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2010年8月

2010年8月27日 (金)

中世後期の出雲国人と石見国人

 山口県史をみると、観応の擾乱期において反幕府方となった石見国人のその後の状況を窺うことができる。すなわち大内氏と結んで周防・長門国内に所領を得ていた国人がいたというのは、山名氏と結んだ出雲国人の場合と同様である。ところが、山名氏と大内氏が守護の地位を失った後の状況には大きな違いがある。
 山名氏と結んだ出雲国人の多くは出雲国内を離れ、山名氏の領国に移動している(一族が残ったものはある)。富田氏、塩冶氏、富士那氏、羽田井氏、高岡氏などである。それに対して、大内氏と結んだ石見国人は、一部(来原氏など)が国外に移動したのを除けば、大半は室町期以降も石見国内にとどまっているのである。
 この違いの原因には様々な要因があろうが、出雲国人の大半が承久の乱以降に出雲国に入部してきた人々であったのに対して、石見国人は平安後期には石見国を本拠として活動してきた人々であったことも関係していよう。山名氏と大内氏に替わって守護として新たに入部した京極氏と山名氏であったが、後者の山名氏の場合、在地勢力の意向を尊重しつつ支配を行っていく必要があったのではないか。中世後期に国外から石見国に入部し存続した一族も少ない。これに対して出雲国の場合、京極氏とともに多くの国人が近江国とその周辺から入部してきたのである。

2010年8月21日 (土)

岸本左一郎碑について

 18日に江津市で高文連の研修会があり、碑のある天河内満行寺の近くを帰りの19日とともに通った。生徒が同乗していったことと、この季節と暑さ、さらには時間の都合で実際に石碑をみることはできなかったが……。そして、帰ってからインターネットを検索すると、益田市の大庭氏のHPで石碑に関する記事が新たにアップされていた。
 石碑の裏(あるいは表もか)の文の起草者と筆耕者について、地元ではなく中央で活躍していた著名な人物であろうと述べられていた。その人物をgoogleで検索してみた結果、大庭氏の説が妥当であると思ったので、訂正したい(詳細は氏のHPを参照)。石碑が設置された天河内に隣接して大国があり、その指導者安井好尚のことが念頭にあり、安井衡についても地元の有力者であると考えたが、明確な論拠があったわけではなかった。岩田右一郎碑をみても、儒学とともに囲碁を学ぶという文化的背景のもとに、著名な学者が起草し、これまた著名な書家が筆耕し、それを刻んだものであった。
 岩田右一郎碑も多くの人がみることを前提に白潟天満宮内に設置されたが、天河内も同様の理由(山陰道も通っていた)と大森から近いことで選ばれたのだろう。

2010年8月17日 (火)

史料あればこそ-尼子氏過去帳(4)

 続いて「佐々木京極尼子正統霊」として、京極氏から尼子氏の人物とその家族について列挙している。京極氏は高秀までを記し、それ以後の京極氏当主には触れず尼子氏初代へ続く。清貞の妻=経久の母は「賀嶽明慶大姉」と記され、経久の室については2人を記す。過去帳で尼子国久の養母と悲母と記されていた人と一致する。政久の命日を永正10年9月18日と明記している。その室の命日は「廿二日」とのみ記す。そして晴久、義久、倫久を室の法名とともに記す。
 その後の当主を列挙したのに続いて「同性連枝同子孫之諸霊」を記す。玉栄源玖童子は政久の子で晴久の兄であったが早世した。次いで5人を記した後に、尼子国久一門を記す。国久とその室(多胡氏女子)に次いでその子誠久と室、豊久、敬久を記すが、誠久の室と敬久の室とを混同して記す。次いで「杵築大方」と「宍道大方」を記す。尼子経久には千家と宍道家に嫁いだ女子がおり、この二人であろう。以下にも多くの尼子関係者を記すが、注目すべきもののみ記す。
 又四郎と与四郎は国久の子で、前者は早世し、後者は新宮党討滅事件で死亡している。「山名五郎」とは晴久の母山名氏の関係者であろうか。「吉久 神四郎」と「季久 善四郎」は誠久の子で、それに続く新四郎と孫四郎は比定不明である。勝久の後に記される「豊後守」は『尼子』収録分にも登場する謎の人物である。天文3年に死亡した段階で「豊後守」である。この時点では国久も「刑部少輔」であり、系図に登場する人物では、経久の弟で下野守の父にあたる人ぐらいにしか比定できない。「春久 塩冶宮内大輔」は誤記であろう。久幸と早世した2人の子についで、興久とその関係者4人を記しているから。そして義久の弟秀久とその室を記した後は、アットランダムに関係者を記している。
 氏久は誠久の嫡子、宍道左馬之介は軍記物で晴久に遺恨を持ったとされる人物であろう。
次郎四郎は久幸の子、塩冶彦四郎は興久の子であろう。この4人の人物はいずれも尼子氏に叛旗を翻して、追放された人々であろうか。次いで「佐々木京極尼子有縁霊」を近世前期に至るまで多数記す。その後に「僧」の名が列挙され、それに続いて「佐々木尼子家臣諸霊」を記す。冒頭には尼子氏有力家臣津森越後守直房入道が永禄7年11月に死亡したことを記す。最後には宝暦11年10月に大西十兵衛娘が記した形となっている
 『尼子』には尼子氏降伏時の家臣名リストが2点収録されているが、その内のA「詳細なもの」には僧の名前が記されている。その名と前段に記した僧のリストには共通する点が多い。そして「佐々木尼子家臣諸霊」に続いては、敵味方を含めた関係者多数のリストがある。その中にも、A「詳細なもの」と共通の記述がみられる。尼子氏分限帳作成の基礎データにもなったと思われる。この後にも津森・大西・多賀氏関係者のリストと、吉川元長以下212名の過去帳からの抜き書き、そして「冷厳院様御付筆之過去帳之謄」というリストが最後である。雑多なものではあるが、ごく一部については死亡年月日も記しており、尼子氏家臣団について検討する際には参考資料として貴重なものとなろう。煩雑さを厭わず紹介したのはそのためである。

2010年8月16日 (月)

残った史料と残らなかった史料

  「鰐淵寺と清水寺の座寺相論について」の訂正を行った。なぜ以前のように書いたのかは不明だが、確認できる弘治2年の三問三答の結果が清水寺勝訴であった(6月)こと、それが鰐淵寺の比叡山を巻き込んだ反撃で11月に6月の綸旨が否定された(鰐淵寺勝訴)こと、さらには翌弘治3年春に再度清水寺勝訴の綸旨がでたことと矛盾することを書いていたのである。
 その後、鰐淵寺側がなお働きかけた史料はあるが、最終的に鰐淵寺が勝訴した史料はないので、座次相論は通説とはことなり清水寺が勝利したのである。相論以前の状態に不満を持つ鰐淵寺が、尼子氏の動揺をみすかして訴えたが、結論は変わることがなかった。その意味では両者の主張を受けた弘治2年6月の裁定がそうであったように、古代はともかく中世後期には清水寺優位の状態となったのである。
 ところが、勝訴した清水寺側には、尼子と毛利の合戦に巻き込まれたこともあって関連資料は残らず、敗訴した鰐淵寺側は詳細な資料を残したのである。ここでも年紀を欠く史料が多く、比定が不十分であったために、鰐淵寺が勝訴したとの説が通説となっていたのである。史料の声を聴くことの難しさがここにも表れている。

2010年8月15日 (日)

史料あればこそ-尼子氏過去帳(3)

 尼子氏一族に続いて「覚」として富田城下に居住した人々の21名分の年代順(判明するのは天文8年から天文23年)の記録がある。中島坊役僧が18世紀初めに佐々木氏の求めに応じて関係者(僧1名以外は武士)の一部を報告したものである。最初に「富田カハソイトノカミ志」とみえ、尼子氏の有力家臣河副久盛の妻(殿上)であろうか。次の人物は法名の後に「塩冶下野内野津四郎次郎トノ志」とあり、塩谷に館のあった尼子下野守の家臣野津氏という意味であろうか。以下、市場・足立氏、富田・アオト(青戸)氏、富田・中井備後守(家清)子孫次郎、富田・河本前和泉守(久信)、富田・タクミ(?)氏、新宮・湯浅氏、菅谷・キシ(岸)氏、富田・ハタノ(波多野)氏、金尾・原氏、富田・高嶋氏、富田観省庵内公禅房(?)、富田・コトウ(後藤?)氏、富田・池田氏、富田・東氏、富田・加藤氏、富田・立原備前殿内、新宮・森脇氏、富田ヲトロ(?)氏、尼子新四郎殿御局を記す。
 河本久信は尼子経久時代には亀井能登守秀綱(対岸の石原に亀井ヶ成と唐人谷の地名が残る)後の富田衆筆頭であるが、天文11年4月21日が命日として記される。中井氏も同時期の有力富田衆である。
 地名に注目すると、「富田」とのみ記すものが多数だが、これに対して、「富田市場」、「トタ新宮」、「トタスカタニ」、「トタ金尾」とみえ、富田城下町が富田川沿いの「市場」(町屋中心)と城を囲む「金尾」・「新宮」・「菅谷」・「塩谷」、さらには狭義の「富田」からなっていたことがわかる。「富田」は富田城を含む特定の場所を示す可能性が高い。

史料あればこそ-尼子氏過去帳(2)

 とりあえず、ざっと史料を確認し、必要な部分は筆写した。『尼子』掲載分で、気になっていた「源長禅定門 『雲州尼子前新四郎殿』」については、『同』が正しく、「妙秋童女」、「千歳童子」とともに、尼子新四郎久豊(後の兵部少輔豊久)の子3人が天文11年から12年にかけて相次いで無くなった記録であった。そして豊久自身も天文15年6月28日に伯耆国の合戦で戦死している。当然豊久とその後継者を相次いで失った父国久の悲しみは大きく、その穴を埋める形で、小四郎久尊が左衛門大夫に任官し「敬久」となったのであろう。そしてこれが、大内氏の滅亡と相まって天文23年(1554)11月の新宮党討滅事件へつながっていった。
 過去帳にみえる「桃中妙後禅尼 天文廿年六月六日 雲州尼子殿御上様」とは尼子誠久の正室で、嫡子孫四郎氏久の母であった女性であろう。実家は有力国人多賀氏であったが、その父多賀美作守は塩冶興久の乱で反尼子方となり没落して国外に逃れた。次いで多賀美作守は山口に行き大内氏に仕えるようになっていた。妻を失った誠久以上に、母を失った氏久の立場はどうであったろうか。権力の問題として機械的に論じるのではなく、人間の問題として新宮党討滅事件を考える必要がある。晴久には別に新宮党を滅ぼす意図はなかったが、偶然が積み重なり、成り行き上事件は起こったのである。これを必然ととらえてしまうと何もわからなくなる。ただ、晴久側近の中に新宮党の存在が尼子氏政権ではなく自分にとって驚異であると考えていたものは、佐世伊豆守だけでなくいたであろう。特に佐世氏は出雲佐々木氏の一族であったが、何らかの理由で一旦没落し、そして出雲州衆ではなく、尼子氏直臣の富田衆として復活せざるをえなかったのである。

史料あればこそ-尼子氏過去帳から

 山口県史編纂中との話は聞いていたし、県史研究の論文も歴史人口学関係のもの見たことはあったが、今回ようやく、中世史料編4冊をみているところ。島根県とりわけ西部の旧石見国の中世史研究にとっては必要欠くべからざるものではあるが、その一方で、これがもっと早くに出ていればとも思う。山口県は文書館があるので、今回掲載された史料は県史編纂前から知る人ぞ知るというものであったろう。
  以前、石見銀山史との関係で、新たに発見された『高野山浄心院往古檀家過去帳姓名録』が注目された。銀山旧記など関係史料の信憑性を知る上で重要であった。尼子氏についても『高野山報恩院中島防尼子家過去帳』が残されており、これをみれば、尼子政久の没年が二説あったことが不思議に思えてしまう。『出雲尼子史料集』では大西家文書のもの(これについては未見)が掲載されているが、一方では佐々木文書には関係文書を含め詳細なものが残されている。前者で判読不能であったものが後者の写し(県立図書館の謄写本のみにあり、史料編纂所の影写本には収録されていない)では判読できるものもあり、なぜ前者を収録したのか、その事情はよくわからないが、とりあえず、後者の中から注目される点を挙げてみる(とはいえ、最後の「佐々木尼子家臣諸霊」の部分は途中までしかみていない)。
 最初に尼子氏一族について記すが、一人だけ『尼子』掲載分にはみえない人物がいる。それは「華慶寿栄禅定尼」(佐々木馬田殿母儀大東、天文五天[年]六月廿一日)である。尼子氏女子で大東庄を支配する馬田氏に嫁いだ人がいたのであろう。天文九年の奉加帳に「馬田左近丞」がみえ、天文22年の連歌師宗養を招いての連歌会の主催者の一人として「馬田尾張守慶信」がみえる。慶信は大東での「千句十梅」のみならず、成相寺と袖師の浦での連歌会の間でも宗養に所望したとあり、島根郡ないしは秋鹿郡にも所領を支配していた可能性がある。そして尼子氏との密接な関係の背景に母親が尼子氏出身であったことが考えられる。そして尼子敬久の室の命日について『尼子』では判読不能となっているが、「天文十八年卯月廿四日」と記す(続)。

2010年8月14日 (土)

PCの突然の故障(3)の4

 日立のタイプはキーボードを変更した新しいタイプである。エプソンは新しいタイプからはCDを内蔵するものに変わったが、日立は1スピンドルタイプであった。新しいキーボードは、ファンクションキーの下段の数字キーなどが横長で小さくて使用しにくいとして、正方形のタイプにして大きくした。その分他のキーはしわ寄せを受けて少しずつ竪方向が短くなった。人により好みはあり、ビジネスなら数字キーが大きいほうがよいかもしれないが、実際は改悪であった。文章をたくさん入力するものにとっては、アルファベットキーの大きさが必要である。ということで、2台の日立製パソコンはキーボードをエプソンのものに交換して使っている。日立の方がキーボードが横方向に少し大きくなっており、エプソンのキーボードを日立に組み込むと少し隙間ができる。反対に日立のキーボードは少し大きくてエプソンには入らない。
 エプソンのNT550はどこのOEMかは明示されていないが、ASUSであろう。とりあえず日立フローラの動作を確認するために(CFについては認識せず)、550で使っていたHDDをそのままつないだところ、Windowsのライセンス認証は求められたが、ドライバー類はすべて組み込まれていた。ということもあり、NT550はまたSSDへの換装もあるが、それは210W LL1でも可能であるので、連れ合いが職場で使う自分のパソコンが必要とのことで、そちらに管理をゆだねた。問題のCFについては後は別のアダプター(一応UDMA6対応を謳っているものがある。ただし、LL1やNT550の915チップセットではUDMA5までの対応。それでもNT300、NL4の855がUDMA4までの対応であることからすると一歩前進)で試してみることぐらいか。×600のSLCタイプのCFも2万ぐらいで購入可能だが、それよりはMLCタイプのSSDを購入したほうが無難であろうか。IDEタイプとして最終の945チップセットならUDMA6が可能かもしれないが、これもそれなら次の世代のPCでSATAタイプHDDをSSDに換装する方が得策か。

PCの突然の故障(3)の3

 そうしていたら、昨日の午後オークションで落札した日立のフローラ210w LL1が早く到着し、ダメ元でつなぐ。前のW2Kがインストールしてあるのに、まったく認識せず。
LL1はHDDなし、アダプターなしという変則であるがゆえに安かったが、予想どうりNT300、NL4とアダプターとバッテリーは互換性があるようである。バッテリーはLL1用の方が1割程度容量アップしている。今回のLL1は概観はパソコン上でみたよりも劣化していたが、動作には問題がなく、なぜか付属していた超大容量(7200)タイプは新品に近いものであった。
 最初に付属していた標準バッテリーは充電しなくなり、さらにはこれを付けているとパソコンが起動しなくなった。これに対して7年ほど前に一緒に購入した大容量版は、現在でも4H程度は使用できる。その後、エプソンからメールで登録ユーザー限定で、大容量と超大容量を定価の4分の1で販売するとの知らせが入り、迷うことなく超大容量2本を購入した。今回の新タイプを含め、保有するバッテリーは大容量(4400)が1、超大容量(6600)2と今回の新大容量1の4となり、これに日立製パソコンが2台である。これを併せれば、24H程度の稼働が可能である。
 もとはといえばASUSのS5NのOEMだが、エプソンは小さな筐体に標準仕様のPentium Mを搭載しCPUの交換もできた。これに対して日立は超低電圧版CPUをマザーボードに直付したビジネス用であった。エプソン2幾はBIOSもS5Nのものに変更しCPUもアップグレードしていたが熱と酷使のためか、早くに壊れた。それに対して日立製2幾は未だ健在である(発売も1台は半年、もう一台は2年ほど遅い)。

PCの突然の故障(3)の2

  CFをアダプターでHDDとして利用するのがブームであったのは3年ほど前のことか。今回情報を集めようと思っても、すでに「時代はSSD」となっている。前回の失敗の後、無理を承知で、NT550に強引に組み込んでXPのインストールをした。本当は前のHDDからコピーしたいところだが、CFをHDDとして認識してもらえず、OSのインストールを行う。
 インストールの当初は遅いという感じであった。それが途中で早くなったと感じ、なんとか終了した。ところが、またまた遅くなっている。最初はUDMAモードになっていなかったが、途中ではUDMA4と認識されていた。それがインストール後再起動すると認識されておらず、大変遅く、キツネにつつまればような感じがした。CFのスピードを測っても、安いUSBメモリーにも及ばないもの。×400?、これは初期不良かとも思った。USBのリーダーで読み書きのスピードを測る(途中でフォーマットをFAT32に変更)と、読み出しが30強、書き込みは28程度で、カタログスピードの90と60には遠く及ばない。これはUSBリーダーの問題で、PCエクスプレスカードかUSB3.0でないと、カタログスピードは出ないとのこと。
 以前SLCタイプのCFを導入したPCをみると、UDMA4のモードで動いている。これはPC側の制約であったが、インストールも短時間で終わり、使用中もストレスは感じず。変換アダプターでUDMA6対応を謳っているものは少ないし、新製品も出ていない。その間にSSDはSATAを中心に大変スピードアップしていた。
  とはいえ、せっかく買ったのでと、NT310sでW2Kのインストールをしてみた。CDから起動し早くコピーができたと思ったが、再起動するとCFをHDDとして認識していない。再度チャレンジしても同じであった。ということで、早くも断念。

2010年8月 6日 (金)

晴久の修理大夫任官(3)

 講武八幡宮の晴久棟札の内容は、享保12年の「島根郡北講武村・南講武村・上講武村神社差出帖」により知ることができる。たしかに「□和元辛丑八月日」の部分は、不可解であるが、その後の部分は注目される。大旦那として「国守尼子民部少輔晴久公」を記し、それに続いて尼子式部少輔(誠久)殿、朝山殿、隠岐殿、熊野備前守(久家)殿、野波殿、雑賀殿、高尾殿の名を記す。次いで、「當社領大破之時、天文廿三年甲寅之年令造立畢」と記す。
 同地の熊崎天王は天文22年であり、この地(北講武=加賀庄の一部)での神社の大破をうけて、尼子氏とこの周辺地域を支配する有力国人により八幡宮の造立が行われたのである。野波殿は以前からこの地を支配していた土屋氏一族であろうか。宍道氏も加賀庄内を支配していたが、この時点では、反尼子氏の行動により所領を没収されていたのだろう。尼子誠久、朝山殿、隠岐殿はとりわけ有力家臣である。熊野久家は出雲州衆ではあるが、以前紹介した天文22年初の連歌師宗養を招いての会を主催しており、尼子氏との関係を深めていた。雑賀氏と高尾氏は尼子氏直臣の富田衆である。
 そして天文23年という年号はすでに述べた晴久の修理大夫任官の時期を考える上で注目されるが、さらに重要なのは、この年11月に尼子国久と嫡子誠久を中心とする新宮党は尼子晴久によって討滅されてしまうことである。
 棟札について主に中世史で誰が支配者であったかを考える材料とするが、実際には近世、とりわけ後期に大量に残されており、中世と近世の枠を越えて収集・分析すべき題材である。切り口は如何様にもなるうる。

晴久の修理大夫任官(2)

 『尼子史料集』に収録されている「歴名土代」の天文21年分をみると、この年に従五位下になった人々が記されている。島津貴久には同日(6月11日)に修理大夫に任ぜられたことが記されているが、尼子晴久には12月3日に従五位下となった以外のことは記されていないのである。以上の点から、晴久は従五位下にはなったが、修理大夫となるのは後のことであり、①の口宣案は後に作成されたことになる。そして、その時点での口宣案にならい、将軍の花押を据えたのであろう。そうした観点からみると、①の義藤花押は佐々木文書中の他の4点の彼の花押と比べて、縦横比が異なり横長である。
  棟札も証拠としたが、天文23年8月21日遷宮の比田庄(現安来市西比田)岩舟蔵王権現棟札には、明確に「御地頭御屋形 尼子民部少輔晴久様」と記されている。当然これは『尼子史料集』に「島根県神社資料」からとして掲載されている。
 同時期の棟札で『尼子史料集』に未掲載のものもある。それは『雲陽誌』の講武村の八幡宮の項に養和元年の尼子晴久建立の棟札と記されているものである。養和元年は時代が違うとして不審であると記すが、同地の熊崎天王については天文22年の尼子晴久造立の棟札があると記している。

晴久の修理大夫任官(1)

 これについては、佐々木文書に①天文21年12月3日の御奈良天皇口宣案が残っており、時期は明確ではないかとの意見もあろうが、『出雲尼子史料集』をみると、それを除く初見史料は天文24年2月28日の寄進状(出雲大社、日御崎社、揖屋社宛)であり、それ以前の棟札には「民部少輔」と記されている。自分なら迷うことなく、「口宣案はなんらかの理由で後に作成されたもの」を正答とするが、『尼子史料集』も『佐々木文書』も口宣案には何の疑問も示していない。
 口宣案には何故か袖の部分に将軍足利義藤の花押がある。②永禄3年2月15日正親町天皇口宣案(毛利文書)は、毛利元就を陸奥守に任じたもので、袖には将軍足利義輝の花押が据えられており、何の問題もないとの意見があるかもしれない。だが、同じ③天文21年6月11日に島津貴久を修理大夫に任じた後奈良天皇口宣案 には将軍の花押はない。①と③は同じ年であるがゆえに、奏者はともに源重保であるのに、である。

2010年8月 3日 (火)

白潟天満宮について

 松江市の橋南では夏休みには二つの大きな祭りがあった。7月末の白潟天満宮と8月末の竹内神社(平濱八幡宮)の祭りだ。今年もすでに前者は終了したが、その白潟天神について補足したい。というのも『島根県の歴史散歩』では、天神について『雲陽誌』の記述をなぞった程度で記した。すなわち、富田から松江へ城が移る段階で、富田城内にあったものを移したという説と、堀尾氏が浜松から移したとの説を記したのみであった。『雲陽誌』にも史料が失われよくわからないと断ってあった。
 それが、松江市八雲町西岩坂の小坂神社(現在は風土記時代の志多備神社を名乗る)の神主平林氏が藩に何度か提出している神社の報告書で、常にこの天神について触れているのである。それは、平林氏が元和元年(1616)正月に堀尾山城守(忠晴)の母長性院の依頼を受け、上京して北野天神から勧請したとするもので、享保12年(1727)の報告書では毎月25日に平林神主自身が天神に行き神事を行っていることも述べている。それが堀尾氏が松江から去ったことにより神社はしだいに衰微し大破してしまった。それを町民が氏子となって修復すると、従来から別当寺としてかかわってきた松林寺の社僧が独占して天神を支配するようになったというのである。その体制は、幕末まで続き、明治元年(1868)に神仏分離の流れで、社僧の支配が否定され、藩は平林氏に再び神事を行うように求めている(この後の史料については未見)。
 なぜ平林神主かについては、長性院に仕え愛顧を受けていた女性が、平林神主(権太夫)と結婚したことがあった。史料の性格からして信頼できるものであるが、それならなぜ『雲陽誌』がよくわからないと記したのが謎である。
 補足:後日みた平林家の別の記録によれば、松林寺が天神にかかわるようになったのは延宝5年(1677)のこととしている。

2010年8月 2日 (月)

内田致美系図について

 末岡系図は、旧島根県史編纂の際に収集した謄写本が、現在は撮影・紙焼きをして中世筆写編と近世筆写編に分けられており、後者の281冊目に含まれている。近世筆写編にも中世文書の写、系図、棟札などが含まれており重要である(近世史料として重要なことは言うまでもない)。同じ本の中に、「内田致美系図」もあり、系図の中で中世文書の写しが掲載されている。内田氏は遠江国内田庄から新恩地頭として石見国西部の豊田郷に入って来、戦国期には益田氏の家臣に含まれる。これまで内田氏惣領家文書の写と庶子で豊田郷内俣賀を支配した俣賀氏の文書が知られていた(鈴木国弘編『俣賀文書』)。
 16世紀前半の内田氏惣領式部少輔宗安に対してその弟に弾正忠宗景がいるが、今回の内田致美系図は後者の系統が伝えたものである。引用される文書には、惣領家内田氏の文書と共通するものと、独自のものがある。ただ、筆写する際に誤読や誤写、さらには年次が間違ってしまったものがあり、使用には注意が必要である。
  内田氏は宗茂が承久の乱で豊田郷と貞松名を獲得し、嘉禎2年には嫡子と庶子に分割して譲っている。それを安堵した嘉禎2年12月15日の将軍家政所下文については、①内田氏惣領分と②庶子俣賀氏分の2通が知られていた。今回のものは宛名は①と同じであるが、豊田郷のみで貞松名が記されていない点と、豊田郷内の庶子分を除くことを記さずに、②と同様田畠在家地頭職という表現を使っている。単に①から一部を省略しただけはでなく、①との違いがどこにあるのかが注目される。
  また、惣領家には正平7年2月27日付の常陸宮令旨写(内田左衛門三郎宛)が残されているが、系図には同年閏2月6日付の同令旨写(豊田兵衛蔵人宛)が引用されている。内田氏が「豊田」と呼ばれた初見史料である。これに続くのは至徳2年8月9日に、内田肥前入道に、長野庄内河上の「豊田帯刀左衛門尉跡」を預けた文書である。内田氏惣領はなお内田氏であるが、庶子俣賀氏は鎌倉末期には「俣賀氏」と呼ばれている。「豊田氏」も内田氏の庶家であり、後にその一族の文書を入手したのだろう。
 そして吉見氏関係史料となるのが、観応3年5月12日足利直冬軍勢催促状写である。惣領家には観応2年8月15日に直冬が凶徒退治のため吉見助四郎頼□(平ヵ)を派遣したので合力せよと命じている。今回は幕府方の吉見範直以下の凶徒退治のため同(助ヵ)四郎頼房に合力することを命じている(豊田兵衛蔵人宛)。前の史料も吉見助四郎頼房と読めることになる。「豊田兵衛蔵人」が気にはなるが、正しいものであろう。これ以後は益田藤兼が豊田弾正左衛門などに宛てた感状と書状6通で、これまで紹介されていないものである。時期的には天文末年から弘治初年のものであろう。なお検討すべき点はあるが、とりあえず報告する。

石見吉見系図について

 ここのところ、尼子氏と戦国期の出雲国に関するテーマが続いたが、一方で、吉見氏のHPを開設している方からの質問を受けて、自ら考えたり、関係者と連絡を取ったことがあった。それについてはここでは触れないが、その後、特徴的な石見吉見系図と新たな吉見氏関係文書1点を確認した。今回は系図から、文書がほとんどない頼弘以前についてみていく。
 吉見氏は源頼朝の弟範頼を祖とするが、その範頼は頼朝によって伊豆の修善寺に幽閉され殺害されたとされる。ところが、幽閉された日については明確だが、いつどういう形で殺害されたかについては史料がなく、不明とのことである。系図では幽閉された日に死亡したと書くことが多いが、今回紹介する「末岡家系図」には、「建久四癸丑八月豆州江下リ建久六年乙卯八月十七日於豆州大山戦卒、法名蓮功」と記されている。ちなみに「毛利隠岐系図」には「建久四年癸丑八月廿四日卒、法名大寧寺道悟」と記し、他も大同小異であるが、「末岡系図」の記載は独特で、近世以降にまとめられた石見吉見系図の影響は感じられない。
 末岡氏は吉見氏の庶子家で、15世紀末の吉見氏惣領興頼の子頼長が、長門国安武郡上野郷末国要害を拠点とし、その後長政・頼永と続いた。系図には吉見正頼から長政への安堵状が引用され、それが『島根県史7巻』にも3点引用されている。続く範国、為頼、為忠の三代にも死亡の日と母の名前が書かれている。線の引き方から親子と兄弟の関係が不明確な箇所はあるが、他の石見吉見系図とは異なっている。
  石見国に入部した頼行の父頼忠は、吉見頼氏女を母としている。頼氏は頼忠の祖父為頼の兄弟としてみえる。頼行は遠江国蒲生五郎左衛門範行の女を母とするが、これも他にはみられないもの。吉見氏初代範頼の子範国について、父とともに遠江国から近江国に移ったが、両方とも蒲生に居住したとしており、その関係で吉見氏と蒲生氏の間に関係ができたのであろうか。
 頼行は弘安5年に能登国から三宅村(一族に三宅氏あり、鹿足郡内か)に移り、次いで木部郷木園村に住んだとする。延慶2年4月28日に没したこと(興源寺過去帳と一致)と、法名源楽を記すのも特徴的である。そして頼行の子頼直の母について、足利尊氏の養女とするのが一般的であるが、時代が合わない。それに対して本系図では「大蔵殿養女」と記しており、大蔵殿は吉見一族であろうか。
  一般的には頼行の嫡子は頼直であるが、本系図では本来頼擧(一般的には頼行の兄弟とする)が嫡子であったが、何らかの理由で次男頼直が惣領となり、頼擧の系統は横田に住んで横田氏を名乗るようになる。頼直の代に鶴ヶ岡八幡宮が勧請されて鷲原八幡宮が建立され、興源寺が開かれた。頼直が没したのは延元2年(1357)8月18日とする。
  とりあえずまとめたがまだ未消化な部分が多いと感じており、補強したい。

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