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2010年4月

2010年4月25日 (日)

近世後期の松江藩(5)

 中・近世の人口増加(2)で、紛争や一揆の背景として飢饉があるとの説を出雲大社と日御崎社の例で確認した。それは近世の百姓一揆についても同様である。戦後の歴史学の中で、近世の百姓一揆は階級闘争として理解されていた。その後、社会史の流れの中で、「一揆」の再検討がなされ、一揆とは人々が自分たちの要求は正当であるとの理解のもとに行うものであることが明らかにされた。以前述べた「多分の理」である。多くの人が思うならそれは神の意向と一致するとの理解である。
 近世社会では兵農分離が進む中で、一揆を行うことは御法度であり、首謀者は死刑となることが多かった。ただ、一揆の要求が正当な場合は藩から要求そのものは認められたのである。百姓と藩主のそれぞれに守るべき作法があった。藩主の作法としては、税の「賦課」に関することが中心である。すなわち、百姓の再生産が可能な環境を準備した上で、税を徴収することである。「賦」とは与えるということであり、別の言葉で言うと「勧農」である。
  「賦」の役割を担うのは藩主だけでなく、地域の富裕層もであった。天明3年(1783)の大津と三刀屋の百姓一揆は、いずれも藩ではなく地域の富裕層を襲撃したものであった(「異人はいなかった」)。本来果たすべき役割を果たしていないと、多くの人が思ったのだろう(ただし、富裕層でも襲われなかった人もいた)。その中で富裕層に対し藩への要求を出してほしいとの意見もあったであろう。その場合、庄屋たちが藩へ要求したり、松江や代官所へ向けて一揆が向かうことがあった。
 いずれにせよ、名君であろうとなかろうと、藩には当然すべき責任があったのである。その意味では江戸時代の藩は現在の行政よりその責任を痛感していたと思われる。また、やむをえない借金の増加に対しては、徳政令や闕年の措置が執られた。これが近代となると、借金をしたのは借りた側が悪いとして行政が対応しなくなったため、秩父事件などの一揆が発生しては軍によって鎮圧されたのである。
 そして努力すべき富裕層や藩の取り組みに問題があった場合、百姓一揆が起こった。藩の悪政に対する一揆もあっただろうが、大半は気候不順に伴う凶作がきっかけとなって一揆が発生した。一揆の発生件数からわかるのは、そのような状況が出雲国には少なかったということである。だから人口が増加したのである。

近世後期の松江藩(4)

 出雲国の人口増加をみるには、データそのものの吟味が必要な場合があることについては、宝暦6年のデータが、石見国とともに間違いであることを指摘した[出雲国と石見国の人口から(3)]。そして、他国のデータと比較する場合重要なのは、自然環境が似た近隣の国との比較をしなければならない。江戸中期の時点で松江藩と人口規模が近い国を比較されても、食料生産に重要な時期の気温の違いが人口の増減に大きく影響するのである(一般的に冬の気温が低い年は夏の気温が高くなる傾向が強く、年平均気温は差がでないことがある)。
 速水氏の研究により、江戸時代後半も西日本では人口が増加したことが明らかになった。その一方で東日本の人口が減少したため、日本全体としては人口が停滞したのである。それを西日本では名君が良い政治を行い、東日本では愚かな藩主であったためと評価しては単位不認定である。松江藩と名君上杉治憲で知られる山形県の米沢藩を人口増加で比較するのも乱暴な議論である。
 東西の人口動態の違いは、政治の良し悪しより気温に影響される。平均気温が高い西日本では、寒冷化の影響は小さいが、本来気温の低い東日本では大きな影響を受けるのである。逆に温暖化すると、西日本では気温が高すぎて人口増加率が低下するのに対して、東日本ではちょうど良くなって人口増加率が高くなる。同じ事は、出雲国の平野部と山間部についても言える。寒冷化により山間部で人口が減少し、温暖化すると逆に山間部で人口が増加し、平野部の増加率は低くなる。
  出雲国の人口増加の状況は東隣の伯耆国と天保の大飢饉までほぼ一緒である。ところが、天保の大飢饉以降は、伯耆国の方が人口増加率は低くなる。その点の解明を課題としていたが、実は、天保の大飢饉以降は山陰の人口増加率は全国平均より低くなるのである。西隣の石見国については、近世中期以降、出雲国との差が大きくなっていく。そして石見国でも人口増加率は西低東高となっている。
 19世紀以降の出雲国では、天保の大飢饉こそ山間部の減少が目立ったが、それ以外の時期は、山間部で人口が増加したのに対して、平野部では人口が停滞した。山間部での増加の背景としてたたら製鉄の問題を考えたが、基本的には気温の高低が影響したのだろう。人口の大部分を占める平野部が停滞したこともあって、出雲国の増加率は全国平均を下回ってしまったのである(「低かった」が正しく、全国平均を下回った原因は他にあろう)。
  地域史を論じる際に郷土愛は必要だが、事実を踏まえての郷土愛でないと逆の効果(後で間違いであったことがわかる)となってしまう。是非とも過去の作品・論文を日々進化させていただきたい。その際に大事なのは「資料の声を聴く」ことである。

2010年4月24日 (土)

近世後期の松江藩(3)

 以前、松江藩の人口について論じた際に、「出入捷覧」はあくまでも普通会計の記録であり、これとは別に特別会計があり、しだいに後者の割合が増大したことを述べた。そして特別会計の収入についてはある程度の推定が可能だが、その支出についてはまったくデータがなく、普通会計の支出のみで判断するのは危険である(学術的でない)ことも述べた(自分自身は論証できないことは述べないようにしている)。
  借金返済と言えば薩摩藩と長州藩の例が有名だが、貸し主との間に返済計画を決め、特別なことが無い限りはそれを守っていくはずである。「出入捷覧」に記された年々の返済額は余りに差が大きいのである。安澤氏のように合計から判断して安心するのではなく、一年一年についてきちんとみていくとまた別の点が明らかになる。
 ともあれ、「出入捷覧」は近世後期の松江藩を考える手がかりをたくさん含む資料であり、様々な方面から分析していく必要がある。ちなみに近世後期の松江藩が「日本一の人口増加」というのも、比較の対象と方法に問題があり、明確な誤りである(近著では指摘を踏まえトップクラスと修正されたが)。特に19世紀の天保年間から幕末期にかけては全国平均を下回る増加率でしか無く、近代以降を先取りする形がすでに現れており、事実に基づく分析をしないかぎり、せっかくなされた努力(この点は評価できる)が無意味なものになりかねない。
  蛇足だが、学生時代、「この考えは永原慶二氏の説に基づく」と説明すると、石井氏は「それはいつの永原氏」かと問われた。永原氏の考えも日々変化し・進化しているのである(石井氏流のユーモアでもあった)。ところが多くの研究者は一旦書いた論文を進化させる作業を怠っている。これは何故かといつも思う。

近世後期の松江藩(2)

 ゼミでは、当時の岩波講座日本歴史の吉永氏の藩政改革の論文も取り上げられた。今の時点で読めば、松江藩の藩政改革に関する記述には見直すべき点が多々ある。ただ、近年の松江藩の見直しに関する論も結論が先にあってそれに都合のよい史料と点を列挙する(実際の学術論文にもこの手のものが多いのだが)というもので、学問的水準には達していない。
 いや、松江藩の財政を記した「出入捷覧」に関する安澤秀一氏の学術研究の成果に基づくものだと主張されるかもしれないが、だいたいにおいて研究者3人が本格的に論じてはじめて通説として確立するのであり、必要なのは安澤氏の論をオウム返しに述べるのではなく、批判的に検討・検証することである。安澤氏自身も吉川弘文館刊の『国史大辞典』に執筆した内容をいくつか訂正して研究を進化させているように。 
 一から「出入捷覧」を分析するのは大変だが、私たちは安澤氏の研究成果からスタートすることができる。であるからこそ、安澤氏の成果を踏まえて研究精度を高める必要がある。安澤氏も、借財返済額の49万両余と「出入捷覧」の返済額の合計額26万両余の差に気づいて愕然としつつ、気を取り直して、その差が御金蔵御有金の減少分の合計額に近い(1万3千両の差はある)ことに気づかれて安心されたようである。ただ、これも冷静に考えれば、随分乱暴な論で、御金蔵の増減にかかわる要因はこれ以外にも多数あったはずである。

近世後期の松江藩(1)

 大学では中世史を専門としたが、専門課程へ進んだ3回生の時は、尾藤正英教授のゼミにも参加していた。別の箇所で述べたが、中世史の石井ゼミと近世史の尾藤ゼミの両方に参加していたのは、自分を含めて2名だった。もう一人は女性で、高校では日本史教育で知られていた黒羽清隆氏に習っていたとのことだった。その1年先輩が「中世の中に生まれた近世」の論文を書いたY女史(当時)であり、2年先輩が「益田家文書」の担当であるY女史(当時)であった。
 尾藤教授は、当時の松江南高の出口校長と三高の同級生とのことで、島根県高校社会科の研究会に講演講師として招かれたということである。石井ゼミも同様だったが、学部生だけでなく、大学院予備軍の人も参加していた(これとは別に院生・学生のみの研究会もあった)。
 尾藤ゼミでは松平定信の自伝『宇下人言』を読みながら近世の後期の改革について議論した。定信は田沼意次とは対照的な人物として描かれ、以前は田沼=汚職政治家と言われたが、これは田沼を失脚させた定信派による批判にすぎず、近年では農業以外の産業を重視した経済政策で田沼の評価は一変している。
 一方、ゼミで具体的史料を通して学んだ定信像もまた、保守・反動の政治家との定説とはまったく違っていた。松江藩主松平治郷が田沼と近い立場にあったことは、平賀源内を主人公とするドラマで知っていた。治郷の再評価を田沼と関連づけて行う人がいるが、松平定信を単なる保守的な政治家として評価するのは完全な誤りである(都市・社会政策など新しい点はいくらでもある)。歴史をつまみ食いして利用するのではなく、本当の意味での根本的な見直しを行う必要がある。

2010年4月18日 (日)

中世の斐伊川(補)

 中世の斐伊川西流路に関する地名として出雲市武志町の「川跡」と「川跡神社」がよく知られている。この付近を流れていたことは確実である。一方、現地を特定してはいないが、元禄11年(1698)矢野村之内古湊分検地帳が残されており、過去に矢野村(出雲市矢野町)内を斐伊川西流路が流れ、そこに湊があったことがわかる。
 関連して、宝暦4年(1754)の神門郡差出帳には市に関わる地名が河川沿いにみられる。斐伊川上流から順に上郷、大津、荻原村にそれぞれ、8畝歩、4畝21歩、9畝歩の市が記されているが、中世の市の名残りを示すものであろう。また川沿いではないが、陸上交通の要地である知井宮にも1反1畝9歩の市がみられる。近世には町場に発展した今市、塩冶、古志以外にも各地に中世の市がみられたのである。

2010年4月17日 (土)

仮説と結論

 inspiron9200が突然起動しなくなった。HDDだけでなくCDから起動することもできず、その関係部品が壊れたと思った。17インチWuxgaノングレア液晶は便利である故にショックであった。とうとうその日が来たかとも思った。前に述べたnt300も同様の症状が出て、結果的にはオークションで中古を購入し、メモリーやHDDをそのまま使用することができた。そこで、今回もオークションで、液晶が故障した9200が出品されており入札した。ただ、確認されているのはbios画面の起動までで、思ったより高い値(とはいえ5000円台)がついたので、落札はしなかった。
 それでもと思い、HDDを再フォーマットしてみたら、CDからの起動ができ、ひょっとするとHDDの故障かと思った。windowsを再インストールするため、何度かHDDをフォーマットしては9200つないでいると、とうとう認識しなくなった。余ったHDDがあるはずで、それで試みようと思ったが見あたらず、迷ったあげく、新しいHDD(PATAでは最大の320G)を購入した。PCの起動部分の故障なら新しいHDDは無駄になるのである。
 祈るような気持ちでつなぐと、xpとwindows7のインストールが何事もなくでき、HDDの故障であることが確定した。自分の当初の仮説は間違いだったのである。9200は、以前もXPと7のデュアルブートを試みたがなぜかうまくいかず、今回も結局は7のみのインストールで使うこととした。
 長々とPCについて述べたが、自分自身は歴史研究を行う際に、あらゆる関係史料とその解釈の可能性を確認しないと判断をくだすことができない。その過程ではいろいろな仮説が浮かんでは消えたりする。仮説を立てるのは誰でも同じであるが、本ブログで批判を加えた「いわゆる通説」の中には、仮説が成り立つことをきちんと確認しないまま、論文として発表されていると感じるものがあった。もっと他の可能性もあるし、検討すべき史料もあるのに、検証がされていないと感じた。せっかく丹念な史料収集がなされているの(ここは大変評価できる)、最初に決めた答えにそって史料を解釈するのは極めて勿体ない。
 自分は中世史が中心であるが、本当は他の時代についても論じていきたい。江戸時代の松江藩の財政や政策に関する通説にも、なぜそのような解釈が可能なのか、自分には全く理解できないものがいくつかある。とりあえずは、自分なりに資料を探して考えていくしかないが、近世史の専門家には、そのための資料の公開を積極的に進めていただきたいし、歴史に関心を持つ人は、単に通説を利用するのではなく、自分の頭で考えていただくと幸いである。そうしない限り真実への接近とそれを踏まえた歴史の活用(発見)はできず、単に歴史を造ることになる。         

2010年4月11日 (日)

近世の杵築と宇竜

 宇竜に関する近世史料はあまり残っていない。屋敷帳と制札ぐらいであろう。これに対して出雲大社領鷺浦については、地元の人々が共同で史料を保管し続け、現在は県立図書館の所蔵となっている。宝暦4年(1754)の人口は宇竜浦522人に対して鷺浦は583人である。
 井上氏は慶長2年(1597)の宇竜はわずかに26軒で少ないとされたが、これは日御崎社検校分のみであり、これ以外に千家・北島家分があったはずである。尼子氏のもとでは宇竜は日御崎社領であるとされたが、家はまた別物である。近世の万治2年(1659)の屋敷帳では68軒、これが延享2年(1745)には41軒増えて109軒となっている。さらには文化12年(1815)までには20軒増えている。その過程で新たな町が生まれ、元の屋敷が通路に変わった事例もあった(「大社町史」中巻)。
 ただ、増加のみではなく、天明の大飢饉の影響か、寛政6年にはその人口は438人と減少し、その後増加に転じて、天保の大飢饉の直前の天保4年には600人となっている。
この間の鷺浦の人口は増加を続け、寛政6年に616人、天保4年には755人である。
神門郡の他地域では、西部の板津・大池・外園が顕著な人口増加をみている。石見国からの物資がこの地に陸揚げされ流通の拠点となったのである(板津と大池は行商人の出身地として知られる)。日本海水運と言うよりも近距離との交易が活発化したのであろう。この時期の今市についても、すでに述べたように、石見と大社から魚などの物資がもたらされ、衰退していた西部の中村がその勢力を拡大している。
 近世の大社(杵築)は18世紀中期に、荒木川方が置かれたが、そこに隣接する杵築浦が荒磯で廻船が着岸するのに不向きであったとされる(「大社町史」中巻)。それは中世も同様であったであろう。そのため米は一旦荒木川方から宇竜へ運ばれ、そこから積み出された。しかし、小規模の船の着岸は可能で、19世紀には石見国の船が杵築に荷揚げしたり、杵築の船持が、物資を運んだりして活性化した。

2010年4月10日 (土)

杵築と宇竜(2)

 杵築がこの地における中心的都市であることは明白である。それに対して宇竜は後背地は少ないが、港としての立地は杵築よりはるかに勝っている。出雲国西部を通過して東西に向かう船が、杵築を唯一の目的地とする以外に杵築を訪れる必然性は小さい(杵築をスルーした方が合理的)。日本海水運の船は鉄だけでなく、各地を経由して様々な商品を積むのみならず、荷下ろししていたと思われる。杵築の有力商人は宇竜にも拠点を持っていた可能性が高い。
 ⑥の史料についても、井上氏は、木次市庭の商人たちが奥出雲から杵築までの鉄の輸送を請け負っていたとされる。長谷川氏の解釈とは異なる点があるので、これを検討したい。
 問題の史料は、来次(木次)市庭中が、杵築の商人の代表に対して、両者の間の商売の出入りについて今後交渉することを述べた後に、鉄を奥出雲から杵築に下す商人が、運ぶ馬が不足する場合は、木次市庭中の馬を利用することが肝要であると述べている。ここから、鉄は馬を使って陸送されたことがわかる。その馬は杵築のないしは奥出雲の馬であろうが、それが不足する場合は他地域の馬ではなく、木次市庭の馬を利用して駄賃を払うことを述べている。
 江戸時代後期の例であるが、有力市庭の馬士(ばし)は、藩の公的物資を安く運ぶ見返りとして、自由に領内を通行でき、新興の地域の馬士が自己の縄張りを通ると、これを咎めている。
 一方、奥出雲には牛が多数飼われており、19世紀初めには牛の背に商品を積んで、海岸部へ向かい、帰りに海岸部で購入した商品を持ち帰った。馬士側は自己の商品を運ぶのはよいが、帰りに商品を運ぶのは違反だとして摘発し、トラブルが発生している。
 話を宇竜と杵築の問題に戻すと、杵築の商人にとっては杵築であろうと宇竜であろうと、どこで鉄駄別を取られるかは問題ではなかろう。問題は、宇竜における鉄駄別の徴収が日御崎検校によって行われることである。杵築で徴収される場合、その一部が出雲大社ないしは杵築商人のものとなる可能性がある。杵築から宇竜への運搬は、陸路も可能だが、陸路や河川水運と比べて大量に運べる船による運搬(海運)の可能性が高い。そして宇竜から日本海水運の船に積まれたのではないか。

杵築と宇竜(1)

 16世紀前半の石見銀山の開発は、日本海の水運体系を変えた。その具体例が、石見国の温泉津・浜田に①九州南部からの多数の船が訪れていることと、16世紀後半における出雲国宇竜への②北国船、③但州船、④因州船、さらには⑤唐船の着岸である。
 ①の船はさらに東方の石見銀山を目指し、②③④はさらに西方へ向かい石見銀山へ着岸したのである。それに対し⑤は西方からやって来た朝鮮ないしは中国の船が、石見銀山を越えて宇竜へ着岸していることが注目される。長谷川氏はこれをもたらしたものは「鉄」の流通であると評価される。さらに長谷川氏は、宇竜が鉄の唯一の積出港であるとの想定はできず、杵築も宇竜以上の鉄の積出港であったことが窺えるとされた。
 その根拠として、⑥永禄12年に、杵築商人が斐伊川を下って鉄を杵築へ運んでいることをあげた。また、宇竜が出雲鉄の積出港であることを示す史料は永禄12年のわずか2通の文書でしかなく、そしてその史料からは、宇竜浦を通過する鉄はいずれも既に杵築を通っており、その荷駄に課される通行税も杵築で納めるのが先例であるとのレトリックが成り立つだけの背景が存在したとされる。
 長谷川氏は宇竜と杵築を対立的にのみ捉えられているが、どうであろうか。宇竜は日御崎社領であり、杵築は出雲大社領で、両社の間には経済権益をめぐる対立があった。それは、出雲西北部の商人にとっても同様であろうか。

大湊について

 建武2年の尼覚日譲状には、杵築社の内境として、「せきや・やののむら、さきのうら、おおみなと」が登場する。杵築の範囲を示す地名で、大社法度にみえる「東ハひしね関屋、辰巳ハ高浜、南ハ河より是内」に対応するという。矢野については、現在の出雲市矢野町かと思ったがそうではなく、関屋のある菱根内の地名だという。問題は大湊である。名前からは杵築における中心的港ということになる。一般的には斐伊川河口部の後の湊原の地にあったとされ、その対岸には園湊(この湊に関する観応元年の三木家文書は偽文書である)があったとされている。ただ、その根拠とされる「中書家久公御上京日記」には出雲大社に参拝した後に「大渡」で渡し賃を取られ、崎日の町の清左衛門の家に宿泊したことが述べられているのみで、これを「大湊から園湊へと渡った」と記すのは、かなり不正確で根拠がなく問題である。
 大渡とあるからには、ここで斐伊川・神戸川を渡るようになっていたことは間違いない。実際に西園には「崎屋」という地名が残っており、この場所で川を渡ったのであろう(近世文書にも多岐から崎屋まで七浦とあり、交通上の要地であった)。ただ、現在の河口から1キロほど上流部地点である。そして神戸川は崎屋のさらに南側にある。大湊は近世の湊原ではなく、集落部の南端にある赤塚の川を挟んだ対岸部に比定すべきではないか。
そこを流れる堀川についても三木与兵衛が開削したとの記録はあるが、それ以前から河川が存在していたことは確実である。「南ハ河より是内」の川はこの川であろう。

中世の斐伊川(5)

 ④粟津村 明徳3年に塩冶氏の庶子大熊貞季が粟津村内の地を日御崎社の神田としている。朝山郷の北限の地でもあった。
 ⑤常松村 文亀4年(1504)8月に朝山郷の住人5名が、朝山郷の大社領遙堪郷と常松保との境について申し定めている。その少し前の明応4年から5年にかけては、朝山郷内沢と山の境について、国造側が違乱を行う事態となっている。このあたりも、この朝山郷、遙堪郷、常松保に含まれる地域を流れていた斐伊川の存在感のなさを示している。
 ⑥薗村 すでに述べたように、正応元年(1288)には「薗内外」が成立し古志氏に与えられていた。その後、応永19年には波根氏領として塩冶郷内園・栃島村が確認できる。
 ⑦荒木村 江戸時代前期までは荒木浜とされる砂丘地であったとされるが、弘治3年(1557)の尼子晴久書下(神門寺文書)では,塩冶之郷神東・大津并荒木村が前々の支証に基づき神門寺の権利が安堵されており、13世紀後半に確認できる大津とならび開発が進行中であったと思われる。そして同年には、晴久により荒木村内萱野開田地について日御崎社も権利を主張したが、神門寺の権利が認められている。
 以上みたように、13世紀後半以降塩冶郷の周辺地帯の開発が進行しているが、その背景として、斐伊川の流れが縮小し、洪水などの危険性が低下したことが考えられる。中世末になって流路が縮小したというよりは、13世紀から縮小が進行していたと考えられる。そうなると、港湾としての杵築(出雲国最大都市であることは間違いない)の過大評価は問題である。港湾機能については周辺地域と分担していたのではないか。

中世の斐伊川(4)

 斐伊川の東流についてはすでに述べたとおりであるが、日本海へ注ぐ西流部分はどうであったろうか。第一にいえるのは、古代においては郡域の境となったのに対し、中世では全くといっていいほど存在感がないのである。この部分の状況が、中世における杵築の港湾機能の評価とかかわってくる。ただ、杵築における水深がどの程度であるかによっておのずと港湾機能は制限されざるを得ない。結論を得るほどの史料がないという点を最初に確認した上で、塩冶郷における斐伊川沿いの所領開発(成立)史からみていく。
 ①高岡 高岡宗泰の項で述べたが、高岡村と大社領稲岡郷の間を斐伊川が流れていたはずである。永仁5年に佐々木泰清の子宗泰が高岡の田1町を鰐淵寺に寄進している。宗泰の子孫は高岡を苗字としており、この段階では独立した所領として分割相続されるだけの規模があったと思われる。
 ②荻原 史料上の初見は、宝徳2年(1450)であるが、佐々木泰清の子で美保郷内の中心部分を譲られて南浦氏を苗字とした茂清の子茂頼が荻原氏を称していることからすると、高岡と同時期には成立していたと思われる。すなわち茂清が父泰清から塩冶郷内荻原を譲られ、それが茂頼に継承された。
 ③栃島 建武4年の塩冶高貞寄進状により栃島村が塩冶郷内桑日八幡宮に寄進されている。これも高岡、荻原と同様に13世紀後半に開発が進み、成立していたのであろう。後には塩冶氏庶子の波根氏がこれを相続していく。荻原村と栃島村が明治8年に合併して「荻栃村」となるが、昭和40年にはほ場整備中に中荻栃古墓が発見され、13世紀後半頃と推定される青磁の碗と皿が確認されている。
 以上の3カ所は、塩冶郷内が北に向かって伸びた形で存在している。13世紀後半には斐伊川の川幅が縮小して洪水などの危険性が低下し、周辺地域の開発が進んでいたことがわかる。

2010年4月 3日 (土)

中世史と近世史の断絶

 以前にも触れたが、中世史と近世史の間には断絶がある。その典型的な例が、斐伊川の東流問題であり、美保関の評価である。戦国期における石見銀山の開発を契機とする中世水運構造の転換により、美保関は従来の地位を白潟や末次に譲り渡すとされている。ところが、近世の美保関は19世紀になって対岸の伯耆国境が発展する事により衰微するようになるが、それまでは松江藩と日本海地域を結ぶ拠点として盛況を呈していたとされる。このような中世末と近世の美保関の評価は違いが大きすぎて、理解不能なのは自分だけだろうか。
  港といっても美保関のような外港と白潟・末次のような内港の区別をする必要がある。同様の例が、外港としての宇竜と内港としての杵築(大社)であろう。日本海各地の船は主に宇竜・美保関といった外港に入港するのが一般的で、白潟・末次・杵築のような内港に直接入港することは少なかったのではないか。その替わりに、外港と内港を結ぶ水運(それは出雲国内各地を結んだ)が発達したのではないか。
 長田市庭の衰退・消滅と白潟・末次の発展という理解と、長田の地域が戦国期には川津と呼ばれるようになることの関係も、よくわからないところである。長田でも大橋川に面する長田西郷の重要性は高く、それが故に尼子氏の有力家臣がこれを分割して支配していた。長田市庭と川津の所在地は、長田郷菅田村の東南に広がる朝酌川西岸の地にこれを比定すべきではなかろうか。郷内で長田市庭=川津のウェートが上昇したがために長田→川津の転換が起こったと考えてみたが、いかがであろうか(松江築城により川津に代わって末次が中心となることは確か)。断絶しているのは中世と近世ではなく、中世史と近世史の間に断絶があるのである。

周布郷と小石見郷

 貞応2年石見国惣田数注文の那賀郡「よしたか」には『小石見』と『同人(すふ)知行』との2つの注記(後に加えられたもの)がなされている。「よしたか」名は基本的には周布郷を意味するが、ここには『小石見』と記した上で周布氏の知行としている。
 周布郷(吉高名)と小石見郷(吉光名)の境界が入り組んでおり、郷と名は等値できないとの井上寛司氏の解釈があるが、少なくとも貞応2年段階では等値できる(吉高=周布郷、吉光=小石見郷)とすべきである。ただ、両郷の間には周布氏と三隅氏の間で紛争があった。萩閥の周布氏関係文書のみをみると、安田・福井・蘿原畑などは小石見郷に属し、これを三隅信性(兼連)が正平9年(1354)に周布氏と結婚した孫娘に譲与する形となっている。
 ところが、新出周布文書では、建武2年に周布兼宗がこれらの所領を三隅氏が押領したとして訴え、さらにはその子兼氏も応安7年と永和3年に幕府に当該所領の回復を訴えている。周布氏は3カ所は周布郷と主張しているのである。そして永享12年(1440)の石州段銭帳の直前の永享11年(1439)11月には、将軍義教の安堵状を承けて、守護山名熈貴が周布郷(付末元・貞松・安田・福井)などの周布氏領の当知行分を安堵している。ただ、その4年後の嘉吉3年には同じ所領について、元の如く沙汰付くべしとの幕府御教書が出ており、紛争が完全に解決していなかった可能性が高い。
 「よしたか」に『周布知行』としながらも『小石見』との注記がなされたのは、この所領紛争があったためであろう。注記の時期は段銭帳作成時であろう。 

2010年4月 2日 (金)

益田祥兼紛失状案文(5)

 貞応2年石見国田数注文にみえる「同(稲光)久富」については、川辺久富と関係のある所領と思われるが、後者が後の川本(河本)であるのに対して、具体的な場所の比定がなされていない。せいぜい、「稲光本郷」の近くであろうという程度である。一方、その面積は15町で、稲光本郷10町7段余より大きく、那賀郡の山間地域の公領としては最大規模である。
 また、益田祥兼紛失状案で述べたように、益田兼季解状案には、河本はみえても久富はみえないのに対して、範頼下文案では久富がみえている。そういった点を総合して比定をすると、現在は邑智郡に属する邑南町日貫と日和が候補となる。日貫のみでは、他と比較して15町という面積には不足であり、また、本来の久富が江川沿いの河本から那賀郡にかけて存在したとすると、他に適当な候補地もみられない(日和はやはり桜井庄であった)。
 紛失状案文では「御神本」という苗字(?)を一切使用せず、「藤原」という姓のみを記しているように、一定の作為が感じられる。祥兼(兼見)の軍忠状で単に「藤原」のみで記したものはない。範頼下文案のみにみえる他の所領(高津・温泉・長田)についても、確実に益田氏領であったことは確認できず、ここにも作為(他氏との係争地など)があったのではないか。益田庄の内部構成である納田(三隅)と井村を正確に記さなかったのも同様であろう。

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