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2011年3月

2011年3月27日 (日)

益田氏と大内氏(6)

  これまで述べてきたことをまとめると、康暦2年段階で義弘と満弘の対立を窺わせる史料はあっても、益田氏が義弘と対立したり、満弘方であったことを示す史料はない。さらに言えば、満弘方の守護代として「美作守」なる人物がいたことは確認できるが、それと義弘の守護代「美作権守」は別人である。「美作守」が討ち死にしたとされる康暦2年5月28日以降も「美作権守」は、義弘の守護代として活動を続けているのである。
  一方、石見国における南北朝動乱は、事実上貞治2年頃の大内道階(弘世)の幕府への帰参で終結したが、国人間の所領をめぐる対立は未解決なまま続いていた。益田兼見はいち早く大内氏とともに幕府方となり、その間の一族や他の国人との対立を経て益田氏惣領の地位を得た。貞治3年には幕府による三隅氏攻撃に参加し、同5年には福屋氏を攻撃した後に、安芸国への合戦に一族を派遣している。
 その最中の貞治5年5月6日には、三隅氏が所持した代々の御下文の案文を獲得している。三隅氏との所領をめぐる対立を解決するための行動の一つであったと思われる。これに関して注目されるのは、応安4年に益田氏と三隅氏庶子永安氏が弥富名をめぐって対立していたが、永徳3年2月には弥富名だけでなく、岡見村も益田氏領として幕府から安堵を受けている点である。兼見は同年8月には置文を作成するとともに、所領を嫡子兼世(大内弘世との関係か)をはじめとする3人の子に譲っている。永和4年2月には兼世と兼弘(大内弘世との関係を窺わせる)と兼政に譲っていたが、それを所領の増加と幕府の安堵もあって見直した形となっている。
 その兼世への譲状で、兼世の子長寿丸を嫡孫として兼世領の相続を認めるとともに、特に岡見村についてはもとより長寿丸が知行すべき所領であると述べている。この岡見村について、兼見はその置文の中で、「号三隅」と記しているのである。ここから窺えることは、長寿丸が三隅氏女子を母とするのではないかという点である。岡見村が長寿丸領であるべきとは、母から譲られた所領という意味であると考えられる。
 それだけでなく、益田氏と三隅氏間の婚姻関係が複数結ばれたと思われる。鈴木真年蔵「石州益田家系図」には益田兼見女子、孫の兼家女子に「三隅妻」との注記がある。また、別の兼見女子には「大内馬庭殿妻」とあり、これが大内満弘であろう。このため、益田氏は義弘と満弘の対立では中立的立場を選択せざるを得なかったか。南朝方であったことが確認できるのは三隅直連までであるが、その子と孫はそれぞれ「信世」と「氏世」であり、「氏世」の母が益田氏出身で、惣領兼世にちなんで「世」を付けたのではないか。三隅氏と周布氏が小石見郷内か周布郷内かで対立していた問題について、三隅信性(兼連)が周布氏に嫁いだ孫兼覧女子に小石見郷内の紛争地を譲るという妥協策がとられたことがあった(もっともこれは完全解決にはつながらず)。

2011年3月25日 (金)

益田氏と大内氏(5)

  『花栄三代記』の記す康暦2年5月28日の大内義弘方と満弘方の合戦に関する史料としては以下の3点がある。
①3月16日大内義弘書状写(周布入道宛)
②6月24日大内義弘書状写(周布入道宛)
③康暦2年7月19日室町幕府御教書写(周布入道宛)
  ③については、年紀が記されているが、問題は①②である。『南北朝遺文』では①を永徳元年、②を康暦2年に配置している。①にみえる森大和入道については、康暦2年2月27日の大内奉行人奉書の時点では森大和守なので、これ以降のものとなる。これに「美作守」が健在であることを加味すると、康暦2年3月16日のものとなる。そこでは、福屋氏が美作守方で、周布氏が義弘方であることをうかがわせる内容が記されているが、益田氏は登場しない。この史料を永徳元年に比定される松岡氏の見解は明らかな誤りである。
 一方、②には美作守は登場せず、三隅・周布両氏が義弘方で、福屋氏が三郎方であることが記されている。5月28日後の状況を示しており、康暦2年のものとして問題はないが、ここでも益田氏は登場しない。
  松岡氏は関連資料として、②に続いて3月17日大内義弘書状写をあげられる。「近日益田罷向」ことが記されているが、包み紙に記されている宛名が「須布」であること、義弘の使者が「土肥」であることなど、3月16日書状とは共通する点がない。また、12月14日平井道助書状を康暦2年のものとされる。市原城退治について述べ、益田辺について暇はないことを述べる。時期を特定する材料は、周布氏領の安堵について大内義弘から連絡があったこと、問題が解決したことを述べている点である。この安堵状としては、至徳2年11月26日足利義満袖判御教書、嘉慶元年11月25日足利義満袖判御教書、康応元年11月19日足利義満袖判御教書が候補となる。周布氏側から10月25日と11月2日に書状が出されていることを勘案すると、8月13日と10月5日に大内義弘から周布郷安堵の挙状が提出され、同年8月13日には大内義弘が洪水による被害を承けて公田を10町としている康応元年の可能性が高い。嘉慶2年の益田周辺の軍事的緊張が続いていたことを示している。
  以上、従来康暦2年から3年に比定されてきた史料について検討し、これが3つの時期のものであることを明らかにした。一番目は康暦2年に三郎満弘と結ぶ福屋氏に対して、三隅氏・周布氏が義弘と結んでいたことを示すものである。二番目は康応元年後半の益田庄周辺の軍事的緊張を示すものであった。最後の三番目は益田氏と大内氏の対立が頂点に達していた明徳4年後半のものであった。これをみても、これまで指摘されてきた康暦2年前後の益田氏と大内氏の対立は確認できなかった。

2011年3月23日 (水)

益田氏と大内氏(4)

 以上の点に明徳4年12月27日に益田庄地頭職が益田次郎兼家に返されている事実を併せれば、年未詳8月15日の2通の大内義弘書状(周布氏宛)とそれに関連して益田攻撃を述べる周布氏史料[8月27日大内義弘書状(其境、此方勢既益田辺取寄、右田罷越候へ々、周布入道)、9月2日大内義弘書状(森兵庫助、益田之境辺可罷出候由、右田より申候、周布入道)]は、明徳年間のもの、それも明徳4年の可能性が高いといえるであろう(福屋氏が登場する一部のものは早い時期のもの)。
  そこに至る史料をみると、前にのべた嘉慶2年11月19日大内氏奉行人奉書(沙弥・豊後守・沙弥連署、永安左近将監宛)がある。これに先行するのが年未詳6月9日大内氏奉行人書状(良智・重連連署、永安左近将監宛)で、嘉慶2年に比定できる。6月時点では益田氏との係争地弥富下村(遠田村)を獲得できる可能性があったが、11月の時点では大内氏側から退去を求められている。ただ、益田氏と大内氏の対立が解決したわけではなかった。そして、解決後の明徳5年3月28日大内氏奉行人奉書(豊後守・道助、右田伊豆守宛)では永安太郎に弥富上下村を益田兼家方に引き渡すことが命ぜられている。最後に年未詳(応永2年~5年か)2月25日右田弘直書状(内藤肥後守・杉豊後入道宛)が、永安太郎による重訴訟を退けて、益田氏(越中入道道兼)による弥富上下村支配が確立した。
  その一方で、永徳4年3月16日の幕府奉行人奉書を最後に、益田氏に対する大内氏と幕府の安堵状はしばらく見えない。そして明徳4年末の大内氏による益田庄返付けとなり、幕府の文書は応永の乱で大内義弘が失脚した後に復活する。

益田氏と大内氏(3)

 康暦2年から3年にかけて、大内氏が益田氏を攻撃した際の史料が周布氏宛に残されているとの主張が予想されるが、年代比定には大きな問題がある。この前後の史料の関係人物として、石見国守護代右田氏がいる。至徳2年10月19日には市木郷を吉川駿河守に打ち渡しているが、それを除けば石見国関係資料に登場するのは明徳元年以降である。
 さらに年次が明確なものに、年未詳8月15日周布入道宛書状と同日周布弾正少弼書状がある。周布入道宛書状には益田退治と御子息(兼仲)出陣について触れている。兼仲宛書状には、平井道助とともに、兵部少輔(陶弘宣)と豊後守(杉重連)が登場する。
 杉重連は永徳4年2月9日杉豊後守打渡状が史料上の初見で大内氏家臣として、周防国仁保庄領家職の打渡しを行っている。そして明徳元年8月21日には大内義弘書下をうけて、豊後守と道助連署で君谷氏への出羽上下郷の打ち渡しが石見国守護代右田弘直に命じられている。陶兵部少輔弘宣については大内氏が支配した紀伊国関係文書に登場する。すなわち、明徳3年9月9日と明徳4年10月4日には豊後守と道助連署で寺家領の返し付けと催促の停止が陶弘宣に命ぜられているのである。

益田氏と大内氏(2)

 『花栄三代記』にみえる康暦2年5月28日の安芸国における義弘方と満弘方の合戦で、満弘方の石見国守護代内美作守父子や陶山佐渡守が死亡した事件について、内美作守=美作権守とされるが、美作権守は同年8月10日には周布郷内一分地頭が惣領の催促に従わないことに対して、所帯を没収することを奉書で周布氏惣領に伝え、8月22日には久利氏庶子赤波氏に知行の安堵を行っている。9月12日には大内義弘が周布郷への守護使不入と庶子が惣領の催促に従うことを伝えており、この時点でも美作権守は義弘の石見国守護代であるといえる。また、益田祥兼と大内義弘の関係も良好で、永徳2年12月8日には義弘が、三郎(満弘)方注進に基づき、将軍の安堵が出ることを家臣平井備前入道に伝えている。そして永徳3年2月15日の義満による益田祥兼領の安堵となったのである。同年3月15日には満弘が康暦2年5月14日義弘書下に任せて祥兼領の守護使不入を安堵している。この時点では石見国守護が満弘に代わっているが、義弘との対立はうかがわれない。『花栄三代記』の記事の検証は困難であるが、松岡氏、井上氏ともにこの記事に引きずられて文書を解釈されている。

益田氏と大内氏(1)

 14世紀後半の石見国の政治史と大内氏の関係については、松岡久人氏が論文「南北朝室町期石見国と大内氏」で明らかにされた通説に対して、井上寛司氏が『益田兼見とその時代』で一部修正する説を提示された。
 松岡氏はその後の『南北朝遺文』第5巻と第6巻の解説で、①康暦2年5月に始まり永徳元年6月から永徳2年閏正月ごろにかけてみられた義弘と満弘の対立と、②永徳3年3月及び至徳2年8月の時点から明徳4年12月27日の益田庄地頭職返し付けまでみられた義弘に対する満弘=益田氏の対抗状態を指摘された。これに対して井上氏は①の対立のみであると述べられたが、『南北朝遺文』に収録された文書をみても、①の時期の対立はうかがわれない。
 具体的に述べると、康暦2年4月2日の美作権守某挙状(陶山佐渡守宛)と同年5月14日大内義弘書下(益田越中入道宛)の関係である。井上氏はこの2通を対立する2つの側から出されたものとされるが、陶山佐渡守は同年2月27日の大内氏奉行人連署奉書で、森大和守(後の良智)と杉伯耆守(後の智高)とともにみえ、大内義弘の家臣であったことが確実である。美作権守某は義弘の石見国守護代として益田祥兼の訴えを取り次いだのである。その結果が5月14日の義弘による安堵であった。

2011年3月22日 (火)

益田家文書の無年号文書(3)

 1年前に行った無年号文書の比定を修正する。「⑥は、弥富名上下村に関する永安太郎の再度の訴えは、過去に敗訴となったもので不当であるとの益田祥兼の主張を、守護代右田が自分も賛成だとして大内氏奉行人に伝えている」、「⑥を承けて、永徳3年には将軍義満が弥富名を含む益田氏の所領を安堵している。永安周防入道祥永の後継者が⑥の永安太郎で」とした部分である。
 ⑥にみえる大内氏奉行人のうち、杉豊後入道(重連)が問題となる。明徳5年3月28日の⑦の時点でも「豊後守」であり、これ以後のものである。また、⑦で永安太郎に対して「異議があれば上洛して主張せよ」と命じたのを受けて訴え、次いで⑥「永安太郎の再度の訴えは、過去に敗訴となったもので不当であるとの益田祥兼の主張を、守護代右田が自分も賛成だとして大内氏奉行人に伝えている」となる。「⑥を承けて、永徳3年には将軍義満が弥富名を含む益田氏の所領を安堵している」としたのは明確な誤りであった。
 誤りの最大の原因は⑥にみえる「益田越中入道」を祥兼に比定したことであった。⑥が応永2年以後のものとなれば、越中入道は祥兼の子道兼(兼世)となる。先行研究に引きずられて、客観的な事実を見落としてしまったのである。永安左近将監の後継者が「永安太郎」となる。
 それを踏まえて、14世紀後半の益田氏と大内氏の対立に関する史料をみると、無年号史料の年次比定の見直しが必要である。主に周布家文書に残されているが、大内氏による益田庄攻撃に関する史料の大半(康暦2年に比定されている)は明徳4年に比定できるのではないか。詳細は後日述べたい。

2011年3月21日 (月)

永安氏文書について

 益田家と長府毛利家に残された永安氏への召文・問状が、訴えた側ではなく永安氏により残された可能性が高いことを述べた。その理由はどこにあるのだろうか。そのことを考える材料としては、益田兼見が永安氏から訴えれられた文書を残していたことがある。
 弥富名をめぐっては、益田氏と永安氏だけでなく、益田氏と永安氏の惣領にあたる三隅氏との間の問題があり、一旦は益田氏の支配が認められたが、それですべてが解決したわけではなかった。益田氏の本領とされた伊甘郷の場合も14世紀後半に益田氏の支配が幕府・守護により認められたが、16世紀には福屋氏の支配するところとなっている。その意味で益田氏にとっては永安氏・三隅氏対策として弥富名に関する史料を残しておく必要があった。
 さらには、永安氏が保持していた手継文書の問題もある。というのは、惣領三隅兼信からの永安別符と小弥富に関する譲状と幕府安堵状はいずれも石見吉川家文書として現在に伝わっているのである。ともに永安兼栄の子である永安兼員と、吉川経茂と結婚した良海の間で相論が起き、正中2年には和与が成立しているが、その訴状からみていく。
 訴えたのは良海の方であった。祖母良円が正中元年9月15日に死亡したのを受けて良円譲状に任せて所領を知行しようとしたが、兼員が濫妨狼藉により得分物を奪い取ったというのである。これに対して兼員は父兼栄譲状を捧げて自らが惣領であることを主張した。良海は確かに祖母から譲られ幕府の安堵を受けたが、その後兼員誕生により、良円が悔い返して兼員(惣領)と良海(庶子)に分割相続する譲状を作成した。ところが、この後の良円譲状には両者とも触れず、自己の立場を主張したのである。そして相論の結果、兼海(永安兼祐)跡を折中するという和与が成立した。
 この経過をみると、良円が悔い返した後も良海側は譲られた手継文書を惣領とされた兼員側には渡さなかったと思われる。そして小弥富を益田氏惣領との対立で失うと関係文書を益田氏側に渡さざるを得なかったのである。
 そのような兼員の立場からすると、三隅兼信譲状と幕府安堵状は写を所持するのみであり、荘園領主や兄弟に訴えられた史料の原本が自らの支配の歴史を証明する史料とならざるをえず(再度相論が起きることもある)、まれな例ではあるが、関係資料を残していったのである。

2011年3月20日 (日)

乙吉惣領家文書(3)

 益田氏庶子家(隼人兼定)の写には、中世前期のものとしては六波羅下知状と永和2年閏7月8日室町幕府御教書があるのみである。前者を「益田左衛門尉兼時代」とし、後者を「益田越中守兼見代」と注記し、自らの益田氏一族としての由緒を主張している。ただ、後者は益田家文書ではなく、隣接する長野庄内得屋郷を支配した得屋氏が伝えた文書である。得屋郷を益田氏が獲得する中で、益田氏庶子がこれを写した(あるいは原本を所持したことがあったであろうか)のである。
 そして得屋氏の文書もやはり益田家文書に含まれており、且つ、当該の室町幕府御教書の原本は下関歴史民俗資料館所蔵手鑑に含まれ、古証文にも引用されているのである。以上の点から、現在は伝わらない乙吉氏惣領が所持した文書の一つに永仁7年の六波羅下知状が含まれていた可能性は高いとみることができる。
 この場合でも益田氏が益田本郷地頭代であった可能性がないわけではないが、特に根拠がない場合、その可能性は大変低いとすべきであろう。益田氏惣領であった兼弘が伊甘郷内の御神本大明神を山道郷に遷したのも、益田氏が益田本郷中心部とのかかわりを失ったことを裏付けるものである。
 ということで、以下の6通は本来、いずれも乙吉氏惣領家が伝えた文書であったのである。
 (1)貞応2年9月26日益田庄預所下文(毛利)、
 (2)寛喜3年11月12日関東御教書(毛利)
 (3)(建長7年)3月5日北条時頼書状(益田)
 (4)正嘉2年3月18日関東御教書(毛利)
 (5)永仁7年4月24日六波羅下知状(写が譜録にあり)
 (6)(年未詳建武年間)7月26日定行書状(益田)*新出周布文書に建武年間頃の定行書状あり。

乙吉惣領家文書(2)

 ところが、今ひとつ作品として詰め切れない点があり、報告の成稿に踏み切れないでいた間に、井上寛司氏が労作『史料集・益田兼見とその時代』をまとめられた。そこで井上氏は私の報告を踏まえながらも、益田氏惣領が益田本郷地頭代となっていたとの説を示され、最新の西田友広氏の報告でも先行研究に従うとしてこれを継承されたのである。
 自分自身としてはまったく考えていなかった結論であるが、井上氏自身その論拠を全く示されていないので、とまどうしかなかった。というのは、六波羅下知状はそれにより利益を得る乙吉氏が残した文書であると考えていたのである。これに対し、井上氏と西田氏は益田氏が残した文書とされたのである。今回、小弥冨を支配した永安氏の文書を検討したのも、この問題について明らかにするためであった。
 益田家文書と長府毛利家文書に残る永安氏関係文書には、永安氏が訴えられた文書でありながら、永安氏が残した可能性が強く(その理由については別に述べる)、永安氏領が益田氏領となる中で益田氏が獲得した文書があった。永安氏から弥冨名をめぐって訴えられた益田兼見側が残した文書が存在することについても述べてきた。文書の内容のみでは、六波羅下知状が乙吉家文書か益田家文書を決めることはできない。とはいえ、何ら明確な根拠がない場合は、これを乙吉家文書と考えるのが一般的である。
 乙吉氏惣領家の文書が、益田家文書と長府毛利家文書に分かれて残っている点についてはすでに述べたとおりである。長府毛利家文書は、「手鑑」として毛利家が収集したものであり、本来の「手鑑」が後に毛利家から流失し、その一部が、下関市立博物館(近年民間から購入)、下関歴史民俗資料館に残されている。これ以外に 「古文書手鑑 」 (東京国立博物館蔵、重要 文化財 ) 、「 手鑑『 筆陣 』 ( 同館蔵 、 重要美術品 )、 「 仮御手鑑 」 (山口県立山口図書館蔵 )と保阪潤治氏蔵手鑑の存在が確認されている。また内閣文庫所蔵「古証文」には本手鑑を写したものが収録されている。

乙吉氏惣領家文書(1)

 益田庄内乙吉保を支配した領主の文書は、①原屋邦司氏所蔵文書、②益田家文書、さらには③長府毛利家文書として残されている。この文書の関係について述べてみたい。
 ①については、正応3年9月29日尊印譲状を初見とする乙吉保一分地頭(乙吉氏庶子)家の文書である。これを継承した女性が宇治村地頭家の兼里と結婚し、その間に生まれた子が両方の所領を譲られた点については、久留島氏の科研報告書に詳しい。宇治村については応永24年11月28日宇地道中譲状(益田氏惣領兼理が応永30年3月に裏書安堵)まで残っているが、乙吉保については、応安7年5月20日尼けん心譲状が最後である。乙吉保が永徳3年には益田氏惣領の支配するところとなったためであろう。
 これに対して②には2通、③には3通の文書が含まれるが、いずれも鎌倉中期までの乙吉氏惣領兼家の文書であり(貞応2年~正嘉2年)、①とは重なることはない。そして最後に問題となるのが、益田氏の庶子家に写として残った永仁7年4月24日六波羅下知状である。乙吉村地頭道祐が田地と狩蔵について益田本郷地頭を訴え、六波羅探題が益田本郷地頭代に弁明を命じている。
 20年以上前に「益田氏惣領制の再検討」との報告をした。すなわち福田栄次郎氏が、南北朝後期に惣領となる益田兼見の家は本来益田庄内山道を支配する庶子家であったと主張されたのに対して、兼見の祖父兼弘が山道を支配していたのは益田本郷中心部分を没収されたためであることを論証した。それに気づいたのは建武2年の後醍醐天皇綸旨が決め手ではあったが、それを裏付けるものとして、この下知状の宛名が「益田本郷地頭代」となっている点と、龍雲寺蔵三隅氏系図に、兼弘の父兼胤が女捕により所領を没収されたことが記されている点を指摘した。そこでは、益田本郷の中心部分は北条氏の支配するところとなり、その地頭代と乙吉氏との間で対立が生じたことを指摘した。

2011年3月19日 (土)

益田氏と永安氏の対立(2)

 貞治5年11月18日、益田兼見が忠節により本領の安堵を求めたことが、掃部助高弘により、当知行相違なしとして奉行所に披露されている。本領とは、益田本郷、東北両山道、弥富名、伊甘郷、宅野別符地頭職であった。これが益田本郷田数注文作成後の永和4年2月3日祥兼譲状では、長野庄内飯田郷と「益田庄本郷内土田村」が加わり、さらに永徳3年の義満安堵状では、土田村が乙吉土田両村となり、新たに岡見村が加わっている。以後、「乙吉土田両村」との表記が定着する。そして岡見村は祥兼置文では「納田郷内岡見村号三隅」と表記される。
 永安氏が支配した小弥冨は、土田村と岡見村に挟まれた地域であるが、この時点では岡見村に含めて益田氏領として認められている。これに対して至徳3年ごろには再び、永安氏との間で問題が生じている。永安祥永の後継者と思われる「永安太郎」が益田庄内弥富上下村について重訴状を提出したのである。これに対して益田氏側は弥富上下村を当知行しており、永安氏側の訴えは認められないとし、2月25日に大内氏の石見国守護代である右田弘直が、それを大内氏側近内藤・杉両氏に伝えている。
 ところが嘉慶2年には、益田氏と大内氏が対立し、大内氏側が益田城を攻撃する事態へと発展した。その中で任官後の永安太郎であると思われる「永安左近将監」が益田氏攻撃に参加し、遠田城を与えられる事態が生まれていた。結局は益田氏と大内氏の間で和解が成立し、益田氏による弥富上下村支配には変化がなかった。

益田氏と永安氏の対立(1)

 益田家文書中、利益を得る訴えた側ではなく、訴えられた側が残したことが明確なのは、応安4年5月21日大内氏奉行人連署奉書である。永安周防入道祥永(兼員)が、益田庄内弥富名下村半分地頭職について、益田越中入道兼見の押妨を訴えたものである。封書ウハ書により、応安4年6月19日に兼見のもとへ届いたことがわかる。具書として祥永の訴状が添付されていたが、それは残されていない。問状であるためか、訴状を受理した大内氏側が益田氏に示している。永安氏側にも連絡され、具書として同文書(兼見宛)が届けられたと思われる。
 これに対して兼見は益田左衛門太郎兼長後家阿忍の所領を継承したものであることを主張し、訴状の具書である系図案と手継状案が添付されておらず、永安氏側の主張の根拠がわからないとして、具書を得た上で反論することを、大内氏奉行人に伝えている。具書中には、現在残っていない、小弥冨名を永安兼栄に譲った仁治3年12月26日三隅西念譲状の写があったはずである。永安氏側が下村半分の権利を主張するからには、良海側と下地中分をした所領内ということになる。
  以後も文書の遣り取りがあり一応の決着をみたはずであるが、益田氏側の意図により問状と兼見の請文のみ残されたのである。その後紆余曲折を経て永徳3年2月15日に足利義満袖判安堵状が出され、弥富名を含む兼見領が安堵された。この下村を益田氏側は遠田村と呼んでおり、後に永安氏が大内氏から遠田村を与えるとの申し出を受けているが、結局は実現しなかった(後述)。

2011年3月18日 (金)

益田家文書の伝来(2)

 (ウ)正中3年4月16日六波羅御教書(内田左衛門三郎入道宛)は、永安彦次郎入道祐賀(兼栄)女子藤原氏が小弥冨名以下地頭職について訴えたのに対して、尼良海と舎弟弥次郎兼員に参洛べきことを伝えるよう、内田左衛門三郎入道に命じている。永安氏領については兼栄の子である良海と兼員の間で相論が起き、前年の正中2年に和与が成立している。これに対してやはり兼栄の子である女性が益田庄内の所領に対して異論を申し出たのである。本来、訴えた女子側に残るものであるが、これまた訴えられた永安兼員側が残したものであろう(同前)。
 (エ)興国元年11月20日僧覚乗裁許状は、益田庄内納田郷領家方の公田23町について、洪水による損田の発生をうけて3町9反半分の納税を免除するものである。本来は益田庄政所に残るべき文書である。小弥冨名も納田郷内であり、永安氏にも提示された可能性はある。
 (オ)年未詳4月12日法橋範政書状は、益田金吾家文書の一つとして近年紹介されたものである。某長盛から益田本郷津料と浮口について領家へ申し出があったのを受けて、狛僧正の後継者として益田本郷を知行する某(本来あった宛名が切り取られたか)に対して、調査の上返事をするよう伝えている。法橋範政は前領家(狛僧正)ないしは本家の関係者であろうか。某長盛については不明だが、現地の庄官か、津料・浮口を負担する立場の人物であろう。
 (ア)~(オ)と先に取り上げた(カ)永仁5年閏10月21日六波羅御教書は、いずれも益田庄領家方(ないしは現地の政所)に残された文書である。これが永安氏を経てか、直接かは不明であるが益田氏が得るところとなり、後に益田家に残されたものとそれ以外(オとカ)に分かれたのであろう。

益田家文書の伝来(1)

 福田栄次郎氏は、平安・鎌倉期の益田文書を以下の3つに分けられた。
①益田祥兼紛失状にかかる文書、②益田氏惣領家あるいは支族にかかる文書、③益田氏と直接かかわりあいのない文書。ここでは、②についてみていく。
  貞応2年5月25日関東下知状については、以前述べたように、一旦益田氏の手を離れた後に益田氏が飯多郷とともに、14世紀後半に入手したものであろう。すでに述べた阿忍の関係文書は伊甘郷とともに入手したものである。
  (ア)元亨4年4月10日六波羅御教書(弥次郎宛)は、益田庄雑掌頼秀が小弥冨地頭の年貢不弁を重ねて訴えたことを受け、先下知に任せて不日弁済することを命じている。宛所にみえる弥次郎は小弥冨地頭永安兼員である。文書は利益を受ける側に残るとの原則からすると、この文書は益田庄領家方に伝えられたものとなるが、永安氏関係文書が益田家文書に含まれることからすると、永仁5年閏10月21日六波羅御教書と同様、訴えられた永安氏側に残ったものである可能性が高い(これまた領家方の可能性を留保する)。
 (イ)元亨4年12月23日領家中納言上座御房御教書(小弥富沙汰人百姓・沙汰人中宛)は本家円満院令旨を伝え、年貢を先例に任せて沙汰するよう、小弥冨沙汰人百姓等中に命じている。益田庄領家方文書であり、地頭永安氏とは直接の関係はないが、地頭永安氏にも提示され、それを残したものであろう(同前)。

2011年3月17日 (木)

長府毛利家文書中の益田氏関係文書

 益田氏関係文書は、(ア)益田氏とその一族が伝えるだけでなく、(イ)長府毛利家文書中にも残されている。その中には本来(ア)一括して保存されていたものが分かれたというものがあり、具体的にみていく。
 永仁5年閏10月21日六波羅御教書は、永安保雑掌実秀が府中諸役の対捍と検断の抑留を訴えたのに対して某(宛名が切り取られている)に弁明を求めたものである。具書として三条三位中将家の文書が付されており、当時の石見国守が三条氏(実重の子か)であったことがわかる。宛名は永安保地頭永安氏であろう。一般的に、文書はそれで利益を得る立場の人物が残すとされる。それからすると、この文書は三条家に残ったものとなるが、この文書そのものは訴えられた永安氏が残し、それが益田氏の手を経て長府毛利家文書として残されたものであろう(このように書いたが、領家方に残されたとの可能性を留保する)。
 これに対して正和5年8月23日六波羅御教書は、伊甘郷地頭(阿忍)代善覚が所務以下について訴えたのを受けて、井村地頭に参決することを命じている。これを前の文書に合わせて井村地頭(三隅氏庶子)が残したものと解釈することもできるが、やはり、利益を得る立場の阿忍が残した文書で、一旦は他の阿忍文書同様益田氏の手に入った後に、選別されて長府毛利家文書となったものであろう。
 益田家文書中の阿忍文書としては、正和2年11月2日六波羅御教書がある。阿忍代善覚が福屋郷地頭を訴えている。福屋郷地頭が新金口を掘り出したため、下流部の伊甘郷の田地が流出したというのである。文書は福屋郷地頭に訴状に対して弁明することを求めている。福屋郷地頭の名を記さないため、これが福屋氏であったとは断定できない。一族間なら調整可能であり、地頭は福屋氏から東国御家人に代わっているとの推定も可能である。それはさておき、これこそ阿忍側が保持していた文書を益田氏惣領が得たものであろう。
 ということで、長府毛利家文書には訴えられた側が残した文書が含まれていることがわかったが、基本的にはやはり訴えた側が残す場合が多かったと思われる。

2011年3月16日 (水)

15インチクラスに最適な解像度は

 latitude e5500の2台目を入手した。1台目は新品同様でVISTAがインストール済みであったが、ライセンスシールもバックアップOSもなく、Windows7HPをインストールして使っていた。液晶がWXGAで、光学ドライブがDVDであったことも、不満であった。ウルトラスリムのスーパーマルチ(ベゼルなし)に組み替えることは可能であったが、やや収まりが悪い。2台目は15インチWXGA+で、マルチ、且つ、XPとVISTAのバックアップ付きであった。当然、VISTAのライセンスシールが付属する。
 1台目は2009年末に送料・代引き料などすべて込みでも3万円以下であり、当時としては安い買い物であった。CPUはセレロン575であったが、SP9400を所持していたのですぐに換装した。当然換装可能なことはネットで調査済みであった。
 これに対して2台目は1台目よりさらに安く、これも新品同様であった。購入理由の一番目はWXGA+(1440×900)の解像度であった。15インチクラスでWUXGAとWSXGA+、SXGA+の高解像度タイプも所持している。よい液晶ではあるが前2者はやや文字が小さく感じられる(慣れればなんともない)。初体験のWXGA+であるが、15インチクラスには丁度よい解像度であると思う。当方の所持するノートはいずれもFMVかDELLのビジネス用である。その理由はノングレア液晶でEnterキー右側にキーがないというものである。HPを使わないのはそのため。NECやレノボはなぜか無い。
 現在これを入力しているのは、トプレの89キー+三菱RDT211T(UXGAをピボットで縦表示)であるが、キータッチと液晶は大変よいものである。

2011年3月 8日 (火)

益田氏系図について(3)

 国兼が12世紀半ばの人物としたのは以前「石見国における中世的所領の成立」で述べたように、知行国主藤原忠通のもとで8年間石見国司となった藤原国保との関係である。次いで4年間国司となったのが源季兼であった。この両者との関係無しに、益田氏初代国兼の存在と、その後益田氏がその名に「兼」を付けることは理解できないのである。
 嘉禄3年(1227)に益田兼時は舎弟兼定に父兼季から継承した所領の一部(周布郷外3郷)を譲っているが、その際に源頼朝の下知状は貞応2年に焼失し、「六代相伝文書」は手継であるため分割して譲れないとしている。六代とは「国兼-兼実-兼栄-兼高-兼季-兼時」のことであろうが、すでに述べたように、六代が親子であるならば、国兼が12世紀半ばの人物で、兼時が13世紀前半の人物であることは不可能である。六代の中には親子関係だけでなく、兄弟関係も含まれていなければならないのである。「兼栄-兼高-兼季-兼時」が親子関係なのは確実であろうから、問題なのは「兼実-兼栄」の部分であろう。兼実は別名「季兼」であり、「国兼-季兼」が兼を下に付けるのに対して「兼栄」以降が兼を上に付けることからすると、兼栄は国兼の嫡子季兼の兄弟(庶子)でありながら、源平争乱での勲功により新たな惣領となった可能性が大きい。季兼(兼実)の通称が「案主大夫」(③による。②では安主大夫)で、一ノ谷合戦に平家方として参戦した石見国武士「案主大夫」と一致しているのも偶然ではなかろう。
 益田・周布・三隅・福屋氏領をみると、鎌倉初期の兼季と、その祖父ならびに父である兼栄-兼高が石見国内の相当数の所領を支配していたことは間違いない。ただそれは、久利氏にみられる当時の分割相続の進行とは矛盾があり、従来の惣領に代わって源氏方となった兼栄ー兼高父子が、平家方として没落した御神本一族領を恩賞として与えられたことが、兼栄-兼高による所領の独占という状況を生み出したと考える。
   さらに付け加えるならば、③で国兼の兄弟(兄)として記される国季(益田太郎)の存在も気になるところである。「国季-季兼」が本来の惣領で有り、これに代わったのが国季の弟国兼の子兼栄(-兼高父子)であるとの説も可能なのである。 

益田氏系図について(2)

 ①群書類従系と④系図算要系、⑤毛利文庫系に関する福田氏の解説は、④と⑤はともに藤原鎌足に始まる一流と結びつけるが、④が摂関家であるのに対して⑤は非摂関家である。これに対して①は国兼から始まる。④⑤で国兼が永久年中に益田に下向したとするのに対して、①は建久2年に石州守護として下向したとする。
 各系図で異同のある兼時から兼弘に至る部分については、①が兼胤と兼弘を兄弟とするのに対して、④では両者を親子とする。そして⑤では「両者の異同を整理して一つにまとめたという感じをうける」と福田氏は述べられるが、⑤が③の鈴木氏本に近く、①④に比べて実態に近いのに対して、①④では兼時の嫡子を本来の兼長(兼経、ただし兼経と名乗ったことがあるのは兼時の祖父にあたる兼高である)ではなく、弟の兼久にするための修正がほどこされている。すなわち、④では兼経(長)を兼久の子とし、①では兼弘の父兼胤を兼弘の兄弟としてその存在感を低めている。②に記されるように兼胤の代に益田氏は益田本郷を没収されているのである。それを踏まえて①~⑤に成立時期の順番をつけるとすると、②③⑤④①となる。
 さらに具体的に説明すると、益田氏系図本来の姿をとどめて兼弘の子兼世とその嫡子兼忠を記す①に対して、③では兼弘の嫡子兼世の存在を不明確にし、兼弘の後は「兼方-兼見」と総領が移動したかのように修正している。また益田氏の祖とされる国兼は12世紀中頃の人物と考えられるが、その子孫(親子関係)として「兼実(兼季)-兼栄-兼高-兼季」を記すため、兼実=「元暦・文治」(12世紀後半)、兼栄=「建仁」(13世紀初め)、兼高=「建長」(13世紀半ば)となってしまったが、明らかに古文書と矛盾するため、⑤では国兼を永久年間(12世紀初)の人物としている。そうするとなんとか兼栄-兼高父子は源平合戦時の人物であることが可能となるのである。一方、益田氏と鎌倉幕府との関係を強調するためであろうか、①では初代国兼を建仁2年に守護として石州下向としたのである。

益田氏系図について(1)

 この問題については、福田栄次郎氏の分析があり、主に益田兼見が登場する南北朝期までについて言及している。ここでは、よく知られている①「群書類従本御神本系図」と、近年注目されている②「龍雲寺本三隅氏系図」ならびに③「鈴木真年氏蔵石州益田家系図 柿本朝臣」について述べてみたい。
 ②③は益田氏について、これまで知られていた①と④「系図算要」、さらには⑤毛利家文庫の益田氏系図とは違う情報を提供してくれる。すなわち、②には三隅兼信の子で益田兼長の妻となった阿忍が記され、女子に関する情報も多い。また、兼長と阿忍の娘で14世紀初めの益田氏惣領兼弘の母である女性についても記している。これに対して、③は益田氏が柿本人麻呂の子孫であるとするのが最大の特色であるが、①との共通性を持ちつつも、②に近い内容を持っている。また、益田氏の初代ともされる国兼についてその兄弟について記しているのも特徴である。
 ②はその主題である三隅氏惣領家以外の一族についていつまで記しているかというと、益田氏、周布氏、福屋氏、そして三隅氏庶子の永安氏についていずれも14世紀末までである。ここからすると14世紀末までに成立いしていた益田氏一族の系図に、三隅氏惣領に関する情報を書き継いでいったものとの評価も可能である。益田氏や周布氏の系図と対照して記した記述もある。
 これに対して③は、周布氏、三隅氏、福屋氏については15世紀後半までの記述がある。益田氏惣領についても近世末までの記録が記されるが、16世紀前半の惣領尹兼の弟兼恬の子孫で江戸時代に駿河国に移住した人々については18世紀前半まで記されている。
 ここからすると15世紀末までに成立していた益田氏一族の系図に加筆修正を加えたものが18世紀中頃に成立し、さらにそれに書き継いだものとなる。①の益田氏以外に関する記述は③と共通する点が多い。①は益田氏惣領を17世紀半ばまで記す。
 個々の記述の検討が必要であるが、おおむね②には14世紀末の段階の記述が残り、③は15世紀末段階の状況が残されている。それがさらに整形し、女性の情報などをカットして成立したのが①ということになる。

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