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2009年9月

2009年9月17日 (木)

益田家文書の後醍醐天皇綸旨(2)

 ①は後醍醐の綸旨らしくなく、年がなく月日のみを記す。「本郷和人のweb研究室」の表紙に元弘3年3月4日の綸旨の写真が掲載されているが、巨勢宗國に勲功があったとして恩賞を与えることを述べている。まだ、後醍醐が船上山に入った初期のものであろうか。5月5日には巨勢家盛に勲功の賞として但馬国内の地頭職を与える綸旨が残されている(相見文書、鎌倉遺文による)。
 元弘3年5月10日の安芸国在庁石井末忠軍注状(鎌倉遺文)によると、末忠は船上山に駆け付け、4月14日に綸旨を貰い、以後は千種顕忠の手に属して合戦に参加したとして、恩賞を申請している。①の綸旨も石井氏が与えられたものと同種のものであろう。「出雲高保」に続いて「可致合戦之忠者、綸旨如此、悉之」と結んでいる。
  石井末忠については以下のように8月14日の綸旨を得ているが、そこでも、合戦之忠を求めた上で、勲功があれば勧賞を行うとしているのみである。
  「源末忠可致合戦之忠、於有勲功者、可被行勧賞者、綸旨如此、悉之」
この文や他の後醍醐天皇綸旨を参考とすると、①の冒頭の「出雲高保」は地名ではなく、人名とすべきであろう。すなわち、出雲高保に対する軍勢催促状である。なぜ益田家文書で①の末尾の部分(そこには何も書かれていない)を切り取ったかは不明であるが、以上のような結論が妥当であると考える。

益田家文書の後醍醐天皇綸旨(1)

 益田家文書には、以下の3通の後醍醐天皇の綸旨が残されている(番号は大日本古文書のもの)。
    ①(元弘3年)4月9日後醍醐天皇綸旨(19号)
    ②元弘3年8月29日後醍醐天皇綸旨(17号)
    ③建武2年2月12日後醍醐天皇綸旨(18号)
②は御神本三郎兼衡に当知行を安堵したもの。形式上の宛所はなく、本文冒頭に記されている。兼衡が益田氏一族でどのような位置にあったかは不明であるが、文書の形式から惣領ではなく、庶子であることは確実である。当時は周布氏や永安氏とともに上洛していたのだろう。これに対して③は宛所の部分が切り取られているが、一部残った部分を併せて総合的に考えると「益田次郎殿」であったと思われる。また、益田・小石見・津毛・疋見の4カ所の所領がみえるが、当知行安堵ではなく、本領安堵である。すなわち、本領であった4カ所を益田氏惣領に返還したもの。
 ②と③はともに後醍醐天皇綸旨でありながら、形式が異なり、③は正規の形式であるが、②は綸旨の宛所として一般武士を想定していなかったため、異例の形式をとった。
 残された①については、謎が多い。元弘3年4月の時点では、後醍醐はいまだ伯耆国船上山にいた。大日本古文書の編者久留島氏は、③と同様宛所の部分が切断されたとされている。確かに写真をみると、日付と奉者勘解由次官(高倉光守)の後の部分が、②と比べると不自然に短く、③と似ている。ただ、③と異なり宛所の痕跡はみられない。また、そこでは冒頭に「出雲高保」とあり、一般的には出雲国内の地名と考えられている。そうすると、後醍醐が某に出雲高保での軍忠を催促したもの(軍勢催促状)となる。

2009年9月13日 (日)

鎌倉末期の石見国衙(2)

 8月25日の国宣案に付された花押は、東大史料編纂所の花押カードデータベースによりみることができる(他の2点は案文)。それを『長福寺文書の研究』巻末の性圓(清隆)の花押2点と対照すると、元弘3年段階の目代はやはり性圓であったことが確認できる。さらに性圓は、国司(国守)が替わっても長期間にわたり目代の地位にあった。
 前年の元弘2年段階で、性圓が石見国目代であったのは前出の祗圓の証文により確認できる。祗圓は性圓の一族として庄内の2名を相伝していたが、何らかの理由でこれを失った。祗圓は性圓の代理として朝廷や六波羅との折衝にあたった功により、惣領性圓に2名の返還を求め、これを実現した。最終的には元弘2年2月に石見国から譲状が出されたが、その執筆者は「祗候人津毛殿」とあり、国御家人の一族であった。津毛自体は、東国御家人小笠原氏の所領となっていた。
  元亨4年(1324)、周布西信は子息への所領譲与を認めてもらうよう、具書を添えて申請を行った。その具書の目録中に①「筑前入道性丹(円)年貢請取并検注検畠請取 元亨元・二両年分」と②「尚氏和与状 応長元年十二月廿五日、和与状検注事」がある。①により元亨2年段階で性圓が目代であったことは確実である。そして②の尚氏もまたその一族であった可能性が高い。
 元弘2年2月に性圓の嫡子清信と孫清景は、梅津庄内下司名内田3段を大功により「五郎左衛門尉尚氏」に譲っている。それをうけて尚氏は8月に3段を藤原氏女に永代譲与しているが、その中で「尚氏数代相伝地」と述べており、尚氏もまた性圓の一族(庶子)であったことになる。すると応長元年(1311)から元弘3年まで、性圓は20年以上、目代の地位にあったことになる。

鎌倉末期の石見国衙(1)

 ①元弘3年(1333)8月25日、「御目代藤原」の署判のある石見国宣案が出され、官宣旨案を付して邇摩郡津淵村地頭職の安堵を行った。後醍醐政権は、所領安堵を求めて多数の人々が上洛することによる混乱を回避するため、7月25日には北条得宗とその与同者以外は当知行を安堵するとの官宣旨案を出していた。それに基づき津淵村地頭職の当知行を安堵したのである。③9月17日には那賀郡永安一分地頭職等の安堵が、④同19日には邇摩郡大家西郷地頭職の安堵が、やはり目代署判の国宣で行われている。
 また、目録への記載のみであるが、美濃郡宇治村地頭職については、②9月12日に安堵の国宣案が出され、それには7月26日の官宣旨案(7月25日のものと同内容であるが、が、北条氏以下の内容が本文中だけでなく、冒頭の事書にも記されている)付されていたことがわかる。石見国衙に伝えられた官宣旨案は、一斉に国内に伝えられたのではなく、その情報に基づき当知行安堵を申請してきた領主に対し、個別に安堵の国宣案とともに与えられたことがわかる。石見国の領主層の中にはいち早く上洛したものもあり、彼らを介して情報は石見国へ伝えられていたのであろう。
 鎌倉後期になると国司の代官である目代も当該国に赴任せず、又代官が支配にあたることが多いとされるが、石見国では目代正員が赴任していたことがわかる。さらに関係史料により目代正員の名とその在任期間が長期に及んだことが明らかになるのである。 
  その人物は山城国梅津下庄内を支配していた藤原清隆(性圓)で、庄内を嫡子清信に譲り、自らは石見国衙に赴任していた。そして一族の祗圓を京都の朝廷や六波羅探題との折衝に当たらせている。当然、嫡子清信らも同様の役割を果たしたのではないか。普通なら、子や一族のものを又代官として石見国に派遣するのであろうが、正反対であった。

2009年9月 6日 (日)

高速道路無料化と社会デザイン

 高速道路無料化と関係してクルマ社会をどうするのかという問題がある。渋滞する首都高速道路については、民主党は無料化の対象外としている。山崎養世「日本列島快走論」では首都圏の有料化維持の一つの目的として地方再生をあげている。田中角栄元首相の「日本列島改造論」は、それを実行するための方法に問題があったが、中央偏重を改めるという方向性は正しかったのではないか。ただ、無秩序な人と企業の移動はもはや不可能ではないか。
 中央と地方の問題は、都道府県内部でもあり、且つ各自治体の中でもある問題である。第一次産業中心の社会では各地にバランスよく散在して生活することが可能であったが、現在はその地域だけで完結して生活できず、自治体が地域社会のあるべきデザインを提示した上で、人々が住む地域とそうでない地域に分けていくべきである。後者の地域も生産拠点や長期休暇の滞在地として可能なものは活用する。生態系の維持の観点から管理も必要であろう。
 クルマ社会についてはそのマイナス部分を減らしていかなければならない。個々がクルマを所有することにより大変な外部不経済が発生しており、クルマの利用は避けられないが、不経済を減らすことが必要である。
 自動車業界から異論もあろうが、クルマの保有台数も問題だが、それ以上に問題なのは通行量である。炭酸ガスの排出量とともに、保有には駐車スペースが必要である。個人の専用駐車場だけでなく、それ以上に移動する度にスペースが必要である。観光地の駐車場などをみても特定の日に利用が集中し、その他の日は閑散としていることが多い。この調整を行う(シェア)のは困難であり、方法としては公共交通の充実しかないと思われる。「公共」は交通だけでなく、住宅建設にもあてはまる。
 新規に建設された住宅が20~30年で利用されない廃墟になってしまう。これほどの無駄はないであろう。個々人が住宅建設の主体となるとしても、大きな公共的デザインは各地の自治体が提示し、その上に立って個人の主体性が発揮されるべきである。
 個人の方も自分の守備範囲と自分では判断できない分野について認識すべきである。「公共の福祉」とは政府・自治体の都合で考えるものではない。守備範囲の境界が正しいのかどうかは常に問われなければならない。個々と自治体をつなぐのが情報公開と選挙である。自治体は積極的に情報を開示した上で、自らの構想したデザインがなぜ必要かを説明し、議会・住民のレベルアップを図らなければならない。そして議会と住民はきちんとチェックしていかなければならない。その意味で、政府と与党と同様、自治体と議会の関係もリセットして、緊張関係を回復しなければならない。

高速道路無料化

 民主党政権が成立間近となる中、子ども手当とともに話題になることが多いのが高速道路無料化である。マスコミを賑わす議論の多くは、無料化への疑問であるが、高速道路会社の経営者から一般の人を含めて、失礼ながら「ワンパターン」であると感じる。
 どういうことかというと、疑問をもつのはよいが、それについて調べて議論を深めるということがなく、毎度毎度同じ入り口の議論に終始しているのである。特に高速道路会社のトップに対しては、それでは「専門家失格だ」と思ってしまう。そんなに高速道路無料化に問題があるならば、欧米などで行うわけがないのであり、それを知った上で、あるいは紹介した上で議論をしていくことが必要である。当然、どのような政策にもプラスとマイナスがあり、それを列挙した上で、自分は(専門家なら日本全体にとってよいので)こちらを選ぶと主張すべきである。麻生首相の場合は、それならなぜ2年間限定で土日1000円にしたかをきちんと説明する必要がある。
 この問題についてほとんど何も知らなかったので、民主党が公約とする以前から高速道路無料化を主張してきた人のHPをみたが、すべてが民主党と一致するわけではなく、道路特定財源を廃止するという民主党の主張には反対していた。フェリーや新幹線など他の交通機関との競合を指摘する意見もあったが、税金をかけて高速道路が整備されたなら、それが利用され、他の交通機関の利用者が減るのは当然である。そうでなければ建設は不必要だったことになる。交通機関の棲み分けを考えながら、移行措置をとってフェリー・鉄道会社が段階的に縮小し、他の業界・分野へ進出するとともに、高速道路ではカバーできない分野は担う必要がある。小規模のフェリーの場合、公的助成が必要なのは当然である。それは会社と従業員のためでもあるが、何よりそれ以外に利用できる手段を持たない人々のためである。税金を収入とし、それを適切に支出するのは政府や自治体の仕事である。
 以前、松江市内にも「有料道路」があった。それまでの国道9号線に代わって宍道湖岸を埋め立ててそこに新たな道路がつけられたが、しばらくは有料であった。また、大橋・新大橋に続いて第3大橋として宍道湖大橋が開通したが、ここもしばらくは有料で、建設費を償還した段階で無料となった。高速道路も本来は無料が原則であるが、戦後まもない時期の日本では予算がないとして、借金の形で建設し、償還するまで一時的に有料とした。それが田中角栄首相の時に、さらに道路建設を促進するため、高速道路収入の一部を新規道路建設にあてることとして今に至っているという。「高速道路無料化」は本来の姿に戻すことであり、あとは現状からの移行措置を矛盾やマイナスのより少ない形で具体化することについて議論すべきである。

小さな政府と大きな政府

 この対比もよく聞かれるが、議論には注意が必要である。本来「小さな政府」であったのが「大きな政府」に変わったとされるが、「小さな政府」の時期にはそれしかありえなかったというのが実態である。選挙権も一部の人々に限られ、他国との戦争も現実の問題としてある中で、政府の方針が一部の人々の利害で決定され、軍事力(それは時には国内向けにも公使される)が大きな意味を持ったのである。
  それが現在は、選挙権が拡大し、政府の軍隊に対する優位も確立した。政府の役割は利害の調整であるが、以前は調整すべき利害が少なかったのに対し、現在では多くの利害がからみあうようになってきた。その意味では今こそ政府の出番なのである(今は何を政府が優先するかについては議論すべきだが、「小さな政府」がありえない時代)。
 世界の超大国アメリカでは、自らも小国も一票という国際政治の決定方法に不満を持つ人がいた。それが、前政権の単独行動主義につながった。それと同じことが日本国内でも発生している。企業であれ個人であれ強い立場にあるものは、その利益を生む対象が国内から海外に拡大し、国内と海外の比重が逆転しているものも多い。となると、多くの選挙民の意向を受けての政策に対し、少数の富裕層はアメリカと同じような不満を持つ。
 以前なら、自民党の経済成長重視路線と、野党の国民生活重視路線は、政策の優先順序こそ異なるが、結果としては利害が一致する面も多かった。それが今は多数の人々と少数の富裕層の利害の溝は大きくなっている。
 それぞれのスポーツにはきちんとしたルールがあり、そのもとでチームと個人が工夫を凝らして競い合ってきた。それに対し、構造改革のもとでは、けっして変更してはいけない部分を含めてルールが緩められてしまった。以前のルールならファウルであり、アンフェアだとされたことが許容され、そのため、現在の雇用問題や貧困問題が発生してきた。
 それにどのように対処すべきであろうか。一つは国家の枠組みを超えて経済活動が行われる中で、国家間の共通ルールを固めることであろうか。そしてその先には国家を相対化し、その上位に立つような機関を構想することであろう。国連などの国際機関の存在は戦争の発生によりその重要性が認識されるが、各国は戦争を起こさないと主張する一方で、自己の優位を主張してきた。特にアメリカなど強い国はそうで、国連を敵視する指導者もいた。
 今後は世界大戦が発生する可能性は低いが国際間の経済格差などの問題が大きくなってくる。そうすると戦争とは別の意味で国際機関の必要性が認識されるのではないか。日本の戦国期と江戸後期は地方や民衆が台頭した時代であったが、一面では利害の調整という面では大きな混乱がみられ、その結果としてそれまでよりも強力な権力を持つ政権が誕生したのであろう。新たな国際機関を設立し、そこに権限を委任するにしても、個人の権利を守るための委任であることを忘れてはならない。ルールには絶対守らなければならない部分があるのであり、その上に立って競争が行われなければならない。

2大政党制

 戦前の日本が政友会と民政党の2大政党制であったことはよく知られている。ただ、他国と比べるとその違いは大きくない。ともに保守政党であり、それに対して無産政党が少数の議席を得ていた。戦後は、社会党を中心とする無産政党の流れを継承する政党の存在が格段に大きくなったが、その一方で保守合同で自民党が誕生したことにより、1と2分の1大政党制になった。
 自民党と社会党の違いは明確であるが、政権交代がなかったため、自民党は保守党というより「政権党」というべき存在となり、その人材は保守からリベラルまで多様で、政権をめざす人々の受け皿となった。経済成長を第一に考えてきたが、1960年代後半から成長の影の部分が拡大すると、都市部を中心に経済成長一辺倒への批判が強まり、革新知事が相次いで誕生した。
 そうした状況に対し、自民党は後出しじゃんけんさながらに、革新側の主張を取り入れ、支持の回復を図った。前に述べたように党内にはリベラルの人々もかなりおり、それがために転換が可能であったといえる。革新側の新製品が好評でシェアを奪ったのに対し、大企業である自民党がより安価で同様の製品を発売してシェアを回復したのである。これを政権交代とは言わないが、党内部でハト派とされた人々が首相となることが多くなった。
 今回は政権交代が実現したが、これこそ民主主義には不可欠なものである。野党となった自民党を兵糧攻めにして打撃を与えるという作戦も聞かれるが、本来は国民生活をよりよくすることで支持を拡大すべきであろう。そうしないと「権力は腐敗する」のは必然であり、且つ、腐敗した政権に代わる受け皿はないということになってしまう。
 この後の流れとしては、時期は不明だが少数政党を含めて政界再編が起こるであろう。民主党、自民党とも幅が広く、且つその主張が重なる部分が多すぎる。自民党と社会党ほどの違いはないにしても、今よりは違いが明確な2大政党に移行するだろう。そうなって
初めて政権交代が、よりよい政府を樹立するための当然の手段となろう。

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