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2010年5月 3日 (月)

山本閑休

 岸本は最初出雲市知井宮の山本閑休に儒学を学んだ。この閑休は当主の座を息子に譲った後、周辺の子弟を集めて学問を教えていたが、その一方で囲碁の家元井上家の門人で初段であった。この閑休が左一郎の才能を見出し、本格的な修業を勧めたのである。
 出雲市知井宮の山本家文書(現在は早稲田大学図書館所蔵)の中に閑休の関連資料が残されている。それによると、閑休は隠居後の名前で、本来の名は権市久明、知井宮山本家(本家中和久利屋)当主であった。宝暦2年(1762)に生まれ、寛政2年(1790)には神門郡与頭を務めている。天保二年(1831)には七十才(古希)の祝いを行っているが、その際の「山本権市久明七十賀祝文」が残されている。
  ○生質温潤柔にして幼年より文を学ひ、専ら圍碁・作諧に遊ふ。風雅の為に西は長崎、東は松嶋(岩手県)・  象潟(山形県)迄捜盡し、且圍碁は江戸四家の内井上家より初段の免許を受く。然ども倹を守り人を登し衣食  住に不足なし。之に依り上より奇特人と 御賞美を蒙ること度々也。
  (中略)
 ○十ヶ年以前嫡子に家も呼名も譲り、隠居して後は郡中にて名家の稚子を引受、数人ニ学父技芸を教へ、是を楽 として他事なし。
 天保2年の10年前の時点ですでに引退し、周辺地域の子弟の教育にあたっていたことがわかる。10年後の天保12年正月には八十の祝賀会もなされているが、その年の8月に死亡した。正月の祝賀の記録に「石州大森岸本左一郎」(家尊大人八十賀筵備忘録 天保十二年閏正月十六日)、葬式の記録に「大森美濃屋岸本左一郎」(亡父家尊大人葬式并梅香典到来留 天保十二年八月二十五日)がみえ、当時大森にいた左一郎が参会・参列したことがわかる。
 左一郎の死の前年安政4年2月には閑休十七回忌追善として、関係者による碁会が山本家で開催されている(徳軒閑休居士十七回忌追善 安政四年二月十三日)。そして5月初めには江戸から備後に帰省中の本因坊秀策を招いての碁会も催された。次いで5月15日から4日間、玉造温泉で秀策と山陰の人々の稽古碁も行われているが、いずれにも左一郎の名前はみえない。同年8月29日の秀策の書簡には、左一郎が尾道を訪れ稽古碁を打っていることが記されている。その書簡で秀策は、京都での稽古碁4局の棋譜を送るが、不出来であり左一郎へはみせないようにと、依頼している。当時の左一郎は各地に稽古碁に出掛けていたのであろう。

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