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2009年5月10日 (日)

秀行死す

 標題の「秀行」氏で検索し、本ブログを訪れた方があった。確かに、岸本左一郎の『活碁新評』に収録された手筋が、氏の「基本手筋事典」(上)にたくさん収録されていることを述べていた。左一郎から秀行へと受け継がれたものを次に継承するのは誰であろうか。
 子どもの頃、家に読売新聞があったため、意味もわからず囲碁(名人戦)・将棋(十段戦)欄をみていた。秀行氏は常に挑戦権を争う位置につけていた。記憶を記録で補強すると、林海峰が名人位を、高川格氏と秀行氏に奪われながら、リターンマッチで取り戻していた時期だ。1968年から72年までのことだ(70年秀行氏奪取、71年林氏復帰、72年秀行氏挑戦失敗)。林時代が続くと思われた74年に林氏より6才下の石田芳夫氏が前年に続く2回目の挑戦で名人位を奪い、時代の転換期となった。
 林氏より18才年長の秀行氏も旧世代となったかにみえたが、さにあらず、名人戦の契約更改問題のもつれから、新たな最高棋戦として創設された第一期棋聖戦は、秀行氏と関西棋院の総師橋本宇太郎氏の番碁となり、見事、秀行氏は棋聖6連覇のスタートを切った。この年東京の大学に入学した自分は、有楽町の読売ホールであった第1期棋聖襲位式に参加した。
 この後のことは、各記事に譲るとして、是非とも確認しなければならないことは、豪快な人柄が強調されるが、若い頃の秀行氏は囲碁漬けの生活をおくっていたことだ。後に、酒と競馬を知り、時にはそれらにおぼれることもあったが、若き日の猛勉強(考えていて駅のホームから転落したこともあったはず)がその基礎にあったことである。
 やはり、秀行氏で印象的なのは、中山典之氏の筆になる第2期名人戦で坂田氏に最終局で敗北した氏の姿であろう。「けさ、この階段を昇ってきたときは、確かに名人であった。いま、無冠の八段となり、満身に宿敵坂田の笑声を浴びながら、この階段を降りて行く‥‥」(「昭和囲碁風雲録」下より引用)。天寿を全うした生涯といってよかろう。

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