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2010年10月16日 (土)

近世後期の変化1-2

 ③これに関連して広瀬藩領飯石郡では、天明八年(1788)八月に、請人については毎年人を替えるよう命じるとともに、親類や相互の請人は認めないとして、ここでも請人がない場合は被差別民に頼むよう命じている。そしてさらに、不埒の際は警察業務を行っている被差別民が筋を立てて対応することを求めている。
 ①~③の事例からわかるのは、連帯責任として五人組があったが、その上に治安維持・法令遵守のため請人を藩が百姓に要求するようになったことである。その時期は御立派開始以前(18世紀中頃か)であるが、それが御立派開始で稠敷くなったのである。そして請人制度を厳格にするため、①親類や向三軒両隣などの知合いや②相互に請人になりあうことも禁止し、さらには③毎年請人を替えることも求めている。実に無理難題であるが、百姓側は現実的な対応をし、話し合いで請人を決めたであろう。この命令は、被差別民の排除や差別意識の強化を目的としたものではない。また、「被差別民」との名称が適当かどうかを考えさせてくれる事例でもある。その村に居住する被差別民は、一面では村の一員であり、それがゆえに請人たりえたが(当然命令されるのではなく、頼まれる存在であある)、もう一面では周辺の村々とも関係を持っており、その村専属ではなかった。
 そうした中で問題となったのが、犯罪を犯して追放処分となった人々である。彼らの請人となることを申し出る百姓はおらず、且つ、彼らを現実に監視できるのは警察的業務を行っている被差別民であった。松江藩出雲郡に出された寛政13年(1801)の命令では、
追放された人々は五人組に属していないため、問題行動があっても訴え出るものがない。追放先の村の五人組に入れようとしても断られるので、その時点で追放になっているものを含めて、これ以後は被差別民を請人とするとしている。そして、被差別民がいない村の場合は、隣村の被差別民でもよいとしている。ただ、この時点では作法に関する命令はない。これが、文政2年(1812)の神門郡の命令では、追放者が被差別民同様の作法を行っておらず、不届きなので改めて申し付けるとしている。そして以後は、追放となったものにはその時点で作法についても申し渡すよう命じている。

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