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2010年1月

2010年1月31日 (日)

戦国期の古志氏について(2)

 比布智神社の史料に登場する信綱の父とされる義綱が古志氏惣領である点は再検討が必要なことを述べた。神社そのものも、現在の位置に移動したのは17世紀前半の寛永年間であり、それまでは保知石にあり、史料にも「保知石大明神」と記されている。とすると、信綱その人も古志氏惣領ではなく、保知石を支配した庶子ということになる。
 保知石は芦渡郷の一部であり、芦渡郷を支配したのは、古志氏初代の義信の庶子彦次郎貞義で、芦渡郷内保知石は同じく庶子である三郎貞信が支配した。義信の代に芦渡郷を得たことは以前のブログで述べたところである。
 三郎貞信の子について、系図は五郎直高と次郎時直しか記さないが、「三郎」も「貞」・「信」を名乗るものがいないのは不自然である。そうしてみると、三郎で「信」の字を付け、保知石を支配している信綱は、本来、貞信の系統に属するという想定が可能である。
 以上をまとめると、戦国期の古志氏は、古志義信の庶子で保知石を支配した貞信の系統につながるのではないか。出雲国が京極氏の領国となった時点に、貞信の系統で山名氏とともに備後国に移住した一族があり、その中から左京亮が出雲古志氏の庶家保知石氏を継承し、さらには、塩冶興久の乱で古志氏惣領が没落した跡をうけ、左京亮宗信が新たな惣領となったのではないか。その点では惣領久通が没落し庶子三郎左衛門尉が惣領となった神西氏のケースと同様であった。
 尼子氏にとって、千家国造家と婚姻関係を持ち、備後国にもつてのある古志宗信は重要な存在であった(戦国期の朝山氏も京都との間につてを持っていた)。

戦国期の古志氏ついて(1)

 古志氏については、先に13世紀末に芦渡郷と薗村を得ていたことを述べた。また、『塩冶誌』の中でも長谷川氏の説を検討しつつ述べたが、再度検討したい。
 本来の古志氏惣領は初代義信の嫡子高雅の系統であった。戦国期の古志氏は、高雅の庶子三郎義綱が貞治3年(1364)に出雲国・隠岐国・美作国・近江国の所領を認められて以降、惣領となったように記される。ところが高雅の嫡子次郎宗綱の系統は、応永末年まではその活動が確認できるので、義綱に関する記述は再検討が必要である。
 出雲市下古志町にある比布智神社には神西氏とともに古志氏関係史料が残されているが、それをみると、先ず応永年間の三郎信綱(隠岐守、義綱の子)について記し、しばらく間があいて、16世紀初めの筑前守為信以降を記している。信綱以降は子の三郎氏信、孫の三郎国信、そして曾孫の久信と続くが、久信は二郎であり、その兄弟信照が三郎と記されている。久信の子が為信(筑前守)である。
 古志氏関係史料をみると、15世紀後半の因幡守-左京亮父子と、16世紀初めの筑前守が確認でき、因幡守は備後国守護山名氏のもとで活動し、その子左京亮と筑前守は出雲国で活動していることがうかがわれる。
 筑前守は大永3年(1523)に比布智神社の遷宮を行った筑前守為信と同一人物であろう。為信の兄弟兼信は文明18年(1486)の生まれなので、左京亮と筑前守為信は親子であろう。とすると左京亮は系図で為信の父とされる久信ということになるが、久信は「三郎」ではなく「二郎」であり、ここで出雲国古志氏に養子に入ったのであろう。

塩冶高貞の母について(2)

 『塩冶誌』中世編で述べたように、塩冶氏を考える際に重要なのは初代とされる頼泰ではなく、その子貞清である。彼は「信濃二郎左衛門尉貞清」であり、三郎であった父頼泰ではなく、祖父泰清にちなむ名乗りをしていた。高貞母の父「二郎左衛門」が泰清であることはありえないが、もう一人「二郎左衛門」を名乗る重要な人物がいるのである。それは泰清の長子「太郎左衛門尉義重」と三子「三郎左衛門尉頼泰」の間にあった「二郎左衛門尉時清」であった。
 なぜに嫡子時清に小国隠岐を与え、庶子頼泰に大国出雲をなどといわれたこともあったが、嫡子は時清で間違いない。義重と時清の母は大井氏出身であるのに対して、頼泰以下の弟の母は葛西氏出身であった。『塩冶誌』で述べたように、泰清は出雲国・隠岐国ともに一旦は嫡子時清に譲り、庶子の頼泰と宗泰が出雲国と隠岐国の守護代であった。それが、時清が幕府評定衆に就任したのを契機に、弟二人が守護正員に昇格したのである。
 そして頼泰の嫡子貞清は祖父泰清の地位を継承するとともに、叔父時清の娘と結婚し、その間に生まれたのが、高貞であった。その意味で、清高とともに高貞もまた時清の孫であった。清高の母は、得宗家臣の御内人の筆頭内管領平頼綱の孫(宗綱の子)であった。その関係を背景に、清高と高貞は最後の得宗北条高時の一字「高」を与えられたのである。
 まだ閃いた直後であるが、当たっている確率は高いと思う。
 

塩冶高貞の母について(1)

 出雲佐々木氏は出雲国の政治史において大変大きな役割を果たしたが、その中で最も知られているのは仮名手本忠臣蔵の主人公「塩冶高貞」であろう。1702年1月31日(元禄14年12月15日)未明の討ち入りから208年目にかこつけて、高貞の母について有力な(と思う)説を提示したい。まさにさきほど「ハッ」と閃いたのである。
 答えは『群書類従本』佐々木氏系図に「二郎左衛門女」とあるが(地元に残る諸本には記載なし)、これまで具体的比定はなされていない。写される過程で名字ないしは姓が欠落したのであろうか。ここでは、記さなくても明白な人物の子との仮説に基づき以下に述べてみたい。
 「あたりまえだの‥‥」とは現在の松江市出身の白木みのると、相方の藤田まことのなつかしい台詞であるが、「二郎左衛門」については、それに該当する人物がいるのである。ところが、これまで自分自身を含めてその「声を聴く」ことができていなかったことになる。

2010年1月24日 (日)

尼子晴久(17)

 『尼子氏史料集』には年未詳ながら、この頃のものとして天文12年に「5月3日尼子氏奉行人忠澄書状」が収録されている。御崎に対し寄進していた「伯耆国犬田御神領」について、在所が不作であるのを受けて、ここ一両年は西方公用分を渡すとしている。この時期の飢饉との関係で注目されるが、忠澄についてはこれ以外に史料がなく、不明である。そしてもう一つ、御崎側がこのことを尼子国久へも伝えていることも注目される。
 長谷川氏は国久の塩冶入りを興久の乱の直後とされたが、本ブログでは、関係史料から大内氏撤退後の処置と考えている。天文12年(1543)5月8日に朝山郷で合戦が行われているので、新体制の整備はこれ以後である。確実なのは、天文12年6月26日段階で、千家国造家の家督相続問題で国久が晴久の添状を出しており、国久の塩冶入りはこの頃のことと考えられる。その背景としては、興久の子彦四郎清久の離反が想定できる。また、天文13年春からの飢饉を併せて考えると、忠澄書状は天文13年の可能性が高いのではないか。 
 蛇足ながら、塩冶興久の乱の背景としても、飢饉がからんでいる可能性が指摘できる。享禄元年に多賀山氏を攻撃していた尼子軍は、落城寸前で大雨に襲われ、退却を余儀なくされた。当然、一時的ではなく、攻撃の実行だけでなく、食料の調達も困難となる状況であったろう。そうした中で、尼子経久により享禄3年初めに三度目の出雲大社神前での大読経を行うことが発表され、それに続いて大規模な軍事行動が予想された。そのことへの不満が興久とその与同者をして蜂起させたことは慥かであろう。

尼子晴久(16)

 尼子氏と毛利氏の関係で、大きな影響を持ったのが大内氏の出雲国からの敗退後の状況である。以前、論文の中で吉田攻めの失敗もあり、「毛利元就を避けたかのような印象が強い」と述べたことがある。アウェーでの戦いの難しさという程度で考えていたが、出雲国内の戦後処理があったことも慥かである。最大の問題は三沢氏領横田庄の掌握であるが、この他の国人についても、程度の差はあれ同様のことがあったであろう。千家国造が退転(大内氏に従い国外へ逃れたのであろう)したこともあった。
 とはいえ、この時期に十分な対応ができなかったことが、安芸国の吉川氏が毛利(大内)氏方になることにつながった。論文では天文13年(1544)段階では、吉川氏側に出兵の期待を抱かせる返答であったのが、翌天文14年では消極的となったいたことを述べた。
 横田岩屋寺の「大永年中古記録」の記事は『尼子氏史料集』でも引用されているが、天文13年の記事(この部分は未収録)には、「春ヨリ餓死飢饉不及是非」、「餓死人路次ヲ塞、疫病死人数ヲ不知」とある。前年天文12年秋が不作であったのだろう。出雲部の山間部が不作となるのは気温の低下が主たる原因である。米1升が100文、1俵(単純に計算すると2斗5升入か)なら2貫500文と値段も上昇している。『角川・日本史事典』をみると、天文年間は1石が1貫400文から1貫600文で推移している(ただし天文5年と7年2貫~2貫500文と高騰)。さらに天文11年7月には石見銀山で洪水により多数の死者が出ている。
 尼子氏の吉田攻めから天文13年の間は天候不順による不作の年が多かったのではないか。少なくとも、出雲国の山間部では天文12年秋が大変深刻な不作であったことは間違いない。それは隣接する備後国・安芸国北部でも同様であったろう。このことは尼子氏が軍事的行動を展開するのに大きな制約となった。なによりアウェーでの兵粮の調達は困難であった。このことは尼子氏にとってはアンラッキーであり、毛利氏にとっては体制を立て直す時間が与えられたことになる。

2010年1月11日 (月)

尼子再興戦と福屋隆兼

 福屋隆兼は石見国の有力国人であったが、毛利氏による出雲国攻撃の直前に尼子氏と結んで反乱を起こし、失敗した。一時出雲国尼子氏のもとへ身を寄せたが、和平の妨げとなるとして国外に逃れ大和国の松永氏のもとへ赴き、次いで阿波国の蜂須賀氏に仕えた。後に娘婿である立原源太兵衛がそのもとを頼って来てそこで生涯を終えたことで知られる。軍記物では、毛利氏への反乱について詳細に述べられるが、その後の動向はほとんど記されていない。
 この隆兼については、『尼子氏史料集』に未収録であるが、『大日本史料』に尼子氏再興戦時の文書が1点掲載されているので、紹介したい。それは永禄13年7月の隆兼感状(玉川文書)で、7月25日に出雲国宇禰路で、毛利方の山内氏と戦った際の高杉助五郎の戦功を賞したものである。同年2月の布部山の合戦で毛利方が勝利した後も、尼子方との間で激しい戦闘が続いていた。高杉氏がどのような武士であるかは不明であるが、信頼できるものである。娘婿である立原源太兵衛が尼子方の中心であり、福屋隆兼が再興戦に参加するのは当然であろうが、これまではその史料は確認されていなかった。
 合戦の舞台となった「宇禰路」については、天文11年(1542)に出雲国へ攻め込んだ大内義隆が、平原で越年した後、「宍道のうねぢ」山へ陣を構えたとされる場所で、具体的な比定はなされていない(『二宮佐渡覚書』)。

中世後期の出雲大社領(4)

  井上氏が山科家とともに出雲大社領を支配したとされた柳原家は、幕府により本家としての権限が奪われ、山科家に与えられたのを回復しようとしたのである。鎌倉末期の永嘉門院の流れを引く人々であろう。柳原宮から幕府との関係を背景に所領を略奪したとされる山科教繁と教高は教遠を間に挟んで祖父と孫の関係にある。山科氏の傍流ではあったが、山科氏嫡流とともに、朝廷だけでなく幕府ともパイプを持っていた。
 それが教高は足利義満の第二子義嗣との関係を深め、兄の将軍義持により義嗣が処罰されると、義嗣とともに出家し、後には加賀国に流罪となった。当然、柳原家としてはチャンス到来となった。この訴訟については、国造家にも事実確認がなされ、それが文書が残った理由であろう。しかし、柳原宮家の訴えは認められず、教高領は山科氏嫡流がその支配を継承した。
 文明12年の慶徳院への文書(慈照寺文書)は、『大日本史料』に収録されているが、なぜか『大社町史』には未収録であった。これをみたことにより、それまでの疑問が解けるかと思い、関係史料を見直し、以上のような結論に達したので、ブログでその概要を記してみた。史料編纂所のデータベースで検索すると、若干ではあるが、従来使用されていない史料に出くわす。今回はそれを手がかりに考えてみた。

中世後期の出雲大社領(3)

 宇賀荘は鎌倉後期には広義の得宗領であり、それが没収されて出雲国守護の所領となった。そして、出雲国守護となった山名氏内の分割相続により氏之が獲得したが、氏之が従兄弟の時煕とともに失脚すると、出雲国守護山名満幸のものとなった。さらに、山名満幸が明徳の乱で没落すると、新守護京極氏ではなく、幕府領となり、ある時点で相国寺塔頭勝定院に与えられた。宇賀荘の中心寺院である雲樹寺も諸山に列せられている。
 同じく相国寺塔頭慶徳院領となった武志郷も、幕府から寄進されたのであろう。出雲大社領の荘園領主の支配は、半済により半分が山科氏領、残りの半分が出雲国守護の支配するところとなった。そして守護山名氏が没落した時点で、その所領は幕府領となったものと、新守護京極氏領となったものがあった。幕府領は関係の深い寺院に寄進され(実質的には御料所)、京極氏領は守護代から戦国大名への成長した尼子氏により継承された。そして尼子氏は幕府領についてもその支配下に組み込んだのである。
 まとめると、中世後期の出雲大社領は、半分が山科家領となり(山科氏も幕府と深い関わりがあった)、残りの半分が幕府領と守護領となり、尼子氏が両者を統合した。出雲国に進出した毛利氏は、尼子氏領を実質的に併合し、懐柔のため出雲大社に寄進したのである。千家氏の苗字の地千家郷(村)は山科家領に含まれたが、北島氏の北島郷(村)は尼子氏の支配分にあった。尼子氏は千家・北島両国造家をその支配下に組み込もうとしたが、とりわけ、荘園領主権を尼子氏が継承していた北島家の方が尼子氏への従属性が強かったのであろう。

中世後期の出雲大社領(2)

 天文24年(1555)2月には、尼子晴久が「高浜郷之内本家分百五拾貫」を寄進している。これは、一族新宮党を毛利氏の攪乱により滅ぼした晴久が、新宮党の除霊のため、新宮党領を寄進したものと考えられる。山科氏領を除く拾弐郷之内本家分の半分は尼子氏の支配するところとなり、その内の高浜郷は新宮党領とされていたのである。
 では、尼子氏はどのようにして獲得したのだろう。文明12年(1480)6月、足利義政は、相国寺塔頭慶徳院に出雲国武志郷以下の所領について、段銭・人夫・臨時課役・検断以下を免除している。武志郷は慶徳院領であった。文明18年(1486)4月、同じく相国寺塔頭勝定院が出雲国宇賀荘について、昨年還補されたのに施行がされていないことを義政に訴えている。出雲国最大の荘園である宇賀荘も相国寺塔頭領となっていたのである。
 この2例をつなげるのが、至徳3年(1386)9月の出雲国守護山名満幸寄進状である。すなわち、出雲国守護が稲岡半分を杵築社に寄進している。当然、その前提として稲岡半分が守護山名満幸領でなければならない。嘉慶2年(1388)9月、山名氏之が雲樹寺に宇賀荘内の田畠を寄進しており、この時点では、満幸の兄で伯耆国守護であった氏之が宇賀荘を支配していたことになる。

中世後期の出雲大社領(1)

 中世後期の出雲大社領については、その半分を山科家が支配したことが知られるのみで、その他については、史料を欠き不明な点が多い。井上氏が、応永30年(1423)の柳原宮雑掌申状から、残りの半分を柳原宮が支配したとされている程度である。
 山科家が支配したのは大社領の内、遙堪郷、鳥屋郷、千家郷、富郷、伊志見郷、石塚郷、南別所、北別所、佐木浦、傍田浦、小浜等である。残る半分とは、高浜郷、稲岡郷、武志郷、出西郷、求院郷(村)、北島郷と浦々である。一方、永禄5年(1562)12月、出雲国へ進出して西部を制圧した毛利氏は、杵築大明神御宝前に、①「御社領拾弐郷」と②「御社領拾弐郷半済本家分五百貫」を寄進している。①と②はどう違うのだろうか。
 ①には「如往古無相違」とあるので、武運長久のため、それまで通り両国造の支配(地頭職)を出雲国の支配者として認めるとの意味であろう。②は、これに加えて毛利氏父子・兄弟・眷属の寿命長遠のためとあり、特別な意味が込められている。②は新たに獲得した毛利氏が寄進したというもので、それ以前の支配者は尼子氏であろう。

2010年1月 9日 (土)

目に優しい液晶と良いキーボード(3)

 帯広から2日で、パソコンは到着した。未使用の状態で大変安く入手したが、とりあえずVistaビジネスsp1がインストールされており、それをsp2にアップグレードした。メモリ1Gでは不足するだろうから、Inspiron1545の2Gのメモリとビジネス機の0.5Gのメモリーを入れ替え、ともに2.5Gで使うこととし、使うソフトを最小限(それに試用するoffice2010のβ版も)インストールした。ビスタが起動した状態で1Gのメモリーを消費しており、本来の1Gでは不足する。しばらくこの状態で使い、折りをみてWindows7(64bit)にアップグレードしたい。   
 Latitude E5500というビジネス機であるが、キーボードはInspironとはレイアウトを含めて明確に違っている。ただ、Precision M6300と同様、自分にはタッチが軽すぎると感じた(この文もそのパソコンで入力)。利点としては、1つのネジをゆるめるだけで底のカバーを外すことができ、CPU交換が楽そうなこと。これまでの機種はキーボードを外す必要があった。
 RDT211Hについては、右側(縦の場合は下)に表示のムラがあり、経年変化を伺わせる部分はあるが、目に優しく快適に使用できるので、しばらくは作業の中心となるだろう。

資料の声を聴くとは(2)

 そのことをきっかけにして、樺美智子さんの遺稿集『人知れず微笑まん』を読み、樺さんがごく普通の日本史近世史を研究する学生であったことを知った。教育実習を終えて運動に戻って間もなく、安保条約の自然成立を目前に控えた中での死だったことも知った。 遺稿集には中世史研究で論証の確かさでは並ぶもののない佐藤進一氏が樺さんについて述べた文章も掲載されていた(氏は後の「東大闘争」時に、文学部の学生処分が実証的裏付けを欠くとして、東大教授を辞職し、結果的には名古屋大学へ移られた。そしてそのことが網野善彦氏が世に出ることを可能とした)。
 そんなわけで、「Majority」ではなく「Minority」とした。「差別された人々」にしろ「弱い立場の人々」にしろ、それは自らに責任があるわけではなく、社会によりそのような立場に位置づけられただけであった。現在の定説も認められるまではコペルニクスの地動説と同様、異端の説であり少数派であった。

資料の声を聴くとは(1)

  HPでは「資料の声を聴く」のサブタイトルを標記のように「Listen To」と「Silent Minority」とした。まったくの造語であり、論者の甚だ乏しい英語力の産物であるのでご容赦を。「聞く」ではなく「聴く」としたのも「Listen To」が念頭にあった。直接的には、出雲大社に関する研究論文の副題が背景にあった。それまでの研究が出雲大社に接近しすぎている点と、最初に仮説として立てた論が十分な検討を経ないで(と自分には思われた)結論とされていることに対し、「聴く」ことの必要性を感じたのである。
 そして「聴く」というと、「声なき声」という言葉が思い浮かんだが、岸首相が60年安保闘争の際に使った「声なき声」には違和感があった。「声なき声」を直訳すれば「Silent Majority」となろうが、それではしっくりこなかったのである。
 大学の時、研究室の書庫の机の中から黄色く変色した宣言文を見つけた。樺美智子さんの死に対して、研究室の教官と学生・院生が連名で、政府に対して抗議したものであった。
60年安保の時はまだ3歳であるが、なぜか「樺美智子」という名には「恐ろしさ」を感じていた。当時のニュース報道の影響であろうか。そのイメージが一変した。

2010年1月 6日 (水)

目に優しい液晶と良いキーボード(2)

 レンタルアップした製品を古物商の業者がオークションで販売するのだろうが、あまり使用感の無いものもあって、ずいぶん安く手に入る。正月とあって量販店の初売り価格は安いが、それよりはるかに安い。ノートPCの場合はOSの著作権にも配慮が必要なのは当然のこと。
 なにより、デスクトップではキーボードを選べるので、ノートPCの場合より快適な入力ができる。現在所有するノートPCではパナソニックのCF-Y5(中古で入手)が自分にはもっとも入力しやすい。子どもの大学進学を口実に家族用に購入したinspiron1545は、biosでファンクションキー優先に直したが、やはり、キートップが小さく、且つエンターキーの右側にキーがあり、しっくりこない。
 そういうわけで、dellのビジネス用機(開封未使用品)をこれもオークションで、大変安い値段で入手した。明日あたりはるばる帯広から届くかもしれないが、やはり仕事の中心はデスクトップに移りそうだ。この液晶を入手していたら、ビジネス用ノートPCなど必要なかった。その意味で安い買い物ではあったが、少し後悔している。ノートPCでもCPUの交換が可能である(交換するとサポート対象外となるので自己責任で行う)という点でdell機を選んでいるので、今後の楽しみは価格が下がった段階でCPUをアップグレードすることか。

目に優しい液晶とよいキーボード(1)

 しばらく、WUXGA17インチ液晶のノートPCをメインに使っていた。1年ほど前、目に優しいというシャープのアクオスLC-26P1を導入したが、今ひとつ、目との距離感と文字の大きさがしっくりこず、これで作業をすることは少なかった。そして夏前にPrecision M6300を入手したので、上記のようにこれで作業をするようになったのである。
 M6300はノングレアなのでよいが(これに以前入手した17インチWUXGA液晶モニターを接続して、WUXGA画面を横2枚に並べて作業を行うと快適)、やはり、長時間使用すると目が疲れる。
 それが、今回、三菱のRDT211Hの中古をオークションで入手した(東京の業者にはまだ在庫がある)。インターネットで検索すると昨年中頃からその中古がヤマダ電機やオークションで売られており、使用者の感想は良い。ナナオのL997には及ばないが、これも日本製のIPS液晶を使った目に優しいUXGA(1600×1200)サイズの製品である。回転も可能なので、windows7で縦長画面で入力と閲覧ができる。距離感と大きさもちょうどよく、目も疲れない。ということで、しばらくはこれにつないだコンパクトデスクトップで仕事をしたり、インターネットを閲覧することが増えそうだ。

2010年1月 1日 (金)

たぶん‥‥(2)

 表題の「たぶん(多分)」もよく使われるが、どれぐらいの確率の場合に使うのであろうか。大学のころ、ゼミの中で石井進氏が日本における多数決に関する研究書について言及された。そこでその本(題名は失念)をみたところ、南北朝期の鰐淵寺の衆徒の文書が紹介され、全会一致ではなく多数決で物事を決定していたことを知った。
 ゼミでは『中世政治社会思想』中の一揆契状と置文を読んで議論した。そこでは16世紀初頭の「赤穴郡連置文」も収録されていた。置文の内容の虚実については、「人はなぜ歴史を残すのか」で述べたので、そちらを参照のこと。
 現在の多数決制に相当するのが、中世の「多分の理」である。これにより反対の人々も多数意見に従うこととなった。中世の人々は、多数の人々の考え=神の考えとし、起請文の中で、違反した場合、どのような罰でも受けると誓った。
 ということで、多数決は過半数であるが、その結果決まった「多分(たぶん)」は十中八九と受け止められたのではないか。一方で、起請文があるから誰もがそれを守ったと考えるのは、早計ではあろうが。
(補足)近世の一揆、近代の米騒動にも多分の理=多くの人の意見=神の考えというものは生きていて、相談の結果、行動を起こすのが普通であった。今は個々が分断され、一揆(揆を一にする)のは困難であるが、回復をはかる必要がある。

たぶん‥‥(1)

 日常の会話で使っている言葉には、正確な意味を知った上ではなく、なんとなく使っているものがある。それが日本語のひとつの特色なのであろう。それに対して、本来の意味とは違う形で使われていること(誤用)が指摘されることがある。ところが、歴史をひもとくと、いつしか、誤用のほうが多数派になって言葉の意味が変化してきたケースも多い。
 近世の古文書を読んでいて、字形からは「規模」としか読めないが、前後から考えて、とてもそんな意味ではないと思うケースがあった。そこで『日本国語大辞典』をみると、「規模」の本来の意味が書いてあり、それなら「規模」でよいと納得した。
 規模というと英語のスケールを日本語に訳したものとの印象が強いが、2つの字と「範」を組み合わせれば、その本来の意味は明確になる。「規範」と「模範」である。すなわち、英語の(良い)モデルに相当するのが本来の意味であった。

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