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2011年1月

2011年1月31日 (月)

出雲佐々木吉田氏について(3)

 永禄12年に尼子勝久は出雲国内に入り、毛利氏が九州に主力を派遣しているスキをついて勢力の再構築を図った。旧家臣に対して旧領安堵の文書を与えているが、その中に「吉田四郎三郎秀辰」がいる。秀辰には、祖父宮内大輔時代の同名5人の旧領5000貫の安堵を行っているが、その範囲は能義郡全体に及んでいる。苗字の地吉田庄1000貫だけでなく、宇賀庄1000貫、安田南北700貫、比田東西1000貫、布部300貫、田原300貫、利松(弘)保300貫、飯生庄300貫、実松保100貫である。ここには母里庄はみえず、この吉田氏は母里庄の藤原吉田氏ではない。「秀辰」とその関係者「秀升」がともに「秀」を付けることから、前述の「秀弘」、「秀長」の関係者で、出雲佐々木吉田氏であると思われる。
  一方、清水寺の史料には、天文11年~12年の大内氏による富田城攻めの際に、吉田筑後守が尼子氏への忠節により宇賀庄一円を恩賞として与えられたことが記されている。また、永禄2年には宇賀庄国冨内三俵尻を、同4年には北安田庄内吉佐を吉田久隆が寄進している。宇賀庄と安田庄の両方に関係を持つことから、久隆もまた出雲佐々木吉田氏の可能性が強い。一方、吉田筑後守については以前推定したように藤原吉田氏と考えられる。
 吉田庄は文明年間に富田氏庶子である吉田氏が多賀氏による押領を幕府に訴えており、吉田氏の本領ではなく、幕府が支配権を有して国人に支配をゆだねるものとなっていた。そのため、庄内は分割され、複数の吉田氏が誕生することとなったと思われる。その一方で、佐々木吉田氏と藤原吉田氏、さらには富田氏庶子吉田氏間の婚姻関係についても検討する必要がある。戦国期に出雲国に残った吉田氏の関係系図が発掘されれば、もう少し明確になるのではないか。以前手紙を頂いた方に確認する価値はあるように思われる。

出雲佐々木吉田氏について(2)

 清秀とその子清員(貞ヵ)と孫清邦は出雲国内を拠点として活動していたと思われるが、清邦の弟でその養子となった基清からは、幕府に仕えて中央で活動するようになる。清邦の弟と思われる元廣は嘉吉元年に赤松氏を攻めたさいに死亡している。その子と思われる豊弘も永享9年に河内国の合戦で死亡している。そのため弟秀弘が豊弘の養子となって家の存続を図っている。永享9年10月の将軍義行幸記にみえる「佐々木吉田六郎左衛門尉秀長」、文明18年の将軍義尚大将拝賀参列記にみえる「佐々木吉田清景」、さらには長享元年9月の義尚の近江出兵に参加した「雲州佐々木吉田右京亮」もその関係者であろう。
 15世紀半ばに活動した秀弘は養父塩冶三郎泰高女並びに塩冶氏庶子羽根氏と婚姻関係を結んでおり、出雲国との関係は維持している。しかし、明応7年9月13日に85才で死亡すると山城国に葬られている。その子たちの活動の中心も江州に移っている。この系統が福山に移ったのは19世紀初め頃である。秀弘の子孫で出雲国内に残った一族も当然あったであろうが、吉田庄そのものも一部は幕府の管理下で富田氏流吉田氏が支配し、これに対して多賀氏が所領を押領している。
  以上、尼子国久が継承した出雲吉田氏についてその足跡を確認してみたが、史料はほとんどないが、吉田庄の一部に対する支配権を保持しており、そこに国久が養子として送り込まれたとすべきであろう。以前の見解を一部修正したことになる。

出雲佐々木吉田氏について(1)

 以前、吉田氏の子孫の方から問い合わせと著書の恵贈を受けたことがあった。その時は、尼子氏の家臣としてみえる吉田氏は佐々木吉田氏ではなく、藤原姓であること、文明年間に吉田庄内を支配していた吉田氏は、佐々木吉田氏ではあっても、富田氏の一族羽田井氏出身であることを返事して、ブログにも記した。その一方で、尼子経久の子国久が継承したのは、本来の吉田氏でなければ意味がないことも述べた。ということで、六郎厳秀にはじまる佐々木吉田氏について、とりあえず確認できることを整理しておきたい。
 旧島根県史編纂時に収集されたものに備後福山藩吉田家系図がある。厳秀を祖とする出雲吉田氏の系図である。厳秀は応保元年に生まれ、承久の乱の起こった承久3年に没している。後妻としてみえるのは雲州住人布部八郎太夫能範女で、その間に生まれた嫡子で文永8年に吉田庄地頭としてみえる四郎左衛門尉泰秀は正治2年に生まれ、建治3年5月に死亡している。記述内容に特に疑問点はなく、そうすると厳秀は鎌倉初期に出雲国吉田庄の地頭となり、現地の有力者布部氏の娘との間に正治2年に嫡子泰秀をもうけたことになる。
 厳秀の兄五郎義清が出雲国守護となったのは承久の乱後であるのに対して、厳秀は兄四郎左衛門尉高綱と同様、鎌倉初期に吉田庄地頭となったことになる。能義郡では富田押領使が平家方となって没落しているが、吉田庄も同様であったことになる。
 泰秀の跡は嫡子秀信が継承し、正安3年ないしは4年に没している。秀信の母は能義神社神官の女であり、吉田氏が出雲国内で活動していたことがわかる。次いで、弟四郎秀長が兄秀信の跡を継承した。船上山の後醍醐天皇の下に参陣し、観応3年に美作国杉坂山で戦死している。観応元年8月日三刀屋貞助軍忠状に見知人としてみえる「吉田兵衛次郎」は秀長かその子であろう。同時期には京極道誉の守護代吉田厳覚の活動が確認できるが、厳覚もまた秀信の子であった。

2011年1月30日 (日)

神々のたそがれ(3)

 神々のたそがれも、現在では深刻な問題を生んでいる。神々との関係を担ってきた神社や寺院とその関係者はその存在意義を問い直さなければ早晩消滅する危険性がある。そんなものなくたってと思っている個々人も、消滅したその時になって、やはり必要であったと思うことがないともいえない。それに代わるものが生み出せれば問題はないのであるが。
  話は全く違うが、小沢一郎氏の問題をめぐる現在の状況は不可思議としか言いようがない。検察の起訴に持ち込むだけの材料がないとの判断に対して、検察審査会の判断はどうであろうか。それが、検察には見落としがあり、小沢氏は起訴すべきどころが裁判で有罪となるだけの材料があると判断してのものなら異論はない。ところが、報道される範囲では、不起訴で裁判すら行われないのは、不当であるとの感情に発するものとしか思えない。こんなものを「庶民の目線」などといういいかげんな言葉で正当化してよいのだろうか。
 清水氏の本では、明確な証拠が提示できず、このままでは裁判で敗北する側が湯起請を求めることがあったことが紹介されている。それに対して相手は十分な証拠を持っており湯起請を拒否してその主張が通った事例もあった。少なくとも、小沢氏の問題については、起訴ができない検察の理由と、起訴すべきとの検察審査会の理由(事実)が明確に国民に提示された上で、議論されるべきである。「裁判すべき」との国民の大多数の声が存在するのは確かだが、それが根拠を持つものかどうかがもっと重要である。現在の検察審査会は、裁判に勝つ自信があるのなら、「湯起請」に応ずるべきであると主張しているように思える。それはこの問題に限らず、前例となるものであり、さらには前に述べた「個人のバランスをとるすべがない」という課題解決に通ずるものである。それにしてもマスメディアは。冤罪報道を反省するのなら、理性的な報道に努めるべきであろう。「湯起請」を必要とする社会は、過去と同様、様々な問題をはらんでいることを忘れてはならない。

神々のたそがれ(2)

 本郷夫妻の「武力による政治の誕生」、「将軍権力の発見」(講談社選書メチエ、選書日本中世史1並びに3)も興味深かった。前者は鎌倉幕府成立にともなう文から武への転換を、後者は室町幕府を主に論じている。常識的には、より新しい室町幕府の方がシステム的にも進化しているはずであるが、武家政権としてみた場合、鎌倉幕府の方がわかりやすいのである。その背景には伝統にこだわる日本的なありかたと、地方の台頭の間のバランスがあるという。室町幕府は京都に置かれそれなりには進化したが、それ以上に地方が台頭したため、最後は対応できなくなった、と。それに対応するには新たなシステムが必要であり、その最終的な一つの形が17世紀半ばの江戸幕府の確立であった。
 後を続けるとすると、江戸幕府の体制は、外国との関係を制限する中での達成であったが、19世紀後半には制限を撤廃した上で、外国との競争に負けないだけの新たな体制が構築される必要が生じた。その結果生まれたのが明治維新以降の政府のありかたであった。ところが、それは主な西欧諸国とは異なり、個人と全体のバランスでは全体に偏したものであったため、第二次大戦の敗北を契機に、個人をより重視した体制にリニューアルされた。
  現在は、さらなる新体制が求められている。個人のバランスを重視するというのは、中世後期における地方の台頭や、江戸末期の世直し一揆の動きに通ずるものであったが、現在の政治状況は個人のバランスを取るすべがないというもの。少なくとも前近代においては社会を構成するそれぞれの人々が分をわきまえていた。とりわけ社会的上位にある人々は自らの責任から逃れることができなかった。一方で、グローバル化により、一国の政府の限界にも直面している。前近代の成果を受け継ぐならば、危機的状況が生じれば、政府だけでなく社会的上位の人々や組織(企業)がその責務を果たすのであろうが、現在はそのことは忘却されている。以上の状況に対処するにはどのような設計図が必要であろうか。一国を超えた存在の必要性が説かれる一方で、一人ひとりの拠り所としてのクニの存在も無視できないのもたしかで、スポーツの勝敗に一喜一憂している。

神々のたそがれ(1)

 清水克行「日本神判史」(中公新書)を興味深く読んだ。日本人の心性を考える一つの事例を提供している。現在は科学の時代であり、迷信は排除され、宗教心も弱まりつつあるが、過去はどうであったろうか。程度の差はあれ、神を信じる側面と信じない側面を使い分けていたというのが清水氏の解答である。
 歴史の資料にはいわゆる「偽文書」が存在する。おそらく神社関係が一番多いのではないだろうか。それは歴史の古さにこだわるからである。それに対して、神に仕える神社がそんなことをすれば自己否定となり、ありえないとの意見もあるであろうが、現実には、神罰を恐れず、せっせと偽文書を作成している。
 清水氏の本では、具体的には湯起請と鉄火の消長をデータに基づき論じている。いずれも神々への信仰への疑問が生じる中で、登場したものであるが、とりわけ湯起請については、それ以前にあった参籠起請や問題解決のための中分との関係も重要である。「白黒をはっきりさせる」との主張に対して「中を取る」との主張は現在もなお有力な対抗者である。
 神々のたそがれについては、中世前期と後期の違いを示した網野善彦氏の仕事があるが、本ブログでは、近世後期の社会を構成する人々の間の関係の変化の背景にも神々のたそがれがあることを述べている。どの時代の変化がより本質的かを明らかにすることが歴史学の本領であろうが、一筋縄ではいかず、それぞれの時代変化の意味を明らかにすることが重要なのではないか。

2011年1月29日 (土)

PCの近況(4)

 一度(4)を作成したが、アップしないままにファイルが消えてしまい、仕切り直し。この文章はK5270で入力しているが、問題もなくスムーズである。オークションではデュアルコアのものもあるが、とりあえずインターネット・ワープロ・表計算なら十分か。唯一問題が生じるとすれば、セキュリティの関係で大量の更新ファイルのダウンロードがあった際で、その時はCPUの使用率が高くなるが、年に数回もないであろう。
 オークションで、LIFEBOOK2台を入手した。2台合わせて(送料・手数料・税込)で5万円+アルファー。こうなると趣味の世界としかいえないが、なかなか程度のよいものであった。
 S8350は14.1型(T7250)で、CPUを13.3型のもの(L7500)と入れ替えた。前者を外で使うとの意図であったが、2台ともモニターの照度を下げれば4H程度使えそうである。オークションでは「ライセンスキー」なしとあったが、実際には「ライセンスシール」が貼ってあり、ラッキーだった。有無により値段も変わってくる。また、バッテリーも新品に近いか。とはいえ、3年前にアウトレットで購入したもののバッテリーも元気である。なぜに同じリチウム電池で持ちが違うのであろうか。
 E8270は、画面がWSXGA+であるのがすべてか。すでに所持するE8280はWXGAであった。CPUを省電力タイプで最高クロックのP9700に交換した。K5270ではできなかったのが不思議なぐらいである。とりあえず、家族に配分しつつ、長持ちさせて使っていきたい。最近の16:9で光沢タイプの液晶は、文字入力とインターネットを視聴するには目が疲れるだけのもの。たまにDVDをみる方には良いだろうが。そしてキーボードである。
  以上、LIFEBOOKのコレクションは、H8230・C8250・S8350(2)・A8255、E8270・E8280の7台となった。アウトレットの1台を除く6台をオークションで得たが、6台で総額16万弱というところで、新品1台分である。とはいえ、しばらくはこれで行きたい。OFFICEについては、2000にも再登板していただいたが、OSがXPなら問題はなさそうである。アドビのように、一旦ライセンスを無効・返却した上で、利用するPCで認証できるようにすれば、最新のものが使えてよいのだが。

河上氏と伴氏について(2)

 A・Bともに関係者が作成したもので、ともに河上・都治氏は信濃源氏佐々木氏の出としている。細部はともかく正しいといわれるかもしれないが、石見国の中世史史料をみれば、両者が益田氏など御神本氏一族と並ぶ、石見国衙の有力在庁官人伴氏出身であったことは確実である。御神本氏も一方では藤原姓を称し、出雲国の朝山氏など勝部姓の人々も、中央で活躍する中で藤原姓を称している。河上・都治氏の場合は、南北朝期における敗北が契機になり、新たな系図を作成した可能性が高い。その結果として本来の系図は失われてしまった。
 伴氏一族は那賀郡中部から東部にかけての佐野・久佐・都野・有福・河上・都治と、邇摩郡波積、さらには邑智郡の君谷・出羽などを支配していたことが確認できる。益田氏が本拠とした美濃郡から那賀郡にかけては、鎌倉幕府成立の影響をあまり受けなかった(あくまでも比較の問題)が、平家方の多かった出雲国と境を接する東部の安濃郡と邑智郡では、在来の武士が没落し、東国御家人が地頭として入部する例が多かったと思われる。その意味で、平安末期段階の伴氏領は、上記のものよりかなり多かったと思われる。
 都野郷を本拠地とする都野氏や出羽郷の出羽氏とも同族であったと思われるが、その痕跡は、わずかに都野氏の系図で都野氏と河上氏が兄弟から分かれたとする一本がある程度である。出羽氏の場合も鎌倉末期には君谷を支配していたが、南北朝の動乱の中で本領であった出羽郷を回復している。
 (2)の文をコピーしたはずが、何の手違いが、(1)のコピーしたものとなっており、慌てて保存した原稿をみると、その文そのものが(1)を2回繰り返したものとなっており、新たに書き直したが、最初のものとはかなり違ったものとなった。

河上氏と伴氏について(1)

 尼子氏に関するコメントはさらなる展開があるか不明であるが、議論には前提条件があり、それを踏まえたものでないとすれ違いとなって議論が成り立たない。「応仁・文明の乱と尼子氏」については、ようやく一回目の校正がきたところ。ここでは史料の大半は一次史料であるが、選別して残した尼子氏の意図を研究者が十分理解せずに解釈してきた。また、個々の年次の比定も不十分であった。そのレベルは微調整ではなく、リセットしなければ研究の前提条件すら成り立たないほどであった。具体的内容はブログでも述べているので参照いただきたい。
 「都治・河上両家之根本之事」Aはようやく全文入力を終えた。現時点で二本確認しているが、両者の違いは「都治根元」Bの諸本と比べると少ない。現時点でもっとも古いと思われるものは、Aでは天正20年、Bでは天正19年の年紀で、いずれも前都治郷公文平田氏が作成者となっている。単純に考えれれば、Bが古いが、個々の記載内容からすると、暫定的ではあるがAの記載分が原型である可能性が高い。河上氏の滅亡を契機にその過去の情報が整理されており、都治氏転封の時点で平田氏がその情報を利用しつつアレンジを加えて作成したのがBであろうか。Bには平田氏の情報が多く入ったため、関係者から異論が出、平田氏関係のものを大幅にカットして河上氏の情報を加えたのがAとの理解が可能である。Bでは平田氏は鎌倉初期に石見国に入部したとし(ただその一族は信濃国にもいた)、Aでは佐々木氏の入部前に先遣隊として信濃国から入部したとする。

2011年1月25日 (火)

コメントについて(4)

 嶋根の旅人さんの意見には根拠が不十分であるということを「コメントについて(3)」で述べたのですが、十分理解いただけなかったようです。本願寺と尼子誠久の連絡の多さは、彼の役割から、誠久が連絡した結果であり、その多さは誠久と敬久の役割の違いを知る材料ではあっても、嶋根の旅人さんのように、誠久が重視されていると評価されては、「資料の声を聴く」というコンセプトから外れてしまいます。
 二頭政治といえば、尊氏と直義の二頭政治を佐藤進一さんが明らかにされました。将軍はあくまでも尊氏ですが、両者は役割を明確に分担していました。誠久と敬久の間には、役割の分担もですが、孫四郎が、国久が家督を敬久に譲るのではないかと危惧するほどの状況があったのです。それなくして新宮党討滅事件は起きなかったと思います。
 「破次第」は知られていましたが、米原氏を初めとする尼子氏研究の中では重視されていませんでした。誰が、どういう意図で残したかではなく(「すいうんより申すまま」と端裏にあります。すいうんが人名なのか、衰退の始まりからという意味かは不明ですが、関係者からの聞き取りであることがわかります)、その記述そのものの真偽が問われます。この記事には「佐玄友」なる人物が登場しますが、それが晴久の重臣でありながら、早い段階で毛利氏に下った佐世清宗を指しているのは明確です。清宗自身が情報源である可能性もあります。清宗の子元嘉は毛利氏の家臣として活躍しています。そうした中、「佐玄友」が登場することは、その情報の信憑性を示すものだと思います。それどころか、関係史料と対比すると、その内容が根拠を持つものであることがわかります。この史料が記され残されたのは、毛利氏が重視した三本の矢の反面教師的なものだからでしょう。
 嶋根の旅人さんは、自分としては納得がいかないようですが、その理由は述べられません。理由を言われれば、本願寺と誠久の問題のように誤解を解くための説明ができます。こちらがバラバラといったのは二頭政治に関わる史料がいくつかあり、それを総合的に判断すると、「破次第」は根拠に基づくものである可能性が高いと言っているのですが、その個々の史料をバラバラにして自分は納得ができないと、理由を明示せずに述べ、自己の説を主張されました。次郎四郎=孫四郎というその主張は十分な根拠を持つものではありません。誰でも途中経過ではさまざまな仮説を立てて検討していますが、私なら、現段階ではあまりにも根拠が薄弱であり、外にたいして表明しないレベルのものです。根拠が示されれば、こちらも検討します。

2011年1月24日 (月)

コメントについて(3)

 くりかえしになりますが、一つの史料をみて主張しているのではなく、様々な史料をみて総合的に判断しています。それに対して、史料を一つひとつバラバラにして、単独で考えられては、議論がかみ合わないと思います。史料の中には「破次第」も含まれます。そしてなにより、新宮党討滅事件が現実に起きていることを忘れないでいただきたい。
 今回の系図について、地区の人さんには個々の記事を他の史料によって検討していただきたい。当方には系図の全貌がわからないので、このようなお願いをせざるを得ません。
 誠久はその後も本願寺とやりとりをしていますが、最初の1回を含めて、尼子氏側から接触し、それに対して本願寺が返書を出しています。誠久がなぜ連絡したかは、彼が美作国だけでなく、東部との外交を担当していたからでしょう。天文20年10月25日条には美作国にいたと思われる宇山が連絡をしています。次いで、12月22日条には誠久が宇山とともに連絡をしています。天文22年正月にも連絡をしています。ちょうど敬久の館で連歌会を開いていたころです。当時、誠久は美作にいた可能性が大きいです。天文22年10月の書状も、誠久が晴久の取次として連絡した返事です。この後、誠久と牛尾幸清が連署して美作国三浦氏へ与えた安堵状が続きます。
 これに対して敬久は基本的には富田にいたわけで、両者の役割は異なっています。父である国久が政治の表舞台から退く中で、誠久と敬久がその権限を分担した形ですが、同じく富田にいた孫四郎氏久には、どうみえたのか。氏久は多賀氏出身の母を持つが故に、多賀氏からの働きかけを知ることができたと思います。美作の誠久が天文23年には呼び戻されて富田にいたわけで、重要な決定がなされることになったのでしょう(晴久妻の一回忌もあるか)。その意味で、人名、年号に問題がある資料ですが、福屋・立原両家伝の記述は気になります(引用される文書は正しいもの)。
 久幸の子次郎四郎詮幸はその名から詮久との関係が窺われますが、その後史料には登場しません。大内氏に協力した尼子氏に塩冶清久が含まれるのは確かですが、詮幸はどうでしょうか。清水寺文書に気になる史料があり、能義郡最大の宇賀庄は、大内敗退後、吉田氏(この吉田氏も正体はよくわかりません)に与えられています。それ以前に支配し、没収されたのは誰だったのでしょうか。
 次郎四郎は天文7年に、式部少輔誠久、塩冶彦四郎清久などとともに本願寺と連絡し、天文9年の竹生嶋奉加帳でも、誠久とその弟久豊、さらには塩冶清久に次いで名を連ねている。当然、尼子久幸の後継者であり、これが誠久の養子となるのは考えにくい。問題はなぜこの後登場しないか。

2011年1月23日 (日)

コメントについて(2)

 尼子氏に限らず、各一族の系図は時代の中で加筆・修正され現在の形となっている。前にも述べたように、基本的には事実をできるだけ記そうとするが、一方では情報の重要度から削除されていく情報もある。本ブログでは、系図であるから信憑性が低いとの立場はとらず、残された他の史料と比較検討して、現時点で最も可能性の高い説を述べている。ただ、これまた以前述べたように、降水確率予報と同様、90%という高いものもあれば、50%程度のものもある。
 現在進めている「都治根元」に関するものは、すべてを検討してから書いたのではなく、書きながら他の関係史料をみたという状況で、とても90%とは言えないものである。少なくとも「都治・河上両家根本之事」を読んだ段階で書けば、もう少し精度は高くなったであろう。ただただ、「塩冶興久の乱」に関する情報があり、驚いたのである。
 軍記物の多くが尼子氏による石見銀山掌握の年次を誤ったのは、精度が高いと思った「森脇覚書」を参考にして書いていったからである。けっしていい加減に軍記物が書かれたわけではない。佐々木寅介氏所蔵文書として残された尼子氏系図も、時代の変遷をへて現在の形に至っている。また、萩藩でも毛利氏に関する情報を収集して情報が整理されていった。一番難しいのは時期の特定である。現在の私たちが「あれはいつのことか」と記憶でだいたいのところはたどることはできるが、正確に何年か特定するのは難しいことがある。また何らかの原因で誤解が生じることもある。
 コメントで寄せられた系図については、これまで知られている尼子氏の系図よりも情報量が豊富なのは間違いなく、それが公開されれば研究の進展に寄与すると思われる。とはいえ、その決定権は所有者にあり、こちらは希望を述べるのみである。(ブログの表記上「である」を使うのは了解いただきたい)。
 新宮党の二頭政治についても、残された史料から総合的に判断しており、独立した館を持ったことのみで判断してはいないことは、ブログをみていただければ理解していただけると思う。「尼子家破次第書」が事実をどこまで反映しているかという観点から、検討を開始した。天文20年の本願寺側との手紙のやりとりは、尼子氏家臣団が誠久をトップとするグループと敬久をトップとするグループに分かれていたことを示している。
 多祢郷は多賀氏領であったが、多賀氏の聟となっていた誠久が与えられたと「破次第」は記す。『雲陽誌』はそれを裏付けるように、天文22年に誠久が多祢郷内日倉(宮内)八幡宮を建立したと記すが、実際には『三刀屋町誌』が記すように、誠久と敬久の連名であった。多祢郷もどのように配分されていたのだろうか。
 新宮党館跡が敬久館であることに気づいたのも「破次第」の検討からであった。晴久妻の死亡記事とその意味に気づいたもの同様である。尼子氏過去帳の検討から誠久の妻(本ブログは孫四郎の母とみている)が死亡していたことも確認できた。様々な情報を併せてみると、「破次第」の内容は事実を反映しており、父誠久が富田にいないこともあいまって、孫四郎が敬久に対して思いを抱く状況はあったと考えたのである。また、そのためには孫四郎は久幸の子ではなく、誠久の嫡子でなければならない。くりかえしになるが、すべてを総合して考えたものである。それを見直す情報が出れば、再検討するが、現時点ではないと思っている。尼子氏についてももう一人本格的に取り組む人が登場すると、その説が安定したものとなることも、以前述べたとおり。

コメントについて

 最近、尼子氏に関してコメントが寄せられるようになり、閲覧数も増加傾向にある。本ブログは、疑問を持ったことについて自分自身の目で確認し、根拠を含めて新たな説を提示している。現在も、「都治根元の検証」について、作業を継続中である。
 尼子氏に関しては「尼子氏の石見国進出をめぐって」を書いた際に、最も集中して検討した。『出雲尼子史料集』は未刊であり、井上氏がまとめられた尼子氏関係史料目録を手がかりに(一部小笠原氏関係ではその目録にない史料もみた)、総合的に検討した。特に吉川家文書の年次比定ではかなりの時間をかけた。
 尼子氏一族の系図と軍記物の記述の整合的理解も行い、その結果についても同論文で示している。とはいえ、関係資料すべてをみたわけではなく、史料集によって初めて読んだ文書・記録もあり、それにより部分的に尼子氏の理解が深まったところもある。
 『陰徳記』に尼子久幸の子として登場する「孫四郎」が、誠久女子と結婚し、国久の養子となっているとの系図の記載があるとのことで、そうならば軍記物の記述の意味が理解できないこともない。ただ、久幸の子次郎四郎詮幸(兄があったが早世)もいる中で、なぜ国久がその所領を預かるのか説明がつかないし、「陰徳記」の新宮党に関する記述には明らかに混乱がみられる。現段階では、久幸の子が誠久の養子となったとの記述は、軍記物の影響を受けて生まれたものと考える。
 コメントの中で紹介された系図の記載も興味深いが、国久女子で確認できる美作国大河原氏と結婚した人(このほかに尼子義久母、宍道隆慶母が確認できる)については、どう記されているのだろうか。

2011年1月21日 (金)

尼子経久の三万部経読経

 経久の三万部経読経については、鰐淵寺が清水寺との座次相論の中でその性格を述べている。経久は法華経を信仰し、大敵を滅ぼしてはその獲得した所領と写経を諸国の寺へ寄進した。読経は一回に一万部ずつ、三回に分けて2~3年の間隔をあけて行われた。
 ということで、三度目がそのクライマックスであり、これが行われることは早くから周知の事であった。興久側が三度目の読経の際に蜂起するというのは、事前に周到に計画されたものであった。経久だけでなく、読経を推進した亀井能登守秀綱にとっても、興久の乱は全く予期せぬものであった。さらに尼子経久とその子国久と深い関係にあった宍道氏と多賀氏が興久方であったことが、第三者からみて興久側の勢力が勝っているようにみえた要因であった。ただ、興久方にとって厳しかったのは、少々の優勢では富田城を攻略することができなかったことと、三沢氏が分裂して、横田三沢氏は興久方であったが、三沢氏惣領(三沢郷、三処郷を支配)や三沢紀伊守(三沢氏の系譜では三刀屋紀伊守とも記され、三刀屋氏に養子に入っていたであろう)は経久方であった。
 付記 尼子氏について、コメントが寄せられているが、できるだけ様々な史料を踏まえて検討していただけると幸いである。尼子氏の系図も記されなかった部分もあり、新たな系図の記載は興味深いが、できればその全貌が明らかにされることを期待したい。一方、軍記物の記載も影響を与えており、そのことと系図の関係も考えなければならない。おわかりとは思いますが、単に軍記物と系図の記載が一致するからそれは正しいとは言えないことに注意。

2011年1月19日 (水)

尼子誠久(2)

 情報を整理すると、晴久による計画的な新宮党討滅との米原・長谷川説は裏付けとなるものを欠いたまま提示された説であるということである。この点については、10年以上前に、新宮党館跡が実は新設された敬久館であることと、毛利氏側に残った「尼子氏破次第」が事実を正確に伝えたもの(ただしすべてを記してはいない)であることなどとともに主張した。
 繰り返しになるが、米原氏が根拠とされた尼子家臣団の任官は確かに、晴久の守護補任とともに体制整備の一環であった。その中で、新宮党も国久から誠久と敬久の二頭政治へと移行した。また、美作国三浦氏関係史料のみであるが、誠久の位置づけも一族衆というよりは家臣団筆頭というものとなっていた。国久が重要な役割を果たしていた出雲国西部についても富田衆がその役割を行う体制に移行しつつあった。
 以上のような体制整備は晴久の意図のもとに行われたが、それに対して、毛利氏にとっては生き残りを図るため、大内(陶)氏と尼子氏に挟撃されることだけは阻止しなければならなかった。その際の手段が、大内氏のもとにあった宍道氏の祖父国久と、同じく大内氏のもとにいた多賀氏の娘聟であった誠久を利用しての調略であった。また、大内氏と結んで毛利氏を挟撃するというのは、尼子氏にとっても選択すべき有力な選択肢であった。
 そうした中で、天文22年11月には、晴久と国久・誠久の間をつなぐ晴久夫人が死亡した。また、誠久は同20年より美作国におり、嫡子孫四郎氏久とは緊密な意思疎通ができなかった。前に述べたように、氏久の母もすでに死亡していた。そうした中、富田では敬久の館も完成し、宗養を迎えての連歌の会も開かれていた。以上の状況が相まって新宮党討滅が起きたのであり、その後の尼子氏家臣が国久を「紀州様」と呼んでいることは、国久・誠久・敬久が晴久にとってかわろうとの説がこの時点では否定されていたことを示している。また、意図して新宮党を討滅したならば、天文24年2月の晴久寄進状はまったく違う表現となっていたはずである。
 晴久が毛利氏の調略に引っかかったとの評価には抵抗はあり、当時の客観的状況からして、晴久側がそれを信じるに足る状況があったのも確かである。そして尼子氏の動揺をついて、鰐淵寺は清水寺との座次相論を再度蒸し返した。

2011年1月18日 (火)

PCの近況(3)

 K5270とH8230が到着。前者を動作確認もせず、分解。なんとか苦戦しつつも、CPUを交換できたが、動作せず。あわててもとのCPUに戻すと何のことはなく起動する。セレロン用とcore duo2用ではチップセットがGL40とGM45と違うが、原因はBIOSであろう。メーカー製でBIOSの更新がないので、対応は困難である。とりあえずセレロン575で使うこととする。
 液晶はいまどき珍しい4対3のSXGAであるが、視野角も広く見やすい。インターネットとOFFICEの利用なら十二分であろう。H8230も15インチでWUXGAであるが、字の小ささは気にならず画面はみやすい。バッテリーも2時間以上は持つ。だた、キーボードとトラックポイントにはそれなりの使用歴がみられる。とりあえず使ってみよう、ほととぎすか。
 バックアップ用のフローラ210W NL6のHDDなし、バッテリ別も届いたが、キズもなくきれいで、別に購入した標準バッテリ-も2時間程度は使えそう。とりあえず、210w LL1のHDDをそのまま使うと、アクティベーションも必要なく起動した。

2011年1月17日 (月)

尼子誠久

 従兄弟の晴久と同世代かやや年上と思われる誠久は、天文7年の播磨国遠征に、父国久とともにみえ、本願寺側も音信の対象としている。次いで竹生島奉加帳にみえ、大内氏の出雲国攻の後は父国久とともに吉川氏との間に音信の遣り取りをしている。ここまでは国久とともに行動している。
 天文20年10月の尼子氏の美作出張にも参加している。この段階では国久から誠久と敬久兄弟への代替わりが進行しつつあった。大内氏と毛利氏側ではしきりに、尼子氏が備後国に入ることを警戒している。
 その後は、尼子氏家臣で美作国に派遣されていた宇山弥次郎とともに本願寺側史料に登場する(天文20年12月22日、天文21年10月7日など)。この間、天文21年4月には尼子晴久の美作・備後国等の守護補任が実現している。また、同年9月には安芸国への軍事行動を行うため、本願寺への働きかけを行っているが、同意を得ることはできなかった。その一方で、同年末には坪内氏を備後に派遣している。
 尼子晴久と本隊は天文21年末までには出雲国へ帰り、守護就任を祝うために連歌師宗養を迎えての会が国内各地で行われている。そして尼子氏の本隊が天文22年5月には横田から備後国江田氏への支援に向かったのに対して、誠久は美作国内にとどまり、尼子氏権益の確保を行ったのではないか。天文22年10月末までに備後国攻略は失敗した。一方、尼子晴久の軍は再び美作国に入り、勝山(高田)城の戦いで勝利を収め、晴久袖判に誠久と牛尾幸清が署判し、三浦氏に対し所領の安堵を行っている。
 天文23年に入ると吉見氏問題をとおして毛利氏と陶氏の対立が深まり、毛利氏側は西部へ出兵した際の備後国への尼子氏の介入と、防州(陶氏)と雲州(尼子氏)の結びつきを警戒している。石見国でも大内氏方の小笠原氏と福屋氏が対立し、毛利氏は福屋氏が尼子氏と結ぶことを予想している。その一方で石見国益田氏をとおした防雲の和談の動きもあり、事態は複雑となっていた。そうした中で、同年11月1日に新宮党討滅事件が発生した。尼子氏側にとっても方針決定が必要で、美作国から誠久も富田に戻っていたのである。

2011年1月16日 (日)

美作・勝山(高田)合戦(2)

 一方、天文22年頃に比定できるのが、尼子氏が三浦氏に所領を安堵した文書である。『尼子』では三浦前当主貞久が天文17年9月に病没したとの系図の記載から、天文17年頃に比定されている(『戦国大名尼子氏の研究』)が、尼子晴久の花押(大型化し、足の部分が長くなる)と、一族衆である尼子誠久が富田衆牛尾幸清と連署していることから、幕府による晴久の守護補任後の文書と考えるべきである。
 尼子氏は天文20年10月にも美作へ出張しているが、本願寺が連絡をした中に尼子誠久はいても、牛尾幸清の名は見えない(天文22年には家臣名は記されていないが、20年は多数記されている)。尼子氏と三浦氏の間で交渉が行われ、一時延引の上、文書発給が行われたとの経過も記されており、天文22年12月に交渉が妥結して文書発給となったであろう。天文22年の尼子氏の美作出張のメンバーについては、『陰徳記』によるしかないが、牛尾氏も参加している。この時三浦氏一族は尼子氏に敗れており、尼子国久の娘婿となっていた大河原孫三郎の斡旋により交渉が妥結したのだろう。
 以上、天文22年の美作国合戦について、情報を整理してみたが、理由はともかく、事実はあっても関係史料が残る場合と残らない場合があるから難しい。

美作・勝山(高田)合戦(1)

 天文22年の美作国高田(勝山)合戦について、質問を受けた。『陰徳記』で確認すると、たしかに尼子氏の勝利について詳細に述べられているが、ほぼ同時期に行われた備後国江田氏をめぐる攻防と異なり一次史料がほとんど残っていない。わずかに、本願寺側が10月段階で作州出張中の尼子晴久と誠久に太刀と馬進上の礼状を出しているぐらいである。
 『出雲尼子史料集』では、天文21年頃のものとして、尼子長童丸が立原源太兵衛に勝山での勲功を賞する感状写を載せている。長童丸を義久に比定しているが、この文書は、「立原・福屋両家伝」にも引用されており、そこでは長童丸を義久ではなく後の八郎四郎秀久とし、永禄年間のものとしている。後者の比定が妥当であろう(『尼子』では「立原・福屋両家伝」所収文書は一部を除けば掲載されていないが、基本的には正しい文書で、『松江市史』では採用される模様である)。

PCの近況(2)

 一体型のFMV K5270は1万5千円ほどで即決でゲットしてしまった。OFFICE2003付きでバックアップCDあり、ライセンスあり、そして2009年1月発売というもの。現在はCeleron 575であるが、手持ちのP8600なり、SP9400に交換してメモリーを増設すると、パワーは十分となる。以前のコンパックプレサリオ以来の一体型となる。キーボードは標準のものではなく小型のものを使う予定。
 FMV H8230も15インチでWUXGAで、トラックポイントも装備というもの。このタイプの最初のもので、H8260が最後となった。office2003とosがバックアップCD完備で、3万円と案外安くてついつい入札して様子を見ようと思ったら、最後まで他の入札はなくゲットしてしまった。なぜかこの機種はここまでではないが安いようだ。写真やその説明を見る限り程度もよさそうであるが、一番気になるのはキータッチである。おそらく、好みのC8250ではなく、やややわらかいE8280のものに近いであろうが、予想が外れることを期待している。とりあえず、仕事をするにはOFFICEも必要である。K5270とともに使えそう。

PCの近況(1)

 昨日と今日のブログは「LIFEBOOK C8250」で入力している。画面が狭い(XGA)のが欠点ではあるが、入力はしやすい。また、文字が大きいのも悪くはないと感じている。オークションでついつい安くて手持ちのCPUと交換すれば大変パワーアップするものを落札してしまった。
 一台は210W NL6で、LL1とNL4のバックアップ用で、HDDなし、バッテリーなしだが、程度はよさそうである。発売時期により型番は違うが、次に発売されたLL1とハード面は同じ。バッテリーで使用可能なのが大容量1、超大容量3で、標準がなかったので、併せて標準バッテリー1を入手した。両方併せて8千円(送料込み)。この機種の標準バッテリーはとにかく寿命が短い。その点デルは1番古いインスピロン9200(6年前購入)でもバッテリーは元気である。
 同じ業者でC8240のSXGA+、T7400がオークションに出されていたが、締め切り間際に入札するはずが、タッチの差で終わっていた。当方の理想の機種(キータッチがよく、画面も広い)で落札価格は破格の安さであった。逃した魚は大きいと、ついつい未練がましくいろいろな機種に入札してしまっている。

今年の予定?

 10年ほど前から中世史を卒業し、研究の主軸を近世史に移したいと思っているが、残された課題がありできていない。今年の内に中世史の残された課題をできるだけ片付けたい。
 「応仁・文明の乱と尼子氏」(現在校正中)の続編と、「出雲大社領の成立と展開」をまとめたい。それと平行して、「益田氏系図」について整理・分析する仕事をすることになりそうである。この3テーマについては、「益田氏系図」そのものの収集が十分ではないが、これまでブログで連載してきた。これと併せて中世後期の石見国について(こちらはこれからブログで連載したいが、できるかどうかは?)まとめることができればと思う。特に石見国西部についてまだ十分わかっていない。
  囲碁の番付についてもようやく資料の所在が確認できたので、近世史で活用できるように分析をしていきたい。差別の問題については、現時点では配慮が必要であり、これまでブログでとりあげた形以上には無理であろう。新たな史料ないしは研究に出会うことを期待したい。とはいえ、ブログそのものは1年以上前から慢性的なネタ切れ状態であり、「今後の連載に期待」と言われるのは正直つらい面もある。このブログを読まれた方が、それをきっかけに自分で検討・発表していただければ、当方にとっても刺激になる。
 よく言われているようにブログは自分自身のメモ・記録として重要である。メモは従来もとったが、公開するとなるとある程度しっかりと分析し、それなりのものにしておかなければならない。当然、まとめる際に訂正する箇所はある。

富田城について

 富田城は規模も大きく、難攻不落の城である。毛利元就ですら4年の歳月をかけ、東西の両方から真綿で締め付けるようにして落城させたのである。それに対して、尼子再興の人々の願いを打ち砕いたのもこの冨田城の堅固さであった。冨田城を攻略できていれば、毛利氏も大変であったろう。冨田城にやられたのは大内義隆と塩冶興久もである。
 興久の乱の関係者がしだいにわかって来たが、経久方を圧倒するほどであったろうか。準備してきた興久方に対して意表を突かれた経久方ではあったろうが、少なくとも出雲国東部の有力国人で興久方となったものはいない。竹生島奉加帳にみえる能義郡内の国人は松田氏、吉田氏、母里氏であるが、棟札で確認する限り、興久方となって惣領が交代した形跡はみられない。
 多賀氏の所領は島根郡や能義郡にもあったろうが、興久方となったのは多賀氏惣領である。三沢氏についてもすでに述べたように、庶子である横田三沢氏は興久方であったが、惣領三沢氏については、経久方であった可能性が高い。経久にとってより脅威なのは三沢郷と三所郷(富田庄に隣接)を支配する三沢氏惣領であろう。飯石郡でも赤穴氏は経久方であった。
 それは大内氏の出雲国攻めについても同様で、東部の国人の多く(牛尾民部は除く)と富田衆は尼子氏方であった。それに対して毛利氏の出雲国攻めの際は状況が異なり、東部の有力国人で、尼子氏とは姻戚関係にあった松田氏ですら当初は毛利氏方となっている。また出雲国西部を守備するはずの富田衆の中にも毛利氏方となっているものがいる。この点と晴久の評価はどうなるのだろうか。とはいえ、当初の予定になかった新宮党討滅を行っていなければ、状況は大きく変わっていたはずである(陶・毛利の対立に介入できた)。
 また、天文末年ごろ尼子氏のもとを離れ上洛し、後には尼子氏を攻撃する毛利氏に協力した朝山日乗(本ブログでは山中鹿介より高く評価する)の選択はどうであったろうか。

資料の声を聴くのは?(3)

 尼子関係資料を精読したきっかけは、「尼子晴久の生年を早める」ことを主張する本の書評を頼まれ、やむなくその著書を購入しマーカーで真っ黄色に塗りながら、「吉川家文書」を読んだ。その本は丹念に史料が収録してあったので、なんとか考えることができた。
 無年号文書がほとんどで当初はさっぱりわからなかったが、なんとか関係資料をみて考えながら年次の比定を行った。その一方で、石見銀山での生活はパラダイスだという教育実践を行うために教育センターに研修にこられた方があり、とてもそんなことはあり得ないことを証明するため、石見銀山の史料を読み始めたところ、「おべに」の中の年号と干支の違いに気づいて、一次史料との照合を行った。尼子氏の銀山攻略の年については、永禄元年の根拠がよくわからなくて考え始めた。一週間以上考えたが特定できず、疲れもあって史料不足により決定できないと結論付けて作業を終了しようと思った瞬間に、ある史料の前で目が釘付けとなった。
 「都治根元」でも同様の問題があったが、現代の私たちにとってもその事件が何年のことであったかを確認することは大変であろう。そして、基本は元号ではなく、干支で記録していたこともわかる。まだ中世後期の石見国について、自分なりの見解を持っていないでの、それもやらなければならないが、その一方で現在を考えるデータとして、近世史料の活字化を望みたい。近世後期となると歴史データの量だけでなく、質が他の時代と違う。近現代はもっと史料が多いかもしれないが、マスコミではなく当事者自らが記した史料の残存量の多さでは近世後期が一番多いのではないか。
 500回を越えたとことで、ぐだぐだ述べてみたが、このような作業を行う人は他にいないのだろうか。ブログでも触れたが、研究者の大半は一度まとめた問題について、以後理解をさらに深めるということがなく(例外は永原慶二氏か)、これも自分としては不可思議である。読めば読むほどわかってくると思うのだが。

資料の声を聴くのは?(2)

 そうした中で、自分の中ではそれまでの研究に対してもやもやしたものがあった(言い方を変えると、その論文を読んでもさっぱりわからなかった)が、益田氏館の保存問題が起こる中で、自分の疑問を解消するためにいくつかの仮説を立てて本気で考えてみたところ、益田氏の惣領の移動に関する疑問がとけたのであった。その一例として「益田兼忠」という人物について、寝床に入ったところで、ハッとした。「忠(ただ)」は直冬の「ただ」と一緒で、この人物が益田氏惣領に違いないと。
 尼子氏についても同様で、高校時代に読売新聞島根版の連載で経久の存在を認識したこと、小学館版『日本の歴史』で永原慶二氏が採り上げられていたこと、そして大学時代に、永原氏の差別問題に関する研究報告を聞いた(その一方では法学部の助手さんが主催していた『部落史に関する総合的研究』を読む会にも出た。当時の自分と同姓の先輩から誘われ、同級生では自分のみ参加)。また県立図書館であった米原正義氏の「尼子の柱石新宮党をめぐって」との講演も聴いた。その後、富田城の発掘調査にも従事したことが、きっかけか。そこで最初に驚いたのは、南北朝期の冨田庄は佐々木氏一族の富田氏が支配していたにもかかわらず、塩冶氏の出雲国守護所であるとされていたことである。
 ネットでは主に尼子晴久を評価したい人々の意見が交わされているが、やはり経久、晴久のいずれが大物かといえば、経久である。ただ、尼子氏の体制は晴久時代に確立していった。その脚本の中に新宮党討滅が無かったことは(その意味では誤算であった)、根拠は十二分に示してあると思う。

資料の声を聴くのは?

 本ブログでは、資料からどのような結論が導き出せるのか、あるいはこれまでの通説は妥当かを検証している。その範囲には限界があるが、それでも中世史に限らず、近世の「差別問題」や人口問題も採り上げている。
 益田氏については、西国武士として中世社会を生き抜いたという点での関心はあるが、特別に贔屓するわけでもない。ただ、大学時代に益田家什書のさわりの部分を史料編纂所へ通って筆写したことと、石井氏がゼミの中で、福田栄次郎氏の論文について言及されたことが影響していようか(後にその年の中世史研究の2つの大きな成果として網野氏の鋳物師に関する研究とともにとりあげられていたことも知った)。
 以前、歴史部の生徒とともに、周布氏の史料を読んだが、その際に、後に所領とともに関係文書を入手しただけなのに、通説ではその所領を周布氏とその一族(実際には来原氏は一族ではない)が鎌倉時代から支配していたと書かれていて驚いた。また14世紀後半に大内氏が周布氏惣領に対して、庶子が従わないことについて、場合によっては所領を没収するという内容の文書を何度か出しているが、最後のものはそれまでのものと違い本気であるとの解釈がなされていた。関係文書を丹念に読んだが、自分にはそのような解釈は誤読であるとしか思えなかった(この点についてはまだ文章化したことはない)。

2011年1月11日 (火)

「都治根元」の検証(6)

 「都治根元」についてみてきたが、作成のきっかけは天正19年の都治氏の出雲国大原郡への転封であろう。都治郷公文平田氏が、みずからの由緒と併せて主張したその内容に対して、波積郷の郷原氏の由緒をからめて補訂されたのが郷原氏本である。郷原氏本と同じ系統なのが、「三郷由来記」であり、都治郷が幕府御台所の実家日野氏領であった際に代官として派遣された松波氏の子孫であるとするのが国重氏本である。
 これに対して、「都治・河上両家根本之事」は、「都治根元」で不足していた河上郷に関する情報を追加する一方、平田氏の由緒に関わる中世前期の情報をカットしている。また、小笠原氏の系譜に関する情報もカットされている(国重氏本でも同様で、代わりに松波氏の情報を補訂)。とりあえず、今回の検証は、不十分ながらここまでとしたい。最初に「都治根元」をみ、ブログを書く中で、諸本をみたというのが、原稿に影響しているのはいなめない。再度、すべての諸本を平等な目で分析したいが、それには諸本の検討とともに、自分自身の中世後期の石見国に関する情報を再度点検する必要がある。
 「根元」で引用される小笠原氏に関する情報も注目される。小笠原氏もまた出雲国に転封となった惣領家と最終的に近世毛利氏の家臣となった一族に分かれる。転封が「丸山伝記」(以下では「丸山」)に代表される小笠原氏の歴史を記した諸本ならびに系図作成のきっかけとなったのであろう。「丸山」については一連の「銀山旧記」を検討する中で部分的に参照したことがあったが、「銀山旧記」の誤りに影響される一方でかなりの脚色があると思った。
 残されていた小笠原氏の系譜に他の史料から得られた情報を加味して「丸山」が作成されたのであろうが、今回、「根元」の中に引用された小笠原氏の系譜を知り、別には石見国鋳物師頭であった山根氏も一時期小笠原氏のもとにあり、小笠原氏の系譜を保存している。この2点の情報は、基本的に転封までにまとめられていたものである可能性が高く、小笠原氏についても、過去に分析したことはあるが、併せて再検討が必要である(とりあえずブログの記事としては500本目となった)。

「都治根元」の検証(5)

 実際に、永享12年の石見国諸郡段銭注文をみると、土屋氏領桜井庄は京都・烏丸殿御領となっている。そして都治についても、公田9町6反中6町2反大が烏丸殿御領となり、残り2町7反半のみを都治氏が負担している。ここからわかるのは、土屋氏が永享12年以前に所領を没収され、その跡は将軍御台所の実家日野氏が支配していたことである。ただ、都治の4分の1程度(下都治半分であろう)は都治氏に返還されている。
 石見国の有力国人を動員しての土屋氏排除であったろうが、南北朝期に一時石見国守護となり、その後も迩摩郡を中心に所領を有した防長の大内氏の力も借りたのではないか。
応永32年には大内氏惣領盛見が迩摩郡大家西郷内井田村を右田氏に与えている。「根元」では、土屋氏討伐後、都治氏が復活したことに続いて、将軍義満が大内義弘に石見国を与え、都治下村の半分は大内氏の家臣今岡藤左衛門に与えられたことを記す。義満(「根本」では義持の時代とする)・大内義弘と15世紀半ばの事件とはミスマッチで、名前の混乱があろうが、土屋氏討伐に石見国内に所領を持つ大内氏関係者も動員されたことによるのであろう。
 大内氏は石見国守護山名氏に対して、迩摩郡の支配権を与えられていたことが知られている。迩摩郡分郡支配は15世紀初めからとの説が通説であろうが、確認できるのは土屋氏討伐後の15世紀半ば以降である。そして、その頃から大内氏の所領となったのが迩摩郡大家西郷であった。大家西郷の中核が井尻であるが、文安元年(1444)に大内氏奉行人は問田氏に、井尻を御料所(大内氏領であろう)として温泉次郎に預けていたが、京都(幕府)の命令で周布氏領が還補されたことに基づき、周布氏に打ち渡すよう命じている。一旦は、周布氏領が没収されそれが大内氏領となり、温泉氏に与えられていたのである。一方、井尻にあった高野寺は15世紀前半には大内氏の支配するところとなっていた。以上のような大内氏と迩摩郡の関わりは、15世紀初めというよりは、土屋氏討伐をへて実現したのではないか。その背景に、守護山名氏の支配のみでは、増大する国人間の対立の調整ができなかったことがあろう。問題は、所領名・規模とも不明である守護山名氏領の解明と併せて論じられる必要がある。
 これに対して鎌倉幕府成立までこの地を支配した和気氏については、現段階で検証するだけの材料を欠いている。

「都治根元」の検証(4)

 「根元」の一つの山場は、応永21年(1414)の桜井庄地頭土屋氏による都治弘行殺害と所領の押領である。土屋氏は安濃郡大田北郷の地頭で、幕府方の中心として活動していた。それが、桜井庄が大覚寺領であったことから、桜井庄領家が石見国内の反幕府方国人と連携して合戦に参加し、河上氏と同様に敗北した。そのため、従来地頭不設置であった桜井庄に土屋氏が幕府から地頭に補任されたと思われる。
 土屋氏は応永13年には迩摩郡を押領していると守護代山名時久が述べているように、支配地域の拡大を図っていた。「根元」ではその土屋遠江守(宗信)と都治政行の娘の間で婚姻関係が結ばれ、都治氏領も上都治200貫と波積200貫が嫡子広行に譲られ、残る下都治300貫は娘に譲られたとする。それを後に土屋宗信が広行を殺害して都治氏領を押領したというのである。細部はともかくとして、土屋氏による都治氏領押領は事実であろう。
 守護山名氏の支配下の石見国では、しだいに国人領主間の対立が強まり、山名氏はそれに対応できない状況がみられた。応永末年頃には西部の吉賀郡では吉見氏庶子=石見吉見氏が勢力を拡大し、将軍家御台所御料所吉賀郡で能登吉見氏が与えられた所領を押領している。一方、東部の邑智郡では、高橋氏と佐波氏庶子が結んで佐波氏惣領と戦っている。能登吉見氏は、守護方が無沙汰であるとして、益田氏に代官となることを要請するが、益田氏はその一方で吉見氏庶子と勢力圏の境界である豊田郷めぐって契約を結んでおり、辞退している。結果、吉賀郡は石見吉見氏がその支配を認められている。
 応永33年には守護方が桜井庄領家職を大覚寺側に渡そうとしても、地頭桜井氏の抵抗でできないとして、幕府が益田氏に沙汰付を命じている。ここでも守護無沙汰である。「根元」では土屋氏による都治押領に対して守護山名氏明(実際は山名氏守護代入沢氏の一族であろう。ただ、明徳の乱で敗死した山名満幸の子孫に氏明あり)が大田に着陣して有力国人とともに土屋氏を攻めて降伏させたとする。

2011年1月10日 (月)

「都治根元」の検証(3)

 河上氏に関する記述が多い「都治・河上両家根本之事」では、河上氏領の内、那賀郡中西部の所領は、河上氏の家臣であった久佐・永屋氏が福屋氏に従い、久佐三百貫は福屋氏領となったと記す。この所領はなお反幕府方の立場を堅持した福屋氏領に隣接しており、且つ河上郷からは離れていた。両者の対立の中、福屋氏領となるというのは十分考えられる。その結果、河上氏の所領は、那賀郡東部の河上郷・都治郷と迩摩郡大家庄に属する稲富(波積)となったのである(永享12年段階では佐野も所領)。
 河上氏内部でも分割相続が行われたはずであるが、河上一族が幕府方に転じた時点でリセットされたのであろう。ただ、問題なのは河上郷のみであると、都治氏領となった都治と波積と比べて明らかに小さいので(根元では両者とも700貫とするが、貞応2年石見国大田文の面積では、都治氏領が2倍以上)、惣領が河上氏という点と矛盾がある。都治・波積についても、鎌倉時代以降の変化の中で、その一部ないしは全部を失い、地頭のもとでの下級庄官の地位に甘んぜざるを得なかった時期があるのではないか。そのため、都治氏の名は一次史料に登場せず、石見国守護や室町幕府将軍家と外戚関係にある日野家が支配することがあったのではないか(この点については別に検討)。
 都治氏が一次史料で確認できるのは、文亀元年(1501)に大内氏を退治するために豊後国大友氏を支援せよとの将軍の命令に同意した石見国人の中に、福屋・小笠原・佐波・高橋・周布氏と並んで、「都治徳松」と「河上又三郎」がみえている。「根元」で大永2年9月以降の尼子氏の攻撃により討ち死にした都治治部少輔興行と、その妻の父で隆行の祖父にあたる河上中務少輔であろうか。限られた史料から推測を交えながら考えてみた。

「都治根元」の検証(2)

 もう一つ河上氏について気になる史料は、貞和7年正月日の岩田胤時軍忠状である。貞和6(観応元)年3月に石見国では反幕府方の新たな動きがあり、それを報告してきた吉川経兼に対して尊氏(幕府)が感状を与えている。翌4月22日には足利直冬が安芸・吉川氏に対して軍勢を催促している。その前日21日には、直冬が石見国田村氏に金子氏跡白上郷を勲功の賞として与えている。金子氏は石見国東部安濃郡河合郷地頭であったが、建武4年には勲功の賞として石見国西部美濃郡白上郷を与えられている。それが今回は反幕府方の田村氏に与えられている。
 話を胤時軍忠状に戻すと、4月10日に黒谷城を攻撃し、5月3日には幕府方で美濃地・黒谷郷地頭であった波多野氏を退治したとしている。その前後には長門国阿武郡内への攻撃にも参加している。そして、11月3日には三隅城へ向かい、幕府方として城を包囲していた高師泰の陣を攻撃している。高師泰は師直の兄弟で、反幕府方の鎮圧のため、観応元年には石見国守護となり、邑智郡の佐波氏を鎮圧した後、反幕府方のもう一つの拠点である三隅城を攻撃したのである。
 ところが軍忠状の記すように、12月26日には師泰は石見国から退却し、それを追った岩田氏ら反幕府方は江川を渡って、河上城を退治したというのである。師泰の退却の理由は中央政界での動きとも関係するが、石見国ではこれまで幕府方の中心であった益田氏の惣領兼忠が岩田が貞和7(観応2)年正月に提出した軍忠状に証判をおしているのである。一方、幕府方は、2月1日に田村氏の一族である来原氏に対して白上郷を勲功の賞として与えている。田村氏内部でも幕府方と反幕府方に分かれていたのである。
 問題は、反幕府方が河上城を攻撃していることであり、この時点で河上氏は幕府方であったことになる。これに関連して「根元」は、高師泰による石見国攻撃を詳細に記している。ただ、その年号は貞和2年と記され、且つ高氏の不倶戴天の敵である足利直義派の上杉重能までが石見国攻撃に参加している点は明白な誤りである。また、高師泰の攻撃を受けた三隅氏が降伏したと記す点も誤りである。それは、観応年間に信濃国佐々木氏が都治・波積・河上に入部することの前段として記されている。
 暦応4年から5年にかけて、幕府方は安芸国や長門国の国人を動員して石見国内の反幕府方を攻撃攻撃し、三隅氏以外を降参させている。暦応4年8月4日には河上城凶徒孫三郎入道と子息五郎左衛門尉が降参している。この戦いで、都野氏、福屋氏、周布氏、高津氏なども降参しているが、これらの一族がその後も反幕府方として活動しているのに対して、河上氏は以後登場していない。
 以上の点から、河上氏では、暦応4年の降伏を契機に幕府方に転じたと思われる。伴姓で益田氏ら御神本氏とならぶ石見国衙の有力在庁官人であった河上氏はその立場を転換した。これを「根元」では、信濃国佐々木氏の入部という形で表現し、なお且つ、自らの出自を東国御家人(源氏)に求めたのであろう。

「都治根元」の検証(1)

 「都治根元」には「河上ハ田原・久佐・永屋・佐野・大田・千金六人也」とある。当初は全く気づかなかったが、諸本の中で河上についての情報がやや多い「都治・河上両家根本之事」には、久佐は後に福屋氏領となることも書いてある。確認すると、河上の内、田原・大田・千金は江川の両岸で河上郷内の地名だが、久佐・永屋・佐野は河上郷とは独立した所領で、それぞれ貞応2年石見国大田文に「くさ(15町1反)」、「なかや(4町6反大)」、「さの(3町半)」としてみえる下府川上流の所領である。
 2次史料の記述ではあるが、そこで思い出した史料があった。それは元徳3年正月23日六波羅探題御教書写(萩閥・周布)であり、周布郷をめぐる嫡子兼宗と庶兄兼光の対立について、問題解決が内田三郎左衛門入道と河上孫三郎入道に命じられている。両使として同じ那賀郡内といっても周布郷からかなり離れた河上氏と、美濃郡と吉賀郡に両属する豊田郷の内田氏が選ばれていたからである。内田氏は実は周布郷に隣接する貞松名の地頭でもあるので、説明は付くが、河上氏は?なのである。それが、内田氏と同様、那賀郡内の久佐・永屋・佐野の地頭でもあったとすると、納得ができる。
 また、南北朝期前半の合戦に河上孫三郎入道が反幕府方として戦っているが、反幕府方の大半は那賀郡内の領主であり、その中で河上孫三郎が三隅氏とともに中心的勢力であったことも理解できる。
 これに対して、都治氏は中世前期には史料にみえない。あるいは、都治郷、波積郷ともに河上氏が支配していた可能性がある。「根元」の説く14世紀半ばの信濃国からの佐々木兄弟の石見国への入部は、この時点から河上氏領が分割され、都治氏が成立したことを反映した記述であるのかもしれない。
 そうした場合、貞応2年の面積は、都治郷が24町3反、波積に相当すると思われる稲富が8町5反半で、併せた面積は32町8反半となる。それに対して河上郷は14町5反300歩にすぎず、これに前述の3ヶ所(合計22町8反小)を加えると、37町4反60となり、惣領と思われる河上氏領の方が多くなる。以上のことから、中世前期の河上氏の所領に関する「根元」の記述は根拠あるものであると思う。永享12年の石州諸郡段銭帳でも、佐野は河上知行となっている。

2011年1月 9日 (日)

「都治根元」と塩冶興久の乱(7)

  話が横道にそれたが、山室恭子氏(最近はあまり情報がないが、大学時代にこの女史に導かれ、石井ゼミならびに中世史の世界へ入ってしまった)の「太閤記は史学に益あり」という論文は強く印象に残った。少なくとも戦国大名について他の研究者が議論している内容よりは、はるかに真実に接近していると思う。研究により解明すべき課題は多々あるが、史料の欠如により解明できないものまでを無理矢理解明したかのように装っているというのが後者に対する感想である。
 尼子氏による杵築大社での万部経読経と国外への軍事遠征、さらには東部への軍事活動の成果(上洛する意図はない)と竹生島奉加帳を利用しての、安芸・毛利氏攻めへの国人の動員などは、これを企画した尼子経久のセンスの良さを示しているが、一面ではそれに対する反対勢力を生んでしまった。
  話が飛ぶが、信頼性の高い「おべに孫右衛門ゑんき」には、辛卯の年に小笠原氏が大内氏の役人のいた矢滝城を攻撃し、銀山が破れたとの記録がある。辛卯の年とは享禄4年(1531)であり、まさに塩冶興久の乱のまっただ中である。「根元」にみられた福屋氏、河上氏のように塩冶興久と結び付こうとする動きもあれば、独自の動きもみられたであろう。小笠原氏をして銀山攻撃に踏み切らせたものは、興久の乱による権力の空白であった。

「都治根元」と塩冶興久の乱(6)

 「都治根元」とその関連資料については、戦前の『都治村史』や戦後の『都治史伝』や『波積のさと』などでも述べられている。その意味では、今回述べてきたことの中で、新しいのは「塩冶興久の乱」についてのみかもしれない。従来は塩冶殿=新宮国久と理解(実際に、新宮殿と記す関連資料もある)していたことが大きい。興久の乱の開始時期とその大きさが明らかになるなかで、「都治根元」の記述が再浮上したということである。
 「根元」の記述の個々の妥当性については、今後ブログの中で検討し、その結果を述べていきたいが、従来、、地元の郷土史家はこれを最大限活用し、歴史の専門研究者は二次史料であるというだけで軽視していた。これに対して、以前、所謂「銀山旧記」について一次史料と付き合わせて信頼できる部分(あるいは本)とそうでない部分(どう違っているかを含めて)を明示したことがあった。思考停止はせずに、関連資料は骨の髄まで活用する。一人でできることは限定されるが、様々な個性が、それぞれの視角からそれを行えば、総合すると大きな成果が生まれるのではないか。
 といいながら2007年発刊の「石見銀山展」の図録をみると、相も変わらず「尼子・毛利・小笠原」による争奪戦が年表として記されていて唖然としてしまう。書いた本人も本人だが、編集者は何をしていたのか。同じ図録には拙稿「尼子氏の石見国進出をめぐって」(2000年)の成果を受けた小林氏の論考が掲載されているにもかかわらず。講演でも同様のことをまだ言っている人もいるようで、これまた‥‥。

出雲国囲碁番付について

 前に述べた出雲市神田家での出雲国西部の嘉永7年(1854))囲碁番付について、その後、『決定版 見立番付を楽しむ』(松江市ふるさと文庫12)が出版され、その校正中に、増川宏一氏が紹介していた弘化3年(1847)の囲碁番付、それも東部と西部のものが郷土史家が収集していることが確認された。さがせばまだまだありそうなのでこの本が「決定版」とはならないがと思っていたら、灯台もと暗しとはこのことで、島根県立図書館に嘉永7年版が東部版・西部版の両方が揃って所蔵されていた。何故か東部は同じ物が2枚だが、本来は出雲市の比布智神社の所蔵品であった。西部は、山本閑休がおり、且つ同じ文化圏である大森から岸本左一郎が出たことにより、とりわけ囲碁は盛んだった。
  個々の分析はこれからの楽しみであるが、2年分あることで、客観的にみることが可能となる。嘉永元年(1848)には大森の岸本左一郎が『活碁新評』を出版しているのである。
 囲碁好きの人々とならんで、「見物」のコーナーに、国内の主たる寺院関係者と地域の有力者がみえる。彼らは言わば「へたの横好き」の人々であろうか。これに対して神社関係者がみえないのはどうしてであろうか。本因坊秀策が来た際には神社関係者とも対局をしていたが。ともあれ、これにより出雲国の知のネットワークを知ることができる。
 出雲国東部と西部というとらえ方を知ることができることも重要であるが、意宇郡が東西に分かれ、西組が西の番付に組み込まれている。当然と言えば当然であるが、神社の縄張りからすると、神魂神社などがあることもあって、意宇郡東部が出雲大社(10郡中6郡半、神門郡・出雲郡・大原郡・飯石郡・仁多郡・能義郡)、西部が佐陀神社(3郡半、島根郡・秋鹿郡・楯縫郡)の縄張りであった。

2011年1月 6日 (木)

石田主税助について(2)

 報告書では続いて永禄11年の小浜村厳島大明神の元就による新規建立の際に石田主税助が普請奉行を勤め、慶長16年の再建にも石田氏が協力していることを記す。この点は本多氏論文で引用・紹介される『石見八重葎』の記述と合致している。さらにその後も神社や鳥居の修復のための奉加では最初に記帳し、毎年9月15日の祭礼時には神職が御神供物の御下りを持ち越す仕来りがあったとする。
 さらに判断に苦しむのが、文書目録に先立って記される系図である。系図は略写であるとして、主税助春俊までを記す。初代の石田判官藤原為久は、木曽義仲を射落とした功で、頼朝より伊豆国内で三千町を賜ると記す。14代為俊は毛利元就の下で安芸国高田郡石田城主となり、その嫡子為親は毛利氏について防州に下り、二男春俊は波積本郷利光城と市場屋敷に止まり、慶長10年6月17日に没したと記す。また、春俊の「春」は吉川元春の猶子となって与えられたものとする。
 文書も残り、系図も石田主税助の父の代は正しいとも考えられるが、平田氏、さらには都治氏も東国御家人出身と称したのに併せて、石田氏もその由緒を主張していると考えたい。何より古文書から知られる活動は、石見国在住でなければ不可能であろう。すなわち、「根元」にあったように石田氏は古くから波積で活動してきた一族であり、主税助春俊はいち早く毛利氏方となり、毛利氏もその能力を高く評価して、都治氏を介してではなく直接、毛利氏家臣の下に位置づけたのではないか。

石田主税助について(1)

 石田氏について、関係史料を確認したところ、郷原家にその文書目録と系図の写が残されていた(旧島根県史編纂資料近世筆写編)。関係文書は以下の6通が現存して知られている(島根県立古代歴史博物館所蔵)。
1)年未詳12月24日毛利元就書状(感状)、
2)年未詳3月晦日毛利元就書状
3)永禄12年9月晦日毛利元就書状*
4)年未詳2月17日毛利元就書状
5)永禄13年4月14日毛利元就承判従高瀬杵築江夜勤人数姓名帳
6)元亀4年5月9日毛利氏奉行人連署書状*
 5)は石田からの報告への承判で、*印の3)と6)は付年号で石田主税助を宛所とするが、その他3通は毛利氏家臣を宛所とし、1)のみは文中に石田が登場する。ここから石田が毛利氏家臣の下で活動していたことと、後に石田を直接の宛所とする文書がみられるようになったことがわかる(この点は本多博之氏の論文ですでに指摘されている)。本来、石田氏が都治氏の下にあった存在であったためと納得していた。
 文書目録には6通の他にさらに以下の6通が記されている。
7)永禄5年7月23日毛利元就・輝元連署判物
8)永禄5年12月2日毛利元就判物
9)永禄7年10月14日毛利元就判物
10)年未詳12月20日毛利元就感状
11)元亀3年極月15日毛利輝元判物
12)文禄3年2月28日今井越中・有松理助連署田畑坪付
 これは幕末の慶応3年正月29日に石田友左衛門が、命令に応じて大森本陣へ報告したものの写である。宛所と具体的内容は不明であるが、1)~6)の6通が現実に存在することからして、残りの6通も正しい文書として伝えられてきた可能性が高い。ただ、前の指摘と異なり、永禄5年7月段階で毛利氏当主から判物を与えられているところは気になるところである。元就・輝元の連署判物そのものはこの時点でありうる。同時期の石見国に残された他の文書と比較検討する必要はあろう。

2011年1月 3日 (月)

吉田攻めまでの尼子氏(7)

 天文年間前半の尼子氏による東部遠征は、興久の乱以前の西部遠征と異なり、尼子氏直臣の富田衆中心(+出雲国東部の国人)で行われている。これも興久の乱後の尼子氏の対出雲国人への融和政策を示している。湯原幸清の東部遠征参加は、天文6年12月の時点で確認できる。本願寺側が尼子氏の有力家臣に書状と刀を送っているが、その中に湯原もみえる。そして天文8年12月には播磨国の寺院に禁制を下し、天文9年6月25日の安芸・武田氏家臣の書状の中で、湯原が近々安芸国へ下って来ることが述べられている。以上のように、天文6年後半から天文9年前半までの2年間、湯原は東部方面の遠征に参加していたため、湯原と河副が連署した書状を天文8年に比定する見解もまた成り立たないのである。さらに言えば、これも天文8年とされる9月9日付で経久が吉川氏庶子に対して出した預状は、「委細者亀井可申候」とあり、天文年間ではなく、大永年間のものである。
 「前稿」では、尼子経久と詮久の文書発給の問題と石見国の情勢、さらには安芸・備後国の情勢をすべて勘案した上で年次の比定をした。それ以前の通説が、尼子詮久の民部少輔任官の時期(天文5年末)を無視した見解であったことに驚いたが、またしてもということである。「尼子方による山県郡占拠」が天文8年以前には考えられないというのは、あまりにも短絡的な考え方である。その説は、通説の矛盾に気づいてのものではあったが、結果としては前説と同じレベルの考察に終わってしまっている。もう少し「資料の声を聴く」努力が必要ではないか。
 尼子氏による吉田攻めについても、大内氏による武田氏圧迫への援軍であるとの見解があるが、富田衆のみならず出雲国とその周辺地域の有力国人を総動員してのものであったことが、東部遠征とは決定的に異なっている。竹生島の奉加帳と東部遠征の成果をアピールしつつ周到に準備して行われたものというのが、現在の私の見解である。それが失敗したことは後々に大きな影響を与え、以後、このような大規模遠征は行われなかった。

吉田攻めまでの尼子氏(6)

 経久と詮久の文書は、後者にのみ「今度致出張」とあり、詮久自身が山内氏攻撃を指揮していた。そして富田城にいた経久と連絡を取り合うなかで、方針が決められたのだろう。毛利氏が享禄2年5月に高橋氏を滅ぼして得た所領を失うのはこの時と考えるべきである。その状況と適合するのが、3月14日付の湯原幸清・河副久盛連署書状である。両者から吉川氏方の森脇縫殿允と吉川式部丞にあてた書状は3通あるが、3月14日付の冒頭には「就此面出張、早々御音信」とある。吉川方からの3月10日付の書状を前日の13日に受け取ったのである。この書状が今回出張最初の尼子氏からのものであったことはここでわかるが、「尼子」では7月27日付のものを、享禄2~4年のものとして配置している。まさに塩冶興久の乱の時期であり、成り立たない見解である。
 7月27日の書状に「高橋牢人衆」が登場していることから享禄2~4年とされたのだろうが、高橋牢人衆が狼藉をするためにも、尼子氏による備後国北部の制圧が必要である。所領回復のチャンスが到来したので問題が発生している。
 「尼子」では3通以外を「年未詳であるが、天文8年と推定される」として、天文8年に配置している。ところが、そこには致命的な問題点がある。それは尼子氏方の湯原・河副連署のものと、河副単独の書状の違いを無視してしまっている。「前稿」では、湯原が播磨国など東部遠征に参加した時期に、河副単独の書状が出されていることを明らかにしていたにもかかわらずである。

吉田攻めまでの尼子氏(5)

 吉田攻めに至る経過の解明には、吉川家文書に残された尼子氏関係文書の年次比定が大きなカギとなる。この点については「尼子氏の石見進出をめぐって」(以下では「前稿」)の中で検討したことがある。現時点でもその際に比定した年次でよいと考えるが、その後、安芸・備後国の状況から関係史料の大半を天文8年のものとする研究が発表され、『出雲尼子史料集』(以下では「尼子」)でもその見解に基づき、文書が配置された。それは以前の通説同様、多くの問題点を含むので、再度確認したい。なお、その見解については、広島の研究者の方から発表のレジュメを頂き、確認した。
 ポイントの一つは、尼子方による山県郡占拠が天文8年以降としか考えられないかということになる。具体的には毛利元就知行注文案の記す「頭崎之時放候在所之事」の「頭崎之時」がいつかということである。天文5年3月21日に尼子経久と詮久が、断絶した山内方遺跡を聟法士に相続させるので、忠節を尽くすよう命じている。これまで塩冶興久の自害を系図の記載に基づき、天文3年12月としてきたが、過去帳が示す天文4年12月が正しい。天文2年以降尼子氏は山内氏を攻撃してきたが、天文4年末に至ってようやく追い詰め、興久の自害となった。それは山内氏を守るための行為であったろうが、尼子経久は認めず、断絶(自害であろう)を決定したのである。そして、多賀山氏出身で幼少の聟法士を後継者としたのである。

2011年1月 1日 (土)

郷原氏と「都治根元」(2)

 「由緒」によると、郷原氏は伯耆国八橋郡郷原(現在の東伯郡伯耆町)の庄官であったが、後醍醐天皇による倒幕に参加し、その後石見国に移ったとする。「根元」にも登場する佐波氏とともに高師泰と戦って敗北し、その後は武士ではなく神主として波積村上垣内に居住していた。それが、基行が尼子氏と結んで石見国守護代となるとともに(この点は「根元」にはなく、郷原本と同氏由緒のみ)、郷原美濃守となったとする。尼子方として波積郷を支配していたが、天文一四年三月一三日(明治5年提出の書上帳には永禄3年2月6日とする)に、河上松山城が落城した際に、郷原美濃守基行は討ち死にした。これが大内氏方による攻撃か、石見国内の国人間の対立によるものかは不明である。尼子氏が石見・安芸国への出兵に積極的で無かったこともあり、小笠原氏など尼子氏と関係を持った石見国人も、この時期には独自の動きを行っている。その子宮内大輔信行も負傷したが、後に石田主税助の仲介を得て、毛利氏方との関係を修復し、都治隆行の子を養子に迎え後継者とした。これが前述の治部大輔幸定である。
 石田氏は「根元」によると、郷原氏(「根元」には上垣内氏とあり)とともに波積郷の有力領主として都治氏の下にあった。平田氏は河上ではなく、都治郷で都治氏の下にあった有力領主である。河上郷の一族が都治への移り住んだのであろうか。なお石田主税助については、近年「石見石田家文書」の存在が明らかになり、その性格が注目されている。「由緒」には主税助が都治村八幡宮と波積村岩瀧寺鎮守熊野大権現再建の際に、吉川和泉守とともに、奉行を務めたとする。そして、石田主税助は、毛利氏が石見国を去った際にはついていかず、以前の稲置館の跡で当時は市庭と呼ばれていた場所に館を構え、出家して常孝と名乗った後に死亡したと記されている。
 「由緒」では、都治隆行は嫡子経行にその跡を譲ると、波積村内に居住した。そして隆行の二男郷原幸定は「都治旧記佐々木家秘蔵六韜巻」と隆行の画像の写しを所持していたが、その内の「都治旧記」の写は、元和元年に都治村極楽寺景漣法師に貸したところ、奪われてしまったという。
  この「由緒」により、「根元」作成と伝来の経緯はかなり明らかとなるのではないか。鎌倉・南北朝期の記載内容については、その自己主張もあり要検討であるが、室町・戦国期の記述は(一部の固有名詞と時期に混乱はある)基本的に信頼できるものである。

郷原氏と「都治根元」(1)

 「根元」には諸本があると述べたが、その一つに波積村郷原氏の所蔵本がある。これを天正19年にまとめた平田加賀守から文禄元年に郷原治部大輔が送られている。「根元」には都治氏、河上氏のみならず、家臣であった平田氏が石見国に入部する過程も記されている。それによると、石見国内の平家方を掃討するため、平田四郎が文治5年2月下旬に石見国那賀郡の公文職として下都治に入部したとする。次いで、建久5年に頼朝が上洛した際に、再度関係者を中国地方に下し、平田四郎も同年3月に都治に再度派遣されている。それに先立ち平田氏は源平合戦の恩賞として信濃国に所領を得ている。平田四郎は平田氏に男子がなかったため、江馬遠江守の二男が養子に入ったものであるとする。戦国期の江馬氏は飛騨国高原諏訪城を本拠としていた。その関係か、平田加賀守は諏訪を苗字としている。諏訪は平田氏ではなく江馬氏の苗字であるにもかかわらず。
 近年の研究から、鎌倉初期の石見国東部には東国御家人が一定程度入部し、中期には安濃郡に守護所があったとの説が有力となっており、平田氏が東国御家人であったかどうかは確認できない。とりあえず、河上氏の本拠地内に平田が存在しているので、河上・都治氏が信濃国佐々木氏であることとともに、疑問ありということか。ただ、小笠原氏にしてもそうだが、平田氏が諏訪を名乗るように、父方ではなく母方や養子元の情報を取り込んで主張することがあったのだろう。
 話を郷原氏に戻すと、「根元」は天正19年に平田加賀守によりまとめられ、郷原氏には文禄元年に平田加賀守が写して渡している。宛所としてみえる郷原治部大輔とは、郷原宮内大輔信行の女子と結婚して信行の跡を継いだ治部大輔幸定で、都治三河守隆行の二男から郷原家へ養子に入った人物である。この点については、慶安3年に幸定の孫と思われる郷原宮内大輔が記した「郷原家由緒」に記されている(以下では「由緒」)。

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