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2009年6月

2009年6月30日 (火)

Precision M6300

 何度かオークションに入札したが、価格が及ばず落札できず、仕方ないかと思っていた上記のノートパソコンを入手した。ノングレアのWUXGA画面とテンキーのないキーボードは、文書入力をメインとするものにとっては最高。これで、同じ仕様のInspiron9200の後継者(機)ができたことになる。9200もとりあえず何の問題もなく稼働しているが、年末で丸5年となるので、一安心というところか。
 M6300については、CPUがX7900(44W)なのがどうかと思い、できればT9500(35W)が望ましいとしていたが、今のところ、9200(当初のM725からM755へ換装、21W)より静かである。おりをみて負荷に応じてクロックをコントロールするソフトを導入してみたい。
 ノングレアの液晶は、9200のノングレアと光沢の中間というところ。9200の液晶は当初LG製だったが、2年前の例の無償交換でサムスン製に変わっている。M6300については、確認していないがネットの情報ではLG製の可能性が高いようだ(プロパティで確認したがサムスン製だった)。明るいが、反射は抑えられており、なかなかの好印象。17インチWUXGAで光沢液晶の外付けモニタを入手したが、やはり長時間の使用には問題があり、サブモニターとしての利用が中心か。
 9200(Windows 7も十分使える)も十分現役でいけるが、今後はこちらがメインとなろう。あとは、これにみあったソフトウェア(CS4)があれば言うことはない。

2009年6月21日 (日)

尼子氏の花押

 尼子氏の花押についても、無年号文書の時期特定だけでなく、その変化みていくうえで注目すべきである。経久については、詮久登場までとそれ以後で差が見られる。詮久がそれまでの経久の花押を使用し、経久は区別がつくように、右側の部分を修正している。大永4年(1524)の国造雅孝譲状の端に経久花押と詮久署判が押されているものについて、形式の違いから、詮久署判は後に加えられたと考えたことがあったが、同時に押されたものと訂正したい。11才となった詮久の後継者としての地位が明確にされた史料である。
 晴久と義久には時期で形状差がみられる。晴久は当初詮久と名乗り、天文5年(1536)末までに民部少輔に任官し、吉田攻め失敗直後の天文10年10月には将軍義晴から一字与えられ晴久と改名している。花押の変化は、天文11年からみられる。
 従来は祖父経久と識別できるようにしていたが(Ⅰ)、経久の死を受けてほぼ経久と同じ花押を使用するようになる(Ⅱ)。そのためか、秋上氏宛の和歌に付せられた花押が、当初は経久のものとされたが、近年、詮久時代のものとされた。次いで天文21年の守護補任前後から花押は上辺の丸みが直線的且つ平坦となり、全体的には大型化し縦長で足長のものとなる(Ⅲ)。その傾向は晩年ほど強い。
  義久の花押は当初晴久と識別できるよう縦の線を一本加えた形のものであった(①)。それが永禄5年(1563)2月にはその線を取り除き、且つ大胆に曲線化したものが2点残っている(②)。ただ、その後再び本の(①)に戻り、永禄6年3月に(②)を直線的デザインに変更したものが登場し(③)、5月には(③)の角を丸めたものがみえる(④)。(③)は六月を最後に姿を消し、その後は富田開城まで(④)が使われていく。

2009年6月20日 (土)

戦国期の市場間の関係(2)

 それによると、平田側が念のため周辺5ヶ村に確認したところ、1回目に回答したとおりであったと述べている。すなわち、木次へ行ったものはおらず、三刀屋の間違いではないかとし、杵築に対してこの点についてはご心配なくと述べている。そのため、平田としては今回の木次の報復は迷惑なものであるとも述べている。平田側が5ヶ村に確認している点からすると、平田町だけでなく、その周辺5ヶ村の中にも流通に関わる人々がいたことになる。
 以上のように、杵築・平田・木次・三刀屋など各地に生まれた市場衆はそれぞれの縄張りを持ち、他所の商人が無断で縄張りに入ることを禁止している。商品流通のあり方からして他所の商人を完全に閉め出すことは不可能であるが、相互のルールが存在したのだろう。杵築が平田と木次のトラブルを仲介しているとの解釈が一般的であるが、杵築も当事者なのである。
 その時々において、各地の商人の間に指導・被指導の関係が存在しないわけではないが、それは時の政治権力との関係で流動的なものである。商人側も地域間紛争を解決・仲介しうる権力の存在を必要としているが、さりとてそのもとに完全に従属することは望まないのである。
(とりあえず、予告した中世の市場について述べた)

戦国期の市場間の関係(1)

 近世の町場について述べたが、中世はどうであったであろうか。
 永禄12年(1570)閏5月に来次市庭中が杵築の商人坪内氏らにあてて書状を出している。ほぼ同時期のものとして年未詳6月の平田目代などが坪内氏らに宛てた書状がある(坪内家文書)。
 従来の研究(岸田、井上、長谷川の各氏、ただし長谷川氏は留保あり)では、木次側が縄張りを無視して商売を行った「こつ」と「うと」について、いずれも平田の商人の縄張りと解釈されているが、大社領である「うと」については、杵築の商人の縄張りと考えられる。そうすると従来の説と異なり、大社は調停者ではなく紛争の当事者ということになる。
 すなわち、以下のように解釈できるのではないか。
  永禄12年閏5月に木次市庭中と杵築の商人との間で、商売の出入りで発生したトラブルについて、解決のための交渉が行われた。木次側が杵築側の縄張りへ入って商売をしたことに対し、杵築側が抗議したのだろう。それに対する木次の回答は、平田の商人が木次の縄張りを侵犯したので、それへの報復として「こつ」=平田の縄張りとともに「うと」=杵築の縄張りに入ってしまったというものであった。そこで、杵築側は平田側に事実を確認し、平田と杵築の間でも書状の遣り取りがなされている。そのうち2回目の6月に平田側が杵築側に回答したものが残っている(続)。

尼子経久の復権

 尼子氏はいかにして塩冶氏を圧倒したのだろうか。守護政経の出雲帰国のみでは、説得力に欠ける(これも必要不可欠)ので、経久が追放されたとされる文明16年(1484)以降の動きを追ってみる。文書はないが、婚姻関係の情報を追うことはできる。
 経久は長禄2年(1458)12月に生まれたとされ、追放時は27才(数え、以下同じ)であったことになる。その後、吉川経基女子との間に、政久(1488)、国久(1492)、興久(1497)が生まれている。吉川女子との結婚がいつであり、初めてのものであったかは不明であるが、政久誕生時には一定の勢力を保持していたと思われる。。
  経久の「完全」復権が確認できるのは明応9年(1500)である。経久は守護政経との関係修復と宍道氏との婚姻関係を背景に永正2年(1505)には塩冶氏を圧倒した。経久女子が生んだ宍道経慶の没年(28才)を天文2年(1533)とすれば、永正2年の誕生となり、その前年までに宍道氏との間の婚姻が成立したことになる。経久女子と結婚したのが「宍道久慶」であるので、尼子氏優位の婚姻関係成立であったろう。まさに「完全」復権と時を同じくして宍道氏の取り込みに成功したことになる。また、永正元年段階で長男政久は17才であり、宍道氏と結婚した経久女子は政久の姉である可能性が高い。
  以上の婚姻情報に延徳2年(1590)の「尼子経久像」とそれに付された大徳寺春甫の賛を加えれば、軍記物が記す文明18年時点での経久の「一部」復権については、肯定できるのではないか。

※ブログからホームページ構築に重点を移しつつあり、しばらくは、アップすべき点ができた時のみ更新する。

2009年6月15日 (月)

出雲国守護所について(2)

 では、尼子氏の城下町富田はどうであろうか。鎌倉初期に出雲国守護が、平家方となった富田押領使跡として富田庄地頭職を獲得したのが、守護との関わりの最初である。文永8年の出雲大社三月会結番帳でも、守護泰清領の最初に富田庄を記している。田の面積からすると、平野部にある塩冶郷とほぼ同じであるが、開発が遅れていた山間部を含むため、実際の面積では出雲国最大の庄園といってよい。その年貢は鉄であり、水運を通じて日本海ともつながっていた。
 泰清の所領は、一旦嫡子時清に大部分が譲られたであろうが、時清が幕府評定衆となるった時点で、時清領はその弟たちに再分配された。塩冶郷の中心部を譲られたのが頼泰で、富田庄の中心部は義泰に譲られた。義泰は、佐々木氏一族の大原重綱(承久の乱後の佐々木氏惣領信綱の長子)の女子と結婚し、但馬国にも所領を得ていた。そして、その娘が弟古志義信と結婚し、子の宗義は高岡宗泰の養嗣となっているように、出雲佐々木氏の一族結合の中心となっていた。
 応仁・文明の乱時に2度に亘って富田城が反京極氏の勢力で攻撃され、守護代尼子清貞がこれを撃退している。尼子氏が富田城にいたことは間違いない。文書には「富田城大木戸役」とあり、出雲国人が交替でこれを勤めていたであろう。富田庄は南北朝期には「富田関所」とみえ、また、明徳の乱時に山名氏の守護代塩冶氏もここに籠城しようとしており、守護の軍事的重要拠点であったことは間違いない。応仁2年8月には、尼子経久は安来の松田備前守の城とともに、平浜別宮領内の八幡富尾の敵方を攻撃しており、平浜別宮が一旦敵方の手に落ちていたことがわかる。防御性の面で平浜別宮の地は十分ではなかった。平時の政庁は平浜別宮で、在国時の京極氏はここにおり、富田城は非常時の軍事的施設であったが、応仁の乱の勃発により、在国した際の京極政高も富田城に入ったと思われる。
 文明16年に尼子経久は守護代を解任されたが、2年後の文明18年正月には富田城を奪回したとされる。前者はともかく、後者についてはこれを裏付ける史料はない。この年に京極政経は近江での覇権のため上洛した。その後の出雲国は史料をみる限り、守護権限が行使されておらず、幕府からの命令は複数の有力国人に伝えられている。経久の復権が確認できるのは明応9年(1500)のことであるが、富田城を拠点としていたことは間違いなかろう。その前年である明応8年には京極政経も出雲国に戻っていることが確認できる。
 永正5年10月、京極宗済(政経)は孫吉童子への譲状を尼子経久と多賀伊豆守に託し、安国寺で死亡した。その年の5月に平浜別宮内宝光寺はこれまで寄進された所領を尼子経久に報告して安堵を受けており、政経の死亡する前に、平浜別宮が経久の支配下に入っていたことがわかる。隣接する竹矢郷については、文明2年までに京極生観(持清)から経久に与えられている。

応仁・文明期の佐々木家文書(2)

 以上の花押の変化を踏まえて、年次の修正を試みる。
 ①10月21日政高書状(『尼子』79、文明8年に配置)は、Ⅰの花押であり、なお合戦が続いていた文明3年に比定できる。
 ②5月7日政高書状(71号)は、阿陀加江内の所領を清貞に安堵したものであるが、花押がⅡであるため、文明6年に比定できる(『尼子』は文明8年)。同じく同日の松田三河守宛(72)と清貞宛の書状(73)も花押がⅡであり、文明6年のもの(同)。文明8年5月時点では松田氏と交戦中であり、書状のやりとりは不可能である(米原正義氏も文明8年に比定)。
 ③10月17日政高書状(55)は、春の時点で美保関での出雲・隠岐舟役の免除を破棄することを再確認して清貞に伝えたもの。3月27日政高書状(64)では、去年破棄したにもかかわらず、松田三河守が公用を無沙汰しており、55の翌年のものである。そして花押はともにⅢである。64の無沙汰が原因となって文明8年4月の松田三河守の蜂起が起こるので、64は文明8年に比定できる(『尼子』も同じ)。となれば55は前年の文明7年となる。『尼子』ではこれを文明6年とするが(米原氏も)、同年11月段階では花押はⅡである。『塩冶誌』では55を文明6年、64を文明7年としたが、訂正する。55により、文明7年10月の時点で経久はなお在京していたことがわかる。
 ④10月17日政高書状(54)は、美保関をめぐる尼子氏と松田氏の対立に関するものであるが、花押はⅢであり、55号と同じく文明7年に比定できる(『尼子』では文明6年)。
 以上を踏まえた全体的状況については、一部を修正したが、『塩冶誌』を参照のこと。

応仁・文明期の佐々木家文書(1)

 佐々木家文書は、守護京極氏が幕府から与えられた安堵状、京極氏の譲状とともに、尼子氏が京極氏や幕府から与えられた文書からなるが、尼子氏関係文書の多くは無年号であり、その年次の確定が必要となる。『佐々木家文書』や『出雲尼子史料集』でも比定がなされているが、なお課題を残している点があるので、以下で整理したい。
 『佐々木』では無年号文書については、明確な判断がついたもの以外はその下限の時期に掲載し、『尼子』ではできる限り年次を比定している。年次比定の手がかりは内容であるが、それとともに京極政高(政経)発給文書については、花押の形状で前後を判断できるが、両書ともその点が踏まえられていない。『尼子』の年次比定で修正すべき箇所について述べる。
 政高(政経)の花押は政高時代が3、政経時代が1の4タイプに分けることができる。
Ⅰは左側の縦の線が短いのが特徴である。これが文明6年のもの(Ⅱ)は、左側の縦線とともに、右端の縦線も長くなり、2番目の縦線が反転して上に撥ねる形となる。さらに文明8年のもの(Ⅲ)は、横の線が水平に近い形から右上がりになり、全体としては、縦横比でⅡより縦長のプロポーションとなる。そして、政経時代のもの(Ⅳ)は、右端の線も反転して上に大きく撥ねる形となっている。

2009年6月14日 (日)

出雲国守護所について(1)

 この点については、守護所がどのようなものであるか、国衙との関係は?を含め、明確なことは何一つわかっていない。現実の問題としては守護領に置かれたとの想定が可能だが、その一方で守護が交替する度に移動するのも問題がある。後者を重視すれば、戦国期=尼子氏の時代を除けば消去法で、出雲国衙に隣接する平浜別宮・竹矢郷にあったとなる。
 平浜別宮は鎌倉時代の守護佐々木氏の所領であった。竹矢郷は鎌倉期は得宗領であり、幕府滅亡により守護領となった可能性は高い。そして、康永4年には竹矢郷内円通寺が、幕府から出雲国安国寺に指定される。南北朝期を通じて守護から安国寺や、平浜別宮内宝光寺への文書が残されている。京極氏とその守護代関係が多いが、南朝の守護富田秀貞の守護代前筑前守(羽田井貞高)や、山名氏の守護代上郷入道のものも残されている。
 文安2年12月、守護京極持清が安国寺に所領佐草社の安堵を行っているが、それは「能仁寺殿判形に任せて」であった。能仁寺=京極高詮の安堵そのものは現在は残っていないが、この時点では、安国寺側がこれを示して守護に要求したことがわかる。
 応永3年6月には権僧都覚祐が平浜別宮安居師職の安堵を京極氏に求めている。この安居師職も南朝方の支配下では、岩船寺金蔵坊が勤めたこともあった。そして、守護代自勝(隠岐入道)が入部した際には、金蔵之弟子郷公が高野山の合戦で京極氏方と闘い討死している。そして、安居師職は、これも京極氏の家臣である多賀玄超の手により覚祐に打ち渡された。この事件はいずれも明徳3年に京極氏が入部した際のものであろう。そして、応永2年に京極高詮は幕府から正式に出雲国守護に補任され、翌3年には2度目の出雲国入部となった。その高詮に覚祐が訴えたのである。実質的に京極氏が出雲国守護に返り咲いた明徳3年3月には、幕府は京極高詮に国内の本領と新恩の所領を与えているのみであった。
 安国寺と京極氏との関係では、京極政経(宗済)が安国寺で死亡したとされ、また、その父持清の墓もあった。そして平浜別宮の造営は、応永11年と永正11年に京極氏により行われている。これらによれば、中世後期の出雲国守護所は平浜別宮・竹矢郷にあったと言えよう。

岩田右一郎(4)

岩田右一郎碑の除幕式を伝える新聞記事を紹介する(大正2年10月5日松陽新報)。
 ◎本日の烏鷺合戦  △出席者百余名に達す
 故岩田橘園翁の建碑除幕式及追善囲碁大会は今五日午後八時より灘町望湖楼にて開会の筈なるが、昨日までに定まれる出席者は松江六十四名、郡部四十九名、其他二十余名の来賓あるべき豫定にて、郡別にせば米子七名、能義二十一名、八束八名、簸川十三名、飯石一名、石見一名、東京一名なるが、是等の出席者は何所の地方に於て方々たるものにして初段以上十二名ありと、因に昨記せし岩田翁遺物絵画帳を原本出品とせしは並河家の誤記なり。
 ◎碁客岩田橘園翁
 由来、山陰の地には古くから芸術の士に富んで居た。然れども囲碁の名手の如きは稀であった。獨り翁は最も名人であった。後世翁の名手を慕ひ興奮せるものも多く、就中翁の門下の傑才内垣末吉、中村狷蔵氏の如きは其の顕る々者であった。橘園翁なくば山陰後世の囲碁界は殆ど寂寞たるものありしならん。
 山陰近代の碁家岩田橘園翁逝いてここに二十有九年、翁の門下及趣味ある人々は相會して建碑除幕と共に追善囲碁大會を開く。一は以て翁の高風を慕ひ、一は以て其の遺澤を談じ将来研鑽の資に供せんとす。乃ち此機を以て翁の事蹟を記し、古名人の雅懐を偲ばんとするも、翁の門下の多くは凋落して詳かならず。依つて唯談弁、口碑を辿って其の一班を録して以て翁の人と為りを髣髴するに足らんとす(この後に碑文あり)。

岩田右一郎(3)

先生之資性瀟洒(ショウシャ、こざっぱりとしてさわやか)にして誠實、親に事(アタ)り至孝。父安右衛門罹病全身不随、先生家に在り則ち不離。飲食湯薬を側(そばだて)る。必ず自ら薦め奉り、愉色婉容(優しい)、異聞を談じ山水を説く。倦かば則ち諸背上に負い、庭外を逍遙し以て其病苦を慰む。如此者十有七年、親戚郷黨感称し弗偕(オカズ)。島根縣其篤行を賞し、金若干を賜し以て衆庶の龜鑑と為す。先生晩廬於錦海上賞山に結ぶ。灮水色にして行住坐臥。必ず念佛禰名し日く、修養精神莫善、焉(イズ)くんぞ空乎。其筆蹟と碁品清素高妙にして超然脱俗也。明治十八年四月十九日廣島に遊び、暴(ニワカ)に病し、其翌二十日遂起たず。享年五十有三、郷里荒島圓光寺に於いて葬す。某氏そ配し一男一女を舉ぐ。師家本因坊氏先生訃を聞き悼惜、六段免状を以て贈る。高足門人内垣末吉・遠藤嘉右衛門・中村狷臧・佐々田懋・岡崎運兵衛等胥謀(アイハカリ)将に碑を建て以て表す。先生遺徳文を余に属す。余、因りて其行事係を叙し、以て銘銘日く
  通神陣法 海内稀此 人無勁敵 地無堅壘 入妙筆法
  生動滿紙 黄兮倪兮 不得専美 然此二者 其緒餘耳
  百行根源 藏在腔裏 和気忠養 有進手技
明治四十五季四月 文学博士高楠順次郎撰 従五位日高秩父書

一部表現の違い(文語と口語)がありますが御寛恕を(了)

岩田右一郎(2)

 次いで、岩田右一郎碑だが、前に述べたように現在では所在不明。
  明治四十五年四月 橘園岩田先生紀徳碑 正二位侯爵井上馨醍額
先生通称右一郎橘園。其號雲州能義郡赤崎村上野廣兵衛三子、安来村岩田安右衛門の養嗣となし、因て其の姓を冒(おか)す。先生幼きより穎異(エイイ、賢く優れている)、畫及碁を好む。有相者日く、此兄必風流方技を以て天下に聞こゆ矣。丱角(カンカク、幼い子ども)より大塚雪溪に就き、畫技を学び、大いに進む。年甫一四、與人圍碁豪族木
佐某、其技倆不群心(非情に優れている)なるを見て、窃かに之を偉とし、其父廣兵衛に請う、石州碁仙岸本左一郎先生に托諸せんことを。従游二年、碁仙と東上、本因坊秀和門に入る。日夜精勵し、翌年初段に斑(ワカ)つ。時年一七、其翌年二段に進み、數年を越え三段に進む。慶應元年四段に進む。明治八年五段に進む。先生之技所以て駸駸(シンシン、どんどん)上達する者、葢し有以也。先生之游歴海内也。必碁仙畫伯を訪れ、畫伯に遇えば則ち畫法を討究し、碁仙に遇えば則ち碁技を闘わす。後に抵豈(テイテイ、にこやかになる)を遂げ、後に五岳上人を訪れる。碁技を以て贄に代え、以て畫法を受ける。鑽研数月、其蘊奥(ウンオウ、極地)を究める。是より先生之畫法一變、神韻緲殆(ビョウビョウ、遠く広がる)、殆ど古人之風有り。苟も名を於幀輙に覩らば、輙ち縮寫之
積を畫す。五百餘幅に至る、皆明代名家之筆意に逼まる。云う、先生之畫法の所以能致、然者亦有以也(続)。
 地元では画家として、中央では囲碁の棋士として知られていた。

2009年6月13日 (土)

岸本左一郎(9)

 橘堂は極めて誠実であった。父が早くに没したのを悲しみ、誓いてその志をなさんと欲し、以て限りなき恩に報ゆ。死に至りて少しも衰えず、其の母を養うや好むところ必ず致す。未だ嘗て有無を以て言う事を為さざるなし。兄に禮ありて人と争わず。其の徒弟を導くに厚くして、法著活棋新評・常用妙手・定石精評三部有り、以て其の方を指示す。其の貧にして資なき者或いは資を給い、以て之を成す。故に其の門入品者多し。終身娶らず、蓋し亦其の妨げを恐れ、志與に養うなり。既に之が没して2年、高足弟子雲州岩田秀苗其の早没を悼む。志を遂げる能わざる也。偏にその徒と謀り、其の師子秀和に請う、七段を贈らしめんことを。又二年、碑を建て、以て其の事の朽ちず。来て乞う、予に文を。予、因って感ずる有る焉。蓋し凡そ百伎芸取法を兎域に於いて率いる能わず。軼(すぎ)而上之獨り圍棋に至り彼数等を出て徴すの棋譜知るべし矣。豈に皇人の性、獨り圍棋に於いて巧みならん哉。蓋し官設の禄位以て国手を待つ。苟も其の人に非らざれば子弟と雖も其の禄を襲うを得ず。蓋し其の技進む有りて必ずこれを得、秩退有り。資養之楽是を以て専ら之を精求し余力を遺さざる宜し矣。其の技の日進未だ已まざるなり。予既に其の師弟の篤厚を嘉みて、非学我僧者奕者に如かざる者也。是に於いて乎記す。
                                     安井衡撰
 元治元年甲子晩春            従六位下紀廣繁 書

以上については、別の読み方があるかこもしれないが、左一郎の人柄についても述べている。

岸本左一郎(8)

 岸本左一郎碑の裏面と岩田右一郎碑について、現代語訳を試みることとする。左一郎碑は、碑のある天河内付近の有力者安井衡が文を選び、紀広繁の書を刻んだものである。
 橘堂は岸本氏也。名は直樹。其の先祖重徳は毛利氏に仕え、後に故あって退いた。世々石州大森に居す。そのため里人からは旧家とされた。父は縄正と曰う。中村氏を妻に娶り三男が生まれた。伯(長兄)を重樹といい、家を継いだ。季幼(年下)の橘堂は三男の真ん中である。13才で囲碁を始めた。結果として碁を好み次の年に雲州の山本閑休のもとで学んだ。2年たち、縄正は碁を打つことで家を成さしめんと望み、携行して江戸に行った。囲碁の家元本因坊丈和の門に入った。次の年には4級に進んだ。時に18才であった。囲碁の家元林元美が其の才を希とし、養嗣とすることを望んだ。縄正は可としなかった。凡そ段位7級になるとこれを上手と謂い、大城中に於いて対局を許される。家を起こすべきである、と。橘堂は父の志を知り、上手となり一家を成すことを誓った。志を高め益々碁に励んだ。父の死後再び江戸に遊び、とうとう6級に進んだ。安政戊午の年に病により家で没した。享年37才(続く)。
 本因坊道策の生家山崎家も岸本家と同様、毛利氏のもとで銀の流通に関わった後、地元へ土着し、庄屋を勤めた。父縄正も大森町(その上に銀山町があった)の有力町人として資料に登場している

2009年6月 7日 (日)

出雲今市について(4)

 ところが、19世紀になると、石見部や杵築といった今市の西方から大量の魚が持ち込まれるようになり、商人は、取り決めを破り、入口に近い中村で商売を行うものが増えてきた。そのため、天保年間には本町側から訴えが出された。
 すなわち、本町側の市日だけは、取り決め通り魚を本町に持ち込んでから、中村で商売をするようにというものであった。近世に入って、今市では松江城下町と斐伊川に近い東部が中心となっていたが、19世紀における日本海水運の発展を背景に、西部からの商品流通が活発化し、西側の中村の地位が上昇したのである。それに対して地位の低下した本町側が訴えたのである。神門郡奉行は、本町側の訴えを認めたが、中村側の優位という事態を変えるものではなかった。
 弘化3年(1846)には神門郡西部の大池村と板津村の間で魚の流通をめぐる争論が起こっている。すなわち、石州からの魚は大池村林蔵方へ持ち込まれ、そこから大池村と板津村の人別によって荷継ぎされ、今市・大津・平田・直江へ運ばれていたが、弘化3年春から大池村が独占をするようになり、これに対して板津側が郡役人へ訴えて、結果としては大池七割、板津三割という形で内済が行われたのである。大池と板津は行商人の地として知られ、19世紀には人口が爆発的に増加していた。それは石見国でも出雲国に近い地域の海岸部でも同様であった(了)。
 とりあえずアクセスが3000を越えたが、3ヶ月で1000というペースか。とはいえ、更新を続けるのは大変である。日々の愚痴を述べるならば容易だが、そんなものは誰も読みたくないだろうし。次は中世の市について述べる予定。

出雲今市について(3)

 そうした中、18世紀半ばに、中村だけでなく、本町の上町から訴えが出された。中村は以前のように一部を配分するか、本町とは別の市日を新たに認めることを主張した。それに対して、本町の上市は月に6日間の市日を慶安元年の市掟のように、上・中・下市で2日間分割する事を求めた。両者に共通するのは、独自の市日がなければ、本町や本町内の中・下市に対して商売で不利であるとのことであった。上市は、中・下市に比べて広場まで遠いことを原因としてあげているが、もうひとつあるのは、城下町松江との関係であろう。すなわち、今市では、城下町に近い側での商売が拡大し、反対側の中村と本町の上市は衰退しつつあったのである。
 一方、松江藩の特産品として知られる木綿については、中村・本町いずれでも商売ができたが、最初に本町の目代所で改判を受ける必要があった。そのため、今市より西の地域から本町へ判取りに来た商人の多くは本町で商売を行い、わざわざ西側の中村に戻ることは少なかった。
 この訴えの結果、魚市だけは、本町の上・中・下市で毎月市日を配分する形となった。中村も本町の市日に商売をすることは認められたが、一旦、商品を本町に持ち込んでから行うことされ、木綿と同様本町に対しては不利な状況に置かれていた。

出雲今市について(2)

 中世の市では、相互間の調整はあったであろうが、それぞれが市日の設定を行っていた。それが近世になると、藩が市日を決定し、各地の市の中には、藩から市であることと市日を認められなかったものがあった。とりわけ影響を受けたのは、城下町松江に近い、東部の市であったと思われる。そうした中、本町は、中世とは異なり、5日と10日の市日を認められた。西部の出雲(出東)郡でも、直江が市日を認められたのに対し、庄原は認められず、村としての扱いであった。
 近世の町では、市日以外にも商売は行われ、本町の特権とは、最も人が集まる5日と10日には中村側では商売を行ってはいけないというものであった。そして本町の3カ所で市日を配分するやり方も変化し、1730年ごろにはには6日間については、本町の上・中・下市どこでも商売をおこなってよい(入合)となった。この時点で中村の場合は市日に見世で商売を行うことは認められたが、「中見世」の設置は不可となっていた。
 生鮮品を扱う魚市の場合はそれとは異なっていた。すなわち、7月と12月の二季の市は上・中・下市で市日を分割し、その際は仮屋を設けても良いが、その他の月は、他の商品と同様入合で、仮屋での商売は不可というものであった。「見世」が個々の常設店舗であったのに対し、「中見世」は市場の広場に設けられた見世棚、「仮屋」は、仮屋を懸けて臨時に設けたものであろう。(※中見世、仮屋については記述を修正)
 「かりや」については、16世紀後半に佐波氏が家臣森氏に対して「三日市かり屋」、「来島三日市かりや三段」を給地として与えている。そして慶長7年(1602)の三日市村検地帳には「さかねかりや」「こもかりや」「たなかりや」とみえており、市に対する国人領主の関わりを知ることができる。

出雲今市について(1)

 中世の市から近世の町へと発展した今市(出雲市)について、簡単に整理してみたい。今市については、近世をつうじて、西側の中村と東側の本町との間で市日をめぐる裁判が行われており(松江藩郡奉行所文書)、それにより中世から近世への変化をみることができる。
 今市に関する最初の史料は、後世の写しであるが、宝徳3年(1454)の朝山郷東分今市掟書である。それによると、今市は道路を挟んだ南北の町からなる両側町で、7日と10日を市日とする六斎市であった。市を支配する目代の屋敷は北側に、市の守り神である夷(えびす)神は南側にあった。ただ、この時点で六斎市であったかは要検討で、7日を市日とする市と10日を市日とする市が結合することにより六斎市が成立することが一般的である。
 これが、慶長14年(1609)の検地帳をみると、中村と本町に分かれていることが確認できる。それぞれ北側と南側に分けて検地が行われている。中村の主張では、今市の根本は中村であり、現在の日吉神社(山王社)も中村にあったという。それに基づけば、宝徳3年の史料は中村のもので、本町はその後に成立(あるいは別に成立)したことになる。
 しかし、慶長14年の時点ではすでに本町(88軒)の方が規模は大きくなっている(中村は54軒)。そして戦乱により一時的に荒廃する中、中村での市は中絶し、本町でのみ5日と10日で市が開かれるようになった。慶安元年(1648)の市掟によると、月6日の市は、本町の上市、中市、下市で順番に開かれるようになり、その際は中村での商売はできなくなった。

薗村について

 鎌倉末期の薗村の支配者が古志氏であるとして、その後はというと、観応2年(1351)に山名時氏が、佐々布次郎左衛門尉跡である薗村を出雲大社に寄進している。佐々布氏は朝山氏と同様、出雲国衙在庁官人系の国人であると思われるが、貞和2年(1346)には備後国守護高師泰から吉備津神社への命令を伝達されており、その守護代であった可能性が高い。出雲国人が南北朝動乱初期に後醍醐への勲功で備後国に進出し、大きな勢力をもっていたがためであろう。
 しかし、高師泰は観応の擾乱で没落しており、それとともに佐々布次郎左衛門尉も所領を没収されたのであろう。その闕所を時氏が寄進している。この時点では塩冶郷に含まれていないことも注目される。古志氏一族の某が失い、それが佐々布氏を経て山名時氏から寄進されたのだろう。ただ、結果としてこの寄進は、時氏が反幕府方となったこともあり有効性を持たなかった。なお、翌3年には佐々布次郎左衛門入道跡の多久郷が、朝山義景に与えられている。
 その後応永19年(1412)に、塩冶駿河小次郎詮清が薗村の知行を安堵されている。詮清は明徳の乱で山名氏とともに滅亡した塩冶駿河守の子であると思われる。明徳の乱後、駿河守の弟で山名氏との関係の弱い満通が塩冶氏惣領となったが、駿河守の子も所領の一部の相続は認められた。佐々布氏の後、薗村は塩冶氏の支配するところとなり、薗村そのものも塩冶郷内に含まれたのであろう。

出雲佐々木氏について(補足5)

 乃木氏については、高綱の子光綱と佐々木義清の娘との間に生まれた子どもたちについては承知していたが、朝山氏関係系図である「大伴氏系図」をみることにより、光綱には朝山惟綱の娘との間に生まれた四郎高定があり、文永8年の神門郡木津御島の地頭としてみえる「乃木四郎子」が高定の子であることを確認できた。木津御島は本来は佐々木氏領ではなく、朝山惟綱の所領がその娘をつうじて高定に伝えられたものであろう。

 朝山惟綱は、鎌倉初期の朝山郷司惟元の子である。惟元の父守安は大原郡佐世郷を支配し、祖父元宗は勝部宿禰一族の庶子であった。そのような位置にある惟元が朝山郷を支配しているのは、源平争乱の中で、従来の勝部宿禰の惣領が没落し、これに代わって元宗の子と孫たちが勝部宿禰の中心となったのであろう。ただ、鎌倉初期に国衙在庁官人のトップにあった「助(資)盛」と塩冶郷司であった「政光」の名は「大伴氏系図」にはみえず、元宗流以外の勝部宿禰も勢力を維持していた(このうち助盛については、多禰郷司資元と同一人物の可能性がある)。
 朝山郷司であった惟元の子のうち、惟綱と元(基)綱については、元久元年(1203)にそれぞれ「右兵衛尉」と「右馬上(允)」に任官しており(明月記)、兄惟綱が嫡子であったと思われる。ところが承久の乱で惟綱流は没落し、元綱流が勝部宿禰惣領となる。乃木光綱は文治3年(1187)の生まれであり、義清の娘との間の子泰綱は建暦元年(1211)の生まれである。光綱と朝山惟綱の娘との結婚も承久の乱以前であろう。光綱の父高綱が出雲国内に所領を持っていたことは確認できるが、それとともに具体的時期は不明ながら短期間出雲国守護となったのも確実であろう。

出雲佐々木氏について(補足4)

 高岡氏からはじめて、出雲佐々木氏について述べていたら、いつのまにか古志氏の問題にたどりついていたというのが実際のところである。
 出雲佐々木氏については、文永8年の出雲大社三月会頭役結番帳から検討を始め、次いで、南北朝期の守護所富田について検討する中で、鎌倉幕府打倒の過程における後醍醐への貢献で、佐々木氏や朝山氏といった出雲国人が中国地方の守護となったり、所領を獲得したことを知り、それをまとめて報告した。その際に井上氏から、中国地方への出雲国人の進出が戦国大名尼子氏の支配の前提をなしたとのコメントがあったこと。
 出雲佐々木の乃木氏についても、インターネットで山名氏領国の史料を確認した。乃木希典の先祖も但馬国にいたことがあった。南北朝の動乱で反幕府方となり、明徳の乱後に京極氏の支配が確立する中、山名氏領国へ移っていったのだろう。すでに述べた古志氏、富田氏、羽田井氏以外に、塩冶氏、富士名氏もそうであった。
 乃木氏については、別稿脱稿後、次の史料を知った。
  ①年未詳12月15日山名祐豊書状(乃木三郎宛)[早稲田大学図書館所蔵文書]。
  ②年未詳(15世紀末)大庭内佐草知行田畠注文[佐草文書]。
①は但馬国守護山名祐豊が、小鴨氏跡で乃木三郎に与えた所領について安堵している。小鴨氏は本来伯耆国の有力国人であるが、山名氏の被官となったものもおり、16世紀初めの但馬国に関する史料であろう。②は、大庭保内の佐草氏の所領が誰に売却されたのかを記したもので、2箇所に「乃木左衛門」がみえる。出雲国内に残っていた乃木氏がいたことがわかる

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