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2010年6月

2010年6月28日 (月)

竹生島奉加帳にみえる尼子氏家臣(3)

 Dグループの隠岐氏、広田氏、馬田氏、湯氏、古志氏は出雲佐々木一族で、村井氏と若宮氏は京極氏とともに出雲国に入ってきた国人である。ここに、出雲佐々木氏の佐世氏がみえないのは不思議であるが、何らかの理由で没落し、それが後に富田衆として登場することになるのであろう。また、一時尼子国久が養子に入っていた吉田氏も佐々木氏一族の吉田氏であると思われるが、ここにはみえない。塩冶氏も興久の子彦四郎清久が一族衆に含まれ、Eグループに塩冶氏一族の上郷氏がみえるのみである。
  Eグループ冒頭の吉田兵庫助、母里土佐守、松田越前守は能義郡の国人である。吉田氏は母里氏とともに藤原姓で、出雲佐々木氏一族の吉田氏ではない。牛尾氏から佐々布氏までが島根郡と意宇郡の国人である。岩倉氏から赤穴氏までの概ね雲南(大原、仁多、飯石郡)の国人であるが、熊野氏(意宇郡)や宇津木氏(能義郡)が含まれる。
 Fグループは再び意宇郡の疋田氏に戻り、次いで意宇郡(忌部郷、熊野郷)から大原郡(牛尾庄)に所領を有した牛尾氏一族が続き、三刀屋氏まで雲南の国人である。最後の3人である野波氏、加賀氏(島根郡)と神西氏(神門郡)は補遺(落ち穂拾い)であろうか。
 Gグループの富田衆のうち、古志氏と疋田氏は出雲州衆に同族がみえた。富田城周辺の地名を苗字とする中で、高来氏、福頼氏、山佐氏(能義郡)は出雲佐々木氏一族の可能性が高い。この外に湯原氏(島根郡)、高尾氏(仁多郡)、宇山氏(大原郡、朝山氏一族)、池田氏(楯縫郡)、立原氏(大原郡)、今津氏(能義郡)がみえる。富田衆の多数派を占める在地名を名乗らない人々(河本氏、米原氏、中井氏、屋葺氏、安井氏、目賀田氏、山中氏、雑賀氏、亀井氏)は京極氏とともに出雲国内に入部した人々であろう。高橋氏は備中国から石見国へ所領を支配した一族である。森脇氏と横道氏も石見国の出身か。ここに多賀氏がみえないのは不思議であるが、塩冶興久の乱への与同により没落していたのであろう。

竹生島奉加帳にみえる尼子氏家臣(2)

 問題は以下の「出雲州衆」である。隠岐五郎右衛門尉以下先頭の10名は「源氏」という位置づけのようである【Dグループ】。これに対して11番目以降は地域性を加味して並べられているが、赤穴右京亮までと【Eグループ】、意宇郡内に拠点を持つ疋田長門守以降【Fグループ】に分かれる。最後に富田衆【Gグループ】が順不同に記されている。
 Dグループ2番目の「三沢三郎四郎」については比定がなされていない。「横田庄請之地知行」と注記される「三沢三郎左衛門尉(為幸)」との関係も不明であるが、本領である三沢郷を支配したのであろうか。塩冶興久の乱への与同により享禄4年には尼子氏が横田庄を攻撃し、惣領為国は富田庄に幽閉され、天文5年には殺害されたという。為国の嫡子次郎法士丸と三郎四郎も別人である。あるいは、為国の別の子であろうか。
 天文12年の大内氏退却後、三沢氏惣領左京亮が富田で殺害され、為幸の子で7歳の才童子丸が惣領となっている。天文9年の三郎四郎が「左京亮」(三沢氏惣領の官途)となったであろう。さしあたり、三沢氏では塩冶興久の乱後、本来の惣領家(為国-次郎法士丸)に代わってその弟三郎左衛門尉家と、三郎四郎家が横田庄(その多くは富田衆が支配)と三沢郷を分割して支配したと考えておきたい。(訂正)為国は横田庄を支配した一族で、系図で為国の兄弟としてみえる為永が三沢氏の惣領である。その子が三郎四郎である。
 3番目にみえるのは「馬来左衛門大夫」である。富田衆(Gグループ)4番目には「馬来宗三郎」がみえ、これが後の史料から「橘姓」であることは確実である。天文5年の岩屋寺快円記録には馬来出羽守とその子宗三郎がみえている。出羽守=左衛門大夫との想定も可能だが、馬来左衛門大夫=源氏であるから、同じ馬来氏といっても出雲州衆(源氏)と富田衆(橘氏)の馬来氏が存在したことになる。出雲州衆の馬来氏は系譜の伝えるように山名氏の一族であろうか。

竹生島奉加帳にみえる尼子氏家臣(1)

 竹生島奉加帳は、戦国大名尼子氏の家臣団構成を窺うことのできる重要な史料であるが、未だきちんとした分析がなされていない。それは関連史料がほとんどないためあるが、若干の分析を行ってみたい。
 最初に刑部少輔国久以下の尼子氏一族8名が署名し【Aグループ】、次いで「御一族衆」(宍道氏2名と鞍智氏)【Bグループ】、さらには「奉公の末」として朝山安芸守を記す【Cグループ】。御一族衆が尼子氏も属する出雲国守護京極氏の一族衆であることはすでに述べられてきた通りである。
 宍道八郎と九郎については井上氏により、惣領家と庶子家と評価された。宍道九郎については、これ以外には応仁2年の京極生観書状(尼子清貞宛)があるのみである。この書状について井上氏は宍道町史史料編で「宍道九郎が出雲国全体の政務を執っているとの噂があるが本当か、それは自分の関知せずこと」と訳され、『佐々木文書』では「(それを)事実かどうか問いただした」とされるが、いずれも踏み込みが不十分な解釈である。
 この書状は尼子清貞からの申し入れを受けた返書である。清貞側が自分は京極氏のため勲功を上げているにも関わらず、京極氏が宍道九郎に改成敗をさせるとの噂があるがどういうことかと申し入れたことに対する、苦しい言い逃れ(知らんぷり)であり、何とか清貞をなだめようとしているものである。宍道九郎は惣領八郎が京都にいたのに対して出雲国内の宍道氏を代表する立場にあったのだろう。そして宍道氏もまた京極氏方として国内での戦闘に当たっていたのである。天文9年段階の八郎と九郎については、天文3年段階の松千代(8才)と寅寿(6才)が元服したもの(14才と12才)であろう。
 朝山氏は出雲国在庁官人の筆頭の地位にあったが、南北朝期に将軍義満の近臣となり、室町以降はその活動と所領の中心は畿内へ移っていった。それが幕府衰退もあり、朝山安芸守利綱が15世紀末には同族の佐陀神主家を継承する形で出雲国に戻ってきた。利綱自身京都の白川神道家から朝山氏に養子に入っており、神主家の内情には通じていた。そして大永2年には利綱は尼子経久に対して、出雲大社三月会の史料を写して献上している。
 大永2年と4年後の6年には尼子氏は出雲大社での万部経読経と国外への軍事行動を行っている。そして3度目が享禄3年であったが、この時は経久の子興久が反乱を起こしたため、軍事行動は不可能となった。出雲大社の復興が軍事行動につながっていたことが注目される。

2010年6月24日 (木)

LIFE BOOK

 富士通はPCを従来ビジネス機で使用していた「LIFE BOOK」に一本化したようだが、オークションで旧LIFE BOOKを収集してしまったので、簡単に報告を。業者によっては安いが、時にOSのライセンスの問題がある。
 最初にE8280をGETした。箱や保証書はないが、その他の添付品はそろっており、新品同様であった。唯一残念だったのが、画面がWXGAであった点。新品の場合+5000円でWSXGA+となるが、オークションではそれ以上の価格差がある。まあ、WUXGA17インチの外付けモニターにつなげばよい。こちらは、XPのバックアップDVDもあり、VISTAもHDDからバックアップDVDが作成できた。
 よせばよいのに、C8250とA8255も入手。前者はXGAだが、キータッチがよい。外付けWUXGAモニターにも接続できる。XPのダウングレードモデルだが、DVDは添付なし。ビジネス機のリースアップであろうか。これも新品同然。後者は、XPとVISTAのDVDが添付されており、WSXGA+画面。若干の傷があるが、使用には差し支えなし。キーボードのタッチは3機とも違っている。自分にはC8250がよく、他はクリックした際の反発がやや弱い。
 C8250は分解し、CPUをM530からT7200に変更し、メモリーも手元にあったもので増設。A8255もキーボードのみ外してみるが、分解もできそう。E8280は、S8350と同様、裏面のフタをはずせば、簡単にCPU交換ができそう。とはいえ、現在のP8700(25W)で問題なしか。A8255はHDDのある部分が熱を持つ。以上参考までに。
 
 

2010年6月15日 (火)

尼子詮久の花押

 尼子晴久は天文10年に晴久と改名する以前は詮久と名乗っていた。その花押の初見は、大永4年3月5日の国造北島雅孝譲状の袖に祖父経久とともに記されているものである。ただ、この2つの花押は経久のものが花押のみであるのに対して、詮久は名前と花押を記している。両者連署の文書で同時に記された場合なら、このような形式の違いはみられないはずであり、詮久花押は大永4年ではなく、後に加えられた可能性が高い。永正11年生の詮久は大永4年の時点では11才である。またその花押は、経久の花押と本文の間に挟まれるように記されている。
 佐々木文書には、京極生観と政高が守護代尼子清貞や嫡子経久ら宛に出した文書が数多く含まれ、現存する東大史料編纂所架蔵影写本の「佐々木文書一」に収録されている。その中に、袖や奥の裏の継ぎ目に花押を記してあるものがある。『佐々木文書』ではそれを経久の花押とするが、同書00000058_4 では花押の違いにほとんど注意が払われておらず、多くは詮久の花押(上)で、一部が経久の花押(下)である。両者の花押の違いは、前述の大永4年の文書や、天文2年の日御崎社文書、同5年の山内家文書をみるとわかるが、右側の部分にある。
 そして00000065_4、経久が没してまもなく詮久は将軍義晴か ら諱を与えられ晴久と改名し、次いで花押が生前の経久のものと同じ形となる。その意味では継ぎ目の花押はともに詮久(晴久)のものである可能性も否定できないが、現時点では経久健在時に両者が花押を記したものである可能性が高い。経久から詮久に当主が交替する時点で文書の整理が行われ たのではないか。

2010年6月 7日 (月)

美保関舟役と尼子氏

 このことについて、錦織氏が美保関を中心とする山陰地域の水運について分析されたが、内容とともに、その命令が出された時点の情勢についても考える必要がある。
 文明2年4月26日には、隠岐国の廻船が美保関舟役を無沙汰することが問題となり、京極生観が若狭国小浜で課税するように答えている。この前日の23日に生観は、美保関代官職を失念して余人に与えたとしても尼子氏の権利を認めるとし、公用については納め次第沙汰するように命じている。そして26日には松田三河守による福浦・諸久江押領に関する生観の書状が出されている。これらのことからわかるのは、尼子氏が美保関を掌握し、舟役を徴収できる状況にはなく、それを打開するための小浜での課税であったことである。
 文明7年10月17日には、政高が雲州・隠州の美保関舟役について、これまで認めていた免許舟をすべて破棄したので、公用を徴収し無沙汰がないように尼子氏に命じている。破棄したのは7年の春でそれを清貞に伝えていたが、今回嫡子経久の上洛にともない、他の点とともに再確認したのである。舟役拒否の口実として免許舟であることが主張されたので、全面的に廃止したのだろう。これにより少なくとも小浜ですべての雲州・隠州舟から舟役を徴収できる。その一方で、同日には福浦・諸悔へ入部して沙汰するよう清貞に命じている。
 文明8年3月27日には政高が、松田三河守被官安来道□舟、隠岐舟、賀茂舟、重栖舟が公用を無沙汰したとの報告に対して、昨年免許船は廃止しているとして尼子氏に皆済を命じている。その一方で、3月29日には、2年前に小浜で課税したのに対して沙汰しなかった分について、当然課税すべきだが、尼子氏側からの要請を受けて免許することを政高が尼子清貞に伝えている。
 それに対して4月14日に松田三河守を背後に持つ能義郡土一揆が起こり、政高はすぐに17日には松田三河守跡安来地頭分を没収し被官人に配分するよう尼子氏に伝え、4月29日には福浦・諸悔、美保関代官職と舎人保半分を尼子氏に再安堵したのである。能義郡土一揆に関する史料も5月17日の政高感状を最後に残っておらず、所領問題が解決したことを示す史料も残されてはいないのである。そういう事態には発展しなかったのであろう。
 以上のことから、美保関での舟役徴収は困難であり、尼子氏が若狭国小浜で課税しようとしていることがわかる。美保関での課税は、隣接する福浦・諸久江の問題とからんで大変困難だったのである。

有力国人と守護代尼子氏(2)

 応仁元年に美保関から朝鮮国王へ遣使した人物に「松田備前太守藤原朝臣公順」と「左衛門大夫藤原朝臣盛政」がいるが、前者が松田備前守で後者が松田三河守(その後継者が宗政)であろう。どちらが惣領であるかは不明であるが、ともに安来庄、舎人保、美保関に権益を有していた。寛正5年には大西氏、下河原氏とともに段銭徴収に当たっていた備前守が西軍山名氏方となったのに対して、三河守は東軍京極氏方であった。備前守跡の所領をめぐっては尼子氏と松田三河守の間で激しい対立が起こった。京極氏は尼子氏への安堵を優先したが、実際に権益の確保は困難であった。
 三沢氏についても、尼子氏とともに守護権限を執行していたことのある三沢対馬守(為信)が応仁・文明の乱で反京極氏方となったのに対して、三沢信濃守為清は京極氏の求めに応じて早くから上京し、文明7年11月の近江国の合戦で討死している。系図によると両者の父は為忠で、永享8年の馬場八幡宮棟札に「源信濃守為忠」とみえるので、信濃守為清が惣領で、対馬守為信は庶子であろう。
 文明4年に出雲大社と日御崎社の紛争解決にあたることを命ぜられた国人の中に三沢氏がみえないのは、惣領が上京中であったためであろう。その子為忠は、寛正5年10月には日御崎検校又次郎の相続について確認した有力国人7人の中にみえている。文明8年には父為清討死の功により塩冶郷内荻原を京極氏から得、後に遠江守に任官している。

有力国人と守護代尼子氏(1)

 文明6年5月7日に、守護京極政高は松田三河守と尼子清貞に両者の間の紛争について、尼子氏の主張を認める書状を発した。すなわち、①松田氏に対しては、美保郷内福浦・諸久江と能義郡舎人保について、一旦は支配を安堵する奉行人奉書を遣わしたが、それを無効とし、干渉をやめ、別の子細があれば申し出るよう命じている。すなわち、松田氏が守護生観の判形を証拠として安堵を申請したので認めたが、尼子氏への安堵状には松田氏への安堵は誤りで破棄する旨が記されており、松田氏宛の生観判形は反古となっていたのであった。証拠として「生観判形の案文を遣わす」と記されている。
 一方、②尼子氏に対しては松田氏への命令の内容を伝えるとともに、所持する生観判形の案文を写して松田氏に遣わすよう命じている。これにより生観判形は京極氏側ではなく、尼子氏が残していたことがわかる。また、①②がともに尼子氏に渡され、尼子氏から松田氏に示されたことがわかる。ともに同日付の書状であり、尼子氏が②を読んで、①とともに生観判形案文を写して松田氏に遣わすことになるのである。文書の伝達の仕組みがこれによりよくわかる。
 松田氏への安堵を破棄した文書とは文明2年4月26日の生観書状であるが、これには舎人保のことは述べられていない。生観が尼子氏に舎人保を与えたのは応仁2年10月15日の書状である。舎人保の内、松田備前守買得分を清貞に与えている。そして文明8年4月29日の京極政高書状には、舎人保半分が生観判形にかかわらず松田三河守に押領されていると記されており、生観が清貞に与えたのは舎人保の半分であった。それでは残りの半分は誰が支配していたかとなるが、それは松田三河守が正当な権利(買得分)を持っていたのであろう。その上で松田氏は残り半分についても軍忠に基づき権利を主張し、生観と政高から一度は安堵状を獲得していたのである。生観が舎人保半分を松田氏に与えたのは尼子氏と同時期の応仁2年であろう。

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