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2009年8月14日 (金)

出雲国と石見国の人口から(2)

  寛政10年(1798)は①28,711、②271,667、③248,076、④21,660と、蝦夷地では2倍近くと、20%前後増の②~④より多いが、この後と比べれば序の口である。文化元年(1804)には①45,417と、②~④が微減なのに約6割増加している。北方問題が浮上する中、あるいは蝦夷地での海産物や交易がクローズアップされる中、移住する人が増えたのであろうか。単に統計の精度が高くなったというものではなかろう。出羽、陸奥国は微増である。その後文政5年(1822)に6万人を越え(とはいえこの間はデータがない)、天保の大飢饉で打撃を受けて6万人台前半となるが、その6年後の弘化3年(1846)には7万人を越え、次のデータが明治5年(1872)の12万人台となっている。ちなみに同年の琉球藩の人口は166,789人と蝦夷地(開拓使)を上回っている。
 明治に入り、屯田兵や品種改良により稲作が可能となったことが北海道の人口増加をもたらしたのはいうまでもない。明治30年(1897)の人口は約56万人と4倍以上になった。沖縄県が3倍弱の45万人弱、島根県は6割増の72万弱である。
 本来、この文章は、現在の旧石見国域は明治初年よりも人口が減少しているという点と、古代から近世初頭までの田の面積で比べると、石見国は出雲国の半分しかないにもかかわらず、近世前半までの両者の人口の差は小さかったことから書き始めようとしたもの。島根県域でまとめると、天保の大飢饉の後、全国的に人口増加のペースがアップしたが、その中で島根県とその周辺地域=山陰では人口増加の割合が少なく、それが近代以降も継続していることになる。
 近代以前は独立採算制であったが、それが中央集権化に変化し、国に集められた税金が中央に投資されたこととともに、何が近代以降の地域間格差の原因なのであろうか。

※蝦夷地の人口データについて、補足が必要となった。松江藩のデータで触れているように、各藩から幕府に報告されたデータには、武士が含まれないことと、1807年の蝦夷地の幕府による直轄化以前のデータには、アイヌの人々は含まれないが、蝦夷地全土の直轄化以降は、アイヌの人口を含むということである。1804年段階では東蝦夷のみが直轄で、1822年のデータはその前年に蝦夷地の大半を松前藩に返している。そして再度蝦夷地を直轄化したのは、1855年のことであった(8.20)。

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