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2011年4月10日 (日)

安政の東海・南海地震

 11月4日の東海地震による揺れよりも、5日の南海地震による津波が大きな被害をもたらした(ただし、宝永地震の方が大きかった)。この点については『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月 1854 安政東海地震・安政南海地震』(中央防災会議)に詳しい。
 安政の東海地震については、当時来日して下田で和親条約交渉にあたっていたプチャーチン一行の船ディアナ号の座礁と伊豆半島戸田での新船ヘダ号の建造がよく知られている。ただ、この時の津波で下田の町が壊滅したことについては意識に残っていなかった。875軒中871軒が被害を受けたにもかかわらず、死者は99名と少なかった。津波の高さ、速度などが影響したとのことである。日露交渉に関わった日本側(川路聖謨)、ロシア側の関係者の地震と津波に関する記録も残されている。津波発生時はロシア側が日本人の救助を行い、座礁時には日本側がロシア人を救助したとされる。一般的にはロシア人は全員救助されたとするが、尾氏春秋の記事では70数名が溺死し、400数十名が救助されたと記す。
 東海・南海地震の余震は、石見国でも年が明けても続いており(ここは太陽・太陰暦である)、正月18日夜5つ時、3月20日4つ時には「大地震」があった。3月13日には、海岸防備のため諸国寺院の梵鐘を武器に鋳直すこと、新規の仏像鋳造を禁止する命令が出されている。幕府だけでなく、朝廷からも宣下ならびに太政官符(前年12月23日付)が出されている。21日に大森代官所での庄屋への説明では、御料内のすべての梵鐘を取り上げ九州に送って大砲にする旨が伝えられた。実際に黒船が山陰沿岸に出没・入津していた。とはいえ、全梵鐘取り上げについては各所からの働きかけにより実施には至らなかったようである。

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