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2010年4月25日 (日)

近世後期の松江藩(4)

 出雲国の人口増加をみるには、データそのものの吟味が必要な場合があることについては、宝暦6年のデータが、石見国とともに間違いであることを指摘した[出雲国と石見国の人口から(3)]。そして、他国のデータと比較する場合重要なのは、自然環境が似た近隣の国との比較をしなければならない。江戸中期の時点で松江藩と人口規模が近い国を比較されても、食料生産に重要な時期の気温の違いが人口の増減に大きく影響するのである(一般的に冬の気温が低い年は夏の気温が高くなる傾向が強く、年平均気温は差がでないことがある)。
 速水氏の研究により、江戸時代後半も西日本では人口が増加したことが明らかになった。その一方で東日本の人口が減少したため、日本全体としては人口が停滞したのである。それを西日本では名君が良い政治を行い、東日本では愚かな藩主であったためと評価しては単位不認定である。松江藩と名君上杉治憲で知られる山形県の米沢藩を人口増加で比較するのも乱暴な議論である。
 東西の人口動態の違いは、政治の良し悪しより気温に影響される。平均気温が高い西日本では、寒冷化の影響は小さいが、本来気温の低い東日本では大きな影響を受けるのである。逆に温暖化すると、西日本では気温が高すぎて人口増加率が低下するのに対して、東日本ではちょうど良くなって人口増加率が高くなる。同じ事は、出雲国の平野部と山間部についても言える。寒冷化により山間部で人口が減少し、温暖化すると逆に山間部で人口が増加し、平野部の増加率は低くなる。
  出雲国の人口増加の状況は東隣の伯耆国と天保の大飢饉までほぼ一緒である。ところが、天保の大飢饉以降は、伯耆国の方が人口増加率は低くなる。その点の解明を課題としていたが、実は、天保の大飢饉以降は山陰の人口増加率は全国平均より低くなるのである。西隣の石見国については、近世中期以降、出雲国との差が大きくなっていく。そして石見国でも人口増加率は西低東高となっている。
 19世紀以降の出雲国では、天保の大飢饉こそ山間部の減少が目立ったが、それ以外の時期は、山間部で人口が増加したのに対して、平野部では人口が停滞した。山間部での増加の背景としてたたら製鉄の問題を考えたが、基本的には気温の高低が影響したのだろう。人口の大部分を占める平野部が停滞したこともあって、出雲国の増加率は全国平均を下回ってしまったのである(「低かった」が正しく、全国平均を下回った原因は他にあろう)。
  地域史を論じる際に郷土愛は必要だが、事実を踏まえての郷土愛でないと逆の効果(後で間違いであったことがわかる)となってしまう。是非とも過去の作品・論文を日々進化させていただきたい。その際に大事なのは「資料の声を聴く」ことである。

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