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2010年12月

2010年12月30日 (木)

「都治根元」と塩冶興久の乱(5)

 彼の誕生が大永3年2月であれば、享禄4年4月のこととなる。興久の乱の勃発は、出雲大社での3度目の万部経読経が行われた(享禄3年2月)直後の3月8日のことであった。そして、同年5月28日の陶興房から毛利氏側近志道氏への書状では、現時点では塩冶方が軍事的には勝っていると述べているのである。「佐々木系図」では「興慶」が塩冶から退いた時期を享禄4年4月とする。4月12日には経久が赤穴氏に対して備後国内の所領を与えるので、実力で切り取るよう命じている。そして8月頃には尼子氏が興久方であった横田庄三沢氏を攻撃しているのである(三沢氏惣領や庶子でも三沢紀伊守は尼子氏方)。
 これまで、塩冶興久の乱の具体的過程については、宍道湖北岸の佐陀城をめぐる戦闘で興久が敗北したとの軍記物の記述しかなく、これと陶興房が述べた状況のあまりの落差にどまどうしかなかったというのが、正直なところであった。「根元」の各時代の記述についてはそれぞれ検討が必要であるが、この大永年間から享禄年間にかけての記述は事実に基づくものである可能性が高い。そして、興久の乱の実態を知らしむる史料である。さらに言えば、大原郡は能義郡富田庄とも境を接し、尼子氏と富田衆の所領が集中する重要な場所であり、加茂在陣中の戦闘の結果が乱の帰趨に大きな影響を与えたであろう。
 陶興房は書状の最後のところで、毛利氏に対して石州表に至り相勤べきと述べ、大内方の諸勢到着を待つとしている。以前、天文年間の尼子氏による吉田攻めの失敗が、尼子氏による石見銀山支配の実現を妨げたことを述べたことがあるが、この塩冶興久の乱も尼子氏による石見国支配にとって大きな後退をもたらしたであろう。そのことは、都治氏の後継者となった糸鶴が「隆行」と名乗っていることにも示されている。歴史に「たら」「れば」は禁物であるが、吉田攻め以上に、興久の乱は大きな意味を持った。後に起こる尼子晴久による新宮党討滅も同様の意味を持ったであろう。なぜ、興久の乱と新宮党討滅を尼子氏権力の強化と評価されたのか、今以て不可思議である。

「都治根元」と塩冶興久の乱(4)

 大永6年(1526)には大内氏と関わりの深い人々により石見銀山が発見されている。尼子氏による迩摩郡支配は一円的ではなく、大内氏の勢力もなお強かったであろう。そうした中で、享禄3年(1530)に塩冶興久の乱=クーデターが発生した。「根元」では興久が父経久を「富田一城に追込めんとした」と表現している。興久が大内氏に支援を求めていたことも史料で確認できる。乱の直後に福屋氏は興久へ使者を派遣し、都治一跡を与えられるよう求めている。これを聞いた河上元祐は出し抜かれたとして、弟をやはり興久のもとに派遣した。当時興久は中郡=大原郡加茂に在陣中であった。父経久方との戦闘の真っ最中であった。福屋氏が亀井駿河守を通じて訴えたのに対して、河上氏は亀井惣兵衛を奏者として訴えた。駿河守と惣兵衛はともに経久の側近亀井能登守の関係者で、塩冶興久の側近として付けられた人物であろう。
 両方からの訴えを受けた興久は、国内の政治と文化に通じた多賀安芸守に意見を求めた。多賀氏惣領美作守のことで、尼子経久の孫誠久(国久の子)とその女子が結婚したばかりであったにもかかわらず、経久ではなく興久を支持した人物である。軍記物では、本人ないしその子であろう「多賀美作守」をこれまた出雲国の事なら何でも知っている通として描いている。
 多賀氏の判断は、都治を河上氏に与えて河上氏を味方にすべきであるというものであった。河上郷と都治郷は江川を挟んだ両側の所領であり、この両方を河上氏に支配させてこれを味方とすれば、江川西岸への軍事行動がたやすくなるとの判断であった。これを聞いた興久はその意見を容れて、都治郷を河上元祐に預けることとした。その結果、河上元祐のもとで成長しつつあった隆行は、9才になった年の4月に都治に戻ることができた。

「都治根元」と塩冶興久の乱(3)

 大永3年11月には岩屋寺の僧快円が冨田城で護摩を焚いている。その目的は、石州三隅の陣の留守祈祷であったが、大内氏家臣が続々と来陣したのに対して、出雲国衆は一人も着陣しなかったということが「快円日記」に記されている。この点について「根元」は、尼子氏が浜田・長浜・周布を攻略したため、三隅氏が海城とでも言うべき細腰(浜田市瀬戸ヶ島町付近か)に立て籠もって抵抗したこと、これを攻撃するために尼子氏は美保関から江津にかけての水軍を動員して攻撃したが落城しなかったことを述べる。次いで、大内氏方の陶氏が三隅氏救援のため対陣したため、事態は膠着し、陶軍が攻撃をしかけても尼子軍が応戦しなかったこと、尼子経久が和談を提案して軍を引き上げたことを記している。
 このあたりの「根元」の記述は事実を反映したもので、大永3年の尼子氏による石見・安芸国遠征には出雲国人も動員されたが、大内方の反撃が本格化すると、一定の成果を上げたとして尼子方は石見国西部から撤退したことがわかる。成果とは江川東岸=石見国東部を掌握したことで、大永3年から4年にかけて日御崎社修造勧進簿が作成されている。大永元年に細川高国と対立して畿内から阿波国へ逃れていた足利義稙の署判を得た上で、出雲・隠岐両国と伯耆西三郡と石見東三郡の棟別銭により日御崎社の遷宮を行うというもので、最終的に勧進簿が完成した大永4年4月段階では義稙は死亡していたが、尼子氏による支配地域を印象づけるものであった。大永5年に小笠原氏とその家臣井原氏が伯耆国淀の合戦に動員されているのも成果の一つであろう。
 都治氏の問題に戻ると、大永2年9月以降に、都治兼行・興行父子は自害に追い込まれた。興行の子(後に隆行)が誕生したのは大永3年2月のことで、母の実家河上元祐のもとであった。「根元」によると尼子経久は男女の確認を行い、男子であれば殺害せよとの方針であったが、時を同じくして生まれた元祐の子国祐のもとで誕生した女子を見せることで難を逃れたという。毛利家の相続に尼子経久と亀井能登守が干渉したのを想起させる事例である。

「都治根元」と塩冶興久の乱(2)

 無関係に思えるかもしれないが、尼子氏のもとにあった朝山日乗は尼子氏から離れ、毛利氏と結ぶことにより、中国地方の統一が実現することに協力した。次いで日本統一を期待して織田信長と結んだのである。その意味で日乗は戦国時代の平和主義者であり、その立場から内裏の再建も行った。
 大永2年5月に尼子経久は、三刀屋対馬守の所領を安堵し、三刀屋氏の支配下にある人々が諸役を負担することを求めている。そして9月以降の石見国今井城攻めとなった。下都治の拠点である今井城には、都治駿河守兼行と嫡子興行以下の兄弟が守っていた。尼子氏の襲来に備えて福屋氏の家臣も派遣されていた。駿河守兼行は自害し、一旦は福屋氏のもとに逃れた興行以下の兄弟も尼子氏と福屋氏の交渉(和与)の結果自害に追い込まれ、都治家は断絶した。都治兼行・興行父子の名前からは、福屋氏(兼)ならびに大内氏(興)との関係が窺われる。
 次いで翌大永3年7月には尼子氏が江川を渡り福屋氏の拠点を攻撃している。同時に安芸国西条も攻撃を加えており、大内氏方の切り崩しを図ったのだろう。7月には亀井能登守が毛利氏の家臣粟屋備前守に書状(感状)を送り、尼子経久も平賀尾張守に感状を与えている。一方、大内義興は、阿川弥七に対して7月23日の賀戸塩田浜(江川東岸の江津市渡津町に賀戸と塩田あり)の合戦で父掃部允総康が討ち死にしたことに対する感状を与えている。
 そして8月14日には経久が江川西岸の波志浦を日御崎神社の旧領であるとして、新寄進している。日御崎社には、波志浦が所領であったことを示す文書目録が残されている。基本的には目録に示されている鎌倉期の文書は偽文書であるが、海と関わり合いの深い日御崎社が波志浦に勧請されたことが過去にあったのかもしれない。尼子経久にしてみれば、日御崎社に寄進することで、江川西岸に拠点を確保したかったのであろう。少なくとも出雲国人に恩賞として与えるよりは、安定して確保できたのではないか。

「都治根元」と塩冶興久の乱(1)

 石見国の有力国人都治氏と河上氏の歴史を記したものは表題の都治根元(以下では「根元」)の他にも数種類が知られているが、その内容に大きな違いはなく、最初のものが様々な立場から転写される中で、今の形になったのであろう。「根元」の中で、都治氏と河上氏が「伴氏」であると言われている点について「不審」として、源義家の弟義綱の末裔である信濃佐々木氏の一族であることを述べている。実際には、両氏は都野郷を支配した都野氏と同様に石見国衙の有力在庁官人伴氏の一族に他ならない。ただ、「根元」の中には都野氏は一切登場せず、兄弟であった都治氏と河上氏が分かれる以前に、都野氏は独立していたのだろう。
 この史料が引用されるのは尼子経久の石見国進出に関する記述であるが、それを含めて内容の信憑性は玉石混淆と言わざるを得ない。問題は、どこが事実に基づき、どこが異なるのかという点である。「根元」についてはこれまでほとんど知らなかったというのが実態であるが、必要に迫られて精読した。ここでは、尼子経久とその子塩冶興久に関わる部分について確認する。
 「根元」では尼子氏の石見国進出を大永元年(1521)壬午9月26日とし、次いで翌2年にも再度石見国への軍事的行動を展開している。ところがそれは一次史料で確認できないので、史料の信憑性に問題ありとされてきた。ところが壬午は翌大永2年にあたり、1年ずらして考えると一次史料にみえる尼子氏の動向と合致してくる。
 すなわち、大永2年2月に尼子経久は出雲大社で、国内有力寺院の僧を集めて法華経の「万部経読経」を行っている。法華経の読経は平和を実現するものと考えられていたのである。その後、平和を実現するための国外遠征を行っている。こう書くと矛盾すると思う人もあるだろうが、尼子氏の石見国平定により平和=政治の安定が実現すると考えたのであろう。なお、同年には塩冶興久により、塩冶八幡宮の再建も行われている。

2010年12月24日 (金)

宍道氏系図について

 これについては『宍道町史』の中で井上氏が分類紹介されているが、その異同の理由を含めてよくわからないというのが実感である。一方、HP「日本氏族大観」では、『宍道式部家譜録』1745と『宍道系図』1842を出典とする宍道氏系図を掲載している。その内容は宍道氏の理解に参考になる点があるので紹介したい。
 宍道氏は京極高秀の子八郎秀益が父から出雲国宍道郷を譲られたことにより成立した一族である。同じく高秀の子高久を祖とする尼子氏が近江国尼子を苗字としたのに対して、早くから(初見は永享2年=1430)宍道氏を苗字としている。その一族は宍道郷だけでなく島根郡加賀庄内にも所領を与えられていたが、その一方では幕府外様衆に位置づけられていた。応仁年間には宍道九郎が京極氏の守護代尼子氏に代わって出雲国の成敗を行うとの噂が流れたように、尼子氏に匹敵する勢力を有していた。宍道氏惣領は「八郎」を称しているので、「九郎」とは在京する惣領(八郎)に対して在国していた一族かもしれない。
 文明5年には出雲国朝山郷牛蔵寺領の還補について、幕府から宍道八郎に対して寺家雑掌への沙汰付けが命令されている。この人物が任官したのが文明13年に確認できる宍道兵部少輔秀藤であろう。今回の系図ではこの人物を宍道兵部少輔慶高の嫡子八郎秀慶と記す。後に秀慶から秀藤に改名したのであろう。
 多くの宍道氏系図では秀慶ではなく義秀とし、その後継者を義景とする。そしてその孫ないしひ孫の久慶が尼子経久の娘と結婚したとするが、秀藤(秀慶)が経久と同世代であり、無理がある。それに対して今回の系図では、慶景(義景)を兵部少輔慶高の兄弟としている。そして慶景の孫(慶信の子)ないしはひ孫(慶勝の子)として久慶を記している。
 兵部少輔秀藤は永正13年(1516)まで確認でき、幕府御料所朝山郷と国造・塩冶氏・古志氏の対立について、国造側が狼藉する場合は成敗せよと命じられている。これに対して、久慶と経久娘の間に産まれた宍道経慶(ただし、系図によっては久慶と経慶の間に慶勝を入れているものがあり、異同がある。このあたりは混乱がみられ兄弟を親子と記しているのだろう)の生年は16世紀初めと考えられる。従来の惣領であった秀藤系に対して尼子氏と婚姻関係を結んだ庶子家が新たな惣領になったのではないか。
 今回の宍道氏系図も他の系図と同様の混乱はみられるが、宍道氏の惣領が秀藤系から尼子氏と結ぶ庶子家に代わったというのは、従来の系図の混乱に対する有力な解釈となるのではないか。

2010年12月23日 (木)

勝部宿禰一族について(4)

 同じく守安の兄弟である明元は建久5年の万田郷司であったが、その庶子元光に「万田七郎」との付記があり、文永8年の万田新庄地頭万田七郎と一致する。一方明元の嫡子と思われる明政には「多久太郎」と「秋(鹿)庁事」との付記があり、承久の乱で重(上皇)方として討ち死にしたことも記されている。そして明政の子家光には「本庄孫太郎」の付記があり、文永8年の万田本庄地頭万田二郎太郎と同一人物と思われる。明政が多久郷を失い、その嫡子家光は庶子領であった万田本庄を譲られたのだろう。
 同様のことは、守安の兄弟孝光についても言える。孝光は建久5年には法吉郷司で、その嫡子と思われる明廣が平田庁事、庶子盛孝と光元にはそれぞれ「法吉太郎」、「法吉七郎兵衛」との付記がある。平田保と法吉郷はいずれも承久の乱後に東国御家人が地頭として入部しており、孝光の子たちは承久京方で没落し、平田と法吉を没収された可能性が高い。ただ、明廣の嫡子四郎廣政にも庁事との付記があり、実際に建長元年の出雲大社遷宮の注進状には廣政が登場し、注進状の署判者の一人「勝部宿禰」には「廣政」との追記がなされている。
 以上のように、文永8年の地頭名と信頼性の高い系図の記載を整合的に解釈すると、勝部宿祢一族の中で、源平争乱並びに承久の乱で平家方または後鳥羽上皇方となって没落した人々が多数おり、没収されて東国御家人領となったものや一族の人物が継承を認められた例が少なからずあったことになる。これらの点については、「鎌倉幕府の成立と出雲国」で論じたことがあるが、正確さに欠けるところもあり、再度整理してみた。基本的には朝山郷を支配する人物がその時点の勝部宿祢惣領であるが、建久年間の解状にみられたように、世代や年齢の違いによって序列が記される(惟元が惣領だが末尾に記されている)こともあった。

勝部宿禰一族について(3)

 系図に登場しない勝部宿祢一族としては、長田東郷地頭長田蔵人がいる。一方、長田西郷地頭長田四郎兵衛尉政(昌)元については、系図には守安の兄弟資元の子時元が長田庁事と付記され、時元の子昌元に「長田四郎兵衛尉」との付記がある。この昌元が在国司朝山昌綱の死後在国司となった。長田東郷地頭長田蔵人は系図にみえず、時元とは別系統の勝部宿祢一族であろう。そして、昌元の子余一昌遍(昌重)は嘉元元年(1303)には所領を収公され、その跡は一族の長田太郎左衛門尉雅綱に与えられた。この雅綱も系図にはみえず、長田東郷地頭の一族であろう。
 惟元の子貞元には「石坂兵衛入道」と付記されるので、石坂郷(保)を支配したのであろうが、承久の乱後には東国御家人恩田氏が地頭となっている。これに対して同じく惟元の子圓顕の子宗綱には「玖漂四郎」と付記され、文永8年の玖漂社地頭玖漂四郎と一致する。
 元宗の子で守安の兄弟である資元には多祢庁事と付記され、飯石郡多祢郷とその周辺に所領を有していたであろう。それが、その嫡子頼元が多祢郷を継承したのに対して、次子時元は前述のように長田庁事と付記されている。本来の長田庁事が承久の乱で没落し、その跡の継承を認められたのだろう。これに対して長田東郷地頭は本来の長田庁事の子孫である可能性が高い。ただ、頼元の子政元には「建部七郎」との付記があるが、承久の乱後の建部郷地頭は東国御家人大蔵氏であった。

勝部宿禰一族について(2)

  さらに建久5年の解の裏書きには10人中筆頭の助盛を除く9人について、「~郷司」と記している。勝部宿祢については、明元が万田郷司、政光が塩冶郷司、孝光が法吉郷司、さらには惟元が朝山郷司である。明元、孝光、惟元は「大伴系図」にみえるが、塩冶郷司政光は系図にはみえない。3人の中では惟元が惣領であるが、明元、孝光は惟元の父守安の兄弟=惟元の伯父であるため、このような序列となっているのだろう。
 惟元の嫡子惟綱と次子元綱については、元久元年(1203)にそれぞれ右兵衛尉と右馬允に任官していることが確認できる。ところが、惟綱の弟である元綱と長元の系統が地頭となっているのに対して、惟綱系の人々は嫡子光綱は任官しておらず、乃木郷地頭光綱と惟綱女子の間に産まれた高定=惟綱孫が木津島地頭となっているのみである。承久の乱で嫡子惟綱系は没落し、これに代わって庶子の元綱と長元系の人々が所領の継承を認められたのだろう。
 佐陀神主についても、建保2年(1214)7月には勝部四郎丸が佐陀御領下司職に補任されているが、これを長元の父惟元に比定することはできない。四郎丸の系統も承久の乱で没落し、惟元系の長元がその跡の継承を認められたことになる。系図では長元は文永5年に死亡したと記されており、文永9年段階で佐陀社地頭が「佐陀神主跡」と記されていることと合致している。

勝部宿禰一族について(1)

 鎌倉時代の出雲国の国御家人で最大の勢力を誇ったのは勝部宿祢一族であり、その惣領は朝山郷を支配した朝山氏である。その勝部宿祢一族に関する「大伴系図」は信頼の置ける史料であるが、その一方で、文書に登場しながら「大伴系図」にはみえない勝部宿祢一族の人物も少なからずみられ、「大伴系図」は勝部宿祢一族の一部を記した系図と考えざるを得ない。
 文書でその存在が確認できる最初の人物は12世紀半ば頃の元宗であり、彼は出雲国衙の有力在庁官人であった。系図ではその嫡子と思われる守安に「佐世庁事」と付記されているので、元宗は大原郡を本拠とする勝部宿祢一族であったろう。、惣領は在庁官人筆頭に位置する孝盛であったと思われるが、系図には登場しない。
 次いで、建久2年7月の出雲国在庁官人等解には、12名が署判しているが、うち5名が勝部宿祢一族である。在庁官人の序列からすると、1番、7~9番、12番となる。筆頭の勝部宿祢に続いて、中原朝臣2人、出雲宿祢1人、藤原朝臣1人が続き、ここまでの5人が庁事である。その後に藤原朝臣1人と勝部宿祢4人、出雲宿祢2人が続く形となっている。また後に作成された史料ではあるが、建久5年の出雲国在庁官人等解には10人が署判している。建久2年のものと比べると藤原朝臣と出雲宿祢が各1人少ないが、筆頭の勝部宿祢の後に中原朝臣2人、藤原朝臣1人と出雲宿祢1人が続き、ここまでの5人が庁事である。その後に勝部宿祢4人、出雲宿祢1人が続く構造は建久2年のものと変わりがない。建久2年と5年の解で筆頭に署判している助盛は系図には登場しない。

2010年12月22日 (水)

国造と神主・惣検校

 神主と惣検校との関係については井上氏の分析があるが、国造との違いについては明解にこれを論じたものがない。出雲大社造営に関わったのは神主・惣検校であり、国造ではなかったことを述べたので、中世における両者の違いについて整理してみる。以下では神主・惣検校を神主と表記する。
 国造が主張するのは遷宮時に御神体を奉懐することであり、それゆえ遷宮時の神主は国造以外であってはならないとした。これが後には、国造のみが造営旧記を所持するがため、造営・遷宮時は国造が神主でなければならないと主張した。そして国造義孝は過去の前例を引きながら、常に国造兼神主でなければならないとした。
 ただ、本来、造営旧記を保持・保存するのは国衙の役割であった。それが承久の乱で有力在庁官人が没落したため、それまで国衙で保存されてきた造営旧記は失われた。一方、国造側は建久2年の訴訟のため作成した造営旧記の写しを所持していたのである。
 建保2年8月の土御門院下文には、国造孝綱の主張として、国造が神事を奉行する職であるのに対して、神主は社内を奉行=社務を行う職であるとしている。そして国造は、後に作成した史料では、国造は神主に付随する職であるとも述べている。これに神主が大社司とも呼ばれていることを併せて考えると、神主が国造の上位にあるポストであることは明確であろう。
 国造と神主については、それぞれその地位をめぐる対立があった。国造については、宗孝(兼宗)系と兼経(宗房)系の対立があり、神主については国造と出雲氏の一族の間で激しい対立がみられた。同じ出雲氏でありながら、国造の地位を争ったのはより近い一族であり、神主を争ったのはより早くに分かれた出雲氏一族か、中原孝高のように、母親が国造の娘という外戚の人々であった。ということで、出雲氏については、①国造家と②出雲氏の中で最近分かれた一族、③内蔵氏などのように早くに分かれていた一族の3つに分けることができる。
  出雲氏を3つに分ける必要があるのは、出雲大社領は国司の寄進になる所領と、国造の寄進になる所領からなるとされるが、国造になる家も交替がみられており、正確には広義の出雲氏の寄進になる所領と記した方が適当だと考えるからである。

2010年12月19日 (日)

国冨、林木、美談、宇賀

 これらの地域は17世紀半ばに楯縫郡に編入されるまでは出東郡に属した。また、中世前期の楯縫郷で最も重要な所領は多久郷であったが、中世後期には平田保がその地位を取って代わっている。この背景にも斐伊川東流路の問題があった。
 戦国期以前の東流路は現在よりも東の位置にあり、鳥屋・武志と富郷などの間を流れていたと思われる。そのようになった時期は、すでに述べたように、11世紀半ばではないか。これにより、出雲大社とその神戸は河によって隔てられただけではなく、神戸内の既存の土地も流路となって失われ、それが国司による正遷宮の所領寄進と関係する在地領主により土地の開発につながったであろう。
 問題はそこから宍道湖へ至る流路の状況である。国冨・林木・美談・宇賀などが依然として出東郡にとどまったからには、その南側を流れる斐伊川東流路の川幅は大きくなかったのではないか。それは、東流路が幾重にも分岐して流れて宍道湖に入ったことを意味する。それがため、楯縫郡多久郷が現在の斐川町域まで大きく南側に張り出しているという状況は戦国期にもみられた。それが、戦国期に東流路が現在の流路に近くなり、最北端の流路が中心となった。それにより平田が多久に代わって楯縫郡の中心となのではないか。平田の台頭の背景としては宍道湖へ東流路の中で一番北側の流路が中心となったことにより、斐伊川・宍道湖水運において重要な位置を占めたことが考えられる。}
  なお鰐淵寺領となった国冨郷の地は古代は出雲郷で、中世も出東郷であったが、この地の地頭に内蔵孝元が補任された意味(内蔵氏の勢力圏)についても考える必要がある。

国衙社家相共に(4)

 そして旧記が建久元年に正遷宮の命令が出された記事で終わっているのも、それがいつ写されたかを明確に語っている。また、国造は建久元年の正遷宮時には一旦神主に復帰したが、建久元年の正遷宮やそれに至る造営の記録は保持していない。それは国衙が保持していた。出雲大社造営は、安芸国とは異なり、国衙主体で行われ、社家の関与は限られたものであった。国衙に関係文書が保存されているならば、神主の出番は、出雲大社領からの造営料の徴収を除けばほとんどないのである。
 これに対して承久の乱後は有力国衙在庁官人の没落もあり、国衙が出雲大社造営文書を保存することはなくなってしまった。そのような事態を招いた最大の原因は、出雲国守護が京方で没落したことではなく、出雲国知行国主であった源有雅が後鳥羽の側近であったことであった。有力在庁官人の多くは出雲国守護と行動を共にしたのではなく、知行国主との関係で後鳥羽方となり没落した。これに対して出雲大社領は後鳥羽の嫡子でありながら、乱への関わりがなかった土御門院領であったため、乱の影響は小さかった。このことも、国造の出雲大社並びに出雲国内での位置を上昇させた。その上に、領家藤原家隆が死亡して後、長らく領家の主体的動きは見られなかったのである。

国衙社家相共に(3)

 問題は出雲大社造営への社家の関与でなく、国造の関与である。国造は13世紀半ばには伊弉諾社の造営権を所持していたが、出雲大社造営に関与していたのは国造ではなく、神主(惣検校)であった。それゆえ領家は、実政を神主に起用する前に、阿式社の寸法に基づき仮殿造営を行えとの院宣を得ていたのである。前回の仮殿造営に際し、文暦2年(1235)閏6月に領家藤原家隆は、年内に棟上げを行うことと、造営文書等を披見して先例に任せて沙汰することえを神主に命じている。次いで同年9月には出雲真高が種々奔走したが、成果について無言で報告がないとして、国造義孝を神主職に補任し、造営の沙汰にあたるよう命じている。とすると、閏6月の神主は出雲真高であったことになる。真高は2年前の天福元年(1233)に刃傷に及んだとして一旦神主職を解任され、内蔵孝元が神主職となっているが、すぐに復帰していたことになる。以上のように社家で出雲大社造営に関与していたのは国造ではなく神主であった。そして国造義孝が神主職に復帰した決め手は重代造営日記文書を所持していたことであった。
 ではなぜ義孝は文書を所持していたのであろうか。そしてそれは具体的には何年の造営文書であったろうか。後者については、現在出雲大社文書として残されている11世紀半ばから12世紀半ばまでの造営と遷宮に関する旧記である。
 神主が出雲大社造営にあたったとはいったが、あくまでも主体は出雲国衙の目代であり、在国司であった。仁治3年(1242)12月、在国司勝部昌綱は出雲大社功により右衛門尉に任官している。本来、造営関係文書を所持したのは国衙であった。少なくとも承久の乱の前までは所持しており、それに基づき承久2年(1220)には、建久元年(1190)の正遷宮以来31年が経過しており、大破する前に遷宮事業(仮殿から正殿へ)を実施べきであると述べている。これに対して、義孝が所持していたのは建久2年に、神主をめぐる国造孝房と内蔵資忠の対立で、孝房の正統性を主張するために、在庁官人の協力のもと写した文書であった。そしてそこで天永3年(1112)の正遷宮を永久2年(1114)と写し間違えたため、建久2年の在庁官人解では、正遷宮を天永3年ではなく永久2年と誤ってしまったのである。これに対して前述の承久2年の国衙文書では天永3年という正しい年紀を記している。

国衙社家相共に(2)

 問題は国衙と相共に造営を行う社家の内実である。文永9年2月以前に後嵯峨院宣が出される迄は、仮殿造営であることもあり、阿式社の寸法を以て大社造営を行えというのが院の命令であった。文永7年の焼失後に最初に示された方針が大きく変わったのである。
 文永7年(1270)正月の焼失時点の神主は国造泰孝であったが、まもなく出雲実政に変わった。阿式社寸法という点が明記されていれば、実政が神主であっても問題はなかった。実政の神主就任は領家だけではなく、出雲国衙や守護の勢力と連動したものであった。文永8年11月には有名な出雲大社三月会の頭役負担が定められたばかりであるのに、翌文永9年には出雲国目代氏定並びに政元と国造の対立が表面化している。また鰐淵寺から出雲国守護に出された訴状によると国御代官と在国司が関東御下知と号して大般若の布施を減らし、三月会の神事が延期になっている。国御代官とは守護代であり、在国司は朝山昌綱の死をうけて同族の勝部政元(長田西郷地頭)が就任したのであろう。
その意味では国司の目代、守護代、在国司と実政ならびに領家の動きは連動していた。これに対して、国造や鰐淵寺は出雲国守護佐々木泰清に直訴する形で対抗しているのである。当然守護の背後には鎌倉幕府があり、新たな出雲国守四条隆親の叔父隆弁は鎌倉鶴岡八幡宮別当であった。また、国造側は出雲大社造営は阿式社ではなく、出雲大社の先例に基づき行われるべきであることも主張し、前に述べたように文永9年2月以前に出された後嵯峨院でその主張を認められていたのである。

国衙社家相共に(1)

 正安年間(13世紀末~14世紀初)に、出雲国守から国造に対して出雲大社造営は、先例に任せて国衙・社家相共に沙汰せよとの命令が出されている。これは院宣を受けてのものであった。この点について、井上氏は一宮制の持つ歴史的本質が顕在化したものであると評価されたが、どうであろうか。承元元年(1207)の厳島神社の例からそれが全国的な一般的傾向であるとされるが、現実に出雲国においては正安年間以前にはそのような命令は出されていないのである。そして、承久の乱以前の厳島神社においては、佐伯氏が神主職を安定的に確保していたのに対して、正安年間以前=13世紀後半の出雲国においては、神主職をめぐり、国造家と出雲氏内の別の一族の間で長期にわたって対立が続き、国造=神主とはなっていなかった。その意味で、社家の内実が問われなければならない。
 先例に任せとは、文永11年(1274)12月に初めて、目代に対して国造義孝と相共に出雲大社造営を行えとの亀山院宣が出されている。それ以前には、文永9年(1272)2月に死亡する前に出された後嵯峨院宣で、国造義孝の記録を守り目代高階氏定に造営を命じたものであった。それが後嵯峨の死亡にともなう中断を経て、同年12月に同内容の国司庁宣が出されたが、それを伝える同月の国宣と翌文永10年正月の国宣では一歩踏み込んで、国造義孝と相共に造営を行えとの命令になっていた。そして文永11年12月には初めて院宣で国造と相共に行えと明記されたのである。

2010年12月12日 (日)

鎌倉中期の出雲国の国御家人(3)

 朝山氏などの先祖となる元宗は大原郡に所領を有する勝部宿祢の庶子であったが、惣領家が源平争乱で没落したため、佐世郷を支配していた守安の子惟元が朝山郷を継承し、守安の弟たちが多祢、万田、法吉を継承した。
 次いで承久の乱で勝部宿祢一族は再び大きな打撃を受けた。惟元の嫡子で朝山郷を継承していた惟綱と、その弟で岩坂郷を支配していた貞元は所領を失っている。生き延びたのは惟綱の弟元綱と長元で、前者が惣領として朝山郷を継承し、後者が佐陀社を継承した。③の阿井兵衛尉子は、苗字の地である阿井郷は吉見氏出身で頼朝の法華堂の別当である尊範が地頭となっている。実質的に幕府が管理していた所領である。阿井氏は本領阿井郷については、地頭代などを務め、地頭との関係で官職を得た可能性がある。
 ⑤佐々布氏は南北朝期には朝山氏と同様備後国に所領を獲得し、高師泰の守護代を務めている。在庁官人の中の有力者であり、朝山氏と同様、幕府と結びついていたのであろう。 ⑥朝山氏は在庁官人の代表として、出雲大社三月会や遷宮においても重要な役割を果たしている。
  ⑬三処氏は、承久の乱以前に横田庄地頭にもなっており、幕府との関係を強めていた。後には、横田庄地頭を北条時輔に寄進して、みずからは代官となるが、後に没落した。
 ⑭⑰長田西郷と東郷地頭はそれぞれ朝山氏の同族であるが、兄弟など近い関係ではない。西郷地頭長田氏は多祢氏から分かれた一族であるが、東郷地頭は朝山氏等勝部宿祢一族の別の家から分かれた一族か。西郷地頭長田氏は在京人であり、朝山氏と同様幕府との関係を深めていた。
 以上のように、官職を持つ国御家人は生き残りのため幕府や北条氏との関係を強めていた。その結果、阿井郷、三処郷、長田東西郷の地頭は鎌倉幕府の滅亡と共にその所領を失っている。

鎌倉中期の出雲国の国御家人(2)

 文永8年段階で、在地名を苗字とするものを原則としたが、⑨番は関連資料から判断し、また、これ以外に大野氏と赤穴氏がいたが、平安末期に入部してきたものなので除外した。
19例中、本人ないしは親などが官職を有していた例が8、無官のものが11である。この当時、官職を得るには経済的負担がかなり必要であり、官職を有しているものが例外であるとして、以下に述べる。
 ②の湯左衛門四郎については、湯左衛門(朝山昌綱の弟清綱)の子であることが、大伴系図から知られるが、①の湯郷・拝志郷地頭大西二郎女子との関係は不明である。大西氏については、大西庄司が承久京方で没落し、大西庄は東国御家人飯沼氏が地頭となっていた。
 湯郷、拝志郷、佐世郷については、宝治2年の出雲大社遷宮で流鏑馬15番中の9番をこの3郷で勤めている。また後に出雲国守護佐々木泰清の子七郎頼清が3郷を継承しており、関連する所領であった。大伴系図では湯左衛門清綱の子として、左衛門四郎ではなく湯七郎を記す。これは頼清のことで、生き残りのため頼清を養子として迎え、これに所領を譲ったのだろう。頼清の嫡子七郎清信が佐世郷を譲られており、3郷の中心は佐世郷である。
 本来、佐世郷と大西庄を支配していた人物(勝部宿祢一族か)が承久京方で没落し、大西庄司跡は東国御家人に与えられたが、佐世郷は同族の湯氏一族で乱への関与が少なかった人物の継承が認められたのだろう。そして大西氏一族で乱への関与が少なかった人物が湯郷と拝志郷の相続を認められた。

鎌倉中期の出雲国の国御家人(1)

 出雲国では承久の乱の結果、国御家人が大量に所領を没収され、その跡に東国御家人が入部した。鎌倉幕府は東国御家人の政権であり、国御家人は苦しい状況に置かれ、生き延びるための選択を迫られた。この点について、文永8年関東下知状を手がかりに考えてみたい。
 ①湯郷・拝志郷地頭大西二郎女子(佐草文書の写しでは「大西」の下に「□□郷」との文字があるが所領名であろう)
  ②佐世郷地頭湯左衛門四郎
  ③比知新宮地頭阿井兵衛尉子
 ④福冨保地頭福冨太郎入道
 ⑤佐々布郷地頭佐々布左衛門入道子
 ⑥楯縫東郷・西郷、朝山郷、三津庄地頭朝山右衛門尉跡
  ⑦小境保地頭小境二郎
 ⑧玖潭社地頭久潭四郎
 ⑨多久郷地頭中二郎入道
 ⑩津田郷地頭秋鹿二郎入道女子
 ⑪佐陀庄・国屋郷地頭佐陀神主
 ⑫多祢郷地頭多祢
 ⑬三処郷地頭三処左衛門後家
  ⑭長田西郷地頭長田四郎兵衛尉
 ⑮伊秩庄、来島庄地頭来島木工助入道
 ⑯大東庄縁所地頭縁所五郎
 ⑰長田東郷地頭長田蔵人
 ⑱万田本庄地頭万田二郎太郎
 ⑲万田新庄地頭万田七郎

出雲大社領の成立と展開(13)

 井上氏はその新著で、出雲大社領をめぐる荘園領主、幕府と国造の関係を4期に分類された。従来の主張を微調整したものであるが、第Ⅰ期(1186~1192)、第Ⅱ期(1208~1233)、第Ⅲ期(1235~1275)、第Ⅳ期(1276~1297)とされた。とくに1期と2期の間であるが、16年の空白期間を設けられたのは不可思議である。また、領家との対立も前述のように南北朝初期までは続いていた。以上を踏まえて自説を提示したい。
 第1期(1185~1208)、2期(1185~1221)、3期(1221~1235)、第4期(1235~1275)、5期(1275~1297)。6期(1297~1232)
 第1期は幕府と国造の対立が見られたが、幕府=実朝政権が朝廷と緊密な関係を築いたことにより、2期には国造も幕府御家人となる事態となった。その状況は、出雲国司並びに出雲国守護が後鳥羽上皇方となった承久の乱で一変する。3期までは神主は短期間で交替していたが、4期に入って正殿造営が本格化したことにより、国造家が神主職を安定して確保できた。その結果、幕府も出雲大社への介入は困難となり、宝治2年の正遷宮を期に出雲国守護と国造家が深く結びついた。5期には領家が本来の主導権を発揮して、国造のライバルである真高・実政兄弟を神主に起用しようとするが、文永12年には幕府と結んだ国造を再度神主に起用することになった。しかし、造営事業が一段落すると、領家兼嗣が再び神主に実政を起用したため、国造側は幕府と結んで領家側と対峙した。
 そうした中、出雲大社領の本家が交替したためか、領家も兼嗣から廊御方に交替した。そして一旦神主から解任された実政はこの廊御方へ接近することにより、神主に返り咲いた。これに対して国造側は、頼朝下文に代表される過去の史料を幕府の協力のもと作成し、実政の訴えを退けた。次いで領家雑掌となることにより対抗した実政ならびにその後継者孝助の抵抗も、元亨3年に出雲大社領が永嘉門院領となったことにより、実質的には終了した。
 鎌倉幕府成立以前の状況については不明確な点が多いが、内蔵忠光を中心とする庄園としての立券に対して、国造側が激しく反発して、崇徳院が保元の乱で失脚したスキをついて、主導権を奪い返したのであろう。しかしその後幕府成立に至るまで国造が神主職を安定的に確保した可能性は低い。あくまでも領家側の意向により、神主は交替したとすべきであろう。そうでなければ、幕府成立以降の状況は理解できないし、また、国造側が与えられた領家発給文書が承久の乱以降のものしか残っていないことが、それを端的に示している。
 ☆一旦(11)までアップしたが、その後重要な点を残していたことに気づき、増補した。

出雲大社領の成立と展開(12)

 この領家交替は兼嗣側からすれば承伏しがたいことであるが、可能性としては本家が交替した可能性がある。ただ、室町院領の相続で領家・預所が交替して混乱が起きた際、幕府は「相伝知行分」については室町院領時代の領家・預所が継続されなければならないとの判断を示しており、兼嗣側からみれば出雲大社領の領家は相伝知行分に他ならなかった。
 永仁3年(1295)には廊御方と兼嗣の間で出雲大社領について幕府で裁判が行われている。一方、永仁5年2月には正応5年の裁許に対する実政の越訴が退けられている。正和3年7月には兼嗣が三崎社検校に虎一丸を補任しており、この時点では兼嗣が領家に返り咲いていたことになる。同年8月27日には領家雑掌孝助と国造孝時の訴訟で、国造側勝訴の裁許が幕府から出されている。
 雑掌孝助は、神主真高の余類であるとされる。真高の子実政も後(永仁5年以降)には実孝と改名しており、実孝の後継者が孝助であったのだろう。神主職をめぐり国造に敗北した実政(実孝)側は、領家雑掌となることで国造側に対抗したのであろう。その場合の領家とは兼嗣ではありえず、廊御方となる。
 領家をめぐる対立は元亨3年(1323)に決着した。この年に出雲大社領は永嘉門院領となり、本所一円知行が認められた。これにより兼嗣側の権利は消滅したことになる。その60年後に兼嗣の権利を継承したとして将軍の側近となっていた山科氏が権利を回復するまでは。
 領家雑掌孝助と国造孝時の対立は続いており、建武元年5月には前雑掌の濫妨停止が出雲国衙に命ぜられている。元弘3年12月10日の後醍醐天皇綸旨で、本所号が停止されたことにともない、「前雑掌」となったのであろう。永嘉門院領のもとで孝助は雑掌の地位にあったことになる。そして、建武政権が崩壊したことにともない、孝助側が越訴を行ったのであろう。

2010年12月10日 (金)

出雲大社領の成立と展開(11)

 文永5年正月領家藤原兼嗣は国造義孝を神主職に補任している。しかし、その後間もなく、出雲真高の子実政からの働きかけがあり、神主職を実政に交替させた。そうした中で、文永7年正月には出雲大社が炎上し、神殿の造営が開始された。ところが、過去の造営記録(造営旧記)は国造義孝以外保持しておらず、出雲国目代と神主実政のもとでは造営は遅遅として進まなかった。領家は神主を実政の父出雲真高に交替させるが、旧記を持たないため状況は変わらなかった。
 幕府は早くも文永7年11月には神主を国造に交替させるように口入している。また、文永9年9月に鰐淵寺が訴えた解によると、社家結構と宮中狼藉により大社の神事が遅れている。同時に、出雲国目代と在庁官人政元の狼藉について国造義孝が幕府に訴えている。当時の出雲国衙では在庁官人の代表者的存在であった朝山氏惣領昌綱が死亡したことにより、主導権争いも起こっており、それと連動する形で実政の領家への接近があったであろうが、造営は進まなかった。そして文永12年正月には領家兼嗣が、国造義孝を惣検校(神主)に補任し、次いで翌建治2年にもこれを確認している。
 この後、弘安6年8月に領家兼嗣が出雲大社法華経田を僧惟孝に宛て行っているが、弘安8年には阿語大田郷の知行を国造に認めた「御房」袖判沙弥奉書が残されている。この時点で、領家が交替した可能性がある。年未詳だが、去年の御代始にともなう検注段米等の用途が未進だという中納言僧都御房の命を伝える実政奉書が残されている。弘安8年の御房も同一人物であろう。この御代始は天皇とも考えられるが、検注となれば領家が交替したことにともなうものであろう。
 そして正応5年(1292)7月には国造泰孝と神主実政の相論について、幕府が国造泰孝を神主の補任するよう、廊御方へ申し入れるよう、六波羅探題に命じている。中納言僧都御房は廊御方の関係者であろうか。いずれにせよ、領家の交替は確実であり、新たな領家のもとで実政が一旦は神主に返り咲いていたことがわかる。以前、実政は領家兼嗣への不忠により兼嗣から神主職を解任されていた。

出雲大社領の成立と展開(10)

 一方、承久の乱後、出雲国守護は佐々木義清が補任され、次いで嫡子政義がこれを継承し、政義の弟泰清が隠岐国守護となった。それが仁治4年(1243)頃の政義の無断出家により、泰清が出雲国守護を兼ねた。出雲国守護となった泰清は出雲国へ下向し、宝治2年の出雲大社正遷宮に参列すると共に、出雲国内の掌握を行った。その一つが国造家との連携であり、翌建長元年11月29日には泰清の仲介により、国造義孝は大庭・田尻保地頭職に補任されている。
 これ以前の将軍実朝の時代に、国造孝綱が補任されたことがあったが、それが復活した。国造孝綱は幕府に接近して御家人となったが、幕府とより緊密な関係を持つ内蔵孝元の存在もあって、十分か結果を残せずに、弟政孝にその地位を譲らなければならなかった。それに対して、この時期の義孝の場合、神主職を安定的に確保しており、幕府としても国造家と対立するのではなく協調することが得策であった。義孝の子は泰清の一字を取って「泰孝」と名乗り、出雲国守護佐々木貞清の娘と婚姻関係を結んでいる。
 神主職を確保し、幕府との協力関係を確立した国造義孝は従来から支配権を有していた神魂神社(伊弉冉社)に加えて、国府域にあった惣社、伊弉諾社への支配権を確立する。出雲国衙と惣社の所在した大草郷を含めて承久の乱後は東国御家人が地頭として入部しており、地頭の勢力と対抗しつつ神社の造営・維持をはかることは困難になりつつあった。そのため、従来、惣社や伊弉諾社に関わっていた在庁官人が追放され、大庭・田尻保地頭であった国造義孝がそれらの神社への支配権を獲得する。

出雲大社領の成立と展開(9)

 政孝が神主となった嘉禄2年(1226)7月には領家が真高を権検校職に補任している。
真高は貞応3年(1224)と翌嘉禄元年にも権検校の地位にあったことが確認できる。ところが、嘉禄元年には、内蔵孝元の例を引いて真高を権検校職にすべきではないと、神主の地位にあったと思われる政孝が主張している。そして嘉禄2年には、権検校職を望むものが他にもあったが、頼孝(真孝の父か)以後の文書を帯しているとして、領家は真高を再度権検校職に補任している。この嘉禄2年の2通の領家下文をみると、神主(惣検校)・権検校職ともに、その地位を狙う複数の人々があり、その中から領家が選んで補任していたことがわかる。一度補任されても、翌年はどうなるかわからない状況であった。
 天福元年(1233)には、神主真高が刃傷狼藉に及んだという出雲国守護佐々木政義の報告を受けた幕府は、領家に対して神主を真高から内蔵孝元に交替させることを提案し、領家が孝元を神主に補任している。しかしその後間もなく真高は神主に復帰している。それに対して国造政孝の子義孝は、出雲大社造営を根拠に神主職補任を領家に求め、文暦2年(1335)9月にはそれを実現している。以前、国造は遷宮時に国造が御神体移動させるのは国造にしかできないとして、神主職補任を実現していた。それが、嘉禄の仮殿造営時に政孝が、出雲大社造営旧記を所持する国造でなければ、造営はできないとして、神主職補任を領家に要求し、これを実現した。その主張は政孝の子義孝によっても継承されている。
 中世最後の正遷宮となった宝治の正殿造営は、嘉禎2年(1236)以降本格化する。そして翌3年には領家藤原家隆が死亡し、家隆の後継者としての領家の活動が確認できる藤原兼嗣は延応元年(1239)に生まれている。領家の実質的不在と正殿造営を追い風に、政孝とその子義孝は神主職を安定的に確保した。

出雲大社領の成立と展開(8)

 この後、承久の乱により出雲国衙の有力在庁官人の多くは後鳥羽方として没落した。そうした中、土御門院領であった出雲大社領は乱の影響は小さかったと思われる。そして、鎌倉幕府との関わりの深い内蔵孝元も同様に生き延びた。これに対して中原孝高は有力在庁官人中原頼辰を父としていた。頼辰は鎌倉初期には秋鹿郡秋鹿郷司であり、同族の中原時光は同郡伊野郷司であったが、承久の乱後は秋鹿郷と伊野郷には東国御家人が地頭に補任されており、中原氏の勢力は後退している。
 こうした状況のもと、承久の乱後の出雲大社神主の地位は、国造政孝、出雲真(実)高と内蔵孝元の3者によって争われている。ただ、国造の地位をめぐっては、政孝とその兄孝綱系の対立があり、後に孝綱系の人々が嘉禎2年6月5日関東御教書などの文書を作成している。
 政孝は嘉禄元年4月21日に出雲大社領本家である承明門院(土御門院母)から神主職に補任されているが、そこでは神主を神殿造営により補任・相伝した職であると主張している。次いで嘉禄2年7月には前述のように、領家下文により政孝は神主並びに本御領沙汰人に補任されている。これが国造家が領家から補任された最古の文書である。出雲大社に残されているそれ以前の領家発給文書は、いずれも国造以外の人物に対して出されたものが、国造家並びにその一族である平岡家が惣検校職並びに権検校職を確保したことにより、前代の他氏の文書を入手したものである。

出雲大社領の成立と展開(7)

 話が前後するが、その後、内蔵資忠が死亡したためか、孝房の嫡子国造孝綱が神主(惣検校)となった。ところが承元2年(1208)11月、幕府は権検校職に内蔵資忠の子孝元を補任することを提案し、領家がこれを採用している。井上氏は惣検校職の権限を分与した権検校職の新設も幕府による提案であり、それは幕府が国造の「惣検校職」を認めた上のものと解釈されているが、どうであろうか。
 領家としても惣検校(神主)職をめぐる対立の中で、権検校職を新設することで惣検校(神主)を牽制することができた。領家による権検校職の新設を受けて幕府が孝元の起用を提案したのではないか。
 孝元が権検校職に補任されたのも、父資忠の例によるものであった。同時に孝元は幕府から出雲国内数カ所の地頭職を拝領しているが、これは新恩というよりも、郷司ないしは庄司として支配していた所領を、幕府が国司や庄園領主に働きかけて地頭職としたものであろう。これに先立つ承元2年9月6日、国造孝綱もまた幕府の力で大庭・田尻保などの地頭職を得ている。
 承元4年12月19日の領家御教書写によると、間もなく孝元による御神供の未進が生じ、国造は国司に訴えて孝元の解任とともに、孝元を推薦した幕府の裁許を求めた。これに対して権検校職の補任権を持つ領家は、国造孝綱の行為は越権であるとして神主を中原孝高に交替させた。承元4年2月19日の右近中将源実朝書状では、杵築社神主・氏人等の訴えを受けて、離れてはいるが御家人であるので、訴えに対して沙汰しないことがあるはずはなく、先ず申し入れるとしており、国造側からの訴えへの返事であったと思われる。この時点では国造孝綱が神主であったが、この後間もなく領家は神主を孝高に交替させたと思われる。
 これに対して、国造側は国司とともに、本家である土御門院へ訴えて、孝高の解任と神主職への復帰を求めているが、どこまで実効性があったかは不明である。権検校を解任された孝元側も抵抗したが、領家の命を受けた中原孝高と出雲頼孝により追放された。また一方で孝元は鰐淵寺地頭職などにも補任されていたが、これも年貢の未進により同族の内蔵孝幸に交替させられている。

出雲大社領の成立と展開(6)

 前述の兼時申状では、出西郷を先祖開発の私領と呼んでいるが、宗孝は出西郷を開発した出雲氏一族に属していたと思われる。その経済力と兼忠の妹を妻とすることを背景に、宗孝は国造となった。その宗孝が死亡した際に、宗孝の子孝房と石王冠者との間に国造職の継承をめぐって対立が生じ、結果として孝房が国造となった。この経過について後に宗孝流の正統性を主張するために文書が作成された。それが安元2年10月日の出雲国司庁宣、元暦2年4月日の国造宗孝譲状、建久5年3月21日の国造孝房譲状と、その中で安元2年国司庁宣の内容を引用する②である。
 ②では宗孝は神主でもあったとするが、国造を神主に付属する地位であると述べている点は事実と異なっているし、また、①で国造側が主張するように、内蔵忠光が完全に失脚したのかは不明である。
 一族の石王冠者との対立に勝利して文治元年には国造となった孝房だったが、翌文治2年、幕府の働きかけを受けた領家は、惣検校職を国造孝房から内蔵忠光の子資忠に交替させている。資忠の「資」は崇徳院の側近で揖屋庄領家であった藤原資憲との関係を窺わせる。これに対して国造側の反撃は建久元年の出雲大社遷宮を契機として行われ、一旦は返り咲きに成功した。しかし遷宮が終わった後の建久2年には再び資忠が神主に復帰している。これに対して国造側は①のように国衙在庁官人を動員して孝房を神主に補任するよう主張したが、建久3年7月には再度資忠が惣検校職に補任されている。その文書では資忠の地位を「相伝の職」や「重代相伝」であるとしており、父忠光の職を受け継ぐものであったことは明白である。
 これに対して建久2年10月日に出雲孝綱を神主並びに本御領沙汰人に補任した領家下文写が残されている。領家の発給文書としては最古のものとなるが、後に孝綱系の人々が嘉禄2年7月日に出雲政孝を補任した領家下文を参考に作成したものであろう。この文書によれば、政孝は年貢納入などの請文を提出することにより、ライバルを退けて神主に補任されており、神主は国造が世襲できるような職ではなかった。

出雲大社領の成立と展開(5)

 国造兼忠の時代には、出雲大社領の立券をめぐる対立もあった。出雲大社領は当初崇徳院領として立券され、崇徳の近臣日野資憲と結ぶ在庁官人で、国造と同じ出雲氏の一族である内蔵忠光が惣検校に補任された。領家には出雲国司として出雲大社遷宮を行った経験を有する藤原光隆がなった。内蔵忠光は領家光隆とも近い関係にあったと思われる。
 間もなく保元の乱が発生し、敗北した崇徳院は讃岐国に配流となって失脚した。そのため、崇徳院領であった出雲大社領は、勝者で領家光隆とも深い関わりのあった後白河院領として新たに立券し直されたのではないか。国造兼忠は上洛して内蔵忠光を訴え、これに代わってみずからが惣検校となることに成功したのだろう。南北朝初期の国造孝時は、領家との裁判に提出した申状の中で、国経を国造と呼び、兼忠を神主と呼んでいる。まさに、兼忠の代に初めて国造は神主(惣検校)の地位を得たのである。
 兼忠に次いで国造となったのは頼兼の嫡子宗房の孫兼経で、系譜によると仁安3年(1168)のことであった。康治元年の仮殿遷宮の記録には国造兼忠とともにその弟兼成や子顕兼がみえており、兼忠の関係者はいたわけだが、今回は宗房流の番であったのだろう。ところが、8年後兼経は死亡した。その時点で子石王冠者は幼少であり、後継者問題が発生した。そうした中で国造の地位を得たのが宗孝であった。②では宗孝を兼忠嫡子とするが、宗孝の子孝房が兼忠を伯父と呼んでいることから事実ではない。また宗孝を元出雲氏とするのも解釈に苦しむところだが、宗孝の妻が国造兼忠の妹で、宗孝は出雲氏一族であったのだろう。ともあれ宗孝は兼忠の後継者として国造を継承した。

出雲大社領の成立と展開(4)

 国造の地位が「兼」系の人々から「孝」系の人々に移ったことを述べたが、このことを残された史料から可能な限り具体的に考えてみたい。史料とは①建久2年7月日出雲国在庁官人等解と②建久5年8月日出雲国在庁官人等解とその関連史料である。ただし、②は後になって作成されたものであることに注意が必要である。
 ①によると、鎌倉初期の国造孝房は兼忠を伯父、兼宗を祖父、そして国経を曾祖父と呼んでいる。これに対して②で、兼忠を兼宗の嫡子とするのは問題ないが、兼宗は国経ではなく、頼兼の子とする。すなわち、国造であった頼兼の嫡子宗房が一旦国造となったが、1年で死亡したため、宗房の舎弟兼宗が国造となったとする。宗房には幼少の子兼家があった。国造は世襲ではなく、国司から補任される職であった。兼宗に次いでその子兼忠が国造となったが、成長した兼家も有力な候補であったろう。
 建久2年8月日出雲国在庁官人等解に添付された証文の目録によると、永承2年(1047)に国経が国造に補任された後をうけて、頼兼は延久4年(1072)年に国造に補任されている。ただ、「北島家譜」によると国経の在職は26年とあり、両者の間に少なくともう一人の国造がいたことになる。両者の関係は親子ではなく兄弟ないしはその他となる。国経の前任が国明と2代続けて「国」を付けていたが、頼兼以降は「兼」を付ける国造が続く。頼兼の代から出雲氏内の別の家が主導権を握ったといえるが、前述のように、国造孝房は兼宗を祖父、国経を曾祖父と呼んでいる。この点からすると、頼兼の子兼宗と国経女子との間に生まれたのが兼忠ということになる。国経の孫であるとの兼忠の立場が、ライバル兼家をおさえて国造の地位を確保する背景となった。

2010年12月 7日 (火)

佐草氏について(2)

 康元2年2月の出雲国司庁宣は、国造義孝に伊弉諾・伊弉冉社と惣社の神田・神畠の進退領掌権を認めている。この文書の中の彼神田を「一向寄進彼社した」の部分を、井上氏は大社に寄進したと解釈されたが、本文中に大社は一度も登場せず、「彼社」が「伊弉諾・伊弉冉社と惣社」を指しているのは明らかである。
 井上氏は大社に寄進したとの前提で、「いさなき」と「六所(惣社)」ならびに「新嘗会」用の田畠が佐草領に所在することを解釈された。そしてそこから平安末期における出雲国惣社の成立に際し、佐草氏が惣社神主となったことを推定された。ただ、佐草氏が惣社神主であるならば、国衙在庁官人で伊弉諾・伊弉冉社と惣社の料田管理あたっていた人々が追放された際に影響を受けていた可能性が高いのではないか。
 惣社と佐草氏が神主であった中世佐草社の関係について、論者は古代の大草(さくさ=佐草)の地にあった神社が、国衙により惣社が創設された段階で西方の地に移され、その地が後に佐草と呼ばれるようになったとの考えを述べたことがある。すなわち、惣社創設時にそれまでの大庭の地は、国造が主導権を持つ「大庭」と国衙が主導権を持つ「大草」に分けられ、さらに「大庭」の西隣の地に佐草社が移されたと考えた。その意味で、神社史研究者が、明治初年の相論の結論とは異なり、惣社の後継である六所神社こそが古代の「佐草社」であると主張するのに対して、論者は中世佐草社の後継である八重垣神社の主張に理ありとする。ただ、論者の考えは、神社は古代-中世-近世と発展・変化してきたのであり、その過程を忘却して「風土記」時代の神社名に復帰しようとした神社のありかたには大いに問題ありというものである。
 戦国期の佐草氏領には六所御神田だけでなく「いさなき御神田」も含まれている。関係史料から、六所御神田は竹矢郷にあり、「いさなき御神田」は山代郷にあったことが確認でき、この場合の大庭とは広い意味での大庭で、六所神社の所在した大草郷ではない。
 ちなみに佐草氏領のあった「たかさくひ」についても山代郷内の地名である。『大社史料』912号と938号を比較すると、912号で「譲度、同心代々郷之内たかさくひ‥‥」と読まれている部分が(これは『佐草家文書』でも同様)、正しくは「譲候、同山代郷之内たかさくひ‥‥」と読むべきであることがわかる。佐草氏が出雲大社神官となり、過去の惣社神主という経歴の有無と関係なく、大庭の所領を与えられたものであろう。さらに佐草氏は古代の佐草社を継承した中世佐草社の神官でもあった。

佐草氏について(1)

 明治初年に風土記時代の「佐草社」をめぐって、六所神社(惣社)と八重垣神社の間で相論となったことについて、別の機会に述べたことがある。この事件の背景として井上氏の新著では、平安末期に出雲国惣社が成立した段階で、佐草社神官であった佐草氏の一族が惣社の神主に任命され、国衙祭祀を掌ったことを指摘された。その後佐草氏が杵築に拠点を移した段階で惣社神主は神魂神社神官秋上氏が兼ね幕末に至ったが(論者は近世の六所神社神主は吉岡氏と理解していた。松江藩主の意向により、神魂神社の秋上氏が六所神社と真名井神社の神主を兼帯することはできなくなったと)、明治維新に際して新たな神主として吉岡氏が任命されるに際して論争が起き、結果としては、佐草氏一族が神主の地位を保っていた八重垣神社の主張が認められたとされた。
 井上氏は、佐草氏が惣社神主でなければ本来国衙惣社で行われていたと推定される新嘗会を務めたかが説明できないとされた。佐草氏が戦国期に支配していた大庭内佐草領の坪付には六所御神田が含まれ、且つ、それを含む所領は南北朝期の千家・北島家の分立以前から新嘗会の社役を勤めていたことによるものであるとしている。
 六所御神田は、13世紀中頃までは佐草氏とは別の国衙在庁官人が支配していたものが、在庁官人が追放されると、国造の支配下に置かれることとなり、惣社そのものも出雲大社の末社となった。そして13世紀後半に佐草氏が出雲大社神官となり、出雲大社の祭礼としての新嘗会が成立すると、佐草氏がその役を勤めるとともに、惣社料田(六所御神田)を与えられたと、井上氏は説明された。
 以上の説明に対しては、国衙在庁官人と佐草氏との関係が不明確であるとの疑問が生じる。ともに惣社の関係者でありながら、なぜ一方は追放され、他方は出雲大社神官に組み込まれたのだろうか、と。

2010年12月 4日 (土)

出雲大社領の成立と展開(補)

 斐伊川の流路変更が郡域の変更をもたらしたことを述べた。問題はその時期である。
11世紀後半から国司による出雲大社への所領寄進が始まっており、12世紀半ばの鳥屋・武志村の寄進で一段落している。「村」という単位は新たな開発地を示すのもであり、斐伊川東流の本格化と西流路の縮小という新たな事態を承けての開発と寄進であったと思われる。その担い手としては国造家を含む出雲氏だけでなく朝山氏に代表される勝部宿祢もいた。鎌倉時代の朝山氏領からすると、平安末期の勝部宿祢領は神門郡(朝山・塩冶・古志郷など)と楯縫郡(楯縫東西郷、万田庄など)内の所領であったが、これに永享2年に塩穴貞吉が由緒を主張した大社領鳥屋・武志郷を加えると、勝部宿祢領の領域的連続性が確認できる。
 流路変更の結果、斐伊川西岸となった後の大社領が大社とともに神門郡に編入され、領域が縮小した出雲郡は出東郡となった。同時に、出雲国東部に出雲郷が成立したのを承けて、西部の出雲郡は出西郡となり、旧神戸地域に求院を加えた地域が大田保(郷)となった。
 次いで、戦国期までに斐伊川東流路のルートが西側に移動し、鳥屋・武志両郷が斐伊川によって分断されるという現在の状況となった。その結果、従来、大社領で出東郡内に属した所領が神門郡内に組み込まれた。そして17世紀前半に斐伊川東流路が出雲郡の境となり、一時神門郡に所属した出雲大社領が出雲郡の所属とされ、斐伊川東流路の北側で出東郡に属していた林木や国冨は楯縫郡に所属替えとなった。

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