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2010年11月

2010年11月30日 (火)

出雲大社領の成立と展開(3)

  以上の点について、井上寛司氏は、別納の地を国造による開発、国司寄進の地をそれ以外の開発とする。そしてどちらか史料で確認できない求院・千家・北島の地域は、国司の寄進地ではないとして、国造の開発とする。
 本ブログでは、別納の地の多くはは出雲氏の開発であるが、前期の「兼」系出雲氏による開発と後期の「孝」系出雲氏による開発に分けている。そして、本来の神戸の流れを引く千家・北島ではあるが、中世には求院を併せて大田郷として成立し、国司の寄進により出雲大社領になったと考えている。
 承久の乱は出雲国に大きな影響を与えた。在庁官人の有力者の大半は後鳥羽方になったため所領を没収された。一部は一族の別の人物に与えられたが、その多くは東国御家人が新たに地頭に補任されたのである。そして嘉禄3年の仮殿遷宮の次の年、安貞元年(1228)には、国司ではなく鎌倉幕府から伊志見村(郷)が寄進された。この時点での神主は国造政孝であったが、その後、領家は出雲氏中の別の人物真高を神主とした。ついで、天福元年(1233)に、神主真高が刃傷狼藉に及んだとの出雲国守護佐々木政義の報告を受けた幕府は、内蔵資忠の子で、承元2年に権検校になったことのある孝元を神主として領家に推薦し、これを実現した。ただ、この時期は神主職はめまぐるしく交替し、文暦2年(1235)には国造政孝の子義孝が神主に復帰している。次いで嘉禎3年(1237)には領家家隆が死亡した。家隆の後継者となった兼嗣の誕生はその2年後であり領家の不在という状況となった。そうした中、義孝が安定的に神主職を確保して、宝治の造営を迎える。

出雲大社領の成立と展開(2)

 こうした出雲大社領の成立の中で、大きな意味を持ったのが、治暦3年(1167)と久安元年(1145)の遷宮であった。治暦3年の遷宮では初めて国司による所領寄進が行われ、久安元年の遷宮では過去2回の寄進で遙堪郷が成立する所領規模であったのに対して、鳥屋村・武志村(後の郷)が寄進されている。康元元年の注進状では、遙堪郷の規模が60町であるのに対して、鳥屋郷と武志郷を併せた面積は100町弱と、その規模は大きい。その背景として、出雲国内で庄園が増加し、その庄園が出雲大社遷宮の費用の負担を逃れようとしたことがあった。出雲大社領と国内の庄園・公領の負担により出雲大社造営が進められるはずが、後者に問題が生じたのである。公領が減少して庄園が増加するのみならず、庄園は負担をさらに減らそうという動きを強めたのである。そうした中で、出雲大社領本体の拡大が図られたのである。当然これは国司のみではなく、中央政府の明確な意図のもとに行われた。
 なぜ両郷なのかという問いに対しては、それまでに遙堪郷と両郷に挟まれた高浜郷と稲岡郷が開発領主の手で出雲大社に寄進されていたことが考えられる。その担い手としては12世紀前半まで国造職を占めていた「兼」系の人々が考えられる。
 次いで建久元年(1190)に正遷宮が行われたが、この時点では鎌倉幕府の成立と地頭の入部という新たな事態が生じていた。出雲大社領の管理にあたる神主職についても、幕府の強い後押しにより内蔵資忠が領家から補任されていた。そうした中で、国造家は出雲大社の遷宮の儀式は国造でなければなしえないとの主張を展開して、神主職に復帰するとともに、新たに国司から大田保(郷)が寄進された。康元元年の注進状では千家・北島と求院を併せた面積は50町余であり、久安元年の半分であった。庄園公領制の枠組みが固まる中、寄進しうる面積は限られていたが、そうした中で自ら最も必要な所領の寄進に成功したのである。ただ、未だ出雲大社神主職を国造家が安定的に確保する状況にはなかった。
 建久年の遷宮で当時の斐伊川の主流となっていた宍道湖への流路を越えた対岸の大田郷が寄進を可能としたのは、この時までに出西郷(本郷)と同富を中心とする所領が開発領主によって寄進されていたことであろう。その主体が新たに出雲氏の中心として国造となった宗孝系の人々ではなかったか。

2010年11月28日 (日)

出雲大社領の成立と展開(1)

 出雲大社領には、他の庄園と同様、庄園領主(本家・領家)と現地で所領の管理にあたる庄官が存在した。独特なのは庄官のトップが、神社の支配に関わる神主職ないしは惣検校職と呼ばれたことである。一方、出雲大社領を構成する個々の所領には開発領主がいたはずで、それと後に神主職を独占する結果となった国造家との関係はどうであったであろうか。国造家は出雲氏の中の一つの家であり、前に述べたように、12世紀後半に出雲氏内部で国造を務める家が「兼」を名乗る一流から「孝」を名乗る一流に交替し、13世紀に入っても出雲氏内部で神主職をめぐる対立があった。
 出雲大社領は、①国司により寄進された所領と、②国造家、さらには出雲大社神官を構成する他の開発領主が寄進した所領からなっていた。②は別納の地とよばれ、荘園領主への納税は神主・惣検校を介してではでなく、開発領主が直接に行っていたと思われる。
 では国司は何を寄進したのだろうか。この出雲大社に寄進された所領に荘園領主(本家・領家)が存在するというのはどのように理解したらよいのだろうか。また神主職や惣検校職はどのような権限を持ったのであろうか。その権限は、個々の開発領主のものと競合した場合があったであろう。仮に国造家が神主である場合、自ら開発したと主張する出西郷では問題ないが、国司寄進の地で出雲氏とは別の開発領主が存在した場合、そして別納の地ではあっても出雲氏内の別の家が開発・寄進した場合は、神主である国造家と開発領主の権限はするどく対立した。また、国造家以外の人物が神主であった場合も、国造家の開発地をめぐり対立がみられたであろう。
 出雲大社に寄進された所領とはいえ、荘園領主(本家・領家)が成立する以前は国司の支配下にあり、国司のもとで出雲大社領を総体として管理するのが神主(惣検校)であった。開発領主による寄進も公領の枠の中で行われた。そして個々の所領には国造家だけでなく、出雲氏であっても国造以外の家や、出雲氏以外の開発領主が存在した。
 その後、12世紀半ばすぎには国司の支配下にあった出雲大社領が院に寄進され、領家職は久安元年(1145)当時の国司であった藤原光隆の系統が相伝していく。そしてライバルを退け13世紀後半には神主(惣検校)職の安定的確保を実現した国造家は、幕府と結びつつ荘園領主とりわけ領家の支配の空洞化を図っていく。

2010年11月21日 (日)

近世後期の変化4-5

 以上のことから、平人が被差別民宅を訪問し祝儀を渡すことの本来持った意味がわかるであろう。それは現在のお賽銭・戒名料など宗教的儀式に関わるものと同様、それなりの前例(関係者の経済力など)に基づき、平人と被差別民の暗黙の了解により負担されていた。これに対して、被差別民は自分たちよりも「下の身分だ」と思い始めていた平人から不満がでたのである。祝儀の額は自分たちが決めてどこに問題があるとする意見に対して、被差別民側が前例に基づき文句を言うのはある意味当然であり、それはけっして「わがまま」などではなかったのである。
 これに対して不満を持った平人の側では、産屋は自分たちの負担で建てたものであるから、平日に被差別民が産屋に自由に出入りすることを禁止する。出産のための重要な場であり、日常の管理が必要なのは当然であるにもかかわらず。また、出産後の処理も必要であるが、それについては別に指示して、それを行った被差別民には雇賃を支払うというのである。
 これにより問題が、平人側の誤解と歴史の忘却から生じていることが理解いただけるであろう。それを生んだのが「被差別民は下の身分だ」との誤解であり、その誤解は両者を仲介すべき藩や役人も共有していたのである。その際に「12人の怒れる男」のように、心ある人が、きちんと前例に基づき確認すべきであると述べても、誤解を解くことは容易ではなかったであろう。ただ、平人と被差別民に関して生じた問題を「資料の声を聴」いて分析しないと、真実に一歩でも接近しようとする途は永遠に閉ざされてしまうのである。さらに前に述べたように関係の変化というのは決して過去の問題ではなく、現在も発生しているものである。それが良い方向への変化ならよいが、悪い方向への変化もみられるのである。論者は方法論の問題ではなく、あくまでも事実の問題として論じている。

資料の声を聴く(HP)について

 ブログを開始したのは2008年10月で、2年が経過した。当初は1日のアクセスは2~3人であったが、現在は10人以上の人が延べ25ページにアクセスし、まもなくアクセスは2万に到達する。最初の1000の時点では半分が自分が確認したものであったが、現在では、自分が確認した割合は10%以下であろう。
 ブログの記事の内、歴史に関するものを以下のHPに転載しており、まとめてみるにはHPの方が便利かもしれないが、こちらの方も記事400となり、インデックスのページを再構成する必要が出てきた。とりあえず、現時点で再検討する必要があると思っていることの大半はブログの中で述べたと思うので、これからしばらくは、ペースをスローダウンさせて、ゆっくり資料を読んでいきたい。ということで更新がかなり不定期となると思われる。提言したことが自分を含む研究者によって再検討されることを望む。前にも書いたが3人の研究者が述べることにより、ようやく説は信頼できるものとなろう。http://homepage3.nifty.com/koewokiku/

阿語・大田郷について(2)

 次に問題となるのが大田郷の位置である。Fを根拠に阿宮の近くであるとされたが、これはすでに述べたように成り立たず、別に考える必要がある。「大田」とは地域の共有地として田植え前の儀式などが行われる場所に付けられるもので、重要な所領であったことは間違いない。これと、南北朝前期の国造家の分裂時に、両者が千家・北島という地名を名乗るのはなぜかということを併せて考える必要がある。千家と北島、そして求院に取り囲まれるように存在するのが神立社で、文永8年には田地(公田)はなく、畠地と社地のみであったであろう。地頭は相模殿=北条時宗であった。この千家・北島に求院を加えた地域が大田郷であったと考えたい。大田郷の前提として古代の神戸を想定するこれまでの説は妥当であろう。また古代の出雲郷は、意宇郡内に中世の出雲郷が成立したことにともない、出西郷と呼ばれるようになった(両者が全く同一という意味ではない)。
 Dで別納の地とされたのは出西郷、同富、稲岡、石塚、高墓(高浜か)については、国造家を含む在地領主の権利が強かったため、出雲大社領に編入された後も税の納入は別とされたのであろう。在地領主が存在したのは国司による寄進地も同様で、永享2年(1430)に塩穴貞吉による武志郷・鳥屋郷押領事件が起きているが、塩穴氏は朝山氏を惣領とする勝部宿祢一族の関係者であろう。Eでは国司寄進になる遙堪郷・鳥屋郷・武志郷・大田郷と、別納の地である稲岡村、出西郷、富村を国造孝房が嫡男孝綱に譲与しているが、あくまでこれは13世紀後半時点での国造側の主張であり、実際には複数の開発領主が存在した。

阿語・大田郷について(1)

 出雲大社領の成立を考える基礎的史料となるのは、(A)建久2年(1191)7月日出雲国在庁官人等解と(B)建武3年(1336)国造孝時申状写であり、これと(C)康元元年(1256)12月日杵築社領注進状にみえる所領の関係を明らかにしなければならない。また、建暦3年(1213)と推定される(D)領家藤原雅隆袖判御教書には出雲大社領の中で、別納の地とされた所領が登場しており、注目される。一方、(E)建久5年(1194)3月21日国造孝房譲状は、記された年紀より後(13世紀後半)に作成された文書で、これをそのまま使用することはできないが、国造側の意識を知ることができる参考史料である。
 Aでは、出雲大社の遷宮毎に、①内遙堪、②外遙堪・河午郷、③鳥屋村・武志村、④大田保が国司から寄進されたことを記す。BもAを前提としながらも南北朝初期に記されたこともあり、①を内遙堪田、②を河手郷、④を大田郷と記し、さらには承久の乱後の遷宮で幕府から伊志見村が寄進されたことを記す。
 阿語・大田郷は(F)弘安8年10月18日領家(ないしは本家)某御教書にみえる。阿語は現在の阿宮の可能性が高いが、大田郷については所在が不明か、阿宮に隣接する地域とされてきた(『島根県の地名』)。
 この阿宮については、文永8年の杵築社頭役結番帳では、20番の杵築社領とは別に3番に「阿吾社一丁九反半 地頭」とみえるが、佐草家文書に残されたその写しでは唯一欠落している。偶然というより、阿宮(吾)社が後に(弘安8年以前)出雲大社領となったため、写す際に意図的に省略したのだろう。一方、大田郷は本来は国司により寄進された所領であったが、弘安8年段階で国造の支配が強化されたことになる。
 となると、Aの河午郷(Bでは河手郷)を「阿午」として阿宮に比定してきたこれまでの説は成立しないことになる。①で寄進された内遙堪(A)ないし内遙堪田(B)の規模は小さかったと思われる。これに②で外遙堪と河手郷が寄進されたことにより、遙堪郷が成立したのではないか。河手郷は文字通り日本海へ流れる斐伊川に隣接する所領で、流路が縮小する中で開発が進んだものであろう。

2010年11月20日 (土)

出雲大社本殿の高さ(4)

 これについては(2)で論拠を述べて8丈(24M)であったことが確認できると述べたが、少し説明が必要と考えたので補足する。
 北島家譜に引用されていた資料の内、①遷宮儀式の記録とは史料編纂所の「北島家譜」写真番号0851~0921と0940のもので、建長元年六月日の杵築大社造営注進(『大社町史』238)である。0940の最後の部分から②「一 建長元年己酉六月日御遷宮注進記録」は始まり0941に続くが、年月日や作成者の記載部分を欠くので後欠の可能性が高い。それが保存されていた資料そのものが後欠であったのか、写す際に不要と考えられたかは不明である。そして0930に戻って③「一 建長元年八月御遷宮御神宝抜書」が始まり、0931、0950以下0980まで続いている。これは千家文書(『大社町史』240)として残されている。
  ①の原本と比較すると、家譜が写された際にはすでに原本から仏教と関わる要素が取り除かれていたことがわかるが、①②③の史料が残っていた。そのうち、①③は現在も出雲大社に保存され公開されているが、②のみは不明である。保存されているかもしれないが公開されてはいない。ということで②は①③と同様に宝治の遷宮に関する貴重な記録であり、ここで明確に正殿の地上部分は八丈と記されている。②は『大社町史』241に「杵築社遷宮注文」として北島家譜から引用・掲載されているが、肝心の表題を記した一行目「一 建長元年己酉六月日御遷宮注進記録」を省略して二行目から引用し、解説で「宝治二年八月のころのものと推定される」と記している。そのため、原典の北島家譜を確認したのである。

星野哲郎氏遠行(2)

 船村氏との作品では、「おんなの宿」、「風雪ながれ旅」、「みだれ髪」などは誰でもあげるであろう(星野作品を隅から隅まで知っているわけではない)。船村氏以外との作品では「黄色いサクランボ」、「男はつらいよ」「昔の名前で出ています」「365歩のマーチ」「雪椿」が衆目の一致するところか。さらには、ちあきなおみさんのカバーで評価された「帰れないんだよ」をあげる人もいよう。美空ひばりさんの代表曲「悲しい酒」(星野氏の師石本美由紀氏の作)も男性歌手のため作られた作品のカバーであった。
 星野氏の秀作として船村氏とのコンビで作った「夜がわらっている」を加えたい。「黄色いサクランボ」とともに、初期の秀作だと思う。この唄を知ったのは1970年発売のちあきなおみさんのアルバム「もうひとりの私」と、同年の船村徹作曲家生活25周年記念リサイタルのライブ版であったと思う。後者ではオリジナルの織井茂子さんが唄っていた。2枚とも大学在学時に実家の立て替えがあり、その時に無くなってしまったが、良いアルバムであった。「夜がわらっている」は、ちあきなおみさんと友川かずき氏による「夜へ急ぐ人」の世界につながっている気がする。当時、友川氏がNHKラジオのパーソナリティをしていたが、そこでは「夜へ急ぐ人」にみられる「狂気」の世界とは違う友川氏がいた。同氏にはちあきさん歌唱の「祭りの花を買いに行く」のような静かな世界もある。
  このブログでは、星野氏と民俗学者宮本常一氏の記念館がある周防大島の人口問題をとりあげたことがある。二人とも印象深い人で、宮本氏の作品は網野善彦氏の研究を通して知り、卒論で伊予国弓削島庄をとりあげた際には石井進氏の勧めで氏の『瀬戸内海の研究』を読んだことを思い出す。
 最後に星野-船村コンビの作品にはシャンソン歌手森サカエさん歌唱の「空」がある。大乗仏教の「空の思想」をテーマにしたもので、よくこのような企画が通ったとも思うが、日本での「空」のとらえ方を知る手がかりとなる。遠行した星野氏の心や如何に。

星野哲郎氏遠行(1)

 「遠行」とは「遠くに行きたい」ではなく、中世では死亡することを意味した。近世史家が石見銀山関係史料にあった「遠行」をそのまま解釈して、石見銀山関係者が兵庫県の生野銀山に灰吹法の技術を伝えた証拠として解釈したことがあったが、中世史と近世史の違いを示していようか。大学時代の研究室では『遙かなる中世』との名で研究誌を発行していた。
 作詞家星野哲郎氏の代表作は何か、それは歌手ちあきなおみさんの代表作と同様に、人によりそれぞれだろう。星野氏とかかわりの深い船村徹氏にしてもヒットの度合いからする代表曲はあろうが、これも人によるのではないか。星野氏は、それほどに多種多様の作品を世に送り出しているが、自分を含めて個人が知っている曲はそのごく一部なのである。その詞はひとことで言って自然でわざとらしさがない。大学在学中は江東区越中島に住んでいたが、そこには氏の母校である東京商船大学があった。
 星野氏と船村氏は何の不思議か、クラウンレコードが1963年にコロンビアから独立した際に、船村氏がコロンビアに残ったのに対して、星野氏は船村氏の弟子北島三郎氏とともにクラウンレコードに移籍した。船村氏が二代目となりフリーとなったため、1980年の「風雪ながれ旅」で両者のコンビが復活した。この曲は、北島三郎氏ではなく、船村氏自身が唄う作品として作られ、古賀政男記念大賞の決勝審査に際し、北島三郎氏の歌唱に委ねられた。
  星野-船村コンビはすばらしいが、この空白期間があればこそ、星野氏が遠藤実氏、市川昭介氏をはじめとする様々な作曲家と組むことができた。これは良い結果につながったのではないか。

2010年11月14日 (日)

近世後期の変化4-4

 島根郡では出産の際、関係者が被差別民宅を一両日中に訪問し、相応の祝儀を渡すことになっていた。ところが、これが問題となった。平人側の主張では、相応の額とは自分たちが決めるものであるのに、被差別民側がその多少について不満を言うのはおかしいとなる。
 この問題について、例としては必ずしも適切ではないかもしれないが、共通の問題をはらむこととして、現在の戒名に対するお礼を考えてみればよい。戒名は誰でも付けることはできないので、有資格者に付けて貰い、お礼を渡すことになっている。 戒名をめぐる慣行に何の疑問ももたない場合は、問題となることはない。ところが、科学の発達した現在では、戒名の必要性について疑問を持つ人は少なからずいるであろう。ただ、葬儀が一家のみならず、親戚や近所・勤務先を巻き込んだ一大行事として行われるため、疑問はあっても戒名なしの葬儀まで行える人は、とりあえず仏式で行う人では少ないだろう。そうなると、お礼としての戒名料に対して、どの程度が適切かという疑問が生じるであろう(お寺側の改革の問題もあるが、それを含めてこれ以上は述べない)。
 先行研究ではこの出産に対する祝儀に関して発生した問題を、平人側の主張に準じて被差別民側の「わがまま」というとらえ方がなされた。それにたいして研究会ではコメンテイターから、被差別民が出産において果たした役割について考える必要があるとの注文が出されたのである。論者も論文を読んだ際にまったく同じ意見を持った。
  島根郡の例では、平人側の意見として、産家(屋)の問題が出されている。出産の際、女性が家を離れ、出産まで生活したのが産屋であり、この慣行そのものは近代以降にもみられた。出産した女性は家に帰る前に産屋の番人の家に立ち寄り、食事を共にした。これは出産に際して生じる「ケガレ」をキヨメてもらうためであった(瀬川清子『女の民俗誌 そのけがれと神秘』)。文化人類学では、出産に際し女性は集落から離れた秘密の場所へ行き、出産後再び集落に戻る例が報告されている。神に守られ出産するというものであった。

近世後期の変化4-3

 藩側の命令を受けて被差別民側が最初に出した断り状(慶応4年正月)では、平人側より先に漁場に出たことのみを誤りと認めているが、あくまでも藩側の命令によるもので、本当にそれが間違いと考えていたわけではない。そしてそれでは平人側が納得せず問題の収拾ができないことが明らかになると、2度目の断り状(慶応4年6月16日)を出させている。そこでは平人に対する不法な振る舞いを「以後しない」としたうえで、平人側へお願いをさせている。
 ところがそれでも平人側が納得しなかったため、3度目の断り(明治2年5月)では、被差別民側が自分たちが下の身分であることを認めた上で、分を過ぎたことはせず作法を守ると約束させているのである。最初では断りながらも自己の立場を主張していた被差別民側が、最後には完全に平人側の主張を認める形となっている。それは間に入った藩の役人自身がそれが本来の姿であると誤解していたからである。そして明治2年4月に被差別民が民政局支配とされたことは、本来被差別民側にとって有利になるはずのものであったが、問題が解決した後の5月になって、その趣旨をゆがめる形で被差別民側に伝えているのである。

近世後期の変化4-2

 当時平人と被差別民の間では漁場をめぐる対立があり、平人側が被差別民の漁業を差し止めた。被差別民側は庄屋等に訴えたが採り上げてもらえないため、藩の郡役人に訴えた。郡役人側は平人側に出頭を命じて解決を図るが、平人側は逆に、被差別民への正月の合力をも差し止めた。
 これをうけて郡役人側は平人側の首謀者を逮捕するが、反発する平人側は2名を奪い返し、被差別民に負傷を負わせた。被差別民は警察業務を担っていたため、逮捕に動員されていたのである。これをうけた藩側は被差別民側に断り状を出させる形で解決を図ろうとするが、平人側は納得せず、被差別民への不満を述べられた書状が出されている。この断り状と書状を見る事により被差別民側と平人側の理解の違いが明らかとなる。
 この問題について検討された研究では主に平人と藩役人の理解に基づき分析がなされているが、被差別民側の主張についてはほとんど検討されていない(史料名、地名、論文名は明記しない)。まさに両者の理解の違いこそが重要であると思うので、以下に述べたい。論者は多数者側(平人と藩)の理解の変化が問題の原因であると考えるからで、それを変化した側の理解を追認する形では問題の本質を理解できない。基本的には被差別側の理解がこそがより事実に近いものであったと考える。そして同様の問題は、出雲国だけでなく、石見国でも発生している。

近世後期の変化4-1

 明治2年4月20日、虚無僧と被差別民が民政局の支配とされている。新たに民衆支配のために民政局が置かれ、従来、宗門帳で平人とは別帳に記載されていた虚無僧と被差別民を平人とともに一元化して支配する体制を取った。別帳であったのは、藩からみて社会で果たすべき役割が異なっていたからであり、差別のためのものではなかった。そして刑罰に関する刑法局を併せて設置した。それを島根郡内の庄屋が平人と被差別民にそれぞれ伝達している。
 庄屋から平人側への説明から藩から出された内容がわかる。親への孝養と兄弟間の親睦、さらには上を敬いそれぞれの家業に励むことを命じている。そして、凶年への備えは社会的に弱い立場への配慮であるとしている。そうした中で、被支配者側をも民政局支配に一本化したのである。それに対して被差別民への説明では、各自の身分を取り失わずに家業を守れと、身分の違いを強調した説明をしている。被差別民と社会的に弱い立場の人々とはイコールではない。平人と被差別民の対立を、被差別民側を抑える形で収拾するために、民政局支配への一本化の趣旨を変えて説明している。ここに、平人と被差別民の関係の変化を考える手がかりがある。両者の間に立つ庄屋と藩の役人が、自ら考えが事実に基づかず変化していることを自覚しないままに問題解決に対処し、その結果、平人と被差別民の関係が変化したのである。

安芸・吉田攻めまでの尼子氏(4)

 天文6年12月の石山本願寺との音信では、経久への取次鳥屋氏に対して、河本右京進が詮久の取次とされている。翌天文7年11月の本願寺からの書状が、詮久と国久、さらには河本の三者を宛所としているのは尼子氏の新体制の姿を象徴している。富田衆で河本に次いで記されているのは亀井宗四郎と湯原幸清である。翌年には亀井太郎左衛門尉安綱と湯原幸清がみえるが、宗四郎と太郎左衛門安綱は同一人物ではありえない。また、同時期にみえる亀井藤左衛門尉国綱と宗四郎も別人であり、能登守秀綱の後継者宗四郎は早世した可能性が高い。この後天文20年に亀井孫五郎が登場するが、これが宗四郎の後継者であろう。また、本願寺側の記録の尼子氏関係部分に備後国の宮氏と渋川氏が登場することも注目される。備後国山内氏へ圧力をかけるにあたり備後国と隣国美作国の国人の組織化を図ったと思われる。また、本願寺との連絡にみられるように尼子氏は畿内への関心を深めていた。
 天文7年11月に尼子氏の新体制が確認できるとしたが、同月の本願寺の記録には、富田衆とならんで、国久の嫡子式部少輔、経久の甥(弟の子)下野守久幸の子次郎四郎、興久の遺児彦四郎も登場する。ここに久幸自身の姿がみえないのは不可思議であるが、西方面を担当していたか、経久とともに富田城を固めていたのであろう。この時期までに詮久と国久娘との婚姻が実現した可能性が高い。
 天文8年の尼子氏は東部方面への派兵に重点を置き、年末には播磨方面が理運に属する状況となっていた。西部の安芸国に派遣されていた松田経通は天文9年1月の吉川氏宛の書状で、尼子氏が出雲国に帰陣することを伝えている。そうした中、安芸国の尼子方の中心であった武田光和が6月9日に死亡し、雲州の尼子氏にも連絡があった。それをうけて富田衆の湯原氏を派遣するとの返事があった。
 時あたかも尼子氏側は8月19付で日近江国竹生島宝厳寺造営の奉加帳をとりまとめており、これが出雲国内の尼子氏の支配下にある国人を網羅する形となり、当時の尼子氏政権の構造をすることが出来る。以上が吉田攻め以前の尼子政権の状況である。軍記物は下野守久幸を経久の子として、晴久の安芸国吉田攻めに反対させ、その死をドラマチックに描いたが、直前の新宮党による軍事行動を含めて虚像であった可能性が高い。

安芸・吉田攻めまでの尼子氏(3)

 興久の乱は一時は興久方の勢力が勝っているかに伝えられたこともあったが、大内氏が尼子経久支持を打ち出したこともあって、結果的には失敗し、興久を初めとする乱の関係者の多くは国外へ追放された。これに対して経久側は、乱の原因が度重なる遠征の負担であったこともあり、融和的姿勢を取った。すなわち、関係者の所領は一部は没収したが、大半は一族のものの継承を認めた。
 興久に荷担した宍道氏領の多くは、尼子国久の娘を母とする2人の子が継承した。同様に、興久領についても大半は経久の孫となる嫡子の彦四郎清久が継承したと思われる。神西氏領も庶子が継承を認められている。こうして国内の動揺を抑えつつ、将来の不安定要素となる興久については、それを庇護する山内氏とともに硬軟両様の交渉を行い、天文4年には切腹に追い込むことに成功した。系図ではその死を天文3年とするが、過去帳は天文4年12月3日に死亡したとする。後者の方が、天文5年2月の尼子経久と詮久による、山内氏断絶に伴う相続安堵と合致している。すなわち、天文4年12月に尼子氏の度重なる圧力により、興久だけでなく山内氏当主直通も隠居ないし切腹に追い込まれ、翌5年2月に尼子氏により直通外孫である多賀山隆通の相続が認められた、と。
 尼子興久の乱は尼子政権にどのような影響・変化をもたらしたのであろうか。経久と並んで詮久の発給文書(出雲国内と美作国)がみられるようになることが1つ。従来は尼子氏家臣としては亀井能登守秀綱の発給文書がほとんどであったが、中井氏、湯原氏、河副氏、鳥屋氏らの発給文書がみられるようになる。尼子氏直臣の富田衆については、岩屋寺への勧進帳や中央との間にやりとりする書状により状況が判明する。そして詮久が民部少輔に任官し(天文5年)、経久から当主の座を継承すると(天文6年)、尼子国久が政権の表舞台に登場する。

安芸・吉田攻めまでの尼子氏(2)

 尼子氏の第1段階については、これまで応仁・文明の乱に京極氏の守護代として反守護方の国人一揆を鎮圧したことにより実現したとされていたが、それが成り立たない事はすでに述べたとおりである。尼子氏は反守護方の国人と結ぶ事により守護京極氏の支配を空洞化させるとともに、京極氏一族で早くから出雲国に勢力を築いていた宍道氏の勢力を婚姻関係を通じて吸収することに成功した。そして、明応年間に近江での敗北により出雲国に再入部した京極氏の権威を取り込む事により、塩冶氏、古志氏、国造家などの出雲国西部の勢力を抑え、永正5年に京極政経が死亡すると、尼子経久が実質的な出雲国の支配者となった。出雲大社造営と鰐淵寺への掟制定が可能となったのはそのためである。
 第2段階は、出雲国中南部の国人の制圧であったが、嫡子政久を失いながらも、永正末年までには、アメ(交渉)とムチ(戦闘)により一定の支配を実現した。そして永正16年には出雲大社の遷宮を実現した。そしてその勢力を背景に、大永年間には出雲大社三月会の再興や大社での万部経読経を利用して国外への軍事活動に国人を動員することに成功した。
 第1回目の動員は大永2~3年の石見・安芸国への遠征であったが、これは大内氏の警戒を招き、大内氏は石見・安芸国の尼子方国人を切り崩した。これに対する尼子氏の反撃が大永6年~7年に行われたが、十分な成果をあげてはいない。石見国では佐波氏惣領が大内氏方に転じたため、これを攻撃して追放し、その所領の一部を佐波氏庶子で尼子氏方であった赤穴氏に与えている。備後国には享禄2年中頃まで断続的に攻撃を加えているが、最終的には退却した。
 そうした中、享禄3年には3度目の大社前読経とそれに続く大規模な国外への軍事行動が予定されていたが、その最中に塩冶興久の乱が起きた。軍記物の記すような興久の不満もあったであろうが、乱の最大の原因は、度重なる軍事行動に伴う過重な負担に対する国人の不満であった。その背後には軍事行動に動員されたり、負担を求められる住人の不満もあったであろう。
 結果として、反尼子氏となったのは出雲国西部と南部の国人で、東部の国人は尼子方であった。東部の国人は尼子氏政権成立の立役者であり、大きな利益を得ていたのに対して、西部と南部の国人は国外の勢力と向き合っており、度重なる遠征にメリットはなかった。
微妙なのが北部であり、歴史的に出雲国北部は西部との関係が深く、西部の国人の関係者が北部の所領を支配していた。軍記物で佐陀城の合戦がクローズアップされるのもそのためであろう。

安芸・吉田攻までの尼子氏(1)

 学生の頃、五味文彦氏「平氏軍制の諸段階」という論文を読んだ。それにならう形で尼子氏政権の諸段階について、標記の吉田攻めまでについてまとめてみる。表現を変えれば「尼子興久の乱の再検討」ということもできる。吉田攻め以降については「尼子晴久」で述べた内容に特に加える新たな点はない。
 尼子氏について最初に分析したのは『竹矢郷土史』中世編執筆のためであったが、史料収集が不十分であり、結果的には習作以前の状況であった。関係史料の一部であるが、初めて精読したのは、高橋正弘氏『山陰戦国史の諸問題』の書評を書いた際であった。それに、石見銀山関係史料の再検討の成果を併せて「尼子氏の石見国進出をめぐって」との論文をまとめた。関係文書には無年号文書が多いが、その年代比定がきちんとなされないままに、従来の研究が行われていたことに気づき、驚ろかされた。
 史料収集(『大社町史』・『出雲尼子氏史料集』)と研究の進展の成果を受けて、2度目にまとめたのが、『出雲塩冶誌』中世編であった。現時点ではいくつかの問題点があると感じているが、執筆当時はこれでようやく中世全体の時期の出雲国について自分なりの見解を示すことができたと思った。その後、安来市広瀬町でのシンポジウムで「尼子氏の支配と富田衆・新宮党」と題して報告する機会を得た(2008年8月)。ブログの中で「尼子晴久」と題して述べたのは2008年末のことだった。
  以上の第二期の成果を見直す契機となったのは、2010年2月にブログで「在地と権威」についてまとめたことであり、5月以降に「応仁の乱と出雲国」に始まる一連のブログ原稿をアップした。これと並行して、論文「応仁・文明の乱と尼子氏-文書の声を聴く」を執筆し、8月中に脱稿した。間もなく活字化されることになっている。前置きが長くなったが、標記のテーマについて現段階の自分の見解をまとめていく。

2010年11月 9日 (火)

富田下城衆書立について(3)

 これに対して⑥には命日が元禄16年のものまで記され、元知後に完成したものであろう。⑤は佐々木氏代々の惣領を、宝暦2年死亡の時久まで記し、⑦には明和2年までの死亡者を収録している。ただ、末尾の寺院関係者の部分は17世紀初めの成立。④は題名のとおり、足利尊氏から義輝までと、毛利元就から宝暦10年死亡の重廣(藩主重就の養子となるが早世)までを記す。
 ⑧は尼子氏家臣のうち、津森、大西、多賀、吉岡、力石、中谷家の関係者を中心に記したもので、末尾に作成日の宝暦11年10月16日と大西十兵衛娘の名を記す。ところがそれに続いて550人を越える過去帳の抜き書きが記されるが、その死亡年は元和6年までで、17世紀初頭成立のものとなる。⑨の内容は⑧の前半部分とほぼ一致し、18世紀半ばの成立である。⑩は212人のリストだが、⑧の後半の過去帳の前半分と記載内容は一致する。吉川元長家過去帳写とするが、最初の元長を除けば尼子氏関係者の過去帳である。⑪は冷厳寺=元知がリストアップしたもので、京極高詮以降の尼子氏関係者400人以上を記す。記載順は異なるが、その人物の多くは⑧の後半の過去帳抜き書きに登場する。
 以上のように過去帳は17世紀初めの成立のもの(①②③、⑦の末尾の寺院関係者、⑧の後半の過去帳、⑩⑪)と18世紀半ばまでに成立したもの(④⑤⑥⑦⑧⑨)とに分けることができる。その中で注目すべきは、「冨田下城衆書立」が、⑧の後半の過去帳の「廣田三郎五郎」から「日野善次郎」までの部分に、関係者を追加して成立した形となっていることである。この点からして「冨田下城衆書立」が最終の形となったのが17世紀初めの元知の時代であったことである。

富田下城衆書立について(2)

 島根県立図書館蔵の佐々木家文書謄写本には、以下のように尼子氏関係者の過去帳が何種類も残されている。
 ①高野山報恩院中島坊尼子家過去帳
 ②尼子家法号写
 ③高野山中嶋坊尼子家法号写
 ④足利将軍毛利候尊霊写
 ⑤佐々木京極尼子正統霊写
 ⑥同性連枝同子孫諸霊
 ⑦佐々木京極尼子有縁霊写
 ⑧佐々木尼子家臣諸霊
 ⑨永禄九芸江御供其後長州奈古江相届候御家来并ニ勤番之嫡年廻料被立下法号之控
 ⑩吉川元長家過去帳写
 ⑪冷厳寺様御付筆過去帳写
 
 ②の「尼子家法号写」は『尼子』に大西家文書として収録されているものと同一のもの。①は同一系統だが若干異なる記載がある。③は冨田居住者の抜き書きであるが、その末尾には中嶋坊役僧が佐々木将監宛てに書き写して進上したことが記されている。前には18世紀前半の佐々木元氏(将監)のものと推定したが、17世紀前半の元知(義久弟倫久の子で、義久養子、将監)と訂正したい。法名「冷厳院」は⑪の題名にもなっており、元知が尼子氏過去帳の記載を収集・整理していたことはまちがいない。元和八年五月十八日に死亡している。⑦の末尾に寺院関係者の名が記されており、前半分は「冨田下城衆書立」のAとCの末尾に記された寺院関係者と一致する。後半部分は命日を記すが時代の最も下るものは元和7年6月18日と、元知在世中のものである。⑦の末尾は元知の段階で収集されたものである可能性が高い。

冨田下城衆書立について(1)

 表記の資料は出雲尼子氏史料集(以下「尼子」)に2点収録されている。掲載順にA・Bとする。佐々木文書では1つの資料として「尼子義久家臣人数帳」として続けて掲載されるが、写真をみれば、文書の体裁は異なり2つの資料であることが明らかであるが、解説がないため、その意図は不明である。
  いずれにせよ、東大影写本から掲載しているが、島根県立図書館の佐々木文書の謄写本ではもう1点(C)収録されている。Aとほぼ同内容であるが、これとともに尼子氏過去関係史料も併せて検討すべきものであるが、過去帳については「尼子」に大西家文書から一部のみ掲載されているのみ。
 AとBではAの方が記載が詳細であるが、互いに人物には出入りがある。Bの最後の中間について、Aの方が数が多く、さらには続いて「僧衆にハ」として富田城に籠城していた寺院関係者も記す。ただ、Bの福庭藤内と日野善次郎についてはAにはみえない。それに対して、CではAの末尾の人物に続いて両名を記し、「右両人一帳有之、一帳ニ無之ニ付記之」とある。ただ、厳密にはAにある横道源介(久宗弟)のみはCから欠落している。
 以上により、AとBを比較してより詳細なAに基づき、最後にAにない2名を付加して作成(写)したが、逆に1名を欠落させてしまったのがCということになろう。その意味ではAとBを検討すればよいことになる。
 「尼子」ではBの方が先に成立し、後に詳細なAが作成されたとする。Bの原型をなす冨田城落城時に籠城していた家臣のリストがあり、それに勝久による尼子再興戦時やそれ以後の情報を付加してBが成立し、次いでさらにその後の情報を付加して、詳細に記したのがAであろうか。Bでは「山中甚次郎」と記しているが、Aでは「山中鹿介」と記す。また、Bでは立原源太兵衛には付記がないが、Aでは阿波で死亡したことを記す。これは慶長18年のことであった。これにより、Aの成立は慶長18年以後のこととなる。

2010年11月 7日 (日)

ナゴヤドームについて

 日本シリーズの最中だが、中日のナゴヤドームでの勝率の高さが言われている。その理由として、ナゴヤドーム球場の広さとマウンドの高さと堅さが言われることが多い。
 ナゴヤドームの広さについては、「セリーグの球場としては」という限定付きである。両翼100M、センター122M、左右中間116M、フェンス4.8Mというのはパリーグの球場としては標準的サイズである。それに対して、セリーグは箱庭野球と揶揄されるように、狭い球場が多い。
  マウンドの高さについては、屋外の球場は排水のため緩やかな傾斜の中にマウンドがあるのに対して、ドームは平坦な中にマウンドがあるため、高く(感じるように)なりやすいとのことである。高さは10インチ(25.4cm)で共通だが 、マウンドそのものは1フィートにつき1インチの傾斜と定められているが、実際はあいまいで球場により傾斜が異なるという。堅さは土の種類にもよるが、違いがあるようである。
 ネット上では、中日はホームではよいが、残り半分では不慣れなマウンドでやるため不公平さはないとの論が述べられていた。一見根拠あるようにもみえるが、他の5球場(後楽園以外は屋外)が傾斜が緩く、ナゴヤのみ傾斜がきついとすると(実際はどうなのだろうか)、中日の投手は半分をホームで、残り半分を傾斜が緩い球場でするので、両方に対応できる。これに対して残りの5球団は、5分の4は緩い傾斜で、5分の1のみを傾斜のきつい球場でやるので、不利になると思われる。
 パリーグの場合はドーム球場が多いので、堅さはともかく傾斜のきつさは気にならないのではないか。千葉マリンのみが風が強い場合、そこをホームとするロッテは、他の5球団より有利となろう。
 いずれにせよ、年間成績ではなく、現時点でのチーム力+相性(監督の判断を含む)で日本シリーズは決着する。落合監督のコメントが取り上げられることが多いが至極当然のことを言っているにすぎない。なぜもったいぶるのであろう。

2010年11月 1日 (月)

近世後期の変化4について

 本ブログでは中世史がメインであるが、歴史人口学や近世史についても、論者が自ら資料を分析した範囲に限定してではあるが、述べている。自分でも専門があるとすれば、特定の時代ではなく(とても大きな問題で、論者の手には余る)、一つの資料をからどのように情報を引き出して、真理へ少しでも接近できるのかということを考えることである。
ブログで述べたことは、あくまでも中間報告にすぎず、その問題について考えることを止めたわけではない。
 ここのところ、近世後期の変化として題して差別の問題を取り上げている。差別の問題を論じる際に、従来は専ら差別された人々に焦点をあてて論じられた。それがこの問題の解決を進める一方で、解決を困難とした面もあったとの反省から、近年は差別した人々とその変化に焦点があたるようになった。論者もその立場を支持するが、論者にとってそれは方法論上の問題ではなく、まさに差別した側の変化、忘却こそが問題発生の本質・事実であると考えている。
 近世後期の変化については、出典を記さず、関係論文についてもほとんど記していない。それがなくても問題の理解ができるように記しているつもりであり、本当に関心を持った方であるなら、論文を調べ、それを実際に読むことは不可能ではなかろうと思うからである。続編(とりあえず「4-1」~「4-5」を加えた)についても同様のスタンスで記すが、それ以外のテーマについては、そろそろじっくり資料を読む時間を持たないとネタ切れでもあるが、これまでと同様、ブログとHPの両方に掲載したい。

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