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2011年1月 9日 (日)

出雲国囲碁番付について

 前に述べた出雲市神田家での出雲国西部の嘉永7年(1854))囲碁番付について、その後、『決定版 見立番付を楽しむ』(松江市ふるさと文庫12)が出版され、その校正中に、増川宏一氏が紹介していた弘化3年(1847)の囲碁番付、それも東部と西部のものが郷土史家が収集していることが確認された。さがせばまだまだありそうなのでこの本が「決定版」とはならないがと思っていたら、灯台もと暗しとはこのことで、島根県立図書館に嘉永7年版が東部版・西部版の両方が揃って所蔵されていた。何故か東部は同じ物が2枚だが、本来は出雲市の比布智神社の所蔵品であった。西部は、山本閑休がおり、且つ同じ文化圏である大森から岸本左一郎が出たことにより、とりわけ囲碁は盛んだった。
  個々の分析はこれからの楽しみであるが、2年分あることで、客観的にみることが可能となる。嘉永元年(1848)には大森の岸本左一郎が『活碁新評』を出版しているのである。
 囲碁好きの人々とならんで、「見物」のコーナーに、国内の主たる寺院関係者と地域の有力者がみえる。彼らは言わば「へたの横好き」の人々であろうか。これに対して神社関係者がみえないのはどうしてであろうか。本因坊秀策が来た際には神社関係者とも対局をしていたが。ともあれ、これにより出雲国の知のネットワークを知ることができる。
 出雲国東部と西部というとらえ方を知ることができることも重要であるが、意宇郡が東西に分かれ、西組が西の番付に組み込まれている。当然と言えば当然であるが、神社の縄張りからすると、神魂神社などがあることもあって、意宇郡東部が出雲大社(10郡中6郡半、神門郡・出雲郡・大原郡・飯石郡・仁多郡・能義郡)、西部が佐陀神社(3郡半、島根郡・秋鹿郡・楯縫郡)の縄張りであった。

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