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2009年7月

2009年7月28日 (火)

中世前期の石見国(6)吉賀郡

 吉賀郡に関する史料はほとんどない。貞応2年の大田文には吉賀郷と木部に分かれている。木部は高津川から分岐した津和野川からさらに分かれ北側へ向かう支流沿いの地であろう。吉賀郷からは13世紀中頃には、野郷が独立している。高津川沿いの上流部が吉賀郡で、下流部と分岐した津和野川沿いが野郷と呼ばれたのだろう。
 13世紀中頃に豊田郷地頭内田氏が野郷を押領したとして訴えられているが、野郷には地頭代が確認できることからすると、野郷も東国御家人領となっていたと考えられる。また、木部は吉見氏が地頭となり、その派遣されていた一族から石見吉見氏が誕生した。
  吉賀郷は中世後期には将軍家御台所の料所となったり、守護大内氏の所領となっている。それは鎌倉期においても、幕府領ないしは北条氏領であったことを受けてのものであろう。そしてそれは野郷を含む郡全体についてもあてはまろう。建武2年に石見国司と推定できる吉見頼隆が吉賀郷内の志目河村を兄弟で能登国守護であった宗寂に与えているが、吉賀郷が建武政権により没収されたことに伴うものであろう。
 以上、石見国についてまとめると、6郡の内、①ほとんどが国御家人が地頭であった郡と逆に②ほとんどが東国御家人領であった郡、そして③両者が混在した郡に分ける事ができる。①は那賀郡と邇摩郡で、②は吉賀郡、そして残る安濃郡、邑智郡、美濃郡は③ということになる。この状態は、鎌倉初期にさかのぼるものであろう。

中世前期の石見国(5)美濃郡

 美濃郡は、東部の益田庄と西部の長野庄とに分かれている。
 益田庄は益田本郷、乙吉、弥富、納田、井野に分かれる。この内、弥富は弥富名と呼ばれ、その領域は東部岡見川流域の小弥富と西部遠田川沿いの地域=弥富に分かれた。その間にある川の流域は益田本郷に属した。
 益田川流域の益田本郷に対し、乙吉は益田川支流の今市川流域で、益田本郷と密接な関係を有した。一方、三隅川流域の納田郷=三隅郷に対し、その支流域に井野があった。また、那賀郡内であったが、三隅川上流の地に木束郷と永安別符があり、これも三隅氏領であった。
 益田庄を支配したのはすべて御神本氏一族であったが、乙吉氏のみは益田氏系図に登場せず、源平合戦で幕府方となった益田兼榮・兼高父子以前に分かれた御神本氏一族=非益田氏系御神本氏であろう。益田川上流の津毛別符は鎌倉末期には東国御家人小笠原氏一族の津毛経氏が地頭であった。津毛郷東側には丸毛別符があり、益田氏一族の丸毛氏がこれを支配していたが、鎌倉末期には小笠原氏一族を養子に迎え、これを惣領としていた。丸毛別符は川でいうと三隅川の上流域にあり、後に三隅氏と益田氏でこの地の領有を巡り対立が生じた。
  長野庄の内最大面積の吉田郷とその南側の角井郷、得屋郷は益田本郷に隣接する地にあり、得屋郷は益田氏の紛失状では益田氏領となっている。高津川河口の高津郷とその上流の飯多郷、安富名も紛失状では益田氏領とされる。それに対して最上流の豊田郷は長野庄内ではあったが、郡としては吉賀郡に属した。一方、高津川の支流白上川沿いには下流部から市原、白上、美濃地・黒谷と続いている。長野庄南部の豊田郷と美濃地・黒谷郷は、承久の乱後、それぞれ駿河国御家人内田氏と相模国御家人波多野氏に与えられた。

2009年7月27日 (月)

中世前期の石見国(4)那賀郡

 中世の石見国衙は那賀郡伊甘郷内にあった。そのため、郷内には在庁別名が約15町あり、その内のひさなの(か)は邑智郡の久永庄と、ちよまつは邑智郡のかはへのちよまつと関係があろう。邑智郡内の2つの所領は、鎌倉初期には東国御家人領となった可能性が高い。
 那賀郡内には東国御家人領が少なく、益田氏一族の所領が多い。益田兼季の弟兼信は益田庄内納田郷=三隅郷と同庄内小弥富・井村とともに、永安別符、木束郷、「よしみつ」=小石見郷を譲られた。兼季の子兼定は「よしたか」=周布郷を、兼直は末元別符を譲られた。三隅氏と福屋氏領が那賀郡に集中しているのに対して、周布氏は安濃分鳥居郷、邇摩郡福光郷、美濃郡長野庄内安富を譲られている。
 益田兼季の弟兼広が苗字の地とした福屋郷は、八戸川の支流域を広範囲に含む地域であった。貞応2年の大田文の稲光本郷10町7反100歩、稲光久富15町(福屋郷の中核)、くらみつ6町2反60歩である。これに隣接する木田13町4反小、しけとみ6町180歩、久佐15町1反、阿刀7町1反半、いちき5町6反が、福屋氏が益田氏から独立する際に得た所領であった。
 阿刀別符は現在の江津市跡市を中心とする地域とされてきたが、天正10年4月の吉川元長・元春連署安堵状(安楽寺文書)に「阿刀郷内皆合村安楽寺」とあり、福屋郷に接する範囲(浜田市今福)にまで阿刀別符が広がっていたことがわかった。すなわち、敬川上流部から北へ向かう支流だけでなく、南へ向かう本明川沿いの地域を含み、さらには江川水系の八戸川の支流家古屋川の流域の一部地域を含んでいた。
  非御神本系の国御家人の所領もみられた。江川河口域は在庁官人伴氏が支配した。都治郷、河上郷、都野郷、加志岐別符である。このうち、加志岐別符(有福)は伴三郎実長から後家妙蓮(5分4)と嫡子三郎実保(5分1)に譲られたが、実保分は何らかの理由で没収され、幕府御家人狩野氏に与えられた。来原別符を支配したのは藤原氏であったが兼を名につけていない。
 これに対して東国御家人領としては、周布郷に隣接する貞松名が確認できるのみである。この地は吉賀郡豊田郷とともに、駿河國御家人内田氏に与えられた。

2009年7月26日 (日)

中世前期の石見国(3)邑智郡下

 邑智郡には上賀茂社領久永庄50町、皇室領桜井庄50町、高見庄(領主不詳)20町があった。久永庄は文治2年(1186)に頼朝により上賀茂社に寄進され成立した。平家没官領・謀反人跡として頼朝が獲得したものを寄進した事になる。当地の武士もまた平家方となっていたのである。地頭(御家人)は置かれ、大番役の勤仕は認められたが、社家進止の地とされ守護の干渉は認められなかった。
 とはいえ問題は生じており、承元2年には、上賀茂社の訴えを受け、守護所の沙汰が停止され、大番役以外の課役は賦課されないことが確認された。さらに承久の乱をへて、再度社家が、守護所使入部と高野山流人雑事役について訴え、寛元2年6月には六波羅探題が石見国守護代へ免除することを命じている。
 これに対して桜井庄は、元応2年(1320)に領家比叡山常寿院と年貢納入を請負う大覚寺の対立があり、常寿院が勝訴したが、実際には現地を支配する大覚寺側が実権を握り、南北朝期以降は大覚寺門跡領となった。地頭については確認できず、建武5年には桜井領家が南朝方の国人とともに安芸国大朝新庄に討ち入っている。そうした中、大田北郷地頭であった土屋氏が幕府から地頭に補任されたと考えられる。
  公領として最大であったのが①「のふよもりちか」36町4反小で、関連する所領として②「同いなよし」11町7反180歩があった。後に①には「出羽」、②には「下出羽」と注記された。建武3年には足利尊氏が上出羽郷と下出羽郷を京都本國寺に寄進しており、それぞれが①と②の後身で、本来は一つの所領であったのが分割されたのであろう。13世紀末には、出羽郷側の善願が久永庄を押領したとしてその行為の停止が院宣により石見国知行国主に命ぜられている。
 文和2年(1353)4月、足利義詮は上下出羽郷地頭職を恩賞として君谷実祐に与えた。君谷氏は石見国衙の有力在庁伴氏の一族で、苗字のように佐木郷内君谷の小谷村を支配する国人であった。伴氏一族は江川流域の所領を支配していたが、江川の支流出羽川流域の上下出羽郷については何らかの理由で失っていたものを、本領として取り戻すことに成功したのであろう。
 前述の川本郷は貞応2年大田文では「かわへのひさとみ」11町2反180歩と記され、那賀郡内には「稲光久富」15町があった。川本郷と益田氏の関係についてはすでに述べたが、稲光久富は益田氏庶子福屋氏の所領となった。邑智郡内には他にも論ずべき所領があるが、源平争乱や承久の乱により東国御家人が獲得した所領がかなりあったことが推定される。

中世前期の石見国(3)邑智郡中

 長田別符・口羽と佐波郷の間には、「かわへのちよまつ」22町8反300歩があった。後には都賀郷とよばれ江川沿いの公領としては最大である。国衙の所在した那賀郡伊甘郷内の在庁別名として「ちよまつ」があることを勘案すれば、平安末期には有力在庁が支配した所領であることは確実である。鎌倉期の状況は不明だが、南北朝期以降は備中国から進出した高橋氏が支配している。高橋氏は幕府方として恩賞として都賀・阿須那を得たという。
 正安3年10月には某氏時景が石見国四箇村内三原村の田5反を荘厳寺に寄進している。時景は同日に武明八幡宮にも所領を安堵している。井上氏はこの地が南北朝期には大家庄に編入されたことから時景を大家氏の一族かと推定されているが、「関東御息災」を祈念していることからすると東国御家人であろう。この地は後には小笠原氏の支配するところとなるが、時景との名前からすると小笠原氏以外であろう。
 この地は江川の支流木谷川沿いにあり、大家氏の本拠大家本郷東も江川の2km上流部から分岐した三谷川の上流部大家川沿いの地であり、深い関わりがあった。大家氏はいち早く後醍醐による倒幕に参加しており、恩賞として東国御家人領を獲得したのではないか。 石見小笠原氏についても、佐波氏、吉見氏と同様、その成立と発展については不明な点が多い。小笠原氏関係系図では、小笠原四郎長親が益田兼時の女子と結婚したところから書き出している。これに呼応するかのように益田氏系図にも兼時女子に「小笠原四郎長親妻」と注記する。益田氏関係系図で最も信頼性の高い竜雲寺蔵三隅氏系図では、兼時の女子2人について、「河本」と「温泉」と注記する。そして孫である次郎法師丸(嫡子兼長子)に「為小笠原養子」と注記する。兼長は三隅兼信女子(阿忍)と結婚したが、後継の男子が誕生する前に死亡したとされており、注記の意味は、小笠原氏の養子となったのではなく、小笠原氏から養子を迎えたとの意であろう。となると、「河本」=小笠原氏で、次郎法師丸は兼時女子の子ということになる。
 南北朝初期の段階で、川本郷は小笠原氏惣領貞宗分と庶子又太郎長氏分に分かれていた。一方、丸毛兼頼の項で述べたように、貞宗の父宗長の兄弟に、丸毛兼頼と津毛経氏がいた。小笠原氏と益田氏との間に婚姻関係が結ばれていたのは確実である。問題は小笠原氏が川本郷を獲得した時期であるが、益田氏の紛失状の中に益田氏領として「川本」がみえることからすると承久の乱後であろうか。長野庄内飯多郷は一旦没収されたものを取り返したが、益田氏領で承久の乱で没収された所領が存在したことは確実である。佐波氏と同様、信濃国から派遣された一族から石見小笠原氏が誕生したのであろう。石見小笠原氏系図の説くように益田氏領であったものを婚姻により小笠原氏が獲得したものとは考えられない。

2009年7月25日 (土)

中世前期の石見国(3)邑智郡上

 この郡も出雲国と境を接しており、源平争乱で平家方となった武士があったのであろう。貞応2年の「かわへのよしなか」11町7反120歩には「佐波」と注記が加えられており、これが後の佐波郷の中核部分となったのであろう。文永3年(1266)の邑智郡吾郷村天津神社棟札には大旦那として「三善清連・□連」と記されている。系図では、清連の父義連が正治元年(1199)に常陸国矢谷から石見国へ下向し、江川の支流沢谷川の北岸にある九日市を拠点とし、以後、川沿いの地域の開発を進めたとする。清連と顕連の代には江川北岸の吾郷とその対岸の簗瀬を拠点としたとするとの系図の記述と符合している。
 三善氏は鎌倉幕府問注所執事となった三善康信が出て有力御家人となった。康信の弟隼人正康清は、文治2年に矢谷を含む真壁庄の預所であり、南北朝期の佐波氏惣領が「隼人正」を名乗る点を勘案すると、康清が佐波郷(よしなか)を獲得し、その関係者が入部し、佐波氏に発展したのではないか。兄康信が備後国大田庄を得ていたことは有名であるが、康清も文治6年には美作国の地頭となっていた(吾妻鏡)。
 備後国と境を接する長田別符4町2反240歩は、嘉禎4年(1238)以前に坂上明定が地頭となっている。坂上氏は明法家として知られた家であり、兄明基がその家を継承したのに対し、弟明定は鎌倉幕府に仕え、鎌倉に屋敷地を得ている。その意味で、三善氏と共通の立場にあった。江川から支流出羽川が分岐した地点には「くちは」(口羽)4町9反300歩があり、出羽川から南に分岐した長田川沿いが長田別符であった。また、口羽の西側には阿須那3町1反があった(続)。

2009年7月23日 (木)

中世前期の石見国(2)邇摩郡下

 ①を支配した人々については、大家西郷の御神本氏が確認できる。益田氏と本来同族であるが、益田氏系図には一切登場しないことを踏まえると、非益田氏系御神本氏ではないか。福光については、周布兼定が父益田兼季ではなく、母から譲られた所領であると思われる。そして温泉郷については、戦国期の温泉氏はその名からして非御神本氏であるが、益田氏系図によれば、13世紀中頃、益田兼時の女子は温泉氏との間に婚姻関係を結んでいる。那賀郡に属したと思われる稲富については、都治郷、川上、都野郷を支配した伴氏一族が支配した可能性が高い。
 ③については、佐摩は久利郷、仁万郷、天河内を支配した清原氏の所領であったことが分かるが、他の2所領は不明である。以上により、①③についても国御家人が支配していた可能性が高いが、①の温泉氏は益田氏と婚姻関係を結んでいることからして、大家西郷と同様に非益田氏系御神本氏の可能性がある。これに対して②③は御神本氏以外の一族が支配していた。
  中世後期には大内氏が邇摩郡の分郡支配権を有したとされるが、邇摩郡自体も以上のように複雑な複合的所領からなり、大内氏の郡支配は排他的なものではなかった。具体的所領としては仁万郷と大家西郷が大内氏直轄領となった可能性が高い。仁万郷は邇摩郡内最大の所領であり、大家西郷は大家本郷東に対する大家庄のもう一つの核であった。そして大家西郷内井尻の高野寺は大内氏の氏寺氷上山興隆寺の末寺に位置づけられ、大内氏による邇摩郡支配のイデオロギー的拠点であった(『温泉津町誌』)。
 すでに述べたように、仁万郷は久利氏の同族清原氏=非御神本氏の所領であり、大家西郷は非益田氏系御神本氏の所領であった。

中世前期の石見国(2)邇摩郡上

 邇摩郡は古くは古代石見国府の所在地であった(仁万郷)との説があり、中世後期には石見国守護になったこともある大内氏が邇摩郡を相伝支配したとされる。
 海岸部に東から静間御領(荘園)、五十猛、宅野、仁万郷、天河内、宇福(現在の馬路)温泉郷、福光が並び、五十猛から仁万郷の上流部には石清水八幡宮領大国庄(保)が成立していた。静間川の上流部(銀山川)に久利郷と佐摩があり、清原氏の一族が仁万郷、天河内とともに支配した。一方、宅野は益田氏の本領された。
 江川の支流の地域を中心に大家本郷東が成立し、それを核とする地域は摂関家領大家庄となっていた。大家庄は①海岸部の宇福、温泉郷、福光、稲富(現在の波積)とその上流部の大家西郷のグループ、②江川支流沿いに成立した大家東と白坏・祖式のグループ、③静間川上流の支流に成立した佐摩、福原、三久須のグループからなる広大な複合荘園である。①には那賀郡の所領を、②には邑智郡内の所領を含み、その領域も時代により変化した。 
 田の面積では①のグループが48町強、②のグループが36町弱、③が9町弱と①が最大であったが、個々の所領では大家本郷東が最大であった。大家本郷東に対して大家西郷と呼ばれたが、本来一つの所領であったものが二つに分かれたものではなく、大家庄の2つの中心所領であったがためにこう呼ばれたものであろう。
 大家庄惣公文職の地位を占めた大家氏は②の所領を支配したが、①と③については他氏が支配していた。『温泉津町誌』では井上氏が大家氏とその一族が庄内の大半の所領を支配していたが、承久の乱を契機に大きく変動したとの説を示されているが、ここではその説は採らない(続)。

中世前期の石見国(1)安濃郡

 中世前期の石見国については、守護が誰であり、守護領がどこであったかについてほとんど明らかでなかったが、近年、西田友広氏による作業がなされ、解明が進みつつある。ここでは、各郡の中世前期の状況についてその概要を覚書としてまとめてみたい。
 石見国東部で出雲国に隣接する安濃郡には河合郷内に石見国一宮が所在し、「大田郷」も存在するなど、この郡内の領主が石見国衙の有力在庁官人であった可能性は大きい。そうした中、国御家人の支配が確認できるのは、波祢庄と鳥居郷である。鳥居郷が益田氏から周布氏に継承されたのに対して、波祢庄を支配した波祢氏は非御神本系であろう。河合郷については、平安末期には河合氏の存在が確認できたが、東国御家人金子氏(武蔵七党)に代わっている。鎌倉後期に伊甘郷を支配した益田兼長後家阿忍は一旦、伊甘郷を孫の一人で益田氏惣領であった孫太郎兼弘に譲ったが、その後悔返して別の孫つるやさに譲った。つるやさは後に鳥居女房と呼ばれており、同族の鳥居氏と婚姻関係を結んだのであろう。
 名の流れを引く所領が多いのも特徴である。延里(庄領)、吉永(あののよしなか)、永久郷、稲用、行恒で、平安末期には石見国衙の在庁官人が支配したものであろう。一方、貞応2年の石見国惣田数注文の段階で「郷」と表記されているのは、河合郷、永久郷、大田郷(南北)、用田郷である。
  大田郷は本来51町6反60歩と安濃郡内最大の領域的所領であったのが、惣領分である大田郷(34町2反300歩)と同南郷に分かれたのであろう。大変重要な公領であったはずであるが、鎌倉期には大田郷は東国御家人土屋氏が獲得し、南郷には鶴岡八幡宮が勧請されており、これまた東国御家人領となった可能性が高い。
 永久郷、用田郷、大田南郷は、地頭職が建武3年に足利尊氏により京都本國寺に寄進されている。隣接する邇摩郡久利郷も同様であるが、国御家人久利氏の惣領は反幕府方であった可能性が高い。永久郷と用田郷も同様であろうか。
 大田南郷は東国御家人領となった可能性を指摘したが、稲用については、鎌倉中期の石見国守護伊藤氏の所領であり、その一族が稲用氏を名乗っている。そうしてみると、次の守護相馬氏には継承されなかった可能性が高く、守護領は稲用以外にもあったことになる。最も可能性の高いのは大田南郷であろう。
 安濃郡についてまとめると、平安末期には石見国衙の有力在庁官人が所領の多くを支配していたが、鎌倉幕府が成立すると、一部を除き、石見国守護を含む東国御家人領となった可能性が高い。益田氏を除く当郡内の在庁官人の多くが平家方となったのであろう。平家方の多かった出雲国に隣接することも影響したのかもしれない。

2009年7月21日 (火)

益田氏と飯多郷(2)

 貞応2年(1223)の関東下知状は、益田家文書中の原本として最も早い時期のものである。ところが、益田氏と飯多郷との関係を示す文書は永徳3年(1383)までみられない。これに対して南北朝期には飯多郷内の地名を苗字とする長野庄惣政所虫追政国が活動が確認できる。
 政国は①康永3年(1344)には長野庄内飯多(田)・市原・高津郷と給分を安堵されている。そして②応安3年(1370)の長野庄領家奉書は、政国の子と思われる人物に対し(実際は宛所が切断されている)、亡父の時に補任した長野庄惣政所職と一族で所持する所領の惣管領を安堵している。
 一方、③延応元年(1239)に、長野庄領家は惣政所の沙汰として美濃地・黒谷郷の税の催促を行うことを命じている。次いで、④嘉元2年(1304)には庄内飯多・市原政所に対し、左兵衛尉源茂国を御代官職に補任したことを伝えている。さらに⑤元応2年(1320)には、領家が四郎左衛門入道に対し、飯多・市原両郷を奉行するよう命じている。
 長野庄には全体を統括する惣政所と各所領を管轄する政所があり、それぞれに惣政所職と政所職が存在した。そして源姓で「国」を共通とする一族が飯多郷を含む長野庄内の大部分の所領を支配するとともに、長野庄惣政所職にも補任されていた。
 貞応2年の関東下知状で安堵されたにもかかわらず、益田氏が以後も地頭として飯多郷の支配にあたったとは考えにくい。結果として飯多郷は益田氏ではなく、源氏一族が支配したのであろう。そして南北朝末期に源氏(虫追氏)が没落した跡を益田氏が獲得し安定した支配を実現したことになる。
 となると、貞応2年の関東下知状は、一旦、益田氏から源氏の手に渡り、永徳3年までに再び益田氏の手に戻ったのではないか。

2009年7月18日 (土)

HP作成中(3)

 HP作成中であるが、不十分な形でも公開(後悔)している。
  http://homepage3.nifty.com/koewokiku
といっても、今のところ、ブログの内容を再掲載したものが中心で、ブログの目録を掲載したり、関連する文にリンクを張っているところ(アップを含めまだ途中)。ブログでも設定が可能かもしれないが、なかなか関係する文をみるのは大変そうである。また根拠となる史料についても順次掲載していく予定。すべてが「すっぴん」状態で、以後順次表紙を含め、すべてのページに化粧をほどこしていく。
 途中まで、GOLiveCS2で作業していたが、結果としてはDreamweaver CS4に乗り換えた。CSSなどを多用し、複雑なことをすると大変そうだ。なにより良い解説書がないというのが現時点での欠点か。前バージョンのCS3を体験版で知ろうと、解説本も購入していたが、なかなか知りたい事が書いてない。アクセスカウンターをニフティの設定により設置したが、更新している際に、元のファイルをダウンロードせずに、パソコンのファイルを更新し、それをそのままアップロードしたら、おかしくなってしまった。一応、設定し直したが、うまく動くかは神のみぞしるところ。
 また、ブログではアクセスの記録を確認できたが、HPについてはまったくの初任者であるため、その設定方法も今後の課題である。いずれにせよ、まもなくブログも200本となるので、その更新はほどほどにして、HPの充実に重点を移していきたい。

益田氏と飯多郷

 貞応2年5月25日、益田兼季は長野庄内飯多郷地頭職を元の如く認められた。そこでは対立者として掃部助仲廣が登場している。この人物はどのような立場にあったであろうか。前に述べたように、「元の如く」とは一旦、兼季が地頭職を失ったことを意味する。時期的に考えて承久の乱が影響したのはまちがいなかろう。
 問題となるのは、仲廣が①東国御家人で新恩地頭としての権利を主張したのか、②益田氏と同様、国御家人であったのかということである。①の場合は、益田氏と承久の乱との関わりが問題となる。すなわち、兼季が京方という事態は考えにくいので、兼季から飯多郷を譲られた人物が京方となり、その跡が一旦は仲廣に与えられ、それに対して兼季が本主としての権利を主張したというもの。ただ、下知状には兼季の三代知行という点が確認されているのみで、京方の問題は出ていないので、①の可能性は低い。
 ②のケースは、仲廣が益田氏以前に飯多郷を支配していた一族で、兼季から飯多郷を譲られた人物が京方となり本主としての権利(本領安堵)を主張したというもの。承久の乱で石見国守護と推定される佐々木廣綱は京方となっており、益田氏など石見国内の武士で京方となったものがいた可能性は高いのではないか。京方となった人物の跡をめぐって、仲廣と兼季がともに本主としての権利を競い、幕府は兼榮・兼高・兼季三代が安堵を受けていた点を重視し、兼季に軍配を上げたのであろう。
 

2009年7月16日 (木)

大野庄と大野氏(3)

 暦応2年(1339)12月、大野次郎左衛門尉光成が、幕府方になったことにより、当知行地半分地頭職を安堵されている。その但し書きには「後醍醐天皇朝恩」と「得宗領元弘収公地」を除くとある。いわゆる降参半分の法の例であろう。当知行地(大野庄西方であろう)の半分の支配を認めるが、その中には、後醍醐天皇から与えられた部分と得宗領元弘没収地は含まれまいことを明記している。それを明記せざるを得ないほど、大野庄内の支配関係は複雑化していた。
 ここからわかることは、①大野光成がそれまでは南朝方であったこと。②大野庄内に後醍醐天皇により大野氏(ないしは他氏)に与えられた部分があったこと、さらには③得宗領であるとして建武政権に没収された部分が含まれていたことである。
 ②③については留保すべき部分があるが、大野庄内に大野氏が没収され、北条氏得宗家ないしはその家臣が獲得した所領があったことと、大野氏が所領回復のため後醍醐(建武政権)に従い、その一部を回復していたことは確かであろう。ただ、旧得宗領で大野氏以外に与えられたものもあった。
 安国寺文書によると、大野庄半分内三分一薩摩八郎跡と同庄内祢宇村の祢宇又次郎跡は幕府により安国寺に寄進されていたことがわかる。ただ、前者については大野頼成(光成の嫡子)が、後者については祢宇三郎次郎による押領事件が、貞治から応安年間(1360年代)に発生している。大野氏としては、本領のすべての回復を意図したのであろう。その後、安国寺文書に大野庄関係のものはみられない。幕府-守護体制のもとで利害の調整が図られたのであろう。
 大野庄東方はどうかというと、元徳2年(1330)には、豊島(源姓)氏に売却されていた縁木村の一部(田と屋敷)を縁木氏が押領する事態が発生している。ついで、永和3年(1377)には、大野四郎信実が大野庄東之郷箕内・石塚両村の当知行安堵を守護に求め、それを京極氏の守護代自勝が、事実を確認して起請文を提出している。大野氏庶子が東方を支配していたことと、それまでの所領の移動により、競合者の存在が予想されていたことがわかる。

2009年7月12日 (日)

大野庄と大野氏(2)

 それでは、大野庄は誰に与えられたのだろうか。大野季成とその後継者が支配したのは、大野・大野浦・高山・細原であり、大野庄全体ではなく、大野庄西方である。これに対して、元応2年6月25日の関東下知状(小野家文書)によると、持田庄地頭土屋三郎左衛門尉忠時が和田垣・助守・守延名を支配していたことがわかる。名であるがため、個々の比定は難しいが、関連史料をみると、大野庄東方にあった名であろう。
 土屋氏一族は出雲国内に多数の所領を支配しており、一旦は大野庄全体が忠時に与えられ、後に西方のみがが紀季成に返されたのではないか。忠時は持田庄地頭職はその子に譲ったが、大野庄東方は、娘(平氏)に譲り、文永7年に忠時が没したことにより、幕府から安堵された。平氏は「前林木女」とあり、林木庄地頭深栖氏と結婚したが、何らかの理由で離縁となったのであろう。そして実子がなかったこともあり建治元年(1275)には所領を祢宇村地頭明知の娘宮石女に譲った。建長5年の関東下知状(青方文書)にみえる大野氏惣領は紀明長であり、その兄弟か甥であろう。『島根県の地名』では祢宇村を大野庄東方内に比定しているが、関連史料ならびに惣領明長との関係をみれば、西方内(現在の上根尾か)に比定できる。
 大野氏(紀氏)は、本来畿内の領主であり、承久の乱後、大量に入部してきた東国御家人との間に婚姻関係を結んだのだろう。宮石女の母が土屋氏出身であったのであろうが、この点を明確にするため、元応2年の下知状をみていく。
 宮石女は西方の祢宇村とともに、東方の3名を譲られたが、これを「伯父」日野善光が押領したのである。善光は宮石女の母の兄で、3名を自らが忠時から直接譲られたとして押領した。善光は平氏からではなく、忠時から譲られたとしており、平氏の子が善光と宮石女母である可能性は低くく、平氏の姉妹が両者の母であったと思われる。伯耆国御家人日野氏も東国御家人と婚姻関係を結んでいたのである。

大野庄と大野氏(1)

  出雲国秋鹿郡大野庄は院政期に成立した皇室領荘園であり、『島根県の地名』の中でも説明がなされているが、古文書に登場する地名の内、惣領が継承した大野・大野浦・高山・細原以外についてはどこに比定するかが不明確であり、そのことが系統的理解を困難としている。これを考える手がかりとして、関係史料から何が明らかになるかをみていきたい。
 大野氏は紀姓で、系図によれば院政期に大野庄の荘官として出雲国に下向し、鎌倉初期には幕府から地頭に補任されたとする。文永8年段階で「大野」を苗字としているので、鎌倉期以前から出雲国内で活動してきたという点は問題がない。ただ、残っている史料では、嘉禄2年(1226)7月23日の将軍頼経下文(三木家文書)が初見となる。紀季成が本の如く大野庄地頭職に補任されているが、「本の如く」とはどのような意味であろうか。
 承久の乱の後ということで、『鎌倉遺文』で同様の例をみると、この前後では貞応2年(1223)5月25日に、益田兼季が、掃部助仲廣との裁判に勝利し、元の如く長野庄内飯多郷地頭職に補任されている。また、貞応3年11月13日には中野能成が信濃国春近領内樒郷地頭職に元の如く補任されている。この場合は同日の北条泰時書状が残されており、一旦、北条重時に与えられた所領が、中野能成に返されたことがわかる。
 とりあえず確認できたのはこの2通であったが、いずれも、益田兼季と中野能成の所領が一旦は他人に与えられた後に返還されているのである。となると、紀季成も承久の乱の京方を疑われ、大野庄地頭職を一旦没収されたことになる。益田氏についても、益田庄に比べ長野庄の支配が強固ではなかったことを示す史料と理解し、没収までは想定していなかったが、別の機会に述べたい。

2009年7月 6日 (月)

HP作成中(2)

 肝心なソフトのことを忘れていた。Indesignである。DTPソフトが使いこなせれば、最高である。ワープロはエプソンワードバンクXLを使っていた。初の32ビットCpu(モトローラ製)に白液晶で大容量の文書を作成できた。それと枠を利用した文書作成が可能で、普通のワープロではできないこった文書を作成できた。次の機種も大容量の文書を作成できたが、それ以外はいたって普通のワープロとなり、これがエプソン最後のワープロとなった。
 そこで、エプソンの98互換機の導入となった。CpuもAMD製であり、アップグレードコンセプトで、Cpuの換装が可能であった(実際行った)。ほとんどの人はintel製から入るのだろうが、モトローラ、AMD製を使った。一度だけマックを購入したことがあるが、それもモトローラ製であった。現在は、ノート製Cpuの使用がメイン(うち2台はデスクトップに利用。一台のみがデスクトップ製Cpu=AMDの4850e)なので、Intel製が中心であるが、やはりAMDにがんばってもらわないと、市場が独占化してしまう。
 indesign CS2を導入したので、『塩冶誌』の原稿を作成してみた。当初は一太郎で作成するが、枠や表を組み込んでいると、勝手に改ページされ、細かな調整は無理なようだった。ついで、Word用ファイルに変換して作成をしてみるが、系図などの処理が難しい。縦書き文書を作成する本を参考にするが、簡単なもの以外は難しい。それで、ワープロで作成した文をIndesignの枠に流し込み、地図、表などを作成した。系図はイラストレータで作成した。表はエクセルのものを利用しようとしたが、skill不足のためか、うまくいかず、Indesignで作成し直した。締め切りまでに第一校が完成したので、印刷業者に渡すが、バージョンの違いから読めないと言われた。業者はマック版の2つ前のバージョンだった。マック版というのは苦にならないが、バージョンが2つ違うことがネックであった。1つ前の形式なら保存できるのだか。 結局はPDFに変換したファイルを業者に渡した。とはいえ、家庭用プリンターで印刷し、原稿をPDF化できるという点は便利であると感じた。HP作成にも大きな力となると思われる。

2009年7月 1日 (水)

HP作成中(1)

 CS4とはアドビのCreative Suiteのことだが、とりあえず、地図と系図作成でイラストレータを使い、資料の整理にアクロバットを重宝している。現在はCS2を使っており、CS4にアップできればと思うが、先立つものが必要。
 4年ほど前に、島根県の江戸時代の地図を作成する必要があり、わらをもすがる感じでイラストレータを含むセットを購入した(教育機関勤務なのでアカデミック版)。とてもベジェ曲線を使いこなしはしないが、CS2からはライブトレースとライブペイントの機能が加わった。トレースしたものをスキャナーで読み込み、それをベジェ曲線に変換して加工するという形である。
 それまでイラストレータなど触ったこともなかったが、ワード・エクセルにエクスプローラーのみではあまりにもむなしいパソコンライフとの思いから、購入した。イラストレータとならぶフォトショップについては、ほとんど使っていない。せいぜい、撮影した写真が水平でなかった際に角度を指定して回転する作業を行う程度。
 そしてもうひとつのHP作成ソフトGoliveについては、アドビがマクロメディアを買収した結果、CS3からはDreamweaverにその座を奪われてしまった。そこで、HP作成をGoliveでいくか、はたまた、Dreamweaverですべきかを迷っている。ネットで検索すると、Goliveはよく止まるが、一方で、使いやすいとのこと。一方、Dreamweaverはとにかく機能が充実しているが、とっつきにくい面があるらしい。勤務機関のHP更新はDreamweaverでその機能の氷山の一角を利用して行っている。Goliveを使ってみると、その通りだが、なぜか写真を入れたりして、ファイルを閉じると「強制的に終了」となる。保存されているのでよいが、HPが大きくなった際に不安があるので、CS4に移行せざるをえないか。

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