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2011年2月

2011年2月27日 (日)

益田氏一族と世代交代(3)

 一方、周布兼政は長寿であったようで、相続から45年後の弘安10年(1287)9月に所領を嫡子時兼に譲っている。永仁3年(1295)12月には、福光郷地頭三郎太郎兼継と同郷雑掌の相論に際して、雑掌側が兼継の福光郷地頭としての正統性を問題としたのであろう。「摘孫」である「周布弥次郎」に対して、安貞2年と仁治3年の幕府安堵状正文の提出が命じられている。弥次郎とは時兼嫡子であり、元亨3年(1323)に周布郷を嫡子兼宗に譲っている西信(系図では兼定とされる)である。
 福光兼継については、益田氏系図では福屋兼廣の嫡子兼仲の子とされてきたが、益田氏系図では信憑性が高い「龍雲寺蔵三隅氏系図」や鈴木真年氏蔵本「石見益田家系図」では、福光兼継を周布氏の一族としても記している。前者が兼継を時兼の兄弟とするのに対して、後者は兼政の兄弟とする。前者を根拠に井上寛司氏が福光氏は周布氏の一族とされ、益田氏の系譜と所領に関する実証的作業を行った西田友広氏もそれを支持された。
 益田氏については、西田氏の行われた実証的作業が行われないまま、一定の結論が出されてきたので、その作業は、益田氏に限らず中世史を研究していく上で必要不可欠のものである。その上に立って説を立論すべきである。ただ、西田氏が「(時兼の子)弥次郎の叔父または従兄弟と考えられるが系図では叔父とされている」と述べられたように、建武3年段階で弥次郎の嫡子兼宗(蓮心)が後醍醐方として畿内での合戦に参加していたその時期に、「福光上村地頭御神本三郎太郎藤原兼継」は幕府方として九州から上洛する尊氏軍に合流し、京都での合戦に参加している。
 ここからすると、兼継は弥次郎と同世代かやや下の世代の人物である。また「三郎太郎」との名乗りも周布氏一族の人物とは異なっているのである。「福光上村地頭」の表記からは、兼継の親(父親と母親両方の可能性がある)が福光郷を譲られ、それがさらに分割相続されたことを伺わせる。網野善彦氏は古い系図には記されていた姻族(女系)の情報が、時代が下るにしたがって系図から消されていくことを明らかにされた。現在の「三隅氏系図」の記載は、系図からしだいに女性の情報が消された過程で残ったものであり(他の益田氏系図よりは情報が残っている)、その変化を踏まえて解釈すべきものと、30年前に初めて周布氏の文書を読んだ時から考えている(浜田高校歴史部歴像「周布氏について」、原慶三「石見国中世武士団に関する一考察」など)。

益田氏一族と世代交代(2)

 兼季が貞応3年(1224)に死亡したのに対して、その弟三隅兼信は寛元4年(1246)に死亡している。福屋兼廣については不明だが、兼季と弟兼信・兼廣の間には一世代分(20才)の年齢差があったのだろう。兼季嫡子兼時については左衛門尉に任官しているが、建長2年(1250)3月の閑院殿雑掌造営目録に「益田権介跡」とあるのが注目される。益田権介=益田兼高であろうが、兼季の嫡子兼時が健在であるならば、当然「益田太郎左衛門尉」と記されたはずであり、この直前に兼時が死亡し、その後継者兼長が年少であったため「~跡」という表現となったと思われる。兼長の弟兼久が周布兼定の養子とされかけた「松房」であろう。
 兼時の嫡子兼長は、三隅兼信の娘阿忍と結婚したが、文永10年(1273)以前に死亡し、その遺領は、兼長の弟兼久と阿忍らに配分された。阿忍は益田氏の本領とされる伊甘郷と弥富名を配分されたが、益田本郷と惣領の地位は兼久が継承したと思われる。この時点で伊甘郷の地位は益田本郷より低くなっていたのだろう。とはいえ、阿忍の娘と兼久の嫡子兼胤が結婚し、伊甘郷はその間に生まれた孫太郎兼弘が継承することになっていたのであろう。
 福屋氏については史料がないが、三隅氏については、初代兼信から、仁治年間に所領が嫡子兼村に譲られ、兼信は前述のように寛元4年に死亡した。そして、兼信の娘阿忍は元亨年間(1320年代)まで生存が確認できるが、兼村の嫡子信盛は延慶2年(1309)までには死亡し、その所領が子たちに配分されている。三隅兼信と兄益田兼季に一世代分の差があるため、信盛は周布時兼や益田兼胤と同世代となる。実際に叔母である阿忍の娘が益田兼胤と結婚している。

益田氏一族と世代交代(1)

 貞応2年(1223)に兼定が大宅庄内福光村地頭職を本知行にまかせて安堵される。次いで翌3年に父右衛門尉兼季領が、子息兼時などに伝領に任せて安堵されている。兼定が幕府から安堵されるのは安貞2年(1228)なので、この時点では兼季領は弟三隅兼信、福屋兼廣領と嫡子兼時領に分けられたのだろう。次いで、嘉禄3年(1227)10月には兼時領の一部が弟兼定に配分され、翌安貞2年に安堵されている。福光村のみ父兼季が事前に兼定に譲ったとの解釈も可能だが、後の兼季後家と嫡子兼時が兼定の死後に訴えた所領に福光村がみえないので、福光村は兼定が母(兄兼時を産んだ聖阿弥陀仏とは別の女性)から譲られた所領と考えるべきである。
 兼定には男子がなかったためが、延応元年7月30日に所領を舎弟兼政に譲り、9月24日以前に死亡している。その際に兼定跡をめぐって、兼季の後家と嫡子兼時から異論が出されている。後家と兼時は、兼定領が弟兼政領となることに反対し、兼時の子松房を兼定養子として相続させようとしたのである。別の兄弟である兼直(末元別符)と兼忠(丸毛別符)も兼時領を譲られているが、面積的には嫡子兼時と周布兼定とは比較にならないほど小規模である(とは言え、系図によると両者とも兵衛尉に任官している)。兼直と兼忠が嫡子兼時と同腹であったのに対して、兼政は任官した形跡はなく、兼定と同腹で年齢が下であったのかもしれない。兼季領は、2つに分けられ、嫡子兼時と庶子兼定がそれぞれの総領とでもよぶ立場にあったのではないか。兼定に譲られた所領は、叔父にあたる三隅兼信と福屋兼廣領より大きかった。いずれにせよ、兼定領は舎弟兼政が仁治3年(1242)4月に幕府から相続を認められた。

2011年2月19日 (土)

益田兼見領について(3)

 土田村に関しては注文の奥十二畠分に5ヶ所計9町がみえる。これ以外にも本来の乙吉名に属した土地はあったと思われ、基本的に乙吉・土田村は目録帳・注文に再編成されて含まれている。注文の4地域区分中、乙吉は志目庭と波田原にまたがり、土田は奥十二畠に属している。乙吉氏の関係文書も乙吉については観応の擾乱期までしか残っていない。
 目録帳・注文作成後の永和4年に兼見は譲状を作成した。益田庄については、本郷と弥冨村を嫡子兼世に譲り、庶子兼弘には東北山道と本郷内土田村を譲った。再編成の終わった本郷の内土田村を除くすべての部分(当然、乙吉も)を兼世に譲った。土田村が本郷内とされるのは再編後の新たな形であり、これを根拠に土田村がそれ以前から本郷に属していたと評価するのは適当ではない。
 ところが永徳3年に幕府の安堵を受けた際に、兼見は譲状を作成し直している。永和4年と比較すると、⑧岡見村が新たに加わっている。この岡見村について井上氏は従来の小弥冨で、永安氏領であったのを獲得したとされる。ところが、永徳3年の兼見置文では岡見村について「号三隅」と付記し、同年の譲状でも「納田郷内岡見村」とする点からすると、小弥冨は益田氏領岡見村の一部である。南北朝期の石見吉川氏の主張うけた惣領三隅氏挙状では「納田郷内弥冨・小弥冨」と弥冨そのものをも納田郷=三隅郷としているが、本来、弥冨と小弥冨ともに納田郷とは別(弥冨名)のものであった(「小弥冨について」を参照)。

益田兼見領について(2)

 永和2年に益田兼見は益田本郷御年貢田数目録帳と益田本郷田数注文を作成した。別の機会に述べたように、領家との新たな関係を確定するとともに、益田本郷の支配体制を確立するためであった。問題は、この目録帳・注文に記される所領と兼見領の関係である。
 目録帳・注文には②東北山道郷は含まれていない。益田本郷の中心部分を没収された鎌倉後期に於いて益田氏惣領が支配していたのが②であり、これについては支配体制は確立していたためであろう。③弥冨名については本来の範囲が不明確であるが、この当時は下分=遠田村に相当する。これも目録帳・注文にはみえず、これが③は①に先立ち獲得していたと推定する理由である。そうでなければ、益田本郷内に編入し、目録帳・注文に記していたであろう。
 永和4年段階ではこれに加えて④乙吉・土田村と⑦飯田郷を獲得していたことがわかる。④は鎌倉時代から観応の擾乱期にかけては、非益田氏系御神本氏である乙吉氏が支配していた。問題はこれが目録帳・注文に編入されているかどうかである。その後の安堵状にも「乙吉・土田村」とみえることからすると編入されていないとの推定が可能だが、実際の地名を比定すると、ともに編入され、新体制に組み込まれたと結論付けることができる。
 貞応2年の大田文では益田庄内乙吉は9町とみえる。これに対して目録帳・注文で乙吉と記される所領は注文の志目庭分2ヶ所のみで、面積も2町を越える程度である。ただその内の一つには「こはし(小橋)」との地名が記され、同地名を乙吉に関係するものとすると、注文の波田原分にも5ヶ所計2町がみえる。これを加えても4町にすぎないが、乙吉とは弥冨と同様散在する土地の集合体である。また鎌倉期の乙吉氏領は乙吉村と土田村であり、この点からすると、乙吉名(保)=乙吉村・土田村であると考えられる。
 井上氏は『島根県の地名』の「土田村」の項で、土田村は弥冨名に属したが、鎌倉初期に弥冨名の一部が三隅氏に分割される際に、乙吉氏に譲られたとされた。ただ、乙吉氏は益田氏との間に惣領庶子関係が確認できず、非益田氏系御神本氏と考える本稿では、そうした理解はとらない。

益田兼見領について(1)

 永徳3年、益田祥兼(兼見)は初めて幕府から所領を安堵された。その所領は以下の通りであるが、同時に所領を3人の息子に譲っている。そこでは割分一所譲渡在所は田文目録に任せて違乱なきよう命じている。これは益田本郷が3分割されたが、それは永和2年の益田本郷御年貢并田数目録帳に基づくということである。そこで、兼見領と目録帳の関係について確認したい。この点については、井上寛司氏が『史料集益田兼見とその時代』と『島根県の地名』の中でで分析されているが、若干検討すべき点が残されている。
 兼見領に関する初見史料は貞治5年11月掃部助高弘挙状で、本領として以下の所領がみえる。
  ①益田本郷、②東北山道、③弥冨名、⑤伊甘郷(付小別名)、⑥宅野別符
系図で兼見の父とされる兼方は益田氏惣領兼弘の子である。兼弘の後継者兼世の兄弟(庶子)である。鎌倉時代末期において兼方は②東北山道郷一分地頭であったと思われ、観応の擾乱以前の兼見も同様と考えられる。暦応3年から康永3年までの兼見軍忠状にはその内の一通に若党1人が確認できるのみであるが、貞治5年の軍忠状には3人の従者が確認でき、前者では證判は軍忠状の奥に押されているのに対して、後者では日下に押されている。
 観応の擾乱時の惣領は兼世の嫡子弥次郎兼忠であり、観応3年には兼忠の弟助次郎兼利がみえる。反幕府方が二度にわたり京都を占領し、短期間で幕府により奪還されているが、その際に石見国人も上洛と退却を繰り返し、その後は石見国内で幕府方の反撃を受けている。この過程で兼世系に代わって兼見が益田氏惣領となったと考えられる。その結果①益田本郷、②東北山道郷惣領分、⑤宅野別符を獲得したこととなる。これに対して、③弥冨名(正確には下分)と④伊甘郷は益田兼長後家阿忍がその子孫に譲った所領であった。阿忍は兼弘(道忍)への所領を悔い返した後に、正和5年に伊甘郷を鳥居女房に譲り、弥冨名下分を3人の子孫に譲っている。具体的経過は不明であるが、①②⑤に先立ち③④も獲得していた可能性が高い(理由は後述)。この点について系図一本は先ず伊甘郷地頭となり、次いで益田氏惣領となったと記す。

小弥冨について(2)

 以上のように弥冨名が散在する耕地の集合体であったのに対して、小弥冨は一定のまとまりをもった所領であったと考えられる。中分注文には「納田郷内小弥冨」とあり、小弥冨も弥冨名ではなく納田郷内と考えることができるが、貞和7年6月の三隅信性請文では「納田郷内弥冨、小弥冨、庄窪等」とある。弥冨名そのものも納田郷内とする三隅氏側の意識を示したものであろう。一般的には「益田庄内小弥冨・須津・美磨博・庄久保」とあり、弥冨=須津・美磨博との意味である。すなわち、須津・美磨博は小弥冨と同様弥冨名に属していたことを示すと考える。これに対して、庄久保(窪)は三隅川中流域の河内にあり、弥冨名ではなく、納田郷内であったことがわかる。
 須津の地名は現在も岡見川西岸の海岸沿に残っている。小弥冨の範囲を考える材料は嘉暦元年12月に永安兼員が作成した永安氏領の中分注文であり、そこでは「納田郷内小弥冨分」、「中山寸津地分」、「岡見中山分在家」、「今山分」「浦一所海上」、「大嶋」、「河内百姓名分」、「岡見百姓名分」、「河内畠分(ここに庄久保あり)」、「美磨博分」、「大田」、「與木」「河窪ノ田畠分」、「名者河成」とあり、「河内」「河窪」など三隅郷内に比定されるものもあるが、おおむね益田本郷の東端となった土田と岡見川に挟まれた地域となる。
 さらに細かくみると、中分注文の小弥冨の中に青浦があることから、西から小弥冨、寸津、中山、岡見の順に並んでいたことになる。岡見については本来、岡見川の両岸を意味したが、永安氏が譲られたのは西岸の下流域で、東岸と西岸の上流域は三隅氏惣領が支配していた。永安氏側は弥冨名下分にあたる遠田村の支配をも主張したが、かえって弥冨名に対する益田氏の支配が確認され、結果としては弥冨名上分=土田と岡見川に挟まれた地域も益田氏に安堵される結果となり、益田氏がその部分を岡見村と呼んだのだろう。そしてそれが本来弥冨名の内三隅氏に分割された部分であったため「号三隅」と注記を加えた。その意味で近世の岡見村は岡見川の両岸地域を意味したが益田氏領岡見村は川の西岸のみであり、中心部分である川の東岸部分の岡見は三隅氏が支配したのである。
 以上の点からすると、小弥冨とは、土田川の東岸の地域から青浦にかけての地域をさすものである。そして青浦の東に寸津、中山、岡見があり岡見川に至った。美磨博については比定地不明だが、河内(庄久保)は三隅川中流域の地である。

小弥冨について(1)

 益田庄内には構成単位として益田本郷、納田郷、井村,、乙吉と並んで弥冨(名)があった。前3者が一定の地域的まとまりをもったのに対して、弥冨名は散在する耕地の集合体であり、後にその一部が益田本郷や納田(三隅)郷内であると主張された。ここでは弥冨名と関係すると思われる小弥冨について、その位置を確定したい。
 小弥冨がはじめて登場したのは、仁治3年12月26日の三隅西念(兼信)譲状であり、庶子乙法師丸に譲られている。ただ、後に益田氏領となったためか、その文書は幕府の安堵状に文書名が記されるのみで、残されていない。すなわち、西念から乙法師丸への譲状は3通出されたが、2通しか残っていない。すなわち、西念は嫡子太郎兼村に所領4ヶ所を譲り、仁治2年には幕府の安堵を受けたが、その後、乙法師丸(兼祐)が誕生したことにより、悔い返して3通の譲状を作成した。一通は永安別符に関するもので、これと同時に小弥冨に関する譲状が出されたが、前述のように残ってはいない。次いで、寛元2年11月に再度譲状が作成され、須津浦と浦内の田地、さらには美磨博の田地と庄久保の畠地が乙法師丸に譲られた。
 その後、弘安5年に兼祐は嫡子兼栄が九州での異国警固に従わなかったとしてこれを義絶し、所領は妻良円一期の後、兼栄の娘孫夜叉(良海)に譲ることを置文に記し、その扱いを良円に委ねて死亡した。良円は遺言を実行して所領を良海に譲り、徳治3年には幕府の安堵を受けた。ところが、兼祐の死後、兼栄に嫡子兼員が誕生したとして悔い返し、永安別符内永安本郷と益田庄内小弥冨を兼員に譲り、良海には永安別符内門田と益田庄内須津・美磨博・庄久保を譲った。
 元亨4年4月には益田庄内小弥冨地頭が年貢を納めないとの領家の訴えを受けて、弥次郎兼員に対して年貢を納めよとの六波羅下知状が出されている。そして12月には領家円満院が小弥冨沙汰人中に対して沙汰を命じている。良円譲状が実行されていることがわかる。ところが、良円が正中元年に死亡すると、兼員と姉良海の間で所領をめぐる紛争が発生し、良海が訴えている。その結果、正中2年8月には和与が成立し、すべての所領を中分することとなった。そして嘉暦元年12月に兼員側が中分注文を作成し、良海側がその一方を選び取る形で中分が行われた。

2011年2月12日 (土)

益田庄宇地村地頭について(4)

 宇地村を弥冨名内としたが、応永24年宇地道中譲状に「北山道」とあるように、益田庄内山道に属し、後に東北山道に分かれた中で、北山道に属したものと訂正する。所領の再編成の結果、弥冨名から北山道に所属が変更されたと考えていたが、そうではないと考え直したからである。その根拠として、宇地村が益田本郷田数注文に登場しないことが挙げられる。この注文には東北山道に属する地域は登場しない。一方、①乙吉・土田など旧乙吉氏領と②大谷浦、平原、大浜など旧弥冨名内の地域は登場している。②は弥冨下村=遠田に対して、弥冨上村や小弥冨と呼ばれた。
 宇地村が山道内の所領とすると、「せんとうの孫太郎入道」と呼ばれた兼弘(道忍)が、祖母阿忍からではなく、父兼胤から譲られた所領となる。兼胤は女捕の罪により益田本郷の中心部を没収されたと考えられる。そして残る益田本郷山道を子である兼弘に譲ったのである。是阿は、兼弘(道忍)の兄弟か、あるいは宇治氏系図が記すように、兼弘の晩年の妻のいずれかであろう。いずれにせよ、宇地村が山道に属している場合は、祖母阿忍からではなく、父から兼弘が得た所領ということになる。
 兼弘の兄弟のうち、兼利が「大草」を称し。兼国が「波田」を苗字としている。兼利が後に北山道と呼ばれる地域の中心である大草を譲られ、兼国は山道最南端の波田を譲られたのであろう。

2011年2月11日 (金)

益田庄宇地村地頭について(3)

 正応2年に阿忍が是阿に宇地村を譲った場合は、道忍去状は不要であり、是阿が阿忍から宇地村を譲られたとは言えないのではないか。宇地村が本来弥冨名に属した可能性は高く、弥冨名は益田氏と三隅氏に分割された後も、さらに細分して譲られ、その中で正応2年に道忍ないしは是阿が譲られた所領ではないか。是阿と道忍の関係について、廣田八穂氏は宇治氏系図に基づき両者が夫婦であったとされるが、系図では道忍と兼弘が兄弟となっており、確認できない。いずれにせよ、是阿は道忍の後継者で益田氏惣領であった兼世に紛失状を出してもらう必要があったのである。
 原屋家文書には宇地村地頭とともに乙吉庶子関係文書が含まれ、久留島氏は両者の間で婚姻関係が結ばれたことを述べられた。これについてはそのとおりである。益田家文書には建長7年3月15日付の北条時頼書状案が含まれ、乙吉小太郎兼家(惣領)に対する乙吉・土田村の安堵下文に関する申沙汰が、武藤次郎左衛門尉に命じられている。乙吉氏は乙吉保を支配していたが、それだけでなくこれまた本来弥冨名に属したと思われる土田村も支配していたのである。
 久留島氏は文書の伝来から原屋家文書と益田家文書の関係の深さを示しているとされたが、それは端的に言って宇地村、乙吉・土田村が益田氏惣領の支配するところとなったためである。本来の両者の関係ではなく結果に基づくものである。その際に、益田氏は関係文書の内重要なものの提出を求め、それが更に益田家文書と長府毛利家文書として分かれて伝来した。それ以外は原屋家文書として伝わったのである。益田家文書冒頭の兼世紛失状は、兼見流の正統性を主張するために配置された。

益田庄宇地村地頭について(2)

 久留島氏は宇治村が、阿忍→道忍→是阿と移動したと考えられている。その前提としては、宇治村が本来益田庄内弥冨名に属した所領であったことになる。伊甘郷と同様、悔い返しが行われ、改めて是阿に譲られたということになる。
 是阿は建武5年2月17日に宇地村を孫兼里に譲っているが、その際に、具書を添えて上級権力に安堵を求めた。その目録を年代順に並べると以下のとおり。
 ①正応2年正月13日 ゆずり状  ②元亨2年2月27日 沙弥道忍去状
 ③同2年閏5月13日 六波羅下知 ④元徳2年5月13日 因幡法橋請取
 ⑤元弘□年7月26日 官符    ⑥同(元弘3)9月12日 国宣
 ⑦建武2年7月6日 長弘紛失状  ⑧同7月17日 兼世紛失状
 ⑨建武5年2月17日 是阿譲状
正応2年に道忍に対して譲られ、それが元亨2年に是阿に去渡され、同年に六波羅探題が安堵をしている。それが訴訟問題が発生したのか(相続なら目録に譲状があるはず)、関係文書を因幡法橋に託したのであるが、動乱で失われてしまい、建武2年に大内氏と益田氏惣領兼世に対して紛失状を求め、同5年に孫に譲ったのである。
 以上の経過に対して、阿忍領弥冨名をめぐる永安氏との対立に際して、益田兼見は、阿忍が正和5年2月21日に弥冨名を3人の孫子に譲った際の「件一列一紙」譲状を所持することで自らの正統性を主張しており、是阿の具書との間に相違点がみられるのである。 阿忍は正和2年10月15日に道忍への譲りを悔い返して、つるやさに伊甘郷を譲っている。次いで正和5年2月21日には弥冨名を孫子に譲ったのである。この2月21日には阿忍置文も作成されており、兼見の主張は根拠を持つものであった。

益田庄宇地村地頭について(1)

 益田家文書冒頭の文書は建武2年7月17日益田兼世文書紛失證状である。益田氏庶子である庄内宇地村是阿が相伝文書を大内長弘関東代官因幡法橋定盛に預け置いていたところ、元弘3年5月23日の動乱で定盛が鎌倉で死亡し、手継文書が失われた。そこで是阿は益田氏惣領兼世に紛失状證状の発行を求めたのである。
 益田氏惣領兼世は兼弘(法名道忍)の嫡子であった。現在、宇治村地頭の文書は、益田庄乙吉関係文書とともに、原屋家文書として残されているが、宇治村と乙吉関係文書の一部は、益田家文書、長府毛利家文書として伝わっている。この点に関して久留島氏は以下のように述べられた。
 原屋家文書にあるべき文書の一部が益田家文書に入っているということは、両者の関係 の深さを示している。道忍避状が宇地村地頭職についても出されていることから、尼是 阿も兼長後家尼阿忍から宇地村地頭職を譲られたのだと推測でき、兼見と同じ一族のも のと考えられる。
慎重な表現であるが、ここで問題となるのは、是阿と阿忍の関係である。
 阿忍は三隅兼信の娘で、益田氏惣領兼長と結婚したが、夫が文永10年に死亡したため、所領の配分を受けた。伊甘郷と益田庄内弥冨名である。伊甘郷は益田氏の本領とされたこともあり、阿忍は福田栄次郎氏により益田氏惣領であると考えられたこともあったが、益田本郷と益田氏惣領の地位は、兼長の娘と結婚していた甥(兼長弟兼久の子)兼胤に譲られたと思われる。両者の間に生まれたのが兼弘(道忍)であった。兼弘(道忍)は「せんとうの孫太郎入道」と呼ばれ、一度は阿忍から伊甘郷を譲られた。その背景として、兼胤の時代に益田氏惣領は益田本郷の中心部分を没収され、奥部の仙道と呼ばれる部分に逼塞しなければならなかった。そうした中で、伊甘郷が兼弘に譲られたのであるが、兼弘が関係文書を抑留したことにより、阿忍は悔い返し、伊甘郷は阿忍の別の孫で鳥居女房と呼ばれていた女性(つゆやさ)に譲られた。
 相手が益田氏惣領といえども阿忍の権利が優先するということだが、兼弘の益田氏惣領としての立場には変化がなく、後に兼弘の孫兼見が益田氏惣領の地位とともに伊甘郷を獲得している。

2011年2月 8日 (火)

吉川家文書の年代比定(2)

 6月17日付け書状は詮久のみが出しているが(武田氏との所領問題が未解決)、湯原・河副両人が副状を出しており、2月5日付け書状(ここでも武田氏問題は未解決)より前のものである。2月5日付け書状には、内田氏から吉川氏庶子七郎兵衛尉宛のものもあり、そこでは尚々書で、湯次(湯原次郎左衛門尉幸清)へも礼が送られたことに対して謝辞を述べており、吉川氏側が東部戦線の湯原へも連絡していたことがわかる。
 以上の点を踏まえると、「尼子氏の石見国進出をめぐって」で述べた年代比定の微調整が必要となってくる。すなわち、2月12日の経久書状が3月21日の山内氏安堵状に先行するものであることは問題なく、これは天文5年に比定できる。3月8日の書状は湯原との関係と詮久・興経がともに任官していることから天文6年のものである。5月25日付内田氏書状で小石見表の取相に言及しており、これも天文6年のもの。次いで6月17日付書状となる。同日の河副書状で小石見表が近日は無事ということを述べており、前稿では翌天文7年のものと判断したが、これも湯原・河副両人の副状があるので、天文6年とすべきであった。そして2月5日付書状では湯原は明確に西部方面から東部方面へ移っており、これは天文7年のものとなる。これが経久と詮久が同日に同内容で出した最後の文書となることも、それを裏付ける。この時点で「伊豆守」となっていた人物を「吉川式部丞」としていたため、天文6年のものとしたが、単なる誤記であったことになる。
  また、2月5日書状では、それまで尼子氏側から太刀・馬が送られていたのに対して、吉川氏側からも送られるとともに、申し入れがなされたことがわかる。久盛書状の末尾に「近江守殿先御知行之儀」について記されており、近江守側から尼子氏への働きかけがなされ、それを受けた吉川氏側は三須氏を使者として送るとともに、太刀・馬をも送った。その結果、尼子氏側は近江守側からの訴えを認めないことにしたことを伝えている。
 以上、前稿から、6月17日付書状と2月5日付書状の年代比定を変更したことになる。それにしても広島の研究者の方々の年代比定はどうなっているのかと思う。以前も今も一事を以て年代を決定しているが、それ以外に検討すべき点は多々あるのである。

吉川家文書の年代比定(1)

 吉川家文書中の尼子氏関係文書について、以前、安芸国の事情のみを根拠として、永正・大永年間説が生まれた。それに対して、拙稿では、出雲国、石見国の状況を含めて天文年間説を述べた。
 併せて尼子氏による文書発給に関しても述べた。すなわち、尼子経久と嫡子政久が同日・同内容の文書を送るようになったが、その事例は1例しかなく、政久が政治の表舞台に出て間もなくその死が訪れたと結論付けた。 
  また、尼子経久と詮久が同日・同内容の文書を出しており、且つ年次が明記されているのは、天文5年3月21日の山内氏遺跡安堵に関するもの1例である。これに年未詳の2月5日と3月8日の両者の書状の2例を加えることができるのみである。吉川氏からの働きかけを受けて、太刀・馬の礼を述べるとともに、先知行の安堵を伝えた2月5日付書状に対して、3月8日付書状は安堵状である。両者の関係から書下ではなく、書状形式の安堵状となっている。
 これに対して2月12日の書状は経久のみが出している。吉川氏側の希望が出されたが忠節により本主に認めたばかりなので、替地で対応すると述べた上で、吉川氏が明確に尼子氏側となれば、これ以外の所領についても安堵するとしている。経久単独であるがゆえに、山内氏安堵状より前のものとなる。
 2月5日の書状については、尼子氏家臣の河副氏と内田氏が副状を送っている。これに対して3月8日の書状は、湯原・河副が副状を出している。「出雲尼子史料集」はともにこれを天文8年に比定するが、状況は明らかに異なっている。湯原は、吉川氏に関わった後、東部の播磨遠征に加わっており(天文6年12月以降確認できる)、3月8日の書状の方が2月5日書状よりも古いのである。

2011年2月 6日 (日)

通説と新説(2)

 いずれにせよ、研究は根拠を示して述べられるから、後はそれを読んだ研究者がきちんと対応すべき問題となる。ところが、新説に対しては、批判を受けた形の通説の提起者から激しい反批判があるか、何の批判・検討もなく受け入れられるのどちらかが多い。これまた思考停止であることは前に述べたとおり。新説を提起した研究者も当然、自己の説を常に検証する責任があるが、前に述べたように、永原慶二氏を除けば、ほとんどなされていないのが現状である。
  長谷川氏の著書には、尼子氏とその家臣の所領についても可能な限り史料を収集したが、出版事情もあってその分析の成果は割愛したことが述べられている。この点については、史料集の刊行により、補いがなされている。30年余り前、義江氏から、分厚い論文集を韓国で印刷することでコストを下げたことを聞いたことがあった。
 ただ、長谷川氏の論は尼子氏、さらには戦国大名研究史の中で登場したものであるがためであろうか、当然尼子氏を総合的に論ずるために必要不可欠な部品を欠いているのも確かである。それが、今回掲載した「尼子氏発給文書」の分析である。また、文書の年代比定の中で、発給者の花押の変化に注目されなかったところも関係があろう。網野氏の場合同様、どんな理論も実証的裏付けがない(史料の欠如から実証が不可能であったり、正誤不明な場合もあり、それはよしとするが、明確に誤っていることがわかる場合である)と砂上の楼閣となってしまう可能性があることを肝に念じていかなければならない。

通説と新説(1)

 本郷和人氏『武力による政治の誕生』の最後の部分には中世史研究の危うさについて、網野善彦氏と、いわゆる社会史の導入に積極的な「四人組」を例に述べられている。一般的には日本史研究の東西については、東が膨大な史料に基づく緻密な論証を特色とし、西は論証よりも理論を得意とする研究者が多い。そうした中で、網野氏や石井氏のことと思われるが、論証が十分でないことがあったり、複数の説があれば確率の高い方ではなく、面白い方を採用するようにとの指導があったことが記されている。
 研究論文は、当然それまでの通史とは明確に違う点がなければ「研究」たりえないことはすでに述べたとおりで、石井氏は本当の「研究」が少ないと常日頃述べられていた。提起された説が結果的に誤っていることは許容範囲であろう。何よりそれは、他の研究者が確認していくべきものである。考古学のねつ造事件は本人の責任が一番であるが、それだけではなく、追認してしまった考古学会のレベルを露呈してしまったのである。このように総括しない限り進歩はない。
 網野氏の研究については、卒論で弓削島庄を論じたのでかなり読んだが、膨大な史料の読み込みに基づく手堅い論証が基本であることは間違いない。ただ、自分の仮説に適合する史料があれば飛びついてしまうという点があるのもたしかである。関係するところでは、鎌倉後期には日御崎神社領が北条氏得宗領となっているとの指摘があった。これは『新修島根県史』の誤りに基づくものであった。
 自分自身についても、『鎌倉遺文』に基づき、石見国長野庄が関東御領であることを述べたことがあった。14世紀初めには北条氏と将軍の発給文書がセットで掲載されていた。ところが、井上氏がまとめられた古文書メモをみても、該当するものがないのである。また、史料編纂所の花押データベースにも該当する古文書は登場しない。鎌倉中期の長野庄領家の花押が、将軍頼経のそれとよく似ているのは確かであったが、断定まではできなかったので疑問が生じたのである。そこで、久留島さんお願いして確認してもらったところ、そのセットの文書は同一(原本と写)のもので、それも幕府関係ではなく長野庄領家の発給文書との返答だった。

2011年2月 3日 (木)

尼子氏発給文書(4)

  寺社・国人宛以外では詮久の時期に丹下氏に対し備後国鋳(物)師惣大工職を安堵した文書が注目される。詮久の袖判に立原幸綱と石川久頼が連署し、年号は無いが「如件」との書き止め文言を持つ文書である(『尼子』三九三)。次いで大内氏の富田城攻撃に際し、天文一一年一〇月には山佐村地下人の忠節を賞しているが(『尼子』五七六)、それを地下人宛ではなく、晴久から尼子氏家臣森脇氏宛に書状形式ながら付年号という⑥の形で出している。そして翌一二年二月には、松阿弥氏に忠節を賞するとともに松阿弥職を安堵する文書を、晴久袖判に中井・松尾両氏が連署し、付年号に「謹言」で書き止める⑤の形で出している。同六月には横田荘大催氏に対しても同形式の文書を出している(松阿弥文書)。これらは、従来は戦国大名から必ずしも発給対象とならなかった人々であるが組織化する必要は大きく、その形式を工夫したものであろう。そして義久の代には阿弥の人々とともに軍事的職人集団でありながら、社会的位置づけが異なった鉢屋の人々に対しても文書を発給するようになり、山佐地下人と同様、当主から尼子家臣宛にその勲功を賞したり、恩賞内容を記した⑥形式の文書を与えた。また、その文書を受けて尼子重臣の袖判と尼子家臣の連署で鉢屋本人を宛所とする文書も発給するようになった(『尼子』一二一一)。
 以上は形式と内容をみたが、当主の花押についても変化がみられる。経久については時期による形状差は明確ではないが、晴久と義久には時期で形状差がみられる。
 晴久は当初詮久と名乗り、天文五年末までに民部少輔に任官し、吉田攻め失敗直後の天文一〇年一〇月には将軍義晴から一字与えられ晴久と改名している。花押の変化は、天文一一年からみられる。従来は祖父経久と識別できるようにしていたが(Ⅰ)、経久の死を受けてほぼ経久と同じ花押を使用するようになる(Ⅱ)。次いで天文二一年の守護補任前後から花押は上辺の丸みが直線的且つ平坦となり、全体的には大型化し縦長で足長のものとなる(Ⅲ)。その傾向は晩年ほど強い。
 義久の花押は当初晴久と識別できるよう縦の線を一本加えた形のものであった(①)。それが永禄五年二月にはその線を取り除き、且つ大胆に曲線化したものが二点残っている(②)。ただ、その後再び本の(①)に戻り、永禄六年三月に(②)を直線的デザインに変更したものが登場し(③)、五月には(③)の角を丸めたものがみえる(④)。(③)は六月を最後に姿を消し、その後は富田開城まで(④)が使われていく。

尼子氏発給文書(3)

 ④の特殊形である当主袖判・家臣単独署名の寄進状は経久の時代から寺社宛にみられた。経久の時代に文書を奉じていた亀井秀綱名の文書は天文年間に入ると見られなくなる。天文二年(一五三三)に日御崎社に伯耆国犬田を寄進した際には、中井対馬守秀直と亀井安綱の名前がみえる。天文四年には湯原為重が尼子氏直轄領林木荘西森垣名三分一を日御崎社灯明料として売却しているが、これも尼子氏の意向を受けたもので、実質的には尼子氏からの寄進であろう。湯原氏は島根郡満願寺城を拠点とした富田衆であるが、以後も林木荘と関わりを持っていく。
 ④は寺社宛に次いで、地下人・軍事的職人集団宛にみられるようになるが、国人宛では天文二一年の守護補任後、美作国三浦氏宛で初めて確認できる。出雲国の国人宛では、弘治元年(一五五六)に波根氏が高平(石見国東部か)在番を命ぜられた際に、所領内で買得などにより欠落した土地を新扶持として認められているが、その文書は本田家吉と津森幸俊連署の直状に、晴久の袖判を据えたものであった。波根氏は塩冶氏の一族であるが、尼子氏発給文書の連署者にもみられるように、当時は富田衆に組み込まれていたと考えられる。その後も波根氏を含む富田衆宛には、当主袖判・家臣連署直状がみられるが、出雲州衆宛にはみられない。出雲州衆の一族を富田衆に組み込む例はみられたが、出雲州衆の支配には課題がみられた。
 尼子氏の支配を考えた場合、塩冶興久の乱、毛利氏攻めの失敗といった危機的状況の克服時、新宮党の討滅による出雲国西部の直接的支配の実現時などが画期とされるが、それは発給文書の面ではどうであろうか。晴久の晩年に直状が増加するのは確かである。天文二一年の守護補任、天文二三年一一月の新宮党討滅、天文二四年初めの修理大夫任官などが形式上と実質上の画期であろうが、大まかに言えば弘治~永禄年間になると直状が増えている。そしてその傾向は義久の代にも受け継がれているが、この時期は美作国関係では逆に直状が少なくなっている。

尼子氏発給文書(2)

 その後、戦国大名として成長する中(詮久・晴久)で、寺社・国人だけでなく、地下人・軍事的職人集団などへも命令を出す必要が出てきた。そのため、発給文書の形式も多様化した。具体的には③当主による直状、④複数の家臣による連署書状、⑤当主の袖判を一人ないし複数の家臣が奉ずる文書(書状形式と下知状形式)、⑥直接の相手ではなく、尼子家臣宛に出される文書などが登場してきた。
  「詮久」時代には美作国の寺社関係宛で、直状形式の文書がみられた。また、天文八年(一五三九)には詮久が出雲国島根郡末次郷の中原氏に対して親類・下人が他出した場合にはその抱分を闕所とすることを命じている(『尼子』三三九)。島根郡末次保中原を拠点とする中原氏は武士とはいっても本来は末次保を支配する国人のもとにある小領主で、それが尼子直臣に組み込まれたものであったと思われる。次いで天文一三年に田口氏に対して美作国北高田庄について本役を納めることを直状で命じている。これに対し、出雲国の国人宛の直状は天文二四年に三刀屋新四郎に対して父対馬守跡の相続を安堵したものが初見で、それまでは付年号の書状形式が一般的であった。
  ④の複数家臣による連署状は、経久から詮久への代替わりの時期に吉川氏との折衝にあたった湯原幸清・河副久盛連署状が初見となり、次いで寺社宛にもみられるようになった。浄音寺・冨氏など国造北島氏関係者との連絡に、鳥屋氏・横道氏・立原氏等の富田衆があたっている。詮久の時代には美作国関係で寺社以外宛のものがみられた。安堵などの際には⑤この袖に当主の花押を付したものがみられるようになる。そこでは「付年号」のものや直状的書き止め文言(如件)を使ったものもみられた。

尼子氏発給文書(1)

 表題のテーマに関して、『出雲塩冶誌』用に執筆したものを以下に掲載する。

 尼子氏関係史料(経久~義久)を発給先で分類すると約六〇%が寺社宛(ただし形式上ではなく実質上の宛所)で、国人宛は約三三%に留まる。残り七%程度は商人・地下人・軍事的職人など宛となっている。文書形式の変化も最初は寺社宛でみられ、それが国人宛に反映されるのはかなり遅れてからである。対寺社という点では守護京極氏の時代と比べて支配の深化がみられたのは間違いなく、寺社側も自ら解決できない問題の利害調整を尼子氏に期待する面は大きかった。一方、内容的に国人間の利害対立を調整するものは皆無で、所領と相続の安堵や所領宛行が中心である。
 当初(経久)は①尼子氏当主による書状形式の文書と②重臣単独の書状が中心であったが、発給文書は寺社宛のものが大半で、国人宛は少ない。①には年号無しと付年号のものがあり、寺社宛は寄進状や掟・相続安堵状で一部直状がみられるが、国人宛は年号無しが多く、直状はもちろんのこと、付年号のものも少ない。
 守護京極氏は書状だけでなく直状も出していたが、守護代としてスタートした尼子氏の場合、寄進状を除けば直状は少ない。その初見としては、大永六年(一五二六)一二月の日御崎検校への安堵状がある。従来、出雲国一宮として君臨した出雲大社に対して、尼子氏は日御崎神社を守護神として重視したと評価されるが、当主による直状はその後の日御崎社関係文書には見られない。国人宛では、三刀屋氏宛のみ書下年号のものがみられる。三刀屋氏宛で現在残っているのはいずれも写しであり、その多くは付年号のものが写される場合に書下年号にされた可能性が高いと思われ、検討が必要となる。②の内天文年間以前のものは一部を除き亀井秀綱が発給者である。

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