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2010年9月

2010年9月14日 (火)

海蔵寺について(2)

 前置きが長くなったが、18世紀前半成立の地誌『雲陽誌』には島根郡長海村の臨済宗寺院として海蔵寺が記されている。また、その南側の本庄には大日堂を記し、「真言宗、海蔵寺という」と注記する。両者は中世の長海本庄に属すが、この地には臨済宗寺院として華蔵寺(枕木・別所)と象田寺(手角)があり、曹洞宗寺院が多い出雲国内では異彩を放っている(国内の臨済宗寺院には近世以降に改宗・成立したものも多い)。二つの海蔵寺の関係はさらに追究が必要である。
 何よりこの地は「室町院領と出雲国守護」の項で述べたように、鎌倉時代は幕府領で、その性格は室町期にも維持され、戦国期には実質的に守護尼子氏が支配するようになっていたと思われる。その一角を占める長海新庄内邑生の地は隠岐氏が支配し、天文4年には曹洞宗清安寺が開かれ、同14年には所領が寄進されている。
 大正年間の『八束郡誌』をみると、長海の海蔵寺は「象田寺持」であり、さらに象田寺は華蔵寺末であった。華蔵寺は中世は東福寺末であったが、近世には松平氏の下で南禅寺派へと代わっている。山号の違いはあるが、客観的に成立する可能性は高いのではないか。

海蔵寺について(1)

 海蔵寺とは戦国期に30年間に亘って山陰地方に滞在して中央とのパイプ役を務めた惟高妙安が滞在した寺である。禅僧妙安については藤岡大拙氏の論考に譲るが、伯耆国保国寺、後には海蔵寺に滞在したとされる。保国寺については位置がわかるが、海蔵寺については不明である。今枝愛真氏はそれを出雲国内の寺院と考えられたが、藤岡氏は伯耆国内の寺院である可能性も指摘されている。
 海蔵寺について近世の相国寺塔頭光源院の記録は「多宝山海蔵寺」と記すが「遺跡不存有無」という状況で、一次史料で確認できるのは寺名(海蔵寺)のみである。藤岡氏は伯耆国内にも海蔵寺(溝口町古市)はあるが、宗派不明で、山号が異なり、富田城からも離れているとして、これを妙安の滞在した寺として採用されなかった。氏は、妙安自身が「某伯耆ニ三十年居住」と述べていることを重視されるが、天文9年に上洛したのは出雲国からであり、久しく出雲国内に在国したと記されている。彼の出雲国内に関する情報からして、やはり海蔵寺は出雲国内に所在したと考えるべきであろう。

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