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2010年7月

2010年7月29日 (木)

PCの突然の故障(3)

 1年半ほど前オークションで入手したNT300が昨日起動不可となる。きっかけは子ども用として4年前に購入したNT550とLatitude5500を交換し、自分で管理するようになったNT550を部品を交換してリフレッシュしようとしたこと。一旦NT300で使用していたが、なぜかその厚みのため使えなくなった低電圧版M778をNT550に組み込み、且つNT550の疑似SSD化を試みた。前者はM740と交換しても問題はなく、後者は以前2個購入して1個未使用のCFをIDEに変換するアダプターを利用して、HDDをCFに替えようとした。ところが、接続するpinの高さがPCのものとあわず断念し、過去に交換実績のあるNT300の登場となった。
 CFをHDDと交換し、外付けCDでbootしてWindoowsをインストールしようとしたところで、エラーが出た。CF+アダプターの動作確認は前もってしていた。再度行ってもだめなので、HDDに戻したところ起動可能なディスクがないという、1年半前と同じメッセージが出た。結局前回と同じ症状で壊れてしまった。
 とりあえず、HDDとメモリーを取り出し、メモリーはすでにSLCタイプのCFを組み込んでいる供給元がNT300と同じ日立の210W-NL4に組み込んだ。今回購入したCF(トランセンドのMLC400倍速)はとりあえずPCカードアダプターに入れて使用。イイヤマのNT310Sもあるが、どうするか。NT550に使用するなら別のアダプターが必要になる。NT300は最初の購入が2003年12月だったので、もう少しで7年だったが、しょうがない。

2010年7月26日 (月)

素人だって求められることがある

 素人の協力が必要と書いたが、素人も欠点があることを自覚していく必要がある(ここで言う素人は専門家に対するもの)。岸本の棋譜の関係で久しぶりに地元紙をみた。本来なら高校での授業のため普段からみていなければいけないが、余裕がなかったのが実態だ。
 近世の藩に関する新しい研究成果の連載が毎週掲載されているが、このブログで採り上げた天明3年の一揆について書かれていた。2mを越す異人が神門郡と飯石郡の一揆を先導したことを記した史料があるが、そんなことがありえないのは誰でもわかることである。実際に一揆に関して記した正確な史料の写しが東大史料編纂所にあることもブログで触れた。ありえないことを書くのは、自分としては理解できない。一定の意図をもって史料が書かれたことを述べるなら問題はないのだが、それはないのである。ちなみに前者と後者では神門郡で襲撃された人物(悪徳であったのだろう)の名前も違うのである。
 人口の比較の問題についても述べた。その後、日本史の授業で使おうと、薩長の近世後期の人口の動きを確認した。長州については詳細なデータが地元にあり、県史研究でそのことを述べた論文もある。それによると、人口が急激に減少したり、増加した際(後者は18世紀後半から調査方法が精密になったのが原因)、担当者は幕府から追求されるのを恐れて(幕府から預かっている領民の面倒見が不十分)ウソの報告をしていた。関ヶ原以来薩長共に警戒されていたのである。
 薩摩はというと、出雲国と江戸中期の人口規模が近いとのことで比較され、松江藩の方がはるかに人口増加率が高いと紹介されてきた。その比較の根本的問題点についてはすでに述べた。ところが、江戸時代最後の弘化3年(1846)の人口が24万に対して(松江藩は31万)、明治5年(1872)は55万(松江藩は34万)なのである。『日本国別人口統計』では九州を中心に後者の人口が20%以上増加している藩については、江戸時代の報告が過小であったとの解説があるが、薩摩は120%増、大隅は150%増と桁違いである。
 ここからわかるのは、薩摩もまた幕府の干渉をさけるため、人口を過少に報告していたことで、江戸時代の薩摩の人口データは使えないということである。それなのに、松江藩との比較に使うのは論外としか言いようがない。資料の声を聴くのではなく、都合のよい資料のみをつまみぐいするから気づかなかったのであろうが、それは素人でも許されないことと思う。

新『市史』は新しいか?(2)

 なかなか回答に至らないが、思い切って言えば「新しくない」ということか。一つの理由としては、約30年間にわたる『県史』編纂の要求(努力)の具体化の一つとして今回の『市史』 編纂があり、努力はすばらしいが、その内容は30年前と比べてもあまり変わり映えがしないという点がある。30年前なら、ようやく「全国レベルの作業」と評価されただろうが、今は30年が経過しているのに、どこが進化なのだろうか。
 『市史』として各時代を貫く統一方針がないことも気になる。各時代毎に「最新の方針である」と言えば聞こえがよいが、バラバラのように思える。大学時代に助手の服部英雄氏(現在は九州大学)の提唱で茨城県真壁市へ現地調査に出かけた。当時は全国的にほ場整備が進められ、今生きる人々の記憶を呼び起こす歴史的景観が失われつつあった。服部氏はまずは地元の真壁市に働きかけを行ったが、受け入れられず、やむをえず自ら学生を編成して調査に行ったのである。当時はよくわからないまま参加した。現地調査に基づく歴史地理的作業は、自分自身としては人に聞き取りをするのが苦手で積極的にやりたいとは思わないが、記憶と記録を保存活用するために大変重要なもの(いやでもやらなければならないもの)である。文献資料をきちんと集めることは当然重要だが、今取り組む作業としてはそれだけでは失格であろう。それは中世にかぎらず、古代から近・現代にいたるまで部会を越えた作業として行われなければならない。
 これまで地域研究に様々取り組んできた人々もおり、それらの人々について関係者の記憶を呼び覚ましつつまとめる作業なども必要だと思う。考古学、文献史学を問わず専門家は良くも悪くも専門家であり、大半の専門家は視野が狭いし、さらには日本特有の文系と理系を分ける悪習のため、いわゆる「理系」的センスがない。素人的には、戦国時代と江戸時代前期は時期的にも近く関係が深いのだが、時代が違えば専門家は対応できない。そのこと(専門家の欠点)を踏まえて全体をプロデュースする(多くの素人の協力が不可欠である)ことが現在の『市史』編纂には必要である。これを詰問に対する回答とする。

新『市史』は新しいか?(1)

 このことについて、歴史の先輩から詰問を受けた。中世部会に一部関わっているが、回答はなかなか難しい。信頼して使える精度と内容をもった『県史』がないのが問題である。このブログでも自己の関心に基づき具体的再検討をしている。その範囲で言えば、自分が過去に行った作業を含めて、信頼に足る研究は皆無といって良い。それを示す具体的作業として現在、ブログでも述べているが、戦国大名尼子氏研究は100%リセットボタンを押した上で取り組まなければならないことを明らかにする論文をまとめつつある(これについては、尼子晴久シリーズ連載中は気づかず)。その状態で『市史』編纂ははたして可能かとも思う。だから今、作業を行いながら、日々進化しているといえば聞こえは良いが、複数の研究者で議論を行うという作業を経ていない(あるいは議論のできる研究者がいない)というのが最大の問題か。自分自身がもう一人いれば、本県の中世史と近世史研究は飛躍的に進化したかもしれない(これは冗談だが議論の相手は必要)。
 過去の『県史』には二つあり、ともに論外との総括が『市史』編纂の中で述べられていた。今回の『市史』の意義を強調するためであろうが、これには大変違和感を覚えた。1920年代の旧『県史』は当時の状況からすると全国でもトップレベルのものである。野津左馬助氏の努力が大きいが、これに地方史、さらには差別問題にも関心のあった地元出身の三浦周行氏(東大から京大へ移り、国史学科開設に関わる)の関与があれば完璧であったろう。これに対して戦後の新『県史』は体制が不十分であり、何より問題なのは、新たに集めて筆写した史料(通史編で活用されてないものも多いとのこと)が、その作業終了後廃棄され残っていないことである。最後の作業がなされなかったのである。
 旧『県史』では多くの影写本と謄写本が作成され、現在は県立図書館で利用することができる。その収集の中には差別に関わる史料も、当時としては画期的といっていいほど含まれている。大正年間に県は差別問題解決に、国の方針を越えて取り組もうとしており、その現状報告書の中では、野津氏が県内における差別問題について詳細に述べている。

2010年7月25日 (日)

天文5年の尼子氏

 三沢氏について調べている中で、三沢為国が殺害されたのを大内氏敗退後と誤解していたことに気づいた。その時点で殺害されたのは三沢氏惣領左京亮であり、為国の殺害は天文5年であった。
 この年、尼子氏は備後国へ大規模な軍事行動を展開し、山内氏惣領を交替させている。山内氏は塩冶興久と婚姻関係にあったが、同年には石見国の奉公衆佐波氏にも圧力をかけ、実権を握っていた佐波興連は山口に逃れざるをえなかった。三沢為国の殺害もこのあたりと深く関係し、反尼子の動きが表面化したため、今回の遠征ならびに為国殺害となったのであろう。
 為国が三沢氏惣領でなかったことはすでに述べた通りであるが、三沢氏惣領はどうであったのだろう。天文9年の「三沢四郎三郎」は任官してはいない。父左京亮が塩冶興久の乱で与同し没落した可能性もあるが、三沢為国のように富田城へ幽閉され、その後継者次郎法師丸(享禄2年)が跡を継承せず、為国の弟為幸や為隆が一部の相続を認められているのとも異なるので、現時点では三沢氏惣領と為国が興久の乱で選択した行動は違っていたと考えておく。
 三沢四郎三郎は殺害された段階では「左京亮」となっており、これは三沢氏惣領の官位である。少なくとも尼子晴久(詮久)は、彼が裏切るとは思ってもいなかったのであろう。史料の残り方により評価が難しいことを教えてくれる例であるが、三沢氏惣領が支配した三沢郷、三処郷などにも尼子氏の支配が及んだのであろう。
 天文5年閏10月に、尼子氏は自筆の和歌を詠み、それが神魂神社に残されている。「あきあけハ とみとたからにあひかして おもふことなくなかいきをせむ」。以前は経久のものとされたが、近年になり署名は詮久のものであることが明らかになった。経久と詮久の花押は区別ができるようにしてあり、たしかに詮久のものである。一段落した政治状況を背景に詠んだものであろうが、現実は……。

忘れられていた岸本左一郎

 地元誌で「岸本左一郎名局選」が掲載されている。最初は最も多くの棋譜を残す対秀策のもの。彼の真価は現在『週刊碁』に連載中の『活碁新評』に代表される、囲碁の教育・普及にあるが、晩年の棋力の伸びは著しい。当方は棋力は秘密といわざるをえない状況なのでわからないが、岩本薫氏の弟子で囲碁史に詳しい福井8段からの便り(大浦林家に残る棋譜について質問)では、健在なら地方在住では例のない7段に進んだろうとのことであった。
 左一郎について調べて書いたのは、出身地大森が大野と誤解され、弟子の岩田が石碑を建立したのが兵庫県の但馬であると囲碁史の定番の本にこれまた誤って書かれ、地元ではほとんど知られていなかったことが第一の理由であった。そして第二には、早稲田大学で山本家文書を調査した際、彼の本因坊家入門前の対局記録など関係資料を発見し、さらには大森の古文書を調べる中で、その父美濃屋丈助の記録を見つけるなどの、あたかも自分の事を調べて欲しいと左一郎からいわれたかのような状況があったからである。
 とりあえずは、長谷川章『筋と形』と同様、現在の活碁新評に関する連載が本となってまとめられることを期待したい。

2010年7月19日 (月)

三沢氏について(補足)

 三沢殿御先祖次第(総光寺文書)には、義好(対馬守為信)の子として、遠州(為忠、覚栄)とともに、布廣信州、西湯野周防守、森備中守、さらには他腹(母親が異なる兄弟)として荻原兵庫守(神門郡萩原か)と宝蔵寺を記す。またその女子は古志氏、多久和氏、上郷氏、恩(多ヵ)賀氏と婚姻関係を結んでいる。
 ここで最初に注目するのは応仁2年の合戦で松田備前守とともに尼子氏と戦った国人として「布廣弟」がみえることである。三沢対馬守を中心とする一揆はこの直前であったと思われ、京極氏により弾圧された。すると「布廣弟」とは前記の史料で「布廣信州」(嫡子為忠の弟)と同一人物ではないか。
 次いで為忠の子として、左京亮(覚照)と三刀屋紀伊守、比田九郎左衛門尉、横田信濃守、三郎左衛門尉、上総守、太郎左衛門尉、大蔵左衛門尉、高田寺を記す。またその女子は備後国宮氏、出雲国の牛尾氏、馬木出羽守(宗右衛門を産む)、中湯野氏と婚姻関係を結んでいる。ここでは、馬木出羽守が注目される。馬木氏は富田衆に組み込まれ、永禄3年には出羽守の子宗三郎(宗右衛門久綱)が尼子氏のもとで横田庄支配の代官を務めている。
 左京亮が三沢氏惣領で、横田信濃守が横田庄を支配した三沢為国であることはすでにのべた。永正11年に尼子氏が横田を攻撃しているが、その時点で為忠は横田庄で隠居中であった。惣領を左京亮に譲り、幼少の為国(永正17年段階でも次郎四郎為国)とともに横田にいたのであろう。従来、為国が惣領と考えられていたが、そうではなかった。三郎左衛門尉為幸は為国の弟であろう。
 三刀屋紀伊守については、塩冶興久の乱で尼子経久から朝山郷内稗原3ヵ村を与えられている「三沢紀伊守」と同一人物であろう(諸家文書纂)。興久の乱で為国は尼子氏の攻撃を受けており、三沢氏内部でも対応が分かれたことがわかる。惣領左京亮はどうであったであろうか。天文9年の竹生島奉加帳にみえる三沢三郎四郎がその後継者である。
天文12年、三沢氏惣領左京亮は富田で殺害され、庶子三郎左衛門尉の子才童子丸が三沢氏惣領となったが、横田庄自体は尼子氏の支配するところとなった。三郎四郎が左京亮に進んだのだろうが、天文11年7月朔日の大内氏家臣相良武任書状が三沢文書として残っているように、左京亮も早くから大内氏と結んだのであろう。
 以上、これまであまり注目されてこなかった史料から述べた。

三沢氏の惣領(5)

○左京亮為永(覚照)
 ①にはこの時期の棟札はない。②に惣領として「左京亮覚照」を記す。為忠の嫡子で、惣領となる。ただ、官途が左京亮止まりであるため、早い段階で死亡した可能性が高い。
系図では為忠の子として「為永(覚勝)」とみえる。
○三郎四郎(覚俊)
 ①にはこの時期の棟札はない。②に惣領として「覚俊」を記す。天文9年の竹生島奉加帳に三沢三郎四郎としてみえる。同帳には父為永の兄弟「三沢三郎左衛門尉」もみえ、「横田庄請之地知行」と記されている。横田庄は同じく父の兄弟である為国が相続したが、塩冶興久の乱で為国が興久方となったため、尼子氏の攻撃を受け、降伏した為国は富田に幽閉され、天文5年には殺害された。横田庄は尼子氏の支配下に入ったがそのもとで為幸が代官となった。天文9年の安芸国吉田攻めで討ち死にする。
 三郎四郎はその後惣領の官途である「左京亮」となるが、尼子氏の吉田攻が失敗すると大内氏の出雲国攻めに協力し、天文12年に大内氏が敗退すると、尼子氏によって左京亮は殺害され、為幸の子才童子丸(為清)が惣領となる。②が最後に記す「覚清」は左京亮の子であろう。
○左京亮為清
 ①には元亀3年(1572)の願主として「惣地頭三沢左京亮為清」を記す。三沢氏としては最後の願主である。②には惣領として「覚清」を記すが、為清との関係を含め、どのような人物かは不明である。天正17年(1589)年、為清の子為虎の時代に毛利氏の命で安芸国に移った(何度か修正した)。

三沢氏の惣領(4)

○覚忠
 ①にはこの時期の棟札はみられず。②に惣領として「覚忠」を記す。系図は「信濃守為清(覚忠)」とその子「遠江守為忠(覚栄)」を記す。ただ、②では、遠江守為忠を「義好」(対馬守為信)の子と記す。信濃守為清は文明7年(1475)11月に近江国の合戦で討ち死にしている。

○義好(対馬守為信)
 ①にはこの時期の棟札はみえず、②に惣領として「義好」がみえる。系図によるとその父は為常(法名見覚)で覚了の兄弟。一族の肥前入道為重の養子となっている。為重の父為勝が尾張守為忠の兄弟である。康正2年(1456)の出雲大社と日御崎社の境問題では、守護代尼子清貞とともに、問題解決にあたるよう、守護京極持清から命ぜられている。また翌長禄元年には大催氏に対して宛行状を出している(杠文書)。横田庄を支配していたことは確実であるが、その後反京極氏の動きにより失脚した。次いで信濃守為清が文明7年(1475)に死亡したことにより、義好(為信)の嫡子為忠が惣領となった。そして為忠が惣領となったことにともない、その父対馬守為信(義好)が惣領に位置づけられた。系図はすでに述べたように為忠を為清の子としている。
○遠江守為忠(覚栄)
 ①には文明10年(1478)の願主として「惣地頭左京亮源朝臣為忠」を記す。②は惣領として「覚永」を記す。 対馬守為信の子。左京亮から遠江守となる。永正11年(1513)に尼子氏の攻撃を受けるがこれを撃退している(岩屋寺快円日記)。その子には嫡子左京亮(覚照)、三刀屋氏に養子に入った忠扶、比田九郎左衛門尉為理、横田信濃守為国、三郎左衛門尉為幸、上総守為廣、高田寺へ入った為盛、兄為国の代官を務めている為隆、大蔵左衛門尉為久などがいた。系図では為清の子として「遠江守為忠(覚榮)」を記す。
 為忠は永正6年(1509)に横田に藤ヶ瀬城を築いてここに移ったとされるが、それはあくまでも隠居して末子為国を伴ってのものであり、為忠の嫡子左京亮は三沢郷にいた。

2010年7月18日 (日)

三沢氏の惣領(3)

○信濃守為忠
 ①には応永35年(1428)の願主として「惣地頭信濃守為忠」を記す。②にはみえない。応永29年には覚了とともに署判していたが、文安5年(1448)には覚了と為忠の嫡子為清が同一文書に署判しており(総光寺文書)、この時点で為忠は死亡している可能性が高い。そのため②には記されなかったのであろう。この間、永享11年(1439)の横田庄馬場八幡宮棟札には信濃守為忠と三河守清泰がみえ、系図ではそれぞれ法名を覚了と源覚とする。ともあれ、為忠が三沢郷と横田庄を支配する三沢氏惣領であったことは確実である。これに対して為清は為忠の次の世代の惣領であろう。また源覚は覚了と同世代であり、このあたりは系図に混乱がみられる。文安元年(1444)には為清が横田庄岩屋寺の段銭を免除している。
 康正2年(1456)に大社と日御崎社の境界問題が生じた際には、京極持清が、守護代尼子清貞とともに、三沢対馬守にも問題解決を命じている。この人物は系図では為信とされているが、その父は為常(法名見覚)で、為忠と清泰の兄弟となっている。確実なのは横田庄を支配していたことであって、惣領であったかどうかは確認できない。。
 日御崎社文書には京極持清が日御崎社造営について「三沢信濃入道」に伝えた文書が残されている。持清は寛正元年(1460)に出家して生観となっており、それ以前のもととなる。この信濃入道は永享11年の為清と同一人物であり、この時点の惣領であろう。となりると、対馬守は惣領ではなく、横田庄を支配して一族となる。次いで北島文書には生観から「三沢信濃守」外2名に宛てた文明初年頃の文書があるが、この信濃守は次の世代の人物であろう。一方、寛正5年(1464)の日御崎社検校の相続問題に関する文書に7人の国人が署判を加えているが、その一人に為忠がみえる。次いで文明8年(1476)6月27日には左京亮為忠が荻原村内牛尾田を日御崎社に寄進している(日御碕神社文書)。2人の為忠の花押は一致する。この左京亮為忠は文明10年に三沢大森神社の造営を行っており、この時点の三沢氏惣領である。
 以上からわかる三沢氏惣領の系譜は
  覚了-為忠(信濃守)-為清(信濃守、信濃入道)-為清(信濃守)-為忠(左京亮、遠江守)となるが、問題は為忠が為清ではなく、義好(為信)の嫡子と記されていることである(「三沢殿御先祖次第」(総光寺文書))。単純な親子間の相続ではなく、為清(信濃入道)-為清(信濃守)系と為信(対馬守)-為忠(遠江守)系の間で惣領が移動している。

三沢氏の惣領(2)

○正覚
 ①には応安3年(1370)12月9日の願主として「沙弥正覚」を記す。②も「正覚」を記す。系図では尾張守為忠(法名正覚)と記すが、康暦2年(1380)8月7日山名時義書下(三沢文書)に宛所として「飯島尾張守」がみえ、沙弥正覚とは別人である。尾張守は横田庄地頭で山名氏惣領である時義との深い関わりを持っており、これが後の横田庄進出のきっかけとなった可能性が高い。系図では尾張守為忠は明徳の乱時に山名氏方として内野合戦で討ち死にしている。山名氏との関係でそれまでの惣領家に代わって尾張守家が台頭した可能性が高い。
○覚了
 ①にはこの時期の棟札はみられず、②には「覚了」がみえる。覚了は応永29年の坪付(総光寺文書)に為忠とともに署判を加えており、為忠の父である可能性が高い。これに対して系図は為忠の父として「三河守為時(道喜)」を記して尾張守為忠の次の惣領とする。
☆三沢甲斐守為盛
 応永3年(1396)に杵築社三月会奉行としてみえる(千家文書)。このことからも、三沢氏一族が明徳の乱の打撃を乗り越え、守護京極氏との関係を構築して生きのびたことがわかる。為盛は庶子であろうが、系図では尾張守為忠の兄弟として記されている。

三沢氏の惣領(1)

 三沢氏については、高橋一郎氏と長谷川博史氏による研究があるが①「三沢大森大明神棟札写」(桜井家文書)に基づき、表記の問題についてまとめてみたい。また、②「三沢殿御先祖次第」(総光寺文書)は寺が毛利氏のもとで惣領となった為清・為虎父子に対して提出したもので、信頼性が高いものであり、これも併せて利用する。この文書が提出されなければならないほど、三沢氏側には史料がなかったこともわかる。また、併せて何度か惣領家が交替したことと、「為忠」と「為清」など惣領が同じ名前を名乗ることが多かったこともその背景となったであろう。
 三沢氏系図としては三沢文書とともに伝わったものを利用する。三沢一族について多数の人物を掲載しているが、一方では女性や婚姻に関する記載はほとんどなく、最終的にこのような形にまとめられたのは近世に入ってからであろう
○定意
 ①には最初に「乾元二癸卯年(1303)十月五日」に「地頭沙弥定意造之願主也」と記す。②では最初に「六郎三郎為長カイミャウ定為」と記される。系図では出雲国へ下向し本格的活動を開始した人物として、「三沢六郎為長、法名定意」を記す。
○定喜
 ①には建武4年(1337)3月5日に「沙弥定喜建立願主也」と記す。②も「定喜」を記す。これに対して系図は、①③が次の惣領とする為常(正喜)を記しており、齟齬がみられる。
○為常
 ①には正平10年(1355)11月3日の願主として「惣地頭信濃守源朝臣為常」を記す。②は「正喜」を記すが、これが系図の「三沢信濃守為常(正喜)」と一致している。応永11年(1404)の明見譲状によれば、明見が正喜より譲られた所領を養子見貞に譲与しており、正喜は14世紀後半の人物であろう。
 正平9年7月10日の足利直冬感状では、飯島四郎三郎が為常とともに忠節を行っていることを賞している。為常が惣領で、四郎三郎が庶子と考えられる。三沢文書によると、古いものは香折新宮地頭職を相続する一族の文書のみであるが、その中に南北朝期の人物として「四郎三郎為清」がみえる。その父十郎三郎が母から香折新宮地頭職を相続したものである。
 その後為清の所領は甥の四郎左衛門尉為長(道性)が継承する。為長は三沢郷内小原を相伝する一族であったが、小原に関するそれ以前の文書は伝わっていない。次いで為国(次郎左衛門尉、道清)が応永32年に相続。永享8年には為国が為直(四郎左衛門尉、道善)に譲り、その子が源四郎為信である(三沢氏軍功覚書)。

2010年7月11日 (日)

尼子国久の役割(2)

 話を国久に戻すと、永正7年(1510)の大社造営記事に「吉田孫四郎」とみえ、出雲国西部の名門で出雲佐々木氏の一族である吉田氏に養子に入っていた。この年国久は19歳である。妻は吉田氏ではなく、多胡氏の娘であるから、多分に便宜的なものであり、その後の史料には尼子国久とみえている。国久の娘が宍道隆慶の母であるから、娘は永正7年段階ですでに誕生していた可能性が高い。こうした点をみると経久の娘と宍道久慶の婚姻、国久と多胡氏娘の婚姻、国久の娘と宍道経慶の婚姻は経久によって計算されたものであった可能性が高い。
 その計算を御破算にしたのが国久の弟興久の乱であった。これを何とか鎮圧し、孫である清久(興久の子)と隆慶(経慶の子、当初は詮慶といった名前ではなかったか)に期待をつないだが(両者とも竹生島奉加帳に記されている)、両者とも安芸国吉田攻めが失敗し、大内氏が出雲国へ攻め込むと大内氏方となり、大内氏敗退後の清久については不明だが、隆慶は山口へ逃れ、大内氏の家臣となって他日を期した。この後のことは「尼子晴久」の項ですでに述べた通りである。
 宍道隆慶が天文9年段階で「宍道八郎」で任官しておらず、その父は28歳で死亡したことから、ある程度の予想はあったが、来待・弘長寺の阿弥陀如来坐像の胎内銘から隆慶とその弟の年齢が判明したことにより、一気に具体化を進めることができたのである。

尼子国久の役割(1)

 尼子晴久(詮久)と祖父経久の花押の共通性についてはすでに述べたが、両者の花押は守護京極政高(政経)の花押とも共通性が強い。経久の子で晴久の父である政久については花押を未見である。吉川家文書に唯一残された花押は、『出雲尼子史料集』にも掲載されておらず、原本か影写本をみることでしか確認できない。
  これに対して、政久の2人の弟国久と興久の花押は、祖父で守護代であった清貞との共通性が高い。ここに、経久と政久の後継者晴久と2人の叔父の違いがある。とりわけ経久の子で最も長命であった国久は独特の位置づけがなされている。
 国久は尼子氏家臣多胡氏の娘と結婚し、生まれた娘は甥の晴久だけでなく、宍道氏、美作国の大河原氏にも嫁ぎ、尼子義久や宍道隆慶はその孫である。とりわけ、孫である宍道隆慶との年齢差は35歳しかなく、普通なら系図の記載を疑いたくなるところだ。
 宍道隆慶の父は経慶は尼子経久の娘と宍道久慶の間に生まれているが、従兄弟である晴久と対立して28歳で死亡したとされる。宍道隆慶は天文4年に8歳であることが確認でき、生年は大永7年(1527)で、その2歳年下の弟は享禄2年(1529)の生まれである。とすると経慶の没年は享禄年間で、享禄3年(1530)に起こった塩冶興久の乱と関係すると考えるのが妥当であろう。この年に28歳ということは、文亀3年(1503)の生まれとなる。そうすると、尼子経久の娘と宍道久慶の婚姻は文亀2年以前に行われたこととなる。

2010年7月 7日 (水)

京極政高(政経)の花押

   147112110_2政高の花押については4型に分類できるとしたが、子細にみると5型147405072_2となる。そのポイントは左下の部分で、当初Ⅰ型では撥ねる形となっていたが、Ⅱ型では撥ねずに下に伸びている。次いでⅢ型では、左下に伸びる横線が当初は水平に近く、左端は撥ねる形であったがのが、横線が左下がりとなり、そのまま伸びている。これがⅣ型となると、下から2番目の横線が、 縦線147411070を越えて伸びるようになる。Ⅴ型は一目瞭 然で、右下へ向かう線が147604291内側上方へ撥ねる形となっている。
 Ⅰ型は文明5年3月に松田三河守に法吉郷を安堵した文書まで確認できる。それが文明6年5月にはⅡ型に変わっていることがわかるが、7月には早くもⅢ型に移行している。
Ⅲ型では横線が 次第に左下がりへと変化し、文明7年11月の147908260畿内の合戦での敗北と出雲国への下向が影響したのか、文明8年3月にはⅣ型へ変化している。以後文明18年まで京極政高は出雲国に在国するが、政経への改名とともに、花押がⅤ型へ移行し、これを死亡す るまで使い続ける。

 

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