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2010年8月 3日 (火)

白潟天満宮について

 松江市の橋南では夏休みには二つの大きな祭りがあった。7月末の白潟天満宮と8月末の竹内神社(平濱八幡宮)の祭りだ。今年もすでに前者は終了したが、その白潟天神について補足したい。というのも『島根県の歴史散歩』では、天神について『雲陽誌』の記述をなぞった程度で記した。すなわち、富田から松江へ城が移る段階で、富田城内にあったものを移したという説と、堀尾氏が浜松から移したとの説を記したのみであった。『雲陽誌』にも史料が失われよくわからないと断ってあった。
 それが、松江市八雲町西岩坂の小坂神社(現在は風土記時代の志多備神社を名乗る)の神主平林氏が藩に何度か提出している神社の報告書で、常にこの天神について触れているのである。それは、平林氏が元和元年(1616)正月に堀尾山城守(忠晴)の母長性院の依頼を受け、上京して北野天神から勧請したとするもので、享保12年(1727)の報告書では毎月25日に平林神主自身が天神に行き神事を行っていることも述べている。それが堀尾氏が松江から去ったことにより神社はしだいに衰微し大破してしまった。それを町民が氏子となって修復すると、従来から別当寺としてかかわってきた松林寺の社僧が独占して天神を支配するようになったというのである。その体制は、幕末まで続き、明治元年(1868)に神仏分離の流れで、社僧の支配が否定され、藩は平林氏に再び神事を行うように求めている(この後の史料については未見)。
 なぜ平林神主かについては、長性院に仕え愛顧を受けていた女性が、平林神主(権太夫)と結婚したことがあった。史料の性格からして信頼できるものであるが、それならなぜ『雲陽誌』がよくわからないと記したのが謎である。
 補足:後日みた平林家の別の記録によれば、松林寺が天神にかかわるようになったのは延宝5年(1677)のこととしている。

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