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2010年3月

2010年3月31日 (水)

益田祥兼紛失状案文(4)

 ①グループの範頼下文案(8)・義経下文案(10)と②グループの11の兼季解文案には大きな違いがある。11にみえる所領は名称の問題はあるが、基本的にその後の関係史料から益田氏領であったことが確認できるものである。益田庄についても正確で、益田郷だけでなく、納田郷、井村、弥冨名を記している。これに対して、8と10にみえているが11にみえない温泉、久富、長田、高津については、益田氏領であったことを示す一次史料はない。また、益田庄と弥冨を並列的に記しているのも問題である。最初に作成されたと考えた8と10のみでは、益田氏の所領の由緒を主張するには不十分で、そのため、②が作成されるとともに、兼栄・兼高・兼季と頼朝・頼家・実朝という二重の意味での三代の由緒を主張したのではないか。
 ちなみに、外題安堵に署判している「左衛門尉平」・「民部丞藤原」・「前大和守源朝臣」については、梶原景季、二階堂行政、源光行(親行の父)に比定でき、この組み合わせとピタリ一致とは行かないが、頼家の代始め頃の文書として作成されたものであろう。その意味でも、将軍実朝に安堵を求める11の安堵外題ではありえない。
 8・10と11にはもうひとつ違いがある。11が当知行安堵を求めているのに対して、8と10はいずれも「元の如く」知行(進退領掌)せよそしている。以前述べたように、元の如くとは、本領安堵の文言である。すなわち、一旦は失ったものを回復するとの意味である。それによるならば、本来の益田氏惣領が所領を失い、それを一族である兼栄・兼定父子が得たことになる。
 

2010年3月30日 (火)

益田祥兼紛失状案文(3)

 以上により、範頼下文案が重複している理由は明らかになったであろう。次に①と②の関係であるが、①に含まれる8と②に含まれる9を比べると、8の方が未完成で書き誤りを含んでいる。10についても同様で、「下知如件」と結んだ後に、「在庁官人」以下の表現を加えている。これらによると、②の中に①を加えたとの解釈よりも、①の方が先行して作成され、それが紛失状案文として不十分であるがために②が修正・増補・作成された可能性が高い。
 8の末尾の外題安堵について、久留島氏は11の前の外題安堵の写とされた。11の外題安堵については、A:義経下文(10)の末尾の外題安堵との考え方と、B:兼季解状(11)の袖に記された外題安堵との考え方がある。Bが久留島氏の考えであるのに対し、福田氏は益田家文書刊行後、Aの説を主張されたという(久留島氏による)。論者も久留島氏にA説の可能性を述べた私信を送ったことがあるが、その時の文では、②が作成された上に①が付け加えられたと、現在の考えとは逆の説を述べている。
 11の前の外題安堵と8の末尾の外題安堵は、同文のようにみえて、大きな違いがある。それは、11の前のものは、「下知如件」の直下に「左衛門尉平」が記されるのに対し、8の後ろのものは「下知如件」の別行下に記しているのである。たいした違いではないとの意見に対して、本来の下知状は日下別行から署判するのに対して、下知状形式の安堵外題は、御教書と同様、日下に署判するのである。これも、8と10の①が先行して作成され、その後、修正・増補する形で②のグループが作成されたことを示す根拠と考える。

益田祥兼紛失状案文(2)

 12の大江広元奉書案以外には付箋が付けられ、朱書きで番号(一~十一)が記されている。それを朱書きの番号順に並べてみると、最初に兼栄・兼高父子の文書(一~三)、次いで兼高の文書(四~七)、最後に兼高子兼季の文書(八)と三代の構成となっている。
源範頼下文案が2度にわたって掲載されたのはそのためである。ところが、最終的にこの案は没になり、付箋を付したまま、現在の順番にまとめられたのである。
 現在の順番は12の広元奉書案以外は年代順である。元暦元年5月の4通の文書は、石見国御家人等から源氏方となる旨の請文に対する頼朝の感状(5)と、石見国在庁官人等宛の梶原景時下文案(4、藤原兼高を押領使に補任)、源(義経)下文案(6、石見国御家人に対して押領使兼高に従って平家方を追討せよと命る)、石見国宛の梶原景時下文案(7、出雲国の謀反人岐須木次郎兄弟と横田兵衛尉等の討伐を命じる)である。
 次いで同年11月の範頼下文案(8・9)と元暦2年6月の義経下文案(10)が続くが、同一文書である範頼下文案を2回続けるのは不自然である。さらに建仁3年の藤原兼季解状案が配置され、12の広元奉書案は別扱いとされた。12(5月27日)では、頼朝が、兼高に本領安堵の上に新恩給与を与えたいのだが、石見国の子細を知らないので義経に委ねるとしている。久留島氏も「元暦元年カ」と注記されているが、元暦2年6月の義経下文案(10)とセットで、元暦2年のものとすべきである。

益田祥兼紛失状案文(1)

 大日本古文書として刊行が進む「益田家文書」は様々な豊かな内容を含むが、中世後期に比べて前期の分析・利用は進んでいない。その前期の最大の問題が益田祥兼(兼見)が作成した紛失状案文の評価であろう。関係するのは紛失状案文の作成過程を裏付ける祥兼と大内氏関係者の書状3通(1~3)と、紛失状案文9通(4~12)である。益田家文書原本を利用した福田栄次郎氏の研究により、紛失状案文9通はいずれも検討の余地があるものとされた。
 その後、井上寛司氏が石見国惣田数注文の研究の中で、9通の案文は偽文書ではあるが、当時の状況を反映したもので、史料批判を加えた上で十分活用しうるものと評価された。そして「益田家文書一」の中では編者久留島氏のコメントが付されている。
 久留島氏は9通を①8・10と②それ以外の2つのグループに分けられ、当初まとめられたグループ②の中に新たに①が付け加えられたと考えられている。2つのグループについては、その通りであるが、①と②はどちらが先に作成されたものなのであろうか。さらに、なぜ同一のもの(所領安堵)である源範頼下文案が8と9という形で収録されているのであろうか。

2010年3月21日 (日)

目に優しい液晶とキーボード(4)

 なかなか予想したようにはならず、作業の大半(今も)はPrecision m6300で行っている。キーボードはややタッチが軽いが支障はない。しいて言えば厚さか。液晶もノングレアで、ノートパソコン用としては上出来。WUXGAの快適さは一度なれたら手放せない。ただ、変化としては、Xpと7のデュアルブートで使っているが、HP更新を含め、作業の中心は7に移行しつつある。
今後はビスタと7のデュアルが望ましいかもしれない。
 帯広から到着したLatitude5500は、CPUをセレロン575からP8600に交換したので快適になった。とはいえ、画面がWXGAなので、狭さを感じる。液晶もノングレアであるが、PrecisionMには及ばない。キータッチも軽めか。最近のDellは以前ほど実用性にすぐれたキーボードではない気がする。
 ノートパソコンのキーボードに慣れると、デスクトップ用はキーの沈み込みが深すぎるように感じる。Epson製(テンキー付きでコンパクト)から、トプレのコンパクトタイプにメインを移してしばらく使ってみる(トプレの方が古く、コーヒーをこぼしても健在)。
 モニターも、①UXGA21インチ(三菱)、②フルHD26インチ(アクオス)、③WUXGA17インチ、④SXGA17インチ(ピボット)、⑤17インチブラウン管とあるが、とても机の上に乗らないので、現在は③④⑤は別の部屋に置いて使用?。②は目に優しいのは確かであるが、サイズから目との適正な距離が難しい。①を入手してからは一旦は別の部屋に置いたが、とりあえずTVをみるために復活(もったいない)。③はノート用液晶を利用したもので、m6300の横に並べて利用すると便利だが、配置に困っている。④⑤もなかなか便利で、依然として健在ではある。
 とりあえずは、デスクトップに①ないしは②の組み合わせを中心にすれば、最も目に優しいと思うので、それを試みて報告したい。

益田家文書の無年号文書(2)

 問題は④から⑦の順番であるが、⑥・⑤・④・⑦となるか。⑥を承けて、永徳3年には将軍義満が弥富名を含む益田氏の所領を安堵している。永安周防入道祥永の後継者が⑥の永安太郎で、嘉慶2年の④の時点では「左近将監」となっているが、依然として大内氏は益田氏を支持していた。それが変わったのが④であり、大内氏と益田氏が対立している。松岡氏の主張のように明徳4年6月9日であろうか。この状態が年末まで続いたが、ここで大内氏は再び益田氏の側に立ち、永安太郎と大草村を支配する庶子に対する兼家の訴えを認めている。⑦の永安太郎は⑥の永安太郎の後継者であろう。
 以上、検討した結果は松岡氏の主張が妥当であると思われるが、大内氏と益田氏の間に対立が生じた原因は不明確である。しいていえば、益田氏庶子と永安氏による大内氏への訴えから始まったがゆえに、所領が益田氏に返されると同時に、惣領益田兼家が庶子と永安氏を逆に訴えた可能性が指摘できる。
 以上とは別に、祥兼が京都へ上洛中の孫次郎兼弘に送った5月28日付けの書状がある。年代比定の材料となるのは「森和州」である。後に出家して良智となる人物であるが、この時点では「大和守」であった。彼が大和守であったことが確認できるのは、康暦2年2月27日の大内奉行人奉書である。そして出家が確認できるのは永徳2年閏正月29日の森良智書状であり、この間に出家したことになる。康暦2年の6月には益田氏と大内義弘の対立が深まっているので、書状はそれ以前のものとなる。
 この書状に関連し、永徳3年の将軍の安堵を獲得するために京都へ上洛した人物に下野守がおり、井上氏はこれも益田孫次郎兼弘と同一人物であるとされるが、永徳3年8月の祥兼置文の段階でも「孫次郎兼弘」であり、別人で、上洛した時期も孫次郎兼弘の上洛の方が早く、別のものである。

益田家文書の無年号文書(1)

 益田家文書には、宛名が切り取られたものとともに、無年号文書が多い。南北朝期のものの一部について、年代比定を試みてみたい。
①明徳4年12月、大内氏は益田次郎兼家に益田庄地頭職を返している。その背景にはどのような事態が生じていたのだろうか。松岡久人氏はその直前に、大内氏と益田氏が戦争状態にあったとされたが、井上氏は、その無年号文書(後の③)を永徳元年に比定された。すなわち、康暦年間には大内氏と益田氏が対立したが、永徳元年に両者の間で和解が成立し、永徳3年に将軍義満が益田氏の所領を安堵した後は、両者に深刻な対立はなかったということである。
 ただ、関連文書をみると、松岡氏の言われるように深刻な対立があったとするのが妥当な評価ではないか。すなわち、①と同時に出された②奉行人奉書では、守護代右田氏に対して、益田地頭職を益田氏に打ち渡すとともに、要害を破脚せよと命じている。そして③奉行人奉書では、益田城衆に対して、替わりの所領を与えるので、益田地頭職を去り渡すように命じている。ということは、大内氏方が益田氏を攻撃し、一旦は益田地頭職を益田氏から没収し、攻撃に参加した国人に恩賞として与えていたことになる。②で破脚が命じられた城は益田城攻撃のために設けられたものであろう。
 その前後には関連史料がないが、松岡氏が指摘された④年未詳6月9日付けの、大内氏奉行人から永安左近将監宛の書状の年代が問題となる。益田へ発向し、七尾城へ差し寄せることを述べ、永安氏には遠田城と不足ならば長野庄内安富入道の城の半分を与えるとしている。そしてこれに関係する史料が⑤嘉慶2年11月19日の大内氏奉行人奉書、⑥年未詳2月25日右田弘直書状、⑦明徳5年3月28日大内氏奉行人奉書である。
 ⑤では逆に永安左近将監に遠田城を弛(と)くべきなのに、今なお誘(こしらえ)え持っていることを批判している。この時点では大内氏は益田氏側に立っている。⑥は、弥富名上下村に関する永安太郎の再度の訴えは、過去に敗訴となったもので不当であるとの益田祥兼の主張を、守護代右田が自分も賛成だとして大内氏奉行人に伝えている。⑦は、所領を返された益田兼家が、永安太郎が弥富名上下村の去り渡しに抵抗しいるのは不当だと主張したのを受けて、守護代右田が永安太郎に、異議があれば上洛して主張せよと伝えることを命じている。

益田家文書の後醍醐天皇綸旨(4)

 益田家文書ではないが、新出周布家文書(周布家系譜収録の写)に、元弘3年4月29日後醍醐天皇綸旨がある。久留島氏の科研報告書で紹介されているが、目録、翻刻文ともに4月となっている。ところが、『鎌倉遺文』41巻をみればわかるように、4月時点では「任一同宣旨」の宣旨(7月26日)は出されておらず、「8月」が写される段階で誤って「4月」となったのだろう。
 8月29日なら益田家文書の御神本兼衡への当知行安堵の綸旨と同じである(益田氏惣領は当知行安堵ではすまず、没収された本領安堵が必要であった)。周布氏への綸旨が、益田氏惣領とは違い、宛所を本文中に記す形であることがわかったのは重要な成果である。兼衡が御神本氏内でいかなる人物であったかは不明だが、いずれにせよ、周布兼宗はこの時点まで上洛し、7月2日には、永安別符の弥二郎兼員とともに、足利尊氏に着到状を提出していた。そのため、動乱開始時の石見国内の戦闘には登場しない。
 石見国内に残っていた人々は、石見国目代に申請し当知行安堵の国宣を得ているが、そのリストに丸毛兼幸が9月14日に与えられた国宣が漏れていたので追加する。丸毛別符一分地頭職とともに安富郷地頭職を安堵されたのである。
 これは綸旨ではないが、益田家文書には(元弘3年)4月27日足利尊氏軍勢催促状が残されている。これも宛所の部分が切断されているが、その形式を他の尊氏軍勢催促状と比較すると略式であり、益田氏惣領宛のものである可能性は低い。となると、周布氏と同時期に上洛しその文書が益田家に残されている御神本兼衡か永安別符の兼員に与えられたものであろう。

益田家文書の後醍醐天皇綸旨(3)

 益田家文書の建武2年2月11日後醍醐天皇綸旨についは、すでに述べたように切り取られた宛所には「益田次郎」と記してあったと思われる。ところが、そこで返された益田本郷、小石見郷、津毛別符、匹見別符(地頭職)のその後の状況は複雑である。それがために、宛所は三隅氏ではないかとの疑念がなかなか解消できず、「益田氏惣領制の再検討」を報告後20年近く経った今でも論文にしえていない。
 益田本郷を益田兼世とその子たちが支配していたのは延元元(建武3)年7月26日内兼茂軍忠状によって確認できる。益田城に立て籠もった幕府方として兼世の子「朝敵人大将益田二郎太郎兼行」・「同舎弟三郎」がみえているのである。これに対して、建武2年の段階で小石見郷を支配し、隣接する周布郷内の所領に乱妨を働いたとして訴えられているのは、三隅二郎入道信性であった。すなわち、9月19日に石見国守護高津道性(この人物は高津長幸の父であろう)は、三隅氏にこの問題で実(参)決することを命じている。
 残る津毛、匹見両別符も後まで益田氏と三隅氏の間で係争地となっているが、この時点では三隅氏の支配するところとなっていたのだろう。建武2年段階では、本領であるとして惣領益田兼世が代表する形で返還されたが、実際には一族で過去の経緯や後醍醐への貢献に基づき分配したのであろう。その結果、益田本郷以外は三隅氏領となった。それを建武3年11月に足利尊氏が山城本国寺に造営料として寄進している。
 それは反幕府方の所領であったことは確かだが、その前提としては建武政権下で闕所地となっていなければならなかった。周布氏惣領もこの段階では後醍醐方であるが、ここにみえないのはそのためである。後醍醐は旧北条氏ないしは守護関係者領として闕所地となっていた4カ所を益田兼世に代表する形で与えたが、新政権を樹立した尊氏は後醍醐の処分を無効とし、益田本郷を益田氏に認めた以外は、寄進したのだろう。

2010年3月14日 (日)

丸毛兼幸について

 丸毛兼頼についてはすでに述べた通りであるが、安富家文書に登場し、丸毛別符と安富郷を支配した丸毛兼幸についてまとめてみたい。兼幸は、丸毛別符内堀越村渋谷名を父名宣から譲られ、安富別符を祖母連阿から譲られており、時に軍忠状の中で安富彦三郎を名乗る場合がある。
 井上氏は両方の所領を支配することから3つの可能性を指摘し、最終的には兼幸は安富氏の庶子である可能性が高いとされた。確かに群書類従本御神本氏系図には兼幸は登場しないが、最も信頼性の高い竜雲寺蔵三隅氏系図には、丸毛氏として兼幸とその父兼貞が記されており、兼幸は丸毛氏の庶子であった。
 すなわち、丸毛氏初代兼忠が小笠原氏から養子兼頼を迎えて惣領としたため、実子兼信は庶子となった。兼信の子について、群書類従本は兼氏のみを記すが、三隅氏系図では、もう一人九郎兼貞とその子彦三郎兼幸を記すのである。庶子であるがゆえに、兼幸が父から譲られたのは、堀越村渋谷名のみであった。これに対し祖母連阿から安富名を譲られているが、その時期は国宣で当知行安堵を受けた元弘3年以前であった。
 兼幸の祖母連阿が安富郷を支配した周布氏の出であることは当然である。連阿の娘が兼貞との間に産んだのが兼幸であったのだろう。そして連阿は娘の嫡子兼幸に安富郷を譲った。井上氏の想定のひとつである、兼幸の妻が連阿の孫であるとの説は考えにくい。
 丸毛氏惣領となった兼頼は建武2年の中先代の乱で討ち死にしているが、その子惟頼はその名に「兼」を付けておらず、丸毛氏惣領となった可能性は低い。兼幸が丸毛氏惣領となったのであろう。ただ、安富家文書には正平10年の兼幸譲状が丸毛別符に関する最後の文書であり、丸毛別符の川の下流部を支配する三隅氏が丸毛別符を支配したのであろう。この点は永享12年の石州諸郡段銭帳が記すとおりである。兼幸の系統は安富郷を中心所領として活動し、名字も安富の使用が一般化する。

京極氏と国人(2)

 大原郡の香折新宮地頭職を得た三沢氏も三沢氏庶子であろう。ただ、承久の乱で地頭となった経泰は三沢(飯島)氏ではなかろう。その後の婚姻関係の中で、三沢氏庶子が相続したものと思われる。以下はその三沢氏庶子の譲り状の一節である。
 「今度九州就御発向、雖無足、御屋形様御大事と申し、殊ニ惣領方大儀たる間罷向者也」これを引用した長谷川氏は、「幕府・守護の賦課する軍役を忌避しようとする三沢氏惣領の姿勢を窺える」と評価されたが、正直言って何故そのような評価になるのか、はじめて読んだ当時は理解できなかった(正否を含めて判断できず)。
 現時点で史料を読むと、誤読(というより強引な解釈)であると思う。素直に読むと、三沢氏庶子が九州にまで出かけていったのは、守護京極氏との関係と、惣領三沢氏との関係を重視したからであるとの意味である。赤穴郡連置文の中で、守護と惣領との関係を重視する赤穴氏の姿(優等生ぶり)が描かれているのと同じであろう。また、これも赤穴賢栄置文で、「公方・守護殿の大事」と「赤穴の大事」の時について書かれているが、大儀=大事である。おそらく長谷川氏は大儀=懈怠と考えられたのだろうが、文脈から考えても、当時の用法からみても成り立たない。
 自分を含め勘違いはよくあるので、論文の執筆者は仕方がない面がある。不可解なのは、この論文は、当時の指導教官は言うまでもなく、多くの研究者の目に触れたはずなのに、指摘がなかったのかという点である。このことが、自分が論文を書く時に、常に感じるところである。これまでの説を変更・進化できるのはよいが、その一方では「それにしても」といつも思う。それが「資料の声を聴く」とのブログ名の理由である。

京極氏と国人(1)

 鎌倉期の守護佐々木氏の所領については、『塩冶誌』と「鎌倉幕府の成立と出雲国」でまとめたが、室町期の守護京極氏の所領については、きちんと考えたことがなかった。南北朝の動乱により出雲国内の国人が一族間で対立しながら戦い、山名氏方の国人が没落したり、国外に去ったことにより、出雲国内の政治状況に大きな変化があったことは確実である。そうした中、闕所地の給与権を持つ京極氏の存在は大きかった。直轄領も国内の大半の郡にあり、佐々木氏の倍以上の所領を支配したであろうし、闕所地給与権を梃子に国人の家臣化を図ったのである。
  国人の側からいえば、京極氏と結びつくことが所領拡大の最も有効な手段であった。佐波氏や三沢氏が国内に大小多くの所領を有したのも、京極氏との関係なしにはありえなかったであろう。とはいえ、京極氏と国人との間には常に緊張・対立関係も生まれ得たので、両面をとらえる必要がある。
 明徳の乱で没落した山名氏の所領であった横田庄を三沢氏が得ていることについて、これを京極氏の弱さと考えたことがあったが、何のことはない、三沢氏が京極氏に接近することにより、その支配権を得たと考えるべきであった。仁多郡内の三処郷や阿井郷にしてもしかりである。三沢氏の系譜については、不明な点が多いが、三沢氏惣領が明徳の乱で山名氏とともに没落したことは確実であろう。その跡を継承した三沢氏庶子が、京極氏との関係を背景に所領を拡大したのである。

2010年3月10日 (水)

周防大島、人口2万人切る

 3月10日の中国新聞「内政総合」(P3)の記事の一つである。同じ面には、全国紙でも採り上げられた、地方空港の需要予測達成率で明暗が分かれたことも述べられている(中国地方8空港)。島根県の萩・石見空港は全国ワースト2だったようだが、なお、今後岩国空港の民間での活用が始まればさらに状況は悪化するとの記事も、地元新聞にあった。大阪便、東京便とも4往復を想定していたが、実際には1便のみである。
 周防大島は周防国と安芸国の境目に位置し、幕末期には爆発的な人口増加がみられたところであった。流通の拠点として周辺各地から人々が仕事を求めて押し寄せた(社会増)のが主たる原因であろう。石川敦彦「近世長門周防の人口統計」(山口県史研究3号)では、食料の増産による自然増であるとするが、現実的な分析ではない。
 その立地条件もあって、民俗学者として全国を旅した宮本常一氏と、海をテーマとする歌謡詞で知られる星野哲郎氏の出身地として、記念館が整備されている。
 話を人口に戻すと、ピーク時の1950年代には6万3千人であったのが3分の1以下となり、2004年に4町が合併して周防大島町が誕生した時点からみても2400人以上減少したという。立地条件が変わると、人口動態が大きく変わる例である。
 島根県についてみると、西部の石見国は江戸後期に人口の伸びが停滞し、出雲国との差が大きくなった。出雲国にしても、全国の動向と比較すると、19世紀以降は人口の伸びは鈍化し、これが近代以降の状況につながっている。一藩と藩主の努力ではどうにもならない状況が進行していたようである。
(付記)以後、しばらくは、HPの整備に力点を置きたい。ブログの方は、その状況を報告したり、「日記・コラム・つぶやき」が中心となろう。開設1年半で、ようやくアクセスが1万を超えそうであるが、日々の更新にはネタが必要で、そのためにも充電が必要。http://homepage3.nifty.com/koewokiku

2010年3月 8日 (月)

石見国諸郡段銭帳(3)

 邑智郡では、石見国大田文の都賀(かわへのちよまつ)、あすな、くちは、ながたへつふ(いずれも江川沿いで、郡内南東部)が段銭帳でみえない。長田別符は鎌倉時代には幕府に仕える明法家坂上氏の所領であった。実質的には幕府領で、それが室町幕府に継承された(没収され室町幕府領となった)のだろう。
 都賀と阿須那は後に備中国から進出した高橋氏がその拠点とした場所であるが、この時点では幕府領で、後述の石見吉見氏と同様に、これ以後、その支配が追認されたのだろう。高橋氏は南北朝期には出羽氏を攻撃しているが、「人はなぜ歴史を残すのだろう」の赤穴氏と佐波氏のところで述べたように、応永30年(1423)頃には高橋氏と佐波氏の間で激しい合戦が行われている。
 石見国西南端の吉賀郡は、将軍家御台所料所や守護領が設定されていたが、この時点では、すべてが吉見氏の支配するところとして、段銭を賦課されている。応永末年(1420年代)に御台所料所の代官である能登吉見氏が、石見吉見氏の排除を幕府と益田氏など周辺領主に求めていたが、結局は在地(石見吉見氏)が権威(幕府)を圧倒し、幕府と守護も石見吉見氏の支配を追認せざるをえなかったことになる。応永32年(1425)には益田氏と吉見氏との間で所領の堺をめぐる対立について契約が結ばれている。
(付記)段銭帳の署判者守弼・清重のうち、清重は守護山名氏の家臣高山氏とみられ、この帳面は守護方が作成したものである。となると、ここに見えない所領の中に守護領は含まれず、大内氏領と幕府領のみということになる。

2010年3月 7日 (日)

石見国大田文について(3)

 大田文の記載内容の内、後に追記された部分については、井上氏が実証的に検討を加えられた。今回、石州諸郡段銭帳をみてみると、両方の写しは同じ右筆の手になる可能性が高い事とともに、大田文の追記の多くが、写した際の段銭帳との照合の過程で付されたとの感触を得た(修正:追記多くがなされたのは、段銭帳作成時であろう)。
 段銭帳にみえない所領があるのは、大内氏領や幕府とその関係者領があるためであるが、それ以外に、益田氏とその一族を中心にその時点の支配者で所領をまとめた上で公田数を記しているからであることは前に述べたとおりである。
 一方、大田文の所領の肩に付されたものは、①名などが後のどの所領になったかという点と、②福屋氏と周布氏の所領であった。②について、段銭帳では、周布と福屋には「所々知行分」との注記がなされていた。その「所々」を大田文で確認し、「ふくや知行」、「すふ知行」と追記したのではないだろうか。
 ①については、段銭帳に「有福」がみえるのに対し、大田文の「かしき」に「つの々かう内ありふく」と追記し、同じく段銭帳に「井原」があるのを受けて、大田文の「ひさなか」に「いはら」との追記があるのである。その他の追記である「出羽」「下出羽佐波」「都賀」「佐波」「かわもと」についても、段銭帳との照合のため記された可能性が高い。以上、段銭帳と大田文は同時期に写され、両者の照合がなされた結果、大田文の所領名の肩に追記がなされたのではないか。
   写した時期については、段銭帳の端裏に「石見国古帳引写 本書屋形江進之」とあり、大内氏が久しぶりに石見国守護となった15世紀末(政弘か義興か)ではないか。

石見国諸郡段銭帳(2)

  「益田 七十二丁九段半」について、井上氏は益田本郷の公田数とされた。この点について確認したい。永享12年に益田氏が義教から安堵された所領は、①益田庄本郷、②東北両山道村、③弥富名、④乙吉・土田両村、⑤岡見村、⑥飯田郷、⑦伊甘郷、⑧宅野別符、⑨得屋郷地頭職・同四分方等である。
 これに対して、天文16年(1547)に益田氏が大内氏奉行人に所領の状況(公田数、貫高、当知行の有無)について報告した史料(益田家文書巻75)と比較する。ここでは①6町5反、②2町2反大、③2町5反、④1町8反、⑤2町、⑥2町8反、⑦3町4反、⑧2町3反、⑨1町6反となっている。そして井上氏は①が永享12年の77町余から6町5反へ10分の1以下に低減されたとされる。
 永享12年の段階では益田氏領となっていない所領を永享12年と天文16年で比較すると、高津(1町4反)と市原(2町5反)は同一であり、吉田(5町→2町4反)、須子(1町9反大→1町8反)、安富(丸毛を含む5町1反→安富のみ1丁2反、後者では丸毛は津毛・疋見を併せて6町)は微減から半減程度(吉田)である。また、得屋は永享12年の公田3町が天文16年には公田1町6反と、これも半減している。
 吉見氏との関係で支配が変動した所領については、永享12年の「下黒谷4町2反小20歩」が、天文16年には「黒谷4町5反」と半減し、永享12年の「豊田(地頭・領家)11町」が天文16年には「豊田付横田・梅月・俣賀4町1反」と3分1近くに減少している。
 永享12年の益田氏領の内、邇摩郡内の宅野別符を除いたものの、天文16年の公田数は、22町8反大であり、これでも77町余の3分1以下になっている。益田氏の立場が強化されたことがわかる。
  以上のように、77町余は益田本郷ではなく、益田氏領の公田数であると考えられる。

石見国諸郡段銭帳(1)

 益田家文書には貞応2年(1223)の石見国大田文とともに、室町期の実態を知ることのできる永享12年(1440)の表記の史料が残されているが、こちらはあまり利用がされず、石見国における公田の低減化を示すものとして使われている程度であろうか。名称のように郡毎に記すが、邇摩郡のみはみえない。大内氏の分郡支配のためだとされるが、その支配の実態もよくわからない。
 石見国府の所在地とされる伊甘郷もみえないが、益田氏、三隅氏、福屋氏、周布氏については、「所々知行分」との記載がある場合があり、一部を除き所領をまとめて公田数を記している可能性が高い。それを踏まえて、ここに登場しない所領について述べる。
 安濃郡では、①波祢庄、②行恒、③永久、④用田、⑤大田南、⑥志学がみえない。このうち、③④⑤については、南北朝初期には幕府により京都・本國寺の造営料所に寄進されている。反幕府方の所領であったとの考えもあるが、旧得宗領などとして幕府が得た所領だから寄進できたと考えるべきである。他郡内の同様の所領に、⑦邇摩郡久利郷、⑧那賀郡福屋郷・⑨小石見郷、⑩邑智郡上下出羽郷、⑪美濃郡疋見別符、⑫津毛別符がある。
 ⑦は14世紀中頃には園城寺造営料としてみえるが、段銭帳では邇摩郡内なのでみえない。⑧はその後福屋氏が幕府から所領を認められたため、「福屋 所々知行分 公田三十五町九段九十歩」としてみえる。⑨は段銭帳にはみえない。⑨は南北朝期には三隅氏領であったが、動乱の終結とともに幕府領となったのだろう。それが再び三隅領となるのは15世紀後半のことである。
 ⑩は文和元年には③④⑦⑧⑨とともに園城寺造営料として寄進されているが、翌年には君谷氏に勲功の賞として与えられている。そのため段銭帳には「公田肆町」とみえている。⑪⑫は建武2年には益田氏惣領に与えられたが、実質的に反幕府方の三隅氏が支配していた。そしてその後、幕府から三隅氏の支配が認められており、段銭帳の「三隅 公田五十二丁三反」に含まれている可能性が高い。同様に「益田 公田七十二丁九段半」とあり、これとは別に「益田所々知行 徳屋 公田三丁」とあるが、前者は益田庄以外の益田氏領(永享12年2月に将軍義教が安堵)を含む数字であろう。
  残る所領のうち、①は庄内朝倉分が文和2年に石見国守護荒川氏により小笠原氏と同族の武田氏に預けられている。波祢庄も幕府(守護)方が闕所としていたのであろう。②は、延徳2年(1490)には幕府奉行人飯尾氏一族が、守護や佐波氏による押領を幕府に訴えている。⑥については、関連史料がなく不明である。
 以上、おおざっぱな分析であるが、邇摩郡以外の段銭帳に登場しない所領の多くは幕府とその関係者(守護を含む)が支配する所領であるとの説を提示したい。

2010年3月 1日 (月)

守護京極氏の支配をどうとらえるか

 ここのところ、中世後期の記事が増えている。大学では中世前期を主に学んだので、後期はよくわからないというのが実感であった。そのあたりは、1989年刊の『竹矢郷土誌』中世編(担当)をみればよくわかる。南北朝期までは、オリジナリティが十分あるが、中世後期は、史料収集も不十分なまま、とりあえずトレースしたというところか。
 美保関が従来いわれていた幕府御料所ではなく、京極氏領であることを初めて明らかにするなど若干の発見はあるが、尼子氏についても、大学の1級上の山室恭子氏に倣い発給文書から若干の整理をしたのみで(このような発想は中世前期の古文書学を知っている人からすれば当然のもの)、毛利氏については全く言及していない。
  それが、2009年刊の『出雲塩冶誌』中世編(担当)では、かなりわかってきたと思っていたが、そうでもなさそうだ。尼子氏研究の前提として京極氏の支配の解明が重要であり、そこでも京極氏について述べているが、今読み返すと不十分きわまりない。ここのところは長谷川氏の研究について言及することが多いが、久しぶりに『戦国大名尼子氏の研究』をざっと読んでみた。長谷川氏による研究のリニューアルを期待したいというのが正直な感想である。当然、京極氏について理解するためには室町幕府の理解が前提となるが、近年の研究は果たして進歩しているのだろうか。ブログで述べた点を近年の研究とすりあわせてみる必要を感じた。http://homepage3.nifty.com/koewokiku

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