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2011年5月

2011年5月29日 (日)

辞書のコンバート(2)

 最終的にはなんとか利用できるようになったが、途中では失敗もあった。Atok10用辞書のコンバートが必要であった。1年前なら古いPCをかなり所持していたので、Atok11(一太郎8、辞書はAtok10と共通)を導入していたPCがあったはずだが、処分してしまった。Atok11のCDも使うことはないと思い廃棄していた。とりあえず、XPプリインストールPCに無理矢理MEをインストールしたNECのPCがあったので、そこに導入していたAtok14用に専用の空辞書を作成し、そこにAtok10用辞書を併合してAtok14用辞書(①漢ぺきくん用と②毛筆外字用辞書)を作成したまではよかった。
 次に、Atok14用辞書をAtok18(一太郎2005、現在使用しているPCではこれが一番古い)用にコンバートした。②は問題なくできたが、①は80%終了時点でエラーが出て失敗したのである。そこで、所持するAtok16(一太郎13)をPCにインストールしてみるしかないと、実行に移そうとしたら、シリアル番号をメモしたノートが見つからず、作業は中断を余儀なくされた。
 3日後に家捜しをしてなんとかノートを発見し、インストールしてコンバートをしたところ、今度は問題なくAtok16用辞書へのコンバートができた。さらには、これをAtok21用にコンバートし、オプション辞書に組み込むと、久しぶりに漢ぺきくんと毛筆外字が利用できるようになった。これも以前の一太郎とAtok用CDがあればこそだった。Atok14(一太郎11)はボイスAtokが付属する版だったので、捨てずに置いた。Atok16は記号外字のスペシャルパックとの関係で残していた。これらがなければコンバートはできなかった(シリアル番号がなければインストールもできないが)。
 とりあえず、Atok21用辞書はコンバートなしでAtok24で使用できるので、一太郎創とAtok24の組み合わせでも利用することとした。まだ設定していないが、F6以降のキーに設定すればF5の機能と両立できる。この文章はHP6730bで入力したが、ややキーが小さい(実際はピッチは一緒)感じがするのと、ついエンターキーの右側のキーをBSキーと間違えて押してしまい、あまり快適ではない。慣れの問題ということかもしれないが。

辞書のコンバート(1)

 日本語変換はAtokを使用しているが、過去に使っていた人名用外字フォントや漢ぺきくん辞書などを活用できないかと思った。ネットで漢ぺきくんを調べると、はるか以前に販売は終了している。当方が持っていたのは、Atok10(一太郎7)用辞書とイースト版毛筆外字1500を利用するための専用辞書である。
 その後、Atok本体の辞書が充実したことと、外字には文字鏡を使用したこともあって忘れられていた存在であった。とはいえ、変体がなのフォントが含まれており、これまた以前使っていたAtok16用(一太郎13)の記号外字も利用せんとした。前者には、専用フォントをMS明朝の外字領域に組み込むユーティリティが付属していたが、何せ現在のAtok24(一太郎2011)の14年前のもので、Windows95用のものであった。それが8年前の後者にはXP対応の同ユーティリティが付属していたのである。とりあえずWindows7でも利用できる。
 とはいえ、ジャストシステムでダイナフォントの旧製品(人名外字2800)を安価に提供していたので、それも購入。ポイントも利用したので、実際に支払ったのは3千円弱であった。ダイナフォントからAtok24用辞書をダウンロードすれば利用できるが、こちらは一々専用フォントに切り替えなければならない。
 ということで、一太郎2011(創)ではAtok24で人名外字2800を利用し、一太郎2008ではAtok21で、漢ぺきくんならびに毛筆外字と記号外字を利用することとした。

中世前期の能義郡(3)

 郡内の大規模庄園の内安田庄は、承久の乱後に江戸氏が新補地頭として入部するまでは地頭の補任はなかったと思われるが、最大の宇賀庄については、これも摂関家領であり、文永8年の地頭「因幡左衛門大夫」は大江広元の子孫である長井氏であると思われ、「富田庄とともに領主が平家方となって地頭が補任された可能性が高い。南北朝期には京極氏と出雲国守護の地位をめぐって対立した山名時氏の子氏之(幸)領となっている。飯生庄についても建久元年(1190)の伊勢神宮造営役夫工米を納めていない地頭のリストに登場し、承久の乱以前から地頭が補任されていたことが確認できる。
  郡内の他の庄園と公領(庄郷)については史料がなく不明であるが、文永8年段階ですべてに東国御家人が地頭としてみえ、鎌倉初期の段階でも、安田庄を除くほとんどの庄郷が幕府により没収され、東国御家人領となった可能性が高い。そして承久の乱では、出雲国知行国主(源有雅)、国守(国司)、守護(実名不明)のすべてが後鳥羽方の中心であり、佐々木氏領を除き、地頭は大幅に刷新された可能性が高い。明確なのは安田庄と安来庄であり、安来庄については鴨社関係者で推定される「兵衛尉資朝」から松田氏に交代している。
 公領の中では郡内で田数が最大である母里郷、意宇郡の大規模庄園来海庄の地頭別符氏が支配する中須郷・静雲寺、別符氏と同族で意宇郡宍道郷の地頭となった成田氏が支配する坂田郷(公領では母里郷に次ぐ規模)、文永8年の地頭が「大弐僧都」と、実質的には幕府領といってよい赤江郷(保)、承久の乱後の守護義清流佐々木氏との関係が深い井尻保(田数11町だが、山間部であり広大な領域に及ぶ)が注目される。赤江保、井尻保とともに、真松保・舎人保・比知良保と保が5ヶ所あることも注目される。一般的には出雲国衙から離れ、庄園も多いなど国衙の支配が弱かったとされる能義郡であるが、「富田押領使」を含めて国衙内でも大きな勢力を有していたと思われる。

中世前期の能義郡(2)

  高綱の場合は、重綱の死後嫡子となって乃木氏を称する光綱が文治3(1187)年に生まれている。高綱は建久6年(1195)に出家し、建保元年2年(1214)に死亡しているが、光綱は義清の養子となりその娘と結婚した。後世の乃木希典につながる泰綱(乃木系図による。佐々木系図では泰高。乃白郷地頭)は建暦元年(1211)に生まれている。光綱についても父が得た乃木保・乃白郷に居住していたのだろう。光綱は朝山惟綱女子との間に子四郎高定をもうけている。吉田氏に戻ると、泰秀の跡は能義神社神官の女子との間に生まれた秀信が継承している。
  後に出雲国守護所が置かれた富田庄は、田数では宇賀庄と吉田庄、安田庄に及ばないが、これら三庄が平野部を中心したのに対して、中山間地に位置したため実際の領域は能義郡最大の庄園であった。永暦元年(1160)九月一三日藤原邦綱書状に「出雲国富田御庄」とみえるのが確実な初見であり、この時点では摂関家領となっていた。一ノ谷合戦に出雲国から参加したことが記される七人の中に「富田押領使」がみえる。残りの六人はいずれも斐伊川沿いの出雲国中西部と南部の地名を苗字とする。これまで平安期の出雲国では朝山氏ら西部の領主が出雲国衙の中心であったとされるが、富田押領使の場合、庄園の寄進に関わるとともに、国衙においても重要な位置を占めていたこととなる。石見国の場合は益田兼高が押領使であった。前に述べたように吉田庄の領主も平家方として所領を没収され、その跡に吉田厳秀が地頭となった。安来郷についても頼朝が鴨社に寄進したからには、没官領となって頼朝が獲得したこととなる。ただし鴨社に寄進したため、地頭は置かれず、鴨社から庄官が派遣された。

中世前期の能義郡(1)

 能義郡は出雲国東部の郡で伯耆国・備後国と境を接している。文永8年(庄園は平安末段階)の田数では出雲国の19%を占める最大の郡である。その80%以上は庄園が占め、皇室と摂関家関係の大規模庄園が多い。鴨社領安来庄については、鎌倉幕府成立期に頼朝が安来郷を寄進して成立したものだが、その他は平安末期までには成立していた可能性が大きい。
 後に近衛家領となる吉田庄は三条院皇女冷泉宮から京極北政所(源麗子)をへてその孫で関白となった藤原忠実に伝領された冷泉宮領に属している。11世紀後半には成立していたこととなる。文永8年の地頭は佐々木四郎左衛門尉(泰秀)である。その父厳秀は佐々木秀義六男で、兄四郎高綱とともに鎌倉初期には出雲国内に所領を得ていた。厳秀は、備後福山藩吉田家系図によると、応保元年(1161)に生まれ、承久の乱の起こった承久3年(1221)に没している。五郎義清も同年の生まれであるとされ、母が違う可能性が大きい。いずれにせよ、四人の兄とは少し年齢の離れた二人であった。
 厳秀の後妻としてみえるのは雲州住人布部八郎太夫能範女で、その間に生まれた嫡子で文永8年に吉田庄地頭としてみえる四郎左衛門尉泰秀は正治2年(1200)に生まれ、建治3年(1277)5月に死亡している。厳秀は鎌倉初期には出雲国吉田庄に入部し、現地の有力者布部氏の娘と結婚し子をもうけたことになる。また、地頭の地位は得られなかったが、富田庄内の有力者として布部氏がいたことがわかる。

活碁新評

 長谷川章8段による「活碁新評」の解説書である『筋と形』上下2巻を最近になって入手したことについては前に述べた。その前にマイクロソフトのオークションで上巻のみ入手していた。平成19年の初めに京都府立図書館で閲覧し、上下巻の最初と最後の部分を複写しており、入手したのはその後まもなくのことであったと思う。所有者の父親のものであったが、下巻はないとのことだった。京都へ行く前にもヤフーオークションでみた記憶があるが、その段階では本の重要性に気づいていなかったのである。
 今回入手した上巻と比べてみると、前者は昭和38年12月20日付けの第十版(定価150円)であり、後者は昭和31年1月30日付の初版本(定価130円)だった。ちなみに下巻は昭和31年3月31日付の初版本(定価130円)であった。そして、以前も気づいてはいたが、前者に収録されている昭和33年1月付の前書きで、題名を当初の『新訂活碁新評 筋と形』から『筋と形』のみに変更している。また初版段階では岸本左一郎著、長谷川章補稿解説であったのが、長谷川章著に変わっている。素材は『活碁新評』だが、それに基づく新たな本といってよいとのことから、署名と著者名が変わったのである。
  現在、松江市を会場に囲碁アマチュアの世界選手権が開催されているが、岸本左一郎とその著書『活碁新評』について、もう少し県民へ情報発信する必要があろう。岩本薫元本因坊による囲碁の国際化の前提としての国内における囲碁の普及に、左一郎は重要な役割を果たした。

2011年5月22日 (日)

HPとレノボ(2)

 6730bについてはデュアルコアセレロン(T1600)が搭載されていたが、手持ちのP8600に換装した。分解方法はWeb上で紹介されており、それを参照して行った。メモリーも増設して、とりあえずはVISTAで利用してみる。R61eはシングルコアのセレロン540が搭載されていたが、これも手持ちのT7250に換装した。Web上で公開されているマニュアルと交換したレポートを参考にしたが、こちらのほうがややめんどうで時間がかかった。メモリーも増設したが、中古で購入したサムスンの2Gと元の512Mの相性に問題があったようで、起動途中でVISTAがリセットされてしまった。512Mを別のものに変えても同様の状況であり、2Mのみで使うこととした。相性などほとんど出くわしたことなどないが、メーカー製は少しデリケートであるようだ。通販でも店舗でもDDR2の最終版であった「6400」のものはほとんどなく、一つ前の「5300」規格のものしかない。
 R61eは手持ちのCPUで換装できるというのが入手した理由の一つであったが、もうひとつ、トラックパッドではなく、IBMお得意のスティックポインター専用であることがあった。これ以外のレボノの機種はパッドとスティックの両方を装備する。Dellや富士通ビジネスタイプにも両方を装備(H8230とE5500を自分で所持)しているものはあるが、スティック専用はこれぐらいであはないか。久しぶりに使ってみるとやはり使いやすい。 Thinkpadといえばキータッチで選ぶ人が多いが、以前と比べると重厚さが少ないキーボードである。以前一度Thinkpadを使ったことがあったが、今ひとつなじめず、その意味では自分には現在のタイプの方がよい。ノートではマウスは使わないので、職場のものも家でよく使うM6300とも、パームレストの右手を置いている場所はツルツルに光っていたり、塗装が剥げている。
 そろそろ、PCの話題は終わりとして歴史中心のブログに戻していきたいが、ネタがどこかにないであろうか。

HPとレノボ(1)

 世界最大のPC企業といえば、HPであるが、日本での認知度はそう高くはない。Dellやレノボの前身であるIBMの方が知られていよう。今回、HPの6730bとレノボのTHINKPAD(R61e)を入手した。
 HPの機種はエンターキーの右側に一列分のキーが配置されておりそれが敬遠していた理由であった。その間には若干のスペースがあってミスタッチが起こらないように配慮してはある。入力してみると、キーがやや小さい気がしたが、測ってみると変わらない。以前のDellは縦方向が6.5段のキー配列であったが、それを6段にして横方向に1列増やした形である。最近のDellも同様であり、このため2年前を最後にDellも購入していない。
 要は英語キーボードからわざわざ日本市場向けのキーボードを作ることに消極的となったのである。その背景には、日本市場のウェートが低下したことがあるという。マイクロソフトの日本語IMEの改良が以前ほど行われないことも同様の背景があるという。とはいえ、多くの日本の若い人々はマイクロソフトになれており、遙かに効率的なATOKの存在は意識しない。
 HPに合併されたコンパックのPCは過去にノートとデスクトップを各1台使用したことがあった。HPの名称は創業時期の経営者にヒューレットさんとパッカードさんがいたことにちなむものである。

2011年5月14日 (土)

本因坊戦と島根(2)

 安政4年5月15日(1857年6月6日)から4日間、本因坊(跡目)秀策一行(本因坊丈和の子で後の中川亀三郎と遠江国出身の遠藤晏平を伴う)と山陰の強豪が玉造温泉で対局している。その直前の5月3日から11日までは出雲市知井宮の山本家で、前当主で儒学と囲碁を周辺地域の子弟に教えていた山本閑休の17回忌の碁会に招かれていた。そこには岸本左一郎は参加しておらず、山陽方面へ碁の指導に出かけていた。そして日米修好通商条約が調印された安政5年6月19日(1858年7月29日)から半月後の7月6日(8月14日)には岸本左一郎が病死している。
 左一郎は、嘉永元年9月(1848年9月27日~)に大坂で『活碁新評』を出版し、安政2年9月(1855年10月11日~)には筆写本の『常用妙手』を発行している。まさに外国船が日本に接近し、大規模な地震が相次いで起こるなど、世情不安な時代であった。
 5月29日から6月1日まで、世界アマチュア囲碁選手権が島根県民会館で開催される。囲碁の海外普及といえば『囲碁を世界に』の著者岩本薫9段である。
 左一郎の著書『活碁新評』については、現在も『週刊碁』で秋山次郎9段による解説が連載されているが、その説明の棋譜は藤沢秀行氏などの手筋集に繰り返し引用されてきた。同じく、『活碁新評』に基づき、長谷川章のオリジナル解説を交えた『筋と形』が知られている。その上下2冊の内、上巻は以前、オークションで入手していたが、下巻についてもやっと入手することができた。今回は上下2冊のセットであったが、他にも入手したいと思う人があり、最後は入札のためオークション終了時間が何度が延長される中、なんとか入手した。それが本日郵送されてきた。下巻については、以前、京都府立図書館で閲覧し、一部分のコピーを持っていたのみであった。左一郎の著書のコピーと対比して読んでいきたい。

本因坊戦と島根(1)

 5月11日から第66期本因坊戦7番勝負が開始された。第1局は松江市玉造温泉での対局である。本因坊戦としては1964年の第19期第2局の坂田栄男本因坊VS高川秀格九段(坂田黒番中押し勝ち)以来47年ぶり2回目ということである。当時の坂田氏(本因坊栄寿)は本因坊戦7連覇の途中で無敵の強さを誇り、本因坊9連覇の偉業を達成した高川挑戦者を4タテにしている。また挑戦手合い17連勝の途中であり、この年は7大タイトルを制覇して年間30勝2敗の成績であり、何度も新聞の囲碁欄で名前をみた記憶がある。
 第1期本因坊戦は、家元制度から実力棋戦への転換により、1939年から41年にかけて行われ、初めて互先・コミ制で行われたが、最終トーナメントの上位2人での決勝はコミなしで行われ、3勝3敗となり、最終トーナメント1位の関山9段が初代本因坊となった。2期は、挑戦手合い5番勝負もコミ制で行われたが、関山本因坊が病気で途中で辞退したことにより、橋本宇太郎新本因坊の誕生となった。ところが第3期は再びコミなしとなり、原爆投下の広島での対局を挟んで3勝3敗となった。そこで決戦3番勝負となるが、これもコミなしで、第3局にもつれた場合のみコミ制で行うことになっていたが、1・2局を連勝して岩本薫新本因坊の誕生となった。このあたりはWikiに基づいて記したが、コミ制への抵抗が強かったのだろう。岩本本因坊は益田市出身の両親が朝鮮に住んでいた際に生まれているが、囲碁の国際化の最大の功労者である。
 昨年1月には将棋の王将戦(羽生-久保戦)が松江市で、5月には奥出雲町で棋聖戦(羽生-深浦戦)が行なわれている。そして本年1月には里見香奈女流名人の初防衛戦第1局が里見さんの地元出雲市で行われた。
 囲碁で記憶の新しいところでは、2003年10月に第28期名人戦挑戦手合(依田-山下戦)第3局が出雲市で行われた。三大タイトルの棋聖戦は1986年1月に10期挑戦手合い(趙-小林戦)が松江市で行われている。今回は山下・羽根両棋士ともに、大田市仁摩町の道策の生家を訪れているが、1986年には挑戦者の小林9段が対局前に本因坊道策の墓を訪れている。

XPを使う理由は?

 一般的には、Windows VISTA  < Windows XP < Windows7 との評価であろうか。ただし、遅れてVISTAを使うようになったものとしての実感は、VISTAはさほど悪くないというものである。無条件ではなく、デュアルコアでメモリーが2Gあればだが。ADOBE CS2 のサポートがない(たぶん問題ないだろうが)のと、「F10」を押しての半角英数モードに変えることができなくなったぐらいか(CapsLockで可能)。
 起動する時間を計ってはいないが、XPと比較して特に遅いとは感じない。インターネットについては無線の場合が顕著だが、ケーブル接続でもVISTAの方が速い(同じことはMEと2000の時に感じた)。XPではなぜかオークションの画面切り替えが遅かったが、VISTAではそんなことはなかった(P8400ではXPでも問題なし、シングルコアの755Mでも問題がなかったので理由は不明)。
 ちなみに「VISTAエクスペリエンス」のCPUの数字はP8400とT4400はともに「5.2」である。クロックそのものがほとんど変わらないためであろう。キャッシュの違いは反映されていない。ただ、前者のFSBが「1066」であるのに対して後者は「800」のため、メモリーの値に差がある。また、前者の「GM45」に対して「GL40」であるため、グラフィックにも差がある。P8400が25Wでスピードステップが利用できたのに対してT4400は35Wで利用不可なのも違いか。CPU温度を測定すると、前者が低い。後者でも体温程度だが、そこからマイナス10°である。
 使用する上で全体としては差を感じず、セレロンT3100(1.9G)でもよかったのかもしれないと思った。また、1万円弱でゲットした「965GM」で「T8100」のK5260が本日届くが、これもなくてもよかったのかもしれない。GL40ではほとんどCPUのアップグレードはできないが(T4500ぐらい)、GM965なら、T9500などへの換装の余地(BIOSの更新が必要なら難しい?)がある程度か。このシリーズ用のマザーボードがオークションで2千円程度であるが、これはかなりのリスクなくしては購入できない。

2011年5月11日 (水)

コストのからくり

 私たちが選択をする際に、コストが重要なことは云うまでもないが、その一方でコストにより隠れてしまった部分があることも考える必要がある。内橋克人氏がその著書の中で、貿易のデメリットについて指摘していた。確かに、コスト面では国内で生産するより海外から輸出した方が安いかもしれないが、物を大量に移動することのデメリット(少なくとも国内なら発生しない)に注意する必要がある。
 国内でも、原子力発電所の場合は送電線により遠方に運ばれているが、その際に様々なロスが発生している。これに対して消費地に近いところで発電できれば、そのロスを防ぐことができる。島根原子力発電所から山陽側に送電されているが、そのためには、数多くの鉄塔を建て、送電線が張り巡らされている。それは浜田市岡見の火力発電所についても同様である。高圧電線の下には家を建てることができず、作物栽培にも影響があるために、補償も必要となる。鉄塔建設のために発掘調査も行われた。
 以上の点もコスト面からすると問題ないとされそうだが、そのコストとは短期的な意味でのコストであろう。丁度、原子力発電所のコストが安いと云われるのが、とりあえず現在負担する金額は安いが、将来的な廃炉の問題を含めると高くなると云われているのと同じである。また、コストとは市場で取引される際の価格であるが、市場では取引されない重要なものがあることも、現在では常識となっている。以上の点を踏まえて、且つ、コストだけでなく真の意味での安全性を踏まえて選択しなければならない。問題はその情報が、政府・電力会社なりマス・メディアから提供されていないことである。

2011年5月10日 (火)

石見国武士団(15)

(参考文献)
「島根県史』第5巻(1925、復刻版では第4巻)
『島根県史J 第6巻(1927、復刻版では第5巻)
『津和野町史』第1巻(1970)
『広島県史』中世(1981)
石井進「鎌倉時代「守護領」研究序説(1967、同『日本中世国家史の研究』所収)
井上寛司「貞応2年石見国惣田数注文に関する基礎的検討(『山陰史談』18、1982)、「中世の江津と都野氏」(『山陰地域研究』第3号、1987)、「中世石見国大家荘・大家氏と都市大家」(『温泉津町誌研究』1、1990)、「中世温泉地域における領主支配の歴史的展開過程」(『温泉津町誌研究』3、1992)
大山喬平「荘園制」(『日本通史』中世1、1993)
寛雅博「続関東御領考」、1988、『中世の人と政治』所収)
佐藤進一『室町幕府守護制度の研究』下(1988)
浜田高校歴史部「周布氏の所領」(『歴像』復刊第9号、1983)
原慶三「中世史四題」(『島根県立矢上高等学校研究紀要』第6号、1993)、「鎌倉期出雲国の地頭に関する一考察」(『山陰史談』18、1982)
福田栄次郎「石見国益田氏の研究」(『歴史学研究』390、1972)
藤岡大拙「赤穴氏についてJ(1970、『島根地方史論攷』所収)
吉井功見『建武政権期の国司と守護』(1993)
(付記)
 本稿作成中に岩波講座「日本通史」の刊行がはじまり、それを読む機会があったので、本稿の表記もそのスタイルに基づき、注釈はなくし、最後に一括して本文にかかわる書物・論文の一覧表を掲げた。また、史料については、特に重要なものについてのみ、出典を明示した。「日本通史」中世1の中で、大山喬平氏がその題材の一つとして、本稿でも取り上げた内田氏関係史料を使い分析しているが、その分割相続のありかたと豊田郷の範囲に関する大山氏の理解に対して原が持っている疑問について、ここで簡単に述べておきたい。
 大山氏は内田致茂が俣賀氏の祖となる弥益丸に俣賀村と横田村の中道より上を譲ったとされるが、「中道より下」を横田村のみならず俣賀村にまでかけて解釈することはできない。後の史料からみて、本文中に述べたように弥益丸が譲られたのは、俣賀村と中道より下の横田村=後の横田下村である。また、中世の豊田郷を明治の豊田村から安富を除いたものとされたのも問題である。豊田郷は俣賀村と横田村からなり、前者は後に俣賀上村と下村に分れた。
 それに対して、後者は横田上・中・下村の3つに分かれている。このうち、内田氏惣領が致員が父致茂から譲られたのが、豊田郷惣領地頭職の地位と横田中村の地である。大山氏は致員が豊田郷内俣賀村と横田村の南側を譲られたと解釈されたが、横田村については致員の譲られた部分のさらに南側に、後の横田上村が存在したのである。また、致員の譲られた横田中村にしても、「下角」(現在の隅の一部か)など、明治の豊田村の南にまでひろがっていた(『津和野町史』1では「大嶽」についても、現在の大滝に比定している)。

石見国武士団(14)

4.小結
 以上、鎌倉期を中心に石見国武士団の動向を見てきた。史料収集は十分でないので、現段階での総括という意味でまとめてみたい。通説によれば、鎌倉時代の守護は交通上の要地と国衙領を中心に、国内の複数の(それもかなりの数の)所領の地頭職を得ていたとされる(石井進-1970)。それに対して、石見国守護については、承久の乱までが佐々木定綱-広綱父子である点と、元冠時に伊東氏から北条氏一族の大仏氏に交替した点が知られる程度で、守護領については不明である。そして、郡内の状況をみれば、少なくとも元寇以前においては、国内の要地を支配していたとは言えない。他国では守護が支配した重要所領は石見国では御神本氏とその一族が支配していたのである。
 石見国内における西遷御家人の地頭の割合も低く、西日本各国で承久の乱後に西選御家人が地頭として大量に進出して来る状況とも異なっている。承久の乱において石見国守護と推定される佐々木広綱は御鳥羽上皇方であり、それにもかかわらず(少なくとも広網の所領は没収され、東国御家人が地頭に補任されたはず)、地頭の割合の低いのは、守護佐々木氏の支配がそれほど強くなかったことを示すものであろう。
 以上の様な状況は元冠後には変化がみられる。北条氏が守護となったためであろうか、御神本氏惣領である益田氏の場合、最も重要な所領である益田本郷の中心部分を没収されている。また、承久の乱の直後にはその支配の確認された長野庄内飯田郷も関東御領【訂正:誤りである】に組込まれて、他氏(源氏)の支配するところとなっている。また、丸毛・津毛と小笠原氏の関係が注目される。史料上の制約から部分的にしかうかがえないが、国御家人が圧迫を受けつつあったのは間違いない。石見国の武士、それも国御家人の多くが、鎌倉幕府の打倒や南北朝内乱で反幕府方であったことの一つの背景であろう。
 鎌倉初期に地頭の補任が確認できたのは、邑智郡のみであったが、これは単なる偶然ではなく、石見国街から比較的離れた地域にのみ東国御家人、それも佐波氏にみられるように、幕府の有力御家人ないしはその一族が地頭に補任されたと考えられる。そうした中で、益田氏など在来の武士は幕府の御家人となっていったと推定されるが、その地位は地頭ではなく、庄官ないしは郷司であり、それが地頭となるのは、承久の乱後であったであろう。また、御神本氏の勢力であるが、一族で平家方として所領を奪われた事例も、逆に思賞として所領を与えられた場合もあり、鎌倉初期の状況をそのまま平安末にさかのぼらせることはできない。
 今回は、全体状況を確認したので、今後は、これを踏まえつつ、個々の事例に関する理解を深めること課題としたい。

石見国武士団(13)

 すなわち、これまでみたように、西遷御家人が自己の所領名を苗字とするには、一定の時聞が必要であり、元冠後に入部した頼行から所領を譲られた子が鎌倉末の時点で高津氏を名乗ることはありえないのである。また、それ以外の問題もある。高津氏に関する鎌倉末から南北朝期の史料を以下に列挙する。
1331  六波羅探題から、福屋孫太郎と高津兵衛二郎入道に対し、命令が伝えられる。(内田文書)
1333 高津道性が俣賀上村地頭内田致義の長門探題攻撃時の被害状況を確認(俣賀文書)
1335  道性が北条氏残党による峰起を鎮圧した際の内田致義の被害状況を確認。(俣賀文書)
1336  高津余次長幸の名が初めてみえる。(『南北朝遺文』I224)
1340  高津余次とともに、高津二郎三郎の名がみえる(諒伐される)。(『南北朝遺文』1031)
1350 高津播磨権守と高津二郎左衛門尉の名がみえるのを最後として以後みえず。(『南北朝遺文』1838・1840)
 上の年表から、高津兵衛二郎入道(道性) -余次長幸(=播磨権守、『南北朝遺文』1021)-二郎左衛門尉という系譜が想定され、道性と同一人物の可能性があるのは、長幸ではなく、その父と推定される兵衛二郎入道なのである。以下のように従来の説は再検討が必要である。
(吉賀郡)
この郡に関しては、ほとんど確実な史料がみられない。石見国大田文では長野圧内豊田郷以外には吉賀郷と木部の2つの公領がみえるのみだが、実際には、鎌倉前期には吉賀郷から野郷が独立していて、地頭代の存在が確認できるので、西遷獅家人が地頭であったことが確認できるが、それ以上は不明である。ただ、室町期には、将軍家御台所の料所や守護大内氏領となったり、戦国期には吉見氏が勢力を伸ばしており、国街から離れていることもあり、外部の勢力が入り込みやすかった。
 吉見氏についても、確実な史料に乏しく、不明な点が多いが、基本的事実を確認しておきたい。先に述べたように、系図では、元冠時に、能登国から吉見頗行が木部に入部し、その後、本拠を吉賀郷に移したとされるが、それならば、いつ石見国内の所領を獲得したのであろう。吉賀郡は邑智郡と同様、外部勢力が入りやすいので、佐波氏と同様、鎌倉初期に所領を獲得した可能性もある。ただ、吉見氏といっても後の石見系に繋がる一族のみではないので、注意が必要である。例えば、建武2年(1335)に吉見頼隆が沙弥僧宗寂に志目河村を与えているが(前田家文書)、与えられた宗寂は、従来言われた石見吉見氏の庶子(『島根県史』6)ではなく、時の能登国守護吉見頼為である(この点については『津和野町史』上にも指摘がある)。一方、与えた頼隆の立場については、建武政権下の石見国司という評価がなされている(吉井-1993)。また、戦闘に参加した吉見氏をみても、南朝(吉見六郎入道)・北朝方(吉見七郎)、いずれもみえ、14世紀半ばに幕府方の中心として戦った吉見三河三郎範直にしても石見吉見氏ではない。いずれにせよ、吉見家惣領・庶子の複数の家が石見との係わり合いをもっていた。石見吉見氏の系図についても、吉見惣領家などと比較して、石見国に初めて入部した頼行に至るまでの代数が多すぎ、十分な根拠をもって作成されたとは言い難く、石見吉見氏の石見国での継続的活動が明確になるのは15世紀初めの頼弘の代からである。

石見国武士団(12)

 これが、長野庄となると事情が異なっている。益田氏の支配が臨忍できるのは、飯田郷と安富郷(周布氏)のみであり、この内、飯田郷については鎌倉期の内に益田氏の支配を離れた可能性が大きい。嘉元2年(1お4) 7月、鎌倉幕府将軍久明親王と連署北条時村からそれぞれ、源調車を長野庄内飯田・市原の代官に補任する旨の命令が出されている(『鎌倉遺文』21918・21919)。長野庄は粟田社領であることが、鎌倉・室町期に確認できるが、上記の史料は、鎌倉後期のある時点で、長野庄が関東御領となったことを意味している【補訂:この点については明白な誤りであった】。そして、源茂国の子孫と考えられる南北朝期の虫追政国が長野庄惣政所を称していることからすれば、茂国も大家庄の惣政所として大家東郷を支配した大家氏と同様、長野圧惣政所の地位にある一方で、飯田・市原を支配したと推定できる。ただ、問題は茂国の源氏一族も国御家人と考えられ、地頭益田氏から代官源氏への交替の背景は不明である。
 一方、西遷御家人であることが確実なのは、すでに述べた豊田郷(本来は吉賀郡内)の内田氏(遠江国)と美濃地黒谷の波多野氏(相模国)で、両者とも承久の乱による新恩地頭であるが、その前任者については明らかではない。これ以外に、得屋郷の得屋氏(岩田氏)、角井の角井氏、吉田の吉田氏(あるいは角井氏と同族か)、高津郷の高津氏の活動が確認できるが、これらの諸氏は、鎌倉末から南北朝期には在地名を名乗っているので、石見国の在来の武士(非御神本系)か、鎌倉初期に入部した西遷御家人と考えられる。この内、高津氏について補足しておきたい。
 高津氏は幕府滅亡期に長門探題攻撃の中心的存在であり、南j国月動乱期に主に師肪として活動した高津道性長幸の存在が知られ、また、高津氏は後述の吉見氏の一族であるとされた。すなわち、吉見氏として元冠時に初めて石見国に入部した吉見頼行の子か高津道性とされたのである(『島根県史』6)。先に同じく忠臣とされた佐波氏に関して再検討したが、高津氏についても、従来の研究には問題が多いと言わざるをえない。

石見国武士団(11)

(美濃郡)
 美濃郡は益田庄・長野庄という内部に複数の所領を含む二つの大荘園と、匹見丸毛・上津毛という公領から構成される。益田庄は益田氏の本拠地となった益田本郷をはじめとして、すべて御神本氏一族が支配している。納田・井村は三隅氏が支配する中で三隅郷と呼ばれるようになり、郡も本来の那賀郡に復活している。弥富の内、三隅氏が支配した領域は小弥富と呼ばれて、益田氏の支配領域と区別されるようになった。
 乙吉については、御神本氏一族である乙吉氏の支配が確認されるが、益田氏との関係は不明で、あるいは鎌倉期以前に分かれた一族かもしれない。注目すべきは、承久の乱後も乙吉氏が地頭ではなく下司と呼ばれていることであるが、一方で幕府街康人であったことは確認できる。また、乙吉氏は益田庄内の土田村も支配したが、乙吉とともに南北朝末期には益田氏の支配するところとなる。
 鎌倉期の益田氏の動向については不明な点が多いが、文永年間に惣領兼長が早世したため、その所領は伊甘郷と弥富を兼長の後家阿忍が相続し、それ以外は兼長の弟兼久か、その子で兼長・阿忍の娘と結婚していた兼胤が益田氏惣領の地位とともに相続したと推定される。益田氏の2大拠点である益田本郷と伊甘郷は別々に支配されるようになったのである。そして、兼胤の代になんらかの理由で、益田本郷の中心部分を没収され(あるいはこの時に小石見郷も失ったか)、兼胤の嫡子兼弘は「せんとうのまごたろうにうたう(仙道の孫太郎入道)と呼ばれたように、益田本郷内の仙道を拠点とした。そのためか、伊甘郷を支配した阿忍は、一旦、伊甘郷を兼弘に譲ったが、後にトラブルが生じたため、これを悔い返して、別の孫(鳥居女房〉に譲った。石見国衝の最有力の存在であった御神本氏惣領であった益田氏も、西国の在来武士の例にもれず、鎌倉幕府の体制下では圧迫されていたのである。益
田本郷の本体は元定後、北条氏一門の大仏氏のが石見国守護となっていつことから(筧-1988)、北条氏の支配するところとなったであろう。そして、南北朝期の益田氏惣領は、失った所領の回復に乗り出すこととなる。

石見国武士団(10)

(邑智郡)
邑智郡はすでに述べたように、鎌倉初期において東国御家人の地頭への補任が確認されていたが、逆に、在来の武士の支配が確認されるのは君谷別符と福屋氏領と推定した市木のみである【要検討】。君谷氏は伴姓(その系図では伴姓富永氏とする)であることから都野・河上両氏と同族と考えられ、南北朝期には出羽郷を与えられ、ここに本拠を移して行く。このことからすると、出羽郷も本来は伴一族の所領であったのかもしれない。また、赤穴氏の祖となる佐波常連の母親が「伴氏女」であり、これらの点から、伴氏一族は江JII沿いを支配した、御神本・清原両氏と並ぶ石見国衝の有力在庁官人であったとの推定が可能である。
 これに対して、佐波氏以外の西遷御家人として、小笠原氏・某氏時景・坂上氏が確認できる。小笠原氏の戦国時代以前の動向については、不明な点が多い。その系譜によれば、阿波国守護小笠原家の流れとされるが、古文書によるならば、信濃国守護小笠原家から分かれたとすべきであろう。南北朝初期にみえる小笠原又太郎長氏が石見小笠原氏としては最初に確認できるが、同時に河本郷一方地頭として時の信濃国守護小笠原貞宗の名がみえ、信濃小笠原兵が河本郷を護者尋し、それが分割して相続された結果とみることができる(小笠原長氏がどこの地頭かは記載なく、不明である)。問題なのは、獲得した時期であるが、その意味で注目されるのが小笠原系図(『群書系図部集』巻124)の以下の記載である。すなわち、貞宗の父宗長の兄弟の中に「丸毛六郎兼頼」と「津毛二郎経氏jの名がみえる。信濃国はもとより、石見国以外には丸毛・樟毛という地名はみえないのでcr角川日本地名大辞典』の地
名索引による)、この記載が正しいとすれば、信濃小笠原兵は、鎌倉期には石見国河本郷とともに、美濃郡内の丸毛・津毛をも支配したことになる。小笠原氏は15世紀(応永・文明年間)には「河本」を苗字とするが、戦国期には再び小笠原氏に戻っているが、この背景は何か(惣領家の交替か)など、残された問題は多い。また、系図では小笠原氏は益田氏との婚姻により河本郷を得たとされるが、河本郷が本来益田氏領であったかについても再検討の必要がある。長田保の地頭として、坂上左衛門尉明定とその息子左兵衛尉明胤の名がみえるcr吾妻鏡』嘉禎4年5月11日条)。明定は播磨国巨智圧と近江国天福寺の地頭であるとともに、河内国藍御作手奉行という地位にある幕府の有力御家人であり、鎌倉にも2カ所の屋敷地を有していた。『鎌倉遺文』5966)。坂上氏は、征夷大将軍坂上田村麻呂の流れをくむが、大江氏(広元)と同様、中流貴族の家柄であった。正安3年(1301)10月に時景なる人物が邑智郡佐木郷内に含まれた「石見国四箇村内三原村地蔵田五反jを寄進しているが(『鎌倉遺文』20875)、関東御患災と武家繁昌を祈っているところからして、彼は西選御家人であろう。

2011年5月 4日 (水)

石見国武士団(9)

 御神本氏については、別の機会に詳しく論じる予定であり、ここではその概要を記したい。
御神本氏研究を一変させた福田論文では、論拠を十分示さないままに、補足的に三隅氏惣領説が主張され、三隅氏が御神本氏の本領伊甘郷の主要部分を支配したとされた。しかし、その根拠は不十分であり、逆に益田氏が鎌倉期を通じて伊甘榔を支配したのは明かである。御神本氏関連史料を検討すると、治承・寿永の内乱で源氏方として活躍し、当知行安堵(あるいは新恩給与も)を受けた御神本兼高の所領のほとんどは益田兼季に譲られ、その後、一部が三隅兼信と福屋兼広に譲られたと推定される。そのため、三隅兼信と福屋兼広の所領は、その面積、分布範囲において、益田氏の場合とは大きく異なっていた。益田氏から分れた周布氏ですら、その所領は東は安濃郡から西は美濃部にまで広がっていたが、三隅・福屋氏の場合は、基本的に那賀郡内に集中しており(三隅氏の場合、美濃郡の益田庄内に所領を持ったが、後には那賀郡に含まれる)、その面積も周布氏と大差なかった。
 以上の様に、御神本氏の惣領は益田氏であり、御神本氏の所領の中核をなす、国府の所在する伊甘郷と益田庄内の益田本郷は益田氏が支配した。一方、三隅・福屋氏も新たに氏を建てて独立した御家人としての扱いを受けており、惣領制は益田・三隅・福屋氏内部で機能した。
 来原郷の地頭については、従来、周布氏の一族とされていたが、御神本氏に共通する「兼」を名前に使っていないので、非御神本系と考えられる(浜田高校歴史部一1983)。姓は藤原であるが、来原氏を名乗る以前に本来の苗字として「田村」氏を名乗っている。系図では南北朝期に周布兼氏が田村氏から養子を迎え、この人物が兼仲となり、周布家を継承したとされる。
 以上、国御家人についてに述べたが、周布郷に隣接する貞松名については、吉賀郡豊田郷とともに、承久の乱後、遠江国御家人の内田致茂に与えられている。問題は、それ以前の支配者であるが、御神本一族か、石見国守護佐々木氏などが想定できる。鎌倉前期で西遷御家人の活動が確認できるのは、貞松名のみであるが、鎌倉後期には、国御家人が所領を失うケースがあった。
 都野氏惣領と推定される伴実保はその所領加志岐別符五分の一を没収されており、その跡に狩野氏(伊豆国か)が地頭として入部している。この処理に対して都野氏側は不満が有ったらしく、狩野氏との聞にトラブルが生じている。そのため、狩野貞親は加志岐別符五分の一を越生氏(武蔵七党の一、児玉党)と交換し、南北朝末までは越生氏の活動が確認される(井上-1997)。
 建武2年(1335)、益田某(兼世か)が、本領であるとして、美濃郡内の益田郷・匹見・丸茂両別符と並んで小石見郷を、勲功の賞として与えられている。このことは、小石見郷か本来益田氏の所領であったが、伺等かの理由で、他氏の手に渡ったことを意味している。元享3年(1323)と元徳2年(1330)に、2名連署の安堵状が源次郎に対して出されているが(岡本文書)、その形式から、幕府(関東御領など)か北条氏関係者の所領となったであろう。

石見国武士団(8)

 近年では、益田氏以外の在庁官人系の武士の存在が明らかになっている。大家庄内大家東郷を支配するとともに大家庄惣政所の地位にもあった大家氏(藤原姓だが、非御神本)、久利郷・仁万郷・雨河内と大家庄内佐摩を支配した清原氏さらには、那賀郡内都野郷を支配した伴氏である。本稿では、大家庄内稲富(後の波積)を支配したのも都野氏・河上氏・都治氏らの一族=伴氏と考える。これ以外に室町期には温泉氏・静間氏が見えるが、両者とも非御神本系の在来の武士であろう。
(那賀郡)
すでに述べたように、石見国語jの所在した那賀郡内の所領はそのほとんどが公領であり、それを支配したのも在来の武士であった。都治郷・河上郷・都野郷・加志岐(有福)・【追加:久佐】を支配したのは伴一族であり、鎌倉末・南北朝初には河上氏と都野氏の活動が確認される。伴一族に関する信頼に足る系図は残されていないが、鎌倉期には都治・河上・迩摩郡波積を支配する一族(河上・都治氏)と、都野・加志岐を支配する一族(都野氏)に別れていたと推定される。また、後述の君谷氏の存在から、伴一族は本来江川沿の地域の所領を支配していたであろう。この内、河上・都治両氏については、南北朝期に信濃国から来往したとする系図の記載があるが、これは両氏が動乱で反幕府方として不利な状況におかれたことが影響して、あたかも西遷御家人であるかの記載が後になされたのだろう。【追加、西遷御家人との間に婚姻関係を結ぶことはあり、姻戚関係を背景に主張することはある】国府の所在した伊甘郷をはじめとして、那賀郡内の所領の多くは以下の様に御神本一族の所領であった。
 益田氏(御神本惣領):伊甘郷・(小石見郷?)、周布氏(益田氏から分れる):周布郷、三隅氏:三隅郷・木束郷・(小石見郷?)、永安氏(三隅氏から分れる):永安別符、福屋氏:福屋郷(参考系図、省略、HPの益田氏系図を参照)
 以上の所領の内、小石見郷・三隅郷・周布郷・福屋郷については、貞応2年(1223)の石見国大田文にはみえず、佐波郷と同様、この時期に再編成されたのであろう。大田文の吉高・吉光から小石見・周布両郷が生まれ、美濃郡益田庄内の納田・井村が三隅郷としてまとめられた。これに対して福屋郷については、不明な点が多いが、大田文に後に「ふくや知行」との追記がなされた木田・くさ・あと・しげとみ・いちきの内、市木を除く部分に、くらみつ・稲光本郷・稲光久富を加えた部分がまとめられたと考えてよいであろう【訂正:本来の福屋郷は「ふくや知行」とされていない、くらみつ・稲光本郷・稲光久富であろう】。

石見国武士団(7)

(迩摩郡)
   迩摩郡については、一定の研究蓄積があるが(井上-1992)、その成果を利用しつつ述べてみたい。
   迩摩郡は一説には古代の石見国府の最初の所在地とされ(『島根県史』 5)、室町期以降は大内氏の分郡支配が確認されるなど、石見国の政治上の要地である。そのためか、鎌倉期に迩摩郡内の所領を支配したことが確認されるのは、吉川氏を除けば、すべて在来の武士である。そして、吉川氏にしても、三隅氏の庶子である永安氏との婚姻関係の中で大家西郷内津淵村を得ている。その意味では、確認できるのは、すべて在来の武士といってもよく、その点で古代・中世の石見国府が確実に所在した那賀郡と共通している。
 迩摩郡内で、御神本氏領であったことが確認されるのは、宅野別符と大家庄内の大家西郷・福光郷である。宅野別符は御神本氏惣領益田氏か支配したが、何らかの理由で一旦その支配を離れ、南北朝期には本領であるとして時の益田氏惣領が、勲功の賞として与えられている。福光郷は鳥居郷と同様に益田氏から周布氏へ、周布氏から福光氏へと分割して譲られている。この福光氏について、多くの御神本系図では福屋氏の庶子とされるが、井上氏は周布氏の所領であった福光郷を得ている事実と「龍雲寺蔵三隅氏系図」の記述(兼継を福屋・周布両氏の関係部分に記載)を根拠に、周布氏の一族であるとされた(井上-1997)。しかし、福光を初めて苗字にした福光兼継の母親が周布氏の一族と考えれば、問題ないように思われる。
 また、系図では福屋氏から同時期に福光・井田・横道氏が分出されているが、井田・横道が大家西郷内であることから、井上氏は大家西郷も福屋氏の所領であったとされた。これについても、福光と同様、周布氏出身の母親から譲られたと考えられる(周布氏の所領は周布郷・安富郷・鳥居郷・福光郷等とあり、これ以外に小規模な所領があったと考えられる)。また大家西郷の中心部分である井尻を支配した井尻氏の場合は、御神本氏であることは確かであるが、系図には一切登場しない。井上氏は井尻を含めた大家西郷全体が福屋氏領であったとの立場から、井尻氏も福屋氏一族とされたが、後で述べる乙吉と同様、非益田系御神本氏と考えることもできる。また、後に井尻が周布氏の所領となっていることからすると、周布氏の一族の可能性もある。いずれにせよ、本稿では福屋氏が益田氏から独立した際の所領はすべて那賀郡内という推定に立っている。【補足、邑智郡市木が本来の福屋氏領であったかは検討する必要がある】。

石見国武士団(6)

(参考一出雲国の場合)
 出雲国については、文永8年(1271)段階の国内の地頭の名を網羅的に知る事ができる。その内、杵築社領を含めても、在地名を名乗るものが約4分の1である。他は西遷御家人と考えられ、承久の乱の影響の大きさを物語っているが、在地名を名乗る中で、乃木氏は佐々木高綱の系統=西遷御家人であり、鎌倉初期から出雲圏内に所領を得ている。また、大野氏は、東大寺再建に活躍した重源と同族=紀氏で、本来は畿内で活動していたものが、院政期に大野圧の荘官となっている。これ以外については、基本的に国御家人と考えられる(原-1982)。
3. 中世前期石見国武士団の動向
 最初に述べたように、南北朝期の史料を勘案しながら、郡ごとの状況を概観してみたい。
(安濃郡)
 西遷御家人とみられるのは、河合郷の金子氏と大田(北)郷の土屋氏である。このうち、河合郷については平安後期に河合氏の存在が確認され、何らかの原因で没落したのだろうが、その跡に入った金子氏(武蔵七党の一)は南北朝内乱の初期に幕府方に属して、新たに美濃郡白上郷を獲得したが、後に足利直冬方に転じたことにより、その所領を失い、室町期には河合郷は小笠原氏(甲斐源氏)の、白上郷は周布氏の支配するところとなった。一方、土屋氏(相模国)は内乱期を通じて石見国の幕府方の中心として活動し、新たに邑智郡桜井庄を獲得して15世紀初めには「桜井氏」と呼ばれ、朝鮮貿易をも行っているが、応仁の乱後はその活動は確認できない。これに対して、波祢庄と鳥居郷は国御家人が支配している。波祢庄を支配した波祢氏は分割相続の中で庶子朝倉氏を分出している。波禰氏も足利直冬方となっているが、没落することなく、戦国期に至るまで活動している。波祢氏は名前に「兼」をつけていないので、御神本氏ではない。一方、鳥居郷は御神本氏の所領であったが、御神本氏の惣領益田氏から庶子周布氏に分割相続された。さらに、13世紀中頃には鳥居郷は周布氏惣領の支配を離れ、南北朝期には鳥居氏と鳥越氏の活動が確認できる。周布氏から鳥居氏が分出され、さらに分割相続により、鳥居氏から鳥越氏(鳥越は鳥居郷内)が分出されたと考えられる。
 【追加】阿忍が一旦孫の兼弘(道忍)に譲った伊甘郷を悔い返して別の孫である女性に譲っているが、その女性は「鳥居女房」とも呼ばれており、鳥居氏の男性と結婚していた可能性が高い。

原子力災害と責任について

 責任問題といえば、第2次大戦時の問題があり、最高責任者としての天皇の責任から、一億総懺悔論まであったが、それぞれについてきちんと考えていくことが必要である。ここでは基礎情報がないので、おおまかな点のみ述べてみたい。
 今回の事態がありうることを認識していたのは、電力各社とこれを指導監督する経済産業省関係者ならびに原子力関係者(研究・行政)、地震研究者であろう。当初「想定外」との声が聞かれたが、情報が明らかになってみると、10年前から地震と津波、並びに原発の電力面での脆弱性が、地震研究者と原子力研究者から指摘されていた。それに対して「まさか自分の時代に起きるとは?」というのが担当者の「想定外」の本音であろう。東海地震や今回の東日本大地震は、すでにいつ発生してもおかしくない状況だった。
 一方、報道を聞いていて不思議に思うのは長い間政権政党として原子力政策を推進してきた自由民主党の関係者、並びに原子力発電について報道してきたマスメディアから全く反省と責任の弁が聞かれないことである。また、こうした状況下で行われた統一地方選挙で自民党に投票した人々は、以上の点を踏まえてなお選択したのならそれもよいが、何も考えずに投票したのではないか。「お上に任せておけば安全だ」というのがそもそもの誤りであり、「民主党がダメなら自民党」ではなく、「お上に任せる」ことこそが問題なのである。
 日本の原子力政策が日米関係と密接に推進されてきたことは明白であろう。政治家として最も批判されるべきは自民党関係者(といっても政党の離合集散があり、民主党関係者にも深く関わってきた人がいるのも確か)であり、批判に明け暮れるマスメディアは本当に必要な情報を提供してきたのであろうか。
 今回の災害に伴う補償について、東京電力と政府の分担について議論があるが、どの場所・発電所で起きた場合も、同様の事態に発展したであろう。その意味で、東京電力だけでなく、電力各社が負担をするというのは、過去の原発推進の責任とともに今後起こりうる事態に備える意味でも当然であろう。今回をうけて対策が進み、今後はどんな地震がきても大丈夫などと思うのは、思考力が欠如している人のみであろう。政府(これには自治体を含む)についても、全体の責任よりも、関係部署の責任を明確にする必要がある。それがなくてトップを替えても何の反省・教訓も残らない。

2011年5月 2日 (月)

石見国武士団(5)

 佐波氏における分割相続は南北朝期以降になってようやくみられるのである。元弘3年(1333)、配流先の隠岐を脱出して伯奮国船上山で幕府に抵抗する後醍醐の下に、西国武士が参陣してくるが、その中に、石見国の武士として三角(三隅)と沢(佐波)の名前がみられ(『太平記』巻7)、三隅兼連と佐波顕連は一貫して反幕府方であったことから、戦前の皇国史観の下で南朝の忠臣として顕彰されている。ところが、三隅氏の動向が史料的に確認できるのに対して、佐波氏の場合は必ずしも明確ではない。
  観応元年(1350)、幕府が分裂する中、足利尊氏の子でありながら弟直義の養子となっていた直冬が西国で独自の勢力を形成し、石見圏内の南朝方を中心とする反幕府勢力がこれに呼応しつつあった。そのため、幕府は高師直の兄弟師泰を石見国守護に任命し、反幕府勢力の鎮圧をはかった(佐藤-1988)。
  その中で佐波顕連も反幕府方として幕府軍の攻撃を受け戦死している(~太平記』28)。ところが、それ以前の佐波氏は石見圏内の幕府方と南朝方の戦闘には登場していない。一方、観応元年4月には、幕府が小笠原左近将監と善四郎左衛門尉に対して石見国安国寺とその所領への干渉の排除を命じている(『南北朝遺文』1809) 。「善四郎左衛門尉」については苗字・姓を欠いているが、文和2年に反幕府方としてみえる「佐波善四郎左衛門尉」と同一人物であろう(『南北朝遺文』2471)、これが佐波氏としての初見史料)。この人物は戦死した顕連の嫡子実連に比定できる。佐誠氏は一貫して反幕府方であったわけではなく、足利直冬の勢力が石見国に及んできた観応元年の中頃に、それまでの幕府方から反幕府方に転じたことになる。
  すると新たな問題が生まれてくる。それは直冬方であることを示す「貞和7年(1351)正月日」付けで、直冬に対して出雲国赤穴庄内東方惣領分地頭職の安堵を求めた内容の申状(『南北朝遺文』1937)を提出した「善四郎顕清」は誰かということである。通説ではこれを実連に比定しているが、前述のように、実連ならば「佐波善四郎左衛門尉」でなければならない。そこで注目すべきは、赤穴郡連置文の以下の表現である。
(史料2)
(赤穴の本主紀氏は)先代(=北条氏)方たるによって天下の御とがめ深く候時、弟兄とりあいの時、兄の分より佐波隼人正実連をたのみ、二男常連に譲り渡す。
(『中世政治社会思想』上)
  鎌倉期の赤穴氏は石清水八幡宮の神宮の一族で紀氏であったが、南北朝期の兄弟間の争いにおいて、兄弟が対立を有利に運ぶため、隣接する石見国佐波郷の佐波実連に協力を依頼し、その際に実連の子常連に所領を譲ったのであろう。そうしてみると、赤穴庄内東方惣節分の相伝当知行を主張する「善四郎顕清」とは「善次郎四郎常連」ということになる(この後、佐波氏・赤名氏惣領ともに「善四郎」を名乗る)。常連にとって赤穴庄は、父実連から本領分けとして相続した佐波郷一分地頭職とは異なる意味を持つた(後には改めて実連から譲られているが、そこには佐波郷とはことなり、惣領である兄頼清との関係を示す文言はない)。すなわち、佐波郷一分地頭職は佐波氏惣領の地位を継承した兄頼清の下で支配したが、赤穴庄は独立して支配したのである。従来、石見国佐波郷は惣領佐波氏の下で、出雲国赤穴庄は出雲国守護の下で、赤穴氏が支配したと評価されたが、本来的に、以上のような違いがあったのである。
 以上、佐波氏の問題に深入りしたきらいはあったが、佐波氏は鎌倉初期に入部したがゆえに、南北朝初期には「佐波Jを苗字としていたのであるが、これは西選御家人として例外的で、あり、多くの場合は、室町期以降に在地名をなのるか、吉見氏や吉川氏・毛利氏・尼子氏などのように最後まで本来の苗字を変更しないかであった。

石見国武士団(4)

(佐波氏の場合)
 承久の乱で石見圏内に所領を獲得した内田氏に対して、佐波氏の場合は、その系図によれば、鎌倉初期に所領を獲得し、正治元年(1199)には義連が常陸国から石見国内に入部している(『姓氏家系大辞典』)。これについては、西選御家人の多くが本格的に入部する元冠後に佐波氏も入部したのではないかとの疑問も出されているが(藤岡大拙-1961)、遅くとも南北朝初期には「佐波」を苗字としているので(『太平記』巻7)、鎌倉初期の入部の可能性が大きい。注目すべきは、鎌倉初期に石見国内に所領を得ていたことである。西国で鎌倉初期に地頭が設置されたのは平家没官領・謀反人跡である。佐波氏は幕府の間注所の執事を務めた三善康信の同族であり、そのためか、室町期には幕府の奉公衆となっているが、有力御家人の地位を背景に鎌倉初期に石見国内の所領を獲得したのであろう。また、早くに入部していることからすると、義連は三善氏の庶子であり、常陸国内にはそれほどの所領を与えられなかったと推定される。
 佐波氏が獲得した佐波郷は、貞応2年(1223)の石見国大田文にはみえない。この点については、古代の佐波郷を継承しつつ、太田文にみえる「のふよもりちか」や「かはへのよしなか」ともに明確な領域を持つものではなく、耕地の集合体である)が再編成され、中世的所領としての「佐波郷」と「出羽郷」・「都賀郷)がこの後新たに成立するという見解(井上-1992)に従いたい。ただ、その時期は、南北朝初期ではなく、「周布郷」と同様13世紀前半とすべきである。また、佐波郷の前身となった「のふよもりちか」と「かはへのよしなか」はともに、石見国衙の在庁官人が支配していた所領である点が注目される。鎌倉初期の石見国において、地頭補任が確認されるのは、佐波郷(明証は欠いている)と同じ邑智郡内の久永庄(源頼朝が久永保を上賀茂神社に寄進、『吾妻鏡』文治2年10月1日条)のみである。この点は、平安末の石見国衝の在庁官人の中に平家方として所領を没収されたものがいたことを意味している。『源平盛衰記』にはーノ谷合戦で平家方であった武士として安主大夫と横川郡司を記す)。ただ、他国の例をも参考にすれば、西国の支配基盤が弱い鎌倉幕府であり、平家方の武士すべての所領を没収したわけではなく、石見国の邑智郡のように、比較的国衙から離れた地域で所領の没収・地頭補任がなされている。鎌倉期の佐波氏の動向については、系図の記載によるしかないが、それによれば、代々の惣領が、佐波郷の各地に拠点を移動しつつ、開発にあたっていった状況がうかがえ(義連…九日市、清連・顕連…梁瀬・吾郷、聞連…利月、実連…凋京、清政…川戸)、分割相続で生まれた庶子を惣領が統制しつつ、郷内の開発が進むという一般的状況とは異なっている。

2011年5月 1日 (日)

出雲国の守護領

 出雲国守護領については過去に言及したことがあるが、石見国とは異なり出雲国北部の要地を占めている。どちらかに偏ることなく、東部から西部にかけて存在している。ただ、これは承久の乱を受けた結果であり、それ以前には出雲国西部の所領は守護領でなかった可能性が大きい。一方、一の谷合戦へ参加したことが記される武士の数は7名と最多である。地名からすると出雲国衙の所在した意宇郡関係者はおらず、東部の能義郡、南部の大原郡・仁多郡、西部の楯縫郡・出雲郡・神門郡となる。ただ、平安末期の出雲国衙の主流派は西部の朝山氏を中心とする武士団であり、その一族が国衙近傍の所領を支配していた可能性は高い。
 出雲国は国衙を中心とする勢力、国衙とは距離を置く地域の勢力がともに平氏方となったことは確実である(両者の間には対立だけでなく、つながりもあった)。ただ、戦後処理の対応は分かれた。すなわち、後者については所領を没収して東国御家人が地頭に補任されたが、前者については、東国御家人が地頭となるケースは少なく、出雲国武士の一族内の別の人物(平氏との関わりが比較的少ない)に交替させている。
  一見すると、出雲国は国衙から離れた地域を中心とする勢力が平氏と結んで没落したのに対して、国衙を中心とする勢力は幕府と結んで生き延びたともみえるが、実態は異なっていたのである。同様のことは他国でもあったと思われ、具体的史料に基づく検討が必要である。

石見国武士団(3)

2. 東国からの西遷御家人の動向
 本稿では、南北朝末までの石見国武士団の動向をみていくが、石見国の武士団に関する史料は少なく、個別的事例の検証は可能でも、複数の事例から同時代的に面としてとらえることはほとんど不可能であり、わずかに南北朝の動乱に関する軍忠状に登場する武士の名前が、問題解決の糸口を与えてくれる。その際に、重要なのは、その武士が、益田氏にみられるように、平安期以来の在地武士(以下では国御家人と呼ぶ)か、鎌倉期以降の西遷御家人かということである。両者の比率の大小が、鎌倉期の石見国の政治史の推移を物語っているが、両者の識別は必ずしも容易ではなく、従来の研究でも混同されることが少なからずあった。そこで最初に西遷御家人である例を検討しながら、在地の武士と区別する材料を見つけてみたい。
(内田氏の場合)
 西遷御家人とはいっても、実際に石見国に入部した時期はまちまちで、そのことが、どんな差違を生むかを、内田氏の事例で検討する。内田氏は別稿で述べたように、遠江国内田圧を本拠とする幕府御家人であったが、承久の乱の勲功により、内田致(宗)茂が石見国の長野庄内豊田郷と周布郷に隣接する貞松名を獲得している。致茂の子弥益丸は豊田郷内俣賀村を譲られ、さらにその系統は俣賀上村を中心とする一流と、俣賀下村を中心とする一流に分かれていく(原-1993、ただし、大山-1993では異なる理解がなされている)。そして両者とも、鎌倉末から南北朝初期には「俣賀jを苗字として名乗っている。
 一方、致茂の嫡子致員は豊田郷内横田中村と貞松名を譲られたが、「遠江国御家人内田三郎敬員」と呼ばれているように、その活動の拠点は遠江国内田庄下郷にあり、その石見国への本格的入部は致員の孫朝員(空昭)が内田圧下郷を嫡子致景に譲って移住した14世紀初頭のことであった。そして、朝員とともに石見国に入部したその庶子致員が、貞松名に隣接する周布氏と婚姻関係を結んだためか、南北朝の動乱の初期において周布氏とともに南朝方として活動したため、豊田城は幕府方の攻撃を受けて落城し、豊田郷などの所領は、幕府方によって没収されてしまった。これに対して、遠江国内で幕府方として活動していた朝員の嫡子致景は、所領の正当な支配者であることを幕府に訴え、所領の回復に成功している。以後、致景とその後継者は石見国内で、活動していく。
 この石見内田氏の惣領家がその所領である「豊田」を苗字として名乗るのは、15世紀初めの応永年閣のことである。承久の乱後まもなく入部した庶子家が在地名を名乗るのが、14世紀前半であったのに対して、入部が遅れた惣領家は、15世紀になってようやく、在地名を名乗っている。「御家人とは開発領主である」とは「沙汰未練書」(『中世法制史料集』1)中の言葉であるが、在地との深いつながりの中で、従来の苗字である「内田」から在地名である「俣賀」や「豊田」に苗字を変更しているのは興昧深い。このことは、内田氏に限らず一般的にみられたことであろう。すなわち、西国に所領を獲得した東国御家人の内、惣領は東国の本領を拠点として活動したのに対し、西国所領の一部を譲られた庶子は早くから入部し、所領経営に専念する中で改名(苗字)をしていったと。一方、内田氏と同様、承久の乱の恩賞として出雲国三刀屋郷を獲得した諏訪部氏の場合、本領である越後国佐昧庄金沢村(の一部か)が、小規模であったためか、早くから惣領・庶子とも出雲国内に入部し、南北朝初期には、惣領家が三万屋氏を名乗っている。

石見国武士団(2)

 旧稿の本文をスキャナーで読み込んでPDF化し、アクロバット9のOCR機能を利用してテキストにした。本文のポイントが9Pと小さいこともあってdpiは300よりも精細な600に設定した方が、読み取りの精度は高くなった。気づいたところから直しているが、なお誤植があるかもしれない。
 このテーマについては、近年、西田友広氏が「石見益田氏の系譜と地域社会」をまとめられた。本ブログでも中世前期の郡毎の状況をまとめたが、旧稿と重なる部分は省略したので、旧稿に解説・補訂を加えて述べてみたい。
 西田氏は以下の三好俊文氏の研究成果を参照された。すなわち、平安末期の国々では国衙を中心とする勢力と国衙からは距離を隔てた地域に中心を置く勢力とによる二元構造が成立しており、幕府はその一方を敵方としてその基盤を没収しており、その結果が国衙集中・非集中の二つの守護領分布を現出したとする。これと、石見国守護の所領が安濃郡に存在したことふまえて、那賀郡から美濃郡に勢力を持つ益田氏を中心とする武士団と、安濃郡から邑智郡にかけて所領が分布する武士団の存在を想定された。
 問題は、「こんのすけかねたか一人ぬけいてヽ御方にまいり」という記述との整合性である。西田氏は石見国武士団の主流派である益田氏を中心とする勢力が幕府方となったのに対して、非主流派の勢力が平氏と結んだとされるが、「一人ぬけいてヽ」との間には少なからぬ懸隔があるのではないか。これと関連して、系図で益田兼高の祖父とされる兼真(実)には「安主大夫」と注記があるが、これと一ノ谷合戦に石見国から参加した「案主大夫」との関係はどうかという問題がある。また、益田兼栄・兼高父子はなぜあれほど広範囲の所領を支配しえたのかという問題もある。久利氏の例をみてもそれまでに所領の分割が進んでいたと思われる。

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