koewokiku(HPへ)

« 薗村について | トップページ | 出雲今市について(2) »

2009年6月 7日 (日)

出雲今市について(1)

 中世の市から近世の町へと発展した今市(出雲市)について、簡単に整理してみたい。今市については、近世をつうじて、西側の中村と東側の本町との間で市日をめぐる裁判が行われており(松江藩郡奉行所文書)、それにより中世から近世への変化をみることができる。
 今市に関する最初の史料は、後世の写しであるが、宝徳3年(1454)の朝山郷東分今市掟書である。それによると、今市は道路を挟んだ南北の町からなる両側町で、7日と10日を市日とする六斎市であった。市を支配する目代の屋敷は北側に、市の守り神である夷(えびす)神は南側にあった。ただ、この時点で六斎市であったかは要検討で、7日を市日とする市と10日を市日とする市が結合することにより六斎市が成立することが一般的である。
 これが、慶長14年(1609)の検地帳をみると、中村と本町に分かれていることが確認できる。それぞれ北側と南側に分けて検地が行われている。中村の主張では、今市の根本は中村であり、現在の日吉神社(山王社)も中村にあったという。それに基づけば、宝徳3年の史料は中村のもので、本町はその後に成立(あるいは別に成立)したことになる。
 しかし、慶長14年の時点ではすでに本町(88軒)の方が規模は大きくなっている(中村は54軒)。そして戦乱により一時的に荒廃する中、中村での市は中絶し、本町でのみ5日と10日で市が開かれるようになった。慶安元年(1648)の市掟によると、月6日の市は、本町の上市、中市、下市で順番に開かれるようになり、その際は中村での商売はできなくなった。

« 薗村について | トップページ | 出雲今市について(2) »

近世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 出雲今市について(1):

« 薗村について | トップページ | 出雲今市について(2) »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ