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2010年6月15日 (火)

尼子詮久の花押

 尼子晴久は天文10年に晴久と改名する以前は詮久と名乗っていた。その花押の初見は、大永4年3月5日の国造北島雅孝譲状の袖に祖父経久とともに記されているものである。ただ、この2つの花押は経久のものが花押のみであるのに対して、詮久は名前と花押を記している。両者連署の文書で同時に記された場合なら、このような形式の違いはみられないはずであり、詮久花押は大永4年ではなく、後に加えられた可能性が高い。永正11年生の詮久は大永4年の時点では11才である。またその花押は、経久の花押と本文の間に挟まれるように記されている。
 佐々木文書には、京極生観と政高が守護代尼子清貞や嫡子経久ら宛に出した文書が数多く含まれ、現存する東大史料編纂所架蔵影写本の「佐々木文書一」に収録されている。その中に、袖や奥の裏の継ぎ目に花押を記してあるものがある。『佐々木文書』ではそれを経久の花押とするが、同書00000058_4 では花押の違いにほとんど注意が払われておらず、多くは詮久の花押(上)で、一部が経久の花押(下)である。両者の花押の違いは、前述の大永4年の文書や、天文2年の日御崎社文書、同5年の山内家文書をみるとわかるが、右側の部分にある。
 そして00000065_4、経久が没してまもなく詮久は将軍義晴か ら諱を与えられ晴久と改名し、次いで花押が生前の経久のものと同じ形となる。その意味では継ぎ目の花押はともに詮久(晴久)のものである可能性も否定できないが、現時点では経久健在時に両者が花押を記したものである可能性が高い。経久から詮久に当主が交替する時点で文書の整理が行われ たのではないか。

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