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2010年4月11日 (日)

近世の杵築と宇竜

 宇竜に関する近世史料はあまり残っていない。屋敷帳と制札ぐらいであろう。これに対して出雲大社領鷺浦については、地元の人々が共同で史料を保管し続け、現在は県立図書館の所蔵となっている。宝暦4年(1754)の人口は宇竜浦522人に対して鷺浦は583人である。
 井上氏は慶長2年(1597)の宇竜はわずかに26軒で少ないとされたが、これは日御崎社検校分のみであり、これ以外に千家・北島家分があったはずである。尼子氏のもとでは宇竜は日御崎社領であるとされたが、家はまた別物である。近世の万治2年(1659)の屋敷帳では68軒、これが延享2年(1745)には41軒増えて109軒となっている。さらには文化12年(1815)までには20軒増えている。その過程で新たな町が生まれ、元の屋敷が通路に変わった事例もあった(「大社町史」中巻)。
 ただ、増加のみではなく、天明の大飢饉の影響か、寛政6年にはその人口は438人と減少し、その後増加に転じて、天保の大飢饉の直前の天保4年には600人となっている。
この間の鷺浦の人口は増加を続け、寛政6年に616人、天保4年には755人である。
神門郡の他地域では、西部の板津・大池・外園が顕著な人口増加をみている。石見国からの物資がこの地に陸揚げされ流通の拠点となったのである(板津と大池は行商人の出身地として知られる)。日本海水運と言うよりも近距離との交易が活発化したのであろう。この時期の今市についても、すでに述べたように、石見と大社から魚などの物資がもたらされ、衰退していた西部の中村がその勢力を拡大している。
 近世の大社(杵築)は18世紀中期に、荒木川方が置かれたが、そこに隣接する杵築浦が荒磯で廻船が着岸するのに不向きであったとされる(「大社町史」中巻)。それは中世も同様であったであろう。そのため米は一旦荒木川方から宇竜へ運ばれ、そこから積み出された。しかし、小規模の船の着岸は可能で、19世紀には石見国の船が杵築に荷揚げしたり、杵築の船持が、物資を運んだりして活性化した。

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