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2010年2月

2010年2月28日 (日)

京極氏と有力国人に関する史料

  『大社町史』史料編1888号文書は、7人の人物が10月3日付で日御崎検校の相続について確認したことを、「御崎又次郎」に伝えたものである。町史では年未詳ながら天正2年前後のものとして配置されている。ところが、実際は、寛正5年(1464)10月20日に京極持清が検校又次郎に日御崎社領所々の諸役を先例に基づき免除するとともに、牛尾忠実が6月25日に神門郡荻原分1町を寄進したことを安堵した文書の関連文書で、連署者は守護京極持清と深い関わりを持つ出雲国の有力国人である。
 署判順に記すと(1)繁宗(2)為通(3)為忠(4)高宗(5)忠清(6)連頼(7)□□(孝連)となる。確実に比定ができるのは(3)為忠で、文明8年(1476)に荻原の牛尾田を日御崎検校に寄進している三沢左京亮為忠と花押が一致する。為忠は当時の三沢氏惣領為忠の子と考えられている。当時京極持清から命令の執行を命ぜられている国人は、三沢氏以外に、牛尾氏(複数)、神西氏、広田氏、朝山八田氏がいる。(2)為通は文明年間に「湯為通」が確認できるが、「通」を通字とする神西氏の可能性が高い。同様に(5)忠清は、牛尾忠実の一族であろう。他については、比定するに足る情報を欠いているが、広田氏が含まれる可能性は高いのではないか。
 長谷川氏は牛尾氏を京極氏への従属性が高く、三沢氏は独立性が高いとされたが、荻原が京極氏により牛尾忠実に与えられ、次いで三沢為忠が与えられているように、問題は簡単ではないと思われる。また、従来、日御崎社と出雲大社の問題で登場した古志氏や大熊氏が含まれるかどうかは不明とせざるをえない。京極氏と国人の関係を考える重要史料でありながら、時代比定が違っため活用されていないという事で紹介した。
(補足)寛正5年の京極氏奉行人奉書について触れるのを忘れていた。奉行人が後花園天皇の譲位に伴う段銭について、朝山郷は幕府御料所であるので、国の催促は停止するように、下河原周防守、松田備前守、大西筑後守に命じている(朝山八幡宮文書)。たまたま残った文書であるが、興味深いものである。

2010年2月21日 (日)

尼子氏家臣団に関する史料(3)

 (16)馬田氏は、出雲佐々木氏の一族で、佐々木泰清の長子義重からはじまる。大東庄地頭土屋氏の娘との結婚を通じて大東庄に進出して、在地の馬田を苗字とするようになった。
すでに述べたように、文安元年の御番帳にも馬田三郎左衛門尉がみえている。(22)疋田氏は、竹生島奉加帳に出雲州衆として「疋田長門守」が、富田衆として「疋田左衛門尉」がみえている。京極氏とともに近江国周辺から入部した一族であろう。この二人が天文22年の連歌を興行した「左馬允」と「長門守」であろう。左馬允は袖師浦を含む津田郷内を支配していたのであろう。
 (15)佐世氏は、軍記物の記載を除けば、連歌師宗養の記録で初めて登場する。そして天文24年から永禄年間には奉行人奉書の連署者として登場する。尼子氏滅亡後も毛利氏の有力家臣として存続した。その佐々木氏系図によると、佐々木泰清の子頼清の系統であるが、惣領家は観応の擾乱で反幕府方となったこともあって没落し、庶子が出雲国内で存続したたと思われる。文明4年には日御崎社領への出雲大社による押領の停止が佐世氏や同族の湯氏などに命じられている。そして文明11年の清水寺奉加帳には出雲国大原郡佐々木佐世為頼がみえている。出雲国の有力国人であったことは間違いない。ところが、佐世氏系図にはこの為頼は登場しないのである。
 一方、同族の湯氏は、応仁文明の乱で、馬田氏とともに西軍山名氏方となり尼子氏の攻撃を受けている。その後、清水寺奉加帳に「湯佐々木信濃守経長」と「湯次郎衛門尉為通」がみえる。亀井氏が残した湯氏系図に登場する人物とは一致しないが、竹生島奉加帳に登場する湯信濃守と湯東の内、信濃守は文明11年の湯信濃守経長の子孫であろう。
  佐世氏と湯氏を比較すると、佐世氏は文明11年の佐世為頼と天文末年以降の佐世清宗の間には斷説の可能性がある(未完)。

尼子氏家臣団に関する史料(2)

 以上の中に出雲州衆はほとんどみえない。また、多胡氏と佐世氏は尼子氏の有力家臣であるにもかかわらず、天文9年の竹生島奉加帳にはみえない。その理由を検討しつつ各氏についてみていきたい。
 (5)の牛尾氏は本来出雲州衆で、竹生島奉加帳には、惣領牛尾民部左衛門と、庶子である北氏、大石氏、八所氏、米田氏、金尾氏がみえている。北氏は牛尾新庄西北部の北村と忌部郷西部の一崎を支配していた。これに対して惣領牛尾氏は新庄東側の三笠山に本拠を置いていた。同じく庶子の大石氏は熊野庄北部の大石を、米田氏はその南隣の大田、金尾氏は熊野庄北西部の平原、八所氏は牛尾新庄北部の八所と、一族で牛尾新庄と熊野庄、忌部郷内を支配していた。(11)熊野氏は奉加帳には出雲州衆としてみえるが、軍記物では合戦の際の活躍がよく知られている。その支配は熊野大社のある熊野庄南部であったことになる。
 京極・尼子氏との密接な関係を背景に所領を増やした牛尾氏であったが、大内氏の出雲攻めの際に惣領牛尾民部左衛門尉が大内方となり、大内氏退陣後に滅ぼされている。そして、有力富田衆湯原幸清が牛尾氏を継承し、以後は富田衆化している。(12)の牛尾信濃守は生き残った本来の牛尾氏で、惣領牛尾幸清に代わって三笠山城を継承していた。
 (6)の大西氏は信濃国飯沼氏が鎌倉期に地頭として出雲国に入部したものであり、本来は出雲州衆であるが、同じ飯沼氏の出身である立原氏が尼子氏側近となった。同様に、一族の一部は富田衆化し、出雲国西部芦渡郷内にも所領を得、奉行人奉書の連署者にもみえている。軍記物では新宮統討滅にも活躍している。

尼子氏家臣団に関する史料(1)

 これまで「尼子晴久」との題名で述べてきたが、残された問題について気の付くままに述べていきたい。
 天文21年12月3日、尼子晴久は従5位下に進んだ。同日付で修理大夫任官の口宣案が残されているが(佐々木家文書)、関連史料から実際には天文24年頭のことであったと思われる。従5位を記念して連歌師宗養を招いての連歌会が翌年正月に行われた。気になるのは、興行した尼子氏家臣である。会(場所)を順番に記すと以下の通り。
 (1)杵築大社法楽(2)御屋形御千句(3)産前祈祷会(4)乗林坊(5)牛尾遠江守幸清興行(6)大西越中守月次(7)酒屋四郎兵衛尉私宅(8)尼子左衛門大夫殿御興行(9)錦浦一見次多胡浄周興行(10)八重垣参詣途中(11)熊野備前守久家千句(12)牛尾信濃守亭(13)涅槃像手向(14)馬田尾張守慶信千句十梅(15)佐世伊予守清宗千句(16)御崎(17)御屋形御興隆不断連歌会所(18)杵築千家殿興行(19)北島殿興行(20)成相寺(21)馬田所望(22)疋田左馬允袖師浦興行(23)疋田長門守(24)横田岩屋寺来福寺興行(25)大林坊(26)鰐淵寺大蓮坊栄円法印(27)鰐淵寺惣山興行(28)和多坊栄芸阿闍梨興行(29)多胡左衛門尉辰敬興行(30)錦浦。
 正月に杵築大社へ出かけた後、一旦富田に戻って晴久主催の会に臨んだ(1~3)。次いで富田城下町の乗林坊(晴久との関係が深い僧か)、牛尾幸清、大西越中守、酒屋四郎兵衛尉(商人か)の館・私宅に行き、最後に新宮後谷に建立されたばかりの尼子敬久の館での連歌会に臨み、永遠の家の繁栄を祝う歌を送っている(4~8)。富田から北へ向かい多胡氏領錦浦(出雲郷)を経て八重垣神社へ参詣し、さらには熊野から牛尾へ抜けて大東庄の馬田氏、佐世郷の佐世氏を訪問している。
 その後、日御崎社を訪れた後に杵築大社で、尼子氏と千家・北島国造家興行の会に出席した。今度は宍道湖北岸を経由して秋鹿郡の成相寺へ行き、ついで宍道湖南岸の津田郷内の袖師浦で、疋田氏主催の会に出ている。具体的な日数が記されないが、しばらくの休みを挟んで、横田岩屋寺と鰐淵寺に出かけ、最後は多胡氏と深い関わりのある錦浦での連歌会に出席している。宗養招聘には都での生活が長く、連歌にも長けていた多胡辰敬の存在が大きかったのだろう。

歴史と囲碁のブログから(2)

 兄のブログで弟のことに言及したものはあったが、お互いに兄弟のブログにリンクを貼ったりはしていない。それぞれに興味深く、おもしろいので、兄のブログの更新環境が整うことを期待したい。弟のブログでは現在進行中の囲碁棋聖戦(山下-張戦)の難解さ(奥深さ)について、教えていただきたい。結果だけみると「半目勝負」ではなく、プロとしては大差の勝負で、当方のような初心者には何ともわからないが、中途半端に強いアマは長い時間の碁でもミスが多いので、8時間・2日制の碁は意味がないとも述べていた。そこのところをより深い立場から教えていただきたい。確か、弟氏と張氏の過去の七番勝負では、かなり半目勝負があった気がする。
 今話題のフィギュアスケートになぞらえれば、中国・韓国の棋士は4回転を回避して勝ちに徹した碁であり、日本の棋士は4回転に挑戦しては失敗する碁である(ような気がする)。中・韓の一流棋士は、劣勢の場合は難解な勝負手を連発するのであるが‥‥。プルシェンコの主張するのと同様に、囲碁の進化には2日制の棋戦が必要だと思う。将棋の女流名人となった高校生棋士は、序盤の構想には課題があるが、終盤の読みは大変すぐれているという。勝負なら終盤の強さだが、創造性が問われるのは、序盤である。
 また、話は全く変わるが、リコールに揺れるトヨタ自動車の部品コスト3割減要求はどうなるのであろうか。過度のコスト減が部品の質の低下を招いたことは確実であろう。売れる車ではなく、トヨタ自動車が作りたい車を開発し、社会に提案することが肝心であると思う。

歴史と囲碁のブログから(1)

 両方に関心を持つ人もあろうが、歴史家である兄のブログと囲碁の棋士である弟のブログの両方を閲覧する人は少ないのではないか。
 昨年亡くなった藤沢秀行氏のお孫(女性)さんが、史上最年少で囲碁のプロ初段となったことが話題となっているが、女流棋士の特別枠での採用で、一般棋士の採用と同列に論じることはできないとのこと。これは棋士である弟氏のブログで知った。
 とはいえ、大変楽しみな棋士が登場したことは間違いなさそう。政治家のように実力もないのに親(祖父)の七光りで総理大臣になってしまってすぐやめた人(それも短期間にとんでもない愚策を実現)とは違い、初段になって以降は、他の棋士と同様の昇段規定が適用される。
 近世史家である兄のブログは、「部落史序説」のHPを通じて知った。最近は更新が希である(なかなかネタを見つけるのはむつかしいし、日々忙しいのは本ブログでも痛感する)。その後、棋士である弟のブログの存在も知った。囲碁の記事が中心であるが、その他の内容もあり、興味深い。確か、本人は「ヒカルの囲碁」は読んだことがないそうだが、「ヒカル」のモデルとなった棋士としても有名である。当然、秀行氏の弟子である。若い時から「(今は)ヘボだか‥‥(期待できる)」との秀行氏のコメントはよく聞いた。ただ、兄弟子のブログでは、「自分は秀行氏からほめられたことがないが、弟弟子は‥‥」「(初めてあった際に)自分より年下だが強いと感じた」とも述べられていた。兄弟子氏も棋士としては一流ではあるが、囲碁の世界ははるかに深いようだ。

2010年2月15日 (月)

在地と権威(3)

 ただ、年貢を納める名主の立場からは、代官としては在地の塩冶氏などよりも、飯尾氏の方が遙かに望ましかった。そこで、名主層は塩冶氏などに抵抗し、塩冶氏の支配を拒否したのである。塩冶氏・国造家・古志氏連合軍と、幕府(飯尾氏)・名主連合軍の対立は前者が優位に立っていたが、守護京極氏が出雲国内に復帰し、前守護代尼子経久が政治的に復帰すると状況は変化し、永正2年(1505)の尼子氏による塩冶攻撃を経て、同5年(1508)の出雲国西部制圧という事態に発展したのである。
 在地の名主層にとって京極氏や尼子氏の存在は、在地支配を強める塩冶氏・古志氏・国造家の圧力を弱めるという意味で必要であった。しかし、京極氏の支配を継承した尼子氏は、より強固な支配体制を構築していく。領主に無断で土地を売った場合、名主職を没収したり、国外への軍事行動のため動員されたことである。尼子氏とその直臣富田衆による支配は、名主層にとってはより負担となっていく。反面、在地の秩序を維持するには、尼子氏の力が必要であった。
 塩冶興久の乱について、度重なる尼子氏による国外への軍事行動への不満がその背景にあったことを述べた。単に、出雲国の西部と東部の対立ではないのである。尼子氏の支配に叛旗を翻した出雲国西部と南部の国人層の背後には、軍事的動員へ不満を持つ名主層の存在があったのではないか。そして興久の乱で生まれた亀裂が、尼子氏に対する大内氏や毛利氏の出雲国攻撃の際に大きくなった。
 とはいえ、名主層や市場を拠点として活動する商人達にとって紛争を解決する権力が必要であった。尼子氏に替わって外部から入ってきた毛利氏、さらには豊臣政権・徳川政権下の大名のもとで、利害の調整が実現されていった。

在地と権威(2)

 同じく訴えられている朝山八田肥前守は、朝山氏一族で、文明末年頃には、「八田五郎左衛門尉」が守護京極生観(持清)から出雲大社領の問題への対処を命ぜられている。朝山氏惣領清綱は、正長2年(1429)9月には朝山郷など出雲国内の所領を守護により召し放たれたとしてその回復を幕府に訴えているが、一方では、京極高数から佐陀庄内秋鹿分の祢宇・平田を与えられ、清綱の嫡子信綱が寛正5年(1464)11月には京極持清から前記所領の反銭を免除されている。そして、応仁2年(1468)には八田肥前守が出雲国から上洛し、京極生観に出雲国内の状況を報告している。
 訴えた側と訴えられた側の違いはどこにあるのだろうか。吉田氏、塩冶氏、さらには飯尾清房は幕府との関係で所領の支配を認められていたが、その活動の拠点は出雲国外にあったと思われる。一方、多賀氏と朝山八田氏は守護との関係を強めて出雲国内での活動を強化していた。それは妙光院玄覚も同様である。
 以上の点を踏まえると、明応4~9年(1495~1500)の幕府御料所朝山郷をめぐる対立や、大社十二郷内山科家分をめぐる問題を理解することができると思われる。幕府奉公衆塩冶氏も、高清の嫡子貞綱の代から、活動の拠点を出雲国内に移すようになる。そして一旦は、塩冶新九郎が朝山郷代官職に補任されるが、年貢難渋により更迭され、飯尾清房がこれに代わった。ところが、塩冶新九郎は塩冶氏惣領貞綱だけでなく、出雲国造家や古志氏と結んで、飯尾氏に抵抗したのである。ここでも幕府を背景とする飯尾氏に対して、在地を基盤とする塩冶氏、国造家、古志氏が対抗しているのである。

在地と権威(1)

 文明年間に出雲国内の所領をめぐり、文明8年(1476)の庄原村をめぐる飯尾清房と妙光院玄覚の対立と同様の紛争が発生している。訴えられているのは多賀清忠と朝山八田肥前守である。
 多賀清忠は、文明5年(1473)11月には能義郡吉田庄をめぐって吉田貞秀から訴えられている。貞秀の亡父清秀が庶子分である庄内垣名を質として多賀清忠から千疋を借りた。その代わりに垣名の年貢を多賀氏に渡す約束であった。そして約束の期間が過ぎて年貢で借りた額の倍を渡したにもかかわらず、返還されないとして訴えたのであった。これに対して多賀氏側は、寛正5年(1464)に3度に亘って七名を質に210貫文(130貫文、37貫文、43貫文)貸したとして、契約状に任せて吉田庄七名の知行を認められるように求めている。
 清忠は文明7年に、同じく能義郡赤江庄についても、塩冶政通から訴えられている。政通も亡父兵部大輔豊高が赤江庄を質に多賀清忠から借銭をし、年貢を渡したにもからわらず、質に入れた赤江庄が返還されないことを訴えた。そして政通は、楯縫郡久多見保と島根郡長田西郷内坪谷村について、朝山八田肥前守を同様に訴えている。
 政通の父豊高は、兄高清が死亡した時点で、その後継者貞綱が幼少であったため(本来の後継者が死亡した)、一時的に塩冶氏の惣領の地位にあった。一方多賀清忠はと言えば、寛正6年にはその所領を清泉寺住持春浦宗煕和尚に寄進している。その中に、島根郡長田郷内市成村と能義郡内赤江郷地頭分がみえるのである。京極氏との関係で出雲国内に所領を得た多賀氏は、周辺の所領を持つ吉田氏や政通(この場合は赤江庄領家分か)に対して所領を質に金を貸していたのである。近江国が本拠地ではあるが、多賀氏は守護京極氏との関係を深め、飯石郡多祢郷や楯縫郡宇賀郷内にも所領を得ていた。文明4年の出雲大社による日御崎社領の押領停止の幕府奉行人の命令を受けた国人の一人に清忠の子「次郎左衛門尉」(秀長)がみえており、出雲国内にも活動の拠点を持っていた。

2010年2月14日 (日)

出雲国守護と室町院領(7)

 出雲国の室町院領の内、持明院統分については守護との関係が深い事を述べた。これに対して、大覚寺統分はというと、南朝の経済基盤となったこともあり、これまた幕府や守護による没収と寺社への新寄進、幕府方国人への新給与、幕府・守護による支配などが考えられる。
 ⑥岡本保については、国衙分が神門寺へ寄進されている。⑧の来海庄は、室町期以降は幕府御料所となっている。問題はその時期であるが、井上氏は庄内弘長寺の文書目録中、至徳2年(1385)の文書に「佐々木三河守」がみえることに注目し、この時点ですでに幕府御料所となり、塩冶氏が関わりをもっていたとの可能性を指摘されている。同目録には貞治6年4月に「前三河守」もみえているが、これも塩冶氏の関係者(時綱)であろうか。
 さらに目録には応永2年(1395)5月の「西之御所」関係者の発給文書があるが、この当時の「西之御所」とは足利義満の側室で、後には高橋殿と呼ばれる女性である。石見国吉賀郷は室町期には将軍家御台所領となっているが、来海庄も、この時点では高橋殿の料所であった可能性がある。
 ⑨塩冶庄(郷)はいわずと知れた塩冶氏の本領である。⑩の淀本庄は鎌倉期の地頭は中沢氏であったが、興国元年(1340)には地頭職が南朝後村上天皇から恩賞として菅氏に与えられている。前地頭は幕府方であったのであろう。⑪の新庄は暦応2年(1339)に地頭職が足利尊氏により京都来迎院へ寄進されている。逆に前地頭が南朝方であったのであろう。

妙光院玄覚と法王寺

 文明8年(1476)8月、飯尾清房が庄原村代官妙光院玄覚を訴えている。32貫文を玄覚から借り、それを文明6年分の年貢で弁済したのに、玄覚側はまだ借金が残っているとして借用状を返さないというのである。玄覚がかなりの経済力を持っていたことがわかるが、この妙光院玄覚は、文明4年4月には、前幕府政所執事伊勢貞親から幕府御料所朝山郷内の志賀々、野尻、下畑を元来寺領であったとして寄付を受けている。寺とは朝山郷内野尻にあった比叡山末寺の牛蔵寺である。
 玄覚の置文によると、「當寺再興」のため仙道7ヶ村内の東3ヶ村を還補されたとしている。次いで文明5年には、隣接する飯石郡種郷内別所、里坊、坂本等を、支配する多賀氏の惣領と庶子が応仁・文明の乱で敵(西軍山名)方であるとして、取り戻すことに成功している。現実には多賀氏側が抵抗したため、幕府が多賀氏に押領停止を命ずるとともに、国内の有力国人(佐世・広田・宍道・村井氏)と守護代尼子清貞に寺家雑掌に沙汰付けるよう命じている。
 一般的には庄園の支配は国人の押領により有名無実化するとされるが、玄覚の場合は、幕府御料所内の寺であることを利用して寺領の回復に成功し、その一方ではこれも御料所となっていたと思われる福頼庄内庄原村の代官を務めていたのである。そして、文明18年(1486)には、「法王寺」として朝廷の祈願寺に指定されるとともに、勅額を与えられている。  ちなみに、この牛蔵寺は建武の新政時には三刀屋氏が国外を転戦する隙をついて、三刀屋郷を押領したとして訴えられている。

2010年2月 6日 (土)

康正2年造内裏段銭にみえる出雲国の所領(2)

 奉公衆のリストはいくつかあるが、文安年中の結番帳(蜷川文書)には、出雲国関係では、宍道氏、鞍智氏、塩冶氏、吉田氏、馬田氏などが記されている。宍道氏は尼子氏が京極高詮の子高久を祖とするのと同様、高詮の子秀益を祖として出雲国内に所領を得ている。塩冶氏と吉田氏は鎌倉時代以来の佐々木氏一族である。残った馬田氏は鎌倉中期の守護佐々木泰清の長子義重の子重泰が母である大東庄の地頭土屋六郎左衛門入道の娘との関係で所領を獲得したものであろう。
 以上の氏以外に、文安結番帳の佐々木井尻能登守と佐々木延福寺対馬守も能義郡井尻保と島根郡加賀庄内延福寺を支配していた京極氏の関係者であろう。井尻保内の八幡宮の棟札によると、鎌倉~戦国期をつうじて、守護である佐々木氏、京極氏、尼子氏が造営に関わっており、佐々木井尻氏も京極氏関係者であろう。
 また、正長元年(1438)から永享2年にかけての杵築大社三月会の負担引付によると、当時の加賀庄が、加賀方・野波方・三津浦、柏原方・延福寺などに分かれ、その支配者として宍道殿と並んで延福寺内遠江殿がみえる。佐々木延福寺対馬守と遠江殿はともに京極氏一族と思われる。
 福頼庄が現在の斐川町東部の庄原から学頭にかけての地域であることは以前述べた通りである。そのうち庄原は文明8年(1476)には幕府奉行人飯尾清房の所領となっていた。塩冶郷、朝山郷、千酌等と同様、幕府御料所となり、飯尾氏が代官となっていたのだろう。

康正2年造内裏段銭にみえる出雲国の所領(1)

康正2年(1452)の造内裏段銭并国役引付にみえる出雲国内の寺社領では、鰐淵寺領、寳寿院領雲州飯田、速成就院領福頼庄、鴨神領がみえる。鰐淵寺領については、永享10年(1438)には、将軍義教と守護京極持高から比叡山青蓮院が段銭免除と守護使不入を認められている。次いで、康正2年(1452)には将軍義政が守護使不入を認めている。引付により造内裏段銭を負担しているが、守護ではなく、直接納入していた。他の寺社領も同様で、守護使不入を認められていたことがわかる。寳寿院、速成就院、鴨社ともに幕府から信仰を受けていた有力寺社である。
 これに対して武家領としては、塩冶三河守領と杉原兵庫助領安田庄、さらには岩山美濃守領大峯国(所在地不明)がみえる。いずれも幕府奉公衆の所領である。杉原氏は備後国の奉公衆であるが、安田庄はそれ以前においては出雲国奉公衆朝山氏が支配していた。朝山氏が拠点を畿内周辺に移すとともに、杉原氏領となったのであろう。岩山美濃守は京極高氏の兄弟信高を祖とする一族である。同じ兄弟の時満を祖とするのが奉公衆で且つ、天文9年の竹生島神社奉加帳に尼子氏の一族衆としてみえる鞍智氏である。

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