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2010年10月

2010年10月26日 (火)

尼子久幸について

 系図と軍記物で尼子下野守久幸が、経久の弟源四郎の子であることを述べた。過去帳によるとその法名は「光円正清禅定門」である。安芸国吉田攻の際の戦死であるが、ある程度高齢に達して功なり遂げた場合は不慮の死であっても「~居士」という形(尼子国久とその弟興久の場合)であったろう。その子が享禄3年に、御局が大永8年に死亡していることからすると、久幸は興久よりやや下で16世紀初めの生まれとなろう。
 尼子氏過去帳に関連して、「尼子豊後守」について言及した。法名は「紹天月経禅定門」である。久幸の父源四郎ではないかと述べたが、系図の記載と矛盾するので、久幸の兄弟ではないか。源四郎は任官する以前に死亡したことになる。惣領経久の3人の子が「民部少輔」(政久)、「刑部少輔」(国久)、「宮内少輔」(興久)に任官しているが、庶子家の久幸は「下野守」である。その兄弟が「豊後守」となっていたのではないか。
 経久の子国久は庶子ではあるが、兄政久が亡くなったこともあり、国久の嫡子は「誠久」であり、「式部少輔」に任官していた。それに対して、以下の子は天文9年段階では「久豊」「久敬」であった。それが大きく変化するのは、安芸吉田での敗北と、詮久と国久娘の結婚であった(天文8年には詮久御局が死亡)。それをうけて、国久とその子は詮久(晴久)の子の外戚の地位を得、そして「兵部少輔豊久」、「左衛門大夫敬久」が実現したのではないか。別にこれは新宮党の横暴ではなく、政権内部の地位が変化したために生じたものであった。それと同時に国久の塩冶入りと出雲国西部に関して晴久の命令に対する添状を発給するようになった。

2010年10月23日 (土)

近世後期の変化3-2

 入牢時の負担は石見国でも問題となっている。すなわち、幕府領石見銀山で、寺社や修験、百姓が入牢した際には、1日3匁を賄料として牢番に渡し、牢番はその中で賄いなどを行っていた。これに対して、村役人や百姓が必要があって御用郷宿詰をする際は、賄い料として1日2匁を負担していた。牢番を務めていたのは警察的業務を行う被差別民であった。
 この比較を根拠として、牢番へ渡す3匁は多すぎるとの意見が出、賄い料は半分の1匁5分とし、それに食事を持ち運ぶ雇い人の分3分を加えた1匁8分を賄い料として牢番に渡すことに変えた。同様に無宿人の場合は賄い料2匁5分であったのを、1匁3分(同じく1匁2分減額)に改めている。無宿人の場合は、負担する関係者がいないので、代官所の費用の中から牢番に渡されていたのだろう。
 このような変更は、負担が重いとの百姓などの意見を受けて、行われたのであろう。入牢した際の賄い料(実質的には夜中の間監視しなければならない)と、村役人・百姓の賄い料(宿泊・食事代)とでは性格が全く異なるが、それを同一の基準で調整して、負担を軽減したのである。これも牢番を差別するための変更ではなく、代官所と百姓らの負担軽減を図ったものであるが、その変更を可としたのは、牢番の仕事の重要性を忘却していたことである。入牢者が逃げ出した場合は、牢番は処罰されるのだから、牢番からすれば不当なものであったろう。
 その命令では、牢番の代表者2人には1年に玄米6石を与えているでのであり、入牢者が多数であるといった特別な事情が発生した場合を除けば、入牢者が発生した際の給付は必要ないとの意見である。この命令は宝暦7年(1767)9月に初めて出され、文化2年(1805)3月に再確認されていることがわかる。

近世後期の変化3-1

 天保10年(1839)6月、松江藩神門郡の藩役人は、犯罪者逮捕のために被差別民を派遣し、逮捕後は被差別民に預けるという慣行の見直しを命じている。被差別民の業務に対して支給する費用が小さくなく、且つ、犯罪者が小前の場合は、本人や関係者がその費用を負担することが難しいと訴え出たのが理由である。
  これに対応するため、人数・規模が大きい場合や火付けなどの大罪は、これまで通りとするが、その他の多くの犯罪については、初犯であれば被差別民を派遣することを止め、村役人に同道することを命じ、取り調べ後も親類や五人組預けにすることにより、被差別民への費用支給を減らそうとしている。
 この当時は飢饉の後で犯罪が増加しつつあったことも費用が増えた背景であるが、そうした中で結果として犯罪に対する刑罰を軽くした形となり、犯罪増加の歯止めがなくなることも想定される。そのためか付記では軽微な犯罪でも被差別民に預けることをしなくては、周りに対する示しが付かないものについては、従来通りとしてはいるが、費用負担の軽減が最大の目的であった。
 ここには書かれていないが、犯罪取り締まりを行う被差別民に対して、その対価として支払われる費用の持つ意味が忘却され、多数者の側の都合が優先されつつある事例である。

2010年10月18日 (月)

近世後期の変化2-4

 以上、「近世後期の変化」と題して述べてきたが、ここで考える必要があるのは、変化する前の平人と「被差別民」の関係を、平人からの差別=排除と捉えることが適切なのかという点である。「被差別民」の語が適切かどうかというのも、その点に関わっている。
 次に、従来差別を強化するための政策、ないしは変化と評価されてきたものについても見直しが必要ではないかという点である。結果としては確かに差別の強化につながっていったが、本来は、社会全体の変化、ルーズで外部に対して受容的な社会から、管理的で内向きな社会へと変化の中で打ち出されたものである。そしてこれは別に松江藩のみの問題ではなく、全国的にみられた傾向である。
 差別の問題は決して過去の問題ではなく、現在進行形の問題である。その変化・変更が直接的には特定の人々への差別=排除を意図したものでない場合も、このように結果として差別につながりうるとの意味で、現在の社会のあり方を問うていかなければならないのではないか。
 南アフリカのアパルトヘイトについて、もうそれが解決したならば、それについて学ぶ必要はないとの意見を聞いたことがある。「被差別民」の問題は解決しているので、もう学ぶ必要がないことを主張する団体の意見で例示として述べられていたが、これは差別の問題を表面的にのみとらえたその場かぎりの意見であろう。
  いずれにせよ、問われるべきはどのような社会を作っていくかである。そして、社会の中で弱い立場におかれた人々の主張に耳を傾けながら日々考えていくことであろう。その際に、先入観を排し、知ったかぶりのないようにしていかなければならない。

2010年10月17日 (日)

近世後期の変化2-3

  文政7年(1817)の神門郡の命令では、犯罪により入牢した際の負担が加重であるとして見直している。費用は本人、五人組、二十五人組と親類組合、さらには村割で負担することとなっていた。その最後には、被差別民が入牢した際の負担について述べ、本人、村内仲間、郡中仲間の順で負担することになっているが、郡により区々で、郡村割で助成することを禁じている。すなわち、居住する村だけでなく、周辺の村や郡内で警察業務を行う被差別民について、居住する村や郡が負担することがあり、これを禁じているのである。
 被差別民の二面性についは、すでに触れたが、現実に居住する村の百姓との関係がしだいに強まっていくのは当然であり、そのために百姓に準じて村が費用を負担することがあったのだろう。
 同じ郡内の別の家の古文書を探すと、同じ文書が残されており、それとともに宝暦3年(1761)の法令が残されていた。被差別民が入牢した際は、本人の家財を取り上げて差し出させるが、不足があれば村内の仲間、なお不足する場合は郡中の仲間から負担させることを定めている。「先々のとおり」などの表現がないため、この時点で初めて定めたこのであろう。
 神門郡内の天明年間の記録では、被差別民が入牢した際に、郡内の仲間でその費用を負担していることが確認できるが、すべてがこうなったわけではなく、居住する村が負担した場合もあったのであろう。 

近世後期の変化2-2

 明和6年(1769)12月、神門郡の町で警察業務を行う被差別民に対して命令が出されている。近来、心得違いにより無礼がましい事があると聞いて、以後は以下のようにせよと命じている。その内容は、役人や平人と逢った際に無礼なきように行動することと、普段と役目を務める際の被差別民の服装、履物などについてである。同じく役目を務める際も年頭五節供のみは別であった。また、被差別民の中でも、頭とその名代と子弟、さらには「本」と「名子」で変えている(本百姓と脇ないしは名子百姓に対応か)。
  ここからわかることは、役人や平人の側から被差別民の行為に対する不満が出されたことを受けて、新たに具体的に定めたものということである。それまでは「無礼無きように」で済んでいたことが、それでは済まないため、明確化された。その内容には従来からの慣行もあるが、今回、あるべき姿を考えて具体化されたものもあったと考えられる。この法令の背景にも、身分の上下や違いを強調して社会の引き締めを図る松江藩の御立派の開始(1767)があり、この史料は「明和四年丁亥九月御立派以後御用留写」の中に含まれている。

近世後期の変化2-1

 松江藩領出雲郡では天明2年(1782)に、警察的業務を行う被差別民に対して、風俗が守られず、平人に対して慮外の事がままあるとして新たな命令を出している。すなわち先年、髪型を一目でそれとわかる形にすることを命じたが、守られていないようなので、本人だけでなく家内のものすべてがその髪型にすることを求めている。本人とは成人男子であり、女性や子どもにも対象を広げたのである。
 髪型そのものは夫に先立たれた女性などの髪型として知られるもので、それ自体に差別性はなく、平人との違いが一目でわかるための措置であった。岡山県の渋染一揆では、服装の色で一目でわかるようでは、犯人逮捕に支障があるとの抗議が被差別民から出されているように、警察業務を行う面ではマイナスもあった。問題は「先年」であるが、そう古いことではなく、18世紀中頃のことであろう。
 それが享和2年(1802)の出雲郡の命令では、天明2年に平人と被差別民の双方へ申し渡したが、20年が経過したこともあって双方とも忘却していることもあるので再度伝えるとしている。ここからわかるのはその髪型の強制がそう古いことではなく、双方が忘却するようなものであったことである。幕末にみられる被差別民が平人と会う際の作法についても、その内容の変化とその持つ意味について、「差別」という先入観抜きに考える必要がある。

近世後期の変化1-3

 寛政13年段階では不明確であったろうが、それが実施される段で平人の側から作法の問題点が指摘され、作法が求められるようになったでのあろう。その結果として、本来は請人制度とは無関係な、被差別民の管理下に置かれた人は被差別民と同様の作法を強制するとの内容が付け加わったのである。その趣旨はそういう待遇に置く事により再犯を防ぐというものであったであろうが、それが結果として差別意識を強めたことは確かである。
 残された課題は、被差別民が平人と接触する際の作法がいつごろから生まれるのかという点とそれが本来差別=排除の性格を持ったのかということであろう。
 松江藩の御立派については、これを評価する意見もあるが、様々に活動範囲を広げつつあった百姓に対して、自らの一方的なイメージに基づく行動を強制し、それに合わない人々やその活動を排除しようとしたという意味では、社会の発展にマイナスとなった(反動的)政策で、結果として差別の強化をもたらしたものである。この傾向は松江藩だけでなく、全国的に18世紀後半以降、それまでのルーズで受容的社会から管理的で自村中心的社会への移行がみられるが、その評価はどういう視点で歴史を見るのかによって異なってくる。もちろん、それで人とモノの動きが加速するのを抑えることはできたわけではない。
 なお、網野氏によると中世前期の村落に対して後期の村落では外部に対する排除の傾向が強まるとするが、中世では村落の正式構成員が社会全体で占める割合は低かったと思われるので、社会的により大きな意味を持つのは近世後期の変化であると考える。

2010年10月16日 (土)

近世後期の変化1-2

 ③これに関連して広瀬藩領飯石郡では、天明八年(1788)八月に、請人については毎年人を替えるよう命じるとともに、親類や相互の請人は認めないとして、ここでも請人がない場合は被差別民に頼むよう命じている。そしてさらに、不埒の際は警察業務を行っている被差別民が筋を立てて対応することを求めている。
 ①~③の事例からわかるのは、連帯責任として五人組があったが、その上に治安維持・法令遵守のため請人を藩が百姓に要求するようになったことである。その時期は御立派開始以前(18世紀中頃か)であるが、それが御立派開始で稠敷くなったのである。そして請人制度を厳格にするため、①親類や向三軒両隣などの知合いや②相互に請人になりあうことも禁止し、さらには③毎年請人を替えることも求めている。実に無理難題であるが、百姓側は現実的な対応をし、話し合いで請人を決めたであろう。この命令は、被差別民の排除や差別意識の強化を目的としたものではない。また、「被差別民」との名称が適当かどうかを考えさせてくれる事例でもある。その村に居住する被差別民は、一面では村の一員であり、それがゆえに請人たりえたが(当然命令されるのではなく、頼まれる存在であある)、もう一面では周辺の村々とも関係を持っており、その村専属ではなかった。
 そうした中で問題となったのが、犯罪を犯して追放処分となった人々である。彼らの請人となることを申し出る百姓はおらず、且つ、彼らを現実に監視できるのは警察的業務を行っている被差別民であった。松江藩出雲郡に出された寛政13年(1801)の命令では、
追放された人々は五人組に属していないため、問題行動があっても訴え出るものがない。追放先の村の五人組に入れようとしても断られるので、その時点で追放になっているものを含めて、これ以後は被差別民を請人とするとしている。そして、被差別民がいない村の場合は、隣村の被差別民でもよいとしている。ただ、この時点では作法に関する命令はない。これが、文政2年(1812)の神門郡の命令では、追放者が被差別民同様の作法を行っておらず、不届きなので改めて申し付けるとしている。そして以後は、追放となったものにはその時点で作法についても申し渡すよう命じている。

近世後期の変化1-1

  近世後期の松江藩の刑罰として、期間を限って居住地を追放されて、被差別民の管理下に置かれるというものがあった。そしてその際には、被差別民が平人に対する場合と同様の作法を求められた。被差別民といっても、皮革に関わる人々ではなく、警察的業務を行った人々である。松江藩の場合は、後者が被差別民の8割を占めている。被差別民同様の作法を強制されることが、差別意識を強めたことは間違いなかろう。藩による差別強化の一例と評価することができるかもしれない。被差別民については具体的呼称があるが、それを使わなくても理解可能なので、ここでは呼称は使わない。「被差別民」の用語そのものも、以下に述べる実態からすると適切な用語ではないというのが論者の見解であるが、これに替わる適切な語がないのでとりあえず使用する。
 話を戻すと、このような制度が生まれた過程を史料で確認すると、必ずしも被差別民への差別政策として考えられたものではないことがわかるので、以下に述べていきたい。
 ①明和9年(1772)正月に大原郡内の町の住人が目代と町年寄に対して了解したとの請書を提出しているが、その中に、村内で請人(身元保証人)を確保することが述べられている。その際、親類や両隣向三軒以外でなければならないが、若し請人がいなければ被差別民を請人にすることを了解したとしている。そしてこの点については以前から言われていたが、近年の御立派(おたては)以来稠敷くなったとして確認がなされたとしている。
 ②この翌年(1773)12月には出雲郡内の村の百姓が請書を庄屋と年寄に提出している。博奕と小盗取、賣酒について以前から禁止されていたが、近来所々で博奕が行われているのは不届きであるとして、法令遵守、とりわけ博奕・小盗取・賣酒の禁止を守ることについて、連帯責任として請人を立てることを求めたのである。その際に、互いに請人になることは認めず、ここでも請人がいない場合は被差別民を請人とするよう命ぜられ、それに対して、五人組の単位で請人とともに署判して提出している。

岸本左一郎の対局記録(2)

 天保6年閏7月16日から4日間、大田の宗光寺で、石州福光村宝蓮が2段に昇段して帰国したことを祝う碁会が開催された。最初に新次郎が宝蓮に2目で2連勝している。
本因坊家の門人で初段であった大浦の廣右衛門、福光鍛冶周布右衛門外石見国の関係者が多数登場する。廣右衛門は出雲部の大谷作四郎と相先で1局(白番)打っている(黒の作四郎勝ち)。「ミのや」左一郎は秀平(石見部関係者で、新次郎に対して5目と4目で6局打って3勝3敗)と相先で3連勝しており、それを含めて11局を5人相手に打ち7勝4敗であるが、宝蓮とは対局していない。
  左一郎と宝蓮の対局は天保7年三月大森の碁会で実現し、4目で4連勝すると3目に手直りとなり、その後は7勝2敗であった。初段の廣右衛門に対しては先で1勝2敗、その外6局(相先2人と先(相手)一人)では5勝1敗1持碁。
天保8年2月6日から15日にかけては、左一郎は作四郎と対局し、最初の「相先」の6局で1勝5敗となり「先々先」に手直る。16勝12敗と勝ち越して再度相先となるが、4勝8敗2持碁で再度「先々先」となった。その後は22日までに1勝1敗であった。この碁会には松江から2段の金森栄八が参加しており、作四郎と左一郎との対局ではいずれも2目置かせて、作四郎とは10番で4番負け越しで先弐に手直りとなり、その後は1勝3敗。左一郎とは9番で1番勝ち越しであった。
 この後の天保8年10月21日に知井宮山本家での対局にも金森栄八が来ているが、この時点では左一郎は見えず、上京して本因坊家に入門していたと思われる。金森は作四郎の「先弐」では8勝1敗と勝ち越している。次いで天保12年7月14日と15日の記録がある。同年8月に山本閑休は死亡したが、11月10日の記録が最後のものとなっている。

岸本左一郎の対局記録(1)

 岸本左一郎の初見史料である「日新坐隠録」(早稲田大学蔵山本家文書)の内容を紹介する。天保6年2月4日からの対局の記録(囲碁勝負付)である。最初に源右衛門と嘉太郎の勝負を記す。両者とも山本家の関係者である。手合いは「相先」で一勝一敗であった。次いで新次郎(後に秀策と対局する山本佐六)と義教を記し、義教の二目で対局したが新次郎が連勝したので、手直りして三目となり、最終的には4局打って新次郎の3勝1敗であった。その後も新次郎は9局打っており、早碁であった。以上のような形で日ごとに対局結果を記している。
 その後2月8日と9日の記録があり、9日には石州の僧念が登場する。僧念は新次郎と相先で10日から3月2日まで20番対局し打分となっている。ゲストである僧念は3月4日まで様々な人物と対局している。次いで3月20日まで断続的に対局が行われ、21日には石見国大田天満宮に参詣し、近隣の大田と河合で対局が行われた。その25日の記録に左一郎の父美濃屋丈助が5目のハンデで今岡小一郎と対局し2敗している。小一郎は新次郎に対して2目で打ち分ける実力であった。美濃屋丈助はいわゆる「下手の横好き」であったろう。そして、丈助の子左一郎は、新次郎に対して6目、5目、4目置いて計4局打って2勝2敗であった。ちなみに新次郎は石見国一宮物部神社の関係者とも対局しているが、そのうち亀千代とは13目の手合いで3勝5敗であり、囲碁が勝負であるだけでなく、学問修行の一環として打たれていたことがわかる。そうでなければ棋力の違い過ぎる両者の対局はありえないであろう。
 次いで記録は5月23日~25日の出雲での対局となり、左一郎は、東林木(出雲市)の圓光寺(19才)と相先で対局し9勝4敗、古志の弘法寺とは相手2目で8勝6敗の成績をおさめている。この時点では山本閑休のもとに儒学と囲碁を学ぶため入門していたのであろう。

2010年10月 8日 (金)

神西庄と守護(1)

 神西庄と言えば国人領主神西氏の所領として知られるが、文永8年時点で神西氏の支配していたのは西部の神西新庄であった。すなわち神西本庄50町の地頭は海瀬氏(又太郎)であり、新庄地頭が古庄四郎左衛門入道子であった。
 神西庄は園山庄と呼ばれたこともあったが、南北朝期には稲頼庄の名も登場する。すなわち、建武3年4月に守護塩冶高貞が稲頼庄三分方公文[職]を塩冶八幡宮に寄進している。次いで、高貞討伐後に新守護となった山名時氏が、暦応4年閏4月に、神西庄参分方公文職を塩冶新八幡宮に寄進している。両者は同じ権益を指しており、稲頼庄=神西庄であったことがわかる。三分は新庄分であったと思われる。
 鎌倉中期に神西氏が支配していた神西新庄の一部が守護塩冶氏の支配するところとなり、それが次の守護山名氏にも継承されているのである。これと関連するのが、神西新庄最西端の口田儀に所在する多伎芸神社と守護の関係である。同社の雷公大明神は天文22年6月には地頭尼子晴久が建立した際の棟札も残されているが、近世前期作成の縁起によると、正中元年3月には守護佐々木貞清により再建され、元中7年4月には守護山名満幸により葺替がなされたとしている。また、嘉元元年には戦勝祈願として貞清が飯石郡三刀屋内の所領を寄進したとも記している。
 それぞれの記事の内容に検討の余地があるが、貞清の代に守護領が拡大したことはすでに述べたとおりであり、高貞は父貞清領であった神西新庄の一部を継承し、八幡宮に寄進した可能性が高い。

2010年10月 3日 (日)

日置政高について(3)

 ⑥では「日御崎社政高」が申し出た神社の造替を認めたものだが、綸旨・院宣の形を取りながら、文書の奥に尊氏の花押が記されている。今回の文書については⑤以外は写真版で確認したが、『大社町史』では日下の署名が削られた跡がみられるとする。
  ⑦から⑨は南北朝動乱開始時のもので、⑦は「大野庄内加治屋村惣領三崎三郎次郎日置政高」が、佐々木秀貞とともに美作国から発向し、幕府方として京都へ攻め入った際の軍忠について述べている。これに対する感状が⑧で、大野庄内国守名地頭三崎三郎次郎政高に対してその忠を賞するとともに、京都で沙汰すると記す。そして⑨では「日置政高」に対して大野庄内普河村内国守名地頭職を本の如く安堵している。
 国守名についても文明4年の史料で確認できるが、③では「加治屋三郎次郎政高」とし、⑤と⑦では「加治屋村惣領三郎次郎日置政高」と記す。そして⑧で初めて「国守名地頭三崎三郎次郎政高」とするのである。③⑤⑦から政高は大野庄内加治屋村を苗字の地としてるが、加治屋村と普河村の関係は現時点では不明である。①から⑨は室町期に作成されたものもあれば、戦国期以降に作成されたものもあるが、三崎社検校政支の子で大野庄内加治屋村を拠点とする政高が、軍忠により福冨保を獲得するとともに国守名地頭職を回復し、次いで三崎社検校にもなったことを主張している。
 戦国期以降作成の⑤によると承久の乱で三崎社が大きな打撃を受けたとの理解も可能だが、三崎社がその下に属した出雲大社については、後鳥羽と意見を異にした土御門院領であったこともあり、朝山氏など出雲国在庁官人ほどには打撃を受けていない。ただ、「本の如く」とあるからには、一旦失ったものを、後醍醐、次いでは幕府から認められたのが国守名地頭職となる。ただ、政高が検校であったことは確認できない。
 康永2年の政高譲状で政高の舎弟とされた清政が御崎社検校であったことは確認できる。永享11年5月の御崎社一神子重申状には、清政がその兄弟と検校職をめぐって対立した際に、杵築社が一族外の人物を検校につけようとしたことが記されている。この兄弟が政高で、大野庄内国守名地頭であり福冨保を与えられていたのではないか。ただ、その関係文書は失われてしまい、記憶に基づき政高関係文書が作成されたのではないか。

日置政高について(2)

 ①は、日置政支に対して日三崎検校職神領等を本の如く安堵しているが、この当時は「御崎」ないしは「三前」が正しく、「日」が付くようになるのは15世紀以降である。政支については、正和4年12月の譲状が残されているが。「日三崎検校職并御神田等」を嫡子虎増丸に譲っているが、実子がなければ弟の中から選んで譲るように記されている。これも「日」があるので室町期に作成されたものである。さらに康永2年6月の日置政高譲状では、政高が「御崎社神主職」を舎弟清政に譲っている。正和4年の譲状に対応しているが、御崎検校が「神主」と記されるようになるのは戦国期のことであり、康永2年の譲状はその頃作成されたことになる。
  ②では政高の合戦の忠に対し勲功の賞として出雲郡福富保が与えられている。形式上の問題はあるが、福富保が日御崎社領となっているのは文明4年の史料で確認でき、文書そのものには問題があるが、そこに述べられた事実はあった可能性がある。ただし、出雲大社への所領の寄付が4月11日であるのに対して、②はその前日の10日であるのは疑問点である。その軍忠について記したのが③である。「大野庄内加治屋三郎次郎政高」が京都での4月3日と8日の軍忠を述べ、恩賞を求めている。同年5月の鰐淵寺頼源軍忠状と比較すると、証人を記していない点と、證判が文書の袖ではなく、裏に記されている点が異なっている。
  ④と⑤もセットであり、⑤で大野庄内加治屋村惣領三郎次郎日置政高の京都での5月7日の軍忠を述べ、先祖の所領であった近江国間野庄、伯耆国奈義良庄内犬田村、出雲国日三崎、石見国箸浦并隠村の返付を求めている。これらの所領は承久の乱で没収されたとしている。ただ、伯耆国犬田村や石見国箸浦・隠村が三崎社領となるのは戦国期に尼子氏が寄進したことによるもので、戦国期以降に作成されたものである。④は「三崎三郎次郎日置政高」の合戦の忠に対する感状であるが、恩賞については京都で沙汰すると記す。政高が御崎社の一族であることを記しているが、京都で沙汰とは⑧でも同様に記しているが、他の後醍醐天皇綸旨では類例が確認できない。

日置政高について(1)

 大野庄内の一部を鎌倉末期には日御崎社(日御崎とするのは近世以降)検校(日置姓小野氏)の一族が支配していた。その支配は、文明4年に室町幕府が日御崎社領に対する杵築大社の押領を防ぐように命じていることにより確認できるが、その鎌倉末から南北朝初期の関係文書が日御崎社と社家小野家に残されている。
 ①元弘3年4月10日後醍醐天皇綸旨(日御碕社)
  ②元弘3年4月10日後醍醐天皇綸旨(小野家)
 ③元弘3年4月日日置政高軍忠状(小野家)
 ④(元弘3)5月12日後醍醐天皇綸旨(小野家)
 ⑤元弘3年5月日日置政高軍忠状(小野雄彦氏)
  ⑥足利尊氏御教書(日御碕社)
  ⑦建武3年正月日日置政高軍忠状(日御碕社)
  ⑧建武3年3月5日足利尊氏書下(日御碕社)
 ⑨建武3年3月25日足利尊氏袖判下文(日御碕社)
後醍醐天皇綸旨のうち①②については、形式上の問題がある。すなわち、A「以状」と結んだ後に続けてB「綸旨如此悉之」としている。Bに続けてAと結ぶのは出雲大社にも残されているが、Aの後にBというのは類例がなく、後に作成されたもの(写)であることを示している。これを『鎌倉遺文』では誤ってA+Bの形で活字にしている。

大野庄と大野氏(5)

 大野庄内の地名について、整理すると、大野氏惣領が支配したのは現在の上大野町(大野)と大野町(大野浦、高山、細原、祢宇=上根尾)である。祢宇については庶子に譲られたが、そこからさらに北垣村が分割して譲られた。そして祢宇村地頭職の一部は南北朝期には幕府によって出雲国安国寺に寄進されている。谷が所領の中心であるが、各地にため池があり、その周辺が独立した所領として扱われることもあった。
 大野庄東方が現在の大垣町で、4つの谷とため池とその周辺の土地が村として扱われた。東方地頭職の3分1は、鎌倉末期には得宗被官と思われる薩摩三郎の所領であったが、それが建武政権により没収され、室町幕府は出雲国安国寺にこれを寄進した。また東方地頭職の内、3名(和田垣・助守・守延名)地頭職は東国御家人土屋氏領となったが、婚姻関係により祢宇村地頭明知の子宮石女が相続することで、大野氏領に復帰した。布川(普河村)の一部は日御崎社検校日置氏の一族が支配した。それに隣接する円木池周辺は円木村と呼ばれ、大野氏一族の円木氏が支配していたが、鎌倉末期にはその一部が東国御家人と思われる豊島氏に売却された。東方にはその外に箕内、石塚村もあり、南北朝後期には大野氏一族が幕府からその支配を安堵されている。
 庄園領主の支配については、本家最勝光院、領家聖護院であったが、南北朝期以降の半済等によりその支配する領域は削減され、戦国期には聖護院分18町7反余は大野氏が支配するところとなっている。天文9年の竹生島奉加帳には出雲洲衆として大野氏と大垣氏がみえている。
(過去の2・3の一部も修正)。

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