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2009年12月

2009年12月29日 (火)

囲碁の番付

 地元の新聞によると、出雲市の旧家から幕末の各種番付が大量に発見され、その中に出雲国西部の囲碁番付も含まれるとのことである。以前、遊戯史研究家増川宏一氏の著書で、出雲国西部の囲碁番付が紹介されており、当時の出雲国西部の文化のネットワークを知ることのできる資料である(当時は儒学を学ぶと必ず囲碁も学んだ)として、増川氏に手紙を書いたところ、日本棋院でみたと思うとの返事であった。そのため、10年ほど前に岸本左一郎の関係資料とともに、日本棋院の資料室で探したが、囲碁番付は見あたらず、残念であった。囲碁史の資料としても知井宮山本家の資料に登場する人々の居住地や人名の比定が可能となると思われる。
 以前は、島根県域でも東部の出雲国と西部の石見国の交流は乏しいと思っていたが、さにあらず。特に出雲国西部は、江川までの石見国西部とは人的交流が強いことを知り、それが、さらには戦国期の尼子氏の石見国進出を考える手がかりとなった。急ぎはしないが、その資料を見ることができれば、新たな発見があると思われる。
 ながらく耐震工事で利用が限られていた東大史料編纂所も1月から一部の貴重書をのぞけば普段通りの利用が可能となる。また、成田山新勝寺の仏教図書館には、左一郎関係の未見資料もあるようなので、近々調査に行きたいと思う。

塩冶満通(後塩冶氏)

 鎌倉期の出雲国守護塩冶氏は、高貞が謀反の疑いで討伐された。高貞の子冬貞が一時的に足利直冬、山名時氏、南朝と結んで塩冶郷を支配したことはあったが、幕府の優位が確立すると、高貞の弟時綱の系統が塩谷氏の新たな惣領(後塩冶氏)となり戦国期にまで続いていく。
 後塩冶氏そのものも南北朝の動乱の影響を受け、惣領の死と弟によるその地位の継承が2度にわたってみられた。時綱の嫡子と、通清(時綱の子)の嫡子である。明徳の乱で京極氏の守護としての支配が確立すると、塩冶氏は幕府との関係(奉公衆)と守護との関係を深め、その勢力を発展させる。その初代が満通(時綱の孫)で、長谷川氏は「塩冶氏と幕府のつながりは史料的には塩冶満通の段階においてはじめて確認できる」とされた(『富家文書』)。
 論者も塩冶氏については『出雲塩冶誌』の中で述べたが、塩冶氏と幕府の関係が確認されるのは、後塩冶氏初代の時綱以降である(花栄三代記)。今回、史料編纂所のデータベースで、偶然、満通の史料を1点確認したので紹介したい。従来、満通は応永19年(1421)の「八幡社参記」に衛府侍として「塩冶五郎左衛門尉」とみえるのが初見とされた。これに対し、応永3年(1395)9月20日の比叡山大講堂供養に足利義満が臨席した際の「衛府侍十人」の中に「佐々木塩冶五郎左衛門尉」がみえるのである(御登山記)。
 10人の内訳は、伊勢氏と松田氏が2人、本庄氏・曽我氏・斉藤氏・真下氏・小早川氏と塩冶氏が1人である。系図によれば満通は応安5年(1372)年生まれであり、この時24歳となる。明徳の乱後の京極氏による出雲国支配のためには、塩冶氏の存在は不可欠であり、山名氏方となった兄たちに代わる新たな惣領として「左衛門尉」となったのであろう。
 偶然というのは、別のことを調べていて『大日本史料』第7編の2(以前関係資料を探した記憶がある)の記事に遭遇したのである。「塩冶」で検索してもヒットはせず、地道な史料検索が今後も行わなければならないということを実感した。

2009年12月27日 (日)

検地帳と名請人

 近世の検地帳は、①藩などの領主への提出用と②村での保存用が作成された。それは後期に作成された宗門改帳も同様である。宗門改帳は、人の生死や出入りがあれば加筆され、翌年春の宗門帳作成に活用された。ただ、出入りだけでなく、間違いもあったようで、その加筆(書き落としなどの訂正)が毎年のように一定程度されているのは不思議な感じがする。
 現在残っている検地帳も②が一般的であるが、出雲国については、中国国税局から広島大学図書館に移管された①の検地帳が大量に残っている。一方、江津市の中村家には近世初頭の検地帳が多数残されている(東大史料編纂所久留島教授の科研報告書)。庄屋を務めた家ではあるが、とても直接関係した村の検地帳とは思えないのである。その検地帳の多くは、石見銀山領の大森代官所に保管されていたもの=②と考えられる。幕末に長州藩との戦闘に破れた代官所の関係者が国外へ逃れる際に、邑智郡美郷町にあった中村家の分家に預けたのではないか。分家はその後没落し、その資料が江津市の中村家に移された可能性が高い。
 ここで問題とするのは、①と②とは完全なコピーなのであろうかという点である。以前、②の飯石郡赤穴上・下村の検地帳を調べた際に、百姓の名だけでなく、その百姓の居住地も記されており、「~衛門」といった名前(通称)だけでは区別が難しいことを実感した。実際は、百姓には苗字もあり、家号もあった。さらには「活碁新評」の著者「岸本左一郎」には、「美濃屋」という家号とともに「直樹」という名もあった。
 ①②を問わず、多くの検地帳は赤穴ほど名請人の記載は詳細ではなく、通称(百姓以外なら鍛冶とか町人とも記される)が記されている。従来はこれを使って持高を集計し、階層分解の研究をしてきた。複数の時期の検地帳が残って入れば、比較検討ができるが、一つしかなければ、同じ通称の人が同一人物であるかどうかの確認は難しいのではないか。検地を行う際は、現地の人々がおり、同じ通称が書かれていても簡単に区別ができたであろうからこそ、詳細な記載は必要なかったのであろう。

2009年12月22日 (火)

減量苦と減量経営

 プロボクサー長谷川穂積選手が今回も鮮やかなTKOで10度目の勝利を収めた。13回というジュニアフライ級での具志堅選手の記録はあるが、階級を上げることも検討中だという。具志堅選手は攻撃力に優れていたが、一方では相手のパンチも受け、だんだんそのダメージが蓄積していった感があったが、長谷川選手は本来がテクニックに優れた選手であり、年齢にともなう体調管理が課題であろう。
 長谷川選手は12kgほど減量したとのことで、検討されているように2階級あげればその面では楽になる。過去の世界王者では、ファイティング原田、ガッツ石松が20kgの減量をしていたかと思う。今回なぜボクシングそして減量苦かといえば、現在の日本経済の状態を言い当てているように感じたからである。
 ボクサーは試合時より数~十数キロは重い体重で普段の練習を行っている。それがタイトルマッチであれノンタイトルであれ、契約ウェートに減量して試合に臨む。時には減量に失敗し、試合前にタイトルを剥奪された上で戦う(その場合は敗北のケースが多い)。また、サウナで体重を落として2度目の計量でパスする場合もある。しかし、その極限状態は短期間であり、普段はぎりぎりの状態ではない。
 日本経済は、リーマンショックまではゆるやかな成長状態にあるとされた。ところが、実際はバブル崩壊後の極限状態を脱した後も、働き手は体重を元に戻すこと(普段への復帰)が許されなかった。企業の業績は回復したが、その果実は大企業と経営者と株主が独占し、多数の労働者と中小企業は国際競争力アップの名の下、苦しい状況に置かれ、契約・派遣といった非正規労働者が増えた。そうした中(減量状態)での現在の不況である。
 トヨタ自動車が部品の価格の3割減をメーカーに求めたとあるが、それが技術の革新などの裏付けをもった要請ならよいが、とてもそうは思えない。「国破れて山河あり」とはいうが、現在は「労働者(多数者)破れて企業・経営者・株主(少数者)あり」という状況である。「強欲な資本主義」に対抗できる国際的ルールの策定とそれに基づく各国での運用が行われなければならない。経済とは「経世済民」の略であるが、現在の経済にかかわる人々には最も重要な、全体をみるという点が欠落している。そうした中、経済学者サミュエルソン氏の訃報が伝えられた。今必要なのは「成長戦略」(分析)ではなく「全体戦略」(総合)の新たなモデルである。近代以前の身分制社会でも、社会の上位にあった人々の社会的責任は現在より明確であり、「収奪者」との理解は一面的である。その意味で「見直された新しい歴史」に学ぶ必要がある。

益田本郷年貢・田数目録と田数注文(7)

「益田本郷田数目録」の性格を考えるには以下の疑問を解明しなければならない。
 ①なぜ目録・注文の「益田本郷」には東北山道郷が含まれないか。
 ②ではどの範囲の所領が含まれるか(乙吉・土田との関係。)
 ③目録が2分冊とされた意味は何か。名・分ごとに田畠の面積と税を記  すが末尾では田の面積の合計のみを記している(2分冊の合計と田数注文の合計との間には若干差があ る)。
 ④これ以前に下地中分が行われているのにも関わらず、地頭方だけでなく領家方についても記しているのは何故か。
  ⑤庄園成立期の名が分解され目録にみえる名となったと考えられるが、その時期はいつか。

 ①については、益田氏一族の分割相続の中で、13世紀後半には、益田本郷と仙道(後の東北仙道郷)は独立した所領となった。そして益田本郷が没収されたことにより、益田氏惣領は仙道に拠点を構えた。
 ②仙道がまったく含まれないのに対し、益田氏ではなく「御神本氏」を名乗る一族(乙吉氏)が支配していた乙吉と土田については、一部が目録に含まれている。本来、名が益田本郷と乙吉や土田にまたがって存在していたためであろうか。いずれにせよ、益田氏が乙吉と土田を支配するのは目録作成の後であり、この2カ所も目録には含まれていない。
  ③1冊目と2冊目(御勘分)の田数比は6対4であり、これは地頭方と領家方の田数比に等しい。地頭方が6割という例も珍しいが、これも下地中分が鎌倉末期に行われたことを意味しよう。中分は益田氏に替わって地頭となった北条氏関係者の時代になされたのであろう。
 ④さらに、目録に地頭方だけでなく、領家方が含まれるのは、新たな分割のためであろう。実権を掌握した益田氏側が、6対4という面積比率を維持したまま、領家側に新たに提示(御勘分が新領家方)のがこの目録ではないか。益田氏における分割相続も行われているが、それと2分冊の所領にはズレがある。
 ⑤名の分解は有名な備中国新見庄の例を見ても、13世紀中頃までには行われている。その分解・独立の後に下地中分が行われたため、本来の名が分かれた例はあっても、新たな名が地頭方と領家方に分解した例はない。
 さらに、⑥この目録により益田各地域の開発状況を知ることができる。

ソフトウェア修行中

 12月13日に益田市で話をした後、しばらく「フラッシュ(Flash)」の学習を行っていた。解説のとおりやれば、確かにアニメーションができる(途中での打ち間違いの訂正が必要)。ただ、それを理解し自分のものとするには何度か繰り返す必要もある。アニメーションは、自分にはそれほど必要性のない機能であると感じたが、HPにアクセントを付けたり、説明をわかりやすくするのには有効か。
 フラッシュに含まれるアクションスクリプトというプログラムは前バージョンのCS3からバージョン3.0に進化しているが、それ専門の解説書以外は、バージョン2.0の解説にとどめているものが多い。最新版のCS4用の評判の良いものがなかったため、当初CS3用の解説書を購入したが、CS4はメジャーなバージョンアップで変更点が多く、CS4用のものも購入した。
 同じ「CS4」の中でも、アクロバット、イラストレータ、さらにはこれまであまり使っていないフォトショップの方が活用の機会が多そうである。職場のHP更新では写真データのサイズ調整にはファイヤワークスを使うが、これも今となっては、フォトショップと機能が重なっていることにより、存在意義は薄れている。
 HPはドリームウィーバーを使っているが、その改善には、ソフト以前の問題として、HTMLなどのことを再度勉強する必要がある。ところが困ったことに、これもよい解説書がないのである(バージョンが上がるにつれて出版点数そのものが減少)。書店で立ち読みした程度で見分けることはできず、どうしてもインターネットでの評価に依拠せざるをえないが、人による違いも大きい。データの処理となると、エクセルのスキルを上げておく必要もある(そういえば、PC導入のきっかけはデータベースであった)。
 そして、上記のソフトを統合し作品を仕上げるのがインデザインであるが、これまた解説書がない。やはり上達するには、これで1冊の本や、新聞でも仕上げるしかないか。そろそろ歴史の世界にも目を向けたいが、やらなければならないことが多すぎる。

2009年12月 6日 (日)

益田本郷田数目録と田数注文(6)

 最初に全体の見通しを述べたが、各地域の状況からそれを再検討したい。②が先で①が後との理解については、両者は一部所領名の記載に違いはあるが、同時に作成されたものであると修正したい。また、「領家方」と「地頭方」の下地中分は新々田の検注後に行われたと理解したい。
 次いで②の田数注文で4地域毎に記された名・分が①の田数目録のどれに対応するかを検討する作業を通じて、本来の名が後に独立して扱われたことを確認する。
 「三郎大夫名」は、②では波田原に3カ所、志目庭に1カ所みえる。これが①では「三郎大夫名」2カ所(波田原、志目庭)と清八入道名(平田・三郎太郎)、四郎五郎名(波田原・借屋三郎大夫)とみえている。ここから、三郎大夫名は本来波田原と志目庭に存在したが、それが地域により4カ所に分かれたことがわかる。うち1カ所が領家方、3カ所が地頭方(うち一つは百姓名)となっている。
 同様に六郎大夫名が②には2カ所(波田原、志目庭)みえるが、①では清入道名(波田原)と六郎大夫名(志目庭・サハリ)、さらに六郎大夫名(奥十二畠・大浜)としてみえる。清入道名と六郎大夫名(志目庭)はともに領家方の百姓名に位置づけられているが、奥十二畠は地頭方の間人名である。
  その他の例でも、分割後に領家方と地頭方に分かれているケースが多い。このことは何を意味するかというと、本来の百姓名が分割された後に、下地中分が行われたことになる。そして①の田数目録における百姓名と間人名の区分は、下地中分後の状況を踏まえて行われたものとなる。

2010年サッカーW杯のデータから(3)

 NZといえばラグビーのオールブラックスが有名だが、少年の世代では10年ほど前から、サッカー人口が上回っているとのこと。サッカーのNZ代表は対照的なオールホワイツだそうだが、急速に力をつけているのだろう。オーストラリアと同様あの身体的能力の高さに組織力がつけば、日本にとっても油断ができない相手となることが予想される。
 ラグビー強国といえば南アフリカもだが、ワールドカップ開催を契機に強化したであろうが、83位である。確か、2002年W杯のトルシェ氏も日本の前に南アフリカの監督をしていた。名前を忘れたが、ラグビーの代表とサッカーの代表を経験した選手もいたはずである。
 以前オールブラックスに関して述べたが、サッカーの日本代表も、親善試合とはいえ、他国の代表と比べて、良いメンバーと良いコンディションで戦っている。現在はヨーロッパのプロリーグが世界のサッカーの中心であるため、強豪国ほど、W杯以外の試合での選手の招集とコンディションには苦労している。日本が最低でも80%以上の力で戦っているのに対し、本来の50~60%程度の状況ではないか。そこからして、日本の本来の実力(ベストの相手と戦った場合)は、43位よりもさらに低いことになる。
 とはいえ、岡田氏は日本人監督としては評価できるのはないか。今回は調査していないが、国内から代表監督を選んでいる国は少ないのではないか。ラグビーはNZ人のカーワン氏(第1回W杯優勝の立役者)のもとで、明らかに進化している(当然限界はあるが)。

2010年サッカーW杯のデータから(2)

 国際Aマッチについては4段階の重要度があり、最大の前回ワールドカップの4.0から、親善試合の1.0まで。日本が順位を下げた理由に、2番目の重要度のコンフェデレーションズカップに出場できなかったことがあげられよう。
 岡田監督のコメントに、「ニュージーランドや北朝鮮とは同じ組になれないので(どの組も予選突破は楽ではない)」というものがあったが、NZが127位、北朝鮮が84位、韓国が52位である。とはいえ、NZはアジア・オセアニアのプレーオフで、61位のバーレーンにホーム&アウェーの2試合を1-0で勝利している。日本は2次予選で対バーレーン1勝1敗、最終予選で2勝であった。この他に1月のアジアカップではアウェイで0-1で敗れているので、5戦3勝2敗である(あくまでもこれは結果のみで、試合の印象などは覚えていない)。来年3月にはホームでのバーレーン戦がある。
 バーレーンもNZに敗れるとは思っていなかったかもしれないが、プレーオフ進出をかけたアウェイのサウジ戦では、1-1からサウジに追加点を許すが、その直後に追いついて、ホームの0-0を含め2-2となった。そしてアウェイの得点で上回り進出を決めたとある。何が言いたいかといえば、今回は中東のチームの出場がなく、それを阻んだのがNZであったということである。

2010年サッカーW杯のデータから(1)

 サッカーについてはほとんどずぶの素人であるが、データから述べてみたい。
 グループ分けが決定し、日本(43)はオランダ(3)、カメルーン(11)、デンマーク(26)と同じグループEに入った。( )内のFIFAランキング(11月)でみても、格上の国ばかりである。岡田監督の「ベスト4を目指す」というコメントはよいが、現時点のランキングとの落差は大きい。掛け率では日本は参加32カ国中、韓国と同じ24位とのこと。
 出場権を逃した国でランキング最上位は10位のクロアチアなので、ヨーロッパでの予選突破の難しさがわかる。次いで、20位セルビア、23位チェコとなる。
 ポイントでみると、1位スペインが1622に対し、オランダ1279、カメルーン1035、デンマーク835、日本709で、日本は1月の34位からじりじりと後退している。逆にカメルーンは1月の14位から8月~9月の29位に後退したが、10・11月とランキングを上げている。ランキングのポイントは過去48ヶ月の国際Aマッチの結果によるもので、2006年7月に過去96ヶ月の国際Aマッチ(ただしそれまでの直前12ヶ月のもっとも高いポイントを得た7試合の数字が重視される)の合計(1999年方式)から変更された。改訂前には日本は17位。さらに以前の1993年方式では、日本は9位(1998年)となったこともあったとのこと。

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