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2010年5月

2010年5月23日 (日)

尼子殿「御代官」について

 尼子清貞の関係文書の中に宛名を、①「尼子殿御代官」ないしは②「尼子刑部少輔殿御代官」と記したものがみられる。①は康正2年の出雲大社と日御崎社の境界をめぐる対立を解決せよとの守護奉行人奉書でみられ、『新修島根県史通史編』では、これを後に続いて記される「三沢対馬守」の修飾語と解して、三沢対馬守が尼子氏の代官となったことを示すとして解釈した(このような解釈は科研報告書『尼子氏の総合的研究』所収論文でもみられる)。
 ところが応仁・文明期の②の場合、後に続く人名がないため、そのような解釈が成り立たないことがわかる。そこで『佐々木文書』では尼子氏の代官宛の文書であると解釈している。しかし、『佐々木文書』に掲載された影写本の写真をみれば、「御代官」が尼子刑部少輔に付された注記であることが一目瞭然である。せっかく写真を掲載しながら、『佐々木文書』ではそれが活用されていないのである。それは京極政高の花押の変化に注目せず、年代比定が十分行われていないことも同様である。
 「御代官」と記すのは守護京極氏の発給文書ではなく、尼子氏宛の奉行人奉書の場合のみである。他の国人宛の奉行人奉書にはこのような付記はない。ここから奉行人が守護代宛であることを明記するため「御代官」と付記したものであることがわかる。三沢氏が尼子氏の代官となったとの解釈も成り立たなければ、尼子氏の代官宛の文書であるとの解釈も成り立たないのである。

尼子氏と美保関

 以下は、美保関の問題に絞って整理してみた。
  応仁2年12月29日以前、尼子氏から美保関代官職補任の申し出があり、京極氏が了承した。ところが他氏からの申し出もあり、文明2年4月には、尼子氏に余人に判形を遣わしたとしても知行するように命じている。同様に、同年4月以前には、二宮弾正忠に対して美保関内であることを知らずに所領を与えている。それが美保関内であり、且つ宝樹寺領であることがわかったことにより宝樹寺へ返すことを尼子氏に伝えている。同時に福浦・諸久江が美保関内であることを知らずに、松田三河守に与えたが、百姓からの申し立てにより尼子氏が美保関として一括して支配することを認めている。松田三河守も応仁2年以降の戦闘で京極氏方として勲功があったのだろう。同年には美保関での舟役の徴収についても問題となっている。
 次いで、文明6年5月以前には、松田氏からの生観時代の支証に基づき、福浦・諸久江と能義郡内舎人保を松田三河守に安堵している。この前年の文明5年2月には京極政高が京極氏領である法吉郷を書下で松田三河守に与えており、この時点で、行われた可能性が高い。これに対して尼子氏が異議申し立てを行うのは当然である。同6年5月7日には、松田氏への安堵を破棄し、尼子氏に安堵する文書(書状)を政高が出している。
 その後、近江国での合戦のため上洛した清貞の子経久に対して、同6年11月17日に、向こう5年間、美保関公用1万疋を減額することを政高が伝えている。その一方で、京極氏奉行人が11月29日には、押領している福浦・諸久江を尼子方に渡すよう松田三河守側に再度命じている。さらに文明7年10月には、政高が尼子清貞に対し、福浦・諸久江に入部するよう命じているが、実行は困難であったのだろう。もう一カ所の舎人保についても同様に松田三河守が押領していたようで、政高が出雲国に帰ってきた後の文明8年4月29日には、福浦・諸久江と舎人保について再度安堵するとともに、公用を納めるならば、美保関代官職に他人を補任することはないと、政高が清貞につたえている。尼子氏側も公用の内150貫文を先払いして、権益の確保に努めているが、それに対する政高の返書には、美保関が実際に尼子氏の手に入れば、今回の先納分をその一部に充てるが、確保できない場合は返却すると記されており、文書の形式の問題を抜きにしても、尼子氏は依然として美保関を確保していないことがわかる。

2010年5月15日 (土)

戦国大名尼子氏の成立(2)

 京極氏不在の中、京極氏の権益を尼子氏は浸食し、他の国人に対する優位を確立した。それを示すのが、延徳2年の経久画像とその賛であろう。ただ、幕府の反逆者であったため、国内での紛争解決命令が経久宛に出されることはなかった。ところが、明応8年には中央で失脚した京極政経が出雲国へ下向してきた。この段階で、権威はあっても権力のない政経と実力はあっても幕府の公認などの権威を必要とする経久の利害が一致し、両者の和解が成立したのであろう。同時期に経久は宍道氏との間に婚姻関係を結ぶことにも成功している。宍道氏もその活動の中心を京都から出雲国内に移しており、明応5年に、御料所朝山郷側に対する塩冶氏・古志氏・国造家の干渉を退けることを命じた幕府奉行人奉書の宛名に「佐々木完道兵部少輔」がみえている。
 この紛争は一旦は塩冶氏側が優位に立って朝山郷代官職を得たが、逆に尼子氏側からすれば出雲国西部に干渉する絶好の機会を得たことになり、これが永正2年の塩冶攻撃となり、この結果、塩冶氏とそれに与同した古志氏と国造家は大きなダメージを受け、多くの尼子氏家臣を伴った経久の子興久が養子として塩冶に入った。そして、永正5年に京極宗済政経が亡くなると、新しい出雲国の支配者であることを明確にするため、出雲大社造営を宣言したのである。
 残された課題は雲南の国人層であり、京極氏時代の関係の復活=前代の儀を要求するとともに、軍事活動を展開した。経久は同年9月には大原郡高麻要害(雲南市)に出張している。この永正5年は大内義興が入京し、将軍義稙を擁立した年であった。そうした中、永正10年には大原郡阿用城桜井氏との戦闘で、経久の嫡子政久が死亡している。諸家系図纂本佐々木系図には「大内合戦」の時としており、桜井氏の背後に大内氏がいた可能性がある。桜井氏は石見国桜井庄地頭土屋氏の一族が、同族の土屋氏が地頭であった大東の地を得たものであり、大内氏は何度か石見国守護にもなっている。また、国人が尼子氏の支配に抵抗するために大内氏と結ぶ可能性も高い。
 嫡子政久の死という大きな代償を払っての軍事活動であったが、大永初年までに、雲南の国人三沢氏、三刀屋氏、赤穴氏との間に主従関係を結ぶことに成功した。この段階で戦国大名尼子氏が成立したことになる。そして、大永2年2月に出雲大社前で万部経の読経を行った上で、国外への軍事活動を展開した。

戦国大名尼子氏の成立(1)

 応仁・文明の乱中の合戦と言っても応仁2年から文明元年にかけてのものと、文明8年の能義郡土一揆は性格が異なる。前者は伯耆国山名氏を巻き込んでの応仁・文明の乱の出雲国版であったろうが、後者は国人と京極氏の対立である。同様の事件は文明2年にもみられたが、この時は京極氏の指示を受けた尼子清貞が押さえ込んだ。ところが、これまで述べてきたように、文明8年は押さえ込むに至らず、両者の間で妥協が成立した可能性が強い。
 その結果、尼子清貞は引退に追い込まれ、嫡子経久が継承したが、京極氏から恩賞として認められた所領は、通説のように多くはなかった。尼子氏側としては京極氏側に立つことにより所領の確保を図ったが、十分な成果を得ることができなかった。その結果、経久が選択した路線は、(この時点では出雲国東部の)国人側に立ち、寺社本所領を押領し、段銭を懈怠することであった。 
 守護京極政経の立場は微妙である。11月3日の牛尾氏宛書状では、幕府からの追討命令には全く触れず(そのため、文明15年のものである可能性がある)、松井氏所領を押領せんとする経久を抑えるために出陣して、松井氏に合力せよと述べている。松井氏領生馬郷について述べたが、能義郡内松井庄もその所領である可能性が高い。軍記物のいう、富田城周辺の所領を押領したことにあたろうか。
 それに対して政経は出雲国中部から西部の国人に経久の排除を命令したのだろう。国人にも経久と利害の一致する点と対立する点があり、幕府からの追討命令も出ているのである。その時期は、文明16年8月に三沢氏が隠岐国笠置氏へ与えた感状と10月に京極政経が日御崎社に出東郡宇屋新宮を寄進していることからすると、同年8月以前であろう。
 一旦は守護代を替えることに成功した守護政経であったが、1年半ほど立った段階で経久と東部の国人による反撃を受け、出雲国から上洛したのだろう。経久の守護への反逆としては文明18年正月の富田城奪回ではなく、文明8年の結果を受けた経久の転換が重要である。そこでは松田氏との連携もあったであろう。

2010年5月 9日 (日)

戦国期の出雲松田氏

 応仁・文明の乱と尼子氏の問題を考える際に重要となるのが松田氏である。軍記物は応仁・文明の乱については全く言及しない。そして、毛利氏の出雲国攻め以降は松田氏に関する記述が増えるが、それ以前において、松田氏はほとんど登場しない。
 元亀2年(1571)3月の尼子勝久袖判奉行人連署下知状は、松田氏領を従来支配していた本領と新給分に分けて記している。前者についてみると、島根郡(生馬・比津・法吉・西之村・市成村・末次之内森分)、秋鹿郡(伊野)、楯縫郡(小境)という宍道湖・大橋川の北岸の所領と、安来地頭分と隠岐国賀茂からなる。併せて島根三郡奉行(前記の3郡であろう)でもあった。新給分は、全く新たな所領と、本領(安来地頭分・法吉・末次)の中で一部が他氏に与えられていたものを返すものからなる。その中に松田氏本領である末次の4分1を与えられていた孫三郎殿と、御在陣・御在番の時、誠保と同前の扱いとされた三郎次郎殿が注目される。この二人の人物も松田氏一族の可能性が高いが、この時点では勝久方となってはいなかったのだろう。当然のことながら、松田氏も複数の家が存在していたはずである。
 出雲松田氏については独自の系譜類もほとんど残っていないが、誠保は尼子政久女子を妻としていたとされる(米原氏、岡崎氏)。尼子氏に近い立場であったといえるが、その意味で、竹生島奉加帳にみえる出雲州衆松田越前守が注目される。この人物は安芸国吉田攻めの際には先遣隊として吉川氏などと連絡をとりながら毛利方と戦っており、その名「経通」からも、尼子経久との強い関係が推定される。出雲州衆でありながら、富田衆の有力者湯原幸清と同様の活動を行っているのである。
 ただ、このような状況が長谷川氏の説かれるように応仁・文明の乱の結果であるとみるのは早計である。松田三河守の後継者として、大永4年(1524)に宮内少輔に任官している藤原宗政に注目しなければならない。この人物はこの時点で、鎌倉期の安来庄地頭補任に関する文書も保持していたのである。安来庄地頭職が松田氏から尼子氏へ交替した場合、文書も尼子氏方に渡されるはずであり、宗政はこの時点で安来庄地頭で法吉郷も支配していたことになる。
 後に関係文書を入手した日御崎社では、宗政を日御崎社検校としてその権威付けに利用し、松田有基が「安来」庄地頭職を安堵された文書を、日御崎社が権利を主張する「大野」庄地頭職の安堵の文書に利用し、「藤原」有基を「日置」有基と改変している。松田氏と日御崎社が後に何らかの関係を持ったことにより、文書を入手したのだろう。
 ともあれ、同時期の出雲国の国人で「~少輔」への任官が確認できるのは、尼子氏(経久・政久・国久・興久)と塩冶氏(宮内少輔)・宍道氏(兵部少輔)であり、松田宗政の政治的地位の高さがわかる。この宗政と経通との間に、松田氏と尼子氏との関係が変化した可能性が高い。

2010年5月 8日 (土)

奪われた文書

 佐々木文書中に、「文明4年8月但馬国綱懸津で敵方に取られた」との裏書きのある3通の文書がある。この時点で尼子清貞が所領問題をかかえ、自己の正当性を主張するために、申状とともに証拠文書の正文を京都へ送ったのだろうが、競合する相手によって奪われた。奪ったのは応仁・文明の乱の敵方山名氏ではなく、競合する相手であろう。
 文明4年には出雲国内での戦闘は確認できない。前年の3年閏8月に政高が出雲国守護に補任され、その直前には伯耆国の軍が出雲国に攻め込み、尼子清貞が撃退している。また、同年11月には中須郷領家分をめぐる問題も発生している。このような状況の中、清貞は、今回の勲功により、過去の文書(政高書状)に基づく権益の確保=守護書下の発給を求めたのだろう。
 3通とは、美保関代官職と竹矢郷に関わる文明2年の文書と、応仁2年に春日城を責め落としたことに対して恩賞を与えることを約束した文書で、いずれも守護生観から尼子清貞に宛てたものである。これにより、美保関代官職と竹矢郷はこの時点で競合者が存在し、清貞が確保していたわけではないことが判明する。清貞だけでなく、他の出雲国人も同様に守護への働きかけをしていたと思われ、文明5年2月には政高書下により、松田三河守が法吉郷を与えられているのが、その一例であろう。文書は残っていないが、松田備前守が西軍山名方であったのに対して、三河守は、恩賞を与えられるほどに積極的な意味で京極方であったのだろう。

応仁・文明の乱で尼子氏が得た所領

 すでにみたように、京極氏が尼子氏に出した文書に登場する所領は、一方で他の国人にも安堵したケースが多く、最終的に尼子氏がどの所領を得たかが問題となる。尼子氏の立場からすると途中経過のものであろうと、後で役に立ちそうな文書は保存するのである。松田氏の場合も生観によって後に否定(反古に)された安堵状をとっておいて、新守護政経に提示し、一旦は安堵状を受けることに成功している。
 その意味からすると、最終の文明11年(1479)8月の政経書下で認められた①能義郡利弘跡(上洛中の文明6年11月にも経久が政高書下で当知行を安堵されている)、②同郡下今津、③意宇郡阿陀加江跡半分・竹内分等のみで、その他の所領は途中経過では認められたことがあるが、最終的には獲得できなかったことになる。ただ、④美保関代官職と⑤安来領家分代官職については、守護領の代官職を一時的に任せられたものであり、他の所領と同一には論じられないが、得たにしても一時的なものである。従来の研究では松田備前守跡である⑤を得たとの理解が一般的かもしれないが、⑤は元々京極氏領であったか、可能性は低いが、松田備前守跡を没収して京極氏領としたものであり、尼子氏に与えられたものではない。
 ⑥文明8年の一揆の際に与えられた松田三河守跡安来地頭分については、尼子勝久が元亀2年(1571)に松田誠保に安堵した所領に、法吉(京極氏から獲得した「御本領」)とともにみえるので、尼子氏は最終的には獲得できなかったことになる。ただ、京極氏・尼子氏と松田氏を中心とする一揆の間でどのような形で美保関など競合する所領・権益の線引きがされたのかは不明である。また、結果として京極氏領は後に尼子氏によって継承され、尼子氏が他の国人に対して優位に立つこととなった。

2通の幕府奉行人奉書

 文明14年(1482)12月19日、幕府は2通の奉行人奉書を出雲国に発した。一通は、出雲・隠岐国の段銭の免除を破棄するので、永享年中の例に任せて国人に懸沙汰し、諸役を勤めることと、難渋する者は処罰するよう出雲国守護京極政経(政高が改名)に命じたものである。同日付で守護代尼子経久にも伝えているが、守護宛が正規の形式であるのに対して、経久宛は略式のもの(付年号・切紙で、官職ではなく名前を記す)である。これが守護と守護代の差であろう。
 もうひとつ注目すべきは、2通とも残っているのは写であること。『佐々木文書』・『出雲尼子史料集』とも「案」とするが、16世紀初めになって写されたものであり、「写」とすべきである。京極氏宛の文書はすべて同様で、原本は京極氏の後継者に受け継がれ、守護代尼子氏はその写を作成して保存したのだろう。
  問題なのは政経宛だけでなく経久宛も写である点である。2通とも京極氏に渡され、京極氏は経久宛については案文を作成して尼子氏に提示したはずである。現在残っているものが尼子氏のもとに残った案文の写か、京極氏のもとに残った原本の写であるかが問題であるが、文書発給のシステムからすると、後者であろう。尼子氏がこれを残す必要はなく、京極氏がセットで残し、後に尼子氏が写したものであろう。尼子氏宛でありながら写である理由は以上のとおりであろう。

2010年5月 5日 (水)

中世の美保関(4)

 以上のように隠岐国は出雲国以上に守護領の比率が高かったと思われる。京極氏は領国の舟に対して美保関役を賦課したが、守護領の舟については役を免除したのではないか。美保関の代官となった尼子清貞は、5年間公用1万疋を免除された後には、5万疋を納める代わりに所領(多久和郷の代わりの闕所)を与えられることになっていた。事実上の得分であろう。これに対して前任の松田氏やその他の守護領の代官は守護領のみならず自己の所領の美保関役をも免除され、さらに水運との関わりを強めたのではないか。
 京極氏の隠岐国支配、とりわけ経済的支配にとって美保関が重要な位置を占めたのは間違いなかろう。とはいえ、具体的史料を欠くが、美保関の公的関としての側面と、それに関わる経済的・軍事的側面も無視できないのではないか。
  隠岐国と出雲国など他地域との関係(交易)は、隠岐国の海産物が他国に運ばれるという関係だけではなく、相互的なものであった。隠岐国重栖庄は摂関家渡庄の一つで、鎌倉末期には守護佐々木氏の一族重栖氏が支配し、その支配は南北朝・室町期以降も続いている。その年貢は、やはり渡庄である富田庄と同様、鉄であった。隠岐国における鉄生産については不明であるが、出雲国などとの交易を前提とする鉄の賦課であった可能性が高い。
 近世初頭の堀尾期には畿内の皮革製造業者が隠岐国を訪れ、一定量の牛皮を毎年購入する契約を結んでいる。そのため村々には牛革役が賦課されている。また近世の隠岐は日本海水運が発展する中、出雲国以上の人口増加がみられた。その一方で、隠岐国の特色である牛馬については、頭数が減少した。隠岐国の人々が水運や流通に関わっており、牛馬以外の収入源が増加したため、結果として牛馬への依存度が低下したのであろう。隠岐国についてはなお検討すべき点があろうが、流刑地、海産物の生産地という側面以外も忘れてはならない。

中世の美保関(3)

 錦織勤氏が、美保関は日本海水運の要地というよりも、隠岐国との関係で重要であると主張された。具体的には隠岐国の海産物が小浜など各地に運ばれたが、その舟に京極氏が美保関舟役を課したというのである。
 隠岐国は鎌倉初期には佐々木定綱が一国地頭職となったことが知られるが、それ以後も庄郷地頭職の過半を守護、それも隠岐国守護を兼帯する出雲国守護が支配していた。守護京極氏は領国の出雲・隠岐国の舟と港に対して課税権を有していたと思われる。
 隠岐国について重要なのは、鎌倉後期までにその所領の多数が守護の支配下となったことである。一方、庄園の設定も早くから行われており、離島とのイメージは一面的である。知布利庄は12世紀初めまでには成立し、後には近衛家領となった。重栖庄は摂籙渡庄としてみえる。佐々木泰清の孫宗茂が「重栖氏」を称しており、鎌倉末までには佐々木氏領となった。村庄は山門領であるが、これも泰清の兄政義の子義明が村氏を称しており、鎌倉前半には佐々木氏領であったことが確認できる。那具村については、応永2年に桃井詮信が京極高詮に売却しているが、佐々木泰清の子が桃井頼直と結婚しており、佐々木氏領をへて桃井氏が継承した可能性が高い。この外に、後鳥羽上皇が配流された段階の海士、後醍醐天皇時代の西郷も守護領であった可能性が高い。さらに兄時清に代わって隠岐国守護となった高岡宗泰も隠岐国内の地頭であった可能性が高い。この外に平家領であった犬来・宇賀牧も注目される。
 南北朝期以後に守護ないしは佐々木氏領と確認できるものも多い。塩冶高貞の兄弟顕清は別府(島前)氏を称し、幕府滅亡時の隠岐国守護清高の兄弟清顕が都万(島後)氏を称している。また、貞和3年には古志氏惣領宗綱が山田別府(島後)地頭であった。さらには貞治4年の隠岐国守護佐々木直貞は富田秀貞の子であった。その後山名氏の支配を経て、明徳の乱後は京極氏が守護となった。

中世の美保関(2)

 文明8年(1476)段階でなお、尼子氏が美保関を掌握していなかったことを明らかにしたが、では、美保関は誰か支配していたのだろうか、松田氏であろうか。以前は、幕府御料所とされ、近年は守護京極氏領とされる美保関(美保郷東分。南北朝期以降、西分は独立した所領となる)であるが、注意すべきは、美保関は公の関所であったことである(蔵人所牒)。また忘れてはならないのは、京極氏の支配権は地頭職に関わるものであり、国衙ないしは庄園領主に関わる支配権が存在したということである。
 元応元年(1319)閏7月、出雲国雑掌重氏が塩冶、古曽石、美保、生馬郷等の下地と年貢について訴え、幕府が守護佐々木貞清に代官を差進めて説明せよと命じている。当時4ヶ所はいずれも守護佐々木氏が地頭となっていたのである。これに対して知行国主左大臣家(洞院実泰)側が訴えたのである。
 美保関の公用としては、田数34町(文永8年)に対する①年貢の外に、②関所ないしは港にかかわる税があったと思われる。また、守護領であったため、別に③領国である隠岐国と出雲国の船に対して課税することが可能であった。守護京極氏の代官尼子氏のもとで問題となった出雲国・隠岐国の舟役は③であろう。
 美保関代官職をめぐり尼子氏と松田氏の間で対立があったが、代官が誰であろうと関銭、舟役、年貢を徴収する体制は存在したのである。

中世の美保関(1)

 美保関を中世山陰水運の中心とする井上氏の見解に対して、錦織勤氏は、美保関の重要性は隠岐から各地に向かう船の中継地であった点にあるとされた。また、北陸に比べて16世紀以前の山陰の重要性は低かったことも併せて述べられた。錦織勤氏の論考に導かれながら、この問題について再検討してみたい。
  美保関は山陰の重要な関所なである(蔵人所蝶)とともに、廻船式目にはみえないが、朝鮮国でも知られていた重要な港であったことは間違いない。
 美保関を含む美保郷は承久の乱以降は出雲国守護佐々木氏の所領となり、以下のように一族で分割相続された。
 ①泰清の孫扶清(茂清子)が「南浦氏」を名乗っている。
 ②茂清の子を母とする沙弥覚照(美作国守護富田秀貞の守護代高泰)が、出雲大社三月会の頭役負担を求められた際に、南浦・七類・片江は自己の所領でないので直接催促することを求めている。
 ③美保郷内の美保関を含む中心部分は泰清の後継者(当初は時清、後に頼泰か)に譲ら れた可能性が高い。
問題は南浦がどこかということだが、北浦に対する地名であり、実際の地形からすると現在の下宇部尾ではないか。美保郷は、美保関・福浦・諸喰の東部(塩冶氏)と片江・七類・北浦・南浦の西部(南浦氏)に分割して譲られたと思われる。次いで南北朝の動乱の中で、東部を羽田井高泰が支配したことがあったが、後に反幕府方となって没落し、その跡は新守護京極氏の支配するところとなった。また、応仁の乱の直前には安来庄地頭松田氏を美保郷の代官となっており、朝鮮国王にも使節を派遣していた。

能義郡土一揆後の出雲国(2)

 文明11年(1479)に佐波氏が守護に降参したとは山科家領をめぐる問題であった可能性が高い。そしてそれからまもなく守護被官人による押領が起きているのである。幕府がその排除を佐波氏に命じているのは、実態を知らないからであろうか。一方、経久がみえないのは、守護被官人の背後に経久がいたのであろう。
 以上、文明8年(1476)以降の出雲国の政治情勢について考えてみた。能義郡土一揆は早期に収拾された可能性が高いが、その一方で、守護(権威)在国にかかわらず、実力(在地)による庄園支配の侵略が進んでおり、従来は権威のもとで美保関などの権益を確保せんとした尼子氏も、しだいにその軸足を在地に移していったのではないか。文明14年(1482)12月の守護政経に対して段銭免除の破棄と懸沙汰を命じた幕府奉行人奉書と、同16年3月の寺社本所領押領と段銭難渋による経久退治を命ずる同奉書が出される背景には上記のような事態が進行していたと考えられる。
 何度か引用した岡崎英雄氏の説の内、「土一揆と経久の合流」については、その表現が適切かどうかは検討の余地があるが、概ね事態の本質をとらえていたと考えてよいのではないか。すなわち、文明8年の能義郡土一揆を契機に経久(京極政経とともに出雲国に帰国)は、父清貞の路線を転換し、権威から在地へ軸足を転換したのではないか。その背景には、「権威と在地」で紹介した文明5年から8年にみられた在地による所領押領事件も影響している。押領の対象は寺社・本所領に限らず、「不在の領主」すべてであった。従来、応仁・文明の乱における守護代尼子氏と国人間の戦闘にのみスポットライトが当たっていたが、その一方で在地による権威の浸食が進んでいたことを併せて考えなければ、この時期の本質をつかむことはできない。
 「在地」の波の中に一人たたずむ「権威」=守護政経もその動きを押しとどめることはできず、一旦は幕府の命令を受ける形で、自らが認めた松井氏領を押領せんとする経久を排除はしたが、結局文明18年には在地(出雲国)を離れて権威が通用する都へ上洛した。幕府の立場(権威)からすると尼子経久は排除され、以後しばらく幕府の命令・伝達の対象から除外されるが、実際の経久はその勢力の大半を維持していたと考えられる。軍記物が経久追討に参加したとしてあげるのは主に出雲国西部と南部の国人であったが、文明16年に経久に合力したとして非難された佐波氏は含まれていない。そして「赤穴郡連置文」が君谷陣として「雲州しゆことことく京極殿をそむき申」との事態はその後の状況を意味するのではないか。

能義郡土一揆後の出雲国(1)

 文明8年(1476)6月に三沢為忠が、神門郡荻原村内田1町、屋敷1所を日御崎社に寄進しているが、「在所牛尾田也」と注記がされている。それは、同地が寛正5年6月には、牛尾忠実によって日御崎社に寄進されているからである。同地は父信実から譲られたとする。信実が寄進し、それを相続した忠実が確認したものであろう。ただ、三沢氏の場合と違うのは、京極持清が安堵を行っていることである。
 同地の支配者が牛尾氏から三沢氏に替わっただけとの理解も可能だが、牛尾氏が萩原を支配する京極氏のもとで同地の支配を認められていたのに対して、三沢氏は京極氏から萩原全体を与えられ、その中の同地について寄進したのではないか。というのは前年10月の近江国の合戦で、三沢為忠の父為清が打死しており、その恩賞として荻原を得た可能性が高いのである。
 前月の5月には、東部の能義郡で土一揆(国一揆)と京極氏・尼子氏の戦闘が続いていたが、この寄進状からは、そのような緊張感は全く伺われない。文明8年から9年にかけては、塩冶貞綱をはじめ有力国人から日御崎社への所領寄進が続いている。そこからすると、一揆と京極氏との間で和解(妥協)が成立したのではないか。
 しかし、守護京極氏が在国しているにもかかわらず、国内が安定していたわけではなく文明11年(1479)8月には佐波氏が京極氏に降参したとの情報が中央にもたらされている。文明4年(1472)、出雲大社領半分の支配権の回復を幕府から認められた山科家は、佐波氏を代官に補任している。ところが文明13年(1481)には守護被官人三沢氏と下河原氏がこれを押領したとして、幕府はその排除を守護政経と佐波氏に命令じている。守護代尼子経久の名がみえないのも不可解であるが、この段階でなお佐波氏が代官であれば訴えた当事者であり、幕府の命令の対象とならない。佐波氏が代官であることは文明9年(1477)までは確認できるが、その後、年貢未進などの問題が発生し、代官を解任され、守護によって排除されたのではないか。

2010年5月 4日 (火)

先入観と論証(2)

 ところが、高忠書状では御屋形=孫童子様とある。そして幼少であり、御代官が決まれば知らせるとともに、感状を出すと述べている。文明元年段階では御屋形生観は健在であり、これに神西での合戦を加えれば、高忠書状が文明2年であることは明白であろう。自分も最初にみた際(20年以上前)からそのように理解していた。ところが、最近の『出雲尼子氏史料集』や『湖陵町誌』でも文明元年との説が継承されており不思議な感じがした。高忠書状の3日後の政高の感状こそ、孫童子の代官が決定したことを受けて発給されたものであろう。
 政高の花押の変化について述べた(応仁・文明期の佐々木家文書)。政高は文明4年11月に日御崎社検校を安堵し、文明5年2月には松田三河守に料所である法吉郷を計らっているが、その花押はⅠである。これが文明6年にはⅡ型に変化している。政高の文書は赤穴氏宛のものが年未詳で残っている(『萩閥』中川の番号を記す)。①6月29日(66号)、②4月26日(69号)、③7月13日(70号)、④11月10日(71号)の4通である。花押をみると、①②はⅢ、③はⅡである。④はその中間的形で微妙であるが、文明7年10月に近江国の合戦で打死した三沢信濃守が登場するので、Ⅱで文明6年のものとなる。①②は政高が出雲国に戻る以前のものなので文明7年のものとなる。これを佐々木家文書の政高花押と年次順に並べても矛盾はみられない。『出雲尼子氏史料集』では巻末に花押一覧を掲載しながらも、花押の変化について注目されていなかったが、どのような理由があったのであろう。

先入観と論証(1)

 先入観と言えば、プラトンの洞窟の比喩、さらにはベーコンの劇場のイドラなどが連想されるが、なかなかそれを排除して史料をみるのは難しい。特定のテーマについて研究する際には、先行研究の整理が不可欠であるが、時にそれにとらわれてしまうこともある。逆に研究先行研究を知らずに史料を読んだがために、先行研究の誤りに気づくこともある。
 論文を読んでいて、その結論の根拠がよくわからないことがある。自分の場合はそれが研究のスタートとなる。多くの場合は問題なしとなるが、時に先行研究の誤りに気づき、そこからさらに研究が深まっていくこともある。
 以前、山名時氏が隠岐国守護であると評価された史料があった(北島文書)。佐藤進一氏も少し疑問を持たれたが、花押を確認してその説を継承された(『室町幕府守護制度の研究』下)。ただ、自分としてはその文書形式が直書でなく奉書であること、さらには、発給者が時氏なら「前伊豆守」なのに、その文書は「伊豆守」となっていたので、納得できず、花押とととも当時の幕府発給文書を調べた。そうすると「伊豆守」が上杉重能であり、文書が引付頭人奉書であることが確認できた。時氏の花押と似てなくもないが、重能の花押そのものであった。
 出雲国における応仁・文明の乱の合戦として、神西における合戦がある。文明2年12月13日に未だ守護ではない政高が尼子清貞に被官36人が死亡し、負傷者が出たとして感状を発給している(42号)。一方、年未詳で12月10日に京極氏側近多賀高忠が赤穴氏に対して送った書状が残されている(31号、中川四郎氏所蔵文書、『萩閥』中川では68号)が、ここにも神西城で合戦があり、11月4日の赤穴氏の忠節の報告と尼子清貞の添状により、「御同名」と「御被官」数十人が打死したとする。「御」とあるので、赤穴氏ではなく、尼子氏の一族・被官であろうか。『萩閥』が活字化された段階でこの文書は文明元年に比定されている。

2010年5月 3日 (月)

山本閑休

 岸本は最初出雲市知井宮の山本閑休に儒学を学んだ。この閑休は当主の座を息子に譲った後、周辺の子弟を集めて学問を教えていたが、その一方で囲碁の家元井上家の門人で初段であった。この閑休が左一郎の才能を見出し、本格的な修業を勧めたのである。
 出雲市知井宮の山本家文書(現在は早稲田大学図書館所蔵)の中に閑休の関連資料が残されている。それによると、閑休は隠居後の名前で、本来の名は権市久明、知井宮山本家(本家中和久利屋)当主であった。宝暦2年(1762)に生まれ、寛政2年(1790)には神門郡与頭を務めている。天保二年(1831)には七十才(古希)の祝いを行っているが、その際の「山本権市久明七十賀祝文」が残されている。
  ○生質温潤柔にして幼年より文を学ひ、専ら圍碁・作諧に遊ふ。風雅の為に西は長崎、東は松嶋(岩手県)・  象潟(山形県)迄捜盡し、且圍碁は江戸四家の内井上家より初段の免許を受く。然ども倹を守り人を登し衣食  住に不足なし。之に依り上より奇特人と 御賞美を蒙ること度々也。
  (中略)
 ○十ヶ年以前嫡子に家も呼名も譲り、隠居して後は郡中にて名家の稚子を引受、数人ニ学父技芸を教へ、是を楽 として他事なし。
 天保2年の10年前の時点ですでに引退し、周辺地域の子弟の教育にあたっていたことがわかる。10年後の天保12年正月には八十の祝賀会もなされているが、その年の8月に死亡した。正月の祝賀の記録に「石州大森岸本左一郎」(家尊大人八十賀筵備忘録 天保十二年閏正月十六日)、葬式の記録に「大森美濃屋岸本左一郎」(亡父家尊大人葬式并梅香典到来留 天保十二年八月二十五日)がみえ、当時大森にいた左一郎が参会・参列したことがわかる。
 左一郎の死の前年安政4年2月には閑休十七回忌追善として、関係者による碁会が山本家で開催されている(徳軒閑休居士十七回忌追善 安政四年二月十三日)。そして5月初めには江戸から備後に帰省中の本因坊秀策を招いての碁会も催された。次いで5月15日から4日間、玉造温泉で秀策と山陰の人々の稽古碁も行われているが、いずれにも左一郎の名前はみえない。同年8月29日の秀策の書簡には、左一郎が尾道を訪れ稽古碁を打っていることが記されている。その書簡で秀策は、京都での稽古碁4局の棋譜を送るが、不出来であり左一郎へはみせないようにと、依頼している。当時の左一郎は各地に稽古碁に出掛けていたのであろう。

嘉永3年の秀策来臨

 さよふけて嶋音もさむし水鳥の 拂ふ翅に霜やおくらん   秀策
林晩翠先生に別る々ときよみておくる  左一郎
 わかるれとまた逢ふ(こ)ともあるへきお と々めかたきはなミた成けり
秀策の歌については前にも紹介した。その大浦(大田市)林家の日記に記された左一郎の歌を引用した。ともに囲碁の傍らで儒学を学んでおり教養人であったことがわかる。
 当時の日付をグレゴリウス暦に換算すると、嘉永3年8月26日が1850年10月1日となる。秋半ばであるが「さむし」、「霜」という語からすると初冬を連想させる。そこで石見国邑智郡の医師が記した「尾氏春秋」をみると、嘉永3年8月7日に前代未聞の大風が吹き、雨も降って大きな被害が出たことが記されている。季節はずれの台風であろう。米が不作で気温も低かったのだろうか、各地で米価が高騰し、人々が米屋に押しかけるという状況が、8月中旬に石見国や安芸国でみられたことがわかる。
 なにより、隣国出雲国では、嘉永3年の藩の収納高は、天保の大飢饉の底であった天保7年の25万8千俵を下回る22万7千俵であった。そして明治2年はさらに少ない19万2千俵余だった。

天地明察

 本屋大賞受賞のニュースを聞くまで『天地明察』については何も知らなかったというのが正直なところだが、1998年刊の高校生向けのふるさと読本で、本因坊道策について書いた。関係者の誰も道策については知らず、なぜこのような人を扱うのかと聞かれたが、原稿を見て納得。雪舟、人麻呂(この二人と道策を石見三聖人と呼んだ)、ラフカデォ・ハーンなどの他の有名な人物よりも多くのスペースを使って、囲碁と道策について述べた。
 興味を持てるようコラムを入れて欲しいとの要望があったので、「波乱の大会」(1978年に出雲高校が高校囲碁選手権で優勝)とともに、安井算哲のことを書いた。以下はその内容を引用。
(貞享暦と安井算哲)
 高校の日本史教科書には、日本で初めて制定された独自の暦として貞享暦が記されています。これを作成したのは幕府天文方の安井算哲で、中国の元の時代の暦に基づきながら修正して作ったとされます。ところが、安井算哲には渋川春海というもう一つの名前があり、教える教員や勉強する生徒を悩ませています。どちらか一方にしてほしいところですが、囲碁家元で名人・碁所にもなった安井算知の子として生まれた「算哲」が、囲碁を引退して天文方となった時の名前が「春海」なのです。1639年に生まれた算哲は父算知にならい名人・碁所を目指しましたが、その前に大きく立ちはだかったのが道策でした。力戦主体の安井流を学んだ算哲は、より柔軟な道策にまったく歯がたちませんでした。そこで、天文学も学んでいた算哲は、道策との対局で、宇宙の中心は、碁盤では中央の星=天元であるという確信(あるいはヤケクソ?)から、初手を天元に打つという奇策に出ました。その際の棋譜が現在も途中まで残されていますが、算哲に勝利の女神は微笑まなかったようです。道策は算哲を7段と認定していますので、両者の間には2子の差があったわけです。そうしたわけで安井算哲は囲碁から引退し、天文方としての仕事に専念したわけで、その結果が、貞享暦の作成であったわけです。将来的にはわかりませんが、現在の学校教育の世界では、安井算哲の方が、道策よりも有名なわけです。
 本に登場する和算の大成者関孝和についても関心があった。小説家のセンスがあれば‥‥。

応仁の乱と出雲国(補)

 従来の研究では、応仁の乱における軍事的活動を通じて、守護代尼子清貞は、能義郡内の所領や美保関、さらには守護京極氏の拠点ともいうべき竹矢郷を獲得したとされた。米原正義氏の表現を借りるなら、文明8年段階で尼子氏は出雲国東部を手に入れ、美保関も実質的に自己のものとした(1万疋はおろか、より多くの公用銭を懈怠しはじめた)ということになる。ところが、これまで見てきた史料は、一番肝心な(能義郡土一揆が勃発した)ところで終わってしまっており、美保関公用銭に関する米原氏『出雲尼子一族』の説明は誤りである。未だ尼子氏は美保関を安定的に確保してはいないのである。(この本自体は、初版が1967年に出版されたことを考えると、大変すぐれたもので、軍記物に頼るという問題点はあるが、全体への目配り・バランスにおいてこの通史を越えるものは未だ出ていない)。
 本来なら清貞の後継者経久は、父が認められた所領を、再度京極政高から安堵されるはずであるが、その史料はごく一部しか残っていない。文明16年11月に経久は、政経(政高)の命を承けた牛尾氏などにより追討され、守護代を解任されたという(85号)。それによると、経久が松井若狭守の所領を押領しようとしたことが原因であった。
 松井氏領といえば、応仁2年10月に守護生観が清貞に与え、文明6年11月に政高が再安堵した生馬郷がある。松井氏が応仁の乱で謀反人に同意し逐電したため、恩賞として清貞が得たものである。これに対して、同様に闕所となっていた能義郡比田山の場合、有力国人三沢信濃守が押領していたが、本主が帰参したことにより、文明6年には返されることになった。守護政高は守護代清貞が比田山を請取って本主に返すのを支援するよう、赤穴氏に命じている(58号)。松井氏領生馬郷も松井氏一族に戻すことが決まったのに対して、尼子経久が抵抗・押領したのではないか。まさに、権威(京極氏)に対して在地(尼子氏)が挑む形である。

出雲国東西の経済力比較(2)

 『出雲塩冶誌』中世編の冒頭で、文永8年の田の面積(実際のところ庄園は平安時代末のデータから変更無し)と、17世紀半ばの石高を郡毎に比較してみた。尺度がやや異なるが、ともに生産という経済力を示すものであり、再び論じてみたい。ただし、近世の石高については、松江市歴史叢書1(2007年12月刊)として「京都・妙心寺派春光院」の堀尾時代の資料が紹介されており、こちら(全体的に石高が少ない)を利用したい。
 出雲国10郡を能義・意宇・島根・秋鹿の東部4郡、楯縫・出雲・神門の西部3郡、大原・仁多・飯石の南部3郡に分けてみたい。個々の郡では、東部4郡はいずれも比率が明確に低下し、4郡では文永8年の56%弱から17世紀前半には40%強となっている。逆に南部3郡はいずれも増加し、特に仁多・飯石郡といった山間部の比率が2.5倍から4倍となっている。南部3郡では14.4%が29.3%と倍増している。これに対して、斐伊川の流路変更により郡域が大きく変化した西部3郡は、楯縫が微増、神門郡が7割増に対して、出雲郡は半分以下となっており、3郡合計は29.7%から30.4%に微増という状況である。
 まとめると、南部が大幅増加、西部は微増、東部は大幅減少ということになる。『出雲塩冶誌』では神門郡で顕著な増加がみられたとしたが、郡域が変更になったこともあり、南部の伸びとは比較にならない。南部を斐伊川との関係で西部に入れれば60%、仁多郡は能義郡との関わりが深いとして東部と考えた場合でも、西部が53%弱と過半を占める。ただし、これは17世紀前半の状況であり、鎌倉時代前半では東部の経済力が上回っていたこととなる。その中心は、軍事的観点から松江ではなく富田(広瀬)なのであろう。
 中世前半には斐伊川は東流路が中心となっていたことは確実で、その意味では、東西の一体化が進んでいたとも評価できる。そして宍道湖・中海に挟まれた形の地域の南北両岸が戦国期には経済的中心となりつつあったが、近世に城下町となったことにより南北の一体化がより進んだことになる。さらには、物流の流れとして、山間地から宍道湖を経て美保関へ向かうのではなく、杵築から宇竜を経て日本海水運へと向かうものも発達した。当然、山間地から飯梨川(富田川)・安来を経て美保関へ向かうものもあった。

2010年5月 2日 (日)

応仁の乱と出雲国(5)

 文明7年11月、京極政高は近江国で西軍方の高清に敗北した。そして文明8年には出雲国に入部した(経久もか)。幕府の指示をうけてのことであり、幕府は文明8年9月には清貞に対していよいよ戦功を抽んずるように命じている(佐々木文書)。3月末に政高は、松田三河守被官の舟や隠岐国の舟が美保関の公用を沙汰していないとの報告を受け、去年から免許を破棄したので、去年分から皆済させるよう清貞に命じている(64号)。一方、2年前の小浜での無沙汰分については清貞の意見を容れて、宥免することを了承した(65号)。
 松田三河守を中心とする軍が攻撃をしかけてきた4月14日の状況は以上のとおりであった。このままでは不利となるということで蜂起して事態の打開を図ったのであろう。戦闘の状況は5月13日に松田氏が富田庄に攻め入った時点までしか史料がない。応仁2年のように松田氏側を攻撃した際の史料は残されていない。4月29日に政高は、福浦・諸悔を併せて美保関を清貞に安堵(公用を懈怠しなければという条件付き)。同時に松田氏との競合地舎人保半分も安堵している(67~69号)。それに先立つ4月17日には松田三河守領跡安来地頭分も与えている(66号)が、もとより岡崎氏の言う「恩賞予約」でしなかく、実際に掌握しているわけではなかった。
 5月2日、政高は、5年間の公用1万疋免除を確認するとともに、多久和郷の替え地がない場合は、その間、免除を行うことを伝えた(70号)。そして11日、政高は美保関公用の今年分の一部150貫(1万5千疋)を請け取ったことを清貞に伝えているが、実際に美保関を入手(確保)できたら公用に充て、入手できなかった場合は、清貞に返却するとしている(74号)。翌12日には富田城大木戸役を務める下笠氏が闕落する状況で(75号)、戦況は緊張した状態が続いていた。そして9月の幕府の命令となるが、5月17日の政高の感状を最後に、合戦の結末を示す史料は残されていない。その意味で、岡崎氏『尼子裏面史』の指摘も一定の説得力を残している。
 以上、文書の年代比定があまりにも不十分なまま、研究がなされてきたので、現段階で整理してみた。『出雲塩冶誌』でも整理しているが、さらに考え直したものである。詳細は、論文にまとめてみたい。

応仁の乱と出雲国(4)

 文明5年に幕府は京極政高を近江国守護に補任し、近江国に入国し敵を退治することを命じている(佐々木文書)。政高は、翌6年には赤穴氏に対して上洛を促すが、遅れがちであった。7月には赤穴氏側の遅れた原因についてはわかったとして、隣国(伯耆か)の敵が味方となった上は早く上洛するよう命じている(中川四郎氏所蔵文書)。文明6年には尼子清貞の嫡子経久が上洛しているが、松田氏との問題を解決するとともに、守護の上洛命令に基づき、父の代理として赴いたのではないか。
 文明6年11月に政高は、上洛中の尼子経久に対して、来年から5年間、美保関公用銭5万疋の内1万疋を与えた(59号)。上洛中であることがその理由であるが、近江国での軍事活動を念頭に減額したのであろう。同時に、5年後に多久和郷の替地として闕所の所領を与えるとしている。本来は、美保関代官職の得分として多久和郷があったのであろうが、多賀氏との関係で与えるのが不可能となった。そして、守護奉行人が松田三河守に福浦・諸久江(悔)浦を尼子氏代官に渡すことも命じている(63号)。さらには、小浜での美保関役の無沙汰も問題となっている(65号)。
 翌7年春、政高は美保関における雲州・隠州舟役の免許舟を破棄することとした(55号)。前年の問題を解決して尼子氏が公用を納めることを可能とすることを目的としたのであろう。4月26日に政高は赤穴氏に対して、上洛を難渋するなら知行分を押さえると伝えている。10月17日には再度確認して清貞に伝えるとともに、福浦・諸悔浦に関する申し出を了承し、不日入部し沙汰することを求めているが、同月28日の近江国の合戦で政高は六角氏に破れ、多賀紀伊守父子や三沢信濃守為清が打死している。

応仁の乱と出雲国(3)

 文明2年の前半には、出雲国人が守護の成敗に異議ありとして幕府に訴えている(40号)。守護京極生観は6月には首謀者の知行を差し置くよう守護代尼子氏に命じている。従来は首謀者と三沢氏の関係が指摘されているが、翌年5月の幕府奉行人奉書(佐々木文書)によれば、出雲・隠岐両国の京極氏一族、国人、被官、寺庵が守護の吹挙なしに、幕府に直接訴えたものであることがわかる。京極氏の給恩付与で二重給与が多かったことなどが背景にあるのだろう。また、文明2年4月には、隠岐国の舟が美保関役を負担しないことが問題となっている(36号)。そして文明2年後半には西部の神西湊と神西城で合戦が行われている(42号と中川四郎氏所蔵文書)。次いで、翌3年閏8月には伯耆国勢が美保関へ打ち入っている(49号)。
 文明6年には、松田三河守と尼子清貞との対立が表面化した(72号、73号)。生観時代の文明2年には美保関代官職の2重給与が問題となり尼子氏の支配が確認され、福浦・諸久江が美保関内であることが確認されていたにも関わらずである。文明6年5月の守護政高から松田三河守宛の書状によると、松田氏側が生観時代の判形を証拠として、美保郷内福浦・諸久江浦と能義郡舎人保等について安堵を申請したため、守護政高は一旦それを認める守護奉行人奉書を与えている。尼子氏から異論が出されるのは当然であり、政高は松田三河守に干渉の停止を命ずるとともに、尼子氏に対しても生観の判形を写して松田氏側に提示することを命じている。松田氏側の史料が残っていれば、事情ははっきりするが、文明5年2月には政高から守護領である法吉郷を与えられており(小野文書)、この時点で美保関と舎人保の判形を得たのではないか。尼子氏も判形を京都に送り安堵を求めたことがあったようであるが、文明4年8月には途中の但馬国で敵に奪われるという事件が起きている(14号、32号、34号)。

応仁の乱と出雲国(2)

 松田備前守は、京極氏領美保関の代官を務めるとともに、寛正5年には大西筑後守、下河原周防守とともに後花園天皇の譲位に伴う段銭の催促に当たっていた(朝山文書)。ところが、出雲国では、守護が本領に准ずとして臨時の段銭の催促には非協力的で、応永16年に修理料として幕府から出雲国段銭を寄進された東寺は、これを他国に替えてくれるよう求めているほどである(東寺百合文書)。守護京極氏は国人組織化の手段として段銭免除を利用していた。寛正5年には3人の有力国人が催促を守護から命ぜられているが、その徴収は困難ではなかったか。 京極氏領美保関についても、応仁2年末に反乱を起こした松田備前守に代わって守護代尼子清貞が代官職に補任されているが、代官職補任を求める人々が多数あったことがわかる(26号)。尼子氏は単に軍事的に美保関を制圧した(これに関わった国人も多数あった)から代官職に補任されたわけではない。京極氏側近多賀氏への接近と公用の先払いで代官職を得たが、その地位は安泰ではなかった。恩賞を求める国人も多く、実際に美保関も尼子氏以外の人物に京極氏の安堵がなされたことは確実である。尼子氏も京極氏へ働きかけ重要所領である竹矢郷を得ている(32号)が、そのために京極氏は当給人に別の所領を与えなければならなかった。
 応仁2年末の京極氏方の勝利については岡崎英雄氏が『尼子裏面史』で疑問を出されている。松田備前守が没落したことは間違いないが、一族の松田三河守は京極氏方として存続し、この時点で尼子氏が美保関を安定的に確保していたとは言い難い。文明元年後半にも伯耆国山名氏と結ぶ下河原氏らの国人が大原郡で尼子氏と戦っている(30号)。

応仁の乱と出雲国(1)

 出雲国における応仁の乱については守護京極氏と守護代尼子氏の関係文書が残されているが、その扱いには注意が必要である。出雲国内の所領をめぐって国人間の対立が激化し、結果として京極氏による尼子氏への安堵の文書が残されているが、その途中では明らかに競合者に対して京極氏の安堵が与えられているケースが多いのである。京極政高の発給文書の正しい年代比定を踏まえて述べたい(数字は『出雲尼子氏史料集』の番号、未収録のものは文書名を記す)。
  国人の所領には①本領とともに、②守護京極氏から給恩として与えられたものもあった。①については安定した支配が可能だが、②については必ずしも永続的なものではなく、京極氏により他氏へ与え直されることも珍しくはなかった。「在地と権威」の項で述べたが、在地性を強めつつあった国人は、②については京極氏への働きかけを強め、他氏に代わって所領を与えられようとしたのではないか(その一方ではすでに見たように所領の押領もしばしば発生した)。
 出雲国に於ける応仁の乱は、応仁2年の6月に松田備前守が出雲・隠岐・伯耆の国人とともに富田庄を攻撃したことにより開始されたが(10号)、その背景には所領をめぐる京極氏への不満があったのではないか。

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