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2010年10月23日 (土)

近世後期の変化3-2

 入牢時の負担は石見国でも問題となっている。すなわち、幕府領石見銀山で、寺社や修験、百姓が入牢した際には、1日3匁を賄料として牢番に渡し、牢番はその中で賄いなどを行っていた。これに対して、村役人や百姓が必要があって御用郷宿詰をする際は、賄い料として1日2匁を負担していた。牢番を務めていたのは警察的業務を行う被差別民であった。
 この比較を根拠として、牢番へ渡す3匁は多すぎるとの意見が出、賄い料は半分の1匁5分とし、それに食事を持ち運ぶ雇い人の分3分を加えた1匁8分を賄い料として牢番に渡すことに変えた。同様に無宿人の場合は賄い料2匁5分であったのを、1匁3分(同じく1匁2分減額)に改めている。無宿人の場合は、負担する関係者がいないので、代官所の費用の中から牢番に渡されていたのだろう。
 このような変更は、負担が重いとの百姓などの意見を受けて、行われたのであろう。入牢した際の賄い料(実質的には夜中の間監視しなければならない)と、村役人・百姓の賄い料(宿泊・食事代)とでは性格が全く異なるが、それを同一の基準で調整して、負担を軽減したのである。これも牢番を差別するための変更ではなく、代官所と百姓らの負担軽減を図ったものであるが、その変更を可としたのは、牢番の仕事の重要性を忘却していたことである。入牢者が逃げ出した場合は、牢番は処罰されるのだから、牢番からすれば不当なものであったろう。
 その命令では、牢番の代表者2人には1年に玄米6石を与えているでのであり、入牢者が多数であるといった特別な事情が発生した場合を除けば、入牢者が発生した際の給付は必要ないとの意見である。この命令は宝暦7年(1767)9月に初めて出され、文化2年(1805)3月に再確認されていることがわかる。

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