koewokiku(HPへ)

« 出雲今市について(3) | トップページ | 岸本左一郎(8) »

2009年6月 7日 (日)

出雲今市について(4)

 ところが、19世紀になると、石見部や杵築といった今市の西方から大量の魚が持ち込まれるようになり、商人は、取り決めを破り、入口に近い中村で商売を行うものが増えてきた。そのため、天保年間には本町側から訴えが出された。
 すなわち、本町側の市日だけは、取り決め通り魚を本町に持ち込んでから、中村で商売をするようにというものであった。近世に入って、今市では松江城下町と斐伊川に近い東部が中心となっていたが、19世紀における日本海水運の発展を背景に、西部からの商品流通が活発化し、西側の中村の地位が上昇したのである。それに対して地位の低下した本町側が訴えたのである。神門郡奉行は、本町側の訴えを認めたが、中村側の優位という事態を変えるものではなかった。
 弘化3年(1846)には神門郡西部の大池村と板津村の間で魚の流通をめぐる争論が起こっている。すなわち、石州からの魚は大池村林蔵方へ持ち込まれ、そこから大池村と板津村の人別によって荷継ぎされ、今市・大津・平田・直江へ運ばれていたが、弘化3年春から大池村が独占をするようになり、これに対して板津側が郡役人へ訴えて、結果としては大池七割、板津三割という形で内済が行われたのである。大池と板津は行商人の地として知られ、19世紀には人口が爆発的に増加していた。それは石見国でも出雲国に近い地域の海岸部でも同様であった(了)。
 とりあえずアクセスが3000を越えたが、3ヶ月で1000というペースか。とはいえ、更新を続けるのは大変である。日々の愚痴を述べるならば容易だが、そんなものは誰も読みたくないだろうし。次は中世の市について述べる予定。

« 出雲今市について(3) | トップページ | 岸本左一郎(8) »

近世史」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 出雲今市について(4):

« 出雲今市について(3) | トップページ | 岸本左一郎(8) »

2021年6月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      
無料ブログはココログ