徳の乱で山名氏が勢力を削減された。そして長禄3年(1459)には嘉吉の乱で没落した播磨国の赤松氏が再興される中、一時、宇賀庄が政則に与えられたが、まもなく備前国新田庄に代えられている(赤松家系図)。宇賀庄も15世紀以降は幕府の管理の下、国人や塔頭に与えられていたのであろう。

2011年6月 2日 (木)

能義郡井尻保について(2)

 一方、鶴見八幡宮棟札には寛喜2年(1230)3月に守護佐々木信濃守泰清が建立したことが記されているが、この時点での守護は父義清であり、検討が必要である。次いで元亨元年4月には山田七郎重賢により造営が行われている。山田氏は尾張国山田庄を苗字の地とする御家人(清和源氏)であるが、鎌倉後期には北条氏得宗の家臣となっている。この山田氏と道承、鶴見氏の関係も不明である。あるいは、井尻保は鎌倉幕府、ないしは北条得宗との関係で、道承と山田氏が地頭となり、幕府滅亡により山田氏分は本領主である宇津木=鶴見氏が取り戻し、道承分についてはその支配の維持が認められたのかもしれない。
 鶴見八幡宮の応永16年(1409)の棟札には京極高範(詮)とその子高秀の名が記されているが、高詮自身は応永8年(1401)に死亡しており、これも要検討である。ただ、室町期以降の当保を京極氏の一族が支配したことは間違いなく、文安の御番帳(15世紀半ば)には佐々木井尻氏がみえる。この京極氏領が後には戦国大名尼子氏の所領に移行している。すなわち、天文16年(1547)には尼子清(晴)久が造営を行い、永禄4年(1561)には晴久の子義久のもとで、宇津木氏と小林氏が代官を務めていることがわかる。後には立原源太兵衛も井尻保内を与えられていた。
 これに対して北部の市中屋八幡宮については、大永7年(1527)の段階では「平朝臣」が造営を行っている。これが宇津木氏であろう。天文9年の竹生島奉加帳にも出雲州衆として宇津木殿がみえている。そして永禄4年については井尻八幡宮と同様の体制で造営が行われおり、この段階までに宇津木氏の富田衆化が進んだのであろう。

能義郡井尻保について(1)

 井尻保については、文永8年の地頭は宇津木氏であったが、暦応2年には領家東寺のもとで、東寺関係者である二条院僧正坊道承が3分の2地頭、鶴見刑部左衛門が3分の1地頭であった。どのような経緯で分かれたのかは不明だが、井尻保は北部市中屋から伯太川沿いの峠之内にかけての地域(井尻)と、その上流域と支流小竹川流域にかけての地域(鶴見)に分かれていた。
 鶴見氏は在地名を名乗るが、宇津木氏との関係は不明である。これに対して、二条院僧正坊道承は、井尻保地頭職を東寺に寄進することにより、門徒への還入を実現しようとしている。関係資料によると、東寺御影供執事僧正道承が正中1年(1324)12月8日に、寺役を闕怠したとして、綸旨により門徒から追放されている。
 後に鎌倉鶴岡八幡宮供僧から東寺二長者や鎌倉永福寺(頼朝が建立)別当となった権僧都頼印は、5歳の時、永福寺別当二条殿僧正道承に出仕したとされる。頼印は明徳3年(1392)に70歳で死亡しているので、嘉暦2年(1327)のこととなる。道承は鎌倉幕府との関係で井尻保地頭となり、南北朝期においてもこれを保持していたこととなる。

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