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2009年12月27日 (日)

検地帳と名請人

 近世の検地帳は、①藩などの領主への提出用と②村での保存用が作成された。それは後期に作成された宗門改帳も同様である。宗門改帳は、人の生死や出入りがあれば加筆され、翌年春の宗門帳作成に活用された。ただ、出入りだけでなく、間違いもあったようで、その加筆(書き落としなどの訂正)が毎年のように一定程度されているのは不思議な感じがする。
 現在残っている検地帳も②が一般的であるが、出雲国については、中国国税局から広島大学図書館に移管された①の検地帳が大量に残っている。一方、江津市の中村家には近世初頭の検地帳が多数残されている(東大史料編纂所久留島教授の科研報告書)。庄屋を務めた家ではあるが、とても直接関係した村の検地帳とは思えないのである。その検地帳の多くは、石見銀山領の大森代官所に保管されていたもの=②と考えられる。幕末に長州藩との戦闘に破れた代官所の関係者が国外へ逃れる際に、邑智郡美郷町にあった中村家の分家に預けたのではないか。分家はその後没落し、その資料が江津市の中村家に移された可能性が高い。
 ここで問題とするのは、①と②とは完全なコピーなのであろうかという点である。以前、②の飯石郡赤穴上・下村の検地帳を調べた際に、百姓の名だけでなく、その百姓の居住地も記されており、「~衛門」といった名前(通称)だけでは区別が難しいことを実感した。実際は、百姓には苗字もあり、家号もあった。さらには「活碁新評」の著者「岸本左一郎」には、「美濃屋」という家号とともに「直樹」という名もあった。
 ①②を問わず、多くの検地帳は赤穴ほど名請人の記載は詳細ではなく、通称(百姓以外なら鍛冶とか町人とも記される)が記されている。従来はこれを使って持高を集計し、階層分解の研究をしてきた。複数の時期の検地帳が残って入れば、比較検討ができるが、一つしかなければ、同じ通称の人が同一人物であるかどうかの確認は難しいのではないか。検地を行う際は、現地の人々がおり、同じ通称が書かれていても簡単に区別ができたであろうからこそ、詳細な記載は必要なかったのであろう。

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