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2010年6月28日 (月)

竹生島奉加帳にみえる尼子氏家臣(1)

 竹生島奉加帳は、戦国大名尼子氏の家臣団構成を窺うことのできる重要な史料であるが、未だきちんとした分析がなされていない。それは関連史料がほとんどないためあるが、若干の分析を行ってみたい。
 最初に刑部少輔国久以下の尼子氏一族8名が署名し【Aグループ】、次いで「御一族衆」(宍道氏2名と鞍智氏)【Bグループ】、さらには「奉公の末」として朝山安芸守を記す【Cグループ】。御一族衆が尼子氏も属する出雲国守護京極氏の一族衆であることはすでに述べられてきた通りである。
 宍道八郎と九郎については井上氏により、惣領家と庶子家と評価された。宍道九郎については、これ以外には応仁2年の京極生観書状(尼子清貞宛)があるのみである。この書状について井上氏は宍道町史史料編で「宍道九郎が出雲国全体の政務を執っているとの噂があるが本当か、それは自分の関知せずこと」と訳され、『佐々木文書』では「(それを)事実かどうか問いただした」とされるが、いずれも踏み込みが不十分な解釈である。
 この書状は尼子清貞からの申し入れを受けた返書である。清貞側が自分は京極氏のため勲功を上げているにも関わらず、京極氏が宍道九郎に改成敗をさせるとの噂があるがどういうことかと申し入れたことに対する、苦しい言い逃れ(知らんぷり)であり、何とか清貞をなだめようとしているものである。宍道九郎は惣領八郎が京都にいたのに対して出雲国内の宍道氏を代表する立場にあったのだろう。そして宍道氏もまた京極氏方として国内での戦闘に当たっていたのである。天文9年段階の八郎と九郎については、天文3年段階の松千代(8才)と寅寿(6才)が元服したもの(14才と12才)であろう。
 朝山氏は出雲国在庁官人の筆頭の地位にあったが、南北朝期に将軍義満の近臣となり、室町以降はその活動と所領の中心は畿内へ移っていった。それが幕府衰退もあり、朝山安芸守利綱が15世紀末には同族の佐陀神主家を継承する形で出雲国に戻ってきた。利綱自身京都の白川神道家から朝山氏に養子に入っており、神主家の内情には通じていた。そして大永2年には利綱は尼子経久に対して、出雲大社三月会の史料を写して献上している。
 大永2年と4年後の6年には尼子氏は出雲大社での万部経読経と国外への軍事行動を行っている。そして3度目が享禄3年であったが、この時は経久の子興久が反乱を起こしたため、軍事行動は不可能となった。出雲大社の復興が軍事行動につながっていたことが注目される。

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