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2011年4月

2011年4月30日 (土)

石見国武士団(1)

以下では、「石見国中世武士団の一考察」(1994)を引用しつつ補足する。

1.はじめに
さいこくの物ともハミなへいけに心をよせて、御方にそむきたるに、こんのすけかねたか一人ぬけいてヽ御方にまいり、心さしとて、てきのきはのたヽかいして、かうミゃうともしたるよし、くハしくきこしめされ候、返々しんへうにおほしめすところなり(益田家文書)
   以上の史料は、元暦元年(1184)に大江広元が源頼朝の意向を、西国に代宮として派遣されていた弟義経に伝えた書状の一節で、これにより平家方の多かった西国武士の中で、益田氏が源氏方として活躍をしたことがわかる。また、この後の部分では、益田氏へ恩賞として所領を与えることが述べられており、この史料は治承・寿永の内乱における、益田氏の動向をうかがうことのできる数少ないものとして、従来の研究でもしばしば引用されていた。
 ところが、福田栄次郎氏はこの史料を含む平安末一鎌倉初期の一連の文書が、南北朝期に益田氏の惣領家が交代する中で、新たに惣領となった益田兼見により、自らの系統が当初から益田氏惣領であったかにみせるために作られたものであり、この史料から平安・鎌倉期の益田氏を語ることはできないとされた(福田-1972)。また、近年の武士団研究の中で、必ずしもこの内乱において、西国武士の多くが平家方であったとは言えないことも明らかにされている。例えば、石見国の隣国である安芸国では、益田氏と同様に国内の最有力の在庁官人であった葉山氏をはじめとする多くの武士が、厳島神主佐伯氏と平家の支配に反発し、内乱では源氏方であった(『広島県史』中世)。
 このようにきわめて劇的な内容を記した、史料1も現在では、史料批判を抜きにしては語ることができなくなっている。また、安芸国の葉山氏の場合、文治5年(1189)の奥州藤原氏攻めに際して、幕府に無断で帰国したことにより、その所領の大部分を没収されている(『広島県史』中世)。鎌倉時代に生き延びた西国の有力武士が、早い時期にその勢力を削減された例も、備後国大田圧の下司橘氏や、若狭国の有力在庁官人稲庭時定(国内の所領の4害を支配)の例に見られるように多く知られている。鎌倉幕府は、あくまでも、東国御家人(武士)の政権であり、西国武士がその勢力を拡々するのは困難であった。また、東国武士が新たに地頭として西国社会に入ってくる例も少なくなかった。その点をふまえつつ、中世前期を中心とする石見国武士団の動向について整理してみた。

2011年4月29日 (金)

竹島問題について

 「歴史評論」5月号では東アジアとの関係をテーマとする大会の報告が掲載されている。その中の一本が竹島に関する池内敏氏の報告で、質疑応答と担当者による総括も載せられていた。池内氏の報告は前近代における日韓両国の「固有の領土論」にともに根拠がないことを述べた上で、1905年の島根県による竹島の隠岐郡編入について論じている。
 それに先行する石島の韓国編入(1900)については、石島=独島(竹島)とする韓国側の見解が成り立たないとする。それ以前に竹島を石島と呼んだものがないとの理由である。それに対して、日本側が竹島の隠岐郡編入を伝えた1906年時点では、竹島編入への強い抵抗があることと具体的資料を根拠に韓国側が竹島を石島として認識していたことを述べ、日本側による「無主地先占」の編入が成り立つかとされる。
 この池内氏の報告に対して主に島根県関係の研究者から疑問が出されたが、ともに有効なものではなかった。そして、最後に担当者から、池内氏が竹島が日韓いずれのものでないことを示したことに対して、そこからどのような解決があるのかと結んでいるのは、あまりに唐突だと感じた。
 池内氏の見解に対しては大筋で賛成であるが、最後のところ、韓国側が石島の存在を認識していた点と、聞いた人が日本側に抗議していることを以て「無主地先占論」に疑問を呈された点については、やや違和感を覚えた。担当者の総括も「?」であるが、すべては事実を確認するところからしか始まらないのではないか。日本側、韓国側でそれぞれ「固有の領土論」を主張している人々に決定的に欠けているのがこの点なのである。

2011年4月23日 (土)

買ってはいけないPC

 VISTA登場時には不良品といってよいPCが堂々と販売されていた。現在の新品にはあまりないと思うが、中古を購入する際には注意が必要である。どういう構成のPCかというと、CPUはセレロン(最新のデュアルコアならOK)、メモリーは512Mというもの、ノートだけでなくデスクトップもある。こればっかしは、CPU交換と、メモリー増設の両方をしない限りは使い物にならない。自分自身は使った経験はないが、PCの起動に大変時間がかかるし、いちいちの作業にも支障がある。メモリー増設だけでは焼け石に水である。
 厳密にいうと、初心者が絶対買ってはいけないものである。自分自身では、安く手に入るなら、手持ちのCPU、メモリーを使って快適なPCにすることはできる。そのためにはPCの分解もしなければならない。ネット上で分解方法が公開されているならば、チャレンジするのもよいが、それ以外は初心者はやめた方がよい。
 メモリー増設は比較的容易にできるので、OSをVISTAからXPに換えることができるなら、それもありである。そのための課題は、XP用のドライバーを入手できるかどうかであるので、これも初心者向きではない。いずれにせよ、欠陥PCを堂々と販売したメーカーはとんでもないが、今後もこのようなことはあるかもしれない。特にOSとCPUの世代交代時が問題で、以前はインテルのペンティアム4や、初代ペンティアムの登場時にあった。
 現在は第1世代コアデュオの最終版と第2世代のCPUが混在している。どちらを買っても十分使えるが、特に理由がなければ4桁(2410,2520,2630)の第2世代ものを購入した方がよい。値段が安くてメモリーが十分なら、第1世代を買うのもよい。
 以上はインテル製CPUに関してであるが、AMD製でも十分使える。安ければOKである。そして、久々にAMD製CPUでインテル製を上回るものが発売になりそうである。独占は消費者にとってひとつもよくないので、まもなく登場する新設計のAMD製のCPU(開発名はブルドーザ)に期待するところ大である。特にノート版の発売が待たれる。

島根県の人口と面積

 島根県の現在の人口は71万人台であるが、それは日本の全人口の177分の1である。(2010年国政調査結果による)。明治初年には50分の1程度であったから、その地盤沈下の様子がわかる。「古代出雲は輝いていた-驚異のイズモワールド」という講演会の予告がなされているが、それはどれだけ客観的な裏付けを持ったものであろうか。まさか「今と比べて」ということではないと思うが。その一方では「近世松江藩は輝いていたが今は‥‥」という意見も聞くがこれもどうであろうか。古代と近世の間の中世はどうであったろうか。
 本ブログでは基本的に明治以前の日本列島では各地に独自の文化と生活が営まれていたが、明治以降は富国強兵・殖産興業政策の名のもとに中央集権化が進み、地域間の格差が大きくなり、衰退が顕著化した地域が出てきたとの理解である。そこまではどの地域も輝いていたと言える。
 日本全体が右肩あがりの時代は格差や衰退がそれほど顕在化しなかったが、現在では地方の舵取りが難しい状況となっている。2011年3月1日現在の島根県の人口は714,444人であるが(県のHPによる)、これは国勢調査開始年(1920)の人口714,712人を下回っている。これは全都道府県で初めてで、ニュースとなってもよいものである。2010年時点でこれに続くのは山形・秋田県であるが、1920年を100として120程度であるので、当分は島根県のみという状況が続くであろう。参考までに国立社会保障・人口問題研究所の人口推計では、秋田県が2030年までには、山形県も2035年までには1920年の人口を下回ることになっている。
 日本全体としては人口が過剰であり、人口減により適正人口に近づくとの意見もあり、これはこれでよいが、減少が深刻な地域があることもまた事実である。島根県内でも石見部と隠岐については、明治初年の人口をも下回っている。
 都道府県の面積でみると、島根県の割合は明治初年の人口の割合に近く、順位は16位である。ただ、可住地でみると、日本全体が32.1%であるのに対して島根県は18.6%であり、その面積が日本全体に占める割合は100分の1程度で、順位も37位となる。人口は最少の鳥取県に次いで46位である。これは果たして島根県だけの問題であろうか。明治以降の日本の政治・経済のあり方が大きく影響しているのは間違いない。

ブログの設定

 ようやく、ブログにカウンターを表示することと、HP「資料の声を聴く」へのリンク設定ができた。ただ、アクセス解析の数字「30150」と比較して約400少ない「29749」と表示される。理由は不明であるが、こちらもやがて3万超えとなる。2008年10月に最初の記事をアップして1年余りで1万を超えた。少しずつアクセス者と記事へのアクセスが増えているが、記事のアップを継続するのは、常に「種切れ」と背中合わせの綱渡りである。
 HPにはブログへのリンクを少し前に設定したが、ブログへの設定は今ひとつ方法が不明であったが、ようやく方法がわかったので設定した。こちらの方へのアクセスは未だ1000に満たないが、記事の全体(とは言え、歴史以外のPCや日々の感想についてはリストに入れていない)を見るには、このHPの方が便利である。自分自身でも、「過去にはこのように考えていたのか」と再確認させられることが多い。ブログで連載した(述べた)ことをまとめれば、何本かは論文が完成できそうである。
 高校の遠足で初めて出雲古代歴史博物館を訪れたが、展示の中身はさておいて、説明の文字が小さくて読みづらい点が気になった。特別展についても、「意味がわかりずらい」との声を聞いたが、確かに常設展との違いは分からないであろう。松江市歴史館もスタートから想定以下の入館者であるとの新聞記事を読んだが、何より2館とも地域住民の学習の場(情報を公開・提供する場)として機能することが大切で、観光客は二の次でよいと思うが、その学習の場としての機能がプアー(松江市の方は未だ見ていない)なのが大問題か。つくづく、戦前と比べて地域の文化レベルが低下していることを感じさせられる。

2011年4月20日 (水)

PCの近況(4月続)

 1台目のK5270であるが、ネットでceleronT3100を2000円ほどで入手した。キャッシュこそ1Mと少ないが、デュアルコアである。575と換装したところ、今度は何の問題もなくPCが起動した。やはりシングルコアのceleron575よりはきびきびとしている。これでVISTAの使用も可能だが、メモリの問題があるので、当分はこのままXPで使っていく。2度目の分解であり、前回よりはスムーズにできた。とはいえ、オークション画面の移動ではP8400とのキャッシュの量の違いがでる場合がある → メモリーを1Gから2Gに変更したところ、画面の移動が少しスムーズになる(XPなら1Gで十分なはずなので?)。
  次いで、3度目の分解で、ペンティアムデュアルコアT4400(1.9G→2.2G、1500円で入手)に変更したがキャッシュが少ないためか、やはり変わりがなく、スムーズさを欠く。最後の手段としてVISTAを入れてみると、引っかかりはほぼ解消した。これなら、T3100でもよかったかな?。少なくともインターネットならXPよりVISTA(メモリーが必要だが)か。いずれにせよ、セレロンT3100 とペンティアムデュアルコアT4400は名前が違うだけで同じシリーズといってよいと思うが、他に違いがあるのだろうか。
 2台目はCPUがP8400であるが、P8600に換装してもスピードはそう変わらないであろうからこのままとしておく。こちらはメモリーが2MなのでVISTAを使ったほうがよい。これなら2台目は不要であったとの気もするが、2台目はつれあいが使っている。
 両者の違いはマザーボードとフロッピードライブの有無である。富士通のノートPCでは、セレロン用マザーボードでもcore 2 duoが動作した。ネットで調べた結果では違いは対応CPUではなく、外部GPUを組み込めるか(その場合はチップセット内蔵GPUは除かれる)、それができないかとの違いのようである。

2011年4月17日 (日)

エルトゥールル号事件(3)

 当時日本の新聞社は熾烈な販売競争を繰り広げており、エルトゥールル号事件も各社による速報合戦ならびに世論形成のターゲットとなった。そうした中で義援金運動が開始された。軍艦比叡と金剛の出発後、新聞報道は急速にしぼみ、世論の関心は失われていった。新聞は国会開設とロシア皇太子への襲撃=大津事件に報道の中心を移していった。大津事件の発生は、比叡と金剛が帰還した1891年5月10日の翌日であった。
  集まった義援金についても、国交がないトルコへの送金が困難であるとして、その大半は現地に建設された記念碑建立の予算として使われた。トルコ側はエルトゥールル号派遣を契機に国交樹立を考えていたが、日本側のトルコへの関心は低調であった。僅かに、これ以後、国内の災害発生に対して義援金をつのる運動(メディアイベント)が一般化するが、これのみがこの事件のもたらしたものであった。
 1892年に県を中心とする慰霊碑が完成し、以後定期的に慰霊祭が行われるがその範囲は大島村のレベルにとどまっていた。この事件が次ぎに採り上げられたのは、1912年に亜細亜義会の機関誌『大東』に大アジア主義者の立場から義挙として掲載されたことであったが、本格的に思い出されたのは、日本とトルコの国交樹立後で、1929年には新たな追悼碑が建立されるとともに、6月3日に和歌山県南部を行幸中の昭和天皇がこの碑に参詣したことによる。
  1937年にはトルコ政府による追悼碑と墓地の改築がなされるが、1939年に第2次大戦が勃発すると、トルコは中立の立場をとり、日本は1941年にアメリカに宣戦布告を行った。戦争末期の1945年1月に連合国側に近い立場を表明すべく、トルコ議会は日本との国交を断絶し、2月23日にはトルコが日本に対して宣戦布告を行った。
 戦争に敗北し占領された日本は、前年に結んだサンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日に独立し、1953年3月14日にはトルコの首都アンカラで日本の公使館が活動を再開した。これ以後事件は両国の友好の証として戦前以上に語られ、来日したトルコ大使が慰霊碑を訪問した。湾岸戦争時以後のことについてはよく知られているので省略するが、イラン・イラク戦争時の「美談」については、2005年3月刊の報告書では全く言及されていない。
 以上、報告書の一部からまとめてみたが、是非とも、戦前の日本ならびに今後の日本のあり方を考える材料として報告書そのもの読んでいただきたい。

エルトゥールル号事件(2)

  トルコ皇帝から親善のため派遣されたエルトゥールル号が来日した1890年5月から事件発生の9月16日に至る状況からわかることは、当時の日本の人々の号に対する関心の薄さである。時は、条約改正、憲法制定、来る11月の国会開設の中で、新聞などもほとんど報道していない。16日21時半頃に船は和歌山県大島樫野崎沖で座礁し、22時までには沈没した。
 事件は樫野崎灯台に被害者が助けを求めたことにより灯台職員の知るところとなり、樫野崎区長、大島村長へと連絡がされた。次いで村長から和歌山県知事、兵庫県知事、海軍省へ事件が伝えられた。兵庫県については、次の訪問先が、外国領事館が多数ある神戸であったことによる。偶然、当時の林兵庫県知事は1876年にはイスラーム教の開祖ムハンマドの伝記(イギリスで出版された英語の本)を翻訳しており、イスラーム教についてある程度知っていたとされる。ただ、日露戦争後には外務大臣にもなっているが、特にトルコとの関係改善を行った形跡はない。トルコと日本の国交が樹立されたのは第1次大戦でトルコが敗北しオスマン朝が崩壊した後=1924年のことである。
 岸に自力で泳ぎ着いた人々が地元の人々によって救われた。生存者の捜索は行われたが、発見できなかった。住民に懸賞金を示して大規模の捜索が行われたが、それは特使オスマン・パシャをトルコの皇族と誤解したためであった。
 事件が神戸に伝わるとドイツが軍艦ウオルフを現地に派遣し、生存者の大半を神戸に送った。これに対して海軍省の軍艦八重山派遣は遅れた。10月11日に軍艦比叡と金剛が生存者を乗せてトルコに向かい、翌年5月10日に日本に帰還した。派遣の直前にはロシアから軍艦によるトルコへの送還の提案があり、世論はドイツに出し抜かれたのに続いて今度はロシアにもと、政府を攻撃したという。
  当時の国家財政は逼迫していたが、この世論の批判を追い風にした海軍省は、軍艦の派遣を実現することにより、練習航海と初の日本人乗組員のみの船によるヨーロッパまでに航海を実現して、海軍力を誇示することに成功した。

エルトゥールル号事件(1)

 高校で日本史を教えているが、この事件は自分の「辞書」にはなかった。たまたま、入学式の挨拶でこの事件について触れられていたので、とりあえず事件名を覚えてネットで検索をしてみる。斜め読みだが、概要はある程度わかった(?)と思った。すると、別のルートからこの事件に遭遇した。地震について調べていて中央防災会議の報告書がこの事件についても出され、PDF化されていた。さっそく他の防災上の事件(多くは地震)とともにダウンロードしてみる。
 以前から知る人ぞ知るという事件であったようだが、昨年にはNHKのヒストリアでも取り上げられ、知名度がアップしていたらしい。自身は普段はテレビをみないので(授業の関係でネットはよくみる)、遭遇しなかった。世界史の資料集には採り上げているものがあるそうだ。
 少しずつ知りつつある状況で、中央防災会議の報告書については未だ斜め読みの段階であるが、やはり報告書をみずにこの事件について評価することはできないと思った。日本近海での初の外国船の大規模遭難として報告書は多面的に分析がなされている。この4年前に同じ和歌山沖ではノルマントン号事件が起きて、世論の反英感状が高まったことはあまりにも有名であるが、こちらは38人(日本人乗客25名とアジア関係の乗組員13名)の死亡。これに対してエルトゥールル号事件は正確な人数は不明だが、約500人が死亡したとされる。

2011年4月16日 (土)

PCの近況(4月)

 K5270の2台目とNF/a50が到着した。ジャンクであり、購入したそのままでは使用できないとのことであったが、いずれもOSをインストールすると問題なく使用できた。確かにノートパソコンが紙の袋で送られてきたのには驚いた(表記はされていた)。
 K5270は1台目にドライバCD(XP,VISTA)が添付されており、それを利用するとVISTAのインストールができた。ただ、富士通製PCを何台も所有しているが、再セットアップ用のCDがあっても、再インストール用の「トラブル復活ナビ」が画面に表示されないものがあり、その理由がよくわからない。1台目では表示されるが、2台目はなし。ライセンスシールが添付されており、汎用のDVDでインストールして番号を入れればライセンス認証はできるのだが、やや面倒である。
 NF/a50の方は予想はしていたが、ビジネス用のA8255(8260)と筐体は同じであった。1枚目のアプリケーションディスクのみ添付されていたが、これでドライバーのインストールができた。ソフトウェアが入っていると思っていたが、ドライバーも入っており、これがないとややインストールは面倒であったろう。
 1台目のK5270の利用については、このままでも十分であるが、cerelon575(シングル)をcelelonT3100(デュアル)に交換する予定である。Kシリーズの最新機種ではcerelon900(シングルコアの最高クロック版)が設定されているが、T3100も利用できる可能性が高い(core2duoは使用不可だった)。1台目に添付されてきたキーボードとマウスは2台目で使用することとなったため、誇りをかぶったコンパクトキーボードを使うこととしたが、やや入力しずらく、あまり使わなかった理由が実感できた。IBMのトラベル・キーボードを使うほうがよいかもしれない。2台目についてはP8400が搭載されているが、折を見て手持ちのよりクロックの高いものに交換するであろう。
 オークションの業者もさまざまで入札する側も自己責任なしにはできないが、購入されてもあまり使われていないPCが多いのだろうか。地震の記事については、普段よりアクセスが増えた。

2011年4月11日 (月)

島根県域と地震(2)

 記憶に新しいところでは2000年の鳥取西部地震(M7.3)、翌2001年(M6.7)の芸予地震があった。
 地震について調べる前は、大規模地震は東海から東北にかけての事だという思いが強く、それと島根原発がある島根半島に政府が認定しているよりも長い活断層があるが、これも政府と電力会社の都合で長さが決められていることが問題であるとの認識であった。
 歴史的には太平洋岸の地震の方が規模は大きいが、日本海側でも九州から北海道まで一定規模の地震は起きている。それが偶々1983年の日本海中部地震と1993年の北海道南西沖地震以外は震源地が内陸部であったために、津波の被害が少なかっただけであることを認識した。
 南海地震により大阪とその周辺に被害がでれば、その影響は島根県域にもいろいろな形で及んでくる。津波があるにせよ、ないにせよ、島根県域でも2000年の鳥取西部地震以上の揺れがありうるし、南海地震が起きた場合の影響も大きいことを知った。果たして県の防災対策をそれを踏まえたものになっているのであろうか。そのためにも、災害に関する史料の収集が必要なのだが、ここでもネックは明治100年を意識して急いで作成した『新修島根県史』の内容があまりにもプアーであることである。歴史を編纂するのは過去のためではなく、現在のためである。その意味で昨日再選した知事が「古事記」にこだわるのは、文化人であるゆえであろうが、知事としては考古学者や古代史の人々が好きな「好古学」(これについてはマルグ・ブロックが述べている)や「誇大史」に走ってはまずいと思う。島根県域らしさが一番わかるのは江戸時代である。ただ、これをお殿様の歴史にしてはこれまた台無しである。県内でも隠岐地方は出雲・石見地方以上に津波への警戒が必要である。

島根県域と地震(1)

 地震調査研究推進本部の「島根県に被害を及ぼした主な地震」をみると、延宝4年(1676)の石見国での地震で津和野城などで死者7人、負傷者35人の被害が出たことが記されるが(別のページでは「1778年にM6.5、1859年にM6.0~6.5の地震が発生し、局地的に被害が生じました」とあり、延宝4年と1778年が混同されている可能性有り)、宝永の地震については言及がない。大坂での津波被害が安政の南海地震を上回っており、揺れと被害はあったと思われるが、史料がないのであろうか。次いで安政南海地震での出雲大社周辺で150棟が潰れたことが記される。中央防災会議の報告書では、出雲大社周辺で震度6強、松江で6弱と評価されている。そして安政6年正月5日に那賀郡・美濃郡で地震による家屋倒壊があったとされる。尾氏春秋ではそれ以外にも大きな揺れがあったことが記されていた(安政5年11月2日、同6年9月9日や万延2年2月)が、これも記録がないのだろうか。その意味で尾氏春秋は島根県域での災害・地震を考える上で重要な情報を提供してくれるものである。
 津波については、「1872年に発生した浜田地震(M7.1)では、震源域が浜田付近の沿岸から日本海沖合にあったと推定されています。これは陸域の浅い場所で発生した地震と同じタイプの地震と考えられます。本震の約1時間前に、かなりの大きさの前震がありました。被害は資料によって異なりますが、当時の浜田県管下震災表によると、旧浜田県では、死者536名や家屋全壊4,000棟以上、旧出雲県で死者15名や家屋全壊450棟以上などの被害が生じました。また、この地震では海岸の昇降が見られたほか、小津波がありましたが、これによる被害は知られていません。」と述べられている。このうち、有名な浜田・畳が浦がこの地震で2M以上隆起したとの説は、あったにしてもごくわずかであったという説が有力になっている。

2011年4月10日 (日)

安政の江戸地震

 次いで安政2年10月2日(1855年11月11日)に発生した直下型の安政江戸地震についても、江戸からの報告を含め、詳細な資料が掲載されている。安政3年8月25日にも大雨大風、さらには地震と津波で江戸に被害が出ている(江戸大変=江戸の大風災)。
 安政5年(1858)2月23日から29日にかけて石見国邑智郡で地震が続いて発生している。現在からすれば多い。江戸では2月15日に大火があり町屋1万7千軒余が焼失し、次いで2月25日には大坂でも出火し同程度の家が焼失したとの記事もある。この年は通商条約勅許をめぐり幕府と朝廷の対立が続いていたが、4月には朝廷から出雲大社国造へ勅状が下されている。そうした中、13代将軍家定の死亡により、8月6日から普請鳴物を停止せよとの命令が出され、同時に後継として紀州藩主が養子となって14代将軍家茂となった。また同月には江戸表から東海道を西へ「コロビ」という伝染病が広がりつつ有り、処方箋についても確認されている。「コロリ(コレラ)」に関する記事もある。次いで11月2日から3日にかけて、大地震があり、鳥井浦(大田市)で津波により20軒が流された。地震は浜田以西の被害が大きかった。
 明けて安政6年正月4~6日にも3夜連続の地震があり、9月9日朝には近来の大地震以上の地震が発生し、11日にも大地震があり12日まで続いている。
  安政六未九月九日朝四ツ時大地震近来ノ大地震よりも大にして長く候追々書すべし予案ルニ諸国大小あるべし恐ろしきをに候夕方迄も小なり数をしらず夜に入り中四ツ小数しらず
8月9日には江戸でも大地震があり津波で死者数知れずと記され、次いで10月5日には本丸が焼失している。安政8年2月にも石見国で地震があった。
  濱田野此度ノ地震ニ松原町百間余焼火町中残少ク損潰死人弐百人余御城山損ズ役所残ナク潰ル役人中死人ハ一向ナシ
以上、最後は記事を羅列するのみとなったが、幕末の石見国での地震の多さ(省略したものもある)がわかると思う。

安政の東海・南海地震

 11月4日の東海地震による揺れよりも、5日の南海地震による津波が大きな被害をもたらした(ただし、宝永地震の方が大きかった)。この点については『災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成17年3月 1854 安政東海地震・安政南海地震』(中央防災会議)に詳しい。
 安政の東海地震については、当時来日して下田で和親条約交渉にあたっていたプチャーチン一行の船ディアナ号の座礁と伊豆半島戸田での新船ヘダ号の建造がよく知られている。ただ、この時の津波で下田の町が壊滅したことについては意識に残っていなかった。875軒中871軒が被害を受けたにもかかわらず、死者は99名と少なかった。津波の高さ、速度などが影響したとのことである。日露交渉に関わった日本側(川路聖謨)、ロシア側の関係者の地震と津波に関する記録も残されている。津波発生時はロシア側が日本人の救助を行い、座礁時には日本側がロシア人を救助したとされる。一般的にはロシア人は全員救助されたとするが、尾氏春秋の記事では70数名が溺死し、400数十名が救助されたと記す。
 東海・南海地震の余震は、石見国でも年が明けても続いており(ここは太陽・太陰暦である)、正月18日夜5つ時、3月20日4つ時には「大地震」があった。3月13日には、海岸防備のため諸国寺院の梵鐘を武器に鋳直すこと、新規の仏像鋳造を禁止する命令が出されている。幕府だけでなく、朝廷からも宣下ならびに太政官符(前年12月23日付)が出されている。21日に大森代官所での庄屋への説明では、御料内のすべての梵鐘を取り上げ九州に送って大砲にする旨が伝えられた。実際に黒船が山陰沿岸に出没・入津していた。とはいえ、全梵鐘取り上げについては各所からの働きかけにより実施には至らなかったようである。

安政の東海地震

 ここでも安政の東海地震についてwikiから引用すると次のとおり。
 被害は関東地方から近畿地方に及び特に沼津から伊勢湾岸沿いおよび甲府盆地が甚大であった。家屋の倒壊は甲斐、信濃、近江、越前、加賀まで及ぶ。駿府城では門が倒壊、石垣が崩れ、さらに武家屋敷を含め城下町は壊滅状態となった。掛川宿は出火により殆どを焼失、袋井宿でも家屋の倒壊が甚だしく津波の被害も受けた。駿河湾岸沿いにおける震害特に著しく、駿河湾西側および甲府盆地では軒並み震度7と推定されることから震源域は宝永地震よりもさらに駿河湾奥あるいは陸上まで入り込んでいたと推定される。東北南部から中国・四国まで震度4以上の領域が及んだ。
 『尾氏春秋』でも余震が続く状況が記されている(11月)。
 然ハ当月四日より七日迄大地震ニ御座候得共、私共ハ無難ニて大悦仕候、(中略)扨亦雲州ハ別して大地震、杵築町格別也、猶又松江伯州米子之城ハ損事も有之由ニ御座候、又先日肥後熊本辺ハ大地震之よし、是ハ格別之事と相聞へ申候、雲州杵築辺の様子左ニ
   十一月五日大地震
杵築大鳥井丁第一番ニ大損じ、第二番ニ市場村越峠村大工地少々、五十一軒本倒れ、四十一軒是ハ本倒れ同様作事ニ不掛、四十六軒半倒れ・卅三軒大損事メて七十一軒(数が合わないが)。
地震の原因についても(事実ではないが)、当時、海防の強化のため寺院の鐘を鋳つぶして大砲を製造することが行われていたが、これが神慮に叶わないとして起こったとする。
11月8日付けの大坂からの書状(15日到来)の一部を掲載する(この後の史料に全国の状況が記されている。地震による津波とともに、火災の発生を記している)。
  當所當十一月四日四ツ時過より大地震、市中大混雑前代未聞之事ニ御座候、市中并ニ土蔵建家所ニ崩れ申候、(中略)又々翌日五日七ツ半時頃より大地震ニて大混雑いたし、折柄海底大ニ振動、暮六ツ時分より大積浪ニ相成、木津川口ハ別して北国の囲い船数ニ驚き有之、大積浪ニて川上へ流れ来り、不残道頓堀へ流れ込、日本橋唐金橋葦橋住吉橋大黒橋悉く落ち段ニ、芝居近所迄大小船流込長堀川ニてハ高橋落、玉造橋ハ無難、戒島ハ亀井橋落安治川ニてハ安字川橋落何れも大小船とも流れ込申候

地震と富士山噴火(2)

 「折りたく柴の記」で有名な、荻原重秀と白石の貨幣改鋳をめぐる対立があったのは、この宝永の大地震と大噴火に対する復興計画をめぐってであった。宝永の富士山噴火については山室恭子氏『黄門様と犬公方』を読んだ際に、晩年の綱吉とからんで印象に残った。
 次いで、今回の地震後、その類似点から急に浮上してきた貞観の大地震(869)である。
『日本三代実録』の記録から東北地方の支配の拠点であった多賀城下でも津波の被害が出たことが知られ、近年は地質の調査から広範囲に津波の影響があったことが指摘されている。
  それを踏まえた地震対策の強化が主張されたが、対策費用を含め膨大な費用がかかるため、電力会社は根拠が十分でないとして、対応しなかったとされる。
 ここで注目するのは、この地震の5年前の貞観6年(864年)に富士山の貞観大噴火が起きていることである。富士山の噴火は前回述べた宝永の大噴火が最後となっているが、地震と噴火の関係を指摘する声もあり、今回の場合はどうであろうか。地震予知は現在の科学を持ってしても困難であるが、いつ起こっても不思議ではないとされる東南海地震とともに、防災対策などに注意しておく必要があると思う。
 そして、安政の大地震であるが、『尾氏春秋』のこの地震に関する最初の部分には以下のように記されており、筆者もびっくりであった。
○十一月四日朝四ツ時地震殊の外長し
○同五日七ツ時大地震拙者七十才二相成候得共、此位の大地震ハ知らず
今回の大地震と違い、石見国そして続いてみるように出雲国でも揺れたのである。

地震と富士山噴火(1)

 大学の4年間東京で生活していた。部屋が6Fにあったこともあってよく揺れを感じた。その時の体験から東京で暮らす際には、地震についての覚悟が必要だと思った。1995年1月17日の阪神・淡路大震災は早朝であったが、揺れを感じ、松江の家でも壁掛け時計が落下したことを憶えている。次いで2000年10月6日の鳥取県西部地震は昼過ぎであったが、浜田教育センターで担当する講座の午後の部が始まって間もない時にかなりの揺れを感じた。松江教育センターでは生物の水槽が壊れたとの話を聞いた。
 そして2011年3月11日の地震であるが、その規模が空前のものであることも確かだが、それに放射能の問題がからんでいる。リーマンショックが「100年に一度」かどうかはあやしいが、今回の被害はこれで原子力発電に対する考え方が変わるだろうし、既存の原発の安全対策も強化されるので、その被害の規模は空前絶後となるだろう。
 ということで、しばらく、ブログでは島根県邑智郡に残された家の記録(尾氏春秋)から、大地震に関するものをとりあげていきたい。筆者は蘭学を学んだ医師であり、普段から大坂の関係者から様々な情報を得ている。マグニチュードや震度はないが、その記録では「地震」「小地震」「大地震」と区別して記されている。地元の地震だけでなく、大坂・京都・江戸の情報についても記されている。
 最初に採り上げるのは、宝永地震(1707)である。今回の地震が発生するまでは記録に残る日本最大級の地震であるとされていた。そして10月28日(以下、特に断らない限りは太陽暦)の地震の余韻が未ださめやらない12月16日には宝永の富士山大噴火が起き、両者を併せて亥の大変(いのたいへん)と呼ばれる。東海・南海・東南海連動型地震であり、大坂でも以下のwikipediaの記事のように津波の被害が出ている。
 大坂では地震の約2時間後に津波が到達し、安治川や木津川の河口から市街地へ侵入した。河口に碇泊されていた船が上流へ押し流され衝突し、橋を破壊、溺死者は7000人余(『波速之震事』)あるいは合計の犠牲者12000人(『寳永度大坂大地震之記』)とする記録がある。但し『摂陽奇観』では大坂三郷の天満組において潰家993軒、死人540人と記録されており、大坂三郷全体ではその5倍程度とするのが妥当とする説もある
 この地震について以下のように記している(尾氏春秋)。
 同(宝永)四亥十月四日八ツ時より大地震夥敷ゆり出し、五日朝津浪にて大坂家数三千余軒人三万余死す船壱万余艘損申候、当春諸国ニ白髪やうなる毛、地よりはへ出申候
この記録では3万人以上が死亡したとされている。地元に関する記載は、筆者が生まれるよりかなり前のものでありない。

2011年4月 7日 (木)

windows7の日本語化

 Windows7us版の日本語化を試みた。発売当時から日本語版とUS版の価格差が大きいことが言われていた。それはオフィスソフトにもいえるが、とりあえずオークションでUS版を入手して、日本語化に成功した。それが可能なことは事前にインターネットで確認済みであったが、「なんとか言語ファイルを入手して」とあったように、「言語ファイル」の入手方法がわからず(マイクロソフトから入手するにはいろいろな手間が必要で、これなら日本語版を購入した方がよかったと思った)、ようやく入手できた。とりあえずは、SXGA+のLifebook C8240に導入した。様子をみながらアプリケーションのインストールを行う。
 インターネットで紹介されていた方法と手順が前後してしまい、どうかとも思ったが、結果的にはよい結果となった。具体的には、最初にUS版をインストールする際にはそのままの設定でとあったのを、ついつい「日本語キーボード」を選択してしまったのである。最後にはレジストリの変更が必要とのことであったが、エディタを起動して確認したところ、すでに日本語となっていた。次からは簡単に行うことができる。すべては自己責任がともなう世界であるが、これで所有する主なパソコンにWindows7を導入する目処はたった。
 とりあえず「応仁・文明の乱と尼子氏」を収録した『松江市史研究2号』も発刊された。

2011年4月 2日 (土)

三沢氏関係文書について

 三沢氏に関する文書は、雲南の寺院文書、長州藩家臣となった一族の文書とともに、長州藩手鑑として残されている。手鑑中の一つに年未詳11月10日足利義政感状(万代家文書)がある。三沢彦四郎に対して、10月晦日の近江国弓削の合戦で信濃守為清と親類手者其外が討ち死にしたことを賞している。信濃守為清は出雲三沢氏の惣領であり、文明7年(1475)に死亡している。それに対して「彦四郎」はどのような関係にあるのだろうか。
 関係文書は長府博物館蔵「筆陳」に含まれており、両者が本来一体のものであったことがわかる。永享10年6月13日将軍義教御判御教書では、飯島六郎為長の出雲国内当知行分所領が安堵されている。次いで寛正3年12月20日将軍義政御判御教書では飯島三郎為家の出雲国内当知行分所領が安堵されている。また、「筆陳」には正平9年7月10日足利直冬感状(飯島四郎三郎宛)があり、出雲三沢氏惣領為常とともに忠節を行っていることが賞せられている。
 これに対して、長州藩家臣が伝えた三沢文書には観応2年1月14日足利直義軍勢催促状が含まれ、飯島四郎三郎に対して高師直・師泰兄弟の討伐を命じている。この2通の「四郎三郎」は同一人物であり、万代家と筆陳の三沢氏関係文書は本来、毛利氏家臣が伝えた三沢文書と一体のものであったと思われる。すなわち、三沢氏一族の中で小原を支配し、後に婚姻関係により香折新宮を得た一族の文書であった。この一族は三沢氏庶子でありながら、その一方で将軍から直接の安堵を受ける一族であった。出雲国人の多くが南北朝動乱期終了以後は守護京極氏によって所領を安堵されるようになるが、三沢氏庶子は独特の位置にあった。
 ということで、最初の文明7年11月10日の宛名にみえる三沢彦四郎は、将軍との関係は有しているが、出雲三沢氏惣領ではなく、庶子家であった。

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