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2009年8月

2009年8月31日 (月)

初めての沖縄(1)

 沖縄に行ってきた。他に心配な仕事があり、最後までできることなら他の人に替わって貰いたいとの思いが強かったため、事前の情報収集は一切行わなかった。時間の隙間を利用して、同行者に首里城ならびに沖縄戦の関係地へ連れて行って貰った。
 高校で日本史を教えているので、沖縄戦についてはいくつか本を読んでいるはずだが、何も知らなかったというのが実感である。今回の訪問でようやく流れがつかめたというのが実感だ。それとともに、沖縄は「琉球」という別の名前を持っているが、日本とも中国とも異なる独自の文化を発展させてきたところだとの感想を持った。
 明治以降の同化政策の結果、沖縄の独自性は見えにくくなったかもしれないが、普通であれば(政府の政策次第では)、北海道のアイヌと同様独自の文化を有したと評価されたであろう。祖先崇拝を基本とし、寺社はほとんどなかったこともそうであろうし、今回の訪問が南部中心であったため、田んぼを中心とする田園風景をみることもなかった。あるのは「サトウキビ畠」が中心である。NHKみんなの歌で知られるようになった同名の歌の意味もようやく分かったという状況である。
 時あたかも政権交代が起こったこともあり、戦後の日本とアメリカの関係も再構築すべき時期が来たのだろう。その中心に沖縄の米軍基地問題がある。日本全体で考えていく必要がある。米軍基地など無いにこしたことはないが、相手があるので、現実的な妥協点をみつける必要がある。
 政権交代が現実の問題となった時点での政党の討論会でも、日本は北朝鮮に対し、「対話と圧力」といいながら、「圧力」のみで「対話」の具体的戦略がなかったことが指摘されていたが、その通りだと想った。それは一見日本にとって不利益にみえるかもしれないが、それが関係改善の前進のため必要不可欠であることを主権者に対して粘り強く説明する。時には、二国間で秘密裏に行わなければまとまらない問題もある。日本政府は国民を説得する必要がある策をとらずに、国民から文句がでないような政策を選択してきたが、それでは前に進まないのである。

出雲国守護所について(3)

 (1)では「中世後期の出雲国守護所は平浜別宮・竹矢郷にあったと言えよう」と述べた。南北朝期の守護所は平浜別宮で問題ないが、室町期はやはり富田城との思いも強くある。問題なのは、平浜八幡宮と関係寺院への守護関係史料が室町期には、それほど多くないことである。南北朝期のものが残っているので、実際にそれほどは発給されなかったと考えられる。それに対して富田城とその周辺寺社の文書は戦国期の戦闘により失われており、こちらは単純になかったとはいえない。
 竹矢郷内安国寺と京極氏の関係は問題ないが、八幡庄と竹矢郷内に室町期に開かれた寺院もあまりなさそうだ。戦国末期の富田城とその周辺に平浜八幡と竹矢郷をあわせた数倍の寺院があったことは間違いない。問題はそれがいつ開かれたである。臨済宗城安寺は鎌倉後期に出雲佐々木氏の一族富田氏が開いたものであり、曹洞宗洞光寺は尼子氏が開いたものであろう。戦国期末から近世前半に松江市や安来市に移転した寺院も多いが、富田城を囲む塩谷と新宮谷にはそれ以外にも寺院に関係する地名が多く確認できる。
 というころで、すっきりはしないが、消去法により、室町期以降の守護所はやはり富田城とその周辺にあったとしておく。
※ここのところ更新がとどこおっていたが、またぼちぼち再開したい。

2009年8月23日 (日)

世襲制限(4)

 はじめに述べたが、本質的には候補者が国会議員としてどのような資質を持っているかが選挙の基準となるべきであるが、まだそうはなっていない。国会議員の選挙に勝つためには、団体や後援会、さらには県議会、市町村会議員を組織化することが求められる。とはいっても世襲議員が少なかった野党では、労働組合など団体の推薦と、県市町村会議員の協力はあったにしても、その比重は与党より低かったのではないか。
 その意味で、国政報告会や政治に関わる演説・後援会が小規模で定期的に開催される必要がある。国会議員はそれを目指す人がどのような考えであるかを選挙民に理解してもらう必要がある。今回は保守への逆風の中、今までにはなかったほど小集会が行われているが、日常的な活動が求められる。それにより選挙民の目もより確かなものとなっていく。そのためにも、政党が公認・推薦候補を選ぶ段階でも十分意見を戦わせて、自信を持って候補者を決めるようにならなければならない。
 この問題は大きく日本社会における人事やポストの決定方法がよくいえばファジー、悪く言えばずさんなこととも関係している。数ある候補者から最適と思える人を選ぶのではなく、他人のことは知らないが、この人ならできるだろうという範囲で決定している。その人が最適かどうかにはそれほど関心はない。
 この点は真理を探究することについても同様で、それが最適な回答であるかよりも、多くの人がなんとなく支持していれば、それでいいというのである。このブログでは「資料の声を聴く」と題しているが、具体的歴史について、現時点での可能な限りで得られる回答を提示しようとしている。それが実現しているかは、疑問で、後の自分を含めて厳しい批判を受けることであろうが、前進するためには必要不可欠な作業である。

世襲制限(3)

 以前は、有力政治家は地方の選挙区選出の国会議員が多かった。都市部が浮動票が多く、連続当選が容易ではないのに対して、地方では盤石の保守票があり、当選回数を重ねた議員が、政界の階段を上っていった。地方選出の議員といってもその大半は都会出身である。顕著なのが世襲議員で、親とともに都会で成長し、立候補のために選挙区に住民票を移しているケースが大半だ。
 その安定していた地方も、前回と今回(進行中)の2回の選挙をみると流動化している。候補者個人の問題というよりどの政党に風が吹くかということが、都市部ほどではないが、地方でもみられている。となると、わざわざ地方に住民票を移して立候補するメリット(この点が甲子園球児が地方の高校へ進学するのと共通する)は薄れるのではないか。
 これまで与党候補の最大の売りは与党であるということであった。「中央との強いパイプ」などと言ってきた。今回の選挙でもそれを強調するが、事前の予想では野党に転落することは確実だとされている。事前の予想が、不利な方に有利に展開することもあるが、選挙民が冷静にみると、「与党だから」というのは不当表示をしていることとなる。野党に転落することを知りながら「与党候補」としての自分に期待してくれといっているのである。その意味でも、接戦ならともかく、これほど差がついてしまうと、「与党」を売りにしていた候補から浮動票を中心にかなりの票が離れることも考えられる。今回はそうでなくても、次回選挙までに少なくとも接戦の状況をつくり出せないと、今回はなんとか当選できた「有力者」が次回は落選というケースもある。
 とはいっても、現在の日本の舵取りは大変難しく、今回の選挙で与党となった政党が十分な成果を出せないことも十分予想でき、次回の選挙で(まだ今回を含め仮定だか)再度政権交代があるかもしれない。そして「政権交代」が定着していくと、今までのような「与党だから」との主張は与党・野党を問わず説得力が失われていくことになる。

2009年8月22日 (土)

世襲制限(2)

 甲子園を目指す球児でもないが、人口の少ない地方のほうが国会議員になりやすいと思う人もあるかもしれないが、実際には小選挙区制で人口の少ない地方ほど選挙区が広くお金もかかる。ヨーロッパのように、一人ひとりが本拠地とともに、バカンスや避暑のため過ごす地方にも拠点を持っているならば、都市と地方の不毛な対立は生じないが、現在の日本はそれがある。という点で①②はよいことだが、地方からすると不安な面もある。
  世襲システムは一面では後援会の維持という側面もあり、これが強くなるのは本末転倒であると思う。後援会も、そして労働組合も自己の利益偏重ではなく公の存在としての自覚が必要不可欠である。
 急に労働組合が登場したが、現在の組合は正規労働者中心で、その関心は自己の利益中心で、社会全体への関心が弱いという問題があるが、本来は憲法でその活動が保障された大変大切な存在である。「弱者」が連帯することにより「強者」とのハンデを埋めることが可能となる。憲法をきちんと読めば組合は「存在し活動してもよい」のではなく「存在し活動しなければならない」のである。この原点に立ち返って労働組合の問題を、政治家も経営者も、そして一人ひとりが考えていかなればならない。そのためにも正規・非正規に関係なく、すべての人が組合に加入することが可能とならなければならない。
 各方面での人材養成システムは必要である。以前は強固な存在であった派閥も、問題点はあるが、養成システム的側面を持っていた。これが弱体化すると政治家養成システムもなくなってしまった。必要なのは派閥ではなく養成システムである。そしてその大前提として、誰でも努力すれば成功しうるという状況=格差縮小をつくり出すことが必要不可欠である。労働組合もそれを実現するための方法である。

世襲制限(1)

 衆議院議員選挙の一つのテーマに①「世襲制限」がある。関連する意見としてイギリスと同様に②「出身地からは立候補できないようにする」というものも、ネット上でみられる。候補者の問題であるとともに、選ぶ側の問題でもあるが、別の観点から「つぶやき」を記してみたい。
 基本的には①②とも賛成なのだが、世襲批判を心配し、本来引退予定の候補者が今回も立候補したとの新聞記事を読んでいて複雑な気持ちになった。それは、地方の問題である。戦前までは地方には大地主とよばれる有力者が存在し、彼らの中から国会議員や地方の首長が選ばれることが多かった。それが戦後の農地改革と高度成長の結果、大地主の当主はほとんどが都市部へ移動してしまった。
 どこが問題かといえば、大地主の家では代々後継者を養成するシステムがあり、場合によっては優秀な娘婿が地位を継承してきた。そのリーダー養成システムがなくなったのである。戦後しばらくは、日本では機会の均等化が進み、子どもの学力が家の経済力に左右される割合は減少してきた。そしてシャウプ税制改革により、戦前の中央に偏在した社会資本の整備が地方でも行われるようになった。
 ところが現在は、格差は拡大し、経済力と学力には相関関係があることが示されている。以前は公教育を受けていれば、多くの子が持っている才能を伸ばす事が可能であったのが、現在は変わっているのである。公教育のみでは不十分で、塾に通うことでもしないと学力を伸ばすことが難しくなった。別の言い方をすると、才能を持ちながら経済力や生育の環境によりそれを伸ばせない人が増えているのである。
 これと①②の関係はということであるが、議員の世襲制もある意味では政治家養成のシステムであった。娘婿の場合もあれば、秘書ないしは外部から招くこともあった。そのシステムが崩壊した場合、都市部はともかく、地方で立候補しようとする人がいるのだろうか。

2009年8月14日 (金)

HP作成中(4)

 GliveからDreamweaverに乗り換えて、かなりの本数のブログをHPに転載したが、ソフトの使い方の習得については足踏み状態が続いている。Flashについてもなかなか良い解説書がなく困っていた。とりあえずCS3用で評価の高かった本を購入し、なかなかよさそうではあるが、FlashはCS4でかなり進化したところがあるようで(Dreamweaverは使い勝手の向上がメイン)、その差を埋めるには、CS3の体験版を収録した本を購入する必要があるかとも思っている。
 とはいえ、やってみる中でしか進化はないが、一方では、見かけも大事だが、中身が問題との想いも、ソフトの習得を後回しにさせているのかもしれない。これが10年前なら(若ければ)、もっとスムーズに入ることができたのかもしれないと思う。とにかくやってみる。時間とお金もある程度かけないと、事態は進まないであろう。
 それと同時に、家のPCのネットワークの問題もアドレスの固定化をして使い倒さないと意味がない。ついこの間まで主役であったInspiron9200も家の中・高校生が主に使う形にした。あいかわらずものを捨てるのがおそいとは思うのだが。
 なお、ブログはより不特定多数の方がみる機会があるのに対し、HPの方は普通の検索ではそうヒットしないので、HPにのみ掲載している内容も若干ある(もうすぐ100になる程度)。
(付記)以前、win98系と2000系でインターネット接続スピードに明確な差があったが、XPとwin7系にも、LANケーブル接続と無線接続のスピードにかなり差があるようだ。win7の無線とXPの有線がほぼ同じでびっくり。XPでいいかと思っていたが、メインは7に移行すべきか。

出雲国と石見国の人口から(3)

 宝暦6年(1756)の出雲国の人口は220,094人。対して石見国は259,202人と記録上唯一石見国が出雲国を上回っている。ところがこの前後の記録では2~3万人出雲国の方が多く、この年の記録はなんらかの理由で誤記された可能性が高い。6年前の寛延3年(1750)比で、隠岐国600人増、伯耆国4,000人増、長門国6,000人増、周防国5,700人増という数字と比べても、石見国40,000人増と、出雲国15,000人減はおかしい。言われてみれば誰でも納得がいくであろう。ただ、そこのみをみていると気がつかないこともあろう。
 寛延3年の松江藩については宗門改帳の数字が判明する。出雲国の人口はこれから武士の人口を引き、広瀬藩と母里藩の人口を加えたものである。宝暦12年(1762)の広瀬藩と母里藩の人口を加えたものは27,264人。その12年前の寛延3年の両藩の人口は、出雲国の人口と松江藩の宗門帳のデータから計算して26,748人と500人程度少ない。こうしてみると、宝暦6年の出雲国の人口は、寛延3年からやや増加して242,500人程度と考えられる。
 これに対して石見国の宝暦6年の人口は、浜田藩の延享3年(1746)と宝暦12年の人口、さらには浜田藩跡市組の延享3年、寛延3年、宝暦6年、宝暦12年の人口を勘案すると、225,000人程度となる。当初は単純に逆に書き間違ったとも思ったが、残っている資料からすると以上のようであった。
 そうすると出雲国は寛延3年から8000人増、石見国は5000人増と周辺国と大差がないことになる。このような例は少なかろうが、データを利用する際には数字そのものを吟味しておかないと、実証的な作業のはずが、そうではない結果をもたらしてしまう。

出雲国と石見国の人口から(2)

  寛政10年(1798)は①28,711、②271,667、③248,076、④21,660と、蝦夷地では2倍近くと、20%前後増の②~④より多いが、この後と比べれば序の口である。文化元年(1804)には①45,417と、②~④が微減なのに約6割増加している。北方問題が浮上する中、あるいは蝦夷地での海産物や交易がクローズアップされる中、移住する人が増えたのであろうか。単に統計の精度が高くなったというものではなかろう。出羽、陸奥国は微増である。その後文政5年(1822)に6万人を越え(とはいえこの間はデータがない)、天保の大飢饉で打撃を受けて6万人台前半となるが、その6年後の弘化3年(1846)には7万人を越え、次のデータが明治5年(1872)の12万人台となっている。ちなみに同年の琉球藩の人口は166,789人と蝦夷地(開拓使)を上回っている。
 明治に入り、屯田兵や品種改良により稲作が可能となったことが北海道の人口増加をもたらしたのはいうまでもない。明治30年(1897)の人口は約56万人と4倍以上になった。沖縄県が3倍弱の45万人弱、島根県は6割増の72万弱である。
 本来、この文章は、現在の旧石見国域は明治初年よりも人口が減少しているという点と、古代から近世初頭までの田の面積で比べると、石見国は出雲国の半分しかないにもかかわらず、近世前半までの両者の人口の差は小さかったことから書き始めようとしたもの。島根県域でまとめると、天保の大飢饉の後、全国的に人口増加のペースがアップしたが、その中で島根県とその周辺地域=山陰では人口増加の割合が少なく、それが近代以降も継続していることになる。
 近代以前は独立採算制であったが、それが中央集権化に変化し、国に集められた税金が中央に投資されたこととともに、何が近代以降の地域間格差の原因なのであろうか。

※蝦夷地の人口データについて、補足が必要となった。松江藩のデータで触れているように、各藩から幕府に報告されたデータには、武士が含まれないことと、1807年の蝦夷地の幕府による直轄化以前のデータには、アイヌの人々は含まれないが、蝦夷地全土の直轄化以降は、アイヌの人口を含むということである。1804年段階では東蝦夷のみが直轄で、1822年のデータはその前年に蝦夷地の大半を松前藩に返している。そして再度蝦夷地を直轄化したのは、1855年のことであった(8.20)。

出雲国と石見国の人口から

 表題のことを書こうとしていたら、「蝦夷地」の人口へ目がいってしまった。板倉聖宣氏が代表をつとめる『たのしい授業』で、その人口の推移から蝦夷地とアイヌの問題に対して、これまでの「和人による侵略」という観点とは異なる見方が示されていたことを思い出したのである。本そのものを再確認していないので、こちらの印象と実際の記述に違いがあるかもしれないが、もしそうであれば後で訂正したい。
 『日本人口統計集成』別巻1から①蝦夷地の人口をひろう。次いでその年の②出雲国、③石見国、④隠岐国の人口を記す。8代将軍吉宗の代、享保6年以降のデータが記されている。享保6年(1721)①15,615、②222,330、③207,956、④18,133。出雲と石見の人口の差がこの時点では少ないことから書き始めようとしたが、ここでは、蝦夷地と隠岐を対比してみよう。この二つと島国である⑤壱岐国(19,993)と⑥対馬国(16,476)が人口が2万人から1万5千人の間である。琉球については藩でないので報告資料はない。同じ島国とはいっても淡路国は約12万人、佐渡国は約10万人と状況が異なっている。
  これに対して明治5年の人口は①123,668、②340,042、③259,611、④28,531である。島根県域では別に述べたように隠岐国の人口増加率が一番高く、その背景に日本海水運の発達があり、一方で隠岐国での重要な収入源であった牛馬の飼育の必要性は低下したことを述べた。ところが、その隠岐国とは比較にならないぐらいに蝦夷地の人口が増加しているのである。以前、仙台藩の幕末の人口増加はなぜだろうと思った。三大飢饉の後2つの天明・天保は東国中心でありながら増加しているのが理解できなかったのである。

2009年8月13日 (木)

出雲守藤原長定

 この人物を知っている人はほとんどないだろうが、以下に述べるように、承久の乱以前の朝廷(後鳥羽)と幕府(実朝)の関係を象徴的に示す人物である。彼が『吾妻鏡』に初めて登場するのは、建保元年(1213)5月3日の和田義盛の乱に関する以下の記事である。
 「また出雲守定長折節祇候するの間、武勇の家に非ずと雖も、殊に防戦の忠を尽くす。これ刑部卿頼経朝臣の孫、左衛門佐経長が男なり。(中略5日)また出雲守長定同じく賞を蒙る。 」
長定は義盛の乱鎮圧に参加し勲功を得ている。そして彼の祖父が藤原刑部卿頼経で、父がその子経長であることが記されている。
 文治5年(1189)2月、源義経に与同したとして、出雲国知行国主藤原朝方、その子の出雲守朝経、出雲国目代兵衛尉政綱らが解任された。その中に、頼経とその子宗長の名もみえている。頼経は豊後国知行国主として九州における反平家方の中心的役割を果たした人物であり、その中で義経と結びついた。その姉妹(頼輔女子)が九条兼実との間に良平を産んでいる。そして経長の兄弟である宗長(難波氏)と弟雅経(飛鳥井氏)は関東に下向し蹴鞠を伝えて幕府に仕えている。
 このような長定が出雲守である一方で将軍実朝の家臣して活動し、恩賞を受けているのである。そしてその年に将軍が大江広元邸などを訪れた際には、「殿上人 出雲守長定」として随兵しているのである。このような事態は、長定の家と幕府の関係もあろうが、後鳥羽と実朝の緊密な関係なくしては考えられないのである。

2009年8月 8日 (土)

朝山氏領について(9)

(飯石郡)
 飯石郡は山間地帯であり、鎌倉時代を通じて開発が進行中であった。そのためか、田数ではさほど目立たず、石清水八幡宮領赤穴庄のみが50町を越えている。しかし、実質的に最大面積を誇るのは田数30町の須佐郷と25町の多祢郷である。また、郡内北端に位置する三刀屋郷は鎌倉時代に2度にわたり出雲国惣社の造営料所となったことが確認できるように、斐伊川水系の重要地点であった。
 多祢郷は勝部宿祢一族N02の多祢氏の所領であった。元宗の子資元は多祢郷とともに、日倉別宮、島根郡長田西郷を支配していた。そして前に述べたように資元の孫に建部七郎政元がおり、出雲郡建部郷もその所領であった可能性が高い。
 須佐郷は建久5年には在庁出雲宿祢忠康が郷司であったが、文永8年の地頭は北条時宗である。出雲氏内でも国造の地位をめぐる対立があったが、その中に須佐の一族も登場している。来島氏については神門郡の項で述べた。後醍醐による倒幕にたいして来島和田三郎が参加しているが、来島氏一族であろう。来島氏は多祢氏とともに南北朝動乱の中で没落したと推定され、来島庄、多祢郷はともに守護京極氏領となる
 以上、朝山氏(勝部宿祢一族)領という観点から鎌倉期の出雲国内の所領について概観してみた。十分準備したものではなく、一気にまとめたので、後に修正が必要となるかもしれない(了)。
付記:石見国については15年前に「石見国中世武士団に関する一考察」という論文で概観したが、今回は別の観点からまとめた。出雲国についても、朝山氏という切り口から概観してみた。とりあえずというものであるが、ブログについてはしばらく更新を休んで充電したい(HPの整備は行う)。

朝山氏領について(8)

(大原郡)
 朝山氏が本拠としたのが大原郡であるが、一ノ谷合戦の参加者7名のうち、富田押領使以外の6名は勝部宿祢一族である可能性が高い。塩冶大夫と多久七郎についてはすでに述べたとおりである。次いで「朝山・木次・三代が一統」とされるのは、勝部宿祢一族の中でもこの3氏は特に関係が深かったのであろう。石見国の益田氏に対しても、「岐須木二郎兄弟」と「横田兵衛尉」を追討せよとの命令が出されている(ただしその文書そのものは要検討)。当時の出雲国衙の在庁官人は勝部宿祢以外に、出雲宿祢、中原朝臣、藤原朝臣もいたが、最上位にあった勝部宿祢一族はとりわけ平家との関係が強かったのではないか。
 12世紀中頃の元宗の子として系図には佐世庁事守安、多祢庁事資元、鰐淵寺別当惟宗、万田庁事明元と(法吉庁事)孝光が記されている。元宗の系統は勝部宿祢一族でも大原郡に勢力を持ち、その曾祖父政次は「牛尾大夫」、祖父政久には「久野太郎」と付記される。勝部宿祢一族が、牛尾庄や久野郷、さらには大原庄の別称と推定される大東庄にも勢力を持っていたのだろう。文永8年の湯郷と拝志郷の地頭は「大西二郎女子」であり、佐世郷地頭は「湯左衛門四郎」であった。承久の乱後大西庄地頭となった伊北氏(その後飯沼氏に交替)は上賀茂神社領福田(加茂)庄に対して「大西庄司跡」であるとして干渉している。大西庄、加茂庄と勝部宿祢一族との関係も伺われる。「大東」に対する本来の「大西」が、仁和寺庄、近松庄、大西庄、加茂庄一帯の地域であったことも「水系と所領」で述べた。
 「朝山・木次・三代が一統」の木次と三代も承久の乱後は、東国御家人大井氏と本間氏が地頭となっている。大井氏は広田庄地頭品川氏と同族で紀氏の一族である。三代庄は、斐伊川にも面し、大原郡と神門郡をつなぐ地点に位置し、本間氏は武蔵国御家人である。
 以上のように大原郡と勝部宿祢一族との関係は大変深いものがある。

朝山氏領について(7)

(仁多郡)
 一ノ谷合戦に参加した「横田兵衛尉」の所領のうち、横田庄の文永8年の地頭は北条時宗の異母兄で六波羅探題であった時輔であった。前に述べたように、横田兵衛尉跡は一族の三処氏が継承し、幕府のもとで地頭となり、地頭請を行ったが、国御家人三処長綱が死亡して東国御家人の娘と推定される後家尼が地頭となって以後は年貢の未進が続いた。これに対して荘園領主石清水八幡宮は地頭請を停止したり幕府に未進を訴えたりしたが、後家尼は地頭職を北条時輔に寄進して立場の強化を図った。
 この三処氏については長綱とその子の名をみても勝部宿祢一族の可能性が高い。最初に述べたように、地頭の地位を得られなかった仁田氏もその勢力を維持していた。文永8年の比知新宮地頭「阿井兵衛尉子」は阿井郷を支配した国御家人の一族であるが、承久の乱後の阿井郷は鎌倉幕府の管理のもと右大将家法華堂別当僧都尊範(吉見氏一族)が地頭となっている。多胡氏が地頭となっている馬木郷についてもすでに述べたとおりである。布施郷と布施社の地頭神保氏は大原郡大東庄内の地頭でもあったが、その大東庄内の所領は土屋氏領にもなっていた。

朝山氏領について(6)

(出雲郡)
 中世の出雲大社領の多くは古代の出雲郡内にあった。建久5年漆治郷司は庁事藤原孝政であったが、承久の乱により東国御家人小山氏領となっている。系図では多祢頼元の子政元には「建部七郎」とあり、乱以前の建部郷は朝山氏領であったが、乱以後は東国御家人桑原氏が地頭となっている。文永8年の福富地頭「福富太郎入道」は国御家人であろう。志々塚保についてはすでに述べたが、北条時宗領となっている神立社、守護佐々木泰清の子義重領美談庄、幕府関係の信濃僧正道禅跡である氷室庄も乱以前は有力在庁領であった可能性が高い。
(神門郡)
 文永8年に在国司朝山昌綱跡が地頭であったのは、郡内では朝山郷のみであるが、伊秩庄地頭来島松助入道も、飯石郡来島庄を苗字の地とする国御家人である。建久5年に勝部宿祢一族の政光が郷司であった塩冶郷は承久の乱後は守護領となっている。同じく守護領となった古志郷も有力在庁領であった可能性が高い。その他に、文永8年の木津御島地頭乃木四郎は、系図で朝山惟元の嫡子惟綱の娘と佐々木義清の養子乃木光綱の間に生まれた子であり、朝山氏領を継承している可能性が高い。
 朝山郷は惟元の嫡子惟綱が継承するはずであるが、承久の乱により、惟綱弟元綱が継承し、次いで元綱の嫡子昌綱が在国司の地位とともに継承した。また承久の乱の宇治川合戦で、「神西庄司太郎」が渋谷又太郎に討ち取られており、その跡には東国御家人で相模国の古庄氏が地頭となっている。

朝山氏領について(5)

(秋鹿郡)
 佐陀社は島根郡と秋鹿郡にまたがる庄園であった。それ以外については、建久5年段階で秋鹿郷と伊野郷はそれぞれ庁事中原頼辰と中原時光が郷司であった。さらに中原氏の所領があった可能性がある。ただ、承久の乱の結果、両所領とも東国御家人領(土屋五郎、持明院殿)となり、中原氏の勢力は衰退した可能性が高い。実際に建長元年の出雲大社遷宮注進状には、在国司朝山昌綱をはじめとする勝部宿祢3名、藤原朝臣2名、平朝臣2名が庁事としてみえ、中原朝臣はいない。
 土屋氏は守護佐々木氏に次いで所領が多いが、その中には有力在庁官人跡を獲得したものがあった可能性が高い。「持明院殿」については、鎌倉幕府の管理のもと、得分権を持明院統関係者(後深草)が持ったのではないか。同様の所領に出雲郡志々塚保があるが、鎌倉末までには出雲国守護の所領になっている。
(楯縫郡)
 文永8年の楯縫東郷、楯縫西郷、三津庄の地頭は在国司朝山昌綱跡であった。万田本庄地頭万田二郎太郎と新庄地頭万田七郎は系図により家光と元光に比定できる。建久5年の万田郷司明元(系図には庁事とするが、在庁か)の嫡子明政は「多久太郎」で承久の乱で討ち死にしたと記されており、万田庄だけでなく、多久郷も領有していた。それが多久郷を失い、子の家光が万田本庄地頭としてみえる。明政の兄弟が新庄地頭元光である。
 多久郷では、一ノ谷合戦に参加した「多久七郎」の存在が注目されるが、建久5年の明元やその父元宗とは別の朝山氏一族と思われる。多久七郎は没落し、一族の明元が多久郷を継承したが、承久の乱により文永8年の東国御家人「中二郎入道」の一族が多久郷地頭となった。
 文永8年の玖潭社地頭玖潭四郎は、系図にみえる朝山惟元の子で鰐淵寺別当となった圓顕の子宗綱に比定できる。小境保地頭小境二郎は国御家人(藤原姓)であり、鎌倉初期の国富郷地頭は一時期幕府の支持で出雲大社権検校となった内蔵孝元であった。平田保も承久の乱までは法吉郷司孝光が郷司であったが、乱により多胡氏に替わっている。郡内で残る佐香保についても乱の前までは有力在庁の所領であった可能性が高い。

朝山氏領について(4)

(島根郡)
 佐陀神主領である佐陀社と国屋郷、長田氏領である東西長田郷と枕木保は朝山氏領である。さらに法吉郷、法吉社、比津村も朝山氏領の可能性が高い。12世紀半ばの庁事元宗の子孝光は建久5年の解状の裏書きには法吉郷司と記され、系図によるとその子明廣は平田庁事、盛孝と光元にはそれぞれ「法吉太郎」、「法吉七郎兵衛」と付記される。そして文永8年の法吉郷、法吉社、比津村の地頭はいずれも渋谷権守三郎である。法吉氏の支配した3カ所がいずれも東国御家人渋谷氏領となったのであろう。渋谷氏と言えば、出雲国守護佐々木義清の父秀義がその庇護を受け、義清の母は渋谷重国の娘であった。承久の乱では渋谷三郎(二人手討ち、一人萩野三郎)、渋谷権守太郎(二人、内一人手打ち、一人生取り)、渋谷の又太郎(一人、手打ち、出雲国神西庄司太郎)、渋谷六郎(一人、郎等これを討つ)の4名が宇治川の合戦で勲功をあげ、負傷した中に、渋谷の平太三郎、渋谷権守六郎、同七郎の3名が、死亡した中に渋谷四郎、渋谷権守五郎の2名がみえる。「渋谷権守三郎」は権守太郎、権守五郎、権守六郎の兄弟であろうか。
 確認できるのは以上であるが島根郡内に朝山氏領がこの他にも存在したのは間違いなかろう。その意味で注目されるは、乱後に守護領となった美保郷や土屋氏領となった加賀庄、持田庄、千酌郷、さらには将軍宗尊親王側近であった「持明院少将入道」(基盛)が地頭となっている長海本庄などである。

朝山氏領について(3)

(能義郡)
 東部能義郡内には朝山氏関係所領は確認できない。摂関家領富田庄・宇賀庄・吉田庄、石清水八幡宮領安田庄という巨大な庄園が生まれ、公領の割合は低いが、下賀茂神社領安来庄は「安来郷」が頼朝により寄進されたものである。安来庄の面積は110町と、公領で最大の出雲郷の105町余を上回っている。安来郷が平家方として頼朝領となったわけで、能義郡内の公領の存在も無視できない。建長元年の出雲大社遷宮の流鏑馬や相撲で、能義郡内の中須郷、坂田郷、田頼郷は重要な役割を果たしている。一ノ谷合戦に参加した富田押領使の出自が問題となるが、石見国益田氏の例をみても「押領使」は国衙軍制の中で重要な役割を果たしている。その意味で富田氏を単なる庄園勢力とみることはできない。

(意宇郡)
 系図によれば、湯郷と拝志郷が一族湯氏の所領である。また、系図では、朝山惟元の子貞元に「岩坂兵衛入道」と付記する。岩坂郷は承久の乱後、東国御家人恩田氏が地頭なっている。国衙の所在する意宇郡でもあり承久の乱以前にはその他にも朝山氏領はったはずであるが、確認できない。後に多胡氏領となった出雲郡(意宇郡)、馬木郷(仁多郡)、平田保(縦縫郡)については、平田保は朝山氏領で(後述)、馬木郷もその可能性が大きい。これに建長元年の出雲大社遷宮の流鏑馬5番が平田保、出雲郷、馬来郷、竹矢郷の組み合わせであることを勘案すると、出雲郷と竹矢郷も朝山氏領の可能性が高いのではないか。
 その他、建久5年段階で山代郷司は出雲宿祢季盛であった。また、文永8年の津田郷地頭は秋鹿二郎女子であり、後述の秋鹿郷司で庁事であった中原頼辰の関係者であった。

朝山(勝部宿祢)領について(2)

  『大伴氏系図』の記載で元宗以降についての記述は信頼性が高いと思われる。問題はそれ以前であるが、元宗の系統が大原郡内を本拠にしていたのは問題がなかろう。これに対して、神門郡、飯石郡、仁田(仁多)郡を本拠とする一族がいたという点はどうであろうか。神門郡と飯石郡は勝部宿祢一族の筆頭朝山氏(朝山郷、塩冶郷)とそれに次ぐ多祢氏(多祢郷)の本拠地があった郡であり、系図の記載の時期が正しいかはともかく、平安末期に勝部宿祢一族が所領を支配していたのは確実であろう。これに対して、仁多郡については、系図では仁田と横田を名乗る一族が記されている。横田は平安末期に一ノ谷合戦に参加した横田兵衛尉との関係が問題となる。仁田については、鎌倉~南北朝期の仁田氏の活動が確認できる。
 13世紀半ばの大原郡久野郷地頭は東国御家人の中郡道意であったが、その子には
「仁多四郎重房」の女子を母とするものが6名いる。また、重房の別の娘と中郡氏と婚姻関係を結んでいる。また、観応2年9月には出雲国飯石郡三刀屋郷内石丸城に反幕府方の武士が立て籠もり、山名氏に軍忠状を提出しているが、その中に桑原・若槻・片山・諏訪部(三刀屋)氏の東国出身者とともに「仁田彦四郎一族」がみえている。仁田氏は下級庄官として生き延び、旧領復活のために蜂起したのだろう。
 近世の地誌『雲陽誌』には永正17年(1520)に名分村の恵美城主「仁田右馬助」を佐陀神主が滅ぼしたと記される。宍道湖北岸になぜ仁田氏とも思うが、仁田氏と佐陀神主朝山氏が同族(勝部宿祢)であることを前提とすれば理解できる。

朝山(勝部宿祢)領について(1)

 朝山氏を惣領とする勝部宿祢が鎌倉幕府成立前の段階においてどの範囲に所領を支配していたのか、この点について情報を整理したい。その際、他の有力在庁官人にも言及したい。
 12世紀半ばの出雲大社遷宮史料から当時の有力在庁(庁事)を知る事ができる。序列順に記すと、孝盛、兼時、忠政、兼政、元宗の5人で、これに次ぐのが「在庁」と記されている季宗、助真、兼吉の3人である。姓は記されていないが、建久2年(1191)と5年の在庁官人解が参考となる(ただし5年のものは要検討文書)。そこでは序列順に記すと以下のようになっている。( )内は後に記された裏書からの推定人物。
 ①勝部宿祢(資盛)、②中原朝臣(頼辰)、③中原朝臣(時光)、④藤原朝臣(孝政)、⑤出雲宿祢(季盛)、⑥藤原朝臣(孝兼)、⑦勝部宿祢(明元*1)、⑧勝部宿祢(政光)、⑨勝部(孝光*2)、⑩出雲宿祢(忠康)、⑪出雲宿祢(頼政)、⑫勝部宿祢(惟元*3)
 *1 建久2年は「助光」、2 建久2年は裏書になし 3 建久2年は「行佳」。
庁事は⑤までの5人で、勝部宿祢を筆頭に、中原朝臣2名、藤原朝臣1名、出雲宿祢1名となっている。中原朝臣のみなぜ2名かは不明だが、中原頼辰は国造家の外戚となり、その子孝高が出雲大社神主となったこともあった。
 治承・寿永の乱で出雲国内の武士で平家方となったものは多かったが、結果としては、東国御家人の地頭補任は限定的で、一族内の他の人物に交代したケースが多かったと思われる。それは在庁官人についても同様であったであろうが、庁事に勝部宿祢が1名で中原朝臣が2名というのもその影響であろうか。12世紀半ばの5名の内、5番目の元宗が鎌倉期の朝山氏惣領の祖父にあたる人物であるが、筆頭の孝盛が当時の勝部宿祢の惣領で、他の3名は中原朝臣、藤原朝臣、出雲宿祢から各1名であろう。

2009年8月 7日 (金)

大野庄と大野氏(4)

 承久の乱後大野庄地頭に復帰した紀季成以前の大野氏について情報を整理する。
 大野氏は院政期に紀季康が、滝口の武士や鳥羽院武者所を務める中で大野庄を賜ったとする。最勝光院大野庄の立券は高倉天皇の母建春門院の持仏堂最勝光院が落成した承安3(1173年)の前後である。その子季明(嫡子であろう)から大野氏を名乗り、孫季清が、建久元年(1190)10月28日に頼朝から地頭職に補任された。季清の子が季成である。
 一族の記事をひろうと、季康の子右衛門尉康綱は建保5年(1217)5月には将軍実朝に、功に対する新恩を求めた和歌を進上し、備中国村社郷内の所領を安堵されている。具体的には八代の相伝の地であるとして新たに不輸権(免税)を認められた(『吾妻鏡』)。また、『紀氏系図』(尊卑分脈)によると、季康の兄弟季良は承安3年(1173)1月に従5位下となっている。そして建久8年(1197)までに東大寺領周防国椹野荘が再建され、預所に季良の子右衛門尉季種が補任されている(『鎌倉遺文』920)。「左」衛門尉季種はその一方で東大寺造営料所周防国(文治二年至于建永元年)の目代にもなっている。
 季清が補任された文書は残っていないが、当時の頼朝は幕府開設以来初めての上洛の途中で尾張国におり、25日には父義朝の墓所に参り、27日は母の実家熱田神宮へ参拝している。そして『吾妻鏡』には28日には尾張国内の牢籠の人々の所領を安堵したことが記されている。
 頼朝は不遇の時期に援助してくれた人々に対し手厚く報いている。寿永3年(1184)3月には平家に同心した因幡国長田氏の所領を安堵しているのも、その一例である。出雲国関係でも雑色の長として関東と京都の連絡にあたった時澤という人物がいた。確認はできないが、この補任の事実が正しいとすれば、過去の関係があったのではないか。謀反人跡ではなく、庄園領主の了解のもと安堵しての地頭補任である。また、季清の祖父季康の兄弟には東大寺再建の大勧進重源がいたことも影響した可能性がある。季清の子季成が元の如く地頭に補せられており、その父季清の地頭補任も事実であろう。
 では、なぜ一旦大野氏は地頭の地位を失ったのであろうか。季康は鳥羽院武者所で、季清と備中国の康綱の子種康については後鳥羽院の西面の武士であったと系図は記している。大野氏一族が承久の乱に関与しなかった可能性は低かろう。季成の訴えを受ける形で大野庄地頭に復活したが、その一部(東部)は東国御家人土屋氏に与えられたのではないか。

2009年8月 6日 (木)

水系と所領(2)

 長田郷と長田氏についてはすでに述べたところだが、長田郷をながめると、東郷・西郷といっても水系上は朝酌川流域というぐらいしか共通点はない。
 長田西郷は大橋川と朝酌川下流部に囲まれた地で、大橋川や朝酌川からの支流はほとんど目立たない。現在の西尾町、西川津町、学園、菅田町一帯の地であろう。これに対して長田東郷は、朝酌川上流部とその南北に分かれた支流域の地で、現在の東川津町(上・下)、坂本町、川原町、福原町一帯であろう。境を接してはいるが東西の長田郷の立地状況はかなり違う=別の地名で呼ばれても違和感を感じない。偶々ともに古代の山口郷の地に成立したので、同一地名の西郷、東郷と呼ばれたのだろうが、古代と中世では所領の成り立ちがまったく異なり、中世には別の所領とみたほうがよいのではないか。
 以上のことから何が述べたいかというと、西郷と東郷の支配者は早い段階から別れていたのではないかということ。ともに勝部宿祢一族ではあるが、『大伴氏系図』に長田西郷地頭長田氏はみえても、東郷地頭長田氏がみえないのはそのためではないか。両郷は建長元年の遷宮の史料でも、文永8年の頭役注文でも別々のものとして記されている。
 同様のことは加賀庄と持田庄についてもいえるのではないか。持田庄は加賀庄から独立したとされるが、加賀庄は日本海へ流れ込む支流と佐陀川の支流講武川沿いの所領であるのに対して、持田庄は朝酌川の支流沿いの所領である。加賀庄が立券・寄進される際には加賀庄という枠組みに組み込まれたが、まもなく別々の所領になるべくしてなったのではないか。ともに相模国御家人土屋氏が地頭ではあるが、最初から別々の人物が地頭となったと考える。加賀庄は、水系からみると東隣の千酌郷(これも土屋氏が地頭)との関係が強いと考える。

2009年8月 5日 (水)

大東庄

 出雲国内の巨大な庄園の一つに大東庄がある。文永8年(1271)の出雲大社三月会頭役注文によると、120町で、大原郡内では最大である。これとは別に大西庄があるが、こちらは22町と規模が異なっている(この点にはついては湯氏の項で述べた)。大東に対する大西は本来は大規模な所領であったが、そこに加茂庄をはじめとする庄園が成立し、大西は縮小したのだろう。
 その大東庄に対して「八条女院領大原庄」の存在が確認できる。おそらく両者は同一の所領に対する別称と考えられる。その大東庄は建長元年(1249)の出雲大社遷宮では流鏑馬15番の3番として「大東北南、同飯田・縁所、此等の地頭勤仕」とある。庄園としての枠組みはあるが、実際には北・南・飯田・縁所という所領単位が実質的意味を持ち、公領として扱われ、それぞれに地頭が存在した。文永8年には、「大東庄南北内」として、「土屋弥次郎」「飯沼四郎(左衛門)」「土屋六郎左衛門入道」「縁所五郎」「神保太郎跡」という5人の地頭がみえる。
 5人の内「縁所五郎」のみが国御家人で、他の4人は東国御家人である。これに周辺所領の地頭名を案すると、大東北庄(赤川の北側)の西側と飯田(川の南側)の地頭が飯沼氏と神保氏、大東北庄の東側と大東南庄が土屋氏ということになろう。縁所は赤川の支流幡屋川(その流域が仁和寺庄で地頭は神保氏)から分岐した縁所川沿いで、大東南北庄とは独立した所領である。飯田は赤川の支流阿用川流域である。大東庄の本来の中心部分は北庄西側の部分であるが、後には南庄の部分に近世の大東町が成立する。大東町東側の新庄は大東庄ではなく、牛尾(淀)新庄にちなむものである。
 土屋氏は相模国出身で、鎌倉初期から出雲国内の地頭として入部し、一族で守護佐々木氏につぐ面積の所領を支配した。神保氏は、上野国御家人もいるが、大東庄の南側に存在した久野郷地頭大中臣氏の系図では「千庭神保氏」と婚姻関係を持っているので、下総国千葉氏の一族であろう。神保氏一族は大原郡と仁多郡内の地頭となっている。

水系と所領-大家本郷東と西郷

 石見国を概観する中で、水系と所領の関係を確認することの必要性を感じた。具体的には、大家本郷東と大家西郷の関係で、名前をみると、本来の大家郷が東西に分かれたかのようにみえるが、実際は水系が全く違う。そのあたりが、大家東郷と西郷ではなく、大田文で微妙に表記が違う理由であろう。
 建治3年には、西郷と東郷の狩集(倉ヵ)を巡る対立について、領家が東郷の主張を認めている。西郷側が領家に訴えたが、両者から提出された文書を確認したところ、東郷側は狩倉が確認できるが、西郷側の文書は証拠がないとし、東郷右衛門太郎に勝訴を伝えている。
 この文書が益田家文書として残っているところから、井上氏はこの文書は西郷惣地頭であった益田氏のもとに伝えられたものとされた(温泉津誌)。これは東郷右衛門太郎を益田氏とする山根氏の考え(江津市史)を修正したものであった。
 ところが井上説にも課題がある。文書はそれにより利益を受ける側に残るという原則に反するのである。この原則によると、この文書は勝訴した東郷右衛門太郎=大家氏側に残るのである。その観点で益田家文書をみると、これ以外にも大家氏関係文書が含まれていることに気づく。そうすると、大家氏が保持していた文書が、その没落の中、益田家文書として残ったとの解釈が可能となる。
 邇摩郡の項で述べたように、大家西郷地頭は、鎌倉初期には福光郷とともに、非益田氏系御神本氏一族が保持していたと考えられるのである。

アクセスが4000を突破した。3000から2ヶ月と、それまでが1000に3ヶ月かかったのに対して、ブログの数が増加したためか、少し早くなった。

2009年8月 4日 (火)

出雲市多聞院蔵の棋譜

 HPに表題の棋譜のリストと、その性格を分析したものをアップした。
 岸本左一郎の棋譜をはじめ、一般的な棋譜のデータベースには掲載されていないものを含んでいる。また、岸本左一郎の足跡をたどることもできる。
 この中に秀策の新棋譜が含まれていたため、雑誌『囲碁クラブ』(日本棋院)でも紹介されたが、秀策の棋譜については一部が紛失していた。この棋譜集とと密接な関係を有した『囲碁手談』の全貌が分かれば解明はさらに進むが、すでに述べたように、秀策、秀甫の全集に掲載されたもの以外は消息不明(記録がない)。

 HPとブログの棲み分けをすこしずつはかっていきたい。

2009年8月 2日 (日)

PC使用の履歴-デスクトップ1

デスクトップの巻(これこそ部品を交換しているのでよくわからない点あり)
1、サスティーン製デスクトップ機
  タワーではなく名実ともにDOS/Vのデスクトップ型を使ったことがあったが、CPUは486の50mzで、HDDはウエスタンデジタルの512Mあたりを搭載していたか。ビデオカードはダイヤモンドのViperなどを使った記憶がある。サスティーン製はソフマップが扱っていた。上級機は66mzにVLバスを搭載したタワー型だったが、購入したものは一般的なISAバスのタイプだった。
   
2、Epson586RA
  98互換機で、ペンティウム90mz搭載のデスクトップ型。後にオーバードライブプロセッサ(120mz)に交換。独自にジャストウインドウに対応し、高解像度画面(XGA)が利用できた。Windows3.1では当初、ノートPCにハイレゾステ-ションをつないで利用していたが、パワー不足で、デスクトップになってようやく実用に耐えるものとなった。とはいえ、NECが9801から9821へ進化すると、性能上の優位性はなくなり、OSの対応もWin95の初期バージョンまで。ハイレゾステーションとともに、飯山のモニターを購入したが、まもなく画面がぶれて安定しないようになった。そういえば、NANA0の15インチモニターを購入したこともあった。15インチでありながらSXGA常用可能との事だったが、やはり十分とはいいがたかった。

3、NEC9821v200
  ペンティウムの200mzでマルチメディア機能を追加したタイプだった。OSはWin95のSR2でUSBを使うことができた。1年経つまでにHDDが故障したため、無償で交換してもらった。このころ、コンパックの一体型(こちらはマルチメディア機能未搭載の166mzであった)も購入。
  IOデータ製のオーバードライブプロセッサ(AMD KⅢ 400mz)に交換して使っていたら故障し、サポート外のメルコ製333mzのものに交換したら動いた。とりあえず、現在も起動は可能。
  後に手持ちの外付けHDDとの交換でPC98の一体型(VGAでTV機能あり)を入手した(現在も使用可能)。ペンティウムの133mzの古いタイプを搭載(2以降は削除し、HPへ)。
http://homepage3.nifty.com/koewokiku

PC使用の履歴-ノート1

コンピュータの履歴(ノート編)
(すべてを記憶しているのか、また順番が正しいかあやしい)
 デスクトップはほとんど自作機であるので、わかりやすいノートから。
1、Epson PC386NAR(初のパソコン)
   25万円程度だったと記憶する。AMD製のIntel互換CPUを搭載。
   MSDOSとワープロソフト松を購入。当時は、ほとんどの人がコピーを利用していたが、雑誌で情報を収集し自分で判断。通販の今は亡きステップで購入。DOSは1万円+α、松は3万円+αだったと記憶する。ハードディスクは購入予算がなく、メモリー上に設定したラムディスクにインストールして利用。いろいろな意味でパソコンについて学ばせてもらう。
   アップグレードコンセプトで、今は亡きサイリックスのCPUに交換(i486互換)した。
   
2、アップルMacintosh Centris 650(ノートではないが)
 モトローラ製CPUとCDを搭載。マルチメディア関係のCDも付属してた。
  日本語変換とWindowsとのデータ互換に課題があった。使用中にATOKも登場し、改善があった。スカジーのHDDを搭載し、途中でHDDを大容量のものに交換。今も保有し、スイッチを入れれば起動する可能性大か。
  後にそのROMを利用し、Windowsでマックのエミュレータを動かした。そのPCもまだ利用可能(だと思う)。この少し前までのマックはキーボードが最高に良かったそうだが、このマシンあたりからフニャフニャで最悪のキーボードとなる。そのため、大型の互換キーボードを使用するが、純正より2倍でかいのが欠点(2以降は削除しHPへ移動。http://homepage3.nifty.com/koewokiku

益田氏と長野庄

 益田氏の所領を考える上で、紛失状案文をどう評価するのかということがポイントなる。以前検討した際には、事実と矛盾する点がいくつかみられると考えていた。しかし、この史料の性格をみれば、当然であり、矛盾するからこの史料(①源範頼下文、②源義経下文、③益田兼季解状)を否定するのは問題であると評価を改めた。
 ①②は、西国の御家人はみな平家に心をよせている中で、兼高のみが源氏方となった(大江広元奉書)との理由で、兼高とその父兼榮に所領の支配を認められたものである。戦乱の途中で出されたもので、且つ「石見国の子細を知らないので義経に任せる」(広元奉書)とある。恐らく益田氏側からの申請を受けて①②に相当する文書が出されたのであろう。
 その後、戦乱が集結した段階で、平家方の精査がなされ、安富と飯多が益田氏領となった。高津と得屋については、本主の権利が認められたのである。益田氏にとっては、鎌倉期に本拠とした益田本郷土井に隣接する得屋郷に対しては、より強い想いを持っていた。飯多については権利を有するものが複数あり、後には地頭職が停止され、領家のもとで源氏の支配するところとなった。一方、吉田と角井、白上と市原については、それぞれ国御家人が生き残り、南部の豊田郷と美濃地・黒谷については、早くから東国御家人領となった。
 ③については将軍が頼朝から頼家に替わったことを受けて出された申請であり、①②とは性格が異なるが、一方では①②と大きく矛盾しないような配慮も必要であり、結果として事実と異なる点を含んだのであろう。「外題安堵」という鎌倉初期の幕府にはみられない記載を含むのもそのため(事実と思われたい)であろう。

長野庄について

 長野庄については、石見国最大の庄園でありながら、史料の残存状況によりその実態が不透明である。その成立については前に述べたが、現在知られている史料でどこまで明らかになるか以下に述べてみたい。
 水系と大田文記載順を考慮して以下の3グループに分けて考える。
 A:豊田郷、飯多郷、安富名、得屋郷
 B:角井郷、吉田郷、高津郷
 C:美濃地・黒谷、白上郷、市原郷
 Aは高津川中流域、Bは高津川河口域、Cは支流の白上川流域となる。益田氏が権利を主張するのは、Aの豊田郷を除く3カ所とBの高津郷である。そして鎌倉期において安定的に確保できたのは、Aの安富名のみであったが、惣領家ではなく庶子周布氏に譲られている。飯多郷は一時的に確保したが、後には地頭職そのものが停止され、領家のもとで長野庄惣政所をつとめた源氏(その名に「国」を付ける)が、Cグループの白上郷、市原郷とともに支配した。便宜的に設定したAとBに分かれているが、3つの所領そのものは隣接して所在する。
 Bの吉田郷は平野部にあることもあり、長野庄内最大の田数(50町)である。南北朝期にみえる「吉田駿河太郎」と「角井(須子)駿河二郎」の名称などを勘案すると、南北朝期に至るまで国御家人吉田氏が吉田郷と角井郷を支配した可能性が高い。高津郷を支配した高津氏については、東国御家人吉見氏の一族との説があるが、これも吉田氏と同様国御家人である。高津長幸が建武政権の石見国守護となったこともあって、幕府はこれを源氏一族惣領の虫追氏に与えたが、その後虫追氏の没落により益田氏領となった。
 Cの3郷はいずれも益田氏が権利を主張していない。南部の美濃地・黒谷郷は、同じく高津川域南部の豊田郷とともに、承久の乱以前から東国御家人領となり、承久の乱の結果、相模国波多野氏と駿河国内田氏に替わったものであろう。

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