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2009年6月 7日 (日)

出雲今市について(2)

 中世の市では、相互間の調整はあったであろうが、それぞれが市日の設定を行っていた。それが近世になると、藩が市日を決定し、各地の市の中には、藩から市であることと市日を認められなかったものがあった。とりわけ影響を受けたのは、城下町松江に近い、東部の市であったと思われる。そうした中、本町は、中世とは異なり、5日と10日の市日を認められた。西部の出雲(出東)郡でも、直江が市日を認められたのに対し、庄原は認められず、村としての扱いであった。
 近世の町では、市日以外にも商売は行われ、本町の特権とは、最も人が集まる5日と10日には中村側では商売を行ってはいけないというものであった。そして本町の3カ所で市日を配分するやり方も変化し、1730年ごろにはには6日間については、本町の上・中・下市どこでも商売をおこなってよい(入合)となった。この時点で中村の場合は市日に見世で商売を行うことは認められたが、「中見世」の設置は不可となっていた。
 生鮮品を扱う魚市の場合はそれとは異なっていた。すなわち、7月と12月の二季の市は上・中・下市で市日を分割し、その際は仮屋を設けても良いが、その他の月は、他の商品と同様入合で、仮屋での商売は不可というものであった。「見世」が個々の常設店舗であったのに対し、「中見世」は市場の広場に設けられた見世棚、「仮屋」は、仮屋を懸けて臨時に設けたものであろう。(※中見世、仮屋については記述を修正)
 「かりや」については、16世紀後半に佐波氏が家臣森氏に対して「三日市かり屋」、「来島三日市かりや三段」を給地として与えている。そして慶長7年(1602)の三日市村検地帳には「さかねかりや」「こもかりや」「たなかりや」とみえており、市に対する国人領主の関わりを知ることができる。

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