koewokiku(HPへ)

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2009年10月

2009年10月31日 (土)

益田庄年貢田数目録と田数注文(5)

(奥十二畠)
 奥十二畠の地名は、核となる地域が12あったとの意であろうが、一方では東仙道、北仙道などは見えず、本来の12にこれを含むものかどうかは不明。
 第1期では20カ所計12町6反余と、他の3カ所より少なく、且つ百姓名は設定されなかった。ただ、御正作は第1期には領家方4カ所のみに設定されていたが、第2期には地頭方2カ所の新開発地に設定された。
 第2期の本新田は20カ所計8町5反余中17カ所が地頭による新開発地で、2カ所が地頭方の田数増加、1カ所が領家方の田数増加であった。他の3カ所では本新田より新田が多かったが、ここでは第2期の新田は14カ所3町1反にとどまる。うち10カ所が地頭による新開発地で、3カ所が領家方の田数増加、1カ所が地頭方の田数増加である。
 第3期の新々田は39カ所27町3反弱とここで第2期までの24町5反余から倍増している。領家方12カ所すべてが田数増加である。地頭方27カ所は、第3期の新開発地は2カ所で、19カ所が2期からの田数増加、6カ所が第1期以来の地の田数増加である。領家方・地頭方を問わず田数増加がみられたが、新開発は地頭方でみられた。
 ここで開発と検注についてまとめると、第2期の本新田は地頭方における新開発を中心に検注して設定され、新田では庄内全般の田数増加の掌握が図られた。そして新々田は、特に奥十二畠地域での新田開発の掌握を目的とする全庄検注により設定された(開発主体が地頭か、名主かは難しい)。
 公事にも地域的特性があり間人24カ所にも課されており、水衆用途と引出物、甘銭は奥十二畠地域のみにみられる。
 目録が2つに分かれているのは、益田兼見が益田庄本郷を掌握する前の段階で、庄内が分割相続されたいたことによるのではないか。得原と志目庭は第1冊目の比重が高く、波田原の大中州と奥十二畠では第2冊目の比重が高くなっている。
 井上氏はこの目録作成時に再編成がなされたと解釈されているが、基本的には新たに支配下に入った地について実態を掌握するために作成されたものと考える。そのため、東仙道・北仙道地域などの目録がないのではないか。これまでこの目録が記す内容の時期的変遷を踏まえた動的分析がなされていないので、とりあえず考えたところをメモしてみた。益田本郷が益田氏から没収され北条得宗関係者の支配するところとなった影響については、第3期の変化がそれに関わるのかもしれない。

益田庄年貢田数目録と田数注文(4)

(得原)
 三宅御土居の対岸で、七尾城の北側麓に展開している。百姓名7はすべて地頭方であり、
公事として波田原の地頭名にはなかった花苧1束が課されている。御正作は、5名については波田原と同じ3反で、1名が2反、1名が無しである。これ以外に領家方と地頭方であわせて11の名・分に御正作1反が設定され、公事の一分が課されている。また、地頭方の百姓名3には、本田内に佃、石代、御年貢田が設定されている。
 本新田はなく、新田が14カ所に記され、うち2カ所が新開発で、いずれも地頭方である。新々田は1カ所のみで、ここも第2期までに(いや第1期までに)開発が完了していた。第1期の田数は21町2反余、第2期が22町6反余、第3期が22町8反余である。これとは別に2カ所に計1町2反大の散在の給田(医光寺、番匠等)があった。平畠が20カ所に9町4反弱あるが、うち2カ所が2期以降の新開発地であった。
 以上の状況と、「小土井」「大土井」の地名から得原に地頭館と支配の拠点があったことは間違いない。
(志目庭)
 現在の万福寺より東側の地で、医光寺のある染羽町を中心とする地域。百姓名8はすべて領家方で、7名は御正作が3反で1名のみ2反である。間人3カ所に1反の御正作が設定されているが、すべて地頭方である。本新田6カ所中2カ所が新開発で、いずれも地頭方である。新田は22カ所中新開発が6カ所で地頭方。新々田は12カ所で新開発3つは地頭方。このように、領家方の拠点であるが、新田開発は地頭中心であった。
 第1期の田数は18町1反余、第2期は21町4反余、第3期が25町弱と、上流部を一部含むためか、波田原、得原よりは開発による増加は大きい。平畠は23カ所に計8町1反弱で、4カ所が第2期の新開発地である。

益田庄年貢田数目録と田数注文(3)

(波田原)
 現在の三宅御土居から海岸にかけての地域で、益田本郷下や下本郷と呼ばれる。注文によると、10の百姓名と間人からなる。百姓名の内訳は領家方が8で地頭方が2。目録により第2期にあたる本新田と新田をみると、本新田はわずかに3カ所で、その内、既存の田に加えられたものが1カ所で、2カ所は新開発である。新開発はともに地頭方で、既存の田数増加は領家方である。これが新田となると、26カ所と多いが、うち6カ所の新開発はすべて地頭方である。これは得原、志目庭、十二はたでも同様で、地頭が新たな所領の開発と掌握を行ったことがわかる。20カ所の既存の田数増加の内訳は、領家方11、地頭方9で、新田については領家の指示により全庄規模で検注がなされたのであろう。
 これに対して新々田は5カ所にとどまり、内1カ所が新開発でやはり地頭方である。波田原については2期までに可能な田地の開発がほぼ終わっていたことになる。第1期の波田原の田数は24町5反余で、これが第2期には30町1反余、第3期では31町3反余である。なお、この他に薬師堂の免田(2カ所)計3反大がある。また本田3カ所については「浮免」とあり、特定の田を指定したものではなかったか。
 26カ所に平畠が記され、その合計は11町4反余となるが、1カ所を除けば第1期からみえている名・分である。百姓名には領家方・地頭方を問わず御正作が3反設定され、早始の白米、佃大豆、押入綿、懸苧が課されているが、地頭方1名のみは、御正作がなく、早始の白米も課されていない。百姓名以外で5名に御正作1反が設定されている。さらに地頭方の百姓名1名には蕎麦、鮎白干が、もう1名にはこれに加えて仕丁米、塩曾代が課されている。

益田本郷年貢田数目録と田数注文(2)

 益田庄の田については、①公田、②本田、③出田、④本新田、⑤新田、⑥新々田、⑦御正作の区別がある。田数目録の末尾の田数合計に「公田、新田、新々田加定」とあるように、時期的には大きく3つに分かれる。第一期に属するのが①公田②本田③出田ならびに⑦御正作である。庄園の立庄時期(12世紀半ば)から13世紀初めのもの。第二期が④本新田と⑤新田、第3期が新々田である。①公田と⑦御正作は②本田の中から百姓名(後の領家方とほぼ一致するが一部地頭方もあり)について設定されたもの。③出田は本田に対しその後の検注により加えられたものとの解釈が一般的であるが、ほとんどの名・分に1反未満で出田があり、本田を設定し残った部分を出田としたのではないか。
 領家方と地頭方の区別については、井上氏が下地中分が行われたことによるもので、その際に検注により本新田と新田が掌握されたとされた。ところが、第2期の本新田、新田はもちろん、第3期の新々田も、領家方と地頭方の両方にみられ、領家方と地頭方で斗代の差はない。新々田が掌握された段階でも、下地中分によるそれぞれの支配の独立はみられず、荘園領主の下で検注がなされたと考えるべきである。
 また井上氏はこの目録が作成された永和2年段階で新たに掌握されたのが新々田であるとされるが、前回述べたように、もともとあった注文に対して今回再確認したのが目録であるとの理解に立っており、新々田の掌握は目録作成時ではないと考える。この目録と注文には仙道(東仙道・北仙道)と弥富名の地域が含まれず、その他にも宇治村などの小規模所領もみられない。この点と目録が2つに分かれていることも注目すべき点である。

2009年10月28日 (水)

益田本郷年貢田数目録と田数注文について

 益田庄内の中心部分を占める益田本郷については、①永和2年(1376)の年貢・田数目録と②年未詳の田数注文が残されており、中世益田地域の開発と支配の状況を伺うことができる。この史料については、井上氏が『史料集・益田兼見とその時代』で分析を加えているが、未解明の点も多い。その分析を始めるにあたり(いつ終わるかは見通しがつかない)、基本的な点を確認しておきたい。
 井上氏は①の田数目録を再整理・再編成したものが②であるとされる。①が名・分ごとに記す(その明確な記載順の基準は不明)のに対し、②は名・分を(ア)波田原、(イ)得原、(ウ)志目庭、(エ)十二はたの4地域に分け、さらにそれぞれの小地域ごとにまとめる形を採っている。そのため②は①の理解を助ける形となっている。
 名・分の名称について(ア)~(ウ)ではほぼ同じであるが、(エ)については違いが大きい。一方が名ないしは分と呼ぶものを他方が分ないしは名と呼ぶ点については、特定の傾向は伺えないが、②が地名+名(分)で呼ぶものを①では人名+名(分)で呼ぶ場合が多い。①の方がより実態に近いという意味で、井上氏とは逆に②はそれまでの状況を地域毎にまとめて記したもので、①が調査に基づき実態を記したものとの仮説=②が古く、①が新しいとの説を提示する。以下では、4地域の状況について、とりあえず分かることを述べたい。

2009年10月24日 (土)

益田庄と守護不入(2)

 この指摘を受けて、井上氏は益田氏が地頭の地位を奪われ地頭代となり、益田氏宛の文書が残ったとの解釈をされた。ところが、古文書学のオーソドックスな解釈に基づけば、この文書は、本来利益を得る立場の乙吉氏のもとに残されたもので、それが後に益田氏の手に入ったものである。益田氏=地頭代との解釈は成り立たない(この点については報告した際に説明した)。当然、地頭代は東国御家人の関係者で、益田氏惣領は名実ともに、それまでの「土居」の地にあった地頭館からも退出を余儀なくされ(現在の三宅御土居の地には庄園の政所があった点やその他の点ついても葉書の中で指摘した)、仙道に逼塞を余儀なくされたのである。
 話が横道にそれたが、元亨年間に益田本郷に守護不入が認められたとすると、当時、益田本郷を支配した人物は守護本人ではありえない(自ら守護との説を提示したが、訂正する)。当時の守護は北条氏庶家であるが、益田本郷は得宗関係者が支配したのではないか。今でこそ、僻地とされる石見国であるが、正治2年(1200)2月には九条兼実が、石見国へ唐船が入ったとの情報を得て、当時の守護佐々木定綱を呼んで事情を聴取した上で、石見国知行国主であった弟の兼房のもとへ伝えている。九条兼実が実質的な石見国の支配者であった。このことから伺われるように、海を介して海外からも益田へやってくる人々は少なからずあったと思われる。その意味で、得宗関係者は益田本郷を手に入れ、その結果、益田や隣接する長野庄高津の重要性はさらに高まったであろう。

益田庄と守護不入(1)

 以前から気になっているが、永徳3年(1383)の益田祥兼置文の最後に、自身の所領については守護不入の地であり、国役・諸御公事が免除されているとし、その根拠として①元亨御下知と②近年証状をあげる。②については、正平14年(1359)5月の足利直冬安堵状、康暦2年(1380)5月の大内義弘安堵状を指していよう。それでは①の「元亨御下知」とは何であろうか。
 元亨年間(1321~)の益田氏惣領は祥兼の祖父「せんたうの孫太郎入道道忍」であり、当時の益田氏は益田本郷中心部を没収され、奥部の仙道をその本拠地としていた。その時点で「守護不入」を認められる可能性は低いであろう。とはいえ、根拠なく主張するのも考えにくい。大内氏に対しては何度か証拠を提出し、結果として安堵されている。
 とすると、元亨御下知とは益田本郷に対して出されたものではないか。益田氏が本郷中心部分を失っていたことは、建武2年(1335)の後醍醐天皇綸旨により本領安堵(当知行安堵ではない)を受けていることで明らかであるが、それを補強するのが永仁7年(1299)の乙吉氏が益田本郷地頭を訴えた事に対して六波羅探題が説明を求めた文書の宛名が「益田本郷地頭代」であった点である。

室町院領と出雲国守護(6)

 加賀国に室町院領熊坂庄があった。室町院の死後、昭慶門院領となり大覚寺統の支配下に入った。弘安10年10月の関東下知状(尊経閣文庫所蔵文書)によると、「領家・地頭両職共以関東進止也」とあり、文永10年に預所と地頭大見氏との相論の結果、領家方と地頭方に和与中分されている。その後、弘安3年に領家方は東福寺に寄進され、東福寺領として続いていく。東福寺に残った元徳4年の関連史料をみると、領家方預所を「領家徳大寺家雑掌」と記している。地頭のみならず領家も幕府の支配するところであったが、幕府は徳大寺家を領家としていたのである。長海新庄の領家が徳大寺家であったことも同様の背景=幕府が領家を支配していたことが想定される。
 熊坂庄は平安末期は八条院領で平頼盛が支配を行っていた。頼盛は清盛の異母弟で、母は頼朝の助命を行ったことで知られる池の禅尼であった。頼盛は本来、忠盛の嫡子の地位にあったが、白河院の子ともいわれる清盛がその母(祇園女御の妹)とともに忠盛の下に入ると、清盛が平家一門の中心となった。頼盛は平家滅亡後も頼朝から八条院領を安堵されるなど厚遇されたが、その所領は後に一部が久我家領となった以外は関東御領に組み込まれていった。
 熊坂庄の領家職が関東進止となった背景は以上のとおりであった。その領家職を幕府は徳大寺家に委ねているが、実権は幕府が握り、再び幕府ないしはその関係者を領家とすることが可能であった。

2009年10月23日 (金)

室町院領と出雲国守護(5)

 これまで「武家所進地頭職」としてみえた所領について、下地中分を前提とすると述べたが、筧雅博氏の関東御領の研究を参照すると、必ずしも中分を前提にしなくてもよいと思った。訂正したい。
 さて、出雲佐々木氏の発展の基礎を築いた泰清は、弘安10年(1287)6月に出雲国長海本庄で頓死したとされる(佐々木系図)。ただし、年号については、弘安6年の佐々木頼泰書状で、信濃入道一周忌と記しており、弘安5年が正しい。ここでとりあげるのは、長海本庄である。
 文永8年の地頭は「持明院少将入道(基盛)」である。基盛は関東祗候人出身の将軍宗尊親王近習であった。且つ、その母は有力御家人二階堂行頼の娘で、関東御領丹波国大沢庄の預所地頭(母から継承)でもあった。してみると、長講堂領長海本庄についても同様のことが想定できよう。すなわち、皇室を本家とし、領家は幕府で、幕府が基盛を預所兼地頭に任命していたのではないか。その長海本庄に、守護を頼泰に譲って引退していた泰清が居たのである。幕府領=関東御領と出雲国守護の関係が伺われる。現在の本庄に残る「武蔵坊弁慶誕生」にまつわる伝説の背景もこの点にあったであろう。長講堂領は持明院統に継承された。
 長海本庄から分かれた新庄については、文永8年の地頭は記されていないが、正和元年7月の六波羅下知状案により、徳大寺御領であったことがわかる。同じ長講堂領として徳大寺家が領家の地位にあったのだろう。この地位は戦国期にまで継承されている。

2009年10月20日 (火)

室町院領と出雲国守護(4)

 「武家所進地頭職」としてみえたのは出雲国と河内国の所領であった。後者は小高瀬庄、上仁和寺庄、下仁和寺庄で、当時の守護は北条氏であった。小高瀬庄は室町院領の「本御領」に「同(河内)国小高瀬庄」とみえ、上・下仁和寺庄は「押小路姫宮御領」に「仁和寺花園御所跡」としてみえる。すなわち、河内国の場合は室町院と地頭との間で下地中分がなされた後、地頭分が室町院領として寄進され、結果として本所一円地となったことになる。寄進者として有力なのは、守護北条氏であろう。
 小高瀬庄は、弘安6年(1283)段階で領家は「堀川大納言(基具)」であった。 源通親の子通具が初代となったのが堀川家で、通具の孫にあたるのが基具である。ところが、元亨2年(1322)の西園寺實兼処分帳に「河内国小高瀬庄」がみえ、領家は堀川氏から西園寺氏に交替している。そして實兼は、小高瀬庄が当時「自武家被収公」とし、回復したら四男今出川兼季に譲るとしている。これによると、小高瀬庄は幕府により没収されていたことになる。
 ただし、西園寺氏領の小高瀬庄が、「小高瀬庄地頭職」であるとすれば、堀川氏と西園寺氏の支配は併存していたことになる。また、「武家所進地頭職」が何らかの理由で幕府に収公されていたことになる。いずれにせよ、室町院領で持明院統が継承した「武家所進地頭職」には極めて政治的色彩が強い。出雲国内の所領も守護塩冶氏との関係を抜きにしては語れないのではないか。

室町院領と出雲国守護(3)

 今回、室町院領に注目したきっかけは、中世と近世の村の違いを考える必要性を感じていたので、そう言えば大学卒業後間もない時期に購入して、ほとんど活用してない『今堀日吉神社文書集成』があったとして(実際に中世史料が中心だが、近世史料も収録されていた)見始めたことであった。28年前の出版で、金額は2万円弱というもので、内容は十分あるが、今出版されたなら、その金額はいくらになるだろうかといったことも考えてしまう。
 話が横道にそれたが、読み始めて2番目の正安3年12月の「延暦寺東谷佛頂尾衆徒訴状案」に対立する羽田庄の支配者として永嘉門院(土御門姫君)の名を見つけ、以前書いた出雲大社に関する論文を読み直した。関係史料によると、正安3年に一旦は永嘉門院側の主張が認められ、永嘉門院は室町院領のほぼ半分(式乾門院跡で、永嘉門院の父宗尊親王が相続する予定であった)の支配を認められ、残り半分を持明院統と大覚寺統が折半した。それが持明院統側の抗議により裁定は覆り、翌正安4年に永嘉門院の支配は否定され、室町院領全体を両統で折半し、羽田庄は大覚寺統分に含まれた。
 そして史料編纂所のデータベースで永嘉門院と羽田庄関係史料を確認して、これについてまとめようと思ったところ、八代恒治氏所蔵文書の「武家所進地頭職」の箇所で目が釘付けになったのである。15年ほどまえに書いた『島根の地名』(平凡社)の志々塚保の項をみると、「武家所進地頭職」に言及しているので気づいてはいたが、なお、その意味を深くは考えなかった次第である。それが『塩冶誌』中世編を執筆した際に、志々塚と林木が守護領となっていたことに気づき、さらには今回の偶然により、全体の意味つながりが分かったので、ブログで記した。

室町院領と出雲国守護(2)

 ①~⑤の武家所進地頭職とはどういう意味であろうか。まず、本来領家職の下にある地頭職が皇室領として寄進されるとは考えがたく、①~⑤の所領で下地中分が行われ、その地頭分が寄進されたのではなかろうか。
 次いで、寄進の主体となった武家とは誰であろうか。②の古曽志については、元応元年(1319)には、塩冶・美保・生馬郷とともに、守護佐々木貞清の所領となっていたことが確認できる。塩冶・美保郷は文永8年段階で守護領としてみえたが、古曽志と生馬はそれ以降に守護領化している。生馬郷は、乾元2年(1303)に貞清が郷内1町を鰐淵寺北院三重塔修理料として寄進しており、この時点では守護領となっている。
  同年には鰐淵寺南院薬師堂修理料田として志々塚保内田1町が寄進されている。これに、南北朝中期の塩冶八幡宮の料田として④上志々塚保と③林木庄東西内の田5反がみえることをあわせて考えると、③④(⑤も)は守護領であることが確認できよう。志々塚保が上④下⑤に分かれたのは乾元2年以降のことであろう。
 そうすると、残された①が守護と無関係とは考えがたい=寄進の主体は守護塩冶氏ではないか。応安4年(1371)に母里庄東方内の田1町を、安堵を受けたならという前提で、沙弥道用なる人物が出雲大社に寄進している。東部の母里庄内の田を出雲大社に寄進することはないことではないが、そのきっかけとなったのは、母里庄の地頭分が守護塩冶氏の手に入ったことではないか。
 さらに補足すると、文永8年段階の地頭は、母里庄が河内氏、古曽志は中村氏、林木庄は深栖氏と東国御家人であるが、志々塚保のみは「持明院殿」とみえる。持明院統の後深草上皇の子伏見ではないか。となると、志々塚保は、守護泰清の段階でいち早く地頭職が寄進されていたことになる。これを前例として、母里・古曽志・林木の地頭職が守護に与えられ、守護はこれを室町院に寄進して、現地の実質的支配を担ったのではないか。それを可能としたのは、冒頭に述べた下地中分であった。このような例は室町院領以外でも想定できる。

2009年10月19日 (月)

室町院領と出雲国守護(1)

 後堀河天皇の娘室町院の所領については、持明院統と大覚寺統の間で相論となり、結果としては両統で折半されたことが知られている。その室町院領については、八代恒治氏所蔵文書により持明院統分(A)が、竹内文平氏所蔵文書により大覚寺統分(B)が判明する。A・Bは基本的には、室町院が死亡した翌年=正安4年のものである。
 出雲大社領はそこに含まれず、従来の室町院領であったとの理解は修正しなければならないが、A・Bには以下のように数多くの出雲国の庄園がみえている。ちなみに石見国が2で、隠岐国は0である。出雲国知行国主が院かその近臣であったこととともに、出雲国と院政との深い関係を物語るものであろう。
 Aの末尾にみえる①母里庄[安来市]、②吉曾名(古曽志カ)庄[松江市]、③林木庄[出雲市]、④志々塚上方、⑤志々塚下方[斐川町]には「武家所進地頭職」と記されている。鎌倉時代になってから寄進されたものである。一方Bには、⑥岡本庄、⑦佐陀神宮寺、⑧来海(庄)[松江市]、⑨温冶(塩冶)庄[出雲市]、⑩淀(本カ)庄、⑪淀(新カ)庄、⑫大原(大東カ)庄[雲南市]がみえる。
 ⑦⑧⑫は12世紀半ばまでに成立した広大な領域を持つ庄園である。⑦が神宮寺とみえるように、出雲大社にも鰐淵寺とは別に神宮寺が存在したであろう。②⑨[郷]、④⑤⑥⑥[保]は本来、公領であったのが14世紀初めまでには庄園に転じている。⑦は朝山氏一族の佐陀神主が地頭を務め、⑨は守護塩冶氏が苗字の地とした守護領の核である。②③④⑤については、鎌倉後期から南北朝前期にかけて守護領となっている(続)。

 一月近く更新ができなかったが、歴史の作業から離れていたことと、ネタがなかったということ。近世後期の歴史については、いくつか述べたいことがあるが、差別の兼ね合いで記述に配慮して可能な範囲で述べたい。

2009年10月 6日 (火)

PCのキーボード

 以前ブログでPCの使用歴について触れた。(1)以外はブログからは削除しHPに移したが、ノートの中で、Thinkpadについて失念していた。3kgでCD付き、CPUはセレロン366であったと思う。キーボードに期待したのだが、今ひとつしっくりこなかった。そのためか、知り合いにあげてしまった。トラベルキーボードも初売りで平常の半額ということで購入した。マウス不要で便利だが、Windows7で動作せず、キータッチも手応えが不足している。
 前置きが長くなったが、前にpresisionM6300が最高としたが、ややキータッチは物足りない。ということで、Let’s NoteのY5の中古をオークションで入手した。オークションとはいっても入手先は修理も可能な専門ショップで、サポートも期待できそうである。欲を言えば、わずか2人の入札であり、これが一人なら開始価格で入手できたことか。
 最初はミスタイプが多く「‥‥よお前もか」という感じであったが、手になじむにつれ、「やはり打ちやすい」との感想に変わった。Y5も中古だと安くなったと思った。HDDが純正の60Gから160Gの新品に交換してあったのが特徴か。biosで使用時間がわかるので7000時間弱と少ないほうではないが、キーボードや外観もほとんど傷もなくきれいである。液晶の暗さも目の負担が小さいという点ではプラスでもある。できるだけブログの更新などでつかいこんでいきたい。

HDDのコピー

 ながらく更新していないが、メモとして残しておく。一月ほど前?か、inspiron6400の80GHDDを別の作業で余った160Gのものに交換しようとした。クローンソフトを持っていたが、シリアリル番号を記したものが見つからないため、フリーソフト(CD起動)で行った。sataの外付けHDDケースを利用したが、10時間程度と大変時間がかかった。今から思えば、CD起動なので、デスクトップにsataケーブルで2つのHDDをつなぐと数十分でできる。
 元のHDDと交換して問題なく起ち上がったが、adobeのソフトは再アクティベーションが必要であった(これは以前も同様)。しかし、よくみると、160Gのはずが80Gで残りはない。ネットで調べて、IBM(hgst)のHDDツールDFTを使ってまっさらにしてみたが変化無し。TESTDISKでみると本来は160Gであることがわかるが、直らない。XP以降での領域確保の方法も知ったがやはりだめ。FutureToolもFDで起動したことは記憶にある。いろいろやったがだめで、あとは160GのHDDのクローン先に指定してやってみる程度と思っていた。
 そこで、今日、実行する前に、再度ネットで情報を整理すると、FutureToolで元通りとしたとあり、藁にもすがる(まあ80Gでも使えるが)想いで、キャパシティの変更を行った。すると、以前2日間やってだめだったのが、簡単に修正できた。ネット上ではdellのパソコンで生じている例が多いようで、質問がなされているが、明確な回答があるものはほとんどないので、とりあえず防忘的に記した。こんなに簡単だったのかというのが実感。当初は、やはりフリーソフトだからかなどど後悔したが、全くのえん罪で、いろいろなソフトで発生している。いわずもがなであるが、当該HDDはHGST製であった。

« 2009年9月 | トップページ | 2009年11月 »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ